伊予松葉城は、宇和盆地を望む要衝に築かれ、公家大名西園寺氏の本拠として栄えた。公家としての権威に依存した支配は戦国乱世で脆弱性を露呈。長宗我部氏の侵攻で黒瀬城へ移転し、最終的に戸田勝隆に滅ぼされた。
伊予国南部、現在の愛媛県西予市に広がる宇和盆地は、四国山地から流れ出る清流に潤された、南予地方における唯一とも言える広大な平坦地である 1 。山がちな地形が続くこの地域において、宇和盆地は古くから豊かな水田耕作地帯として、経済的・戦略的に比類なき価値を有していた。中世から戦国時代にかけて、米の収穫高が国力そのものであった時代にあって、この盆地を掌握することは、すなわち南予一帯の覇権を握ることを意味した 1 。松葉城の歴史は、この宇和盆地の支配を巡る物語と不可分に結びついている。
その歴史の端緒は、鎌倉時代中期の嘉禎二年(1236年)に遡る。当時、宇和庄は橘公業が代々所領としていたが、朝廷と幕府に絶大な影響力を持っていた公卿、西園寺公経がその権勢を背景に半ば強引にこの地を譲り受けたことに始まる 2 。当初、西園寺家は京に留まり、代官を派遣して荘園を間接的に統治していた。しかし、14世紀に入り南北朝の動乱が全国に波及すると、遠隔地からの荘園経営は困難を極め、年貢の確保すら覚束ない状況に陥る 1 。
この危機的状況を打開すべく、西園寺氏は一族を現地に直接派遣し、支配を強化する道を選んだ。『歯長寺縁起』には、永和年間(1375年-1379年)に西園寺の一族が「当国静謐のため」、すなわち地域の安定化を大義名分として伊予へ下向したと記されている 1 。彼らは宇和郡内の三か所、すなわち松葉(現在の宇和町)、立間(現在の吉田町)、そして来村(現在の宇和島市)に分かれて土着した。一時は三家が対立する局面もあったが、最終的には最も経済的価値の高い宇和盆地を直接支配下に置く松葉西園寺氏が、他の二家を抑えて宗家としての地位を確立するに至った 1 。
外部から入部した西園寺氏が、この地の複雑な利害関係を調整し、実効支配を盤石なものとするためには、盆地全体を俯瞰し、有事の際には即座に軍事行動を起こせる中核的な拠点が必要不可欠であった。松葉城が築かれたのは、まさに宇和盆地の北縁に位置し、眼下に広大な平野を見下ろす戦略的要地である 5 。したがって、松葉城の築城は、西園寺氏による宇和郡支配を確立するための、地理的・戦略的必然性から生まれたものと言える。それは単なる居館ではなく、南予における西園寺氏の権威と支配の象徴そのものであった。
伊予西園寺氏は、その出自において他の戦国大名とは一線を画す、極めて特異な存在であった。彼らの祖は藤原北家閑院流という、京の朝廷においても屈指の名門であり、太政大臣を輩出することもあった公家の筆頭格であった 4 。その一族が、都の戦乱を逃れて自らの荘園に下向し、在地武士を束ねて戦国大名へと変貌を遂げたのである。このような経歴を持つ大名は「公家大名」と称され、土佐の一条氏と並び称される稀有な事例である 7 。
この公家としての出自は、西園寺氏の統治形態に大きな影響を与えた。実力で土地を切り取ってきた在地出身の武将とは異なり、彼らの権力の源泉は、武力そのものよりも、むしろ京の名門としての「権威」にあった。在地土豪たちは、西園寺氏が持つ伝統的な権威にすがることで、自らの所領の安堵を得て、互いの紛争の調停を期待したのである 1 。しかし、この権威に依存した支配構造は、実力が全てを決定する戦国乱世の荒波の中では、本質的な脆弱性を内包していた。時代が下り、長宗我部氏のような新興勢力が純然たる武力で四国を席巻し始めると、西園寺氏の権威は次第にその輝きを失い、在地土豪たちの求心力を維持することが困難になっていく。その統治のあり方そのものが、戦国末期の環境変化に対応しきれないという、滅亡への宿命を孕んでいたのである。
松葉城の正確な築城年代は詳らかではないが、西園寺公良が本格的に宇和郡に下向した永和二年(1376年)頃に、それ以前から存在した砦を大規模に改修、あるいは新たに築城したものと推定されている 2 。当初、この城は険しい岩山の上に築かれたことから「岩瀬城」と呼ばれていたと伝わる 2 。
城の名が「松葉城」となった由来については、興味深い逸話が残されている。ある時、城内で西園寺家の世継ぎ誕生を祝う盛大な宴が催された。その席で、とある武将が酒杯を口に運ぼうとした瞬間、天から松の葉がはらりと杯の中に舞い落ちた。松は古来より長寿や繁栄を象徴する縁起の良い木であることから、城主をはじめ一座の者たちはこれを吉兆として大いに喜び、それ以来、城の名を「松葉城」と改めたという 8 。この伝承は、城の歴史に華やかな物語性を添えている。
西園寺公良の入城から、19代当主・西園寺実充が戦国末期の戦略環境の変化に対応するため、より防御能力の高い黒瀬城に本拠を移すまでの約170年間、松葉城は名実ともに伊予西園寺氏の政治・軍事の中心であり続けた 2 。この城から宇和郡全域に号令が発せられ、南予の歴史はこの城を舞台に紡がれていったのである。
松葉城は、山塊から北西方向に突き出した尾根の頂部、標高約588メートルの支峰に築かれた典型的な山城である 3 。その縄張りは、城の東端に位置する最高所を主郭(本丸)とし、そこから西へ緩やかに下る尾根筋に沿って二の郭、三の郭といった複数の曲輪を直線的に配置する「連郭式」と呼ばれる構造を基本としている 9 。この単純な構造は、中世山城の古い形態を残すものとも考えられる。主郭跡には現在、城の歴史を偲ぶかのように小さな祠が静かに祀られている 10 。
松葉城の最大の防御上の特徴は、城の南側が、人が登ることをほぼ不可能にする垂直に近い断崖絶壁となっている点である 6 。この天然の要害を最大限に活用することで、城は南からの攻撃に対しては鉄壁の守りを誇っていた。
一方で、尾根続きとなる方面には、人工的な防御施設が幾重にも施されている。現在でも、曲輪の周囲を固める土塁や、部分的に用いられた石積、そして尾根を断ち切って敵の進軍を阻む堀切などが良好な状態で残存している 3 。特に、主郭から南に伸びる尾根筋に穿たれた大規模な堀切は、深さ約10メートル、幅約15メートルにも達する壮大なもので、松葉城の遺構の中でも最大の見どころとされている 12 。また、城への主要な進入口であったと推定される虎口(城門)付近には、側面から攻撃を加える「横矢」を意識した小規模な曲輪が配置されるなど、戦国期の城郭として実戦を想定した工夫も見て取れる 9 。
しかし、城郭全体の構造を見ると、その縄張りは比較的狭小であり 13 、天然の地形への依存度が高い。これは、大規模な軍勢を駐留させて積極的に領外へ打って出るための攻撃拠点というよりは、有事の際に領主一族が籠城し、支配の象徴である居城を確実に守り抜くための「防御拠点」「監視拠点」としての性格が強かったことを示唆している。この「守り」に徹した城の構造は、西園寺氏の支配体制が、在地土豪との連合を基本とし、領土の急進的な拡大よりも既存の権益を維持することを優先する、公家大名らしい保守的な戦略思想に基づいていたことの物理的な証左と解釈できる。
松葉城の山頂からは、西園寺氏の力の源泉であった宇和盆地を一望の下に見渡すことができる 6 。この圧倒的な眺望は、平時には領内の隅々まで目を光らせる統治の拠点として、そして有事には敵の侵攻をいち早く察知する監視塔として、絶大な戦略的価値を持っていた。さらに興味深いことに、この場所からは、後に西園寺氏が最後の本拠地とすることになる黒瀬城の姿もはっきりと視界に捉えることができる 6 。これは、両城が連携して宇和盆地全体を防衛するという、壮大な防衛構想が存在した可能性を物語っている。
戦国大名としての西園寺氏の軍事力は、織田信長や長宗我部元親のような中央集権的な常備軍とは大きく異なり、極めて封建的な連合体であった。その軍団は、少数の直属家臣団である「旗本衆」を中核とし、その周囲を宇和郡各地に割拠する多数の在地土豪、すなわち「殿原衆」や「与力衆」と呼ばれる同盟軍が取り巻く形で構成されていた 1 。
近世の記録である『宇和郡記』によれば、西園寺氏の総石高は約2万石余りとされ、そのうち直轄領は1万4千石余り、残りが旗本衆の知行地であったと記されている 1 。しかし、軍事力の大部分を担っていたのは、津島殿(1万石)や河原淵殿(1万6千石)といった、西園寺氏本体をもしのぐ広大な領地を持つ与力衆であった 1 。
彼ら与力衆と西園寺氏との関係は、土地を媒介とした強固な主従関係ではなく、極めて緩やかなものであった。西園寺氏は彼らの領地支配権(一円知行)を公的に承認する見返りとして、戦時における軍事協力を取り付けたに過ぎない 1 。これは、室町時代の守護大名と国人衆の関係に近い、旧来の支配形態であった。このシステムは、与力衆の利害が一致している間は機能するが、ひとたび状況が変化すれば、敵からの調略によって容易に切り崩される危険性を常に孕んでいた。戦国後期の、より集権的で強力な軍事国家へと変貌を遂げた大名たちと比較すると、西園寺氏の支配構造は明らかに時代遅れであり、統一政権への移行期において淘汰される運命にあったと言わざるを得ない。
南予という地政学的位置は、西園寺氏に安息の時間を与えなかった。戦国時代を通じて、北には伊予国守護であった河野氏、隣接する喜多郡には宇都宮氏、南の土佐国には公家大名としてライバル関係にあった一条氏、そして海を隔てた西の豊後国には九州の雄・大友氏といった強大な勢力に囲まれており、彼らとの抗争が絶え間なく続いた 1 。これらの終わりの見えない戦いは、西園寺氏の国力を徐々に、しかし確実に削いでいき、やがて来る長宗我部氏の侵攻に対して有効な抵抗ができないほどに衰退させる大きな要因となったのである 14 。
16世紀後半、戦国乱世が最終局面を迎える中で、西園寺氏を取り巻く戦略環境は劇的に変化した。これまで主たる脅威であった北方の河野氏の勢力が衰え、それに代わって西からはキリシタン大名・大友宗麟率いる豊後大友氏が、そして南からは土佐国を統一し破竹の勢いで四国制覇を目指す長宗我部元親が、新たな脅威として浮上したのである 8 。特に、元亀三年(1572年)に大友氏の軍勢が宇和郡に侵攻し、西園寺氏が辛うじて和睦に持ち込むという事件は、従来の防衛体制の限界を白日の下に晒すものであった 8 。
この新たな脅威に対応するため、19代当主・西園寺実充は、国家的な戦略転換を決断する。天文十五年(1546年)から弘治二年(1556年)にかけて、宇和盆地の南端に位置する黒瀬山に、新たな本拠地となる黒瀬城の築城を開始したのである 15 。この移転は、南方および西方からの侵攻に対して、より防衛上有利な地点に拠点を移すという、極めて合理的な判断であった 11 。
城は、実充の代に築城が始まり、その子・公家の代に完成したと伝えられている 17 。170年もの長きにわたり西園寺氏の権威の象徴であった松葉城を捨て、新たな城を築くというこの一大事業は、西園寺氏がもはや地域の覇権を争う攻勢の段階ではなく、自領の維持すら困難な、必死の生き残りをかけた守勢の段階に入ったことを内外に示すものであった。黒瀬城の築城は、一見すれば防衛力強化のための前向きな施策であるが、その背景には深刻な勢力の衰退があり、来るべき滅亡への序曲であったと深く解釈することができる。
本拠地が黒瀬城に移った後も、松葉城が即座に廃城となったわけではない。宇和盆地の北方を固める戦略的価値は依然として高く、黒瀬城の重要な支城として、防衛網の一翼を担い続けたと考えられている 3 。
表1:松葉城と黒瀬城の戦略的役割比較
比較項目 |
松葉城 |
黒瀬城 |
立地 |
宇和盆地北側、標高約588mの支峰 3 |
宇和盆地南側、標高約350mの黒瀬山山頂 11 |
主要利用時期 |
14世紀後半~16世紀中頃 2 |
16世紀中頃~天正15年(1587年) 15 |
戦略的指向性 |
北方(河野氏など)への備えを重視 8 |
南方・西方(長宗我部氏、大友氏)への備えを重視 8 |
防御思想 |
自然地形を最大限に活用した伝統的要害 11 |
戦国後期の脅威に対応した大規模拠点 15 |
役割 |
西園寺氏前期の本拠地、支配の象徴 2 |
西園寺氏後期の本拠地、最後の砦 8 |
天正年間に入ると、土佐の長宗我部元親は四国統一の野望を現実のものとすべく、その軍勢を伊予国へと向けた 8 。長宗我部軍の圧倒的な軍事力の前に、西園寺氏の脆弱な同盟軍は次々と切り崩されていく。天正十二年(1584年)、野村・城川といった宇和郡東部の主要な支城が相次いで陥落すると、西園寺氏最後の当主・公広はついに抵抗を断念し、長宗我部氏と講和を結び、本拠である黒瀬城を開城した 10 。これは事実上の降伏であり、西園寺氏による南予支配が終焉を迎えた瞬間であった。
しかし、歴史の奔流はそこで止まらなかった。翌天正十三年(1585年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、長宗我部氏の四国支配を覆すべく、小早川隆景を総大将とする大軍を伊予に派遣する(四国征伐) 8 。西園寺公広は時勢を読み、今度は豊臣軍の軍門に降り、一度はその所領を安堵されることとなった 10 。
束の間の安堵も長くは続かなかった。天正十五年(1587年)、秀吉は伊予国に新たな領主として、自らの腹心である戸田勝隆を封じた 10 。勝隆は、旧領主である西園寺公広の存在を、自らの支配を確立する上での最大の障害と見なした。勝隆は公広を大津(現在の大洲市)の居館に呼び出すと、弁明の機会も与えずに謀殺したのである 8 。これにより、鎌倉時代から300年以上にわたって南予に君臨した名門・伊予西園寺氏は、その歴史に完全に幕を下ろした 7 。
この西園寺公広の謀殺は、単に戸田勝隆個人の残忍な性格に起因するものではない。それは、豊臣政権が全国の旧来の支配構造を解体し、中央集権的な統治体制を確立するために行った、冷徹な政治的判断に基づく行動であった。太閤検地などの抵抗が予想される新政策を断行する上で、在地勢力から依然として信望の厚い旧領主の存在は、将来的な反乱の火種となりかねない。西園寺氏は、新しい時代の秩序を構築するための礎として、意図的に歴史の舞台から排除されたのである。
勝隆の統治は苛烈を極めた。彼は太閤検地を強行し、これに反発する在地土豪や名主層を「一郷も二郷もなで斬り」という姿勢で徹底的に弾圧した 22 。『清良記』などの記録によれば、この「戸田騒動」と呼ばれる弾圧によって、数百人もの人々が磔にされ、その統治は恐怖政治そのものであったと伝えられている 21 。
伊予西園寺氏の滅亡とともに、松葉城はその軍事拠点としての役割を終え、歴史の表舞台から姿を消し、やがて廃城となった 7 。山上の城は静かに風化し、自然へと還っていった。
しかし、松葉城が遺したものは、山上の石垣や土塁だけではなかった。城の麓に形成されていた城下町「松葉町」は、主を失った後も生き続けた。江戸時代に入り、宇和島藩の領地となると、この町は宇和島と大洲を結ぶ宇和島街道の宿場町として、また宇和盆地の米や木材の集散地として、新たな役割を担うこととなる。やがて町は「卯之町」と名を変え、地域の経済的中心地として繁栄を続けたのである 18 。
城という軍事施設は、その役割を終えれば放棄される運命にある。しかし、城の存在によって生まれた人々の営みや経済活動は、新たな時代の要請に適応することで生き残ることがある。松葉城の場合、山上の城跡と麓の卯之町の歴史的町並みは、まさにその関係性を物語っている。城は過去を物語る史跡となり、町は現在に続く生活空間として発展した。松葉城の歴史を完全に理解するためには、山上の城跡を歩くだけでなく、麓の卯之町の町並みを合わせて見ることが不可欠である。城と町は、軍事と経済、過去と現在を繋ぐ一体不可分の歴史遺産であり、松葉城が後世に遺した最も重要な遺産は、この両者の関係性の中にこそ見出せるのである。
現在、松葉城跡は国の史跡として整備され、訪れる人々を静かに迎えている。山頂には、往時の姿を偲ばせる主郭跡の祠、土塁、石積、そして壮大な堀切などの遺構が点在している 6 。城跡へは、麓の郷団地や米博物館、明石寺など、複数の登山口からアクセスが可能であるが、一部の登山道は険しく、往時の山城の厳しさを体感することができる 6 。
山頂から眼下に広がる宇和盆地と、その先に最後の本拠地であった黒瀬城跡を同時に望むとき、訪れる者は、京の雅を伊予の地に伝え、戦国の荒波に翻弄されながらも300年の長きにわたり南予に君臨した公家大名・西園寺氏の栄枯盛衰の物語に、思いを馳せることだろう 6 。