最終更新日 2025-08-25

長谷堂城

出羽の堅城、長谷堂城は「北の関ヶ原」の舞台。志村光安が直江兼続の大軍を釘付けにし、徳川家康の天下統一に貢献した。その巧妙な防御と武将たちの死闘は今も語り継がれる。

長谷堂城 ― 北の関ヶ原、天下分け目の礎となった出羽の堅城

序章:出羽の堅城、天下分け目の礎

日本の戦国史において、一地方の山城が天下の趨勢に決定的な影響を及ぼす例は稀である。出羽国(現在の山形県山形市)に存在した長谷堂城は、まさにその稀有な事例として、歴史にその名を深く刻んでいる。この城は、関ヶ原の戦いとほぼ同時期に繰り広げられた「慶長出羽合戦」、通称「北の関ヶ原」の主戦場となった 1 。その名は、当代随一の知将と謳われた直江兼続が率いる2万余の大軍を、城将・志村光安がわずか1千余の兵で半月もの間、完全に釘付けにした「難攻不落の城」としての武勇伝と共に語り継がれている 3

長谷堂城は、単に堅固な要塞であっただけではない。その存在は、徳川家康率いる東軍の勝利という、日本の歴史を画する一大変革において、間接的ながらも極めて重要な戦略的役割を果たした。もしこの城が早期に陥落していれば、東北の勢力図は一変し、関ヶ原の本戦にまでその影響が波及した可能性は否定できない。

本報告書は、長谷堂城の地理的優位性と巧妙な城郭構造を分析し、その歴史的変遷、とりわけ慶長出羽合戦における詳細な攻防の軌跡を徹底的に追跡する。そして、なぜこの小規模な山城が、戦国末期の巨大な歴史の奔流に抗い、さらにはその流れを左右するほどの戦略的価値を持ち得たのか、その本質を多角的に解き明かすことを目的とする。

第一部:長谷堂城の実像 ― 叡智の結晶としての城郭

長谷堂城の難攻不落ぶりは、単に将兵の勇猛さのみに起因するものではない。その根底には、地形を最大限に活用し、叡智を結集して築かれた、極めて合理的かつ巧妙な城郭構造が存在した。

第一章:地理的・戦略的要衝として

城の価値は、その立地によって大きく左右される。長谷堂城は、山形盆地の軍事・交通の要衝に絶妙な位置を占めていた。

立地と地勢

長谷堂城は、山形盆地の南西端、標高約229メートルの独立丘陵に築かれている 4 。周囲は広大な水田地帯に囲まれ、敵の大軍が容易に取り付くことを許さない、天然の要害をなしていた 1 。麓からの比高は約85メートルあり、攻め手にとっては常に仰角での攻撃を強いられる地形であった 1

さらに特筆すべきは、その卓越した眺望である。山頂の主郭からは、北東に最上氏の本拠である山形城、北西に後に敵将・直江兼続の本陣が置かれることになる菅沢山、そして東には蔵王連峰までを一望できた 2 。この広大な視界は、敵軍の動向を早期に察知し、的確な迎撃態勢を整える上で計り知れない価値を持っていた。また、籠城中も本城である山形城を視認できることは、守備兵の士気を維持する上で重要な心理的支えとなったであろう 8

交通の結節点

長谷堂城は、米沢(上杉領)と山形(最上領)を結ぶ主要街道であった小白府街道や狐越街道を押さえる戦略上の要地に位置していた 10 。これは、南方の置賜地方から侵攻してくる上杉氏に対する、山形城防衛網の最前線であり、第一の防衛拠点としての役割を担っていたことを意味する。この城を突破されない限り、敵は山形盆地の心臓部へ進軍することができない。まさに最上領の喉元に突き付けられた刃を防ぐ「盾」であった。

名称の由来

この城には二つの名が伝わっている。

  • 長谷堂城 : 城の名前は、城内にあった長谷堂観音に由来すると考えられている 8 。この寺院は最上三十三観音の第十二番札所であり、古くからの信仰の地であった 6 。伝承によれば、源頼義が前九年の役の際に、守護仏であった大和長谷寺の観音像をこの地に祀ったのが始まりとされる 11 。地域の信仰の中心が城郭内に存在したことは、城と地域社会の強い結びつきを示唆している。
  • 亀ヶ城 : 城が築かれた山の形状が、あたかも亀がうずくまっている姿に見えることから付いた別名である 4 。堅固な甲羅を持つ亀のイメージは、この城の難攻不落ぶりを象徴するにふさわしいものであった。

第二章:難攻不落の城郭構造

長谷堂城の防御力の核心は、独立丘陵という地形を徹底的に加工し、多重の防御施設を極めて効果的に配置した、その縄張り(城の設計)にある。

縄張りの全体像

長谷堂城は、山頂に主郭を置き、そこから同心円状に曲輪を配置した連郭式の山城である 7 。この設計思想の最大の利点は、主郭が城全体の司令塔として機能し、城内のあらゆる場所を見渡せるため、統一的な指揮命令系統を確立しやすい点にあった 1 。敵がどの方向から攻めてきても、主郭からの指示で連携した防御が可能となる、極めて実践的な構造であった。

防御施設の徹底解説

城内には、敵の侵攻を段階的に削ぎ、最終的には主郭への到達を不可能にするための、多様な防御施設が網の目のように張り巡らされていた。

  • 主郭(本丸) : 城の最高所(標高約229メートル)に位置する、東西約70メートル、南北約78メートルの広大な平坦地である 13 。城全体の指揮を執る司令塔であり、最後の拠点でもあった。ここから山形城を一望できたことは、前述の通り、籠城兵にとって大きな精神的支柱となった 7
  • 帯曲輪群 : 山腹の等高線に沿って造成された、細長い段々状の曲輪群である 4 。特に、城の北西斜面、すなわち直江兼続の本陣が置かれた菅沢山に正対する位置に、幾重にもわたって重点的に配置されていた 1 。これは、偶然の配置ではなく、明確な意図をもって設計されたものである。最上氏が長年にわたり、南方の強大な隣国である上杉氏からの侵攻を最大の脅威とみなし、その主たる侵攻ルートを正確に予測した上で、防御施設を最適化していたことを示している。長谷堂城は汎用的な城ではなく、特定の敵(上杉軍)を迎え撃つために特化した、「対上杉仕様」の迎撃要塞であったと言える。
  • 虎口(枡形・喰違い) : 虎口とは曲輪への出入り口であり、城の防御の要である。長谷堂城には、四角い空間で敵を囲い込み三方から攻撃を加える「枡形虎口」や、通路を意図的に屈曲させて敵の直進を妨げる「喰違い虎口」といった、高度な技術が用いられていた 1 。これらの巧妙な仕掛けは、敵兵の勢いを削ぎ、城内への侵入を極めて困難なものにした 2
  • 横矢掛り : 防御ラインを直線的にせず、一部を突出させることで、側面(横)から矢や鉄砲を射掛けるための構造である 1 。主郭直下などに効果的に配置され、通路を進む敵兵に対して十字砲火を浴びせることが可能であった 1
  • 切岸 : 斜面を人工的に削り出して造った、切り立った崖である 1 。長谷堂城には最大で高低差が10メートルにも及ぶ巨大な切岸が存在し、物理的に兵の登攀を阻む、単純かつ極めて強力な防御施設として機能した 1
  • 堀(水堀・二重横堀) : 山城でありながら、麓には城全体を一周する水堀が存在したことが近年の発掘調査で確認されている 1 。さらに山腹の斜面には、空堀と土塁を二重に組み合わせた「二重横堀」も設けられており、幾重にもわたる防御ラインを形成していた 1
  • 土塁 : 八幡崎口など、比較的緩やかで防御が手薄になりがちな登城路の峰筋には、土を盛り上げた土塁が築かれていた 1 。これにより、敵の攻撃正面を限定させ、防御を集中させることができた。
  • 生物学的防御(シャガの群落) : 長谷堂城の防御思想のユニークさを示すのが、シャガ(アヤメ科の植物)の利用である。城内の急斜面にはシャガが群生しているが、これは意図的に植えられたものと考えられている 1 。シャガの葉は滑りやすく、鎧を着た兵士が攻め上る際に足元を滑らせ、体勢を崩させる効果を狙ったものとされる 1 。自然物を巧みに軍事利用した、先人の知恵の結晶である。

慶長出羽合戦という最大の危機を乗り越え、徳川の治世が始まると、城の役割にも変化が見られる。合戦後に城主となった坂光秀は、統治の利便性を考え、山麓に「御殿」を築いたと伝わる 1 。これは、常に臨戦態勢を強いられた戦乱の時代の「戦うための山城」から、平時の政治・経済を司る「統治のための拠点」へと、城の機能が移行し始めたことを示す象徴的な出来事である。この変化は、日本全体の城郭史が山城から平城・陣屋の時代へと移り変わっていく大きな歴史的潮流を、長谷堂城という一つの城が体現していることを物語っている。

表1:長谷堂城の主要防御施設一覧

施設名

配置場所

機能・役割

主郭(本丸)

山頂最高所

城全体の司令塔、最後の拠点。

帯曲輪群

北西側山腹など

段々状の防御陣地。対上杉軍を意識した配置。

枡形虎口

主郭直下など

四角い空間で敵を囲い込み、三方から攻撃する。

喰違い虎口

城内通路

通路を屈曲させ、敵の突進を阻害し、側面攻撃を可能にする。

横矢掛り

曲輪の突出部

防御ラインに角度をつけ、側面からの十字砲火を浴びせる。

切岸

急斜面

人工的に造成した崖。物理的に敵の登攀を不可能にする。

二重横堀

南西側山腹

二重の空堀と土塁で、斜面を登る敵の足を止める。

水堀

山麓部

城全体を囲む水堀。敵の接近を根本から阻む。

土塁

尾根筋

土を盛り上げた防壁。敵の侵攻ルートを限定する。

シャガの群落

急斜面

葉が滑りやすく、攻め上る敵兵の足元を奪う。

第二部:歴史の奔流の中の長谷堂城

長谷堂城は、築城から廃城に至るまで、常に出羽国の激しい勢力争いの最前線にあり続けた。特にその名は、戦国時代の最終局面である慶長出羽合戦において、不滅の輝きを放つこととなる。

第三章:築城から伊達氏との攻防まで

長谷堂城の正確な築城年代や築城者は不明であるが、出羽の支配者であった最上氏によって築かれたと考えられている 15

史料にその名が初めて登場するのは、永正11年(1514年)のことである 18 。この年、奥州の覇者・伊達稙宗が最上領に侵攻し、長谷堂城を攻略したという記録が残っている 1 。この敗戦により、最上氏は一時的に伊達氏の優位を認めざるを得ない状況に追い込まれた 4 。この事実から、長谷堂城が築城当初から、南方の伊達氏や後の上杉氏に対する極めて重要な戦略拠点と認識されていたことがわかる。

その後、城は最上氏の手に戻るが、両家の緊張関係は続いた。時代は下り、文禄3年(1594年)、最上義光の腹心であり、「最上四天王」の一人に数えられる智将・志村伊豆守光安が城主として入城する 15 。家中屈指の名将を配置したことからも、義光がこの城をいかに重視していたかが窺える。来るべき大戦に向け、長谷堂城はその防御能力を最大限に高められていったのである。

第四章:慶長出羽合戦 ― 長谷堂城、最大の輝き

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その戦火は遠く離れた出羽国にも飛び火した。長谷堂城は、この「北の関ヶ原」において、歴史の主役として躍り出ることになる。

第一節:背景―「北の関ヶ原」の勃発

豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が急速に台頭すると、同じく五大老の一人であった会津の上杉景勝との対立が先鋭化する。家康が景勝に上洛を命じたのに対し、景勝の家老・直江兼続が痛烈な皮肉と反骨心に満ちた返書、世に言う「直江状」を送りつけたことで、両者の対立は決定的となった 16

慶長5年6月、家康は景勝討伐(会津征伐)のため大軍を率いて東へ向かう。しかし、これは家康を畿内から引き離すための石田三成らの策であった。家康が下野国小山(現在の栃木県)に達した時、三成が西軍を率いて挙兵したとの報が届く。家康は直ちに軍を西へ返し、関ヶ原での決戦に臨むことを決意した 16

この間、家康は東北の諸大名に対し、背後から上杉領を攻撃するよう命じていた。出羽山形城主・最上義光は、当初は上杉方との協調も模索していたが、東軍優利と見て家康に与することを決断 16 。これにより、東北地方は会津120万石の上杉景勝(西軍)と、最上義光・伊達政宗ら(東軍)が激突する、もう一つの関ヶ原の戦いの舞台となったのである 5

第二節:上杉軍の侵攻と前哨戦

家康西上の報を受け、直江兼続は会津征伐軍の脅威が去ったと判断し、積年の宿敵である最上義光の討伐へと乗り出した。慶長5年9月8日、兼続を総大将とする2万から2万5千と号する上杉軍が、米沢から最上領へと侵攻を開始した 1 。対する最上軍は、領内各所の城に兵を分散させており、総兵力はわずか7千程度と、戦力差は圧倒的であった 23

上杉軍の最初の目標は、山形城の支城・畑谷城であった。9月12日、城は上杉軍に包囲される。城主・江口光清以下500余の城兵は、主君・義光からの撤退命令を拒否し、玉砕を覚悟で徹底抗戦した 5 。しかし、衆寡敵せず、畑谷城は一日で落城。城兵は全員討死した 5 。だが、この捨て身の抵抗は上杉軍にも1000名近い死傷者を出し、その後の進軍速度に少なからず影響を与えたと考えられている 23

第三節:籠城戦詳説―智将・志村光安の死闘

畑谷城を攻略した兼続は、次なる目標を山形城防衛の最重要拠点、長谷堂城に定めた。9月14日、兼続は長谷堂城から北へ約1.2キロメートルの地点にある菅沢山に本陣を構え、城を完全に包囲した 5

この時、長谷堂城を守るのは、城将・志村光安と、援軍として駆けつけた猛将・鮭延秀綱、そして彼らが率いるわずか1千余の兵のみであった 3

運命の9月15日、美濃国関ヶ原で東西両軍が激突したまさにその日、長谷堂城でも上杉軍による総攻撃の火蓋が切られた 22 。ここから、約15日間にわたる壮絶な籠城戦が始まる 5 。志村光安は、兵力差を覆すべく、巧みな知略を駆使した。ある時は精鋭200名による決死の夜襲を敢行して上杉軍の陣を混乱させ、同士討ちを誘発させた 13 。また、副将の鮭延秀綱は、挑発のために稲刈りを行った敵の雑兵部隊に対し、騎馬隊と鉄砲隊を巧みに連携させてこれを撃退するなど、その武勇を遺憾なく発揮した 9

一方、本城の山形城で指揮を執る最上義光は、甥である伊達政宗に援軍を要請。政宗は叔父の留守政景率いる3千の兵を派遣し、山形城の東方に着陣させた 22 。この援軍は直接戦闘には参加しなかったものの、上杉軍の背後を脅かす存在となり、兼続が長谷堂城攻略に全兵力を投入することを躊躇させる、効果的な牽制となった 27

第四節:関ヶ原の報と伝説の撤退戦

9月29日、攻防が膠着する中、兼続の本陣に衝撃的な報せが届く。関ヶ原の本戦で西軍が大敗し、石田三成らが敗走したというのである 5 。この一報で、慶長出羽合戦の前提は根底から覆された。もはや最上領を攻略する大義名分も戦略的意味も失われた。兼続は自害を覚悟したが、年来の友であった傾奇者・前田慶次に「生きてこそ次の戦がある」と諫められ、全軍撤退という苦渋の決断を下した 23

10月1日、上杉軍が静かに撤退を開始すると、形勢は完全に逆転した。西軍敗北の報は最上方にも届いており、義光は自ら陣頭に立って、最上・伊達連合軍による猛烈な追撃戦を命じた 22 。須川周辺は凄惨な戦場と化し、追撃の先頭に立っていた義光の兜に敵の銃弾が命中するほどの激戦となった 22

この絶体絶命の危機において、上杉軍の殿(しんがり)を務めたのが前田慶次、水原親憲らであった。特に慶次は「負け戦こそ我が好物」と豪語し、鬼神のごとき働きで追撃軍を食い止めた 28 。彼らの奮戦により、兼続率いる本隊は壊滅を免れ、10月4日に米沢城への帰還を果たす 22 。この見事な撤退戦は、敵将である最上義光をして「まことに見事な大将軍である」と賞賛せしめたと伝えられている 5

この一連の戦いは、単なる地方の局地戦ではなかった。もし長谷堂城が早期に陥落し、上杉軍が山形城を包囲する事態となっていれば、伊達政宗は最上領の混乱に乗じて自領の拡大を狙うか、あるいは上杉との二正面作戦を強いられ、関ヶ原へ援軍を送る余裕はなかったであろう。長谷堂城が半月もの間、2万を超える上杉軍主力を出羽の地に釘付けにしたことは、徳川家康が関ヶ原の本戦に全神経を集中できる戦略的環境を間接的に創出したことを意味する。長谷堂城の籠城戦は、家康の天下統一戦略において、極めて重要な「時間稼ぎ」の役割を果たしたのである。

第五章:合戦を彩った武将たちの肖像

長谷堂城の戦いは、関わった武将たちの能力と器量を測る試金石となり、彼らの後世の評価を決定づけた。

  • 守将・志村光安 : 最上家臣団の中でも随一の知将と評され、弁舌にも優れた冷静沈着な人物であった 26 。長谷堂城での鉄壁の守備は、彼の評価を不動のものにした。この大功により、戦後は庄内・酒田3万石の城主に抜擢され、最上川河口の港町・酒田の発展に大きく貢献した 5 。彼の知略と胆力がなければ、最上家は滅亡の淵に立たされていたであろう。
  • 総大将・最上義光 : 愛娘・駒姫を豊臣秀次事件で理不尽に失うという悲劇を乗り越え 20 、東軍に与するという大きな賭けに勝利した。長谷堂城の奮戦によって稼いだ時間と、その後の論功行賞により、最上家は置賜地方を除く山形県全域と秋田県の一部を領する57万石の大大名へと飛躍を遂げた 5 。彼は、山形の城下町整備や最上川舟運の開発など、領国経営にも優れた手腕を発揮した名君でもあった 5
  • 攻将・直江兼続 : 豊臣秀吉から「天下の仕置を任せられる器」とまで高く評価された当代きっての知将であった 31 。しかし、長谷堂城の堅固な守りの前に、その戦略は完全に頓挫した。彼の輝かしい軍歴における数少ない、そして最大の敗北であった。だが、その後の完璧と評される撤退戦の指揮ぶりは、彼の非凡な戦術家としての一面を改めて証明し、かえってその評価を多角的なものにした 5
  • 勇将たち :
  • 鮭延秀綱 : 長谷堂城の副将として奮戦した猛将。その武勇は敵将・兼続をして「(武田)信玄・(上杉)謙信の時代にもこれほどの者は覚えなし」と言わしめたという逸話が残る 25
  • 前田慶次 : 天下御免の傾奇者として知られるが、その本質は義に厚い武人であった。上杉家に仕官後、この戦いに参加。絶望的な状況下で見せた殿での獅子奮迅の働きは、彼の武人としての真骨頂を示すものとして、後世に語り継がれている 28

第三部:その後の長谷堂城と遺産

慶長出羽合戦という最大の栄光の後、長谷堂城とそれを取り巻く人々の運命は、新たな時代の到来とともに大きく変転していく。

第六章:終焉と廃城

合戦後、論功行賞により志村光安が庄内・酒田へ移ると、代わって成沢城主であった坂紀伊守光秀が1万3千石で長谷堂城主となった 1 。前述の通り、坂氏は山麓に御殿を築き、城の機能は軍事拠点から平時の統治拠点へとその重心を移していった 13

しかし、栄華を極めた最上家にも翳りが見え始める。義光の死後、家督争いをはじめとする家中での内紛、いわゆる「最上騒動」が勃発。これが幕府に咎められ、元和8年(1622年)、57万石を誇った最上家は突如として改易の憂き目に遭う 4

幕府は周辺諸藩に最上領の城々の接収を命じた。この時、長谷堂城の受け取りを担当したのは、皮肉にもかつてこの城を攻めあぐねた敵将、上杉景勝であった 4 。志村光安らが命を懸けて守り抜いた堅城が、一滴の血も流されることなく、戦わずしてかつての敵の手に渡るという結末は、戦国の武勇がもはや通用しない、幕府の絶対的権威によって統制される新たな時代(江戸時代)の到来を象徴する出来事であった。その後、長谷堂城は幕府の命により破却され、廃城となった 4

第七章:史跡としての現代的価値

400年の時を経て、長谷堂城はその姿を大きく変えたが、今なお多くの歴史的価値と魅力を持ち続けている。

城跡公園としての現状

現在、城跡は「長谷堂城跡公園」として整備され、市民の憩いの場となっている 7 。山全体には、主郭跡をはじめ、帯曲輪、土塁、堀切といった遺構が良好な状態で残されており、往時の姿を偲ぶことができる 7 。登城口には駐車場やトイレ、散策マップも完備され、歴史ファンやハイカーが気軽に訪れることができるよう配慮されている 2

歴史を物語る遺物

合戦の様子を今に伝える貴重な史料として、山形城址に隣接する最上義光歴史館が所蔵する「長谷堂合戦図屏風」がある 7 。この屏風には、鉄の指揮棒を振るう最上義光、鉄砲隊に守られながら退却する直江兼続、そして両軍の主要な武将たちの姿が生き生きと描かれており、当時の戦いの様相を視覚的に理解することができる 19 。これは単なる美術品ではなく、地域の英雄たちの偉業を後世に語り継ぐための装置として、極めて高い歴史的価値を持っている。

豊かな自然と地域社会

長谷堂城跡は、歴史遺産であると同時に、豊かな自然環境が保全された場所でもある。城山にはカモシカやリスが生息し、国蝶オオムラサキの姿も見られるという 1 。また、春には春日神社のシダレザクラが見事に咲き誇り、秋には西側斜面にヒガンバナが群生するなど、四季折々の美しい景観が楽しめる 1

このように、長谷堂城跡は単なる過去の遺物として放置されているわけではない。公園として整備され、豊かな自然が守られ、多くの市民に親しまれているという事実は、この地が山形という地域社会のアイデンティティの一部として深く根付いていることを示している。長谷堂城は、過去の戦いの記憶を風化させることなく、地域の誇りとして現代に継承されている、生きた歴史遺産なのである。

結論:長谷堂城が歴史に刻んだもの

出羽の山城、長谷堂城は、その巧妙かつ堅固な城郭構造と、志村光安をはじめとする将兵の決死の覚悟と卓越した戦術によって、戦国末期の天下分け目の大戦において、一地方の城という枠を遥かに超えた決定的な役割を果たした。

その歴史的意義は大きい。第一に、上杉軍の主力を出羽の地に釘付けにしたことで、関ヶ原における東軍の勝利に間接的ながらも大きく貢献した。第二に、この戦いの勝利が、最上家を57万石という大大名へと押し上げる直接的な礎となった。その一方で、戦乱を生き抜いた城が、平時の内紛によって主家もろとも滅び、かつての敵将に接収されるという皮肉な結末は、戦国の論理が終焉し、徳川幕府による新たな秩序が確立された時代の到来を象徴している。

長谷堂城の物語は、我々に多くのことを教えてくれる。それは、地形を読み解き、知恵を絞ることで寡兵が大軍に伍する可能性を示した卓越した防御思想であり、極限状況下で発揮される人間の知恵と勇気の尊さであり、そして武勇のみでは抗えない歴史の非情さである。史跡として、また地域の憩いの場として、その価値は未来永劫語り継がれていくべき、日本の貴重な文化遺産である。

引用文献

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