最終更新日 2025-08-25

須崎城

土佐の要衝、須崎城は津野氏が築き、長宗我部氏の港湾支配を支えた。悲劇の城主・津野親忠の拠点となり、関ヶ原の戦いの中でその運命は翻弄された。

土佐国 須崎城 ― 港湾を扼し、長宗我部氏の興亡に揺れた津野氏の要害 ―

序章:須崎港を望む忘れられた山城

高知県須崎市、波静かな須崎港を見下ろす城山に、戦国時代の土佐の動乱を静かに物語る城跡が存在する。それが須崎城である。築城主は土佐の有力国人「土佐七雄」の一角を占めた津野氏と伝わるが、その歴史は土佐を統一した長宗我部元親の三男、津野親忠の悲劇と分かちがたく結びついている 1 。現在、城跡に関する情報は断片的であり、その具体的な機能や歴史的意義は十分に解明されているとは言い難い。

本報告書は、この須崎城を単なる山城の遺構として捉えるのではなく、戦国期土佐における地政学的要衝、経済的拠点、そして権力闘争の舞台として多角的に分析し、その歴史的意義を再評価することを目的とする。現存する遺構の分析、津野氏の本拠である姫野々城との比較考察、そして城主となった津野氏、特に悲運の武将・津野親忠の生涯を深く掘り下げることを通じて、須崎城が土佐の戦国史において果たした役割の全体像を明らかにしたい。

第一部:須崎城の構造と縄張り ― 城郭考古学からのアプローチ

第一章:立地と地勢 ― 港湾支配のための必然

須崎城は、須崎港の西岸にそびえる標高約140メートルから143メートルの城山に築かれた山城である 4 。この立地は、軍事戦略上の明確な意図に基づいている。眼下に広がる須崎港は、「く」の字に深く湾曲したリアス式海岸の地形を持つ天然の良港であり、古くから避難港や漁港として、また物資の集散地として栄えてきた 6 。城山山頂からは港の全域、とりわけ湾の入り口を一望でき、港に出入りするすべての船舶を監視・管理下に置くことが可能であった。この地理的優位性は、港湾の支配を企図する勢力にとって、まさに絶対的な条件であったと言える。

地形的に見ると、城山は須崎の市街地から独立した丘陵であり、三方を海または新荘川の河口部に囲まれている。陸からの攻撃路は限定され、小規模な兵力でも防衛が容易な天然の要害を形成していた。城は複数の峰を利用して曲輪を配置した連郭式の構造をとっており、防御思想に基づいた設計が見て取れる 6

現在、城跡の一部は「城山公園」として整備されているものの、山頂の主郭部へ至る登山道は荒廃が進み、容易に踏査することが困難な状況にあるとの報告もある 8 。文化財としての指定は受けておらず、その保存状態は万全とは言えない 5 。JR須崎駅から徒歩圏内という交通の便の良さにもかかわらず、その歴史的価値が十分に認識され、活用されているとは言い難いのが現状である 6

第二章:遺構の詳細分析 ― 残された城の記憶

須崎城の縄張り、すなわち城の設計は、城山の地形を巧みに利用している。城は複数の峰にまたがって築かれており、その主郭の位置については情報源によって見解が分かれる。ユーザー提供の情報では主郭は北の峰にあるとされる一方、近年の訪問記録では中央の峰が本城台、すなわち「詰ノ段」であるとされている 6 。この相違は、城が時代を経て段階的に改修されたか、あるいは各峰が異なる機能を有していた可能性を示唆している。

  • 北の峰: 標高約120メートルに位置し、最も古い曲輪跡である可能性が指摘されている 6 。もしこの説が正しければ、須崎城の原型はこの北の峰に築かれ、後に中央の峰へと主郭機能が移されたと考えられる。
  • 中央の峰(本城台): 標高143メートルの山頂部に位置し、「詰ノ段」と呼ばれる主郭部が置かれている 6 。その面積はさほど広大ではなく、大規模な兵力を収容するほどの広さはないことから、司令部や少数の精鋭が詰める最後の拠点として機能したと推測される 6
  • 南の峰: 三角点が設置されている峰であり、物見や補助的な曲輪として利用された可能性がある。

城跡には、中世山城の特徴を示す遺構が現在も残されている。

  • 曲輪(郭): 詰ノ段やその下に設けられた二ノ段など、人工的に削平された平坦地が複数確認されている 6 。これらは兵の駐屯地や戦闘時の防衛拠点として利用された空間である。
  • 土塁と石垣(石塁): 主郭部は土を盛り上げた土塁によって囲まれ、その一部は防御力を高めるために石積みで補強されていたとされる 10 。これは、土佐の中世城郭によく見られる様式であり、本格的な総石垣の城とは異なるものの、要所を堅固に固めるという実践的な築城技術を反映している。
  • 堀切・空堀: 尾根筋を人工的に断ち切る堀切の存在が確認されている 4 。これは、尾根伝いに侵攻してくる敵の進路を妨害し、防御側が有利に戦うための基本的な防御施設である。
  • 井戸跡: 詰ノ段の内部には大きな窪みが存在し、籠城戦において生命線となる水を確保するための井戸跡ではないかと指摘されている 6 。これが事実であれば、須崎城が一定期間の籠城を想定して築かれていたことの証左となる。

これらの遺構は、須崎城が単なる物見砦ではなく、戦闘を想定した堅固な軍事拠点であったことを明確に示している。

第三章:本拠・姫野々城との比較考察 ― 機能分化する津野氏の城郭網

須崎城の性格をより深く理解するためには、築城主である津野氏の本拠・姫野々城(半山城)と比較することが極めて有効である。姫野々城は、津野氏の領国支配の中心であり、その構造は須崎城とは大きく異なる特徴を持つ。

姫野々城は、標高193メートルの山上に位置し、主郭の周囲の斜面を無数の「畝状竪堀群」で埋め尽くし、主郭へ至る尾根筋には幾重にも連なる「堀切」を設けている 11 。畝状竪堀群は、斜面を登ってくる敵兵の横移動を著しく困難にし、防御側の射撃に晒すための、戦国時代に発達した極めて高度な防御施設である。この徹底した防御思想は、姫野々城が領国の最終防衛拠点として、大規模な敵の攻城戦を想定して築かれたことを物語っている。

これに対し、須崎城の遺構は比較的シンプルであり、姫野々城の最大の特徴である畝状竪堀群の存在は報告されていない。この構造的な差異は、両城に与えられた役割が明確に異なっていたことを示唆している。

この違いは、偶然の産物ではない。内陸の山間部に位置し、領民や財産を守るための最後の砦である姫野々城は、あらゆる方向からの攻撃を想定し、斜面からの攻撃を阻止する畝状竪堀群が不可欠であった。一方、須崎城の第一義的な目的は、港湾の管理、海上交通の掌握、そして海からの脅威の監視である。想定される脅威は、陸上からの大規模な攻城軍というよりも、海上からの小規模な部隊による襲撃や、敵船団の動向監視であった可能性が高い。

したがって、須崎城の防御構造は、長期間の籠城戦に耐えることよりも、港の機能を確保し、有事の際には長宗我部氏の本拠・浦戸城と連携するまでの時間を稼ぐことに最適化されていたと推測できる。これは、津野氏、そして後の長宗我部氏が、領内にそれぞれ異なる機能を持つ城郭を配置し、有機的なネットワークを構築していたことを示す重要な証拠である。

比較項目

須崎城

姫野々城

立地

沿岸部(港湾直上)

内陸山間部

標高

約143 m

約193 m

主郭の防御施設

土塁、石塁

帯曲輪、切岸

斜面の防御施設

報告なし

多数の畝状竪堀群

堀切

単一の堀切が主

多重堀切(五重堀切など)

推定される主機能

港湾管理、海上監視、前方拠点

領国支配の本拠、最終防衛拠点

第二部:城主・津野氏の興亡 ― 平安から戦国へ

第一章:土佐七雄としての津野氏

須崎城を築いた津野氏は、土佐国における屈指の名門である。その出自は古く、平安時代の延喜10年(910年)に藤原基経の後裔とされる藤原経高が土佐に入国し、高岡郡津野山を開拓して津野氏を称したことに始まると伝えられている 14 。一族は高岡郡姫野々(現在の津野町)に姫野々城を築き、中世を通じて津野荘の地頭として着実に勢力を拡大した 14

戦国時代に入ると、津野氏は土佐国内に割拠した有力国人領主「土佐七雄」の一角に数えられるほどの勢力を誇るに至る 2 。しかし、土佐西部の幡多郡を拠点とした公家大名・土佐一条氏が勢力を伸張させると、その圧力を受け、天文15年(1543年)、当主・津野基高は一条房基に降伏し、その支配下に組み込まれることとなった 2 。これにより、津野氏は独立した大名としての地位を失い、一条氏の家臣として存続を図ることになる。

第二章:長宗我部元親の台頭と津野氏の選択

津野氏が一条氏に臣従していた頃、土佐中央部の岡豊城を拠点とする長宗我部国親・元親親子が急速に勢力を拡大し、土佐統一へと乗り出す。長宗我部氏の圧力が西へと及ぶと、津野氏の家中は、長宗我部氏に恭順するか、あるいは一条氏と共に抵抗を続けるかで分裂し、動揺した 3

当時の当主・津野定勝は元親からの降伏勧告を拒絶したが、長宗我部氏への恭順を決意した家臣団によって伊予国へと追放されてしまう 14 。定勝の子・勝興も当初は父の姿勢を継いで元親に対抗したが、長宗我部氏の圧倒的な軍事力の前に抗しきれず、やがて降伏した 14

天正6年(1578年)、津野勝興が没すると、津野氏の正統な血筋は途絶える。この機を逃さず、長宗我部元親は自らの三男・親忠を勝興の養子として送り込み、津野氏の名跡を継がせた 1 。これにより、津野氏が長年支配してきた高岡郡一帯、そしてその海の玄関口である須崎城と須崎港は、名実ともに長宗我部氏の支配下に置かれることとなったのである。

第三部:悲劇の城主、津野親忠の実像

第一章:長宗我部家の駒として

元亀3年(1572年)、長宗我部元親の三男として生まれた親忠は、父の土佐統一戦略の一環として、幼くして津野氏の当主となった 3 。須崎城の山麓には、親忠やその家老であった山内右衛門大夫の屋敷(土居)があったと伝えられており、彼が須崎城を居城とし、須崎港を拠点として津野領の統治にあたっていたことが強く示唆される 1

しかし、彼の運命は長宗我部家の動向に大きく左右される。天正13年(1585年)、父・元親が豊臣秀吉の四国征伐に敗れ降伏すると、親忠は長宗我部家の安泰を保証するための人質として大坂へ送られた 3 。この人質時代に、後に徳川家康の重臣となる藤堂高虎と親交を結んだことが、彼の将来に大きな影響を及ぼすことになる。この人脈は、本来であれば長宗我部家にとって貴重な財産となるはずであった 3

第二章:家督相続の渦と悲劇への道

親忠の運命を暗転させたのは、長宗我部家の後継者問題であった。天正14年(1586年)、元親が最も期待をかけていた嫡男・信親が、豊臣氏の九州征伐に従軍中、戸次川の戦いで壮絶な戦死を遂げる 3 。最愛の息子を失った元親は深く悲嘆し、長宗我部家中に深刻な家督相続争いが勃発した。

家臣団の一部は、元親の次男・香川親和や、武勇の誉れ高かった三男の親忠を後継者として推した。しかし、元親は四男の盛親を溺愛しており、家臣団の意見を退けて盛親を後継者に指名する 15 。この過程で、盛親を支持する側近の久武親直らが、親忠の排除を画策する。彼らは、親忠が人質時代に親交のあった藤堂高虎と共謀し、長宗我部家からの独立を企んでいる、といった根も葉もない讒言を元親に吹き込んだ 3

信親を失い、猜疑心に苛まれていた元親は、この讒言を信じ込み、親忠を次第に疎むようになる。そして慶長4年(1599年)3月、元親は親忠に謀反の疑いをかけ、香美郡岩村(現在の香美市)に幽閉してしまう 3

第三章:関ヶ原合戦の裏で ― 抹殺された可能性

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。長宗我部家の当主となっていた盛親は西軍に与したが、戦いはわずか一日で東軍の圧倒的な勝利に終わった。敗軍の将となった盛親は、徳川家康に謝罪し、何とか本領を安堵されようと奔走する。

この長宗我部家存亡の危機において、幽閉されていた親忠の存在が再びクローズアップされる。親忠は、東軍の有力武将である藤堂高虎と旧知の仲であり、また井伊直政を通じて家康に赦免を働きかける独自のルートを持っていた 3 。これは、本来であれば長宗我部家にとって、改易の危機を乗り越えるための最後の、そして最も有効な交渉手段であったはずである。

しかし、盛親とその側近・久武親直は、この状況を全く逆の視点で捉えた。彼らは、親忠が家康に取り入ることで、自分たちの地位が脅かされること、最悪の場合、親忠が新たな土佐国主として認められ、自分たちが追放されることを恐れた。久武親直は再び、「親忠が藤堂高虎と結託し、土佐半国を条件に寝返ろうとしている」と盛親に讒言した 3

この讒言が決定打となり、盛親は致命的な決断を下す。同年9月29日、盛親は家臣を派遣し、幽閉先の香美郡岩村・霊厳寺にて兄である親忠を殺害させた。享年29であった 3 。この「兄殺し」という行為は、儒教的道徳観を重んじる当時の社会において、許されざる大罪であった。家康はこの一件を、長宗我部氏を取り潰すための絶好の口実として利用し、長宗我部氏は改易、その所領は没収された。

津野親忠の死は、単なる家督争いの悲劇ではない。それは、豊臣政権から徳川政権へと移行する激動期において、地方大名が生き残りを賭けて繰り広げた情報戦と権力闘争の犠牲であった。親忠という外部との交渉カードを活かすのではなく、脅威と見なして抹殺した盛親と久武親直の政治的視野の狭さが、名門・長宗我部氏の滅亡を決定づけたのである。そして須崎城は、その悲劇の城主が拠点とした、運命の舞台として歴史に名を刻むことになった。

第四部:戦略拠点としての須崎城 ― 港が紡ぐ歴史

第一章:中世における須崎港の価値

須崎城の重要性は、その眼下に広がる須崎港の価値と不可分である。須崎港は、鎌倉時代の末期にはすでにその名が知られていた良港であり、中世を通じて都市化が進展し、土佐における経済的・軍事的な要衝として機能していた 18 。湾内には商品を保管・取引する問屋が軒を連ね、定期的に市が開かれていた。戦国時代には、当時日本の商業を牛耳っていた堺の商人が進出していたという記録も残っている 18

堺商人の存在は、単なる商業活動以上の意味を持つ。彼らは鉄砲や火薬、硝石といった最新兵器の供給者でもあり、彼らとの交易ルートを確保し、維持することは、戦国大名にとって死活問題であった。須崎城は、この重要な交易港を直接管理・防衛し、そこから得られる莫大な利益を独占するための拠点として、極めて重要な役割を担っていたのである。長宗我部元親が実施した大規模な検地である「長宗我部地検帳」の記録を詳細に分析すれば、当時の須崎周辺の生産力や人口構成が明らかになり、この地域の経済的重要性をより具体的に裏付けることができるだろう 20

第二章:長宗我部氏の領国経営における役割

土佐を統一した長宗我部元親は、天正19年(1591年)に本拠を岡豊城から太平洋に面した浦戸城へと移した 15 。浦戸もまた、優れた港湾機能を持つ拠点であった。この浦戸城を中心とした長宗我部氏の領国経営において、須崎城と須崎港は、西土佐(旧一条氏領)や伊予方面とを結ぶ海上交通網の中継基地として、兵站上、極めて重要な役割を果たしたと推定される 8

さらに、長宗我部氏が「土佐水軍」と呼ばれる海上戦力を擁していたことを考え合わせると、須崎城の軍事的重要性は一層高まる 22 。須崎の入り組んだ地勢と波静かな港は、水軍の艦船を停泊させ、整備や訓練を行うのに最適な場所であった。須崎城は、この水軍の活動を指揮する司令塔、あるいは兵糧や武器を補給する兵站基地として機能した可能性が非常に高い。

これらの事実を統合すると、須崎城は単なる「支城」という言葉では片付けられない、多機能な戦略拠点としての姿が浮かび上がる。それは、経済(堺商人との交易)、兵站(浦戸城との連携)、そして軍事(水軍拠点)という、長宗我部氏の領国経営を支える三つの機能が結節する「要石」であった。元親が、この最重要拠点の一つに、自らの三男である親忠を配置したことは、この地をいかに重視していたかの何よりの証左である。それは単に領地を与えたのではなく、長宗我部氏の経済と軍事の生命線を委ねるに等しい行為であった。須崎城の歴史的価値は、その物理的な遺構の規模以上に、長宗我部氏の領国経営システムの中で果たした複合的な役割の中にこそ見出されるべきなのである。

結論:歴史の中に埋もれた要衝の再評価

須崎城は、その規模こそ雄大ではないものの、天然の良港である須崎港を背景に、戦国時代の土佐において極めて重要な戦略的・経済的役割を果たした要衝であった。それは、土佐の旧勢力である津野氏にとっては海の玄関口であり、新興勢力である長宗我部氏にとっては領国経営の要石であった。

この城の歴史は、土佐の旧勢力が新興勢力に飲み込まれていく戦国時代の権力移行の縮図でもある。そして、その最後の城主となった津野親忠の悲劇的な生涯は、天下分け目の動乱期に翻弄された地方権力の末路を象徴している。彼の死と共に、須崎城もまたその軍事拠点としての役割を終え、歴史の表舞台から姿を消した。

現在、須崎城には未だ多くの謎が残されている。特に、縄張りの正確な全体像や各曲輪の具体的な機能、そして津野氏の時代から長宗我部氏の時代にかけての改修の痕跡などを明らかにするためには、今後の詳細な測量調査や限定的な範囲での発掘調査が不可欠である。これらの学術的な調査を通じて、須崎城が土佐の戦国史において果たした真の役割が、より一層明確になることが期待される。歴史の中に埋もれたこの要衝の再評価は、まだ始まったばかりである。

引用文献

  1. 須崎城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2602
  2. 須崎城 - Mottyの旅日記 Archive https://mottystraveldiary.hatenablog.com/entry/2025/01/02/212400
  3. 須崎城 ~長宗我部元親三男・津野親忠の居城~ | 城館探訪記 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-2848.html
  4. 須崎城 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/cultural-property/462050
  5. 土佐 須崎城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tosa/susaki-jyo/
  6. 須崎城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-893.html
  7. 須 崎 港 長 期 構 想 (案) - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/2016121300118/file_contents/file_201612154114117_1.pdf
  8. 須崎城の見所と写真・全国の城好き達による評価(高知県須崎市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1564/
  9. 須崎城(高知県須崎市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/8578
  10. 須崎城 - 愛車でGO! 四国のお城 http://goshiro.travel.coocan.jp/ts_susaki/susaki.html
  11. 姫野々城跡 | 観光スポット検索 | 高知県観光情報Webサイト「こうち旅ネット」 https://kochi-tabi.jp/search_spot_sightseeing.html?id=434
  12. 土佐 姫野々城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tosa/himenono-jyo/
  13. 姫野々城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-897.html
  14. 津野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E9%87%8E%E6%B0%8F
  15. 長宗我部 - 高知市 https://www.city.kochi.kochi.jp/uploaded/attachment/10056.pdf
  16. 長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shiseki/
  17. 長宗我部盛親|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=183
  18. 須崎の古い町並み - 一路一会 http://www.ichiro-ichie.com/07shikoku/kouchi/suzaki/suzaki01.html
  19. 須崎市 http://tynd.bakufu.org/SUSAKISHI.html
  20. ざV 旬垣部 - 暮らしのねっこ https://kurashinonekko.com/wp-content/themes/kurashinonekko/assets/download/machiaruki-map.pdf
  21. 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
  22. 水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%BB%8D