最終更新日 2025-08-21

金沢城

加賀百万石の府城金沢城は、一向一揆の尾山御坊を前身とし、佐久間盛政が築城。前田利家が近世城郭へと大改修し、度重なる火災を乗り越え現代に蘇る。

金沢城総合報告書:信仰の砦から加賀百万石の府城、そして現代へ

序章:加賀百万石の象徴、金沢城への誘い

日本の城郭史において、「金沢城」の名は、加賀百万石と称された前田家の栄華と密接に結びついている。一般的に、その歴史は「賤ヶ岳の合戦後に入城した前田利家が、それまでの尾山城を修築・改称したもの」として語られることが多い。この簡潔な記述は、金沢城の歴史における一つの重要な転換点を捉えているものの、その背後には遥かに複雑で多層的な物語が横たわっている。

金沢城が築かれた土地は、決して白紙の状態ではなかった。そこは、武家支配に対して約一世紀にわたり抵抗を続けた宗教勢力の聖地であり、政治的中心地であった。その記憶を封じ込め、新たな支配体制を確立しようとする権力者の葛藤。戦国の動乱期における武将たちの野心と戦略。天下泰平の世における、巨大な財力と高度な政治的判断力に裏打ちされた城郭の進化。そして、度重なる災禍からの不屈の復興。これらすべてが、金沢城の石垣の一つ一つに刻み込まれているのである。

本報告書は、金沢城を単なる歴史的建造物としてではなく、戦国末期の激動から江戸時代の泰平、そして近代化の波に至るまで、日本の歴史を映し出す「鏡」として捉え、その全貌を多角的に解き明かすことを目的とする。尾山御坊という前史から説き起こし、佐久間盛政による創設、前田家による大改修、そして加賀百万石の府城としての変遷を辿りながら、その構造美、城下町との関係、さらには現代における歴史遺産としての再生に至るまで、文字通り「ありとあらゆる」側面から徹底的に分析・考察を行うものである。

第一章:信仰の砦、尾山御坊の時代(1546年~1580年)

背景:加賀一向一揆と「百姓の持ちたる国」

金沢城の歴史を語る上で、その前身である「尾山御坊」の存在は不可欠である。そして尾山御坊の成立を理解するためには、戦国時代の日本において極めて特異な政治体制であった「百姓の持ちたる国」にまで遡る必要がある。

室町時代後期、加賀国は浄土真宗本願寺教団の門徒、いわゆる一向宗の勢力が非常に強い地域であった。長享2年(1488年)、一向宗門徒は地域の国人や農民と結びつき、守護大名であった富樫政親を滅ぼすという大規模な一揆(加賀一向一揆)を成功させた 1 。これにより、加賀国は守護の支配から脱し、本願寺の権威のもとで門徒たちが自治を行うという、約100年間にわたる特異な支配体制が確立された 2 。この体制は、武家支配が常識であった当時において、まさに「百姓の持ちたる国」と称されるべきものであった。

尾山御坊の建立と機能

この門徒支配体制の軍事的・宗教的拠点として、天文15年(1546年)に建立されたのが尾山御坊(別名:金沢御堂)である 3 。その立地は、犀川と浅野川という二つの河川に挟まれた小立野台地の先端部であり、天然の要害をなす戦略的に極めて重要な場所であった 5 。この地の軍事的価値を最初に見出し、拠点として確立したのは、後の武家政権ではなく、一向一揆勢力だったのである。彼らが選定したこの地政学的優位性は、後の城主たちにそのまま継承されていくことになる。

尾山御坊は、単なる寺院ではなかった。その構造は、一向一揆の総本山であった摂津国の石山本願寺と同様に、強固に要塞化されていたと伝えられている 5 。周囲には堀や土塁が巡らされ、実質的には城郭と何ら変わらない防御機能を有していた。それは、信仰の拠点であると同時に、北陸地方における本願寺勢力の政治・軍事の中枢として機能していたのである 5

織田信長による北陸平定と尾山御坊の終焉

天下統一を目指す織田信長にとって、強大な組織力と宗教的結束力を持つ本願寺勢力は、最大の敵対者の一つであった。信長は各地の一向一揆と激しい戦闘を繰り広げ(石山合戦など)、その矛先は北陸にも向けられた 10

天正8年(1580年)、信長の北陸方面軍司令官であった柴田勝家は、甥の佐久間盛政を先鋒として尾山御坊に猛攻をかけた 2 。石山本願寺が信長に降伏した後も抵抗を続けた尾山御坊であったが、織田軍の圧倒的な軍事力の前に遂に陥落する 4 。この攻略により、約一世紀にわたって続いた加賀国の門徒支配は完全に終焉を迎え、この地は初めて武家政権の直接支配下に置かれることとなった。これは、金沢という都市の性格が、宗教的拠点から武家的拠点へと大きく転換する、歴史的な分水嶺であった。

この土地の起源は、後の支配者たちに複雑な影響を与えた。前田利家が入城した際に、一向一揆の拠点であった本丸を「魔所」として避けたという伝承が残っている 13 。これは単なる迷信として片付けるべきではない。むしろ、旧支配体制の強烈な記憶と、その土地に染みついた精神的影響力を払拭し、新たな武家支配の正当性を確立しようとする為政者の深層心理と、高度な政治的意図の表れと解釈できる。金沢城の歴史は、この「土地の記憶」を物理的・象徴的に上書きしていく過程でもあったのである。

第二章:最初の城主、佐久間盛政による築城(1580年~1583年)

「金沢城」の誕生

尾山御坊を攻略した佐久間盛政は、その戦功により織田信長から加賀半国を与えられ、この地の新たな支配者となった 5 。彼は、宗教施設であった尾山御坊を徹底的に破却し、その跡地に全く新しい、武家の拠点としての城郭普請を開始した 14 。これが、金沢城の直接的な始まりである。

この時、盛政は城の名を「金沢城」と命名した 5 。金沢という地名は、古くからこの地に伝わる「金洗いの沢」の伝説に由来するとされ、盛政は既存の地名を城の正式名称として採用したのである 5 。これにより、宗教的色彩の濃い「尾山御坊」の名は払拭され、武家の城「金沢城」が歴史の表舞台に登場した。

初期の城郭と城下町の整備

佐久間盛政の統治期間はわずか3年と短かったが、その間に後の金沢城の骨格となる重要な基礎工事が行われている。彼は、旧御坊の遺構を基盤としながらも、新たに土塁や堀を大規模に整備し、近世城郭としての体裁を整えていった 14

特に特筆すべきは、城の南東側、台地が陸続きになる防御上の弱点を遮断するために、巨大な堀の開削に着手したことである。この堀こそが、後に「百間堀」として知られる金沢城最大の防御施設であり、その原型は盛政の時代に築かれたと考えられている 9 。さらに、城だけでなく城下町の整備にも着手し、「尾山八町」と呼ばれる初期の町人地を形成したとされ、城と町を一体的に開発する近世城下町づくりの端緒を開いた 7

賤ヶ岳の戦いと3年間の統治の終焉

天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が倒れると、その後継者の座を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が対立する。佐久間盛政は、叔父である勝方の勇将として、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに臨んだ 19 。緒戦において目覚ましい活躍を見せた盛政であったが、秀吉の迅速な反撃の前に敗走し、柴田軍の敗北は決定的となった 5 。戦後、捕らえられた盛政は処刑され、金沢城初代城主による3年間の統治は幕を閉じた 9

歴史は勝者によって語られるため、金沢城の歴史は次代の城主である前田利家と強く結びつけられ、佐久間盛政の功績はしばしば見過ごされがちである。しかし、資料を詳細に分析すれば、宗教施設を破却して初めて「城」として設計し、「金沢城」と命名し、主要な堀や城下町の原型を整備したのは、紛れもなく佐久間盛政であった。前田利家は、盛政が築いたこの確固たる基礎の上に、さらなる拡張と改修を加えたのである。その意味で、盛政は単なる一過性の城主ではなく、金沢城を武家の城郭として誕生させた「真の創設者」として再評価されるべき存在である。彼の統治した3年間は、金沢城がその性格を不可逆的に変貌させた、決定的転換期であった。

第三章:前田家の入城と大改修の始まり(1583年~)

賤ヶ岳の戦いと前田利家の選択

佐久間盛政の敗北と死により空城となった金沢城に、次なる主として入城したのが前田利家であった。彼の入城は、日本の歴史の大きな転換点となった賤ヶ岳の戦いにおける、極めて重要な政治的決断の結果であった。

本能寺の変後、織田家の家臣団は羽柴秀吉派と柴田勝家派に分裂した。利家は、勝家の与力であり、かつて信長の怒りを買った際に助命を嘆願してくれた恩義があった 21 。一方で、秀吉とは若い頃から苦楽を共にした無二の親友でもあった 20 。両者の板挟みとなった利家は、究極の選択を迫られる。

天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いが始まると、利家は当初、柴田軍として布陣した 20 。しかし、秀吉軍の猛攻により佐久間盛政隊が後退を始めると、利家は突如として戦線を離脱し、撤退を開始する 22 。この行動が柴田軍の総崩れを誘発し、秀吉の勝利を決定づけた一因となった 20 。この決断は、恩人である勝家を裏切る形となったが、結果として前田家を滅亡の危機から救い、新たな天下人となる秀吉の政権下で確固たる地位を築くための、絶妙な政治的判断であった。金沢城の獲得は、この政治的勝利の物理的な証であり、その後の二百数十年にわたる前田家支配の礎となったのである。

戦後、利家は秀吉の軍勢の先鋒として北陸に進軍し、同年6月14日、佐久間盛政の旧領である加賀国を与えられ、金沢城に正式に入城した 22

名称の変遷と拠点移転の意義

入城後、利家は城名を一時的に「尾山城」へと戻したとされる 5 。これは、旧来の地名に回帰することで、新たな支配の始まりを象徴しようとした意図があったのかもしれない。しかし、佐久間盛政の時代から「金沢城」の名が広く知られていたためか、尾山城の名は定着せず、数年のうちに再び金沢城へと戻された 5 。豊臣政権の公文書でもほとんど「尾山城」の名は用いられておらず、利家自身も再び金沢の名を用いるようになったと推測されている 7

高山右近の招聘と近世城郭への飛躍

前田利家による金沢城の整備において、最も画期的な出来事は、高山右近の招聘であった。高山右近は、熱心なキリシタン大名として知られるが、同時に当時の日本で最先端の築城技術を持つ専門家でもあった 28

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は「バテレン追放令」を発布し、キリスト教の信仰を禁じた。右近は棄教を拒否し、大名としての地位と領地をすべて捨てて流浪の身となった 28 。利家は、天正16年(1588年)、この右近を客将として金沢に招き入れた 5 。当時の最高権力者である秀吉に追放された人物を庇護することは、大きな政治的リスクを伴う行為であった。しかし利家は、そのリスクを冒してでも、右近が持つ先進的な築城術という「戦略的資産」を獲得することを選んだ。これは、単なる温情や友情に基づくものではなく、自らの本拠地を飛躍的に強化するための、極めて合理的な戦略的投資であったと言える。

右近の知識と技術は、金沢城の大規模な改修に遺憾なく発揮された。彼は城全体の基本設計である「縄張り」を根本から見直し、より防御的で機能的な構造へと改変したとされる 5 。具体的には、城の正面玄関である大手門の位置を、従来の西丁口から現在の黒門口(尾坂口)へと変更し、防御ラインを再構築した 7 。さらに、城だけでなく城下町全体を堀と土塁で囲い込む「惣構(そうがまえ)」という壮大な防御システムを設計した 12 。文禄元年(1592年)に利家の嫡男・利長が着手した本格的な石垣普請や、慶長4年(1599年)の内総構堀の設置など、一連の大改修事業は、右近の指導のもとで進められたと考えられている 5

高山右近の招聘により、金沢城は一地方の城から、天下の情勢に対応しうる、畿内の先進技術を取り入れた近世城郭へと劇的な変貌を遂げたのである。

第四章:加賀百万石の府城としての変遷(江戸時代)

江戸時代を通じて、金沢城は加賀藩前田家14代の居城として、北陸最大の雄藩の藩庁であり続けた 35 。この時代、城は戦乱の砦としての性格を薄め、巨大な行政機構を内包する政治・文化の中心地へとその姿を変えていった。しかし、その道のりは平坦ではなく、度重なる火災という試練に見舞われながら、その都度、時代の要請に応じて機能を進化させていった。

第一節:天守の焼失と城郭中心部の移動

前田利家と高山右近による大改修を経て、金沢城には壮大な天守が聳え立っていた。文禄元年(1592年)頃に完成したとされるこの天守は、五層六階の威容を誇り、加賀百万石の権威を象徴する建造物であった 5 。しかし、その姿は長くは続かなかった。慶長7年(1602年)、落雷によって天守は焼失してしまう 5

日本最大の石高を誇り、圧倒的な財力を有していた加賀藩にとって、天守の再建は財政的には十分に可能であったはずである 38 。にもかかわらず、天守は再建されることはなかった。代わりに本丸には、天守の代用として三階櫓が建てられた 5 。これは、関ヶ原の戦いを経て成立した徳川幕府に対し、外様大名の筆頭である前田家が謀反の意図なきことを示すための、高度な政治的配慮であったと解釈できる 7 。軍事力の象徴である巨大天守を意図的に排し、幕府への恭順の意を示すというこの決断が、その後の金沢城の景観と性格を決定づけたのである。

金沢城の歴史は、火災との闘いの歴史でもあった。天守焼失後も、元和6年(1620年)、寛永8年(1631年)の寛永の大火、そして宝暦9年(1759年)の宝暦の大火と、城は幾度となく炎に包まれた 14 。これらの災害は悲劇であったが、同時に城の構造をより合理的・機能的に進化させる触媒としても作用した。

特に寛永の大火は、城の中枢機能の配置に大きな変化をもたらした。この火災で本丸が焼失した後、藩政の中心は、より広大で拡張の余地がある二の丸へと移されたのである 26 。これは、戦乱の世が終わり、藩の行政機関としての機能がより重要になった泰平の世の要請に応えるものであった。この移転に伴い、二の丸には壮大な御殿が造営され、金沢城は新たな時代を迎えることとなる。

第二節:藩政の中枢・二の丸御殿

寛永の大火以降、金沢城の中核となったのが二の丸御殿である。この御殿は、加賀藩の政庁であると同時に、藩主とその家族が暮らす私的な邸宅でもあった 40 。その規模は城内最大を誇り、東西約200メートル、南北約100メートルにも及ぶ壮大な建造物群であった 42

御殿の内部は、大きく三つの区画に分かれていた 27

  1. 表向(おもてむき) : 藩の公式な政務や儀礼が行われる空間。年頭儀礼などが執り行われた大広間「竹の間」や、応接のための書院など、最も格式の高い区画であった。
  2. 御居間廻り(おいままわり) : 藩主が日常生活を送る私的な空間。居間や寝所のほか、私的な能舞台も設けられていた。
  3. 奥向(おくむき) : 藩主の正室や側室、子女、そして彼女らに仕える女中たちが暮らした、いわゆる「大奥」にあたる空間であった。

御殿の内部は、当代一流の絵師たちによる豪華絢爛な障壁画や、精緻な彫刻が施された欄間、意匠を凝らした飾金具などで彩られていた 42 。特に、加賀藩出身の絵師・岸駒(がんく)が描いたとされる「虎の間」の障壁画は有名であった 45 。これらの装飾は、加賀藩の豊かな財力と高い文化水準を内外に示すものであった。

この二の丸御殿もまた、宝暦9年(1759年)と文化5年(1808年)の二度にわたる大火で焼失したが、その都度再建された 7 。しかし、明治14年(1881年)に旧陸軍の失火によって焼失して以降は再建されることなく、現在に至っている 43 。現在、石川県によってこの二の丸御殿の段階的な復元整備計画が進められており、令和6年(2024年)からは玄関や式台周辺を対象とする第一期工事が開始されている 42

第三節:城下町の形成と防衛思想

江戸時代の金沢城は、城郭単体で完結するものではなく、城下町全体を含めた壮大な都市防衛システムの中核として構想されていた。

高山右近の設計に基づき、慶長4年(1599年)に内惣構、慶長15年(1610年)には外惣構が完成し、城下町の主要部を二重の堀と土塁で囲む、巨大な城塞都市が完成した 25 。これにより、金沢は江戸、大坂、京都に次ぐ大都市へと発展していく 50

度重なる火災の経験から、防火対策は喫緊の課題であった。寛永9年(1632年)、3代藩主前田利常は、犀川の上流から約11キロメートルに及ぶ用水路を開削し、城内へと水を導くという大事業を成し遂げた 25 。これが「辰巳用水」である。高低差のある地形を克服するため、「伏越の理」と呼ばれる逆サイフォンの原理を応用するなど、当時の日本の土木技術の粋を集めたこの用水は、城内の防火用水として、また庭園の水源として大きな役割を果たした 50

さらに、前田家は城下町の防衛思想として、巧みな寺院配置を行った。城から見て鬼門にあたる北東の卯辰山山麓、裏鬼門の南西の寺町、そして南東の小立野という三方に、浄土真宗以外の寺院を宗派ごとにまとめて戦略的に配置したのである 27 。これらの寺院群は、平時には信仰の場であるが、有事の際には敵の侵攻を食い止める防衛拠点として機能するよう意図されていた。これは、かつて一向一揆の宗教的拠点に苦しめられた経験を逆手に取った、巧みな都市計画であった。

第五章:城郭技術の結晶 ― 金沢城の構造と意匠

金沢城は、その歴史的背景だけでなく、城郭として用いられた技術や意匠の面でも特筆すべき特徴を数多く有している。特に、時代ごとに異なる技法で築かれた石垣群は圧巻であり、城郭建築と庭園美学が見事に融合した空間は、加賀百万石の財力と美意識を雄弁に物語っている。

第一節:「石垣の博物館」と称される所以

金沢城が「石垣の博物館」と称されるのは、戦国時代末期から江戸時代後期に至るまでの、様々な石積みの技法が一つの城内に共存しているためである 35 。これらの石垣は、単なる技術の変遷を示すだけでなく、それぞれの時代の政治状況、要求される機能、そして美意識の変化を反映している。

  • 野面積み(のづらづみ) : 自然石をほとんど加工せずに積み上げる、最も古風な技法。東の丸北面石垣などにその姿を見ることができ、文禄期(1592年~)に築かれた城内最古の石垣とされる 55 。隙間が多く見た目は粗いが、排水性に優れ、戦乱の世における防御機能と築城の速度を優先した、戦国時代の気風を今に伝えている。
  • 打込接(うちこみはぎ) : 石の接合面や表面を槌で叩いて加工し、石同士の隙間を減らした技法。野面積みよりも高く、急勾配に積むことが可能で、三の丸の石垣などに用いられている 55 。実用性と見た目の荘重さを両立させた、加賀藩の支配が安定した江戸初期から中期にかけての標準的な技法である。
  • 切込接(きりこみはぎ) : 石を方形や多角形に精密に加工し、隙間なく積み上げる最も高度な技法。本丸への入口である鉄門跡の石垣など、城の最重要部に用いられた 55 。高い技術力と膨大な労力を要するこの技法は、もはや防御機能のためだけでなく、泰平の世における藩の権威と卓越した美意識を誇示するためのものであった。

これらの石垣に用いられた石材のほとんどは、金沢市郊外の戸室山から切り出された「戸室石」である 6 。赤みを帯びた「赤戸室石」と青みがかった「青戸室石」の二種類があり、加工が比較的容易であったことが、金沢城の多様な石垣表現を可能にした一因と考えられている 57

また、石垣の表面には、普請を担当した家臣団を示す家紋や記号などの「刻印」が数多く残されている 56 。これは、大規模な土木工事を効率的に進めるための、高度な管理システムが存在したことを示す貴重な証拠である。石垣を読み解くことは、加賀藩の技術史のみならず、その優れた統治・経営の歴史を読み解くことにも繋がるのである。


表1:金沢城に見られる主要な石垣積法の比較分析

積石技法

時代

特徴

城内の代表的な場所

技術的・意匠的意義

野面積み (自然石積み)

文禄期~江戸初期

自然石をほぼ加工せずに積む。隙間が多く、排水性に優れるが、見た目は粗い。

東の丸北面石垣、東の丸東面石垣

城内最古の技法。防御機能と築城の速度を優先した、戦国時代の気風を伝える。

打込接 (粗加工石積み)

江戸初期~中期

石の接合部や表面を叩いて加工し、隙間を減らす。野面積みより高く積める。

三の丸石垣、鯉喉櫓台石垣

実用性と見た目の両立を図った技法。加賀藩の安定期における標準的な石垣。

切込接 (切石積み)

江戸中期~後期

石を方形や多角形に整形し、隙間なく積む。高い技術を要し、見た目が美しい。

鉄門石垣、土橋門石垣、玉泉院丸庭園石垣群

泰平の世における権威と美意識の象徴。防御機能よりも意匠性を重視。

金場取り残し積み

宝暦期以降

切石積みの変種。石の縁のみを加工し、中央は粗いまま残す独特の意匠。

三十間長屋石垣

高度な技術力を誇示しつつ、力強さも表現する加賀藩独自の美意識の現れ。

色紙短冊積石垣

江戸中期

色紙(正方形)と短冊(長方形)の石を組み合わせた、極めて意匠性の高い石垣。

玉泉院丸庭園

城郭技術と庭園美学が完全に融合した傑作。軍事施設が芸術に昇華した例。


第二節:現存・復元建造物の機能美

金沢城の建造物には、実用的な機能と、それを超えた装飾美が見事に融合している。これは、加賀百万石の圧倒的な財力と文化水準が可能にしたものであり、「武」の力と「文」の美を両立させようとした前田家の矜持の表れである。

  • 石川門 : 国の重要文化財に指定されている金沢城の象徴的建造物 26 。城の裏門(搦手門)にあたるが、正面玄関と見紛うほどの威容を誇る 60 。これは、城の弱点である南東方面からの攻撃に備え、特に堅固に造られたためである 60 。高麗門と櫓門を組み合わせた「枡形門」という防御性の高い形式で、敵を枡形の空間に誘い込み、周囲から集中攻撃を加えるための構造となっている 61 。壁面の海鼠壁(なまこかべ)や、屋根を葺く鉛瓦(なまりがわら)は、防火性・防水性を高める機能と、独特の美しい外観を両立させている 6
  • 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 : 二の丸を防衛するために、内堀沿いに一直線に連なる壮大な建造物群 5 。菱櫓は、その名の通り平面が菱形(内角80度と100度)という全国的にも極めて珍しい形状を持つ 6 。これは、城壁の隅に建つ物見櫓として、より広い視野を確保し死角をなくすための、極めて合理的な設計である 65 。五十間長屋は、菱櫓と橋爪門続櫓を繋ぐ多聞櫓で、平時は武器庫として、有事には城壁そのものとして機能した 6
  • 三御門 : 城の主要な出入り口であった石川門、河北門、橋爪門は「三御門」と総称される 6 。中でも河北門は、三の丸の正面に位置し、実質的な大手門(正門)としての役割を果たした、石川門同様の堅固な枡形門である 6

これらの建造物に見られる鉛瓦は、金沢城の大きな特徴の一つである。木製の瓦に鉛の板を張り被せたもので、雪深い北陸の気候において、屋根の荷重を軽減するという実用的な目的があった 66 。同時に、有事の際にはこの鉛を溶かして鉄砲の弾丸に転用することも想定されていた 27 。機能性と軍事合理性を備えつつ、城全体に白銀の優美な景観を与えるこの鉛瓦は、加賀藩の思想を象徴する技術と言えるだろう。

第三節:城郭内の庭園 ― 玉泉院丸庭園の独創性

金沢城内には、武骨な防御施設だけでなく、歴代藩主が愛でた優美な庭園も存在した。その代表が「玉泉院丸庭園」である。この庭園は、2代藩主前田利長の正室・玉泉院が屋敷を構えた場所に、3代藩主利常が寛永11年(1634年)に作庭を始めたことに起源を持つ 69

この庭園の最大の独創性は、城郭の防御施設である「石垣」を、庭園を構成する主要な景観要素として大胆に取り込んでいる点にある 69 。池の底から周囲の石垣最上段までの高低差は実に22メートルにも及び、他に類を見ない立体的な空間を創り出している 69

その中でも白眉とされるのが、滝と一体化させた「色紙短冊積石垣」である 69 。色紙(正方形)や短冊(長方形)に切り揃えた戸室石をリズミカルに配置し、その中央にV字型の石樋を設けて水を落とすという、極めて意匠性の高いこの石垣は、城郭石垣の築造技術と、大名庭園の美学とが見事に融合した、金沢城ならではの傑作と言える 72 。防衛のための構造物であった石垣が、ここでは鑑賞の対象となる芸術作品へと昇華されているのである。この大胆な発想の転換は、加賀百万石の文化的な成熟度を如実に示している。

第六章:近代以降の歩み ― 史跡としての再生

明治維新を迎え、江戸時代が終焉すると、金沢城もまた大きな時代の変革の波に洗われることとなる。加賀藩の藩庁としての役割を終えた城は、新たな時代の要請に応じてその姿を変え、破壊と再利用の歴史を経て、現代の歴史公園として再生されるに至った。

明治維新後の変貌

明治4年(1871年)の廃藩置県により、金沢城は前田家の手を離れ、新たに設置された兵部省(後の陸軍省)の管轄となった 25 。以後、城址は帝国陸軍第九師団の司令部が置かれるなど、北陸地方における軍事拠点として利用されることになる 26 。この軍用化に伴い、二の丸御殿をはじめとする江戸時代の壮麗な建造物の多くが解体・撤去され、城郭としての景観は大きく損なわれた。明治14年(1881年)には、兵営からの失火により、橋爪門や五十間長屋など、かろうじて残っていた二の丸の主要建造物も焼失してしまった 25

戦後から平成へ

第二次世界大戦後、軍事施設としての役割を終えた金沢城址は、昭和24年(1949年)に新設された金沢大学の丸の内キャンパスとして新たなスタートを切った 25 。以後、平成7年(1995年)に大学が郊外の角間キャンパスへ統合移転を完了するまでの約半世紀間、城址は学問の府として、多くの学生や教職員で賑わった。この時代、城郭の遺構は大学施設の背後に隠れる形となったが、都市の中心であり続けることで、人々の記憶から消え去ることは免れた。

この近代における軍事施設や教育施設としての「再利用」は、城郭としての本来の機能や景観の「破壊」を意味した。しかし、もし城址が完全に放置されていれば、ただの荒れ地と化していた可能性も否定できない。新たな形で都市機能の一部となり、市民にとって身近な存在であり続けたことが、後の歴史的価値の「再発見」へと繋がる土壌を育んだのである。

金沢城公園としての整備

平成7年(1995年)の金沢大学移転完了は、金沢城にとって新たな歴史の幕開けとなった。石川県は国から城址を取得し、歴史的文化遺産として保存・活用するための「金沢城公園」としての整備事業を開始した 27

この整備事業の基本方針は、単なる緑地公園化ではなく、江戸時代後期の姿を基本とした、史実性の高い城郭の復元であった 36 。平成13年(2001年)、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓という二の丸の象徴的建造物が、伝統的な木造軸組工法によって復元されたのを皮切りに、精力的な復元整備が進められてきた 27

その後も、実質的な大手門であった河北門(平成22年、2010年)、かつてテニスコートとなっていたいもり堀の水堀としての復元(平成22年、2010年)、独創的な美しさを持つ玉泉院丸庭園の再現(平成27年、2015年)、そして黒漆喰の海鼠壁が特徴的な鼠多門の復元(令和2年、2020年)など、次々と往時の姿が蘇っている 25

これらの復元事業においては、古絵図や文献、発掘調査の結果に基づき、史実を尊重することが徹底されている 36 。また、木材には能登ヒバなどの県内産材を多用し、石垣の修復や建物の建築には地元の職人の伝統技術が活かされるなど、地域の歴史と技術の継承という側面も重視されている 78 。この「破壊」から「再利用」、そして「再発見」と「再生」へと至るプロセスは、日本の多くの城郭が辿った近代史の縮図であり、金沢城はその代表的な成功例と言えるだろう。

終章:時を超えて語りかける城

金沢城の歴史は、一つの静的な「点」ではなく、時代と共に変容し続けた動的な「線」の物語である。それは、本願寺門徒による信仰の砦「尾山御坊」に始まり、佐久間盛政による武家の城への劇的な転換、そして前田利家と高山右近による近世城郭への飛躍を経て、加賀百万石の府城として二百数十年にわたる泰平の世を統べるに至った。

その道のりは、天守の焼失や度重なる大火といった幾多の試練に見舞われたが、その度に加賀藩は不屈の精神と卓越した技術力、そして豊かな財力をもって城を再建し、時代の要請に応じてその機能を最適化させてきた。軍事拠点から行政・文化の中心へ、そして明治以降は軍事施設、学問の府へと役割を変えながら、金沢城は常にこの街の中心であり続けた。

現代において、金沢城は再びその姿を大きく変え、歴史公園として再生された。復元された菱櫓や五十間長屋の白亜の壁、河北門の威容、そして玉泉院丸庭園の精緻な美は、訪れる人々に加賀百万石の栄華を鮮やかに伝える。しかし、この城の真の価値は、目に見える壮麗さだけにあるのではない。城内に点在する、時代ごとに異なる表情を見せる石垣群は、それ自体が声なき歴史の証人である。野面積みの荒々しさは戦国の緊張を、切込接の精緻さは泰平の世の矜持を、そして石に刻まれた刻印は名もなき職人たちの営みを、我々に語りかけてくる。

金沢城の物語は、まだ終わってはいない。現在進行中である二の丸御殿の復元事業は、この城が未来に向けて進化し続ける存在であることを示している。金沢城は、単なる過去の遺物ではない。その石垣の一つ一つ、復元された建造物の木組みの一本一本が、各時代の政治、技術、文化を内包し、時を超えて我々に語りかける、壮大な「生きた歴史書」なのである。

引用文献

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