郡上八幡城は遠藤盛数が築き、稲葉貞通が石垣で大改修。関ヶ原前哨戦の舞台となり、遠藤慶隆が奪還。江戸期は藩主交代や宝暦騒動を経験。廃城後、日本最古の木造再建天守として蘇り、今も歴史を伝える。
美濃国北部に位置する郡上八幡城は、戦国時代の激動から江戸時代の泰平、そして近代化の波に至るまで、日本の歴史の転換点を静かに見つめ続けてきた城郭である。吉田川と小駄良川の合流点を見下ろす八幡山(別名:牛首山)の山頂に築かれ、市街地からの比高は約130メートルに達するこの城は、典型的な山城としての峻険な姿を今に伝えている 1 。その地理的条件は、単に防御に適しているだけでなく、美濃と飛騨、さらには越前を結ぶ越前美濃街道を押さえる交通の要衝としての役割を担っていたことを示唆している 3 。奥美濃における戦略的拠点として、その存在は常に地域の趨勢を左右する重要な意味を持っていた。
この城は、その軍事的な重要性とは裏腹に、作家・司馬遼太郎が紀行文集『街道をゆく』の中で「日本で最も美しい山城」と称賛したことでも知られている 1 。この評価は、単に天守閣の造形美を指すものではない。城と一体となった城下町の風情、吉田川の清流、そして奥美濃の連なる山並みが織りなす調和の取れた景観全体に向けられたものである 1 。特に、秋には紅葉が城を彩り、早朝には朝霧に包まれた姿が「天空の城」と形容されるなど、その審美的な価値は時代を超えて人々を魅了し続けている 5 。
ここに、郡上八幡城の本質を読み解く鍵がある。すなわち、この城の評価は、戦国時代の「戦略的要衝」という極めて実利的な軍事機能と、「美しい山城」という後世の審美的な価値観が、分かちがたく共存している点に見出せる。城は元来、美濃・飛騨・越前を結ぶルートを支配するという純粋な軍事的要請から、険しい自然地形の上に築かれた 3 。しかし、その過酷な立地条件、すなわち川によって削られた断崖や深い山々といった環境こそが、後に司馬遼太郎らを魅了する比類なき景観美の源泉となったのである 1 。戦国時代の非情な「機能性」の追求が、期せずして後世における「審美性」を生み出したという、この逆説的な関係性こそが郡上八幡城の歴史を貫く特質と言える。本報告書では、この二つの側面を基軸に、城の創始から現代に至るまでの歩みを多角的に解き明かしていく。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
1559年(永禄2年) |
遠藤盛数が東氏を滅ぼす(赤谷山城の戦い)。八幡山に陣を構え、これが郡上八幡城の創始となる。 |
遠藤盛数、東常慶 |
1562年(永禄5年) |
初代城主・遠藤盛数が病没。長男・慶隆が13歳で家督を継ぐ。 |
遠藤盛数、遠藤慶隆 |
1566年(永禄9年) |
遠藤慶隆が郡上を統一し、本格的な城と城下町の建設に着手。 |
遠藤慶隆 |
1588年(天正16年) |
豊臣秀吉により遠藤慶隆が改易され、稲葉貞通が4万石で入城。城の大改修を行う。 |
遠藤慶隆、稲葉貞通、豊臣秀吉 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いの前哨戦「八幡城の戦い」が勃発。遠藤慶隆が稲葉貞通から城を奪還。 |
遠藤慶隆、稲葉貞通、金森可重 |
1601年(慶長6年) |
遠藤慶隆が郡上藩(2万7000石)初代藩主となり、城を改修。 |
遠藤慶隆 |
1667年(寛文7年) |
3代藩主・遠藤常友が城と城下町を大改修。幕府より「城主」格を認められる。 |
遠藤常友 |
1692年(元禄5年) |
遠藤氏が無嗣断絶。井上氏が入封。 |
遠藤常久 |
1754年(宝暦4年) |
金森氏の治世下で「宝暦騒動(郡上一揆)」が勃発。 |
金森頼錦 |
1758年(宝暦8年) |
宝暦騒動により金森氏が改易。青山氏が入封し、以後明治維新まで統治。 |
金森頼錦、青山幸道 |
1868年(慶応4年) |
戊辰戦争で郡上藩脱藩士らが「凌霜隊」を結成し、旧幕府軍として参戦。 |
朝比奈茂吉 |
1871年(明治4年) |
廃藩置県により廃城。翌年から建物が取り壊され、石垣のみが残る。 |
青山幸宜 |
1933年(昭和8年) |
当時の大垣城を参考に、木造4層5階の模擬天守が再建される。 |
- |
1955年(昭和30年) |
城跡の石垣が岐阜県史跡に指定される。 |
- |
1987年(昭和62年) |
模擬天守が郡上市有形文化財に指定される。 |
- |
2017年(平成29年) |
「続日本100名城」に選定される。 |
- |
郡上八幡城の歴史を語る上で、その前史としてこの地を長らく支配した東氏の存在は欠かせない。東氏は、鎌倉幕府の御家人として下総国(現在の千葉県北部)から派遣された名門・千葉氏の一族であり、承久の乱の功により郡上山田荘の地頭職を得てこの地に根を下ろした 3 。彼らは篠脇城を拠点とし、約340年もの長きにわたり郡上を統治した 7 。特に室町時代、東常縁(とう つねより)が連歌師・飯尾宗祇に古今和歌集の奥義を伝授した「古今伝授」の逸話は、東氏が単なる武家領主ではなく、中央の文化にも通じた高い権威を誇る一族であったことを物語っている 7 。
戦国時代の永禄2年(1559年)、この東氏の長きにわたる支配は、突如として終焉を迎える。主家を滅ぼしたのは、その配下にあった家臣、遠藤盛数であった 10 。事件の発端は、東氏の当主・東常慶の子である常尭が、八朔の祝いの席で遠藤盛数の兄・遠藤胤縁を謀殺したことに始まる 7 。この暴挙に対し、盛数は「兄の弔い合戦」という大義名分を掲げて挙兵。東氏の居城である赤谷山城の対岸に位置する八幡山(牛首山)に陣を構えた 7 。この時、盛数が戦の拠点として陣を敷いた場所こそが、郡上八幡城の直接的な創始とされる 10 。
飛騨の三木良頼の援軍も得たとされる盛数軍は、10日間にわたる攻城戦の末に赤谷山城を攻略し、東常慶を滅ぼした 7 。これにより、中世から続いた名門・東氏による郡上支配は完全に終わりを告げたのである。
東氏に取って代わり郡上の新たな支配者となった遠藤盛数は、戦の際に陣を構えた八幡山に新たに城を築き、その初代城主となった 11 。彼は美濃の実力者である斎藤氏(斎藤龍興)に属し、尾張から侵攻する織田信長との「森部の戦い」に参戦するなど、戦国武将としての活動を続けるが、郡上八幡城主となってわずか3年後の永禄5年(1562年)、井ノ口(現在の岐阜市)の陣中にて病没した 11 。
盛数の挙兵は、表向きには兄の仇討ちという正当な理由があった。しかし、その背景を深く探ると、周到に計画された下克上の側面が浮かび上がってくる。史料には、盛数が「かねてより宗家に取って代わることを考えていた」との記述が見られる 11 。これが彼の真の動機であった可能性は高い。さらに注目すべきは、盛数の妻が、彼が滅ぼした主君・東常慶の娘であったという事実である 11 。主家と姻戚関係にありながら、その内情を熟知した上で滅亡に追い込むという行為は、戦国乱世の非情さを象徴している。盛数は、兄の死という突発的な事件を絶好の機会と捉え、それを大義名分として巧みに利用し、長年の野望であった郡上支配権の簒奪を成し遂げた、典型的な戦国の梟雄であったと分析できる。
父・盛数の急逝により、遠藤慶隆はわずか13歳という若さで家督を相続した 7 。幼い当主の行く末を案じた家臣団は、慶隆の母を斎藤氏の重臣である関城主・長井道利と再婚させ、道利を後見人として迎えることで体制の安定を図った 13 。しかし、慶隆の前途は多難であった。竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取りの混乱に乗じ、従兄弟にあたる木越城主・遠藤胤俊が八幡城を奪取し、慶隆兄弟の暗殺を企てる事件が発生する 13 。家臣の助けで辛くも難を逃れた慶隆は、後見人・道利の援軍を得て胤俊と対峙し、和睦に持ち込むことで八幡城主の座に復帰した 13 。
数々の内紛や周辺勢力との争いを乗り越え、慶隆は永禄9年(1566年)頃に郡上全域の統一を成し遂げる。この時期、彼は父が創始した城の本格的な普請に着手し、城下町の建設も進めたとされる 7 。陰陽学における「四神相応の地」という考えに基づき、この地を選んだとも伝えられている 15 。
永禄10年(1567年)に斎藤氏が織田信長によって滅ぼされると、慶隆は信長に属し、その支配下で本領を安堵された 13 。以後、信長の武将として各地を転戦し、元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」では織田・徳川連合軍の一員として浅井・朝倉軍と戦った 9 。この時に慶隆が着用したとされる実戦的な鎧は、現在も城内に展示されている 1 。
しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変後、慶隆の運命は再び暗転する。信長亡き後の織田家の後継者争いにおいて、彼は信長の三男・織田信孝に与した 7 。これが、対立する羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の不興を招く決定的な要因となった。さらに、「小牧・長久手の戦い」において徳川家康・織田信雄方と連絡を取っていたことも秀吉に咎められ 18 、天正16年(1588年)、ついに郡上領2万石を没収され、加茂郡小原(現在の岐阜県白川町)へと転封(事実上の改易)させられた 7 。
慶隆に代わって郡上八幡城主となったのは、秀吉の家臣であり、斎藤道三や織田信長に仕えた猛将・稲葉一鉄の子である稲葉貞通であった。彼は4万石でこの地に入封した 2 。新たな領主となった貞通は、郡上八幡城に抜本的な大改修を施し、その姿を一変させた。彼は山頂に天守台を新たに設け、城郭全体に高く堅固な石垣を巡らせたのである 2 。
この時に用いられた石垣の工法は「野面積み」と呼ばれるもので、自然石をほとんど加工せずに巧みに積み上げていく、戦国時代末期に見られる古式な技法である 5 。この野面積みは、見た目の荒々しさとは裏腹に、石同士の噛み合わせが強固で排水性にも優れるという特徴を持つ 16 。貞通によるこの大改修によって、郡上八幡城は在地領主の砦という性格から、中央政権の権威を体現する近世的な山城へと大きく変貌を遂げた。現在我々が目にすることができる城の石垣の大部分は、この稲葉貞通の時代に築かれたものと考えられている 20 。
城郭の物理的な構造の変化は、単なる軍事技術の進歩を反映するだけではない。それは、城主の政治的地位と支配の正当性を可視化する装置としての役割も担っていた。遠藤氏時代の城が在地領主の拠点としての「砦」から始まったのに対し 5 、稲葉貞通は中央政権たる豊臣家から派遣された支配者であった。彼の石高4万石は、遠藤氏のそれを上回るものであり 2 、その格の違いを領民に明確に示す必要があった。貞通が行った高石垣と天守台を持つ本格的な城郭への改修は、軍事的な強化であると同時に、支配者の権威を見せつけるための視覚的なデモンストレーションでもあった。したがって、今に残る野面積みの石垣は、単なる防御施設ではなく、豊臣政権の権威がこの奥美濃の山深くにまで及んでいることを示す、強力な「政治的シンボル」であったと解釈することができる。
代 |
氏名 |
在城期間 |
石高(約) |
主要な事績・関連事項 |
初代 |
遠藤 盛数(えんどう もりかず) |
1559年~1562年 |
- |
郡上八幡城の創始 |
2代 |
遠藤 慶隆(えんどう よしたか) |
1562年~1588年 |
2万石 |
郡上統一、城と城下町の建設 |
3代 |
稲葉 貞通(いなば さだみち) |
1588年~1600年 |
4万石 |
天守台設置、石垣構築など城の大改修 |
4代 |
遠藤 慶隆(えんどう よしたか) |
1600年~1632年 |
2万7000石 |
八幡城の戦いで奪還、郡上藩初代藩主となる |
- |
遠藤 常友(えんどう つねとも) |
1646年~1676年 |
2万7000石 |
城と城下町の大改修、幕府より「城主」格認定 |
- |
井上 正住(いのうえ まさずみ) |
1693年~1697年 |
4万石 |
遠藤氏断絶後に入封 |
- |
金森 頼旹(かなもり よりとき) |
1697年~1736年 |
3万8000石 |
- |
- |
金森 頼錦(かなもり よりかね) |
1736年~1758年 |
3万8000石 |
宝暦騒動(郡上一揆)により改易 |
- |
青山 幸道(あおやま ゆきみち) |
1758年~1775年 |
4万8000石 |
宝暦騒動後に入封、以後7代にわたり統治 |
注:遠藤慶隆は3代城主稲葉貞通を挟んで2度城主となっているため、4代として表記。遠藤常友以降は藩主としての代表的な人物を記載。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の「関ヶ原の戦い」へと発展する。この国家的な動乱は、郡上八幡城をもその渦中に巻き込んだ。当時の城主であった稲葉貞通は、石田三成方の西軍に与し、美濃における重要拠点の一つである犬山城の守備に赴いたため、八幡城は子の稲葉道孝らが守る留守の状態となった 21 。
一方、かつての城主・遠藤慶隆にとって、この状況は千載一遇の好機であった。豊臣秀吉によって旧領を奪われたことへの恨みと、何としても故地を回復したいという悲願から、彼は徳川家康方の東軍に加担することを決意する 2 。西軍に誘われていたという説もあるが 10 、彼は東軍に与することで旧領回復の大義名分を得て、稲葉氏が留守の八幡城を奪還すべく兵を挙げたのである。
慶隆は、娘婿であり飛騨高山城主であった金森可重の援軍を得て、八幡城への攻撃を開始した 10 。慶長5年9月1日、遠藤・金森連合軍は城を包囲し、攻城戦が始まった 22 。城の守備兵は少なく、当初は東軍優勢に見えた。
しかし、この急報は犬山城にいた稲葉貞通のもとにもたらされる。貞通は即座に軍を返し、郡上へと急行した 23 。そして9月3日、八幡城下を見下ろす愛宕山に本陣を敷いていた遠藤慶隆軍に対し、背後から猛烈な奇襲をかけた 9 。完全に油断していた慶隆の本陣は大混乱に陥り、慶隆自身も家臣の奮戦によってかろうじて戦場を離脱し、金森可重の陣へと逃げ込むという惨敗を喫した 9 。戦術的な勝利を収めた貞通は、意気揚々と八幡城への入城を果たした 23 。
ここで注目すべきは、貞通のその後の行動である。彼は勝利に乗じて慶隆軍を追撃し、殲滅することを選ばなかった。近臣が和議を勧めた際、貞通は「目前に敵を見て戦わないということは武名を汚す。敵を討ち破って城を取り戻し、その上で和議を結んでも遅くはない」と語ったと伝えられる 23 。武将としての意地と名誉を保った上で、彼は翌9月4日、改めて慶隆に使者を送り、和議を申し入れた 22 。この背景には、関ヶ原を巡る天下の趨勢が、すでに東軍優位に傾きつつあることを見抜いた、彼の現実的な戦略判断があったと考えられる。和議は成立し、貞通は城を慶隆に明け渡すと、自らは剃髪して謹慎の意を示した 23 。この「八幡城の戦い」は、関ヶ原の戦いにおける重要な前哨戦の一つとして、歴史にその名を刻むこととなった。
この八幡城の戦いの様子は、『濃州郡上合戦図』という一枚の絵図によって今日に伝えられている 15 。この絵図の原画は、合戦後に豊後国臼杵藩(現在の大分県臼杵市)へ転封となった稲葉氏の子孫が治めた臼杵市に所蔵されており、歴史的に極めて貴重な史料である 15 。
絵図には、八幡城の城郭や城下町の様子が詳細に描かれており、当時の縄張りや町の構造を知る上で重要な手がかりとなる 15 。また、合戦の様子も活写されており、刀よりも槍が主要な武器として用いられていることや、鉄砲隊が描かれていることなどから、当時の戦闘の実態を視覚的に理解することができる 15 。特に、画面右側には稲葉貞通の子・典通(後の臼杵藩2代藩主)の活躍が絵画的に描かれており、この絵図が稲葉氏の武功を後世に伝える目的で制作された可能性を示唆している 25 。
八幡城の戦いは、関ヶ原の戦いが単なる「豊臣恩顧の西軍」対「徳川率いる東軍」という単純なイデオロギーの対立ではなかったことを示す縮図と言える。遠藤慶隆の行動原理は、東軍の勝利という大局的な目標よりも、「旧領回復」という極めて個人的かつ切実な動機に基づいていた 2 。彼は東軍に味方することで、失地回復の正当性を得ようとしたのである。一方の稲葉貞通も、西軍への絶対的な忠誠心から戦ったというよりは、武将としての名誉を守りつつ、一族を存続させるための最善の道を探った結果、戦術的勝利と戦略的降伏を両立させるという巧みな選択を行った。この郡上という一地方の城を巡る攻防が、結果として東軍の背後の安全を確保し、関ヶ原本戦への集中を可能にさせた。これは、戦国末期の合戦が、天下の趨勢というマクロな視点と、個々の武将の個人的な利害や遺恨というミクロな動機が複雑に交錯する中で展開したことを示す好例である。
関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利は、遠藤慶隆に長年の悲願であった旧領復帰をもたらした。戦功が徳川家康に認められ、慶隆は郡上郡一円を領する2万7000石の大名として返り咲き、ここに郡上藩が成立した 8 。初代藩主となった慶隆は、稲葉氏によって改修された城にさらなる手を加え 7 、城下町の整備にも注力した。寺社を建立し、領民の心を慰撫するため、領内各地で行われていた盆踊りを城下に集めて奨励したと伝えられており、これが今日の「郡上おどり」の起源の一つとされる 15 。
江戸時代に入り、郡上藩の基礎を固めたのが、慶隆の孫にあたる3代藩主・遠藤常友であった。彼の治世下、寛文7年(1667年)に、郡上八幡城および城下町は大規模な改修・整備事業の対象となった 16 。この事業の大きな目的の一つは、防火対策であった。承応元年(1652年)に発生した大火によって城下町の多くが焼失した教訓から 16 、常友は町中に用水路を張り巡らせ、火災に強い町づくりを目指した。この時に整備された巧みな水利システムが、現在の「水の町」として知られる郡上八幡の景観の礎となっている 16 。
この大規模な普請は、単なるインフラ整備に留まらなかった。城郭の修復と城下町の整備という一連の事業の完成により、郡上藩の統治体制は盤石なものとなり、幕府から正式に「城主格」から「城主」へと格上げされる栄誉を得た 27 。これにより、郡上八幡城は名実ともに近世城郭としての地位を確立したのである。
5代にわたって続いた遠藤氏による統治は、藩主・常久が嗣子なく夭折したことにより、元禄5年(1692年)に終わりを告げた 8 。その後、郡上藩は井上氏、金森氏が相次いで藩主となる 27 。金森氏の治世下であった宝暦4年(1754年)、藩の財政難を背景とした厳しい年貢増徴策に反対する、大規模な百姓一揆が勃発する。これが「宝暦騒動(郡上一揆)」である 31 。
この一揆は、単なる農民の蜂起に終わらず、藩主・金森頼錦の改易、さらには老中をはじめとする幕閣の要人が多数処罰されるという、前代未聞の事態にまで発展した 31 。江戸時代の百姓一揆の中でも最大級の規模と影響力を持った事件であり、この一件の裁定に関わった田沼意次が幕政の中心へと台頭するきっかけになったとも言われている 2 。騒動の後、丹後宮津から青山氏が入封し、以後7代111年にわたり、郡上は青山氏の統治下で明治維新を迎えることとなる 10 。
幕末、戊辰戦争の動乱は郡上藩にも及んだ。慶応4年(1868年)、新政府軍と旧幕府軍との間で戦いが始まると、郡上藩の藩士45名が脱藩し、旧幕府軍に身を投じることを決意する。彼らは「凌霜隊(りょうそうたい)」と名乗り、わずか17歳の朝比奈茂吉を隊長として、会津若松城の籠城戦に加わった 1 。そこでは、同じく若き少年たちで構成された白虎隊と共に戦ったと伝えられている 10 。「凌霜」とは、霜を凌いでその節操を貫くという意味であり、彼らの不屈の精神を表している。城内の松の丸には、この若き隊士たちの悲劇を後世に伝えるための顕彰碑が建てられている 1 。
郡上八幡城の縄張り(曲輪の配置)は、戦国時代から江戸時代にかけての城主の変遷と、それに伴う城の役割の変化を色濃く反映している。その原型は、天正16年(1588年)に入城した稲葉貞通による大改修によって形成された 37 。彼は、吉田川と小駄良川に挟まれた八幡山の山頂に総石垣の郭を築き、そこに天守台を設けて本丸とした 38 。これが城の中核であり、軍事的な最終拠点であった。
山頂の本丸周辺には、それを補強するための複数の曲輪が巧みに配置されている。天守台の南には「桜の丸」、北には「松の丸」と呼ばれる曲輪があり 8 、さらにその外周を「帯曲輪」や「出丸」が取り囲む複雑な構造となっている 39 。これらの曲輪はすべて堅固な石垣によって区画され、敵の侵入を幾重にも阻むよう設計されていた。
しかし、江戸時代に入り世の中が泰平になると、城の機能にも変化が生じる。日常の政務を行う藩庁や藩主の居館としては、不便な山頂よりも利便性の高い場所が求められるようになった。青山氏の時代になると、藩庁機能は山頂の旧本丸から、山腹にあった旧二の丸へと移された。この旧二の丸が新たに「本丸」となり、山頂の旧本丸は「松の丸」「桜の丸」と改称され、象徴的な空間へと変化した 38 。さらに、山麓の殿町には藩主の居館が設けられ、城の中心機能は時代と共に山頂から山麓へと降下していった 8 。
郡上八幡城の防御施設として最も特徴的なのは、城郭全体を覆う野面積みの石垣である 20 。自然石の形状を活かして積み上げられた石垣は、戦国末期の荒々しい気風を今に伝えている。また、山城特有の防御施設として「堀切」の跡も確認できる 1 。これは尾根を人工的に断ち切って深い堀を設けることで、敵が尾根伝いに侵攻してくるのを防ぐためのものである。
城内には、その歴史を物語る様々な遺構や伝説が残されている。搦手口近くにある「首洗い井戸」は、八幡城の戦いで討ち取られた敵兵の首を洗い、実検に供した場所と伝えられる 15 。また、天守台の近くには「力石」と呼ばれる二つの巨石が安置されている 15 。これは江戸時代の大改修の際、「赤髭作兵衛」という怪力の人夫が一人で担ぎ上げたとされるもので、普請の過酷さを物語る伝説として語り継がれている 1 。
郡上八幡城における藩庁・居館機能の変遷は、日本の城郭史における大きな時代の転換を物理的に示している。戦国時代、城主は最も防御力に優れた山頂に居住し、そこが軍事と政治の中心であった。稲葉貞通による天守台の設置は、その象徴である 38 。しかし、戦乱が終焉し安定した藩政の時代が到来すると、城の役割は「戦うための拠点」から「治めるための拠点」へと変化する。その結果、日常の政務や生活の利便性が重視され、城の中心機能は山腹、そして山麓へと移っていった 38 。山頂の旧本丸は、藩の権威を象徴する場、あるいは非常時の最後の砦としての役割に限定されていく。この機能の「降下」は、郡上八幡城が戦国時代の軍事拠点から江戸時代の行政拠点へと移行したことを、その縄張りの中に明確に刻み込んでいるのである。
「内助の功」で知られ、夫・山内一豊を土佐24万石の大名にまで押し上げた賢妻として名高い千代(見性院)。その出自には諸説あるが、郡上八幡は彼女の生誕地とする有力な説の舞台である 5 。この説によれば、千代は郡上八幡城の初代城主・遠藤盛数の娘として生まれたとされる 1 。
この説の最も強力な根拠となっているのが、郡上遠藤氏の系図を記した古文書『遠藤記』の存在である。この系図には、遠藤盛数の娘の横に「山内対馬守室(やまのうちつしまのかみしつ)」、すなわち山内一豊の妻であることを示す記述が確認されている 42 。千代の出自を明記した古文書は、この郡上関連のものを除いてほとんど見つかっておらず、この記述は郡上出身説の信憑性を大きく高めている 42 。
さらに、いくつかの状況証拠もこの説を補強する。一つは、山内家に伝わる古今和歌集の存在である。郡上を治めた東氏は古今伝授で知られる和歌の名家であり、その東氏の血を引く遠藤氏から、娘である千代を通じて山内家へ古今和歌集が伝えられたとすれば、その来歴が自然に説明できる 42 。また、千代が出家した後の法号「見性院」と、兄とされる遠藤慶隆の号「乗性院」に、同じ「性」の字が使われていることも、兄妹であった可能性を示唆するとして注目されている 42 。山麓には、山内一豊と千代の像が建てられており、この地との深いつながりを今に伝えている 1 。
険しい山頂に築かれた郡上八幡城の普請工事は、困難を極めたとみられ、それに関連する二つの伝説が語り継がれている。
一つは、悲劇的な「人柱およし伝説」である。天守閣の土台となる石垣の構築が度重なる崩壊に見舞われ、工事が難航した際、人柱を立てることが決まった。その時、神路村の百姓の娘で17歳の「およし」が、自ら人柱として身を捧げたと伝えられる 1 。彼女の犠牲によって石垣は無事に完成したとされ、城内には今もおよしを祀った祠と石碑が残されている 1 。この伝説は、城下の善光寺にある「およし稲荷」や、郡上おどりの期間中に行われる「およし祭」にもその名を留めている 1 。
もう一つは、「赤髭作兵衛の力石伝説」である。江戸時代、遠藤氏による城の大改修が行われた際、「赤髭作兵衛」と呼ばれる怪力の人夫が、城下の吉田川から重さ推定350kgにもなる二つの巨石を一人で背負い上げたとされる 15 。普請奉行がその並外れた力に驚き、賞賛した途端、作兵衛はその場で息絶えてしまったという。奉行はこれを哀れみ、この石の使用を禁じたため、石は長らく天守台の一角に放置されていたが、昭和の天守再建の際に発見され、「力石」として顕彰されることとなった 1 。
日本三大盆踊りの一つに数えられ、夏の郡上八幡を彩る「郡上おどり」。その起源についても、郡上八幡城の歴代藩主が深く関わっているとされる 15 。最も広く知られている説は、江戸時代初期、関ヶ原の戦いを経て郡上藩主として復帰した遠藤慶隆が、士農工商の身分を超えた領民の融和を図るため、領内各地に伝わる盆踊りを城下に集め、無礼講で踊ることを奨励したというものである 15 。
一方で、江戸時代中期、宝暦騒動(郡上一揆)という深刻な対立を経験した後、新たに入封した青山氏が、荒廃した人心をまとめ、四民(士農工商)の融和を促すために奨励したのが始まりであるという説も存在する 43 。いずれの説が正しいかは定かではないが、いずれにせよ、郡上おどりが時の為政者による領民統合の政策として奨励され、発展してきた歴史的背景を持つことは確かである。城主の奨励によって始まった踊りは、400年以上の時を経て、今や郡上の人々の心をつなぐ大切な文化遺産となっている。
江戸幕府の終焉と明治新政府の樹立という時代の大きな転換点は、全国の城郭に厳しい運命をもたらした。郡上八幡城もその例外ではなかった。明治4年(1871年)に発令された廃藩置県により郡上藩は廃藩となり、それに伴い郡上八幡城も廃城とされた 10 。城としての役割を終えた建造物は、翌明治5年(1872年)から取り壊しが始まり、天守閣をはじめとするすべての建物が失われ、戦国時代から幾多の武将たちが築き上げてきた堅固な石垣のみが、静かにその場に残された 20 。
石垣だけが残る城跡となってから約60年後の昭和8年(1933年)、郡上八幡の歴史に新たな一歩が記される。当時の八幡町長の英断により、町のシンボルとして、そして未来に歴史を伝えるランドマークとして、城山に天守閣を再建する事業が立ち上げられたのである 10 。
この再建事業には、特筆すべき点が二つある。第一に、この天守が現存する「木造再建城」としては日本最古のものであることだ 6 。昭和初期の城郭再建では、耐久性やコストの面から鉄筋コンクリート造が主流となりつつあった中で、あえて伝統的な木造建築が選択されたことは、建築史的にも極めて価値が高い 10 。第二に、再建にあたって、当時国宝に指定されていた近隣の大垣城を参考にしたことである 16 。郡上八幡城には、かつての天守の姿を正確に示す絵図や設計図が残されていなかった。そのため、再建にあたっては、同じ美濃国にあり、城郭建築として評価の高かった大垣城の天守をモデルとするという、当時の再建事業における現実的かつ最善の選択がなされたのである 46 。
こうして蘇った郡上八幡城は、戦後の復興期を経て、その歴史的・文化的価値が改めて評価されるようになる。昭和30年(1955年)、城跡に残る稲葉貞通時代からの石垣群が岐阜県の史跡に指定された 1 。さらに昭和62年(1987年)には、昭和に再建された木造4層5階の模擬天守が、郡上市(当時は八幡町)の有形文化財に指定された 1 。そして平成29年(2017年)、日本城郭協会によって「続日本100名城」の一つに選定され、全国的な知名度と評価を確固たるものとした 1 。
郡上八幡城の模擬天守は、厳密な意味での史実の再現ではない。しかし、それは単なる「模造品」という言葉では片付けられない、独自の歴史的価値を獲得している。この天守は、全国の城郭再建ブームの黎明期にあたる昭和8年(1933年)に、地域のシンボルを再興しようという人々の熱意によって建てられた 52 。鉄筋コンクリートではなく、あえて伝統的な木造工法を選んだその決断には 10 、当時の人々の城郭への憧憬と、失われゆく伝統技術への敬意が込められていたと考えられる。したがって、この天守は「戦国時代の郡上八幡城」の遺構ではないものの、「昭和初期の文化財保存思想と地域振興」を物語る、極めて重要な歴史的建造物、すなわち一種の近代化遺産として評価されるべきである。90年近い歳月を経て、再建された天守それ自体が、新たな歴史を纏った存在となっているのである。
美濃国北部の山間に聳える郡上八幡城の歴史は、一地方の城郭の変遷に留まらず、日本の戦国時代から近世、そして近代へと至る時代の縮図を内包している。その創始は、遠藤盛数による主家打倒という下克上の物語から始まった。続く遠藤慶隆の時代には、織田、豊臣、徳川という中央政権の動向に翻弄され、関ヶ原の戦いの前哨戦という天下分け目の舞台ともなった。城主の交代は、城郭そのものの姿を大きく変えた。稲葉貞通による近世的な石垣普請は、中央権力の到達を示す象徴であり、城の役割が軍事拠点から行政拠点へと移行するにつれて、その中心機能が山頂から山麓へと移っていった縄張りの変遷は、戦乱の終焉と泰平の時代の到来を物理的に物語っている。
また、この城は単なる軍事・政治の拠点であっただけではない。城主の奨励が起源とされる郡上おどりや、普請の苦難を伝える人柱伝説、そして山内一豊の妻・千代の生誕地説など、数々の物語や文化を生み出す土壌となり、地域の精神的な核として機能し続けてきた。その存在は、人々の暮らしや信仰と深く結びつき、郡上という土地のアイデンティティを形成する上で不可欠な要素であった。
明治維新による廃城という危機を乗り越え、昭和の再建事業によって新たな命を吹き込まれた郡上八幡城は、かつての軍事施設としての役割を完全に終え、歴史を伝え、地域を象徴する文化遺産として再生を遂げた。司馬遼太郎が讃えた「日本で最も美しい山城」という景観美と、その背景にある下克上から天下分け目の戦いに至る戦国の歴史という二重の魅力は、この城が持つ普遍的な価値である。郡上八幡城は、これからも奥美濃の空の下、訪れる人々にその波乱に満ちた物語を静かに語り継いでいくことだろう。