土佐本山城は、嶺北の要害に築かれ、戦国大名本山氏の拠点として栄えた。長宗我部元親との激戦の末、落城。現在は後世の石垣が目立つが、土塁や大堀切に往時の実戦的な姿を偲ばせる。
土佐国(現在の高知県)の戦国史を語る上で、長宗我部元親による四国統一の偉業はあまりにも名高い。しかし、その覇業の礎には、数多の豪族たちとの熾烈な生存競争があった。中でも、土佐国北部に一大勢力を築き、「土佐七雄」の一角として元親の前に立ちはだかった本山氏と、その本拠地であった本山城の存在は、土佐の勢力図が塗り替えられる歴史的転換点を理解する上で欠かすことのできない鍵である。
本山城は、単なる一地方の城郭跡ではない。それは、山岳地帯から平野部へと進出し、一時は土佐最大の勢力を誇った本山氏の栄光と、時代の潮流の中で宿敵・長宗我部氏の前に屈した挫折の物語を刻む、生きた証人である。その堅固な縄張りは、戦国乱世を生き抜くための知恵と覚悟を物語り、その落城の経緯は、長宗我部元親の卓越した戦略眼を浮き彫りにする。
本報告書は、この本山城を多角的な視点から徹底的に分析するものである。第一部では城郭としての構造と縄張りを解読し、第二部では城主・本山一族の興亡を辿る。第三部では、本山氏の命運を決定づけた長宗我部氏との死闘の全貌を明らかにし、第四部では戦国時代以降の歴史の残映と関連史跡を検証する。これらの分析を通じて、城と城主、そして時代が織りなす力学を解き明かし、本山城が土佐戦国史において持つ真の意義を提示することを目的とする。
本山城は、高知県長岡郡本山町、四国山地の中央を流れる吉野川の南岸にそびえる田井山の東端に位置する 1 。標高は約377.5メートル、麓の市街地からの比高は約130メートルを測る典型的な山城である 2 。この立地は、土佐国北部、いわゆる「嶺北地方」を扼する上で極めて重要な戦略的価値を持っていた。
城からは本山町の中心市街地を一望でき、領国支配の拠点として、また吉野川流域を通じた敵の侵攻をいち早く察知する監視拠点として、理想的な機能を果たしていたと考えられる 1 。四方を山々に囲まれた天然の要害でありながら、地域の政治・経済の中心地を見下ろすこの場所は、本山氏が山岳地帯に根差す領主として、その権威と軍事力を示すにふさわしい舞台であった。
本山城の縄張り(城郭の設計・配置)は、南北に長く延びる痩せ尾根の地形を巧みに利用した、連郭式と呼ばれる構造を基本としている。城の中心部は、南から本丸(詰ノ段)、二ノ段、三ノ段と、主要な曲輪(平坦地)が直線的に配置されているのが特徴である 3 。
防御施設の中でも特筆すべきは、城域の南端、つまり尾根が続く側に設けられた大堀切である 2 。これは、尾根伝いに攻め寄せる敵の進路を断ち切るための巨大な空堀であり、本山城が背後の山からの攻撃を強く意識していたことを示す強固な防御線であった。
各曲輪の役割を見ると、最も高い位置にある本丸は長軸10メートル未満と非常に小規模であり、多数の兵が駐屯するというよりは、最終防衛拠点としての詰の城、あるいは物見櫓などが置かれた天守台に近い性格を持っていた可能性が指摘されている 3 。それに対し、二ノ段や三ノ段はより広い面積を持ち、兵士たちの駐屯地や武具・兵糧の集積所として機能したと推測される。また、1郭(本丸)の東側には虎口(城の主要な出入り口)とそれに付随する石垣の痕跡が確認されており、防御の要であったことが窺える 3 。全体として、華美な装飾を排し、地形を最大限に活かした実戦的な構造は、山間部を拠点とする国人領主であった本山氏の、実利を重んじる気風を色濃く反映している。
本山城跡を訪れる者は、今日でも高く積み上げられた壮麗な石垣を目にすることができる。一部ではその景観から「高知のマチュピチュ」と評されることもあるが 2 、ここで歴史を正しく理解するためには、極めて重要な事実に留意しなければならない。現在見られるこれらの石垣や石段は、戦国時代に本山氏が築いたものではなく、時代が下った昭和期に、気象庁の測候所(アメダス)がこの地に設置された際に建設された後世のものである 1 。
この事実は、本山城の歴史的評価にしばしば誤解を生じさせる要因となっている。壮麗な石垣は、本山氏の技術力や財力を示すものではなく、戦国時代の城の姿を直接伝えるものではない。測候所の建設に伴う改変は著しく 5 、城の本来の姿を大きく変えてしまった。
したがって、戦国期の本山城の姿を推定する際には、これらの石垣を一旦度外視し、土塁や空堀といった土木構造物に着目する必要がある。本来の本山城は、石垣を多用した城ではなく、土を主材料とした、より素朴で実戦的な「土づくりの山城」であったと考えるのが妥当である。その意味で、城郭としての本山城の真の価値は、後世に付加された見栄えのする石垣ではなく、今なおその痕跡を明瞭に残す大堀切などの土木遺構にこそ見出すべきなのである。この視点の転換こそが、地方の山城が持つ本来の姿と歴史的意義を正しく評価する上で不可欠となる。
本山氏の出自は、複数の説が伝えられており、謎に包まれている。清和源氏の名門・吉良氏の傍流であるとする説 1 、平氏の流れを汲むとする説 1 、あるいは但遅麻国造八木氏に源流を求め、平安時代末期に八木氏が本山郷に拠点を定め、地名にちなんで本山氏を名乗るようになったとする説 1 など、そのルーツは定かではない。この出自の不確実性は、中央の権威から離れた土着の豪族として、在地での実力によって勢力を伸長させていった一族の姿を映し出している。
時代が下り、戦国期に入ると、本山氏は土佐国における有力な国人領主の連合体である「土佐七雄」の一角を占めるまでに成長した 2 。応安3年(1369年)には、本山養明が土佐郡・吾川郡など広大な所領を獲得した記録があり 1 、その所領は5千貫に及んだとされるが、その多くは経済的には恵まれない山間部であった 1 。この地理的制約こそが、後の本山氏の戦略を方向づける大きな要因となる。
16世紀前半、本山茂宗(法名:梅慶)の時代に、本山氏はその最盛期を迎える 1 。茂宗は「才器傑出し、興立の志あり」と評されるほどの傑物であり 13 、山深い土佐北部という地理的ハンディキャップを乗り越え、経済的に豊かで戦略的価値も高い土佐中央部の平野へと積極的に進出を開始した 6 。
この勢力拡大戦略の象徴が、本拠地の移転であった。茂宗は、交通の要衝である朝倉(現在の高知市)に朝倉城を築き、そこを新たな拠点とした。そして、旧来の本拠地であった本山城は、嫡男の茂辰に譲られた 1 。これは単なる居城の変更ではない。山岳地帯に依拠する地方領主から、平野部を支配し、土佐全体の覇権を争う戦国大名へと脱皮しようとする、茂宗の強い意志と明確な戦略の現れであった。
茂宗の武威は土佐中に轟き、土佐吉良氏を滅ぼし 13 、西部の名門・土佐一条氏とも干戈を交えるなど、その勢いは留まるところを知らなかった 12 。長宗我部氏に対しては「虎の威を借る野狐」と蔑むなど 12 、その気概は他を圧倒し、一時は長宗我部氏をも凌駕する土佐最大の勢力へと成長を遂げたのである 9 。
栄華を極めた本山氏であったが、その勢いは一人の傑出した指導者の存在に大きく依存していた。弘治元年(1555年)、英主・茂宗が病に倒れると 1 、本山氏の勢いに決定的な陰りが見え始める。茂宗の死は、長宗我部氏との力の均衡を崩す、大きな転換点となった。
父の跡を継いだ本山茂辰 1 は、偉大な父が築き上げた広大な勢力圏を維持するという重責を担うことになった。当初、茂辰は長宗我部国親の娘を娶っており、両家は姻戚関係にあったが 6 、茂宗という重石がなくなった今、その関係はもはや抑止力とはなり得なかった。国親、そしてその子・元親の父子二代にわたる執拗な圧迫に、茂辰は直面することになるのである 9 。
本山氏の発展は、山間部の本拠地(本山城)から平野部の先進地(朝倉城)へ拠点を移すことで達成された。しかし、この勢力圏の拡大は、同時に長大な補給線と防衛線を生み出し、本拠地との連携を困難にするという脆弱性を内包していた。平野部への進出という「攻め」の戦略が、結果として守勢に回った際の「守り」の弱点となったのである。茂宗というカリスマを失った本山氏は、この戦略的ジレンマを克服することができず、組織的な攻勢を仕掛けてくる長宗我部氏の前に、徐々にその勢力を削られていくことになる。
本山茂宗の死後、長宗我部国親は本山氏への圧力を強めていった。両家の緊張関係が全面衝突へと発展する直接の引き金となったのが、永禄3年(1560年)頃に発生した兵糧略奪事件である。茂辰の配下が、浦戸湾において長宗我部方の兵糧輸送船を襲い、積荷を略奪したのだ 1 。
これを口実に、長宗我部国親・元親父子は本山領への侵攻を開始する。同年5月、両軍は長浜で激突した(長浜の戦い)。この戦いは、当時「姫若子」と揶揄されていた長宗我部元親の初陣であったが、元親は自ら槍を振るって敵陣に突撃するなど獅子奮迅の活躍を見せた 18 。結果は、兵力で勝っていた本山軍の大敗に終わり、元親の武名を天下に知らしめると同時に、本山氏の威信を大きく揺るがすこととなった 6 。
長浜での敗戦後、茂辰は平野部の拠点・朝倉城に籠城するが、勢いに乗る元親の猛攻と巧みな調略により、周辺の支城を次々と切り崩されていく 14 。永禄5年(1562年)には、両軍の間で壮絶な消耗戦が繰り広げられた 23 。この不利な状況を悟った茂辰は、翌永禄6年(1563年)、ついに朝倉城を自らの手で焼き払い、一族伝来の本拠地である本山城へと退却するという苦渋の決断を下した 1 。これは、茂宗が築き上げた平野部の支配権を放棄することを意味し、本山氏の敗色が濃厚となった瞬間であった。
故郷の山城に退いた本山茂辰であったが、その抵抗の意志は衰えていなかった。本山城は天然の要害であり、元親もその攻略には相当苦心したと伝えられている 23 。茂辰は、この地の利を活かして最後の抵抗を試みた。
永禄6年(1563年)5月、本山勢は劣勢を挽回すべく、長宗我部氏の本拠・岡豊城への奇襲攻撃を敢行する。しかし、この作戦は長宗我部方の迎撃にあって失敗に終わり、逆に土佐神社が兵火によって焼失するという結果を招いた 19 。
一方、長宗我部元親は、難攻不落の本山城を力攻めにする愚を避けた。彼が選択したのは、武力と調略を組み合わせ、城を内側から崩壊させるという、より高度な戦略であった。元親は、かつて本山氏に旧領を奪われたという遺恨を持つ森孝頼に接近。彼を味方に引き入れ、本山城の西に位置する森城を返還したのである。これにより、本山城は背後からも脅かされることになり、城内の動揺は頂点に達した 1 。元親は本山城という「物理的な城」を攻めたのではなく、本山氏という「組織の結束」を攻めたのである。
そして、その結束が崩壊したとき、物理的な城も自ずと手に入った。相次ぐ味方の離反を恐れた茂辰は、永禄7年(1564年)、ついに本山城での籠城を断念。城を放棄し、さらに山深い瓜生野城へと落ち延びていった 1 。
表1:本山氏と長宗我部氏の抗争年表(1555年~1571年)
西暦(和暦) |
出来事 |
主要な関係者 |
結果・影響 |
典拠資料ID |
1555年(弘治元年) |
本山茂宗が病死。子の茂辰が家督を継ぐ。 |
本山茂宗、本山茂辰 |
本山氏の勢いに陰りが見え始め、長宗我部氏とのパワーバランスが崩れる契機となる。 |
1 |
1560年(永禄3年) |
本山方が長宗我部方の兵糧を略奪。長浜の戦い勃発。 |
本山茂辰、長宗我部国親、長宗我部元親 |
元親が初陣で大勝。本山氏は大敗し、浦戸城などを失う。元親の武名が高まる。 |
1 |
1562年(永禄5年) |
元親が朝倉城へ大規模な攻撃を開始。激戦となる。 |
本山茂辰、本山貞茂、長宗我部元親 |
本山貞茂の奮戦により長宗我部軍を一時撃退するも、本山方も大きな損害を被る。 |
14 |
1563年(永禄6年) |
茂辰、朝倉城を焼き払い、本拠地・本山城へ退却。 |
本山茂辰 |
本山氏は平野部の支配権を完全に喪失。戦いの舞台は嶺北の山間部に移る。 |
1 |
1563年(永禄6年) |
本山勢が岡豊城へ奇襲攻撃を仕掛けるも失敗。 |
本山茂辰 |
本山氏の最後の反撃も及ばず、逆に勢力を消耗。土佐神社が焼失。 |
19 |
1564年(永禄7年) |
元親の調略により森氏が離反。茂辰、本山城を放棄し瓜生野城へ移る。 |
本山茂辰、森孝頼、長宗我部元親 |
本山城は戦わずして長宗我部氏の手に落ちる。本山氏は最後の拠点に追い詰められる。 |
1 |
1564年頃 |
瓜生野城での籠城戦の最中、本山茂辰が病死。子の貞茂が跡を継ぐ。 |
本山茂辰、本山貞茂 |
指導者を失い、本山氏の士気はさらに低下。降伏は時間の問題となる。 |
6 |
1568年~1571年頃 |
数年にわたる抵抗の末、本山貞茂が長宗我部元親に降伏。 |
本山貞茂(親茂)、長宗我部元親 |
戦国大名としての本山氏は実質的に滅亡。土佐中央部は完全に長宗我部氏の支配下に入る。 |
1 |
本山城を捨てた茂辰が最後の拠点とした瓜生野城は、急峻な山奥に位置するまさに最後の砦であった 1 。ここで本山氏の残存兵力は、数年にわたり絶望的な籠城戦を続けることになる 23 。
しかし、この過酷な戦いの最中、当主・本山茂辰が病に倒れ、陣没した 6 。家督は子の貞茂が継いだが、もはや趨勢を覆す力は残されていなかった。
『元親記』によれば永禄11年(1568年)冬、他の資料では元亀2年(1571年)頃、長年にわたる抵抗もついに尽き、本山氏は長宗我部氏に降伏した 1 。ここに、土佐国に覇を唱えた戦国大名としての本山氏は、実質的に滅亡したのである 15 。
長年にわたる宿敵であったが、貞茂は元親の姉の子、すなわち甥にあたる血縁であった。そのため元親は本山氏を根絶やしにすることなく、和睦という形でその勢力を吸収した。貞茂は元親から「親」の一字を与えられて「親茂」と改名し、長宗我部家の一門衆として迎え入れられた 3 。しかし、本山氏嫡流の運命は過酷であった。後年、親茂は豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、戸次川の戦いで元親の嫡男・信親と共に討死。その血筋は、ここに途絶えることとなった 6 。
本山氏の滅亡後、土佐の支配者となった長宗我部氏もまた、関ヶ原の戦いを経て改易される。新たに入部した山内一豊は、本山一帯の支配を家老の山内刑部(永原一照)に委ねた 1 。この時点で、軍事拠点としての本山城はすでにその役目を終えており、廃城となっていたため、山内刑部が城を用いることはなかった 1 。
時代は下り、大正2年(1913年)4月5日、地域の歴史を顕彰する興味深い出来事があった。旧城主である本山茂宗と、江戸時代の領主である山内刑部の合同法要が嶺北の東光寺で執り行われたのである。この法要には、山内刑部の血を引く板垣退助も祭文を奉じており 12 、敵対したわけではないものの、異なる時代にこの地を治めた二人の領主が、地域の歴史的偉人として共に記憶され、顕彰されていることを示している。
本山城の歴史を語る上で、山麓の市街地に存在した「本山土居」の存在を無視することはできない。本山城が山頂に築かれた戦時の軍事拠点(詰城)であるのに対し、本山土居は平時の居館であり、政務を執り行う政庁としての機能を持っていた 1 。このように、有事の際の「城」と平時の「土居(屋敷)」を分離して使い分けるのは、戦国期における支配体制の典型的な形態であった。
江戸時代に入ると、この本山土居は土佐藩の財政・産業改革を断行した名執政・野中兼山の居館として使用された 1 。兼山はこの地を拠点として、灌漑事業や産業奨励など、数々の改革を推し進めた。本山氏の滅亡によって軍事拠点としての本山城の歴史は終わったが、地域の行政的中心地としての「本山」の歴史は、この土居を舞台に引き継がれていったのである。
現在、本山土居跡は上街公園として整備されており、往時を偲ばせる壮大な石垣が残っている 1 。この石垣は、本山城跡の石垣とは異なり、江戸時代に遡る可能性を持つ貴重な遺構である。
表2:本山城と本山土居の比較
比較項目 |
本山城 |
本山土居 |
立地 |
山城(田井山の山頂) |
平山城(市街地西側の丘陵) |
標高/比高 |
標高377.5m / 比高約130m |
不明(平地との比高は小さい) |
機能 |
戦時の軍事拠点、詰城、監視拠点 |
平時の居館、政庁 |
主要な時代 |
平安末期~戦国時代(永禄7年放棄) |
戦国時代~江戸時代 |
主な使用者 |
本山氏(茂宗、茂辰など) |
本山氏、野中兼山、山内家臣 |
遺構 |
曲輪、大堀切、土塁(石垣は後世のもの) |
石垣、曲輪跡 |
現在の状況 |
城山公園として整備(町史跡) |
上街公園として整備 |
戦国の記憶を留める本山城跡は、現在、城山公園として整備され、地域住民の憩いの場となっている 1 。登城口は山麓の十二所神社の脇にあり、そこから本丸跡へと至る遊歩道が設けられているが、一部道が分かりにくい箇所もあるため注意が必要である 2 。城跡は高知県本山町の史跡に指定されており 1 、その歴史的価値が公に認められている。
一方、本山土居に関連する「土居屋敷跡遺跡」では、平成7年(1995年)に公園の石垣補修に伴う発掘調査が行われている 31 。これは本山城本体の調査ではないが、地域の歴史を解明する上で重要な手がかりを提供するものである。
現在の本山地域には、①戦国期本山氏の軍事拠点であった本山城、②本山氏の平時居館であり江戸期に野中兼山が利用した政庁であった本山土居、③江戸期の支配者である山内氏の記憶、というように、複数の時代の歴史が重層的に存在している。これらを一体として捉えることで、この地域が経験してきた歴史の深さと連続性をより深く理解することができる。
本山城とその城主・本山氏の歴史は、戦国時代の土佐における勢力争いの縮図である。山岳地帯を基盤とする一豪族が、傑出した指導者の下で平野部へ進出し、一大勢力を築き上げる。しかし、その拡大戦略は同時に脆弱性を生み、指導者の死をきっかけに、より組織的で強大な敵の前に瓦解していく。この盛衰の物語は、戦国時代の国人領主が直面した普遍的な力学を体現している。
本山城の放棄と本山氏の降伏は、長宗我部元親にとって、土佐中央部を完全に掌握する上での最後の障壁を取り除くものであった。この勝利によって、元親は土佐統一、ひいては四国統一への道を確固たるものとしたのである 22 。その意味で、本山城の攻防戦は、土佐の歴史が大きく動いた画期的な出来事であったと言える。
今日、本山城跡は後世の改変を受けながらも、静かに山頂に佇んでいる。その姿は、訪れる者に対し、かつてこの地で繰り広げられた栄光と悲劇の物語を伝え、地域の誇り、そして戦国時代の興亡を現代に問いかける貴重な歴史遺産として、不変の価値を放ち続けている。