花倉城
今川氏の命運を分けた花倉城は、南北朝期に築かれ、今川義元が家督を継ぐ「花倉の乱」の舞台となった。武田氏改修説も浮上し、戦国史の転換点となった要害。
花倉城:今川氏興亡の岐路、戦国史を動かした要害の詳細報告
序章:葉梨の地に佇む、今川氏興亡の証人
静岡県藤枝市、葉梨川が潤す山間に静かにその痕跡を留める花倉城跡。一見すれば、数多ある中世の山城の一つに過ぎないかもしれません。しかし、その unassuming な姿とは裏腹に、この城は戦国史の大きな転換点を見届けた「歴史の証人」として、極めて重要な意味を担っています 1 。
花倉城は、単なる過去の遺構ではありません。後に「東海一の弓取り」と称され、戦国大名として今川氏の最盛期を築き上げる今川義元の運命を決定づけ、その後の東国情勢にまで巨大な波紋を広げた一大内訌「花倉の乱」の終焉の地なのです 5 。本報告書では、この城の構造的特徴、築城から廃城に至るまでの歴史的変遷、そしてそれが内包する戦国時代の権力力学を、最新の研究成果も踏まえながら多角的に解き明かすことを目的とします。
第一章:花倉城の黎明期 ― 南北朝の動乱と今川氏の駿河進出
築城の時代背景と地理的優位性
花倉城の歴史は、室町幕府の成立と深く関わる14世紀中頃、南北朝の動乱期にまで遡ります。今川氏の駿河国における歴史は、初代当主・今川範国が足利尊氏に従って戦功を挙げ、その恩賞として駿河国葉梨荘を与えられたことに始まります 2 。この葉梨荘こそが、今川氏が駿河に築いた最初の拠点であり、その後の二百数十年にわたる支配の礎となったのです。
築城は、二代当主・今川範氏の時代、文和元年/正平7年(1352年)頃と伝えられています 8 。当時、駿河国内には依然として南朝方の勢力が活動しており、範氏はこれらの敵対勢力に対抗するための軍事拠点として、葉梨荘を見下ろす要害の地、城山に「詰め城」としての花倉城を築きました 2 。同時に、山麓には日常生活を営むための居館を構えたとされ、これにより花倉城は、有事の際に山頂の城に立て籠もる「根小屋式山城」としての性格を持っていたと考えられます 11 。
今川氏の戦略的拠点選択
ここで注目すべきは、なぜ今川氏が最初の拠点として、後の中心地となる駿府ではなく、西方の「山西」と呼ばれる志太平野奥地の葉梨荘を選んだのかという点です。これは、今川氏の周到な領国経営戦略の現れと見ることができます。駿河守護として入国した当初、今川氏の支配基盤は決して盤石ではありませんでした 5 。「山西」地域は、鎌倉時代以来の伝統を持つ在地武士である岡部氏や朝比奈氏といった有力国人たちの本拠地でした 14 。今川氏は、これらの在地勢力と早期に主従関係を結び、彼らの強固な支持基盤を足がかりにすることで、駿河国内での支配力を段階的に、そして確実に確立していく戦略をとったのです 14 。したがって、花倉城の築城は、単に軍事的な要害を確保するという目的以上に、在地勢力との連携を深め、自らの支配の正統性と実効性を高めるための、極めて高度な政治的布石であったと解釈できるのです。
第二章:城郭の構造(縄張り)― 山嶺を刻む防御の思想
立地と縄張りの基本構造
花倉城は、標高約297メートル、麓からの比高(高低差)約250メートルの急峻な山頂に築かれた典型的な山城です 1 。城跡の散策には約1時間半を要することからも、その規模が窺えます 11 。
城の縄張り、すなわち設計思想は、南北に細長く伸びる痩せた尾根の地形を最大限に活用した「連郭式」と呼ばれる配置を基本としています 9 。これは、山の尾根筋に沿って本曲輪(本丸に相当)と二の曲輪(二の丸)などの主要区画を直線的に並べ、それぞれの間を堀切(ほりきり)と呼ばれる人工的な溝で分断し、敵の侵攻を段階的に食い止めることを意図した構造です。
各遺構の徹底解説
現在も現地で確認できる遺構は、中世山城の防御思想を雄弁に物語っています。
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登城路と土橋(どばし)
東側の大手口から城内へ足を踏み入れると、訪問者はすぐに尾根を削り込んで造られた細い土の橋、「土橋」に迎えられます。これは自然地形ではなく、防御のために意図的に造成されたものであり、敵兵を一人ずつしか通れないようにすることで、城の入口を守る最初の関門として機能しました 10。 -
曲輪(くるわ)群
曲輪とは、城内を区画する平坦地のことで、それぞれが独立した防御単位となります。
- 本曲輪(一の郭) :城の中枢部であり、南北に約30メートルの規模を持ちます。北端の一段高くなった場所は、周囲を監視するための物見台であったと推定されています 5 。
- 二の曲輪(二の郭) :本曲輪の南側に、深い堀切を挟んで位置します。長さは約20メートルほどで、東側には防御のための土塁の痕跡がわずかに残っています 5 。
- 帯曲輪(おびくるわ)・腰曲輪(こしくるわ) :本曲輪や二の曲輪の側面、急な斜面を削って造成された細長い平坦地です。主郭の防御を側面から補強すると同時に、兵員が迅速に移動するための通路としての役割も担っていました 8 。
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堀切(ほりきり)と竪堀(たてぼり)
花倉城跡の最大の見所は、尾根筋を断ち切るように設けられた複数の堀切です 8。特に本曲輪と二の曲輪を隔てる堀切は規模が大きく、尾根伝いに侵攻してくる敵の足を完全に止めるための決定的な防御線でした。さらに、この堀切の側面から谷底に向かって垂直に掘り下げられた「竪堀」は、山の斜面を横移動しようとする敵兵の動きを阻害し、谷底へ滑り落とすための巧妙な罠として機能しました 11。
武田氏による改修の可能性と城の最終形態
花倉城の遺構は、一般的に「武田氏や徳川氏による改修を受けていない、今川氏独自の古風な城郭遺構」として高く評価されています 9 。これは、花倉の乱の後に廃城になったという通説に基づいています。しかし、近年の城郭研究では、一部の構造に後の武田氏による改修の痕跡が見られるのではないか、という興味深い指摘がなされています 8 。
その根拠とされるのが、本曲輪と二の曲輪の間にある堀切の構造です。この堀切は、単に尾根を分断するだけでなく、「細い尾根筋を両側の谷に向けて竪堀状に大きく切り開いて」おり、非常に大規模な土木工事の跡が見られます 9 。このようなダイナミックで徹底した防御施設の造成は、戦国時代後期のより進んだ築城技術、特に武田信玄が得意とした手法との共通性が指摘されています 19 。
このことから、花倉城は乱の後すぐに完全に放棄されたのではなく、永禄11年(1568年)の武田信玄による駿河侵攻の際に、その戦略的価値を再評価され、武田軍によって一時的に再利用、そして部分的に改修された可能性が考えられます。もしこの説が正しければ、現存する花倉城の遺構は、今川氏の基本設計の上に、武田氏による戦術的な改修が施された「複合構造」ということになり、城の歴史に新たな一層を加えることになります。
第三章:歴史の転換点「花倉の乱」― 悲劇の舞台となった要害
勃発の背景
天文5年(1536年)3月17日、駿河今川館に衝撃が走ります。今川家8代当主・今川氏輝と、その弟・彦五郎が同日に相次いで急死するという異常事態が発生したのです 5 。死因は公式には不明とされていますが、その不自然さから毒殺説も根強く囁かれています 23 。
当主とその後継者を同時に失った今川家では、家督を巡る争いが避けられない状況となりました。後継者候補は、仏門に入っていた二人の兄弟、三男の玄広恵探(げんこうえたん)と、五男の栴岳承芳(せんがくしょうほう)、後の今川義元でした 5 。
両陣営の対立構造
この家督争いは、単なる兄弟間の個人的な対立に留まらず、今川家の家臣団を二分する深刻な内乱へと発展しました。
- 栴岳承芳(義元)派 :母が今川氏親の正室・寿桂尼であり、血筋の正統性において絶対的な優位にありました。さらに、若き承芳の後見人として、当代随一の軍師と名高い太原雪斎が補佐役についていました 24 。これにより、岡部氏や朝比奈氏といった今川家譜代の重臣の多くが承芳を支持し、家中における主流派を形成しました 14 。
- 玄広恵探派 :承芳よりも年長ではあったものの、母が今川家重臣・福島氏の娘であり、氏親の側室であったため、正統性の面で劣っていました 5 。しかし、母方の一族である福島氏が、自らの血を引く恵探を当主とすべく全面的に擁立し、武力による家督奪取へと踏み切ったのです 28 。
この複雑な対立関係は、以下の表に整理できます。
表1:花倉の乱 主要対立構図と関連勢力
陣営 |
中心人物 |
主要支持勢力 |
主要拠点 |
外部勢力との関係 |
栴岳承芳(義元)派 |
栴岳承芳、寿桂尼、太原雪斎 |
岡部親綱、朝比奈氏など譜代家臣団の多数 |
駿府今川館、朝日山城 |
相模・北条氏綱に支援を要請し、援軍を得る 7 |
玄広恵探派 |
玄広恵探(良真)、福島越前守 |
福島正成ら福島氏一族、朝比奈千太郎など一部の国人 |
久能城、方ノ上城、花倉城 |
(明確な外部支援の記録はない) |
戦いの経過
乱の火蓋は、天文5年(1536年)5月25日に切られました。
- 緒戦 :玄広恵探方は、まず駿府の今川館を急襲しますが、雪斎らの周到な準備の前に失敗に終わります。その後、駿河湾に面した要害・久能城に拠点を移し、抵抗を続けました 28 。
- 方ノ上城の攻防 :恵探方は、花倉城の支城として焼津の方ノ上城にも兵を入れ、防備を固めました。しかし、6月10日、承芳方の猛将・岡部親綱率いる軍勢の猛攻を受け、方ノ上城は一日で落城してしまいます 5 。
- 花倉城での最終決戦 :方ノ上城を失った恵探と福島勢は、最後の望みを託し、今川氏発祥の地ともいえる山城・花倉城に立て籠もりました。しかし、承芳方には日増しに援軍が駆けつけ大軍勢となる一方、恵探方の兵は減るばかりで、士気は低下の一途を辿りました 1 。
- 落城と恵探の最期 :衆寡敵せずと悟った恵探は、城に火を放ち、僅かな家臣と共に城を脱出。西方の瀬戸谷方面へと落ち延びます。しかし、追撃は厳しく、瀬戸谷の普門寺(あるいは普門庵)にて自刃を遂げました。享年20歳とも伝わります 5 。これにより、約2週間にわたった花倉の乱は、承芳(義元)の完全勝利をもって終結したのです。
花倉の乱が東国情勢の転換点となった因果連鎖
花倉の乱は、単なる今川家の内政問題では終わりませんでした。むしろ、この乱の解決過程で生まれた新たな政治力学が、その後の東国情勢全体を大きく揺るがす地政学的な転換点となったのです。その因果の連鎖は、以下のプロセスで進行しました。
- 北条氏の介入と義元の警戒 :義元は、乱を迅速に終結させるため、当時同盟関係にあった相模の北条氏綱に援軍を要請しました 7 。北条氏はこの要請に応じ大軍を派遣しますが、この「過剰ともいえる軍事援助」が、勝利した義元にとって、今川家に対する北条氏の影響力増大という新たな脅威として映った可能性が指摘されています 32 。
- 外交方針の転換 ― 甲駿同盟の締結 :強大化する北条氏を牽制する必要性を感じた義元は、太原雪斎の助言のもと、外交方針を180度転換します。それまで敵対関係にあった甲斐の武田信虎と和睦し、信虎の娘・定恵院を正室に迎えることで、新たな軍事同盟「甲駿同盟」を締結したのです 33 。
- 北条氏の反発と「河東一乱」の勃発 :この甲駿同盟の成立は、長年の同盟相手であった今川氏による裏切り行為として、北条氏を激怒させました。北条氏は直ちに今川との同盟を破棄し、報復として駿河東部の富士川以東の地域(河東地域)へ軍事侵攻を開始します。これが、その後9年間にわたって続く大規模紛争「河東一乱」の始まりでした 23 。
結論として、藤枝の山中にある花倉城での戦いの帰結が、若き当主・今川義元の外交政策を決定づけ、それがドミノ倒しのように周辺大国を巻き込む新たな紛争の火種となったのです。花倉城は、戦国時代中期の東国情勢を大きく動かす、まさにその起点となった城郭であったといえるでしょう。
第四章:乱後の花倉城とゆかりの地
廃城と歴史からの退場
花倉の乱を制し、今川家9代当主となった義元は、本拠地を完全に駿府へと移し、強力な支配体制を築き上げていきました。これにより、今川氏発祥の地であった葉梨地区と花倉城の軍事的・政治的重要性は急速に低下しました 8 。一族相食む悲劇の舞台となった不吉な城として、あるいは単純に戦略的価値を失った城として、花倉城は乱の終結後、間もなくして廃城となったと考えられています 5 。
ゆかりの寺社と史跡
花倉城そのものは歴史の表舞台から姿を消しましたが、その麓の葉梨地区には、今なお乱の記憶と今川氏の歴史を伝える貴重な寺社や史跡が点在しています。
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偏照寺(へんしょうじ)
悲劇の主人公、玄広恵探が住持を務めていた寺院です。元は「遍照光寺」と称し、乱の名称である「花蔵(倉)の乱」は、恵探がこの寺にいたことから「花蔵殿」と呼ばれていたことに由来します 7。境内には今川氏二代・範氏の供養塔も残るなど、今川氏草創期からの深い関わりを持つ古刹です 31。 -
長慶寺(ちょうけいじ)
今川氏三代・泰範が開基した一族の菩提寺です。境内には、苔むした泰範の五輪塔と、今川義元の天下取りを支えた名軍師・太原雪斎の墓である無縫塔(卵型の墓石)が静かに並んでおり、この地が今川氏にとって特別な場所であったことを物語っています 11。 -
岡部文書(おかべもんじょ)
花倉の乱の経過を伝える上で欠かせない一級史料です。これは、乱における岡部親綱の目覚ましい戦功を賞して、今川義元が自らの筆で記し与えた感状(感謝状)です 14。方ノ上城や花倉城の攻撃でいかに親綱が活躍したかが記されており、乱の具体的な戦闘経過を知る上で極めて貴重な歴史資料となっています。現在は藤枝市郷土博物館に所蔵・展示されています 36。
終章:史跡としての現在と未来への展望
文化財としての価値と現状
花倉城跡は、その歴史的重要性が評価され、昭和61年(1986年)3月28日に藤枝市の指定史跡となりました 1 。今川氏初期の城郭構造を良好に留めている点、そして戦国史の大きな転換点となった歴史的事件の舞台である点において、学術的にも文化的にも高い価値を有しています 3 。
現在、城跡は山林となっており、往時の建物は一切残っていませんが、曲輪、土塁、堀切といった遺構は明瞭に確認することができ、訪れる者に戦国の息吹を伝えています 1 。山頂まではハイキングコースとして整備されており、歴史探訪と自然散策を兼ねて楽しむことができます 43 。ただし、登城口に至るまでの農道は非常に狭く、自動車での訪問には細心の注意が必要です 8 。また、専用の駐車場はなく、登城口付近に数台分の駐車スペースがあるのみです 1 。訪問の際には、害獣対策用の爆音機が作動していることがあるため、驚かないよう心構えが必要です 11 。
未来への展望
花倉城跡は、まだ本格的な学術的発掘調査が行われていません 5 。今後の調査によっては、これまで知られていなかった新たな遺構や遺物が発見され、城の正確な構造や歴史、特に武田氏による改修の有無といった謎が解明される可能性があります。
藤枝市郷土博物館には、専門家の監修のもとで制作された精巧な花倉城の城郭模型(ジオラマ)が展示されており、木々が失われた往時の城の姿を立体的に理解する上で大きな助けとなります 42 。
花倉城は、単なる過去の遺跡ではありません。それは今川氏の、そして戦国時代の日本の歩みを物語り、地域の人々が郷土への愛着と誇りを育むための「生きた歴史遺産」です。今後、適切な保存活動と共に、その歴史的価値をより多くの人々に伝えていくための活用が期待されます 3 。
引用文献
- 花倉城跡 - ふじえだ東海道まちあるき https://fujieda.tokaido-guide.jp/location/106
- 葉梨エリア今川氏と花蔵の乱 - ふじえだ東海道まちあるき https://fujieda.tokaido-guide.jp/column/29
- 質問通告内容 - 藤枝市議会 議会配信映像一覧 http://fujieda.gijiroku.com/g07_ShitsumonView.asp?SrchID=248&kword1=&kword2=
- 葉梨エリア - ふじえだ東海道まちあるき https://fujieda.tokaido-guide.jp/shukuba/8
- 花倉城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/hanagura.j/hanagura.j.html
- 葉梨城(花倉城) https://www.ebisukosyo.co.jp/docs/pdf/%E8%A9%A6%E3%81%97%E8%AA%AD%E3%81%BF/11%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%9F%8E%E9%83%AD%E3%81%A8%E5%90%88%E6%88%A6.pdf
- 花倉の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%80%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
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- 花倉城 http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/sizuoka/suruga/hanakura.html
- 花倉城の見所と写真・100人城主の評価(静岡県藤枝市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1760/
- 駿河 花倉城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/suruga/hanagura-jyo/
- 葉梨地区について調べてみました! https://hanashinosato.jp/2023/07/29/post-209/
- 文武に秀でた今川一族 ~伝統を守る山西の地~ - 焼津市 https://www.city.yaizu.lg.jp/documents/18514/shizuokaisan_story.pdf
- 5分で読める!お城を楽しむための【縄張と基本パターン3つ】を解説 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/oshiro-lesson/castle-basic-nawabari/
- 花倉城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1529
- 花倉城 朝日山城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/sizuoka/hujiedasi01.htm
- 花倉城跡【市指定史跡】 - Life&Tripふじえだ https://fujieda-life-trip.com/show/hanakura-castle/
- 主に西 - 郭:当主の住まい兼政庁 (信虎が造営し、 晴信(信玄) ・勝頼が使用) - 甲府市 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/documents/takeda-ura.pdf
- 武田氏館の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/takedashiyakata/
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- 5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/133510
- [敗者の城] 玄広恵探軍の詰城と自刃の地 - みちゆかし https://shizuoka-onpaku.jp/fujieda-michiyukashi/program/202419086242
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- 武田・北条・今川の甲相駿三国同盟…各国それぞれの事情や思惑は? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/783
- 「河東の乱(1537-45年)」今川と北条が激突も、武田信玄の仲裁で ... https://sengoku-his.com/451
- 文武に秀でた今川一族~伝統を守る山西の地~(令和6年1月認定) - 藤枝市 https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse/11/shizuokaisantop/24500.html
- 長慶寺 https://shizuoka.veritas.jp/imatabi/16tyojyuji.html
- 藤枝市の寺院紹介~長慶寺~|今川氏菩提寺である由緒あるお寺 - 牧之原石材 https://www.maki-seki.jp/blog/archives/14274/
- 長慶寺 https://www.chokeiji.org/origins
- 岡部親綱︑花蔵の乱における謎の大手柄 - 藤枝市 https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/material/files/group/125/shishi25.pdf
- 藤枝市郷土博物館特別展 - 静岡古城研究会 https://skk-noroshi.jp/file_box/PDFketugou%20okabeshi%20asahinashi.pdf
- 博物館特別展「駿河の戦国大名今川氏展」チラシ (PDFファイル - 藤枝市 https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/material/files/group/125/170603imagawa.pdf
- 花倉城跡/ハローナビしずおか 静岡県観光情報 https://hellonavi.jp/detail/page/detail/1778
- 【駿河の戦国大名 今川氏展】が開催中です。 | 牧之原石材ブログ https://www.maki-seki.jp/blog/archives/13581/