上野国箕輪城は、長野業正が武田信玄の侵攻を幾度も退けた難攻不落の堅城。長野氏滅亡後、武田・北条・井伊氏と支配者が変わり、近世城郭へと改修された。井伊直政が高崎城へ移転後廃城となるも、現在は国史跡として整備され、歴史を伝えている。
戦国時代の上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)にその威容を誇った箕輪城は、単なる一地方豪族の居城にとどまらない、関東の覇権を巡る戦略的要衝であった。甲斐の武田、越後の上杉、相模の北条という、当代を代表する三大勢力がしのぎを削る最前線に位置し、その地理的条件が箕輪城を巡る永きにわたる攻防の歴史を必然のものとした 1 。
榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上に築かれたこの城は、東西約500メートル、南北約1,100メートル、総面積約36ヘクタールにも及ぶ広大な平山城である 2 。西を榛名白川、南を椿名沼(つばきなぬま)と呼ばれる湿地帯に守られ、自然の地形を巧みに利用した堅固な防御網は、まさに「天然の要塞」と呼ぶにふさわしい 1 。
箕輪城の歴史的意義は、特定の城主の武勇や名声のみに帰せられるものではない。その本質は、城が占める「場所」自体が持つ、不変の地政学的価値に根差している。豪族・長野氏が武田信玄の猛攻を幾度となく退けた抵抗の拠点としてその名を馳せた後も、城の重要性は些かも揺らぐことはなかった。武田氏、織田信長の家臣・滝川一益、そして北条氏、徳川家康の重臣・井伊直政と、関東の覇権を握った勢力は例外なくこの城を最重要拠点と位置づけ、有力な家臣を配置したのである 5 。城主の顔ぶれは目まぐるしく変われども、城の戦略的価値は一貫して高く評価され続けた。この事実は、箕輪城の物語が単なる一地方豪族の盛衰史ではなく、戦国時代の関東の覇権を巡る大名たちの戦略が交錯する「舞台」そのものの歴史であったことを雄弁に物語っている。本報告書は、この視座に基づき、箕輪城の多角的な価値を詳細に解き明かすものである。
箕輪城の歴史は、西上野の地に深く根を張った国衆・長野氏の栄光と悲劇の物語と不可分である。長野氏の時代、城はその防御能力を最大限に高め、戦国最強と謳われた武田軍団を相手に、難攻不落の名を不動のものとした。
年代(西暦) |
主な出来事 |
典拠 |
永正9年(1512年) |
長野業尚により箕輪城が築城されたとされる(異説あり)。 |
6 |
大永6年(1526年) |
長野憲業(信業)による築城説も存在する。 |
9 |
天文15年(1546年) |
河越夜戦。長野業正も参陣し、長男・吉業が負傷。 |
2 |
弘治3年(1557年) |
武田信玄による第一次西上野侵攻。瓶尻の戦いで長野軍は敗れるも、箕輪城籠城戦で武田軍を撃退。 |
11 |
永禄2年(1559年) |
若田原の戦い。長野業正の奇襲により武田軍を退ける。 |
11 |
永禄4年(1561年) |
長野業正が病没(享年63または71)。家督を三男・業盛が継ぐ。 |
2 |
永禄6年(1563年) |
武田軍の攻撃により城下の長純寺が焼失。支城の鷹留城が落城。 |
11 |
永禄9年(1566年) |
武田信玄による総攻撃。9月下旬、箕輪城は落城し、城主・長野業盛は自刃。長野氏が滅亡。 |
11 |
天正3年(1575年) |
城代・内藤昌豊が長篠の戦いで討死。 |
15 |
天正10年(1582年) |
武田氏滅亡。織田家臣・滝川一益が入城。同年、本能寺の変後の神流川の戦いで北条氏に敗れ、北条氏邦が城主となる。 |
16 |
天正18年(1590年) |
豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡。徳川家康の家臣・井伊直政が12万石で入城。 |
7 |
慶長2年(1597年) |
井伊直政が高崎城の築城を開始。 |
9 |
慶長3年(1598年) |
井伊直政が高崎城へ移転。箕輪城は廃城となる。 |
6 |
昭和62年(1987年) |
国の史跡に指定される。 |
19 |
平成17年(2005年) |
日本百名城(16番)に選定される。 |
17 |
平成28年(2016年) |
郭馬出西虎口門の復元が完成。 |
21 |
箕輪城が歴史の表舞台に登場するのは16世紀初頭のことであるが、その正確な築城年代と築城主については複数の説が存在する。一説には永正9年(1512年)、長野氏の当主であった長野業尚(なりひさ)によって築かれたとされ 1 、また別の一説ではその子である長野憲業(のりなり、または信業)が父の跡を継ぎ、大永6年(1526年)に築城したとも伝えられている 9 。
これらの説の並立は、単なる記録の混乱と見るべきではない。むしろ、長野氏が勢力を拡大していく過程で、段階的に拠点を開発・移転していった歴史的過程を反映している可能性が考えられる。当初、長野氏は箕輪城の西方に位置する鷹留城を本拠としていたが、関東管領山内上杉氏の有力武将として西上野に勢力を伸張させる中で、より大規模で戦略的な拠点が必要となった 2 。父・業尚の代に最初の砦が築かれ、子・憲業の代で本格的な城郭へと拡張されたというように、数世代にわたる努力の末に、榛名白川流域の防御に適した河岸段丘上に、後の難攻不落の城の基礎が築かれたのであろう 9 。この立地選定そのものが、長野氏の先見の明を示すものであった。
箕輪城の名を天下に轟かせたのは、長野信業(憲業)の子、長野業正(なりまさ)の時代である。平安時代の歌人・在原業平の子孫を称したとされる業正は 13 、「上州の黄斑(虎)」あるいは「上州の大鷹」と畏怖され、甲斐の武田信玄をして「業正がいる限り、上州に手を出すことはできぬ」と嘆かせたほどの稀代の猛将であった 2 。
業正の真価は、その武勇のみならず、卓越した外交戦略にもあった。主家であった山内上杉氏が北条氏康に敗れ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って没落した後も、業正は上野の地に留まり独立勢力として北条氏への徹底抗戦を貫いた 2 。その力の源泉となったのが、巧みな婚姻政策によって形成された西上野の国衆同盟「箕輪衆」である。業正は自らの12人ともいわれる娘たちを、小幡氏、和田氏、安中氏といった周辺の有力国衆に嫁がせ、強固な血縁ネットワークを構築した 13 。これにより、箕輪城を中核とし、50余りの支城が連携する広域防衛網が形成され、これが武田軍の侵攻を阻む巨大な防波堤となったのである 27 。
業正の軍略は、信玄率いる武田軍を相手に遺憾なく発揮された。弘治3年(1557年)の瓶尻(みかじり)の戦いでは野戦で敗北を喫したものの、自ら殿(しんがり)を務めて味方を箕輪城へ退かせ、籠城戦に持ち込んで武田軍を撃退 11 。永禄2年(1559年)の若田原の戦いでは、巧みな奇襲によって武田軍を翻弄し、撤退に追い込んでいる 11 。
業正を支えたのは、こうした同盟網だけではなかった。「長野十六槍」と称される精鋭の家臣団や、下田正勝らを筆頭とする四家老など、有能な人材が彼の周囲に集っていた 1 。『長野信濃守在原業政家臣録』という着到帳(軍勢の編成表)には、旗奉行、鎗奉行、鉄炮奉行といった役職ごとに家臣の名が記されており、統制の取れた軍事組織が構築されていたことが窺える 28 。
しかし、永禄4年(1561年)、上州の巨星は病に倒れる 2 。死を悟った業正は、嫡男の業盛を枕元に呼び、壮絶な遺言を遺したと伝えられる。「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用である。ただ、敵の首を一つでも多く墓前に供えよ。決して敵に降伏してはならない。運が尽きたならば、潔く城を枕に討ち死にせよ。それこそが私への最大の孝養である」 2 。この言葉は、業正の武将としての矜持と、長野家の未来を案じる親としての情が凝縮された、壮絶な辞世の句であった。
長野業正の死は、西上野の勢力図を大きく塗り替える転換点となった。その死はしばらく秘匿されたものの、やがて信玄の知るところとなり、これまで業正の存在によって阻まれてきた西上野への本格侵攻が開始される 1 。信玄は、業正という求心力を失った「箕輪衆」に対し、巧みな調略を仕掛けた。永禄4年(1561年)11月には、かつて箕輪衆の一角を担っていた小幡氏が武田方に従属し、堅固であった同盟網は内側から崩れ始めた 10 。
信玄の戦略は、決して力押し一辺倒ではなかった。彼は箕輪城を直接攻撃する前に、その周辺に張り巡らされた支城網を一つずつ、確実に切り崩していく周到な戦術をとった 11 。永禄6年(1563年)には、箕輪城の重要な支城であった鷹留城を攻略し、城主の長野業通を討ち取る 11 。さらに、箕輪城と鷹留城の連携を断ち切るため、両城の中間に位置する白岩に本陣を置くなど、その軍略は極めて緻密であった 30 。こうして箕輪城は徐々に孤立無援の状態へと追い込まれていった。
そして永禄9年(1566年)9月、武田信玄は2万の大軍を率いて、箕輪城への総攻撃を開始した 2 。この戦いは、若き武田勝頼の初陣でもあったと伝えられる 31 。対する箕輪城の兵力はわずか1,500。父の遺志を継いだ城主・長野業盛は、14歳(あるいは17歳)という若さであったが、勇猛果敢に抗戦した 29 。しかし、圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、二日二晩にわたる激しい攻防の末、城兵は200名余りにまで減少した 1 。
頼みとしていた上杉謙信からの援軍も間に合わず、もはやこれまでと悟った業盛は、父・業正の遺言通り、降伏を拒絶。城兵を率いて最後の突撃を敢行した後、本丸の北に位置する御前曲輪の持仏堂にて、父の位牌を拝み、一族郎党と共に自刃して果てた 2 。享年23(または27)であったと伝えられる 2 。
「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」 2 。
この辞世の句とともに、西上野に栄華を誇った箕輪長野氏は滅亡した。しかし、落城に際して一つの伝説が生まれる。業盛の一子・亀寿丸が忠臣に守られて城を脱出し、南方の和田山にある極楽院に匿われたというものである 33 。また、業盛の亡骸は、これを哀れんだ僧によって城外に運び出され、井出の地に手厚く葬られたとされ、現在もその地には「伝・長野業盛の墓」が残されている 14 。
長野氏の滅亡は、箕輪城の歴史の終わりを意味しなかった。むしろ、その卓越した戦略的価値ゆえに、城は関東の覇権を争う戦国大名たちの手に次々と渡り、その支配者が変わるたびに新たな役割を担い、姿を変貌させていくことになる。
支配勢力 |
主要な城主/城代 |
在城期間(推定) |
石高/地位 |
主要な出来事・改修 |
典拠 |
長野氏 |
長野業正、長野業盛 |
~1566年 |
西上野の国衆盟主 |
巨大な空堀と土塁を主体とする難攻不落の城郭を完成させる。 |
2 |
武田氏 |
内藤昌豊(昌秀)、内藤昌月 |
1566年~1582年 |
西上野郡代 |
甲州流築城術による改修(丸馬出の設置など)。関東経略の拠点となる。 |
2 |
織田氏 |
滝川一益 |
1582年 |
上野一国及び信濃二郡 |
武田氏滅亡後、短期間支配するが、本能寺の変により撤退。 |
16 |
北条氏 |
北条氏邦 |
1582年~1590年 |
鉢形城主を兼務 |
対豊臣を意識した大改修。石垣技術の導入(三の丸石垣など)。 |
6 |
徳川氏 |
井伊直政 |
1590年~1598年 |
12万石 |
近世城郭への大改修(大型櫓門、石垣の本格導入)。城下町の整備。その後、高崎城へ移転し廃城。 |
4 |
箕輪城を攻め落とした武田信玄は、その重要性を深く認識し、自軍の関東経略における中核拠点として再整備した。城代として送り込まれたのは、武田四天王の一人に数えられる名将・内藤昌豊(昌秀)であった 2 。昌豊は西上野七郡を統括する郡代にも任じられ、箕輪城は武田氏による上野支配の政治・軍事の中心地となった 2 。
この時期、城には武田氏の築城思想、すなわち「甲州流築城術」が導入されたと考えられる。信玄は城の改修を真田幸隆らに命じたとされ 16 、現在も城跡の北側には甲州流の特徴である「丸馬出」の遺構が確認できる 2 。これは、防御機能をより戦術的に高めるための改修であった。
しかし、昌豊の統治は軍事一辺倒ではなかった。彼は荒廃した田畑の耕作を奨励し、地域の神社仏閣の修復を行うなど、民政の安定にも心を配った記録が残る 36 。また、平時の政務を執るために、近隣の保渡田(ほどた)に新たな城(保渡田城)を築き、軍事要塞としての箕輪城と機能を分担させていた可能性も指摘されている 15 。天正3年(1575年)、昌豊は長篠の戦いで壮絶な討死を遂げるが、その後も箕輪城は武田氏の関東支配の要として機能し続けた。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の前に武田氏が滅亡すると、箕輪城の運命は再び大きく動く。上野一国を与えられた織田信長の重臣・滝川一益が新たな城主として入城する 16 。しかし、その支配は長くは続かなかった。同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、関東の力関係は一気に流動化する。この機を逃さず北条氏が上野に侵攻し、神流川の戦いで滝川一益を破った結果、箕輪城は北条氏の手に落ちた 17 。
北条氏の支配下で城主となったのは、当主・氏政の弟であり、武蔵鉢形城主でもあった北条氏邦である 6 。氏邦は、天下統一を進める豊臣秀吉との対決を視野に入れ、関東一円の城郭網を強化する一大プロジェクトに着手しており、箕輪城もその一環として大規模な改修が施された 16 。現在、三の丸に残る石垣の構築技術には鉢形城との共通点が見られることから、この石垣は北条時代に築かれたものと考えられている 35 。土の城であった箕輪城に、石垣という新たな技術が本格的に導入され始めた時期であった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡し、関東には徳川家康が入部する。家康は、関東西北方面の鎮護という極めて重要な役割を、徳川四天王の筆頭格である井伊直政に託し、箕輪城を与えた 9 。この時、直政に与えられた石高は12万石であり、これは当時の徳川家臣団の中で最大級の所領であった 4 。この事実からも、家康が箕輪城という場所をいかに重視していたかが窺える。
城主となった直政は、来るべき時代を見据え、箕輪城の抜本的な大改修に着手した。これまで土塁が主体であった城郭に、高さ4メートルを超える本格的な石垣を導入し 17 、虎口(城門)には石畳を敷き、堅固な櫓門を建設するなど、城の近代化を強力に推し進めた 9 。現在我々が見ることのできる箕輪城跡の縄張や遺構の多くは、この井伊直政時代に完成した、城の最終形態を反映していると考えられている 9 。
しかし、慶長3年(1598年)、直政は突如として、この大改修を施したばかりの箕輪城を放棄し、南東へ約10キロメートル離れた和田城の跡地に、新たに高崎城を築いて本拠を移すという驚くべき決断を下す。これに伴い、戦国の世を駆け抜けた名城・箕輪城は、その歴史的役割を終え、廃城となった 6 。
この一見不可解な「改修直後の廃城」という行動は、戦国から江戸へと時代が大きく転換する様を象徴する、極めて合理的な戦略的判断であった。箕輪城は、山がちな地形に築かれた、あくまで軍事防御を主眼とする山城であった。これに対し、直政が新たな本拠地として選んだ高崎は、中山道と三国街道が交差する交通の要衝であり、広大な平野部に位置していた 18 。これは、来るべき泰平の世において、領国経営の中心は軍事拠点ではなく、物流と商業を司る政治・経済の中心地であるべきだという、直政の明確なビジョンを示すものであった。家臣団や商人、職人、さらには寺社に至るまで、箕輪から高崎への大規模な「都市移転」が敢行されたことは 5 、この決断が単なる居城の変更ではなく、近世的な城下町、すなわち領国の「首府」を建設するという壮大な都市計画であったことを物語っている。箕輪城の廃城は、その軍事的役割の終焉を意味する、時代の必然だったのである。
廃城から400年以上の時を経て、箕輪城はその良好な遺構の残存状態から、城郭考古学の観点において極めて高い価値を持つ史跡として注目されている。発掘調査と研究によって、長野氏が築き、武田、北条、そして井伊氏が改修を重ねた難攻不落の城の構造が、科学的に解明されつつある。
箕輪城の縄張(城の設計図)は、本丸を中心に、その周囲を二の丸、三の丸が段階的に取り囲む「梯郭式(ていかくしき)」を基本構造としている 41 。しかし、この城の最大の特徴は、城域の中央を貫く巨大な「大堀切」によって、城全体が南北二つのブロックに完全に分断されている点にある 43 。
この構造は「一城別郭(いちじょうべっかく)」と呼ばれ、二つの独立した城が一つに連結したような形態をとる 44 。南北の連絡は中央に架けられた一本の土橋のみに限定されており、万が一どちらかのブロックが敵の手に落ちたとしても、土橋を破壊することで、もう一方のブロックで独立して抗戦を継続することが可能であった 43 。この徹底した防御思想が、箕輪城を容易に攻め落とせない堅城たらしめていた。
城内には、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪のほか、城主の私的な空間であったとされる御前曲輪、兵を伏せておくための郭馬出(くるわうまだし)、職人たちが居住した鍛冶曲輪など、機能の異なる多数の曲輪が有機的に配置されており、城全体が一つの複雑な防御システムとして機能していたことがわかる 23 。
箕輪城の防御力の核心は、石垣ではなく、圧倒的な規模を誇る「土」の構造、すなわち空堀と土塁にある。特に城内を縦横に巡る空堀は、全国的に見ても屈指の規模を誇る 42 。本丸南側の堀は幅が30メートルから40メートル、深さ約10メートルに達し 9 、城を二分する大堀切に至っては、最大幅30メートル、深さ10メートル以上、発掘調査の結果からは往時は16.5メートル(ビル5階建てに相当)以上の深さがあった可能性も指摘されている 2 。
これほど巨大な堀を掘削した際に出た膨大な量の土砂がどこへ運ばれたのかは、城郭研究における一つの謎とされている。城内には、掘削量に見合うほどの大規模な土塁が少なく、一部は曲輪の造成に利用されたと考えられるものの、その多くは行方が分かっていない 47 。
一方で、井伊直政時代には、土の城に石垣の技術が融合された。三の丸や鍛冶曲輪に見られる野面積みの石垣 17 や、大堀切の土橋の基部を補強する石垣 42 など、要所に限定的に石垣を用いることで、土塁構造の弱点を補い、防御力をさらに高める工夫がなされている。これは、中世的な「土の城」から近世的な「石の城」へと移行する、城郭技術の過渡期の姿を如実に示す貴重な遺構である。
城への出入り口である虎口(こぐち)は、防御の最重要拠点であり、箕輪城には敵の侵入を阻むための巧妙な仕掛けが随所に施されていた。その代表例が「郭馬出」である 4 。これは城門の外側に設けられた小規模な曲輪で、進入してきた敵を真正面からではなく、側面から攻撃するための空間である 42 。また、城内から打って出る際には、兵を一時的に集結させる拠点としても機能し、攻撃と防御の両面で重要な役割を果たした 23 。
この郭馬出の西側に位置するのが、平成28年(2016年)に復元された「郭馬出西虎口門」である 21 。平成14年度の発掘調査で、門の柱を支えた8つの礎石が完全な形で発見されたという好条件に基づき、伝統的工法によって忠実に復元された 48 。
復元された門は、幅約5.7メートル、奥行き約3.5メートル、高さ約6.5メートルを誇る二階建ての壮大な櫓門である 9 。これは井伊直政時代に築かれたものと推定され、当時の関東地方では最大級の規模であったと考えられている 9 。二階部分には、眼下の敵に石を落とすための「石落とし」や、弓矢や鉄砲で攻撃するための格子窓が設けられており、極めて実戦的な構造となっている 22 。
箕輪城の縄張りは、長野氏時代に完成された土塁と空堀を主体とする中世的な防御思想を基盤としながら、武田・北条氏による戦術的な改修を経て、最終的に井伊直政によって石垣や大型櫓門といった近世的な技術が導入された。このように、異なる時代の築城技術が重層的に組み合わさった箕輪城は、まさに「城郭技術の生きた博物館」とでも言うべき、貴重な歴史遺産なのである。
慶長3年(1598年)の廃城後、箕輪城はその歴史的役割を終え、城下の人々も高崎へ移住したことで、永きにわたり静かな丘陵地として忘れ去られていた 9 。しかし、昭和の時代に入り、その歴史的・考古学的価値が再評価され、現代において新たな命を吹き込まれることになる。
廃城から約390年の時を経た昭和62年(1987年)、箕輪城跡に残された土塁や堀、石垣が、戦国時代の城郭構造を良好に保存する極めて貴重な遺構であると認められ、国の史跡に指定された 5 。これは、荒廃から保護へと舵が切られた大きな転換点であった。さらに平成17年(2005年)には、財団法人日本城郭協会によって「日本百名城」の一つに選定され、全国の歴史愛好家や観光客から広く注目を集める存在となった 19 。
国史跡指定を契機として、高崎市教育委員会による継続的かつ学術的な発掘調査が平成10年(1998年)頃から本格的に開始された 4 。この地道な調査によって、土の中に埋もれていた箕輪城の真の姿が次々と明らかになった。
特に井伊直政時代の遺構の発見は目覚ましく、郭馬出西虎口門の完全な礎石群をはじめ 48 、石畳が敷かれた通路、石組の精巧な排水溝、そして建物の痕跡を示す掘立柱の穴などが確認された 4 。また、本丸西虎口の石垣からは、墓石であった五輪塔を石材として転用している例が多数発見され、築城の際の切迫した状況や当時の人々の死生観を垣間見ることができる 50 。
出土品としては、城主や家臣たちが日常的に使用したであろう「かわらけ」(素焼きの土器)や陶磁器の破片などがあり、これらは往時の城内での生活を具体的に復元するための貴重な手がかりとなっている 23 。これらの調査成果は、今後の史跡整備や復元事業の基礎資料として活用されており、箕輪城の歴史的価値をさらに高めている。
今日の箕輪城跡は、単なる研究対象にとどまらず、地域住民の誇りとなり、歴史を未来へ継承する拠点として重要な役割を担っている。その象徴的な活動が、毎年10月の最終日曜日に本丸跡地を主会場として開催される「箕輪城まつり」である 21 。
この祭りでは、地域住民が手作りの甲冑を身にまとい、武者行列となって町内を練り歩く 53 。クライマックスは、箕輪城跡で行われる長野軍と武田軍の攻防戦を再現した模擬合戦であり、大砲の轟音と共に繰り広げられる迫力ある光景は、戦国時代の記憶を現代に蘇らせる 19 。この祭りは、地域の歴史や文化を次世代に伝えるための重要な機会となっている 55 。
また、史跡公園としての整備も着実に進められている。復元された郭馬出西虎口門や、本丸と蔵屋敷跡を結ぶ木橋 5 は、訪れる人々が往時の城の姿を体感できる貴重な施設である。広大な敷地内には複数の散策コースが設けられ、歴史探訪だけでなく、四季折々の自然を楽しむ市民の憩いの場としても親しまれている 19 。
さらに、かつての城下町の中心であった矢原地区には、大正時代の養蚕農家を改修した無料休憩所「箕郷矢原宿カフェ」が整備され、城跡と城下町を一体的に楽しむ観光拠点となっている 7 。このように、箕輪城は地域に深く根差した歴史遺産として、今なお生き続けているのである。
上野国箕輪城は、戦国時代の東国における城郭の技術的到達点を示す第一級の史料である。長野氏が完成させた巨大な堀切と土塁を駆使した中世的な防御思想は、武田・北条氏による戦術的な改修を経て、最終的には井伊直政による石垣や大型櫓門といった近世的な技術と融合した。その遺構は、日本の城郭史における重要な過渡期の姿を、極めて良好な状態で今日に伝えている。
同時に、この城の歴史は、戦国乱世の縮図そのものである。長野業正という一人の傑出した武将に率いられ、巨大勢力に伍して独立を保とうとした地方国衆の気概と抵抗。そして、業正の死後、武田、北条、徳川といった天下統一の奔流に飲み込まれ、その戦略の駒として利用されていく様は、戦国という時代の非情さとダイナミズムを我々に教えてくれる。
そして最も重要なのは、箕輪城が過去の遺物としてではなく、現代に生きる文化遺産として新たな価値を創造し続けている点である。廃城から400年以上の時を経て、学術調査によってその姿が解明され、地域住民の情熱によって祭りが催され、史跡公園として多くの人々に親しまれている。この保存と活用の取り組みそのものが、箕輪城の歴史に新たな一章を書き加えるものである。長野氏の栄光と悲劇、そして戦国大名たちの野望が刻まれたこの丘は、歴史を学び、未来へ継承することの重要性を、これからも静かに、しかし力強く語り継いでいくであろう。