甲府城は、武田氏滅亡後の甲斐を巡る争乱を経て、豊臣秀吉が徳川家康牽制のため築きし要衝。江戸期には徳川親藩の居城となり、その歴史は時代の変遷を語る。
甲府城は、一般的に「武田氏滅亡後、甲斐国を手に入れた徳川家康が築き、江戸幕府の成立後は江戸城を守る西の拠点として重要視された城」として認識されている 1 。この理解は決して誤りではないが、城の本質的な歴史的意義の半分しか捉えていない。甲府城の真の姿を理解するためには、その通説の奥深く、戦国時代末期の緊迫した政治情勢へと分け入る必要がある。
本報告書は、甲府城が単なる徳川の城ではなく、その黎明期において豊臣秀吉が関東の徳川家康を牽制・包囲するために築いた、壮大な戦略構想の要石であったという事実を明らかにする。その築城の経緯、構造、そして役割の変遷を丹念に追うことで、甲府城が豊臣政権と徳川家康の間のパワーゲームを体現する物理的な記念碑であり、戦国から近世へと移行する時代の境界線上にそびえ立つ、極めて重要な城郭であったことを論証する。その優美な姿から「舞鶴城(まいづるじょう)」という雅号でも知られるこの城の石垣は、単なる防御施設ではなく、天下の動向を左右した武将たちの野望と戦略が刻まれた歴史の証言者なのである 3 。
甲府城が築かれることになる土地は、決して無名の丘ではなかった。その戦略的価値は古くから認識されており、武田氏滅亡後の甲斐国を巡る激しい争奪戦を経て、新時代の城郭を建設する必然性が生まれるのである。
甲府城が築かれた独立丘陵は、「一条小山(いちじょうこやま)」と呼ばれていた 6 。この地は、平安時代後期に甲斐源氏の祖・武田信義の子である一条忠頼が館を構えた場所であり、甲斐一条氏発祥の地として歴史的な権威を帯びていた 6 。忠頼の死後、その館は尼寺となり、正和元年(1312年)には時宗の道場「一蓮寺」が創建され、門前町が形成されるなど、地域の中心地として栄えた 6 。
この地の軍事的重要性に早くから着目していたのが、武田信玄の父・信虎である。信虎は永正16年(1519年)に本拠を躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に移したが、その5年後の1524年には、一条小山に砦の普請を開始している 6 。これは、甲府盆地を見渡せるこの丘が、防衛拠点として極めて優れた立地であることを示しており、後の本格的な築城の素地がこの時点で既に整えられていたことを物語っている。
甲府城築城の直接的な引き金となったのは、天正10年(1582年)に勃発した「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」である。この年の3月、織田信長・徳川家康連合軍によって武田氏が滅亡(甲州征伐) 7 。しかし、そのわずか3ヶ月後の6月2日、信長が本能寺の変で横死すると、甲斐・信濃・上野の旧武田領国は主を失った広大な空白地帯と化した 8 。
この機を逃さず、旧武田領の覇権を巡って三つ巴の争奪戦が始まった。相模の北条氏政・氏直親子、越後の上杉景勝、そして駿河の徳川家康である 7 。信長から甲斐国を与えられていた河尻秀隆は、国人衆の一揆によって殺害され、甲斐は無政府状態に陥った 9 。
この混乱の中、最も迅速かつ巧みに行動したのが家康であった。家康は、旧武田家臣団を懐柔しつつ、羽柴秀吉からの暗黙の了解も得て、7月9日には甲府へ着陣し、甲斐国南部を掌握した 12 。一方、北条氏直は大軍を率いて信濃から甲斐へ侵攻し、若神子城(山梨県北杜市)に本陣を構え、家康と対峙した 12 。約80日間に及ぶ睨み合いの末、信長の後継者問題を巡る織田家内部の対立も背景となり、両者は和睦に至る 11 。
この和睦の条件は、日本の歴史の転換点とも言える重要なものであった。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とされ、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐことで徳川・北条同盟が成立したのである 7 。この結果、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有する大大名へと飛躍し、東国に巨大な勢力圏を築き上げた 7 。
天正壬午の乱は、単なる領地争いではなかった。この戦乱を制したことで、家康は甲斐国という戦略的要衝と、勇猛で知られた武田の遺臣団を自らの支配下に置くことになった。しかし、それは同時に、この広大で複雑な新領国を安定的に統治するための、強力な政治的・軍事的中心地の建設が急務であることを意味していた。武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館は、あくまでも館であり、石垣を持たない防衛能力の低い施設であった 14 。戦乱を勝ち抜いた新時代の支配者として、その権威を示し、領国を盤石にするための新たな城、すなわち甲府城の建設は、もはや必然だったのである。
一般的に「家康の城」として語られる甲府城であるが、その築城過程を詳細に分析すると、全く異なる姿が浮かび上がる。家康によって開始されたこの事業は、天下人・豊臣秀吉の手に渡り、その目的と規模を劇的に変貌させた。甲府城は、豊臣政権による対家康戦略の最前線基地として完成されたのである。
天正壬午の乱を制し甲斐国を手中に収めた徳川家康は、譜代の重臣である平岩親吉を城代として甲府に置き、新領国の統治に着手した 6 。そして天正11年(1583年)頃、家康は親吉に命じ、新たな城の建設を開始させる 3 。その目的は、手狭で防御性に劣る躑躅ヶ崎館に代わる、近代的で堅固な統治拠点を築き、旧武田領における徳川の支配を盤石にすることであった 1 。
しかし、この家康による初期の築城は、限定的なものであったと考えられている。工事は途中で中断され、本格的な城郭として完成するには至らなかった 14 。家康の関心は、より広範な領国経営や中央政庁との関係に向けられており、甲府城の建設はあくまで地域統治の一環に過ぎなかったのである。
甲府城の運命を決定的に変えたのは、天正18年(1590年)の小田原征伐であった。北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、家康に対し、旧領の東海五カ国から関東への「国替え」を命じた 6 。これは家康の功績に報いるという名目であったが、その実態は、家康を伝統的な本拠地から引き離し、豊臣政権の監視下に置こうとする高度な政治戦略であった。
この配置転換により、甲斐国は家康の新領土である関東の西隣に位置する、極めて重要な戦略拠点へと変貌した。秀吉は、この地を豊臣政権の直轄管理下に置き、家康を監視・牽制するための最前線基地とすることを決断する。
そして、築城が中断していた甲府城の普請が、豊臣政権の国家プロジェクトとして再開される。まず、秀吉の甥である羽柴秀勝が新たな城主として甲府に入封 6 。秀勝の在城は1年未満であったが、秀吉が近親の有力武将を配置したこと自体が、この地の重要性を示している 17 。
その後、城主は目まぐるしく交代する。天正19年(1591年)には加藤光泰が、そして光泰が文禄の役の陣中で病没すると、文禄2年(1593年)には豊臣五奉行の一人である浅野長政・幸長親子が城主となった 8 。この加藤氏、そして特に浅野氏の時代に、甲府城の本格的な築城工事が集中的に進められた 2 。発掘調査では、豊臣家ゆかりの桐紋瓦や浅野家の家紋である違鷹羽紋瓦、さらには金箔瓦などが城の中枢部から多数出土しており、この時期に豊臣政権の威信をかけた大規模な工事が行われたことを物語っている 21 。
こうして甲府城は、当初の家康による「地域統治の拠点」という構想を遥かに超え、関東の家康に対する豊臣政権の巨大な軍事要塞として、慶長5年(1600年)頃に完成したのである 6 。その目的は、家康が不穏な動きを見せた際に即座に江戸を攻撃できる前線基地としての機能を持つことであった。甲府城の築城史は、家康が始めた城を、その家康を封じ込めるために秀吉が完成させたという、歴史の皮肉を象徴している。城の壮大な石垣と堅固な縄張は、家康の構想ではなく、秀吉の天下戦略の産物なのである。
甲府城の物理的な構造は、それが誰によって、どのような目的で築かれたかを雄弁に物語る。その縄張、石垣の技術、そして天守の存在可能性を分析すると、この城が織田信長に始まり豊臣秀吉によって完成された「織豊系城郭」の典型であり、戦国末期の最新技術が惜しみなく投入された軍事要塞であったことが明らかになる。
甲府城は、一条小山という独立丘陵の地形を巧みに利用して築かれた平山城である 6 。その縄張(城の設計)は、天守台を最高所に置く階層式の構造を基本とし、極めて実戦的かつ防御に徹した設計思想で貫かれている 23 。
城内への進入路は、意図的に狭く、何度も屈曲させられている。特に本丸へと至る内松陰門から銅門への通路などは、侵入者が直進できないよう執拗に折り曲げられ、あらゆる角度から攻撃を受けざるを得ない構造になっている 17 。これは「枡形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれる、当時の最先端の防御施設であり、居住性よりも防御力を最大限に高めようとする強い意志が感じられる 17 。
城郭は、本丸、二の丸、稲荷曲輪、鍛冶曲輪、数寄屋曲輪といった主要な曲輪(郭)で構成される内城部と、それを取り囲む武家地(内郭)、さらにその外側の町人地(外郭)から成り、それぞれが内堀、二ノ堀、三ノ堀という三重の堀によって厳重に区画されていた 23 。この壮大な総構えは、城そのものが一つの要塞都市として機能するよう設計されていたことを示している。
甲府城の最大の特徴は、城全体を覆う壮大な高石垣である。これは、土塁を主とした武田氏の城郭とは一線を画すものであり、甲府城が新時代の城であることを明確に示している 15 。
この石垣に用いられている技術は「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれるものである 3 。これは、近江国(現在の滋賀県)の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が得意とした技法で、自然石や粗割石を巧みに組み合わせて堅固な石垣を築き上げる 1 。この技術は、織田信長が安土城で本格的に採用し、豊臣秀吉の大坂城や伏見城などの主要な城郭建設で完成された、まさに織豊政権の「技術的署名」とも言えるものであった 24 。
当時、家康が領した東国ではまだ一般的でなかったこの西国系の最新技術が、甲府城で全面的に採用されているという事実は、この城の主要な工事が豊臣政権主導で行われたことの動かぬ証拠である 24 。石垣の隅角部に見られる「算木積み(さんぎづみ)」も、まだ発展途上の古態な特徴を示しており、天正末期から文禄年間(1590年代前半)の技法であることが確認できる 17 。城内で見つかる、巨石を割るために穿たれた「矢穴(やあな)」の跡や、一つの石を二つに割って隣り合わせて使った「兄弟石(きょうだいいし)」などは、石材を城内や近隣の愛宕山から調達し、その場で加工して築き上げた築城の生々しい痕跡を今に伝えている 1 。
甲府城には天守台が残されているものの、天守が実際に建てられたかについては、同時代の絵図などが存在しないため、長らく専門家の間でも議論が分かれていた 3 。天守台の平面形が歪んだ不整四角形であることも、初期の築城技術の特徴を示している 17 。
しかし、この論争に終止符を打ったのが、天守台下から発見された金箔押しの鯱瓦(しゃちがわら)の破片であった 21 。復元された鯱の大きさは推定1.32メートルにも及び、これほど巨大な鯱は、五重六階建てクラスの巨大な天守の屋根を飾っていたとしか考えられない 30 。
この発見により、甲府城には天守が存在したことがほぼ確実となった。天守台の規模(11間×8間)や当時の城郭の格式から推測すると、甲府城の天守は、大坂城や広島城に匹敵する、屋根が五重、内部が六階建ての「望楼型(ぼうろうがた)」の超巨大天守であった可能性が高い 30 。金箔瓦で飾られた巨大天守の建設は、豊臣政権下でも秀吉自身や五大老など、ごく一部の特権階級にしか許されていなかった。この事実は、秀吉が甲府城をいかに関東の家康に対する最重要拠点と位置づけていたかを何よりも強く物語っている。
表1:甲府城の主要な構造的特徴と歴史的意義
構造要素 |
技術的特徴 |
歴史的・政治的意義 |
石垣 (Ishigaki) |
穴太積み(野面積み) 25 。古態な算木積み 17 。矢穴や兄弟石の存在 25 。 |
豊臣政権による西国系の最新技術の導入。家康の東国にはまだ普及していなかった技術であり、豊臣主導の築城であることの強力な証拠。 |
縄張 (Nawabari) |
独立丘陵を利用した平山城 23 。屈曲を多用した枡形虎口など、極めて実戦的で防御重視の設計 17 。 |
単なる統治拠点ではなく、関東の徳川家康を強く意識した最前線の軍事要塞としての性格を示す。居住性よりも防御機能が優先されている。 |
天守台と天守 (Tenshudai/Tenshu) |
不整形な平面を持つ天守台 30 。金箔押しの巨大な鯱瓦の出土 21 。 |
巨大な望楼型天守の存在を強く示唆。金箔瓦の使用は豊臣政権下で最高位の大名にのみ許された特権であり、甲府城の破格の重要性を示す。 |
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、甲府城の運命を再び一変させた。豊臣政権の対家康包囲網の要として築かれたこの城は、皮肉にもその家康の手に渡り、今度は江戸を守る西の要衝として、全く新しい役割を担うことになる。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、天下の覇権を掌握。甲府城主であった浅野氏は紀伊和歌山へ転封となり、甲斐国は再び徳川の支配下に入った。かつて家康に仕えた平岩親吉が三度城代として甲府に戻り、城は徳川の管理下に置かれた 1 。
江戸幕府が開かれると、甲府城は甲府藩の政庁となり、将軍家に極めて近い親藩大名が城主を務める重要な拠点とされた。慶長8年(1603年)、家康の九男・徳川義直が最初の城主となる 8 。その後も、二代将軍秀忠の次男・徳川忠長、三代将軍家光の三男・徳川綱重が城主を歴任した 8 。
特に徳川綱重は甲府徳川家の祖となり、その所領は甲斐・信濃などにまたがる25万石に及んだ 33 。綱重自身は江戸常駐の定府大名であり、甲府に赴くことはなかったが、その家臣団によって藩政が執り行われた 34 。そして、綱重の子・綱豊は、後に五代将軍綱吉の養子となり、六代将軍・徳川家宣として将軍職を継ぐことになる 8 。この事実は、甲府藩が将軍家を継承する資格を持つ御三家に次ぐ高い家格を有し、幕府にとって極めて重要な存在であったことを示している。
かつて江戸を脅かす存在であった甲府城は、その役割を180度転換させ、江戸と西国を結ぶ甲州街道を押さえる、江戸防衛の西の要として、徳川政権の安定に貢献する城となったのである 8 。
甲府徳川家が将軍家を継承したことにより、甲府藩は一時的に廃藩となるが、宝永2年(1705年)、五代将軍綱吉の側用人として絶大な権勢を誇った柳沢吉保が15万石で入封する 8 。
吉保の時代、甲府城と城下町は大規模な改修と整備が行われた 6 。城内には新たに花畑曲輪が造成され、楽屋曲輪や屋形曲輪には御殿が建設されるなど、城は壮麗な姿を取り戻した 23 。柳沢氏の入封に伴い、多くの家臣団が甲府に移住し、城下町は大きな賑わいを見せた。この時代は、当時の記録に「是ぞ甲府の花盛り」と記されるほどの繁栄期であった 24 。
享保9年(1724年)、吉保の子・吉里が大和郡山へ転封となると、甲斐国は再び幕府の直轄領(天領)となった 6 。これ以降、幕末に至るまで、甲府城の管理と甲斐国の統治は「甲府勤番(こうふきんばん)」と呼ばれる幕府の役職によって行われることになった 39 。
甲府勤番は、江戸から派遣された旗本・御家人から成り、甲府城の警固、年貢米の管理、甲府町方の支配などを担った 40 。しかし、江戸から離れたこの役職は次第に、勤務成績の不良な者や問題を起こした者の左遷先と見なされるようになり、「山流し(やまながし)」と揶揄される不名誉な任地となっていった 39 。
一方で、勤番に任じられた者の中には文化的な活動を行う者もおり、甲斐国の総合的な地誌である『甲斐国志』の編纂など、後世に残る重要な業績も生み出されている 40 。
甲府城の歴史における大きな転換点となったのが、享保12年(1727年)に発生した大火である。この火災は城下町を焼き尽くし、城内にも延焼。本丸御殿や銅門をはじめとする多くの主要な建造物が焼失するという甚大な被害をもたらした 6 。
しかし、幕府はこれらの焼失した建物を再建することを選ばなかった 42 。この決定は、徳川の治世が安定し、大規模な戦乱の可能性がなくなった泰平の世において、甲府城がかつてのような巨大な軍事拠点としての重要性を失い、その役割が純粋な地方行政の拠点へと変化していたことを象徴している。壮麗な御殿や堅固な門はもはや不要と判断され、城は次第にその輝きを失っていったのである。
江戸幕府の終焉とともに、甲府城は新たな時代の荒波に飲み込まれる。近代化の名の下にその姿を大きく変え、一時は忘れ去られた存在となりながらも、やがてその歴史的価値が見直され、現代にその姿を蘇らせることになる。
慶応4年(1868年)、板垣退助率いる新政府軍が甲府に進駐すると、甲府城は戦火を交えることなく無血開城された 8 。明治政府が成立すると、城は兵部省の管轄下に置かれた。そして明治6年(1873年)に発布された廃城令により、甲府城はその城郭としての歴史に幕を下ろした 8 。
廃城後の城跡は、近代国家建設のために次々と解体・転用されていった。内堀や二ノ堀、三ノ堀の多くは埋め立てられ市街地化し、城跡の中心部を分断するように国鉄中央本線の線路が敷設された 8 。さらに、楽屋曲輪跡には山梨県庁舎が、その他の曲輪跡にも学校などが建設され、かつての広大な城郭の面影は急速に失われていった 8 。城は文字通り、新しい日本の礎となるために切り刻まれたのである。
城郭としての機能を失った甲府城であったが、明治37年(1904年)、残された内城部分が「舞鶴公園」として市民に開放され、憩いの場として新たな歩みを始めた 8 。
しかし、その後も城跡の受難は続いた。大正11年(1922年)、明治天皇からの御料林下賜に感謝して本丸に巨大な「謝恩碑」が建設されたが、その際、資材搬入路を確保するために本丸や稲荷曲輪の貴重な石垣の一部が破壊されてしまった 6 。
城跡の歴史的価値が本格的に見直されるようになるのは、戦後の高度経済成長期を経てからであった。昭和43年(1968年)に山梨県の史跡に指定されると、保存への機運が高まり、平成2年(1990年)からは舞鶴城公園整備事業が開始された 8 。
この事業に基づき、詳細な発掘調査と学術的考証が行われ、往時の姿を復元する試みが進められた。その成果として、平成16年(2004年)には「稲荷櫓(いなりやぐら)」が、平成19年(2007年)には城の北の玄関口であった「山手御門(やまてごもん)」が、伝統的な工法を用いて忠実に復元された 5 。
そして平成31年(2019年)、甲府城跡はその歴史的・学術的価値が国家的に認められ、ついに国の史跡に指定された 16 。近代化の過程で多くのものを失いながらも、市民と研究者の努力によってその価値を取り戻した甲府城は、今、歴史を学び、未来へと語り継ぐための貴重な文化遺産として、再び甲府の地に確固たる存在感を示している。
甲府城の歴史を深く掘り下げると、それが単一の意図によって造られた単純な城ではないことが明らかになる。それは、戦国という一つの時代が激しく終焉を迎え、徳川の泰平という新たな時代が不確実に生まれ出る、まさにその境界線上に築かれた、複雑で多層的な要塞である。
その石垣は、武田氏滅亡後の混沌から甲斐国を勝ち取った徳川家康の野心、その家康を封じ込めようとした天下人・豊臣秀吉の壮大な戦略、そして戦国末期の最新技術を結集した石工たちの技を物語る。秀吉が家康を討つための「矛」として構想した城は、歴史の巡り合わせによって、家康の子孫が自らの揺るぎない権威を示すための「盾」として継承された。
徳川の世では、将軍家一門の威光を示す象徴となり、柳沢吉保の下で華やかな文化の中心地となり、やがては幕府の官僚機構が管理する静かな地方拠点へと姿を変えていった。その役割の変遷は、軍事力が全てであった時代から、行政と秩序が支配する時代への移行そのものを映し出している。
近代化の波に翻弄され、その多くを失いながらも、史跡として再生を遂げた現代の甲府城は、我々に静かに語りかける。それは、歴史とは常に勝者の視点だけで語られるものではなく、敗者や、時代の転換点に生きた人々の意図が複雑に絡み合って形成されるという真実である。甲府城は、この深遠な歴史の皮肉を体現する、日本史における比類なき記念碑なのである。