松倉城(越中国)
越中最大にして不落の要害 ― 戦国史に刻まれた松倉城の興亡
序章:越中の要害、松倉城の概要
越中国、現在の富山県に点在する数多の城郭の中でも、砺波の増山城、高岡の守山城と並び「越中三大山城」と称される松倉城は、戦国時代の越中東部における政治、軍事、そして経済の中心として、比類なき重要性を誇った山城である 1 。本報告書は、この城が単なる軍事拠点に留まらず、いかにしてその戦略的地位を築き、激動の時代の中で歴史の波に翻弄されていったのかを、日本の戦国時代という視点から徹底的に解き明かすものである。
松倉城は、魚津市南部に聳える標高約430メートルの松倉山(別名:鹿熊山)の山頂に築かれた 4 。その立地はまさに天然の要害であり、三方を断崖絶壁に囲まれ、一方が山並みに続く地形は、防御において絶大な利点を有していた 6 。山頂からは新川平野一帯を一望でき、遠くは能登半島まで見渡せるその眺望は、領国の監視と経営、そして敵の侵攻を早期に察知する上で、計り知れない価値を持っていた 7 。この地理的優位性こそが、後に松倉城が難攻不落の名城として名を馳せる根源となったのである。
この城は、複数の別名を持つことでも知られている。「金山城」あるいは「鹿熊城」という名称がそれである 5 。「金山城」の名は、城の背後に控え、その経済的基盤を強力に支えた松倉金山の存在に由来する 5 。一方で「鹿熊城」は、城が位置する地名、すなわち魚津市鹿熊(かぐま)にちなむものである 4 。これらの名称は、松倉城が軍事的な要塞であると同時に、地域の経済を掌握する拠点であり、その土地に深く根差した存在であったという、多面的な性格を象徴している。
第一章:城郭の構造と縄張り ― 難攻不落の仕掛け
第一節:全体構造 ― 連郭式山城の極致
松倉城の縄張り、すなわち城郭の設計は、山の尾根筋に沿って複数の郭(曲輪)を直線的に配置した「連郭式山城」の典型的な形態を示している 1 。しかし、その規模は類例を見ないほど壮大である。城域は南北約1キロメートルにも及び、越中国において最大級の規模を誇る巨大城郭であった 10 。この長大な城域は、単に防御力を高めるだけでなく、数千の兵を収容し、長期にわたる籠城戦を可能にするための、極めて高度な設計思想の表れと言える。
城郭の主要部は、本丸を中心に、二の丸、三の丸、四の丸など、主に五つの郭で構成されている 5 。これらの郭は、それぞれが独立した防御機能を持ちながら有機的に連携し、多重の防御ラインを形成していた。敵が一つの郭を突破しても、次なる郭が堅固な抵抗拠点として立ちはだかるという、鉄壁の守りを実現していたのである。
第二節:主郭群の防御施設 ― 防御思想の具現化
松倉城の防御思想は、主郭群の巧みな施設配置に最も顕著に見て取れる。
各郭の配置と機能
城の中枢を成す各郭は、それぞれ明確な役割を担っていたと考えられる。
- 本丸(主郭): 城の中心であり、最も高い位置に築かれている。面積は約3600平方メートルにも及ぶ広大な平坦地を持ち、有事の際には城主が立て籠もる最終拠点として機能した 9 。内部には信仰の対象ともなったであろう巨石群が点在し、城の精神的な支柱でもあったことが窺える 1 。
- 二の丸、三の丸、四の丸: 本丸に至る尾根筋に、階段状に連続して配置されている。これらの郭は、本丸を防衛するための前衛拠点であり、多重防御線を形成する上で不可欠な要素であった。各郭は土塁によって囲まれ、独立した戦闘単位として機能するよう設計されていた 12 。
- 八幡堂平: 城の最南端に位置する比較的小規模な曲輪 9 。その名称から、八幡神を祀る宗教的な祭祀の場であった可能性が考えられると同時に、南方面からの敵を監視する物見としての役割も果たしていたと推測される。
空堀(堀切)
各郭を物理的に分断する空堀、特に尾根を断ち切る「堀切」は、松倉城の防御を象徴する遺構である。本丸と二の丸の間、そして三の丸と四の丸の間には、特に大規模な堀切が穿たれている。その深さは5メートルから、最も深い箇所では10メートル近くにも達し、敵兵の直線的な突進を完全に阻害する 7 。この深く鋭い堀切は、攻め寄せる敵兵に絶望的な印象を与え、戦意を削ぐ心理的な効果も大きかったであろう。
石垣・石積み
松倉城は土造りの山城を基本としながらも、要所には石積みや石垣が効果的に用いられている 7 。特に、後述する大見城平の石門跡や、支城である石の門砦に現存する石垣は、当時の高度な土木技術を今に伝えている 7 。これらの石垣は、防御力を高めるだけでなく、城主の権威を視覚的に示す役割も担っていたと考えられる。
第三節:城郭内の諸施設 ― 城塞都市としての側面
松倉城の特筆すべき点は、単なる戦闘施設に留まらない、複合的な機能を有していたことである。
- 大見城平(おおみじょうだいら): 城の中腹、鹿熊集落側に広がる大規模な平坦地群は、松倉城のもう一つの中枢であった。ここには石組の堅固な門が築かれ、内部には武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられている 7 。発掘調査では、当時の生活を物語る土器や道具類が多数出土しており、平時における城主や上級家臣の居館が置かれ、政務が執り行われた政治・居住の中枢区画であったと推定される 2 。
- 平ノ峰(のろしだい): 主郭部からやや離れた、最も標高の高い地点に設けられた平坦地は、狼煙台としての役割を担っていた 12 。ここから上げられる狼煙は、周辺に配置された支城群との間で情報を瞬時に伝達し、広域防衛網の神経系統として機能した重要な施設であった 9 。
- その他の関連遺構: 城内には、麓の城下町であった鹿熊集落と本丸を直接結ぶ古道、家老であった武隅氏の屋敷跡、そして処刑場跡と伝わる「獄門原」など、城を中心とした複合的な社会が形成されていたことを示す遺構が数多く残されている 12 。
これらの構造を総合的に分析すると、松倉城の本質がより鮮明に浮かび上がってくる。南北1キロメートルという巨大な城域 10 、戦闘区画である主郭群とは別に設けられた広大な政務・居住区画「大見城平」 7 、生活の痕跡を示す多数の出土品 2 、そして麓に形成された城下町 5 。これらの要素は、松倉城が単に戦時に籠もるための一時的な砦ではなく、平時においても領国支配の拠点として機能する、恒久的な政治・経済の中心地であったことを強く示唆している。その構造は、山全体を一つの都市として捉える壮大な設計思想に基づいた、「山上の城塞都市」と呼ぶにふさわしいものであった。
第二章:動乱の歴史 ― 南北朝から戦国の終焉へ
第一節:築城と南北朝の争乱
松倉城の歴史は、南北朝時代の動乱期に幕を開ける。築城は建武2年(1335年)頃、当時の越中守護であった井上俊清(普門俊清)によって行われたと伝えられている 1 。この城が歴史の表舞台に初めて登場するのは、軍記物語『太平記』の記述である。そこには、建武5年(1338年)、北朝方の俊清が南朝方との戦いに敗れ、松倉城に籠もったと記されている 2 。このことは、築城からわずか数年にして、松倉城がすでに越中における重要な戦略拠点として認識されていたことを物語っている。
その後も松倉城は、越中の南北朝の争乱の中心地であり続けた。応安3年(1370年)には、南朝方の有力武将であった桃井直常が幕府(北朝)方と敵対し、この城に立てこもって抵抗した 5 。結果的に幕府方によって平定されるものの、松倉城は時代の動乱を象徴する舞台となったのである。
第二節:椎名氏の台頭と越中の勢力図
南北朝の動乱が終息すると、松倉城は新川郡の守護代であった椎名氏の本拠地となった。以後、約250年間にわたり、松倉城は椎名氏による越中東部支配の拠点として、政治・軍事の中心であり続けた 5 。
戦国時代に入ると、椎名氏は越中の覇権を巡り、西部の守護代であった神保長職(富山城主)と激しく対立する 9 。当初、椎名氏は神保氏の勢力に押され、劣勢に立たされていた。この窮地を打開するため、椎名康胤は永禄3年(1560年)、隣国越後の「龍」長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を要請する。この要請に応じた謙信は越中に侵攻し、神保氏を撃退、椎名氏は一時的に優位に立つことに成功した 9 。しかし、この出来事が、後に椎名氏と松倉城の運命を大きく左右する、上杉氏との複雑な関係の序章となったのである。
第三節:上杉謙信との死闘 ― 「松倉城の戦い」
椎名康胤は、神保氏との戦後処理を巡る上杉謙信の裁定に不満を抱いていた 16 。越中一国の支配という野望を持つ康胤にとって、謙信の存在は次第に桎梏となっていった。そして永禄11年(1568年)、康胤は大きな賭けに出る。謙信の宿敵である甲斐の武田信玄と密かに手を結び、上杉氏に対して反旗を翻したのである 1 。これにより、越中は謙信と信玄の代理戦争の様相を呈し、松倉城はその最前線となった。
第一次攻防戦(永禄12年)
康胤の離反という報に接した謙信は、翌永禄12年(1569年)、自ら大軍を率いて越中に侵攻し、松倉城を包囲した。しかし、三方を断崖に守られた天然の要害である松倉城の守りはあまりにも固かった。謙信は百日間にわたって猛攻を仕掛けたが、ついに城を陥落させることはできず、攻略を断念して越後へと引き揚げざるを得なかった 16 。この戦いは、松倉城の堅牢さと椎名氏の抵抗の激しさを、天下に知らしめる結果となった。
第二次攻防戦と落城(元亀3年~)
第一次攻防戦の後、両者は一旦和睦するが、それは束の間のことであった。康胤は再び一向一揆勢力と結び、反上杉の姿勢を鮮明にする 21 。これに対し謙信は、元亀3年(1572年)、再び越中に大軍を送り込み、松倉城を包囲した 16 。椎名康胤はまたもや籠城し、激しい抵抗を続けた。しかし、翌元亀4年(1573年)、同盟者であり最大の頼みとしていた武田信玄が西上作戦の途上で病死するという凶報が届く。強力な後ろ盾を失った康胤は、ついに戦意を喪失し、降伏。難攻不落を誇った松倉城は、ついに謙信の手に落ちたのである 16 。城を追われた康胤は、その後も一揆方として抵抗を続けた末に自害したと伝えられている 1 。
第四節:支配者の変転と城の終焉
椎名氏の没落後、松倉城は上杉氏の越中支配における最重要拠点と位置づけられた。謙信は、腹心の将である河田長親、次いで須田満親を城将として送り込み、この地域の統治にあたらせた 1 。
しかし、天正6年(1578年)に謙信が急死すると、越中の勢力図は再び大きく揺れ動く。この機に乗じて越中侵攻を開始したのが、織田信長の家臣・佐々成政であった。松倉城は上杉方の拠点として、成政軍の度重なる攻撃に晒されることとなる 9 。天正10年(1582年)の魚津城の戦いを経て、翌天正11年(1583年)、ついに松倉城は佐々成政の攻撃によって陥落し、その支配下に入った 9 。
佐々成政の支配も長くは続かなかった。天正13年(1585年)、豊臣秀吉による富山征伐(佐々攻め)が行われ、成政は降伏。これにより越中は前田家の所領となる。文禄4年(1595年)には、前田利長に新川郡が加増され、松倉城も正式に前田氏の支城の一つとなった 5 。しかし、天下統一後の新たな時代において、山城である松倉城の戦略的価値は急速に低下していた。前田氏は、領国経営の拠点を交通の便が良い平野部の魚津城や富山城へと移す政策を推進し、松倉城麓の城下町も魚津へと強制的に移転させた 5 。政治・経済の中心としての役割を失った松倉城は、慶長年間(1596年~1615年)にその歴史的使命を終え、廃城となった 1 。
表1:松倉城関連年表
西暦 |
和暦 |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
c. 1335 |
建武2 |
井上俊清(普門俊清)により松倉城が築城されると伝わる。 |
井上俊清 |
1338 |
建武5 |
『太平記』に初出。井上俊清が南朝方との戦いに敗れ籠城。 |
井上俊清、南朝方 |
1370 |
応安3 |
桃井直常が幕府に反旗を翻し、松倉城に立てこもる。 |
桃井直常、足利幕府 |
c. 1400- |
室町時代 |
新川郡守護代・椎名氏が本拠とし、越中東部の中心となる。 |
椎名氏 |
1560 |
永禄3 |
椎名康胤、神保長職に対抗するため上杉謙信に救援を要請。 |
椎名康胤、神保長職、上杉謙信 |
1568 |
永禄11 |
椎名康胤、武田信玄と結び上杉謙信に離反。 |
椎名康胤、武田信玄、上杉謙信 |
1569 |
永禄12 |
第一次松倉城の戦い。 上杉謙信の百日間の包囲を耐え抜く。 |
上杉謙信、椎名康胤 |
1572 |
元亀3 |
第二次松倉城の戦い。 上杉謙信が再び松倉城を包囲。 |
上杉謙信、椎名康胤 |
1573 |
元亀4/天正元 |
武田信玄の死後、椎名康胤が降伏し、松倉城は落城。 |
椎名康胤、上杉謙信 |
1573- |
天正年間 |
上杉氏の拠点となり、河田長親、須田満親が城将を務める。 |
河田長親、須田満親 |
1583 |
天正11 |
佐々成政の攻撃により落城し、佐々氏の支配下に入る。 |
佐々成政、上杉氏 |
1585- |
天正年間 |
豊臣秀吉の富山征伐後、前田家の所領となる。 |
豊臣秀吉、前田利家 |
1595 |
文禄4 |
新川郡が前田利長に加増され、正式に前田氏の城となる。 |
前田利長 |
c. 1600 |
慶長年間 |
政治・経済の中心が平野部へ移り、廃城となる。 |
前田氏 |
第三章:戦略的・経済的価値の考察
第一節:越中三大山城としての位置づけ
松倉城は、越中西部の増山城(砺波市)、中部の守山城(高岡市)と共に、越中を代表する三大山城と称される 3 。これらはいずれも大規模かつ堅固な山城であるが、その性格はそれぞれ異なっている。
- 増山城: 越中西部の覇者・神保氏の拠点であり、幾重にも連なる曲輪群と長大な堀切を特徴とする 26 。上杉謙信に三度も攻められるなど、越中西部の防衛の要であった 26 。
- 守山城: 同じく神保氏の拠点であったが、後に前田利長が一時的に居城とするなど、平野部への睨みを効かせ、加賀・能登との連携を意識した戦略拠点としての性格が強い 29 。
これら二城と比較した時、松倉城の特異性は際立っている。それは、城自体が「松倉金山」という強力な経済基盤と直結していた点 5 、そして松倉城を中核とする広域な「支城網」を形成していた点である 9 。これにより、松倉城は軍事・政治・経済が一体となった、他に類を見ない複合的戦略拠点としての地位を確立していた。
第二節:松倉金山の経済的影響力
松倉城の強大さを支えた最大の要因の一つが、背後に控える松倉金山の存在であった。この金山は豊富な金の産出量を誇り、椎名氏の財政を潤す大動脈として機能した 2 。戦国時代の合戦において、兵糧の確保や武具の購入、傭兵の雇用など、経済力は軍事力に直結する。松倉金山から得られる莫大な富は、椎名氏が神保氏と互角以上に渡り合い、さらには上杉謙信という大勢力に抵抗することを可能にした原動力であった。
この金山の価値は、敵将であった上杉謙信も高く評価していた。椎名氏を降伏させた後、謙信はこの金山を上杉氏の直轄支配下に置き、産出された金を本拠地である春日山城へ送らせていたという記録が残っている 5 。これは、謙信が松倉城を単なる軍事拠点としてではなく、自軍の活動を支える重要な資金源として認識していたことの何よりの証左である。その経済的重要性は戦国時代以降も続き、江戸時代初期には加賀藩が経営する「越中七金山」の一つに数えられている 5 。
第三節:支城網による広域防衛体制
松倉城のもう一つの戦略的特徴は、単独の「点」としてではなく、広域な防衛ネットワークの「核」として機能していたことである。椎名氏は松倉城を中心として、その周囲に多数の支城や砦を体系的に配置し、面的な防衛体制を構築していた 9 。
特に、敵の主たる侵攻ルートとなる富山平野に面した西から南にかけての防衛線は、極めて巧妙に設計されていた。この方面では、角川と早月川という二つの河川を天然の外堀と見立て、その間に連なる丘陵地帯に、升方城、南升方城、水尾城、水尾南城、赤坂砦といった支城群を連続して配置した 9 。この支城網は、敵の侵攻を段階的に遅滞させ、消耗させると同時に、狼煙などを用いて本城である松倉城へ敵の情報を逐一伝達する役割を果たした。これにより、松倉城は十分な迎撃準備を整えることができ、常に有利な状況で敵を迎え撃つことが可能となった。これは、地形を最大限に活用した、極めて高度な戦略的構想であったと言える。
これらの分析から導き出されるのは、松倉城の価値の源泉が、単一の要素ではなく、複数の要素が有機的に結合した「三位一体」の構造にあったという事実である。第一に、上杉謙信の猛攻をも頓挫させた城自体の 軍事的堅牢性 16 。第二に、椎名氏の権勢を支え、上杉氏をも魅了した松倉金山がもたらす
経済的生産性 2 。そして第三に、広域支配を可能にし、鉄壁の防御を実現した支城網による
戦略的ネットワーク性 9 。これら三つの要素が相互に作用し、補完し合うことで、松倉城は越中東部における比類なき戦略拠点としての地位を確立した。椎名氏が長期にわたってこの地を支配し、上杉や武田といった大勢力がこの城を巡って激しい争奪戦を繰り広げた根本的な理由は、この三位一体の価値にあったと考えられる。
さらに、松倉城の廃城は、単に一つの城がその役目を終えたという以上の、より大きな歴史的文脈の中で捉える必要がある。山城である松倉城は、在地領主がゲリラ戦や籠城戦によって中央の権力から独立性を保つには最適な城郭形態であった 6 。しかし、織田信長、豊臣秀吉による天下統一が進むと、城に求められる役割は大きく変化した。戦国乱世における「防衛拠点」から、広大な領地を効率的に統治し、経済を掌握するための「中央集権的支配拠点」へと、その機能が移行したのである。新たな支配者となった前田氏は、交通の便が良く、大規模な城下町の建設も容易な平城である魚津城や富山城を新たな支配の中心に据えた 5 。このパラダイムシフトの中で、山上に位置し、統治・経済活動には不便な松倉城はその存在意義を失った。したがって、松倉城の廃城は、戦国時代の価値観(防衛と独立)が終焉を迎え、近世大名の価値観(統治と経済)がそれに取って代わったことを示す、歴史の転換点を象徴する出来事であったと言えるのである。
表2:越中三大山城の比較
項目 |
松倉城 |
増山城 |
守山城 |
所在地 |
新川郡(魚津市) |
砺波郡(砺波市) |
射水郡(高岡市) |
主な城主 |
椎名氏、上杉氏 |
神保氏、上杉氏 |
神保氏、前田利長 |
規模・標高 |
越中最大級、標高約430m |
大規模、標高約120m |
大規模、標高約135m |
縄張りの特徴 |
尾根筋を利用した長大な連郭式。深い堀切が特徴。 |
谷を利用した複雑な曲輪配置。「七つの尾根、七つの谷」 |
丘陵全体を利用した広大な縄張り。公園化による改変あり。 |
経済基盤 |
松倉金山(金の産出) |
庄川流域の穀倉地帯、交通の要衝 |
射水平野の支配、放生津湊との連携 |
戦略的役割 |
越中東部の政治・経済・軍事の中心。 支城網の中核。 |
越中西部の防衛拠点。対加賀・能登の最前線。 |
越中中部の支配拠点。平野部への睨みと統治。 |
終章:史跡としての松倉城 ― その遺構と現代的価値
慶長年間に廃城となった後、松倉城は歴史の中に埋もれ、静かな時を過ごしてきた。しかし、その戦国時代の越中における比類なき重要性から、昭和40年(1965年)に富山県の史跡に指定され、再び脚光を浴びることとなった 6 。現在、城跡一帯は松倉城跡県定公園として整備され、多くの人々に親しまれる歴史空間となっている 4 。
近年では、魚津市教育委員会によって継続的な発掘調査や測量調査が実施されており、城の新たな側面が明らかにされつつある 31 。特に、本丸と二の丸の間の空堀や、政務・居住区画であった大見城平の発掘調査では、当時の武士たちの生活を物語る土器や生活道具などが多数出土した 2 。これらの発見は、文献史料だけでは窺い知ることのできない、城内での具体的な生活実態を解明する上で、極めて貴重な手がかりとなっている。
現在、松倉城跡は歴史遺産として多角的に活用され、その価値を次世代へと継承する取り組みが行われている。
- 桜の名所として: 昭和初期に植えられた数百本のヤマザクラが今も見事な花を咲かせ、「富山さくらの名所」の一つとして、春には多くの花見客で賑わう 4 。歴史の息吹を感じながら桜を愛でる体験は、松倉城ならではの魅力である。
- 歴史学習と観光の場として: 現地には、城の複雑な構造を視覚的に理解できるよう、詳細な案内板や立体地形模型が設置されている 5 。また、麓の魚津市立歴史民俗博物館では、松倉城に関する資料が展示され、訪れる人々の歴史理解を深めている 10 。
- 地域イベントの舞台として: 毎年5月下旬には「うおづ戦国 のろし祭り」が城跡を舞台に開催される 34 。甲冑をまとった武者行列や狼煙の実演などを通じて、地域の歴史遺産が単なる過去の遺物ではなく、現代に生きる文化として継承されている。
結論として、松倉城は、戦国時代の越中、ひいては北陸の動乱を理解する上で欠かすことのできない第一級の歴史遺産である。その尾根筋に今なお深く刻まれた堀切や、広大な郭の跡は、往時の武将たちが繰り広げた知略と攻防の歴史を、600年以上の時を超えて雄弁に物語っている。史跡として大切に保存・活用され、地域の誇りとして生き続ける松倉城の歴史的価値は、今後も決して色褪せることはないだろう。
引用文献
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- 松倉城跡 - 魚津市 https://www.city.uozu.toyama.jp/attach/EDIT/004/004876.pdf
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- 松倉城塁群発掘調査報告ⅣV https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/7/7644/5655_1_%E6%9D%BE%E5%80%89%E5%9F%8E%E5%A1%81%E7%BE%A4%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E2%85%A3.pdf
- www.pref.toyama.jp https://www.pref.toyama.jp/1603/kurashi/sportsleisure/leisure/kj00011575/kj00011575-011-01.html#:~:text=%E6%9D%BE%E5%80%89%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E3%81%AF%E3%80%81%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E5%B8%82,%E3%81%A7%E5%BD%A9%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 魚津歴史民俗博物館 https://www.city.uozu.toyama.jp/guide/svGuideDtl.aspx?servno=23395
- (終了)第30回うおづ戦国 のろし祭り /5月28日 - 【公式】魚津市観光案内公式サイト https://uozu-kanko.jp/event_news/2023noroshi/
- のっちゃんの攻城手記-富山県のお城(その3) http://www.toyamawalker.com/contents/as/castling/castling_090829.shtml