茂別館
蝦夷地における安東氏の拠点、茂別館は、コシャマインの戦いを耐え抜いた堅固な館。北方交易の要衝として栄え、和人とアイヌの交流と衝突の歴史を物語る。
蝦夷地における安東氏の興亡と茂別館 ― 戦国前夜、北の境界に築かれた館の全貌
序章:茂別館の歴史的座標
本報告書は、北海道北斗市に現存する国指定史跡「茂別館跡」について、日本の戦国時代という広範な歴史的文脈の中に位置づけ、その多面的な価値を徹底的に解明することを目的とします。茂別館は、単に北海道の中世館跡の一つとして語られるべき存在ではありません。それは、本州における戦国動乱の波が北方のフロンティアへと及び、和人社会の内部抗争(安東氏対南部氏)、和人と先住民アイヌとの間の激しい衝突と共存、そして新たな地域支配者(蠣崎氏、後の松前氏)の台頭という、幾重にも重なる歴史の力学が凝縮された「境界領域の縮図」とも言うべき重要な遺跡です。
本報告書の核心的論点は、茂別館の約1世紀半にわたる歴史を丹念に追うことを通じて、15世紀から16世紀にかけての蝦夷地南部が、決して中央から隔絶された政治的空白地帯ではなく、複数の勢力が経済的・軍事的利権をめぐって激しく競合する、極めて動的な歴史空間であったことを論証することにあります。茂別館の築城、繁栄、そして廃城に至る過程は、この北の境界領域で繰り広げられた壮大な歴史物語そのものを映し出す鏡なのです。
第一章:動乱の津軽と安東氏の蝦夷渡航 ― 茂別館築城の前提
1-1. 北方交易の覇者・安東氏と十三湊の繁栄
茂別館の歴史を理解するためには、まずその築城主である安東氏が、いかなる勢力であったかを知る必要があります。室町時代、安東氏は津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠地とし、日本海北部の海上交易を掌握する強大な力を有していました 。彼らは蝦夷地(現在の北海道)を古くから支配下に置き、「蝦夷管領」という職責を世襲していたとされます 。さらに「日之本将軍」といった独自の称号を用いるなど、北方世界において幕府や他の守護大名とは一線を画す特異な権威を確立していました 。
その権力基盤は、土地からの収益に留まらず、蝦夷地からもたらされる毛皮や鷲の羽、昆布といった豊かな産物を基盤とした北方交易の利権に大きく依存していました 。十三湊遺跡からは、当時の繁栄を物語る中国産や日本各地の陶磁器が大量に出土しており、その交易ネットワークが大陸から日本海沿岸の広範囲に及んでいたことを示しています 。蝦夷地は、安東氏にとって単なる支配地ではなく、その経済力を支える生命線そのものであったのです。
1-2. 南部氏の台頭と安東惣領家(下国家)の没落
15世紀中頃、安東氏の繁栄に大きな転機が訪れます。陸奥国で勢力を拡大していた南部氏との対立が激化したのです。嘉吉3年(1443年)、安東氏の惣領であった安東太郎盛季は、南部義政との戦いに敗れ、本拠地である十三湊を攻略されてしまいます 。
盛季とその子・康季は、伝統的な支配地であった蝦夷地へと逃れ、再起を図ります。しかし、津軽奪還の夢は叶わず、康季の子である義季もまた、享徳2年(1453年)に大浦郷(現在の青森県弘前市周辺)で南部勢に攻められ自害に追い込まれました 。これにより、十三湊を拠点とした安東惣領家(下国家)の直系は事実上、断絶することとなります。この一連の事件は、津軽地方における勢力図を根底から覆すものであり、北方交易の支配権の行方が大きく揺らぐ時代の到来を告げるものでした。
1-3. 敗走の果ての築城 ― 茂別館の軍事的起源
蝦夷地へ渡った安東盛季が、南部氏の追撃から身を守り、津軽への反攻の機会をうかがうために築いた拠点こそが、茂別館の始まりでした 。この築城の背景には、他の道南の館とは一線を画す、極めて重要な特徴が内包されています。
当時、渡島半島に点在していた他の和人の館(道南十二館)の多くは、移住者たちがアイヌとの交易や漁業といった経済活動を主目的として築いた拠点でした 。しかし、茂別館は異なります。本州で最大級の軍事力を誇った南部氏との本格的な合戦を経験し、敗走を余儀なくされた大名自身によって、明確な軍事目的のもとに築かれたのです。したがって、その設計思想は当初から、組織的な軍事力を持つ敵との籠城戦を想定した、堅固な軍事要塞としての性格を色濃く帯びていたと考えられます。この「軍事拠点」としての出自こそが、後に蝦夷全土を揺るがす大蜂起の中で、茂別館がその真価を発揮する決定的な要因となるのです。
1-4. 複雑な家督継承 ― 安東政季の登場
惣領家直系の義季が自害した後、安東氏の家督継承は複雑な様相を呈します。新たな当主となったのは、安東政季(初名は師季)でした。彼の出自については、史料によって盛季の「甥の子」 、あるいは盛季の弟である潮潟道貞の「孫」 などと記述に揺れが見られます。この情報の錯綜自体が、惣領家断絶後の安東氏内部の権力構造の流動性と、南部氏の介入による政治状況の複雑さを物語っていると言えるでしょう。
政季は当初、南部氏に捕らえられ、その庇護下で下北半島の田名部を領していましたが、享徳3年(1454年)、後に松前氏の祖となる武田信広らを伴い、南部氏のもとを離反して蝦夷地へと渡ります 。これは、南部氏の傀儡となることを拒み、安東氏の伝統的な権益地である蝦夷地で、自らの手で一族の再興を果たすという強い意志の表れでした。こうして茂別館は、安東氏再興の新たな拠点として、政季の手に引き継がれることになったのです。
第二章:コシャマインの戦いと茂別館の戦略的価値
2-1. 和人とアイヌ ― 交易の利益と軋轢の構造
15世紀の蝦夷地南部では、和人とアイヌは必ずしも敵対関係にあったわけではありませんでした。アイヌは狩猟で得た毛皮や海産物を和人にもたらし、対価として鉄製品や漆器、米といった本州の産物を得るという、相互依存的な交易関係が成り立っていました 。しかし、その関係は常に平穏ではありませんでした。和人側は経済的な優位性を背景に、不公平な交換レートを強いたり、横暴な振る舞いを見せたりすることが少なくありませんでした 。このような搾取的な関係は、アイヌ社会に深刻な不満と不信感を蓄積させていきました。経済的な結びつきの裏側で、大規模な武力衝突の火種が静かに燻っていたのです。
2-2. 蜂起の勃発と道南十二館の崩壊
長禄元年(1457年)、その火種はついに燃え上がります。現在の函館市志苔にあった鍛冶屋とアイヌの若者の間で起きた、小刀の価格をめぐるいさこざいが殺人事件に発展したことをきっかけに、東部のアイヌの首長コシャマインを指導者として、アイヌが一斉に蜂起したのです 。
「コシャマインの戦い」と呼ばれるこの大蜂起の勢いは凄まじく、和人側の拠点は瞬く間に蹂躙されました。志苔館や箱館(宇須岸館)をはじめ、当時、渡島半島に築かれていた道南十二館のうち、10もの館が次々と攻略されたと記録されています 。落城した館から命からがら逃げ延びた和人たちは、残されたわずかな拠点へと避難しました 。この事件は、単なる局地的な騒乱ではなく、和人が蝦夷地に築き上げてきた支配体制そのものが、根底から覆されかねない未曾有の危機でした。
2-3. 孤塁を守る ― なぜ茂別館は生き残ったのか
和人社会が壊滅的な打撃を受ける中、わずかに二つの館だけがアイヌの猛攻に耐え抜きました。その一つが、下国家政が守る茂別館であり、もう一つが蠣崎季繁と武田信広が守る上ノ国花沢館でした 。後世に編纂された松前藩の史書『新羅之記録』はこの事実を伝えていますが、なぜこの二館だけが生き残れたのか、その具体的な理由までは詳述していません 。しかし、茂別館の成り立ちや構造を分析することで、その要因を多角的に推察することが可能です。
茂別館が落城を免れたのは、決して偶然の産物ではありませんでした。第一に、前章で述べた通り、茂別館は交易拠点としてではなく、当初から対南部氏という強大な軍事勢力との戦闘を想定した本格的な軍事要塞として設計されていました。その土塁や空堀の規模、大館・小館から成る複郭構造は、他の交易を主目的とした館とは比較にならないほどの防御能力を有していたはずです 。
第二に、その地理的条件も防御に大きく貢献しました。茂別館は茂辺地川左岸の丘陵先端に位置し、川や沢、そして海に三方を囲まれた天然の要害でした 。このような地形は、大軍が一度に攻め寄せることを困難にし、少数での防衛を有利にします。
第三に、周辺の館が次々と陥落したことにより、そこからの敗残兵や避難民が茂別館に集結した可能性が考えられます 。これにより、茂別館の防衛兵力は一時的に増強され、士気も高まったことでしょう。そして最後に、館主である下国家政の存在です。彼は安東氏一門の有力者であり、混乱の極みにあった戦況の中でも冷静に統率を維持し、的確な防衛指揮を執ったと推察されます 。
これら、①堅固な軍事的設計、②防御に有利な地理的条件、③兵力の集中、そして④優れた指揮官の存在という複数の要因が複合的に作用した結果、茂別館は孤塁を守り抜くことができたのです。
2-4. 乱の終結と権力構造の変化
コシャマインの軍勢に追い詰められた和人でしたが、花沢館の客将であった武田信広の活躍により、戦局は転換します。信広は敗残兵を巧みにまとめ上げて反撃に転じ、七重浜での決戦において、コシャマイン父子を見事に討ち取りました 。指導者を失ったアイヌ軍は統制を失い、乱は鎮圧へと向かいます。
このコシャマインの戦いは、蝦夷地の歴史における極めて重要な転換点となりました。アイヌの蜂起を鎮圧した一方で、それは和人社会内部の権力交代を劇的に促す契機となったのです。この戦いで絶大な武功を挙げた武田信広は、蠣崎家の家督を継承し、蝦夷地における和人社会の新たな実力者として急速に台頭します 。これまで蝦夷地の宗主として君臨してきた安東氏の権威は相対的に低下し、武田信広を祖とする蠣崎氏(後の松前氏)が、その後の蝦夷地史の主役となっていく道筋が、この戦いによって確固として築かれたのでした。
第三章:発掘調査が語る茂別館の実像
3-1. 縄張りと防御施設 ― 自然地形を活かした要害
昭和57年(1982年)に国の史跡に指定された茂別館跡は、現在もその遺構を良好に留めており、発掘調査や現地調査からその具体的な姿をうかがい知ることができます 。
館の縄張り(設計)は、茂辺地川と自然の沢を天然の堀として利用し、敷地を南の「大館」と北の「小館」に区画した複郭構造を特徴とします 。これは、仮に一方が突破されても、もう一方で抵抗を続けることを可能にする、防御を重視した設計です。大館が政務や館主の居住空間といった中心的な役割を担い、小館が詰城や兵站基地といった副次的な機能を果たしていたと推測されます。
大館、小館ともに、北、東、南の三方を大規模な土塁と空堀で囲んでおり、館の内部にも区画を分けるための仕切り状の土塁が認められます 。その規模は、道南に現存する同時代の館跡の中でも最大級であり、茂別館が卓越した防御能力を有していたことを物語っています 。特に入口側には二重の土塁を設けるなど、敵の侵攻を想定した極めて実践的な防御思想が構造の随所に見て取れます 。発掘調査では、これらの防御施設に加え、館内に建てられていた複数の建物の礎石跡なども確認されており、約120人の守備隊が駐留していた可能性も指摘されています 。
3-2. 館の生活と文化 ― 出土遺物が示す北方交易の拠点
茂別館が単なる軍事要塞ではなかったことは、その関連遺跡から出土した遺物が雄弁に物語っています。茂別館に隣接し、一体的に機能していたと考えられる矢不来館跡からは、15世紀後半から16世紀初頭にかけての、当時の館主たちの生活や文化水準をうかがわせる貴重な遺物が多数発見されています 。
これらの出土品を分析すると、茂別館が持つ複合的な機能が浮かび上がってきます。まず、中国(明)で生産された天目椀や青磁、白磁、染付といった高級陶磁器の存在です。これらは当時の日本では一部の支配者層しか所有できなかった奢侈品であり 、蝦夷地の辺境ともいえるこの地から出土することは、館主が相当な富と権力を有し、大陸との交易に深く関与していたことを示唆します。
次に、瀬戸(現在の愛知県)や越前(現在の福井県)など、日本各地の窯で生産された多様な国産陶磁器の存在です。これらは、茂別館が日本海を介して本州の広範な地域と結ばれる交易ネットワークの重要なハブ拠点であったことを裏付けています 。
さらに注目すべきは、66点にも及ぶ銭貨の出土です 。これは、この地域での交易が単なる物々交換の段階に留まらず、貨幣を用いた高度な経済活動が行われていたことを示す動かぬ証拠です。
これらの物証は、茂別館が「軍事防衛機能」と「広域交易拠点機能」という二つの重要な役割を併せ持っていたことを明確に示しています。その強大な軍事力は、安東氏が北方交易から得られる莫大な利権を維持し、防衛するための実力装置として機能していたのです。
表1:茂別館跡および関連遺跡からの主要出土遺物一覧
遺物の種類 |
年代 |
主な産地 |
考古学的・歴史的意義 |
中国産陶磁器 |
15世紀後半~16世紀初頭 |
中国(明) |
館主層の高い社会的地位と富を示す。大陸との直接的・間接的な交易ルートの存在を証明し、茂別館が国際的な交易ネットワークの一部であったことを示唆する。 |
(天目椀、青磁、白磁、染付など) |
|
|
|
国産陶磁器 |
15世紀後半~16世紀初頭 |
瀬戸、越前など |
日本海を介した本州各地との活発な物流・交易の存在を証明する。多様な産地の製品は、交易ルートの多角化を示唆する。 |
銭貨 |
15世紀後半~16世紀初頭 |
中国など |
物々交換だけでなく、貨幣経済が浸透していたことを示す。交易が高度かつ組織的に行われていた証左。 |
その他 |
15世紀後半~16世紀初頭 |
- |
鉄製品、漆器、ガラス玉などは、当時の館における武備や生活文化水準の高さを示す。 |
第四章:主家の変遷と権力構造の転換
4-1. 謎多き館主・下国家政
コシャマインの戦いにおいて茂別館を守り抜いたとされる下国家政は、安東氏の歴史の中でも重要な人物ですが、その人物像には未だ不明な点が多く残されています。彼は「茂別八郎式部大輔家政」と称し 、安東政季の弟と伝えられています 。しかし、その関係性を直接的に証明する同時代の一次史料は乏しく、その出自や経歴の詳細は謎に包まれています 。
史料によれば、安東政季が蝦夷地を離れて本州の秋田檜山に拠点を移す際、蝦夷地の防衛体制を再編したとされます。その時、弟とされる家政に茂別館を、同族の下国定季に松前大館を、そして後に台頭する蠣崎季繁に上ノ国花沢館の守護を任せました 。この人事配置は、安東氏が依然として蝦夷地全体の宗主権を保持しようとしていたことを示す重要な証拠です。その中で家政は、東部の要衝である茂別館を任される重責を担っていたのです。
4-2. 蠣崎氏の台頭と安東氏の権威の低下
コシャマインの戦いを経て、蝦夷地の権力構造は大きく変動します。乱を鎮圧した武田信広は、蠣崎氏の名跡を継ぎ、新たに勝山館を築くなど着実に勢力を拡大し、蝦夷地における実質的な支配権を確立していきました 。これにより、これまで蝦夷地の支配者であった安東氏の権威は次第に名目的なものとなり、アイヌとの交渉や交易の主導権は、在地領主である蠣崎氏の手に移っていきます 。
15世紀後半から16世紀にかけて、蝦夷地のパワーバランスは「安東氏の宗主権」から「蠣崎氏の実効支配」へと明確に移行していきました。茂別館を拠点とする下国氏は、この大きな権力シフトの渦中に置かれ、かつてのような自立した勢力としての影響力を徐々に低下させていったと考えられます。
4-3. 永禄年間のアイヌ蜂起と茂別館の落城
下国氏の支配力の低下を象徴する決定的な出来事が、永禄5年(1562年)に起こります。この年、再びアイヌが蜂起し、家政の孫とされる下国師季が守る茂別館が攻め落とされてしまったのです 。師季は命からがら松前へと逃れ、出家して清観と号したと伝えられています。
コシャマインの戦いから約1世紀、和人とアイヌの間の緊張関係は解消されることなく続いていました 。この落城は、茂別館がかつてのような難攻不落の軍事拠点としての機能を維持できなくなっていたこと、そして下国氏の支配力がもはや渡島半島東部に及ばなくなっていたことを示しています。この事件は、下国氏が自立した領主としての地位を完全に失い、台頭著しい蠣崎氏の保護下に入らざるを得なくなる、歴史的な転換点であったと位置づけられます。
第五章:松前藩体制への編入と下国氏のその後
5-1. 茂別館の廃城と歴史的役割の終焉
永禄5年(1562年)の落城後、茂別館が再建されたという明確な記録は見当たりません。下国師季の子・重季、そしてその後の慶季の代になると、下国氏は完全に蠣崎氏(後の松前氏)に臣従し、生活の拠点を茂別から松前の城下へと移しました。これに伴い、茂別館はその歴史的役割を終え、廃城となったと考えられます 。具体的な廃城年代は定かではありませんが、下国氏が松前氏の家臣団に完全に組み込まれていく16世紀の後半から末期にかけてのことと推測されます。
茂別館の廃城は、単に一つの城がその役目を終えたというだけではありません。それは、かつて蝦夷地を支配した安東氏の権威が名実ともに終焉を迎え、蠣崎氏による一元的支配体制、すなわち後の松前藩へと続く新たな時代の幕開けを象徴する出来事だったのです。
5-2. 主家から家臣へ ― 松前藩家老・下国氏の誕生
蠣崎氏に臣従した下国氏でしたが、その一族が歴史から消え去ることはありませんでした。蠣崎氏(松前氏)は、下国氏がかつての蝦夷地の支配者である安東惣領家の流れを汲む由緒ある家柄であることを重んじ、藩内で特別な処遇を与えました。下国氏は、藩の最高職である家老を輩出することができる「寄合席」という高い家格を与えられ、松前藩の重臣として幕末まで存続することになります 。
この処遇の背景には、新興勢力である松前氏の巧みな統治戦略が見て取れます。もともと蠣崎氏は安東氏の配下の一豪族に過ぎませんでした 。自らの支配の正統性を内外に示す上で、旧主筋にあたる下国氏を滅ぼすのではなく、家臣団の筆頭格として厚遇することは極めて有効な手段でした。旧来の権威を巧みに取り込むことで、松前氏は自らの支配体制を盤石なものにしていったのです。下国氏の存続は、単なる温情措置ではなく、戦国から近世へと移行する時代の、高度な政治的判断の結果であったと解釈できます。
5-3. 歴史の記憶 ― 矢不来天満宮と地名伝説
現在、茂別館の大館跡には矢不来天満宮(やふらいてんまんぐう)が静かに鎮座しています 。「矢不来(やふらい)」という特徴的な地名には、コシャマインの戦いの際、神仏の加護によってアイヌの放った矢が館まで届かなかったという伝説が今もなお地域に語り継がれています 。
この伝説は、コシャマインの戦いという、この地で繰り広げられた熾烈な攻防の記憶が、後世の人々によって神社の縁起として昇華され、語り継がれてきたことを示しています。史実としての茂別館の歴史と、地域に根付いた伝承とが重なり合うことで、この場所の持つ独特の歴史的景観が形成されているのです。
終章:茂別館が現代に問いかけるもの
6-1. 国指定史跡としての価値と北海道中世史研究における意義
茂別館跡は、その歴史的重要性が高く評価され、昭和57年(1982年)に国の史跡に指定されました。現在もその雄大な土塁や空堀の遺構は良好に保存されており、訪れる者に中世の息吹を伝えています 。
本報告書で詳述してきたように、茂別館の歴史は、北海道中世史を解き明かす上で欠かすことのできない、数多くの重要なテーマを内包しています。それは、①本州の戦国動乱と直接連動した安東氏の北方への展開、②和人とアイヌという異なる民族間の深刻な対立と交渉の実態、③蝦夷地の産物をめぐる北方交易の重要性、そして④後の松前藩成立へと至る権力移行のダイナミズムです。これら北海道中世史の根幹をなすテーマを一身に体現する茂別館は、日本の歴史研究において比類なき価値を持つ史跡であると断言できます。
6-2. 境界領域の記憶 ― 交流と相克の象徴として
茂別館の歴史は、異なる文化や多様な勢力が接触する「境界領域」で何が起こったのかを、私たちに力強く語りかけます。そこには、交易によってもたらされる豊かな文化交流や経済的利益があった一方で、利権をめぐる容赦のない争いや、民族間の血で血を洗う衝突という、厳しくも目を背けることのできない現実がありました。茂別館跡は、そうした北の境界領域で生きた人々の、交流と相克の記憶を刻み込んだ、歴史の貴重な証人なのです。
現在、北斗市郷土資料館などでは茂別館に関連する資料が展示され、その歴史を学ぶことができます 。この史跡を適切に保存し、その歴史的背景を正しく理解し活用していくことは、私たちが自らの歴史を深く知り、未来へと教訓を継承していく上で、極めて重要な意義を持つと言えるでしょう。
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- 【国指定史跡茂別館跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_01335af2170018885/
- 茂別館の見所と写真・100人城主の評価(北海道北斗市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/891/
- 矢不来天満宮:北斗市(旧上磯町) | 遊ぶべ!道南探検隊 https://donan.org/history-legend/yaginainoakamatu.html
- 北斗市郷土資料館 -施設のご案内- - 北斗市 https://www.city.hokuto.hokkaido.jp/docs/8007.html