最終更新日 2025-08-21

霧山御所

伊勢国司北畠氏の拠点霧山御所は、公武融合の都として栄えしが、信長の侵攻により滅亡。その石垣と庭園は、中世から近世への転換を語る。

伊勢国司北畠氏の拠点「霧山御所」の総合的考察 — 栄華、文化、そして滅亡の軌跡

序章:霧山御所、伊勢国司北畠氏の栄華と終焉

三重県津市美杉町の山深くに、南北朝以来の名門・伊勢国司北畠氏の拠点であった「霧山御所」(北畠氏館跡)は静かに佇んでいる。この地は単なる戦国大名の居館ではない。それは、公家としての高い権威と武家としての剛健さを併せ持った特異な大名、北畠氏の政治、文化、軍事の中心地として約240年間にわたり栄華を極めた「多気の都」であった 1 。霧山御所の先進的な石垣や優美な庭園は、京都の文化と地方の武家社会が融合して生まれた独自の領国経営の象徴である。しかし、その終焉は、旧来の権威を意に介さず、実力による天下統一を推し進めた織田信長によってもたらされた。霧山御所の落日は、中世的な価値観が崩壊し、近世へと移行する日本の歴史の転換点を象徴する、画期的かつ悲劇的な事件であった。

本報告書は、この霧山御所を、文献史学と城郭考古学の知見を統合し、多角的に分析することを目的とする。具体的には、第一章で北畠氏の出自と多気への本拠地移転の戦略的背景を解明し、第二章では発掘調査によって明らかになった御所の物理的構造とその政治的意図を探る。第三章では、北畠氏の文化的頂点を示す館跡庭園の美学と精神性を考察する。続く第四章と第五章では、織田信長の侵攻から「三瀬の変」という謀略による当主・北畠具教の暗殺、そして霧山城での最後の抵抗と滅亡に至る過程を詳述する。終章では、これらの考察を総括し、霧山御所が持つ歴史的意義と現代に遺された価値を明らかにする。


【表1:北畠氏主要人物と霧山御所関連年表】

年代

主な出来事

関連人物

典拠

建武2年 (1335)

北畠顕能、伊勢国司に任じられる。伊勢北畠氏の始まり。

北畠顕能

2

興国3年/康永元年 (1342)

北朝方の攻撃により田丸城が落城。北畠氏は多気へ拠点を移し、霧山城と御所を築いたとされる。

北畠顕能

1

応仁2年 (1468)

応仁の乱の最中、将軍足利義政の弟・義視が伊勢に下向し、国司・北畠教具と対面。

北畠教具、足利義視

6

享禄3年 (1530)頃

北畠氏館跡庭園が作庭される。管領・細川高国による作庭と伝わる。

北畠晴具、細川高国

7

永禄12年 (1569)

織田信長が伊勢に侵攻。北畠軍は大河内城に籠城するも和睦(大河内城の戦い)。

北畠具教、北畠具房、織田信長

3

元亀4年 (1572)

北畠具教、西上作戦中の武田信玄に密使を送り、反信長包囲網に加わろうとする。

北畠具教、武田信玄

9

天正4年 (1576) 11月25日

三瀬の変。信長・信雄の謀略により、北畠具教が三瀬御所で、一門が田丸城で殺害される。

北畠具教、織田信雄

9

天正4年 (1576) 12月

霧山城の戦い。北畠旧臣が籠城するも、羽柴秀吉らの大軍に攻められ落城。北畠氏は事実上滅亡。

北畠政成、羽柴秀吉

11


第一章:伊勢国司北畠氏の系譜と多気への道

1-1. 南朝の柱石 — 公家大名・北畠氏の出自

戦国時代に割拠した多くの大名が守護代や国人領主からのし上がった「下剋上」の体現者であったのに対し、伊勢の北畠氏はその出自において一線を画す存在であった。村上源氏を祖とする彼らは、後醍醐天皇による建武の新政、そしてそれに続く南北朝の動乱期において、南朝の柱石として中心的な役割を担った公家である 13 。特に、一族の北畠親房が著した『神皇正統記』は、南朝の正統性を理論的に支える思想的根幹となり、後世にまで大きな影響を与えた 1

この名門公家の血筋が伊勢の地に根を下ろすきっかけとなったのは、建武2年(1335年)、親房の三男である北畠顕能が伊勢国司に任じられたことに始まる 2 。以降、彼らは南北朝合一後も国司の地位を世襲し、単なる武力による支配者ではなく、朝廷から正式に地方統治を委任された「公家大名」として、その権威を保持し続けたのである 3 。この極めて高い格式と伝統的権威こそが、北畠氏の権力基盤の核心を成していた。

1-2. 伊勢への進出と拠点の変遷

北畠氏が伊勢国を戦略的拠点として選んだ背景には、二つの重要な要素があった。第一に、吉野に拠点を置く南朝と、南朝勢力が存在する東国とを結ぶ連絡路を確保するという軍事・政治的な必要性。第二に、皇室の祖神を祀り、国家鎮護の神として崇敬される伊勢神宮の存在である 1 。伊勢を掌握することは、南朝の生命線を維持し、その正統性を支える宗教的権威に影響力を行使する上で不可欠であった。

伊勢国司となった顕能が最初に本拠地としたのは、伊勢平野南部に位置する田丸城(現在の三重県玉城町)であった 1 。しかし、南北朝の争乱が激化する中で、田丸城は北朝方の度重なる攻撃に晒される。そして興国3年/康永元年(1342年)、ついに田丸城は陥落し、北畠氏は平野部における主要な拠点を失うことになった 1

1-3. 戦略的拠点「多気」の選択

田丸城の失陥後、顕能は伊勢の内陸山間部、多気(たげ)の地へと退き、新たな本拠を構えた 1 。この拠点移転は、単なる敗走ではなく、極めて高度な戦略的判断に基づくものであった。多気という土地が持つ地理的特性と交通上の重要性が、その選択の正しさを物語っている。

第一に、多気は四方を七つの峠に囲まれた盆地であり、防御に非常に適した天然の要害をなしていた 15 。外部からの侵攻を察知しやすく、少数の兵力で防衛することが可能な地形は、勢力の再建を図る上で理想的な環境であった。

第二に、多気は交通の要衝であった。この地は、大和の吉野と伊勢の港湾都市・大湊を結ぶ主要街道「伊勢本街道」の中継点に位置していた 5 。この街道を掌握することは、南朝の拠点である吉野との連携を維持し、伊勢神宮への影響力を保持し続ける上で決定的に重要であった 2 。平野部での直接的な領域支配から、山間部の要衝を抑え、人・物資・情報が往来する街道の結節点を支配する形態へと、その支配戦略を転換させたのである。

この戦略的選択により、北畠氏は南北朝合一後も伊勢国司としての地位を維持し、多気の地を拠点として約240年間にわたり、南伊勢から隣国の伊賀、大和南部にまで影響を及ぼす一大勢力として存続することに成功した 1 。彼らの権力は、単なる軍事力だけでなく、「国司」という京都の朝廷に由来する伝統的権威、伊勢神宮という宗教的権威、そして伊勢本街道がもたらす経済的・交通的支配力が複合的に絡み合った、極めて独特な構造をしていた。しかし、この伝統的権威への依存こそが、後にそれを全く意に介さない織田信長との致命的な対立構造を生む遠因となったのである。

第二章:霧山御所の構造と機能 — 発掘調査が語る実像

2-1. 城館一体の防御思想 — 詰城「霧山城」と居館「霧山御所」

多気における北畠氏の拠点は、中世山城の典型的な形態である「城館一体」の思想に基づいて構築されていた。平時の政務や居住空間として機能したのが、山麓に築かれた「霧山御所」(北畠氏館跡)であり、有事の際に最後の防衛拠点となるのが、背後の標高560mの山頂に築かれた詰城「霧山城」である 15

霧山城は、険しい自然地形を最大限に活用し、土塁や堀切といった防御施設を巧みに配置した堅固な要塞であった 5 。一方、霧山御所は単なる平時の館にとどまらず、それ自体が高度な防御機能と政治的権威を象徴する空間として設計されていた。この二つの施設が一体となることで、多層的な防御網と政治の中枢機能が両立されていたのである。

2-2. 権威の象徴 — 日本最古級の石垣遺構

霧山御所の発掘調査において、日本の城郭史を塗り替える可能性のある画期的な発見がなされた。それは、館跡を上下二段に明確に区画する、大規模な石垣の発見である 5

この石垣は、確認された部分だけでも長さ約28m、高さ約2.6mに及び、全体の総延長は90mにもなると推定されている 24 。さらに驚くべきは、その築造年代である。出土した遺物の分析から、この石垣は15世紀前半、すなわち1400年代前半に築かれたと考えられており、これは中世の城館跡から発見されたものとしては国内最古級に属する 22

戦国時代の城郭における本格的な石垣の使用は、織田信長の安土城以降に一般化するというのが通説である。それより1世紀以上も前に、これほど大規模で精巧な石垣が伊勢の山中に存在したという事実は、北畠氏が当時最先端の築城技術を導入できるだけの卓越した技術力、財力、そして何よりも高い権威を有していたことを物理的に証明している。この石垣は、単なる防御施設ではない。それは、北畠氏が自らの「国司」としての伝統的権威を、当時の最新技術を用いて可視化した「権威の装置」であった。訪れる者に対し、北畠氏の威光と京都の先進文化との繋がりを無言のうちに誇示する、計算され尽くした政治的空間演出だったのである。

2-3. 御所の空間構成と政務機能

発掘調査の進展により、霧山御所の内部構造も徐々に明らかになりつつある。前述の石垣によって上下二段に区画された館内には、計画的な空間利用の痕跡が見られる 5

館の中段から上段へと至る主要な入口、いわゆる「大手口」が発見されており、その幅は4.2mにも達する 24 。これは単なる住居の門ではなく、儀礼や公式な政務を強く意識した、壮大な構えであったことを示唆している。さらに、館の北側では門跡の可能性がある四つの大きな柱穴が、南側では優美な庭園が確認されており、公的・儀礼的な「ハレ」の空間と、私的・日常的な「ケ」の空間が明確に分離されていたと考えられる 25

北畠氏の拠点整備は御所内にとどまらなかった。八手俣川の対岸に位置する六田地区には「東の御所」と呼ばれる六田館跡が存在し、周辺からは計画的な町割りの痕跡が発見されている 24 。これは、霧山御所を中核として、家臣団の屋敷や寺社が配置された広大な城下町、すなわち「多気の都」が形成されていたことを示している。

2-4. 出土遺物が語る「多気の都」の生活

館跡からは、北畠氏とその家臣団の生活を垣間見ることができる多様な遺物が出土している。日常的に使用された土師器(はじき)に加え、施釉陶器や中国産の青磁、さらには建物の装飾に使われた引手金具などが見つかっている 24

これらの遺物は、多気の地が山深い場所でありながら、決して文化的に孤立していたわけではないことを物語っている。むしろ、京都や大陸との交易を通じて、高い生活水準と洗練された文化を享受していたことがわかる 1 。霧山御所は、政治・軍事の拠点であると同時に、文化都市としての性格を色濃く帯びていたのである。


【表2:戦国期主要大名の居館比較】

項目

霧山御所(北畠氏)

一乗谷館(朝倉氏)

躑腡ヶ崎館(武田氏)

立地

山間盆地

山間谷間

扇状地(平地)

防御施設

大規模な石垣(15世紀前半) 、土塁、堀

土塁、堀

堀、土塁、三日月堀

空間構成

石垣による二段構成。「ハレ」と「ケ」の分離。

複数の館が並立。整然とした区画。

方形館。曲輪の増設。

庭園

池泉・枯山水庭園(国名勝)

複数の庭園(特別名勝)

不明(武田神社境内)

詰城との関係

背後の山に霧山城(一体型)

背後の山に一乗谷城(一体型)

要害山城(分離型)

典拠

7

15

30


この比較から、霧山御所が、同じく山間部に拠点を置き文化的成熟を見せた一乗谷館と類似の性格を持つ一方で、その石垣の先進性において際立っていることがわかる。これは、北畠氏の権力構造と思想が、居館の形態に色濃く反映された結果と言えよう。

第三章:武将の庭 — 北畠氏館跡庭園の美学と文化的位置づけ

3-1. 作庭の背景 — 管領・細川高国と北畠氏の威光

霧山御所の文化的価値を最も象徴するのが、現在、北畠神社の境内に残る館跡庭園である。この庭園は、室町幕府の最高権力者の一人である管領・細川高国が、娘婿にあたる第7代伊勢国司・北畠晴具のために、享禄3年(1530年)頃に作庭したと伝えられている 5

この伝承は、北畠氏が中央政界において極めて重要な存在として認識されていたことを示唆している。幕府の中枢を担う人物が、わざわざ都から遠く離れた伊勢の山中に下向し、自ら庭園の作庭に関与したという事実は、北畠氏が単なる地方の独立勢力ではなく、幕府の権威構造の中に確固たる地位を築いていたことの証左である 20 。この庭園は、北畠氏の政治的影響力と文化的権威の高さを示す、一種のブランド戦略の産物であったとも考えられる。

3-2. 庭園の様式 — 池泉と枯山水の調和

総面積約850坪を誇るこの庭園は、池泉回遊式庭園と枯山水庭園という、室町時代を代表する二つの様式が巧みに融合されている 7

池泉庭園の中心をなすのは、漢字の「米」の字をかたどったとされる複雑な護岸を持つ「米字池(こめじいけ)」である 8 。その石組は、京都の洗練された庭園とは趣を異にし、自然の地形と巨大な岩を大胆に活かした、素朴で豪放、そして野性的な力強さに満ちている 36

一方、枯山水庭園は、水を用いずに石と砂、苔によって山水の景観を表現する様式である。ここでは、高さ約2mの巨石「孔子岩」が中心に据えられ、その周囲を小さな石が渦巻状に取り囲むという特徴的な構成を見せている 8

3-3. 石組に込められた武将の精神世界

この庭園は、単なる観賞の対象にとどまらず、作庭者である戦国武将の精神世界を色濃く反映した、多層的な意味を持つ文化的装置であった。

枯山水の中心にそびえる「孔子岩」は、その名の通り、中心の巨石を孔子、周囲の石を教えを聴く弟子たちに見立てたものとされ、為政者としての儒教的教養の深さを示している 8 。また、別の解釈では、この石組を阿弥陀如来が二十五菩薩を従えて来迎する様子(来迎図)に見立て、常に死と隣り合わせであった戦国武将の、極楽浄土への切実な願いが込められているとも考えられている 8

庭園全体を貫く力強い石組は、優雅な公家文化と質実剛健な武家文化の融合という、北畠氏そのもののアイデンティティを象徴している 8 。それは、中央の文化を単に模倣するのではなく、伊勢の雄大な自然と武家の気風を取り入れて独自に昇華させた、北畠氏の文化的自負の表れであった。

3-4. 「日本三大武将庭園」としての歴史的価値

その卓越した意匠と歴史的価値から、北畠氏館跡庭園は、福井県の「一乗谷朝倉氏庭園」、滋賀県の「旧秀隣寺庭園」とともに、「日本三大武将庭園」の一つに数えられている 7

国の名勝および史跡に指定されており、作庭から約500年の歳月を経た現在も、室町時代の武家庭園の姿を良好な状態で今に伝えている 7 。この庭園は、戦国という乱世にあって、武将たちが追い求めた美と精神性の高みを物語る、貴重な文化遺産なのである。

第四章:天下布武の波 — 織田信長の伊勢侵攻と三瀬の変

4-1. 新旧勢力の衝突 — 織田氏の伊勢侵攻

永禄10年(1567年)以降、「天下布武」を掲げる尾張の織田信長が伊勢への侵攻を開始すると、伊勢国司北畠氏の安寧は終わりを告げた 3 。これは、国司という旧来の権威を背景とする名門・北畠氏と、実力主義を標榜し、古い秩序を破壊しようとする新興勢力・織田氏との宿命的な衝突であった。

永禄12年(1569年)、信長は自ら大軍を率いて北畠領の心臓部へと侵攻する。時の当主・北畠具房と、実権を握る父・具教は、一族の精鋭を率いて大河内城に籠城し、50日余りにわたって織田軍の猛攻に耐え抜いた。しかし、衆寡敵せず、最終的には和睦という形で降伏を余儀なくされた(大河内城の戦い) 9

4-2. 乗っ取りの序章 — 織田信雄の入嗣

この和睦の条件こそ、北畠氏の運命を決定づけるものであった。それは、信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)を、具房の養嗣子として北畠家に迎え入れるというものであった 9 。これは事実上、北畠家の乗っ取りを意味する屈辱的な要求であり、伊勢の名門は織田家の支配下に組み込まれることになった。

信雄は北畠具豊と名乗り、田丸城を本拠として伊勢南部の支配を開始する 11 。やがて信長の圧力によって具房は隠居に追い込まれ、北畠家の実権は名実ともに織田方へと移っていった 11

4-3. 剣豪国司・北畠具教の抵抗

しかし、この状況に甘んじる男ではなかったのが、隠居して三瀬御所に移っていた北畠具教であった 9 。彼は、伝説の剣豪・塚原卜伝から奥義「一之太刀」を伝授された当代随一の剣客であると同時に、和歌にも通じた教養人でもあった 9 。武勇と文化を兼ね備えた具教は、北畠氏の権威と誇りの象徴そのものであった。

具教は水面下で信長への抵抗を画策する。元亀4年(1572年)、折しも西上作戦を展開していた甲斐の武田信玄に対し、重臣の鳥屋尾満栄を密使として派遣し、信玄が上洛する際には水軍を率いて協力するという密約を結んだ 9 。この反信長包囲網への加担という危険な賭けが、信長による北畠氏殲滅という非情な決断を促す、最後の引き金となった。

4-4. 謀略の夜 — 三瀬の変の惨劇

天正4年(1576年)11月25日、信長と信雄は、北畠一門を根絶やしにするための周到な謀略を実行に移した。後に「三瀬の変」と呼ばれるこの事件は、戦国の非情さを象徴する惨劇であった 11

作戦は二方面で同時に実行された。まず、信雄の家臣である長野左京進、滝川雄利らが精兵を率いて三瀬御所を急襲した 11 。具教は剣豪としての名に恥じず奮戦したとの逸話も残るが、信頼していた家臣・佐々木四郎左衛門が内通しており、愛刀には刃が潰される細工が施されていたため、十分な抵抗もできずに殺害されたとも伝わる 11 。享年49。具教と共に、まだ幼い息子の徳松丸、亀松丸らも容赦なく命を奪われた 10

時を同じくして、信雄の居城である田丸城では、もう一つの悲劇が進行していた。信雄は饗応(きょうおう)と偽って、具教の次男・長野具藤をはじめとする北畠一門の主要な人物を城内に招き入れた。そして、宴もたけなわとなった頃、信雄の合図とともに、武装した兵たちが一斉に襲いかかり、油断していた一門衆をだまし討ちで殺害したのである 11

この同時多発的な謀殺により、北畠家の血筋とそれを支える主だった家臣たちは、一夜にしてこの世から抹殺された。信長にとって、具教は単なる敵将ではなく、国司としての権威、剣豪としての武勇、そして反信長勢力と結びつく政治力を持つ、極めて危険な「旧体制の象徴」であった。正攻法ではなく、だまし討ちという手段を選び、その死に様さえも「剣豪らしからぬ無様な最期」として演出することで、信長は具教の権威そのものを失墜させようとした。三瀬の変は、武家の名誉や伝統といった古い価値観が、実力と謀略という新たな価値観によって破壊される、時代の転換点を象徴する事件だったのである 43

第五章:霧山城の落日 — 北畠一門、最後の抵抗と滅亡

5-1. 最後の拠点・霧山城への結集

三瀬の変という未曾有の謀略によって主君と一門の多くを失った北畠家の家臣たちであったが、彼らの忠義の心は尽きていなかった。粛清を逃れた旧臣たちは、最後の望みを託し、北畠氏伝来の詰城である霧山城に結集した 5

この絶望的な籠城戦の指揮を執ったのは、具教の父・晴具の又従兄弟にあたる北畠政成であった 5 。彼らは、主家の無念を晴らし、武士としての意地を貫くため、圧倒的に不利な状況下で織田の大軍を迎え撃つことを決意したのである。

5-2. 織田軍の総攻撃と落城

北畠旧臣による抵抗の動きを察知した信長は、その根を完全に断つべく、即座に大軍の派遣を決定した。総大将には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)、そして信長の三男・神戸信孝、関盛信らが加わり、その軍勢は1万5千にも及んだ 11

天正4年(1576年)12月、織田軍は霧山城に総攻撃を開始した。天然の要害に守られた霧山城で、北畠の旧臣たちは奮戦したが、大軍の前に衆寡敵せず、長くは持ちこたえられなかった。激戦の末、ついに城は陥落した 11 。城主・北畠政成をはじめ、城に籠もった主だった将兵は討ち死にするか、あるいは自害して果て、北畠氏の最後の抵抗は幕を閉じた 5

5-3. 灰燼に帰した「多気の都」と北畠氏の終焉

霧山城の陥落後、織田軍は城と山麓の御所、そして約240年間にわたって栄えた城下町をことごとく焼き払い、すべてを灰燼に帰させた 5 。これにより、伊勢国司北畠氏の拠点としての「多気の都」の歴史は、物理的にも完全に終焉を迎えたのである 1

三瀬の変が北畠氏の指導者層を抹殺するものであったとすれば、この霧山城攻めは、その物理的拠点と、家臣団という支持基盤を完全に殲滅するものであった。この二段階のプロセスによって、北畠氏の再起の可能性は完全に断たれた。その後、具教の弟・北畠具親が遺臣を率いて再起を図るも、これも鎮圧され 10 、伊勢における北畠氏の勢力は完全に駆逐された 11

この一連の流れは、信長が越前の名門・朝倉氏を滅ぼした際、その本拠地である一乗谷を徹底的に破壊した事例と酷似している 15 。これは、信長の天下統一事業が、単なる領土の併合ではなく、旧来の名門勢力が持つ文化的基盤、すなわち人々の「記憶」と「場所」そのものを破壊することで、新たな支配秩序を確立しようとする、強い意志の表れであったことを示している。

終章:史跡としての霧山御所 — 歴史的意義と現代に遺るもの

6-1. 歴史的意義の総括

霧山御所とその詰城である霧山城は、南北朝の動乱期から戦国時代の終焉に至るまで、伊勢国司北畠氏の栄枯盛衰を体現する比類なき歴史遺産である。その遺跡は、二つの重要な歴史的意義を我々に語りかけている。

第一に、霧山御所は、公家としての文化的洗練と、戦国大名としての武張った気風が共存した、北畠氏のユニークな領国経営を物語る物証である。国内最古級の先進的な石垣は彼らの権威と技術力を示し、国の名勝に指定された優美な庭園は、乱世にあっても失われなかった高い文化性を今に伝えている。霧山御所は、京都の中央文化をただ受け入れるのではなく、伊勢の風土と融合させ、独自の「多気の都」を築き上げた北畠氏の創造性の結晶であった。

第二に、その悲劇的な終焉は、織田信長が推し進めた「天下布武」の本質を象徴している。三瀬の変における謀殺と、霧山城の徹底的な破壊は、信長の事業が旧来の権威や伝統を容赦なく破壊する過程であったことを如実に示している。霧山御所の盛衰は、中世的な「家柄」や「権威」といった価値観から、近世的な「実力」による支配へと、日本社会が大きく移行する時代の転換点を鮮やかに映し出しているのである。

6-2. 現代への継承

かつて栄華を極め、そして灰燼に帰した「多気の都」は、現在、国指定史跡「多気北畠氏城館跡」として、その価値が法的に保護されている 21 。平成29年(2017年)には、公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」にも選定され、歴史愛好家や観光客が訪れる名所となっている 1

津市教育委員会による継続的な発掘調査や、策定された保存管理計画に基づき、遺跡の学術的価値の解明と、次世代への確実な継承が図られている 26 。霧山御所は、もはや単なる過去の遺物ではない。それは、戦国という激動の時代を生きた人々の栄華と悲劇、そして文化の息吹を現代に語りかける、かけがえのない歴史の証人なのである。

引用文献

  1. 多気北畠氏遺跡の概要 - 津市 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/sp/contents/1001000011242/index.html
  2. 伊勢国司家と浪岡御所 - なみおか今・昔 https://www.city.aomori.aomori.jp/area/namiokaoyumi/im_n052.html
  3. 北畠顕能 ~伊勢国司北畠氏の祖~ - ダイコンオロシ@お絵描き - はてなブログ https://diconoroshi.hatenablog.com/entry/2024/11/04/135803
  4. 三重の城 霧山城 https://shiro200303.sakura.ne.jp/Kiriyama-Jo.html
  5. 霧山城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kiriyama.htm
  6. 伊勢国司北畠氏の栄華の跡 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011249/simple/20303.pdf
  7. 北畠氏館跡庭園 | 伊勢國お庭街道|伊勢神宮の参拝に繋がる[令和のお伊勢参り] https://www.ise-oniwakaido.jp/boxa/kitabatakeshi/
  8. 北畠氏館跡庭園 (三重県津市) 中部の庭園特集「庭~THE ... https://chunichi-news.shorthandstories.com/the-garden-01/index.html
  9. 北畠具教 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E6%95%99
  10. 戦国!室町時代・国巡り(3)伊勢・志摩編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n0d30d0b9bc2a
  11. 三瀬の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%80%AC%E3%81%AE%E5%A4%89
  12. 日本の城探訪 霧山城 - FC2 https://castlejp.web.fc2.com/03-hokurikutoukai/81-kiriyama/kiriyama.html
  13. 北畠家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%AE%B6
  14. 北畠氏(きたばたけうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E7%95%A0%E6%B0%8F-50936
  15. 多気北畠氏城館(霧山御所+霧山城) ~信長によって滅ぼされた伊勢の名家・北畠氏の本城 https://sengoku-yamajiro.com/archives/153_kiriyamajo-html.html
  16. 霧山城跡(多気城) - 津の時間。(津市観光協会) https://tsukanko.jp/spot/s222/
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  44. 「冷酷」で「能力主義」な信長はいかにして生まれたのか? - 本の話 https://books.bunshun.jp/articles/-/2946
  45. “みんなの知ってる織田信長”はウソ? 革新イメージが誇張された可能性 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=frqXcuGqCag