最終更新日 2025-08-25

陸奥福島城

十三湊を支配した安東氏の拠点、陸奥福島城。国際交易で栄えたが、津軽大乱と南部氏の台頭により落城。北奥の戦国時代幕開けを告げ、安東氏の流転の歴史を物語る。

北の王者・安東氏の拠点「陸奥福島城」の興亡 ― 十三湊の繁栄と戦国の動乱

序論:陸奥国における「福島城」の特定と本報告書の視座

日本の城郭史において、「福島城」という名称を持つ城は複数存在する。この名称の重複は、特に陸奥国(後の陸羽両国)の歴史を研究する上で、しばしば混乱の原因となる。本報告書の主題である、戦国時代という視点から見た「陸奥福島城」を徹底的に調査するにあたり、まず最も重要な課題は、その対象を明確に特定することである。

利用者より提示された概要は、青森県五所川原市相内に存在し、中世に十三湊(とさみなと)を支配した安東(安藤)氏の居城であった城郭を指している [利用者提供情報]。一方で、収集された資料には、福島県福島市に位置し、近世に福島藩の藩庁が置かれた城郭の情報も含まれている 1 。両者は時代も、所在地も、歴史的役割も全く異なる。本報告書の学術的信頼性を担保するため、冒頭でこの二つの「福島城」を明確に峻別し、本論の対象を定義する。


表1:二つの「福島城」の比較

項目

福島城(青森県五所川原市)

福島城(福島県福島市)

所在地

青森県五所川原市相内

福島県福島市杉妻町

別名

十三湊安藤氏城館

大仏城、杉妻城(杉目城)

城郭形態

平城

平城

主要城主

安東氏(安藤氏)

伊達氏、木村氏、上杉氏、板倉氏など

築城年代

10世紀後半説、14世紀初頭説など諸説あり

不明(15世紀初頭には存在)

廃城年代

1443年(嘉吉3年)頃

1873年(明治6年)

歴史的役割

中世の国際交易港「十三湊」の支配拠点

福島藩の藩庁、信達地方の政治的中心

現在の状況

国史跡「十三湊遺跡」の一部として保存

福島県庁、紅葉山公園など


この比較が示す通り、本報告書が対象とするのは、前者、すなわち 青森県五所川原市の福島城 である。この城は、国史跡「十三湊遺跡」の中核をなす領主居館跡であり、安東氏の政治・軍事・経済活動の司令塔であった 4

次に、「戦国時代という視点」について考察する。福島城は、通説では1443年頃に廃城となっており、これは応仁の乱(1467年)に始まる一般的な戦国時代の画期よりも早い。しかし、城の歴史的意義をその機能停止時点のみで評価するのは一面的である。本報告書では、この城の 崩壊が、津軽地方における戦国時代の権力構造を規定する決定的な画期となった という、より長期的かつ構造的な視座を採用する。すなわち、安東氏の没落が引き起こした権力の真空状態と、その後の南部氏による支配体制の確立、そしてそれに続く大浦氏(後の津軽氏)の独立という一連の動乱の序章として、福島城の終焉を位置づけるものである。

さらに、この二つの福島城が後世に混同されがちであるという事実自体が、一つの歴史的現象を象徴している。それは、中世に日本海交易と北方世界との結節点として栄華を誇った十三湊と福島城が、近世以降、江戸を中心とする太平洋側の物流網と米を基盤とした幕藩体制が主流となる中で、歴史の記憶から周縁化されていった過程を示唆している。したがって、本報告書は、単なる一城郭の歴史に留まらず、福島城の興亡を通じて、中世北日本に存在した独自の海洋交易国家の盛衰と、それが戦国という新たな時代へと移行していくダイナミズムを解明することを目的とする。

第一章:十三湊の支配拠点、福島城の実像

陸奥福島城は、単独の軍事要塞ではなく、中世日本を代表する国際港湾都市「十三湊」と不可分一体の統治中枢であった。その構造と立地は、城主であった安東氏の権力がいかにして形成され、維持されていたかを雄弁に物語っている。

1-1. 地理的・戦略的位置

福島城は、津軽半島の日本海側に位置し、岩木川が注ぎ込むことで形成された潟湖・十三湖の北岸に広がる微高地に築かれた 5 。この立地は、軍事・経済の両面において絶妙な戦略性を有していた。城の目前に広がる十三湖は、砂州によって荒々しい日本海から隔てられた天然の良港であり、穏やかな内海は数多くの交易船にとって安全な停泊地を提供した 8 。福島城はこの港湾機能を直接管理・防衛するための拠点であり、十三湊に出入りする全ての船舶と物資をその統制下に置くことが可能であった。

さらに、城の背後には津軽平野が広がり、大河・岩木川の水運を利用することで、内陸部の物資集積地とも緊密に結ばれていた 9 。これにより、安東氏は日本海航路を通じて西国や大陸からもたらされる物資と、津軽内陸部や北方世界(蝦夷地)の産物を集散させる結節点としての機能を掌握し、莫大な利益を独占する体制を築き上げた。福島城は、まさにこの海と陸の富が交差する地点に君臨する支配者の拠点だったのである。

1-2. 考古学調査が明かす城郭構造

1991年(平成3年)以降に本格化した十三湊遺跡の発掘調査により、伝説上の存在であった福島城の壮大な姿が具体的に明らかになった 5 。城は約62万5,000平方メートルという広大な面積を誇り、支配者の居住・政務空間である「内郭(内城)」と、それを防衛し都市機能を内包する「外郭(外城)」からなる、計画的な二重構造を有していたことが判明している 4

内郭(内城)

内郭は、一辺が約200メートル四方の厳格な方形を呈し、安東氏本宗家の居館があった中心区画と推定されている 4。四方は幅広の堀と堅固な土塁によって厳重に囲繞され、その内部からは武家屋敷跡が発見されている 6。これは、福島城が単なる戦闘拠点ではなく、安東氏の政庁であり、一族が日常生活を営む邸宅としての性格を強く帯びていたことを示している。

外郭(外城)

外郭は、一辺が約1キロメートルにも及ぶ巨大な三角形の区画で、内郭を大きく取り囲むように配置されていた 4。特に東端部には、台地を南北に分断するように大規模な土塁と空堀(外郭東土塁)が構築されており、これが十三湊都市圏全体の第一次防衛ラインを形成していた 4。この広大な外郭の内部には、安東氏の一族や有力家臣団の屋敷に加え、交易に従事する商人や、武具や生活用品を生産する職人たちの居住区、そして商品の倉庫などが計画的に配置されていたと考えられている 7。

この内郭と外郭の構造は、単に防御を二重にしただけではない。それは、支配者である安東氏の空間と、その権力基盤を支える家臣、商人、職人といった被支配者層の空間を明確に区画しつつ、後者を城壁内に取り込み保護・管理するという、中世的な都市支配の思想を物理的に体現したものである。安東氏の権力が、土地からの年貢収入だけでなく、外郭に住まう人々の経済活動そのものに深く依存していたからこそ、彼らの活動領域を防衛線内に収める必要があった。福島城は、城と町が一体化した「城郭都市」の卓越した事例であり、その構造自体が安東氏の権力の特質を物語っているのである。

1-3. 築城年代を巡る諸説の再検討

福島城の築城年代については、複数の伝承と説が存在する。一つは、前九年の役(1051年〜1062年)で知られる安倍氏の一族、安倍貞季(安東貞季)が10世紀後半頃に築いたとする伝承である [利用者提供情報]。もう一つは、鎌倉時代後期の正和年間(1312年〜1317年)頃に築かれたとする説である 7

これらの伝承に対し、考古学的な調査結果は異なる様相を提示している。十三湊遺跡全体からの出土遺物を分析すると、12世紀後半から13世紀にかけての中国産白磁や珠洲焼などが確認されており、この時期から十三湊が港として機能し始めたことが示唆される 12 。そして、港が本格的な都市として発展し、支配者の拠点として福島城のような大規模な城館が築かれるのは、安東氏が鎌倉幕府から「蝦夷沙汰代官職」に任じられ、北方交易の拠点として十三湊を本格的に経営し始める13世紀以降と考えるのが最も合理的である 13 。したがって、築城の正確な年次は特定できないものの、福島城の成立は、伝承よりもやや下る鎌倉時代、十三湊の発展と軌を一にするものであった可能性が高い。

第二章:安東氏と十三湊の繁栄 ― 北の海の王者の経済基盤

福島城を拠点とした安東氏の権勢は、中世日本の他の武士団とは一線を画す、特異な経済基盤の上に成り立っていた。それは土地支配からの年貢収取ではなく、国際港湾都市・十三湊を掌握することによる交易利潤の独占であった。安東氏は、いわば「北の海の王者」として、日本海と北方世界を結ぶ広大な交易ネットワークを支配していたのである。

2-1. 国際交易港湾都市「十三湊」

十三湊の繁栄ぶりは、室町時代に成立したとされる海運の格式書『廻船式目』に、博多(福岡県)や堺(大阪府)といった日本を代表する港と並び、「三津七湊」の一つとして「奥州津軽十三湊」と記されていることからも窺い知ることができる 5 。これは、十三湊が単なる一地方の港ではなく、全国的な海上交通網において極めて重要な拠点として認識されていたことを示す動かぬ証拠である。

その重要性は、十三湊が持つ二重の性格に由来する。第一に、若狭や越前などから北上してくる日本海航路の事実上の北の終着点であったこと。第二に、当時の日本にとって「外国」であった蝦夷地(北海道・樺太)との北方交易の玄関口であったことである 9 。蝦夷地の毛皮や海産物は日本国内で高値で取引され、逆に日本の鉄製品や陶器、漆器などは蝦夷地で大きな需要があった 9 。安東氏は、この国内交易と国際交易が交差する結節点を支配することで、中継貿易の莫大な利益を手にしていたのである。

2-2. 出土遺物が語る富と交流

十三湊遺跡の発掘調査では、安東氏が蓄積した富と、その広範な交流を具体的に示す遺物が大量に出土している。その種類は驚くほど多様であり、当時の十三湊の国際性を物語っている。

出土品の中には、中国産の青磁や白磁、朝鮮半島の高麗青磁といった舶載陶磁器が数多く含まれている 8 。これらは、十三湊が大陸との直接的・間接的な交易ルートを持っていたことを示している。同時に、国内産品も豊富で、瀬戸焼(愛知県)、常滑焼(愛知県)、越前焼(福井県)、珠洲焼(石川県)など、日本海沿岸や中央部で生産された陶器が大量に見つかっている 12 。特に、東北地方では希少な京都系のかわらけ(素焼きの土器)がまとまって出土していることは、安東氏が室町幕府など中央政権とも深い繋がりを持っていたことを示唆している 5

これらの奢侈品や遠隔地産品は、十三湊が単なる物資の集散地ではなく、多様な文化が交流する消費都市でもあったことを示している。この経済力は文献史料によっても裏付けられており、応永30年(1423年)には、安東氏が室町幕府5代将軍・足利義量に対し、馬20頭、鳥5000羽、銭2万貫、ラッコの皮30枚、昆布500把といった豪華な献上品を贈った記録が残っている 18 。これは、安東氏が守護大名に匹敵するほどの経済力を有していたことを示している。

2-3. 安東氏の権力基盤 ― 海商的武士団としての性格

以上のような経済活動から、安東氏の権力の特質が浮かび上がってくる。彼らは、荘園や公領といった土地の支配を主たる基盤とする一般的な武士団とは異なり、港湾を掌握し、自身の武力(水軍)を背景に海上交通と交易を支配することで勢力を維持・拡大した、いわば「海商的武士団」と規定することができる 11 。彼らの支配領域は、固定された土地の広さ(石高)で測ることはできず、その影響力は交易ルートが及ぶ範囲、すなわち日本海から津軽海峡、蝦夷地にまで広がっていた。

この権力構造において、福島城は単なる居城以上の意味を持っていた。それは、海商国家の司令塔であり、交易品の集積・管理、航行の安全を保障する水軍の基地、そして港に出入りする船舶から通行料(津料)を徴収する関税庁の機能を併せ持つ、複合的な拠点であった。安東氏の繁栄は、この福島城と十三湊というハードウェアを、交易というソフトウェアで動かすことによって成り立っていたのである。この特異な権力基盤は、安東氏に莫大な富をもたらす一方で、港の支配権を失うことが権力基盤そのものの崩壊に直結するという、構造的な脆弱性も内包していた。

第三章:安東氏の権力構造と動揺 ― 津軽大乱から南部氏の台頭まで

安東氏が築き上げた十三湊の繁栄は、盤石なものではなかった。その権力構造は、一族の結束、北方世界との関係、そして中央権力からの公認という、複雑でデリケートなバランスの上に成り立っていた。鎌倉時代末期に発生した一族の内紛「津軽大乱」は、このバランスを大きく揺るがし、その後の安東氏の命運に暗い影を落とすことになる。

3-1. 安東氏の出自と「蝦夷沙汰代官職」

安東氏は、その出自を11世紀の北の英雄、安倍氏の末裔と称していた 11 。これは、津軽の土着豪族としての正統性を主張し、在地社会における権威を高めるための戦略であったと考えられる。彼らは蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌ民族と深い関わりを持つ勢力であり、その独自の立場が鎌倉幕府に注目されることとなる。

鎌倉幕府は、全国支配を確立する過程で、境界領域である北の辺境の統治を重視した。そこで、蝦夷との関係に長けた安東氏を、蝦夷との交易や紛争を管理し、津軽海峡一帯を統治する「蝦夷沙汰代官(えぞさただいかん)」、あるいは「蝦夷管領(えぞかんれい)」と呼ばれる特異な役職に任命した 11 。これは、安東氏が単なる津軽の一在地領主ではなく、幕府の国家統治の一翼を担う公的な地位を与えられたことを意味する。この幕府からの権威付けは、安東氏が北方交易を独占的に支配する上で極めて強力な後ろ盾となった。彼らの経済的繁栄は、この政治的特権と分かちがたく結びついていたのである。

3-2. 津軽大乱 ― 権力の揺らぎ

安東氏の権力が頂点に達しようとしていた鎌倉時代末期、その基盤を根底から揺るがす大事件が発生する。惣領の地位と蝦夷沙汰代官職を巡る一族の内紛、いわゆる「津軽大乱(安藤氏の乱)」である 11

この争乱は、1320年代、安東氏の圧政に反発した蝦夷の蜂起に端を発したとされる 22 。事態を収拾できない幕府は、惣領であった安東季長を罷免し、一族の季久(後の宗季)を新たな蝦夷沙汰代官に任命した 24 。しかし、この介入は事態を悪化させ、罷免された季長派と新任の季久派がそれぞれ蝦夷勢力を味方につけて津軽全土で激しく争うという、泥沼の内戦へと発展した 25 。幕府は鎮圧軍を派遣するも決定的な勝利を得られず、この混乱は鎌倉幕府滅亡(1333年)の一因になったとさえ言われている 18

津軽大乱が安東氏に残した傷跡は深かった。第一に、一族内に深刻な亀裂を生み、その結束力を決定的に弱体化させた。第二に、これまで支配・協力関係にあった蝦夷勢力との関係が不安定化した。そして第三に、絶対的な後ろ盾であった鎌倉幕府の権威が失墜し、その後の南北朝の動乱期を自力で乗り切らねばならなくなった。この事件は、安東氏の権力構造が内包する脆弱性、すなわち一族の不和、蝦夷との関係悪化、中央権力の動揺という三つのリスクを同時に露呈させたのである。

3-3. 南部氏の台頭と勢力圏の衝突

安東氏が内紛によって消耗し、その権力基盤に揺らぎが見え始めた室町時代、東方から新たな競合勢力が台頭する。糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部)を本拠地とする南部氏である 18

南部氏は、安東氏とは対照的に、内陸の広大な土地を支配し、農業生産を権力の基盤とする典型的な武士団であった。彼らは室町時代を通じて着実に勢力を拡大し、やがて安東氏が支配する津軽地方への進出を本格化させる。海洋交易に立脚する海洋勢力・安東氏と、土地支配に立脚する内陸勢力・南部氏。権力の源泉も、その世界観も全く異なる二大勢力の衝突は、北奥の覇権を巡る避けられない運命であった。津軽大乱によって内部に弱点を抱えた安東氏にとって、強固な組織力を持つ南部氏の膨張は、日に日に増大する脅威となっていったのである。福島城の落城へと至る道筋は、この時点で既に敷かれ始めていた。

第四章:福島城の落城と安東氏の北方転戦 ― 戦国時代の序章

15世紀半ば、安東氏と南部氏の対立はついに臨界点に達し、十三湊と福島城は戦火に包まれる。この北奥の覇権を賭けた激突は、安東氏一族の流転と十三湊の衰退をもたらし、津軽地方に新たな戦国の時代の幕開けを告げる号砲となった。

4-1. 南部氏の侵攻と十三湊の陥落

南部氏による本格的な侵攻は、二度にわたって行われた。第一次侵攻は永享4年(1432年)のことであった。この戦いの詳細は不明な点が多いが、安東氏は大きな打撃を受けたとされる。戦後、室町幕府の仲介によって両者の間には一時的な和睦が成立し、その証として安東盛季の娘が南部氏当主の南部義政に嫁いだ 26 。しかし、この政略結婚は根本的な対立を解消するには至らなかった。

決定的な破局は、嘉吉2年(1442年)に訪れる。南部氏は策略をもって再び十三湊に侵攻した 18 。この戦いで安東氏は大敗を喫し、翌嘉吉3年(1443年)、当主であった安東盛季は、繁栄を極めた本拠地・十三湊と福島城を放棄し、一族を率いて津軽海峡を渡り、蝦夷地へと逃避することを余儀なくされた 18

この落城の惨禍は、十三湊遺跡の発掘調査によっても裏付けられている。遺跡の中心部からは、15世紀前半の大規模な火災の跡が発見されており、焼けた土や大量の礫が廃棄された遺構が多数確認されている 5 。これらは、南部氏との抗争によって福島城を含む都市施設が焼き払われた際の、生々しい痕跡である可能性が極めて高い。百数十年以上にわたって北の海に君臨した安東氏の王国は、この時、灰燼に帰したのである。

4-2. 安東氏の流転 ― 檜山安東氏から秋田氏へ

蝦夷地へ逃れた安東氏のその後は、苦難の道のりであった。当主・盛季の直系は、再起をかけて津軽奪還を試みるも、子の康季は文安2年(1445年)に陣中で病死し、さらにその子の義季も享徳2年(1453年)に南部氏との戦いで敗死し、断絶してしまう 26

しかし、安東氏の血脈はここで途絶えなかった。盛季の甥の子にあたる安東政季が、蝦夷地から南下して出羽国(現在の秋田県)へ渡り、米代川中流域の檜山城(秋田県能代市)を新たな拠点として一族を再興した 26 。これが「檜山安東氏」の始まりである。彼らは、同じく安東氏の分家で秋田湊を拠点とする「湊安東氏」との間で内紛を繰り広げつつも、戦国時代を通じて勢力を拡大。最終的に16世紀後半、安東愛季の代に両家を統合し、出羽国北部を支配する戦国大名「秋田氏」として、近世大名へと繋がっていくのである 30 。かつて十三湊で培った海の民としての知見とネットワークは、形を変えながらも秋田の地で生き続けた。

4-3. 十三湊衰退後の津軽 ― 戦国時代の幕開け

主を失った十三湊は、急速にその輝きを失った。北奥における日本海交易の中心は、南部氏の支配下に入った油川湊(現在の青森市)などに移り、かつての国際港湾都市は一漁村へと衰退していった 18

福島城の落城と安東氏の退去は、津軽地方の権力地図を塗り替える決定的な出来事であった。これにより、津軽地方は名実ともに南部氏の支配領域に組み込まれた 32 。しかし、これは安定の始まりではなく、新たな動乱の序章であった。海洋勢力である安東氏という巨大な「蓋」がなくなったことで、南部氏宗家と、津軽に土着する南部氏配下の諸豪族との間に、新たな緊張関係が生まれることになった。

この構造的対立が、約1世紀半後に爆発する。南部氏の一族でありながら津軽の在地領主であった大浦為信(後の津軽為信)が、南部宗家に対して反旗を翻し、津軽地方の独立を達成するのである 33 。為信の独立戦争は、津軽地方における戦国時代のクライマックスであり、その遠い出発点には、福島城の落城があった。安東氏の敗走が南部氏による直接支配を招き、その支配への反発が為信の独立の土壌を育んだ。歴史は断絶せず、一つの終焉が次の時代の始まりを準備するのである。福島城の廃墟の上に、津軽の戦国時代は幕を開けたと言っても過言ではない。

結論:福島城が物語る中世北奥の興亡

本報告書で詳述してきた陸奥福島城の歴史は、単なる一地方城郭の盛衰に留まるものではない。それは、中世日本の境界領域(フロンティア)において、政治・経済・文化のダイナミズムを牽引した、特異な海洋交易国家の興亡を物語る壮大な叙事詩である。

福島城は、その構造と思想において、城主・安東氏の権力の特質を明確に反映していた。内郭と外郭からなる城郭都市の構造は、安東氏の権力が土地からの収取ではなく、十三湊を拠点とする交易活動そのものに根差していたことを示している。彼らは「海商的武士団」として、日本海と北方世界を結ぶ広大なネットワークを支配し、福島城はその司令塔として、また富と文化が集積する首都として機能した。出土した多種多様な国内外の陶磁器は、その繁栄と国際性を現代に伝える何よりの証左である。

しかし、その繁栄は、一族の結束、北方民族との関係、そして中央権力との連携という脆弱なバランスの上に成り立っていた。鎌倉時代末期の「津軽大乱」は、その内部に潜む亀裂を露呈させ、約一世紀にわたる長期的な衰退の序曲となった。そして、内陸の土地支配を基盤とする新たな勢力・南部氏の台頭により、15世紀半ば、福島城は戦火に飲まれ、安東氏は北の海の彼方へと去った。

福島城の落城と十三湊の衰退は、日本史における一つの大きな構造転換を象徴する画期的な出来事であった。それは、交易と海洋支配を基盤とする中世的な権力形態から、土地と農業生産を基盤とする集権的な領国支配へと移行していく、戦国、そして近世への時代の流れを先取りするものであった。安東氏が去った津軽の地が、南部氏の支配を経て、やがて津軽為信による下剋上の舞台となったことは、その歴史の連続性を如実に示している。

今日、国史跡「十三湊遺跡」として静かに眠る福島城跡は、我々に忘れられた「もう一つの中世日本史」の姿を語りかけている 5 。それは、中央集権的な歴史観だけでは捉えきれない、多様でダイナミックな地域世界の存在である。この貴重な文化遺産の保存と研究は、日本の歴史の豊かさと奥深さを再発見するための、未来に向けた重要な鍵を握っている。

引用文献

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  32. 【ホームメイト】青森県の著名な城4選 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/251/
  33. 津軽氏は津軽為信の時代に北東北最大勢力の南部氏から独立し弘前藩を築いた - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/20728/
  34. 津軽氏は津軽為信の時代に北東北最大勢力の南部氏から独立し弘前藩を築いた - Pinterest https://id.pinterest.com/pin/661044051595925742/
  35. 津軽為信(つがる ためのぶ) 拙者の履歴書 Vol.263~南部から自立、津軽の礎を築く - note https://note.com/digitaljokers/n/n19002500b580
  36. 十三湊遺跡 - 青森県庁 https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/kinen_siseki_16.html
  37. 十三湊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%B9%8A