結城城は、鎌倉期より結城氏の本拠。結城合戦で難攻不落を誇り、秀康入城で近世城郭へ。戊辰戦争で落城も、結城紬と共に歴史を刻む。関東武士の興亡を映す名城なり。
下総国北部、現在の茨城県結城市にその痕跡を留める結城城は、鎌倉時代から幕末に至るまで、関東の歴史において重要な役割を果たした城郭である。鬼怒川と思川に挟まれた台地の北東端に位置し、北に田川、東に広大な深田(湿地帯)を擁するその立地は、まさに天然の要害であった 1 。周囲を低湿地に囲まれたこの地形的優位性は、特に室町時代にその名を天下に轟かせた「結城合戦」において、難攻不落の堅城としての評価を決定的なものとした 3 。
結城城の歴史は、鎌倉幕府の成立と深く結びついている。その創始者とされる結城朝光は、源頼朝の乳母であった寒河尼の子であり、頼朝とは乳兄弟にも等しい関係にあった 5 。朝光は治承・寿永の乱において、養和元年(1181年)の志田義広の乱を制圧した功績により、頼朝から結城郡の地頭職に補任された 2 。これを基盤として、寿永2年(1183年)に結城城を築いたと伝えられている 2 。築城当初の城は、大規模な軍事拠点というよりも、在地領主の政庁兼居館としての性格が強かったと推察されるが、これが関東における名門・結城氏四百年の歴史の起点となったのである。
本報告書は、この結城城が日本の歴史、特に戦国時代という激動の時代において、いかなる存在であったかを多角的に解き明かすことを目的とする。その分析の軸は三つある。第一に、結城合戦に見る「軍事的拠点」としての価値。第二に、戦国期の統治に見る「領国経営の中心」としての価値。そして第三に、徳川家康の子・結城秀康の入城によって示された「近世への転換点」としての価値である。
結城城の歴史を紐解くことは、単一の城郭の変遷を追うに留まらない。それは、鎌倉幕府の有力御家人として自立した勢力を誇った関東武士団が、室町期の中央と地方の対立に翻弄され、戦国期には大勢力の狭間で生き残りを図り、最終的に徳川の中央集権体制下に組み込まれていくという、関東武士の「自立」から「従属」への不可逆的な歴史的変遷を映し出す鏡でもある。この城をめぐる攻防、統治、そして文化の物語を通じて、中世から近世へと移行する時代のダイナミズムを明らかにしていく。
表1:結城城・結城氏 関連略年表
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関連人物 |
1183年 |
寿永2年 |
結城朝光、結城城を築城。 |
結城朝光 |
1440年 |
永享12年 |
結城合戦勃発。結城氏朝、足利持氏の遺児を奉じて挙兵し、籠城。 |
結城氏朝、足利持氏 |
1441年 |
嘉吉元年 |
結城城落城。氏朝父子は討死。 |
結城氏朝 |
1447年 |
文安4年 |
結城成朝、結城氏を再興。 |
結城成朝 |
1556年 |
弘治2年 |
結城政勝、分国法「結城氏新法度」を制定。 |
結城政勝 |
1590年 |
天正18年 |
小田原征伐後、結城晴朝が徳川家康の次男・秀康を養子に迎える。 |
結城晴朝、結城秀康 |
1595年 |
文禄4年 |
結城秀康、領内の検地(文禄検地)を実施。 |
結城秀康 |
1598年 |
慶長3年 |
結城秀康、城の西側に新たな城下町を建設。 |
結城秀康 |
1601年 |
慶長6年 |
結城秀康、関ヶ原の戦功により越前へ転封。結城城は一時廃城となる。 |
結城秀康 |
1700年 |
元禄13年 |
水野勝長が入封。 |
水野勝長 |
1703年 |
元禄16年 |
水野氏により結城城が再築され、結城藩の藩庁となる。 |
水野勝長 |
1868年 |
慶応4年 |
戊辰戦争において、佐幕派が占拠した結城城が新政府軍に攻められ落城、廃城となる。 |
水野勝知 |
結城城の名を歴史に深く刻み込んだのは、室町時代に勃発した「結城合戦」である。この戦いは、城郭の防御性能を証明しただけでなく、関東における中世的な政治構造が崩壊し、戦国乱世へと突き進む転換点となった事件であった。
合戦の直接的な原因は、永享10年(1438年)に起こった「永享の乱」に遡る 8 。当時、室町幕府の6代将軍・足利義教と、関東を統治する鎌倉公方・足利持氏との間には、長年にわたる深刻な対立が存在した。この対立が武力衝突に発展し、持氏は幕府軍に敗れて自刃。鎌倉府は事実上崩壊した 8 。
この乱において持氏方についた結城氏11代当主・結城氏朝は、乱後も幕府およびその代理人として関東の実権を握った関東管領・上杉憲実への反感を募らせていた。氏朝は、持氏の遺児である春王丸と安王丸を密かに庇護し、永享12年(1440年)3月、ついに両君を奉じて結城城に籠城し、反旗を翻したのである 2 。これは単なる旧主への忠義心の発露というだけではない。上杉氏の関東支配に反発する宇都宮氏、小山氏、那須氏といった北関東の豪族を結集させ、反上杉連合を形成しようとする、極めて政治的な意図に基づいた挙兵であった 8 。
氏朝の挙兵に対し、幕府は上杉憲実、上杉清方らを中心とする追討軍を派遣。ここに、約1年にわたる壮絶な籠城戦の幕が切って落とされた 2 。幕府軍は数万ともいわれる大軍であったが、結城城の堅固な守りの前に攻めあぐねることとなる。
結城城は、近世城郭に見られるような高い石垣を持たない、典型的な中世の「土の城」であった 9 。しかし、その防御力は驚異的であった。城の周囲は広大な湿地帯に囲まれ、大軍の接近を物理的に困難にしていた 3 。さらに城内は、深さ6メートル、幅20メートル以上にも及ぶ幾重もの内堀によって「実城」「館」などの曲輪が巧みに分断されており、仮に一つの曲輪が落ちても、次の曲輪で抵抗を続けることが可能な構造となっていた 2 。幕府軍はこの堀と泥田に阻まれ、力攻めはことごとく失敗。攻防は長期戦の様相を呈した。
しかし、いかに堅城といえども、外部からの補給が断たれた籠城戦には限界があった。約1年にわたる抵抗の末、城内の兵糧は尽き、結城方の士気は低下。嘉吉元年(1441年)4月16日、ついに結城城は落城の日を迎えた 6 。
落城の結末は悲劇的であった。中心人物であった結城氏朝とその子・持朝は城中で討死を遂げた 2 。結城方が希望を託した春王丸と安王丸は捕らえられ、京へ護送される途中、美濃国垂井で斬首された 8 。
この合戦は幕府方の大勝利に終わり、上杉氏による関東支配が確立されたかに見えた。しかし、歴史の皮肉はここから始まる。合戦終結からわずか2ヶ月後、京では将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺される「嘉吉の乱」が勃発 10 。中央政権の混乱により、関東の戦後処理はうやむやとなった。これが、結城氏が奇跡的な再興を遂げる遠因となる。佐竹氏の庇護下にあった氏朝の四男・成朝が家督を継ぐことを許され、結城氏は旧領に復帰したのである 2 。
さらに重要なのは、この合戦が関東の政治情勢に与えた影響である。結城合戦から8年後、持氏のもう一人の遺児・成氏が鎌倉公方として復活 11 。しかし、成氏は父の仇である上杉氏と激しく対立し、関東管領・上杉憲忠を殺害するに至る。これをきっかけに、関東は公方方と上杉方に二分され、28年間にも及ぶ大乱「享徳の乱」に突入する 12 。結城合戦という形で旧来の権力構造が一度破壊された後、それに代わる安定した秩序が生まれなかった結果、関東は全国に先駆けて、実力のみがものをいう戦国時代へと突入していった。結城城の落城は、一個の城の陥落に留まらず、関東における室町幕府体制の崩壊の始まりを告げる号砲だったのである。
この結城合戦の様子を今に伝える貴重な史料が、合戦絵巻『結城合戦絵詞』である 8 。15世紀末頃の成立と推定されるこの絵巻は、詞書と絵によって構成され、当時の合戦の様相や武士の風俗を視覚的に伝える一級の史料である 15 。
現存する場面には、永享の乱で敗れた足利持氏が炎上する館で自刃する壮絶な場面や、結城城落城の際に、結城方が春王丸・安王丸を女装させて落ち延びさせようとする悲痛な場面が描かれている 16 。太く力強い描線で描かれた武士たちの姿は、戦いの激しさと悲壮さを雄弁に物語っている。この絵巻は、軍記物語である『永享記』などと共に、結城合戦という歴史的事件を多角的に理解する上で不可欠な存在と言える 18 。
結城合戦を経て再興を果たした結城氏であったが、その後の関東は享徳の乱を契機として、群雄が割拠する本格的な戦国時代へと突入した。結城城を中心とする結城氏は、この乱世をいかにして生き抜いたのか。そこには、武力による抵抗から、法と外交による秩序形成へと戦略を転換させる、戦国大名としてのしたたかな姿があった。
戦国時代の結城氏は、極めて困難な地政学的状況に置かれていた。西からは相模を本拠に関東の覇権を狙う後北条氏が、北からは常陸の雄・佐竹氏が、そして越後からは上杉謙信が関東に進出し、結城領はこれらの大勢力が衝突する最前線、いわゆる「境目」の地となったのである 12 。
このような状況下で家督を継いだ17代当主・結城晴朝は、巧みな外交手腕を発揮して家の存続を図った。当初は勢力を拡大する後北条氏に接近し、宇都宮氏や佐竹氏と敵対することもあったが、天正4年(1577年)頃には一転して佐竹氏、宇都宮氏と強固な同盟を結び、反北条連合の一翼を担う立場へと転換する 1 。これは、単独の武力では大国の侵攻を防ぎきれないという現実認識のもと、情勢に応じて最も有利な提携相手を選択するという、冷徹な生存戦略であった。
晴朝に先立ち、結城氏が戦国大名として確固たる基盤を築く上で重要な役割を果たしたのが、16代当主・結城政勝である 12 。彼の最大の功績は、弘治2年(1556年)に制定した分国法「結城氏新法度」(または「結城家法度」)にある 21 。
この法度は、伊達氏の『塵芥集』に次ぐ規模を持つ、戦国家法の代表例とされる 22 。全104ヵ条(後の追加条文を含む)からなるその内容は、単なる法令集に留まらない。その前文には、法度制定の目的が明確に記されている。すなわち、家臣たちが縁者や配下の者からの受けを狙って些細なことで争いを起こし、家の団結を乱していることを憂い、これを禁じるために法を定めた、というのである 23 。
実際に法度の条文には、喧嘩口論に関する厳しい罰則(いわゆる喧嘩両成敗)が繰り返し規定されている 24 。これは、後北条氏のような強大な外部の敵に対抗するためには、まず内部の結束を固め、私闘による戦力の消耗を防ぐことが死活問題であるという、政勝の強い危機感の表れであった。
さらに法度は、家臣のみならず商人や下人といった領民に関する人身規定、訴訟や裁判の手続き、市場の統制など、領国支配のあらゆる側面に及んでいる 22 。これは、領国を一元的に管理し、大名を中心とした統治秩序を確立しようとする、戦国大名としての明確な意志を示している。一方で、この法度の適用範囲が結城城を中心とする結城氏の直轄領に限られていたという事実は、当時の大名権力がまだ領域全体を完全に掌握するには至っておらず、在地領主の自立性も根強く残っていたことを示唆している 25 。
実子に恵まれなかった晴朝は、当初、同盟関係にあった宇都宮氏から朝勝を養子に迎えていた 12 。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡し、関東の政治地図は一変する。秀吉の命により、徳川家康が関東に入封すると、晴朝は重大な政治決断を下す。
それは、宇都宮氏との養子縁組を解消し、新たな関東の支配者となった家康の次男・秀康を養嫡子として迎えることであった 1 。これは、佐竹・宇都宮と結んだ反北条連合という旧来の同盟関係を清算し、天下の覇者である豊臣政権、そしてその代理人である徳川氏の庇護下に入ることで、家の存続を確実なものにしようとする戦略的転換であった。結城合戦で武力抵抗の末に敗北した経験を持つ結城氏にとって、武力ではなく、血縁という形でより強大な権力と結びつくことこそが、戦国乱世を生き抜くための最も現実的な道であった。この決断により、結城城の価値は、単なる軍事拠点から、最高の外交カードとしての価値をも併せ持つことになったのである。
結城晴朝の養子として結城氏18代当主となった結城秀康の時代は、結城城の歴史において極めて重要な過渡期であった。それは、鎌倉時代から続いた中世的な結城氏の支配が終わりを告げ、徳川の新たな支配秩序、すなわち近世(江戸時代)が始まる画期であった。秀康が結城で行った統治は、彼自身が後に大国を治めるための礎となり、結城城は徳川政権の重要な担い手を育成する戦略的な拠点という、新たな歴史的役割を担うことになった。
結城秀康の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての複雑な政治情勢を色濃く反映している。彼は徳川家康の次男として生まれたが、幼少期に豊臣秀吉との和睦の証として、その養子(実質的には人質)に出された 27 。しかしその後、秀吉に実子・秀頼が誕生すると、後継者争いを避けるため、再び養子に出されることになる。この時、男子のいなかった北関東の名門・結城晴朝が養子縁組を願い出たことで、秀康は結城家の家督と11万石の所領を継ぐこととなったのである 1 。この一連の経緯は、秀康個人の数奇な運命であると同時に、豊臣政権下における徳川家の微妙な立場と、来るべき天下取りを見据えた家康の深謀遠慮の一環であった。
結城氏の家督を継いだ秀康は、早速、領国経営の近代化に着手する。その象徴的な政策が、文禄4年(1595年)に実施された領内の総検地(文禄検地)であった 28 。この検地によって、結城領の石高は10万1千石と公式に確定された。これは、個々の武士の所領が複雑に入り組んでいた中世的な支配体制から、土地の生産力を示す石高を基準として領国全体を統一的に把握・支配する、近世的な幕藩体制への移行を意味する画期的な事業であった。
統治改革と並行して、秀康は新たな時代にふさわしい城と町の建設にも情熱を注いだ 30 。慶長3年(1598年)、彼は城の西側に大規模な城下町を新たに建設した 28 。武家屋敷や町人地が計画的に配置されたこの町割りは、それまでの城が持っていた純粋な軍事拠点としての性格に加え、領国の政治・経済の中心地としての機能を大幅に強化するものであった。この時に形成された街区は、現在の結城市北部市街地の骨格として今なおその姿を留めており、秀康の都市計画が如何に先進的であったかを物語っている。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、秀康は父・家康の命により関東に留まり、会津の上杉景勝の南下を牽制する重要な役割を担った。この時、彼は宇都宮城を拠点として徳川方の東の守りを固めた 27 。
戦後、この功績が家康に高く評価された秀康は、結城10万1千石から、越前北ノ庄68万石という破格の大領へと加増転封されることとなった 27 。これは、関ヶ原の論功行賞の中でも最大級のものであり、秀康に対する家康の信頼の厚さを示すものであった。しかし、この栄転は、結城の地にとっては一つの時代の終わりを意味した。秀康が越前へ去った後、結城領は幕府の直轄地(天領)となり、鎌倉以来の歴史を誇った結城城は破却され、一時的に廃城となったのである 2 。秀康の子孫が結城姓から本来の松平姓に復したことも、下総結城氏の歴史が事実上ここで幕を閉じたことを象徴している 12 。
結城城が、結城合戦において幕府の大軍を一年近くにわたって退けた事実は、その城郭構造がいかに優れたものであったかを物語っている。石垣を多用する近世城郭とは異なり、結城城は自然地形を最大限に活用し、土と水を巧みに組み合わせた「土の城」の到達点の一つであった。その縄張り(城の設計)を分析することは、中世城郭の築城思想と、時代の変遷に伴う城の機能変化を理解する上で、貴重な手がかりとなる。
結城城は、城郭の分類上、平地に築かれた「平城」、あるいは低い台地を利用した「平山城」にあたる 1 。その最大の防御要素は、人工的な建造物以上に、周囲の自然地形であった。城は、北を田川、東を広大な深田(湿地帯)に囲まれた台地の先端に位置しており、これらの河川や湿地が天然の外堀として機能し、大軍の容易な接近を阻んでいた 2 。台地が牛の臥せた姿に見えることから「臥牛城」という別名も伝えられており 2 、築城者がこの特異な地形を深く理解し、防御計画の根幹に据えていたことがうかがえる。
城内は、複数の曲輪(郭)と呼ばれる区画によって構成されていた。主な曲輪として、「実城(みじろ)」「館(たち)」「中城(なかじろ)」「西館(にしだて)」「東館(ひがしだて)」などが確認されている 2 。これらの曲輪はそれぞれが独立した防御単位であり、深い堀によって隔てられ、土橋や木橋で結ばれていた 9 。
時代の変遷と共に、城の中心となる区画が移動した点も興味深い。中世の結城氏時代には、台地の最も北東に位置する「実城」が主郭(本丸)であったと考えられている 4 。しかし、江戸時代に水野氏によって城が再興された際には、その南に位置する「館」が本丸として整備された 4 。この中心郭の移動は、城に求められる機能が、純粋な軍事拠点から、藩の政庁という行政拠点へと変化したことを物理的な構造として示している。戦うための城から、治めるための城へという、日本の城郭史における大きなパラダイムシフトが、この結城城の縄張り変遷の中にも見て取れるのである。
結城城の防御の要は、石垣ではなく、大規模な土木工事によって造成された堀と土塁であった 2 。特に、各曲輪を分断する内堀の規模は圧巻であり、その深さは6~7メートル、幅は20~25メートルにも達したと記録されている 4 。この深く広大な堀が、結城合戦において攻城兵器の設置や兵の突入を困難にし、幕府軍を苦しめた最大の要因であったことは想像に難くない。
現在、城域の多くは宅地化されているが、城跡歴史公園の西側や南側には、往時の姿を彷彿とさせる空堀や土塁の遺構が良好な状態で残されている 2 。これらの遺構は、石垣技術が普及する以前の中世武士たちが、地形を読み解き、土と水という基本的な要素を駆使して如何に堅固な防御施設を築き上げたかを雄弁に物語っている。
結城秀康の越前転封と一時的な廃城を経て、結城城は新たな時代を迎える。江戸時代中期、水野氏によって再興された城は、結城藩の藩庁として地域の政治・経済の中心となった。しかし、その歴史は、日本の封建体制が終焉を迎える幕末の動乱の中で、劇的な最期を迎えることとなる。結城城の始まりが室町幕府への抵抗であったとすれば、その終わりは徳川幕府の崩壊と運命を共にするものであり、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。
秀康が去った後、幕府直轄地となっていた結城の地に、元禄13年(1700年)、水野勝長が能登より1万8千石で入封した 2 。そしてその3年後、元禄16年(1703年)に、水野氏は幕府から結城城の再築を許可される 2 。これにより、約100年ぶりに結城城は蘇り、結城の町は再び城下町としての活気を取り戻した 33 。再興された城は、かつての中世城郭の縄張りを一部踏襲しつつも、藩の政庁としての機能が重視された近世的な城郭へと姿を変えた。
以後、明治維新に至るまで、水野氏10代が結城藩主としてこの地を治め、結城城はその拠点として機能した 2 。結城は江戸と北関東を結ぶ鬼怒川水運の要衝に位置しており、城下町は結城紬や地域の農産物が集まる集散地として大いに栄えた 33 。城の存在は、政治的な安定だけでなく、地域の経済的中心性を保証する役割も果たしていたのである。
泰平の世を謳歌した結城城であったが、幕末の動乱はその運命を暗転させる。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、結城藩は藩論の統一に苦慮した。藩主・水野勝知と隠居した前藩主・勝進が、それぞれ佐幕派と勤王(新政府)派に分かれて激しく対立し、互いに結城城を奪い合うという内紛状態に陥ったのである 34 。
最終的に、水戸藩の諸生党などを含む佐幕派勢力が結城城を占拠し、新政府軍に抵抗する拠点とした。これに対し、新政府軍は結城城への総攻撃を開始。激しい戦闘の末、城の建物の多くは砲火によって焼失し、結城城は落城した 2 。この戦いをもって、鎌倉時代から約680年にわたって続いた結城城の歴史は、完全にその幕を閉じた。
この結末は、結城合戦と奇妙な対比をなしている。結城合戦では、関東の旧来の権威(鎌倉府)を奉じ、中央集権化を進める新興勢力(室町幕府)に抵抗して敗れた。一方、戊辰戦争では、旧来の中央権力(徳川幕府)を支持する勢力が拠点とし、新たな中央集権国家を樹立しようとする勢力(明治新政府)によって滅ぼされた。歴史の大きな節目において、結城城は二度にわたり「旧秩序」の側に立って戦い、そして敗れるという、皮肉な運命を辿ったのである。
戊辰戦争の砲火によってその物理的な歴史を終えた結城城は、現在、静かにその過去を物語る史跡として、また、その名を冠した文化的遺産の源流として、新たな価値を紡ぎ続けている。城郭そのものは失われたが、その存在が育んだ歴史と文化は、形を変えて現代に生きている。結城城の真の価値は、過去の遺物としてだけでなく、現代に続く文化と産業の「源流」として捉え直すことで、より深く理解することができる。
かつての城の中心部であった「館」の跡地は、現在「城跡歴史公園」として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっている 6 。園内やその周辺には、市指定史跡として保存されている空堀や土塁の遺構が点在し、結城合戦の激闘を偲ばせる往時の城の規模と堅固さを今に伝えている 2 。
また、公園内には江戸時代に城主であった水野氏の初代・水野勝成を祀る聰敏神社が鎮座し 3 、俳人・与謝蕪村が結城滞在中に詠んだ「ゆく春や むらさきさむる 筑波山」の句碑が立つなど 6 、中世から近世、そして近代に至るまでの多様な歴史が重層的に存在している。これらの遺構や記念碑は、訪れる人々に結城城が歩んだ長い歴史の物語を語りかけている。
結城城が後世に残した最も永続的な遺産は、城の石垣や建物ではなく、その名を冠した絹織物「結城紬」であろう。結城紬の起源は古く、奈良時代に朝廷へ献上されていた「絁(あしぎぬ)」にまで遡るとされる 36 。この地の特産品であった織物が、鎌倉時代にこの地を治めた領主・結城氏の名を取って「結城紬」と呼ばれるようになったことで、その名は全国に知られることとなった 38 。
その丈夫さから鎌倉武士に実用的な衣料として好まれ、室町時代には幕府への献上品となるなど、結城紬のブランド価値は結城氏の治世と共に高まっていった 38 。江戸時代に入ると、歴代領主の奨励もあってさらに技術的な改良が進められ、日本を代表する高級織物としての地位を確立した 40 。城は滅び、武士の時代は終わったが、領主の名を冠した工芸品は、その品質とブランド価値を保ち続け、ユネスコ無形文化遺産にも登録されるなど、現代に至るまで地域の経済と文化を支える大黒柱となっている 40 。これは、権力の象徴であった「城」が、人々の生活と技の中に溶け込み、形を変えて生き続けている稀有な例と言える。
本報告書で詳述してきたように、結城城は単なる一つの城郭ではない。それは、結城合戦における難攻不落の「軍事拠点」であり、結城氏新法度を生んだ「統治の中心」であり、結城秀康を迎えたことで徳川政権と結びついた「政治的資産」であり、そして結城紬を育んだ「文化の揺り籠」でもあった。三名槍の一つに数えられる名槍「御手杵」が、結城晴朝によって作らせ、養子・秀康へと受け継がれたという逸話も、この城が武威と文化の交差点であったことを象徴している 6 。
結城城の歴史は、関東武士の誇りと栄光、そして時代の大きなうねりの中で翻弄されながらも、巧みに、そして力強く生き抜こうとした人々の営みの証左である。その遺構と、それが育んだ文化的遺産は、過去を物語るだけでなく、未来へと継承されるべき地域のアイデンティティそのものなのである。