高田城(越後国)
徳川の泰平を告げる北国の楔:越後高田城の戦略的価値と歴史的変遷に関する総合研究
序章:徳川の天下統一を盤石にした北陸の巨城
越後国、高田の地に築かれた高田城は、単なる一地方の城郭ではない。それは、徳川家康による天下統一事業の最終段階において、北陸道に打ち込まれた巨大な「楔」としての、極めて高度な戦略的意義を帯びた城塞であった。慶長19年(1614年)、豊臣家との最終決戦である大坂の陣を目前に控えた緊迫の情勢下で、異例の速さをもって築かれたこの城は、軍事、政治、そして経済の各側面において、徳川幕府の盤石な支配体制を天下に示す象徴的建造物であった 1 。
徳川家康の六男・松平忠輝の居城として、天下普請によって全国の大名が動員され、伊達政宗が普請総監督を務めたという事実は、この城が一個人のためではなく、国家的な事業として計画されたことを物語っている 3 。石垣を用いず、すべてを土塁で構築するという近世城郭としては異例の構造は、単なる時間的制約の結果ではなく、当時の最新の軍事思想を反映した合理的な選択であった可能性を秘めている。
本報告書は、高田城が戦国時代の終焉と徳川の泰平の到来を告げる歴史の転換点において果たした役割を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。築城の背後にあった徳川家康の深謀遠慮、天下普請という巨大プロジェクトの実態、石垣なき「土の城」の構造的特質、そして初代城主・松平忠輝の悲劇から幕末の動乱に至る高田藩の波乱に満ちた歴史を辿ることで、この北国の巨城が持つ多層的な歴史的価値を明らかにしていく。
第一部:高田城の築城 ― 戦略的意図と天下普請
高田城の築城は、徳川家康の天下統一戦略の集大成ともいえる事業であった。なぜ、あの時期に、あの場所に、そしてあの方法で築かれなければならなかったのか。その背後には、家康の冷徹な政治的計算と、天下普請という国家事業を通じた巧みな大名統制策が存在した。
1.1 大坂の陣前夜:徳川家康の深謀遠慮
高田城の築城計画は、その時期と場所の選定において、徳川家康の卓越した戦略眼を如実に示している。それは単一の目的ではなく、軍事、政治、経済にまたがる複数の目的を同時に達成するための、極めて合理的な国家戦略の一環であった。
築城の時機と地政学的要請
築城が開始された慶長19年(1614年)は、豊臣家との最終決戦である大坂の陣のわずか数ヶ月前という、まさに天下の趨勢が決する直前の時期であった 1 。このタイミングで、江戸から遠く離れた越後の地に巨大な城を築くという決定には、明確な意図があった。高田は、江戸と西国を結ぶ北陸道の出入り口にあたる交通の要衝であり、この地を押さえることは、徳川の支配体制にとって最大の潜在的脅威であった加賀百万石の前田家を直接的に牽制する上で不可欠であった 1 。関ヶ原の戦いでは東軍についたものの、その巨大な石高と豊臣家との縁の深さから、前田家は依然として幕府にとって油断ならぬ存在であった。万が一、前田家が豊臣方に呼応して東進した場合、高田城はその進軍を阻む最前線の拠点となるはずであった。
さらに、この地はかつて上杉謙信・景勝が支配した土地であり、会津へ転封された後も、上杉家の旧臣たちが依然として影響力を持っていた 5 。彼らが農民と結託して一揆を起こし、それに各地の外様大名が呼応する事態となれば、再び国を二分する戦乱に発展しかねない。徳川家康は、自身の六男である松平忠輝をこの地に封じ、巨大な城を築かせることで、越後の地を完全に徳川の色に染め上げ、いかなる不穏な動きも封じ込める狙いがあったのである 1 。
経済戦略上の重要性
高田城が担った役割は、軍事的なものに留まらない。当時、幕府の財政を支える重要な基盤であった佐渡金山から産出される金銀は、北国街道を通って江戸へ輸送されていた 1 。この「黄金の道」を確実に確保し、監視することは、幕府の経済的安定にとって死活問題であった。初代城主となった松平忠輝は、江戸の意向を受け、北国街道や奥州街道の道筋を変更し、旅人や物資、そして佐渡の金が高田の城下町を必ず通過するようにインフラを整備した 5 。これにより、高田は単なる軍事拠点としてだけでなく、北陸道の物流と富を管理する経済拠点としての機能も併せ持つことになった。
このように、高田城の築城は、対豊臣、対前田・上杉、そして佐渡金山の支配強化という、軍事・政治・経済の三つの目的を同時に達成するために計画された、多目的戦略拠点であった。これは、同時期に同じく天下普請で進められた名古屋城 7 や駿府城 9 の築城と軌を一にするものであり、徳川家康による天下平定の総仕上げを象徴する事業であったと言える。
1.2 普請総監督・伊達政宗と助役大名たち
高田城の建設は、幕府が全国の大名に工事を命じる「天下普請」という形式で実行された 1 。これは単なる土木工事の分担ではなく、徳川家康が演出した巧妙な政治劇であった。普請総監督の人選から助役大名の構成に至るまで、そこには徳川の権威を天下に示し、諸大名を巧みに統制しようとする緻密な計算が見て取れる。
天下普請の実態
天下普請は、徳川幕府がその絶大な権威を示すための強力な手段であった 12 。築城にかかる莫大な費用は、命令を受けた大名が全額負担するのが原則であり、これは彼らの財力を削ぎ、謀反を起こす経済的余力を奪うという極めて現実的な政治的狙いがあった 3 。高田城の普請においても、かつて豊臣方であった大名が多く動員され、彼らは徳川への忠誠を示すために、私財を投じて城の建設に従事することを余儀なくされたのである 1 。
普請総監督・伊達政宗
この一大事業の総監督(普請総裁)に任命されたのは、奥州の覇者、仙台藩主・伊達政宗であった 3 。政宗は、城主となる松平忠輝の舅(妻・五郎八姫の父)という立場であり、この人選は一見、自然なものに映る 4 。しかし、その裏には家康の深謀遠慮があった。天下に野心を持つことで知られる政宗を、幕府の公式な国家事業の責任者という名誉ある役に就かせることで、彼を体制内に深く取り込み、その強大な影響力を幕府のために利用しようとしたのである。政宗は自ら縄張りを担当し、陣頭指揮を執ったとされ、その威光は他の助役大名を統率する上で大きな効果を発揮したと考えられる 4 。
助役大名の人選
高田城の天下普請に動員された助役大名は、前田利常(加賀藩)、上杉景勝(米沢藩)をはじめ、真田信之、佐竹義宣といった外様大名を中心とする13家であった 1 。この人選は、高田城の戦略的意図を色濃く反映している。
表1:高田城天下普請 助役大名一覧
役職 |
大名家 |
当主名 |
本拠地 |
分類 |
備考 |
普請総監督 |
伊達家 |
伊達 政宗 |
陸奥国・仙台城 |
外様 |
城主・松平忠輝の舅 |
助役 |
前田家 |
前田 利常 |
加賀国・金沢城 |
外様 |
幕府の主要牽制対象 |
助役 |
上杉家 |
上杉 景勝 |
出羽国・米沢城 |
外様 |
幕府の主要牽制対象 |
助役 |
小笠原家 |
小笠原 秀政 |
信濃国・松本城 |
譜代 |
|
助役 |
鳥居家 |
鳥居 成次 |
甲斐国・谷村城 |
譜代 |
|
助役 |
真田家 |
真田 信之 |
信濃国・上田城 |
外様 |
|
助役 |
佐竹家 |
佐竹 義宣 |
出羽国・久保田城 |
外様 |
|
注:上記は主要な大名であり、全13家の詳細なリストは史料によって異同が見られる。
特筆すべきは、このリストに高田城の主たる監視対象である前田家と上杉家が含まれている点である。これは、自らを封じ込めるための城を、自らの費用と労力で築かせるという、極めて屈辱的かつ効果的な支配術であった。彼らは徳川への服従を物理的な形で示さざるを得ず、その過程で経済的にも疲弊させられた。このように、高田城の天下普請は、土木技術の粋を集めた築城事業であると同時に、徳川家康の老獪な政治戦略が展開された、壮大な野外劇でもあったのである。
1.3 わずか四ヶ月の突貫工事:その背景と実態
高田城の築城において最も特筆すべき点の一つは、その驚異的な工期の短さである。慶長19年3月15日に着工し、同年7月上旬には主要部分が完成したとされ、その期間はわずか4ヶ月であった 1 。姫路城や、忠輝が当初居城とした福島城の工期が7年から10年を要したことと比較すれば、その速さはまさに異例中の異例と言える 1 。
この超短期工事を可能にしたのは、天下普請というシステムによる大規模な人的資源の投入であった。普請に参加した13の大名家は、それぞれが領内から熟練の技術者や多数の労働者を動員し、その総数は5万人から10万人にものぼったと推定されている 1 。彼らが昼夜を分かたず作業に従事したことで、広大な城郭の建設が短期間で成し遂げられたのである。
幕府がこれほどまでに工事を急がせた最大の理由は、目前に迫っていた大坂の陣にあった 1 。豊臣家との最終決戦を前に、徳川家康は北陸道における軍事的・政治的拠点を一刻も早く確立する必要があった。高田城の完成は、豊臣方に与する可能性のある北陸の諸大名に対する強力な牽制となり、また江戸の背後を固めるという意味でも、極めて重要な意味を持っていたのである 2 。この絶対的な時間的制約は、結果として高田城の構造、特に後述する石垣の不採用という大きな特徴を生み出す直接的な原因となった。
第二部:城郭の構造 ― 石垣なき「土の城」の特質
高田城は、近世城郭としては極めて異例な特徴を持つ。それは、城の防御の要である石垣が一切用いられず、すべてが雄大な土塁と広大な水堀によって構成されている点である。この「土の城」という構造は、単に時間や資材の制約による妥協の産物と見なされがちであるが、その背後には、地理的条件への適応と、当時の最新の軍事思想を反映した合理的な設計思想が存在した。
2.1 縄張と全体構成:菩提ヶ原の平城
高田城の縄張り(設計)は、普請総監督であった伊達政宗が担当したと伝えられている 4 。城は高田平野の中央部、かつて菩提ヶ原と呼ばれた低湿地帯に築かれた、典型的な輪郭式の平城である 2 。
曲輪配置と水堀の活用
城の中心には、約230メートル四方のほぼ正方形の本丸が置かれ、その周囲を二の丸、南に三の丸、北に北の丸が同心円状に取り囲む構造となっていた 21 。築城から30年後の正保元年(1644年)に幕府の命令で作成された『正保城絵図』には、当時の城と城下町の姿が詳細に描かれており、その全体像を知る上で極めて貴重な史料となっている 22 。
高田城の縄張りで特筆すべきは、自然地形の巧みな利用である。高田平野を流れる関川や青田川といった河川の旧流路を外堀として取り込み、流路を変更することで、広大な水堀網を形成した 2 。外堀を含めた城郭の総面積は60ヘクタールを超え、この巨大な水堀が城の第一の防御線となっていた 2 。低湿地という築城上の難点を、逆に広大な水堀という防御上の利点へと転換させた、優れた設計であったと言える。
防御上の工夫
城の細部には、様々な防御上の工夫が見られる。例えば、本丸の北東角は、陰陽道で鬼が出入りするとされる不吉な方角「鬼門」にあたるため、櫓や櫓台を設けず、土塁を直線にせず屈折させることで角を無くす「鬼門除け」が施されていた 25 。これは迷信的な意味合いだけでなく、直線の城壁に比べて防御上有利な「横矢掛かり」の効果も生み出す、実用的な設計でもあった。また、城の正面玄関である大手門には、敵兵を方形の空間に誘い込んで三方から攻撃するための「枡形」が設けられ、その外側にはさらに「馬出し」と呼ばれる突出した防御施設が備えられていた 25 。
2.2 土塁と堀:築城技術と地理的制約
75万石という大大名の居城でありながら、高田城には石垣が一切用いられなかった。この異例の構造には、複数の理由が複合的に絡み合っている。
第一に、前述の通り、大坂の陣を目前に控えて完成を急ぐ必要があったため、時間のかかる石垣普請を省略したという時間的制約である 2 。第二に、城の周辺地域に、石垣に適した良質な石材を産出する石切場がなかったという地理的・資源的制約が挙げられる 5 。そして第三に、築城地である菩提ヶ原が低湿地であり、地盤が軟弱であったため、石垣のような重量物を支えることが困難であったという技術的制約である 5 。
これらの制約から、高田城では石垣の代わりに、すべてを土塁で構築するという選択がなされた。しかし、それは単なる消極的な選択ではなかった。築かれた土塁は、高さが約10メートルから20メートル 5 、本丸を囲む土塁だけでも総延長が約1キロメートル 25 にも及ぶ、極めて雄大なものであった。この土は、周囲に広大な堀を掘削した際に発生した土砂を再利用したものであり、工事の効率化という点でも理に適っていた 30 。
この土塁構造は、単に時間や資材の制約による「妥協の産物」と見るのは一面的である。戦国時代末期から江戸時代初期にかけては、鉄砲や大砲といった火器が急速に発達し、攻城戦の様相を大きく変えつつあった。従来の石垣は、硬いが故に砲弾の衝撃を受けると砕け散りやすく、大規模な崩落を招く危険性があった。一方で、土を突き固めて作られた土塁は、砲弾の運動エネルギーを柔軟に吸収・分散させ、被害を最小限に食い止める効果が高いと考えられていた 28 。高田城の設計者は、様々な制約を受け入れつつも、それを逆手に取り、当時の最新の軍事状況に最適化された「土の城」という結論に至ったのではないか。その観点に立てば、高田城は「石垣のない未完成の城」なのではなく、むしろ「土の特性を最大限に活かした、対火器戦を想定した先進的な要塞」として再評価することができる。
2.3 天守なき城の象徴:御三階櫓の変遷
近世城郭の多くが、藩主の権威の象徴として壮麗な天守閣を誇ったのに対し、高田城には天守閣が築かれなかった 2 。これもまた、工期短縮という至上命題が大きく影響した結果であると考えられている 3 。
天守の代わりとして高田城の象徴となったのが、本丸の南西隅に建てられた「御三階櫓」と呼ばれる櫓であった 16 。しかし、この櫓も築城当初から三重であったわけではない。普請完了から間もなく大坂の陣が勃発し、その後初代城主・忠輝が改易されたため、城内の本格的な作事はほとんど進まなかった。当初の櫓は二重櫓であったが、寛文5年(1665年)に発生した大地震で倒壊。その後の復旧工事において、当時の城主であった松平光長の時代に、三重三階の櫓として再建された 15 。
この三重櫓は、その後約200年にわたって高田城のシンボルとして聳え立ったが、明治3年(1870年)に発生した火災により、本丸御殿などと共に焼失してしまった 1 。
現在の高田城址公園に建つ三重櫓は、上越市が市制発足20周年を記念する事業として、平成5年(1993年)に再建したものである 32 。この復元は、単なる想像に基づくものではなく、残された古絵図や古文書、そして発掘調査の成果を十分に踏まえた、学術的な考証に基づいて行われた。具体的には、櫓の規模は稲葉正通が城主であった時代の「高田城図間尺」を、外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」を主な典拠としている 33 。鉄骨構造でありながら、内部には木材を多用して往時の雰囲気を再現しており、1階と2階は高田城の歴史に関する展示室、3階は高田平野を一望できる展望室として活用されている 33 。
第三部:高田藩の変遷 ― 歴代城主と藩政の軌跡
高田城の完成から明治維新に至る約260年間、この地を治めた高田藩の歴史は、波乱に満ちたものであった。初代城主の栄光と悲劇に始まり、目まぐるしい城主交代、藩の存亡を揺るがす大災害やお家騒動、そして幕末の動乱。その軌跡は、徳川幕府の統治体制の変化と、北国の厳しい自然環境の中で生き抜いた人々の苦闘の歴史そのものであった。
表2:高田城 歴代城主と主要な出来事年表
西暦(和暦) |
城主家(分類) |
当主名 |
石高 |
主要な出来事 |
1614 (慶長19) |
松平[長沢]家 (親藩) |
松平 忠輝 |
75万石 |
高田城築城 |
1616 (元和2) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
大坂夏の陣への遅参等を理由に改易 |
1616 (元和2) |
酒井家 (譜代) |
酒井 家次 |
10万石 |
入封 |
1618 (元和4) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
信濃松代へ転封 |
1618 (元和4) |
松平[越前]家 (親藩) |
松平 忠昌 |
25.9万石 |
入封 |
1624 (寛永元) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
越前北庄へ転封 |
1624 (寛永元) |
松平[越前]家 (親藩) |
松平 光長 |
26万石 |
入封 |
1665 (寛文5) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
寛文大地震 発生。城・城下町が壊滅的被害。 |
1666 (寛文6) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
家老・小栗美作による復興事業が始まる。 |
1679 (延宝7) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
お家騒動「 越後騒動 」が起こる。 |
1681 (延宝9) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
越後騒動の責により改易。高田は幕府領となる。 |
1685 (貞享2) |
稲葉家 (譜代) |
稲葉 正通 |
10.3万石 |
入封 |
1701 (元禄14) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
下総佐倉へ転封 |
1701 (元禄14) |
戸田家 (譜代) |
戸田 忠真 |
6.8万石 |
入封 |
1710 (宝永7) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
下野宇都宮へ転封 |
1710 (宝永7) |
松平[久松]家 (譜代) |
松平 定重 |
11.3万石 |
入封 |
1741 (寛保元) |
(同上) |
松平 定賢 |
(同上) |
陸奥白河へ転封 |
1741 (寛保元) |
榊原家 (譜代) |
榊原 政永 |
15万石 |
入封(以降、幕末まで榊原家が統治) |
1751 (宝暦元) |
(同上) |
(同上) |
(同上) |
大地震(名立崩れ)発生。城下町に甚大な被害。 |
1802 (享和2) |
(同上) |
榊原 政敦 |
(同上) |
高田城本丸御殿が全焼。 |
1868 (慶応4) |
(同上) |
榊原 政敬 |
(同上) |
戊辰戦争 勃発。新政府軍の先鋒として参戦。 |
1871 (明治4) |
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廃藩置県により高田藩は消滅。 |
出典: 4 に基づき作成。
3.1 初代城主・松平忠輝の栄光と悲劇
高田城の初代城主は、徳川家康の六男・松平忠輝であった 1 。慶長15年(1610年)に信濃川中島から越後福島城に入り、高田城の完成と共に75万石を領する大大名となった彼は、まさに栄光の絶頂にあった 39 。武勇に優れ、海外交易にも興味を示すなど、その器量は非凡なものがあったと伝えられている 41 。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。父・家康の死後間もない元和2年(1616年)、兄である二代将軍・徳川秀忠から突如として改易を命じられるのである 1 。表向きの理由は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣への遅参や、幕府が禁じるキリスト教に接近したことなどであったが、その背景には、忠輝の剛毅な性格を秀忠が疎んだことや、幕府内の権力闘争があったとも言われている。高田城の主であった期間は、わずか2年。忠輝は伊勢国朝熊へ、その後は飛騨高山、信濃諏訪へと配流の地を転々とさせられ、92歳でその波乱の生涯を閉じた 41 。
この突然の改易は、忠輝の正室であった五郎八姫の運命も大きく変えた。伊達政宗の長女として生まれ、聡明で美しいと評判だった姫は、忠輝との離縁を余儀なくされた 1 。仙台に戻った後、父・政宗が新たな縁談を持ちかけても固くこれを拒み、生涯独身を貫いたという 1 。その一途な生き様は、政敵によって引き裂かれた夫への変わらぬ想いの証として、今なお人々の心を打つ。
3.2 頻繁な城主交代と「懲罰的転封地」としての性格
忠輝の改易後、高田藩は藩主が定着しない不安定な時代を迎える。酒井家、松平忠昌、そして松平光長と親藩・譜代の大名家が目まぐるしく入れ替わった 4 。特に、松平光長の治世下で発生したお家騒動「越後騒動」は、高田藩の歴史に大きな汚点を残すこととなる。延宝7年(1679年)、藩の重臣間の対立が藩全体を巻き込む内紛へと発展し、最終的には四代将軍・綱吉自らが裁定を下すという異例の事態に至った 4 。結果、藩主・光長は管理能力不足を問われて改易され、高田藩は一時的に幕府の直轄領とされたのである。
この一連の出来事は、高田藩の性格を劇的に変容させた。築城当初、対前田家という明確な戦略的役割を担っていた高田藩であったが 5 、泰平の世が続き、前田家と将軍家が縁戚関係を重ねるようになると、その軍事的緊張感は次第に薄れていった 6 。そこに初代藩主の改易や越後騒動といった不祥事が重なったことで、高田の地には「問題の多い土地」という負のイメージが定着してしまう。
その結果、江戸時代中期以降、高田藩は幕政で不始末を犯した大名が移される、いわば懲罰的な転封地、あるいは「座敷牢」のような性格を帯びるようになった 4 。稲葉家、戸田家、久松松平家と続く頻繁な城主交代の背景には、単なる人事異動を超えた、幕府の統治方針の変化と、土地に刻まれた歴史の記憶が深く関わっていたのである。
3.3 災害との闘い:寛文大地震と小栗美作の復興事業
高田藩の歴史は、自然災害との闘いの歴史でもあった。特に、寛文5年(1665年)12月に発生した大地震(寛文大地震)は、高田の町に壊滅的な被害をもたらした。マグニチュード7.5以上と推定されるこの地震により、高田城は本丸の土塁が崩落し、城内の建造物の大半が倒壊。城下町も700軒以上の武家屋敷と町家の大半が全壊し、死者は1500人以上にのぼったと記録されている 4 。
この未曾有の危機に際し、卓越した手腕で復興を指揮したのが、当時の家老であった小栗美作(おぐりみまさか)である 5 。彼はまず、幕府と交渉して5万両という巨額の資金を借り入れることに成功。その資金を、城やインフラの再建だけでなく、家を失った町人たちへの低利融資に充てるという画期的な政策を実施した 4 。これにより、被災した人々の生活再建を促し、町の復興を加速させたのである。
さらに、小栗の功績は単なる復旧に留まらなかった。彼はこの機を捉え、より機能的で災害に強い町を目指した計画的な都市再開発を断行した。灌漑用水路である中江用水を整備して新田開発を進め、藩の食糧生産力を向上させたほか、直江津港の改修や関川の浚渫(しゅんせつ)を行って水運を発展させ、殖産興業を奨励した 5 。この時に整備された町割りが、現在の高田市街地の基礎を築いたとされている 5 。
寛文大地震は高田に甚大な被害をもたらした悲劇であったが、結果として、小栗美作という優れたリーダーシップの下で、より強靭で豊かな都市へと生まれ変わる「創造的破壊」の契機となった。突貫工事で築かれた城と城下町は、災害という厳しい試練を経て、真の完成に至ったと言えるだろう 5 。
3.4 幕末の動乱:戊辰戦争における高田藩の決断
幕末の動乱は、高田藩にも過酷な選択を迫った。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、新政府軍と旧幕府軍および奥羽越列藩同盟との間に挟まれた高田藩は、極めて困難な立場に置かれた。
当初、藩の基本方針は、新政府へ恭順の意を示しつつも、旧主君である徳川慶喜の赦免を嘆願するという、いわば玉虫色の態度であった 46 。しかし、この曖昧な立場が事態を複雑にする。旧幕府軍の脱走部隊である古屋佐久左衛門率いる「衝鋒隊」が領内に進入した際、高田藩はこれを武力で排除せず、領内の通行を許可してしまう 47 。この行動は、高田城下を目指して進軍してきた新政府軍の強い疑念を招き、高田藩は反逆の汚名を着せられ、討伐されかねない絶体絶命の窮地に陥った 46 。
弁明の余地を失った高田藩は、新政府への忠誠を明確に示すため、一転して領内にいた衝鋒隊を攻撃 47 。そして、新政府軍の指揮下に入り、いわば「踏み絵」として、北越戊辰戦争における最も過酷な役割である「先鋒」を命じられることになった。高田藩兵は、鯨波戦争や長岡城攻略戦など、北越のほぼ全ての激戦で最前線に立たされ、多大な犠牲を払った 47 。藩としての戦闘参加は72回に及び、従軍した藩士760人のうち70人以上が戦死したと記録されている 47 。
また、藩は兵士の動員だけでなく、新政府軍の本営が置かれたことで、莫大な量の人足や兵糧、物資の提供を強いられ、藩財政は極度に疲弊した 46 。戊辰戦争における高田藩の動向は、主体的な思想に基づく行動というよりも、地政学的な状況と初期対応の失敗が生んだ、生き残りのための悲劇であった。それは、大国の論理に翻弄され、自らの意思とは別に過酷な運命を背負わされた地方藩の苦悩を象明している。
第四部:近代以降の歩みと現代の姿
明治維新という時代の大きな転換点を迎え、高田城はその城郭としての役割を終えた。しかし、その歴史は終わらなかった。軍事基地、そして市民の憩いの場である公園へと姿を変えながら、高田の町の中心であり続けた。その変遷は、日本の近代化の歩みと、地域社会の変化を映し出す鏡である。
4.1 明治維新と城の終焉:廃城から陸軍師団の駐屯地へ
高田藩が新政府軍の先鋒として戦い抜いた戊辰戦争が終結し、時代が明治へと移ると、高田城は急速にその姿を失っていく。明治3年(1870年)、不審火により本丸御殿や城の象徴であった三重櫓を含む主要な建造物が焼失 1 。翌明治4年(1871年)の廃藩置県によって高田藩は消滅し、城の敷地はすべて国有地となり、兵部省(後の陸軍省)の所管となった 23 。そして、明治6年(1873年)に発布された「廃城令」に基づき、火災を免れて残っていた他の建物も解体され、高田城は城郭としての歴史に幕を閉じた 51 。
一方、廃藩置県によって越後の政治的中心地としての地位を失った高田の町は、衰退の危機に瀕していた。この状況を打開するため、町は陸軍師団の誘致に乗り出す。鉄道や通信といったインフラが比較的整備されていたことが功を奏し、高田は誘致合戦に勝利。明治41年(1908年)、大日本帝国陸軍第13師団が、旧高田城跡に駐屯することとなった 1 。
師団の駐屯にあたり、城跡は軍用地として大規模な改変を受けた。練兵場や兵舎を建設するため、かつて城を囲んでいた二の丸や三の丸の雄大な土塁の多くが削平され、堀の一部も埋め立てられた 18 。これにより、江戸時代の城郭の面影は大きく損なわれた。
しかし、この城郭の「破壊」は、皮肉にも近代都市高田の「再生」を促すことになった。師団の駐屯は、高田に多くの軍人やその家族を呼び込み、人口が急増。それを当て込んだ商店が増え、町は活気を取り戻した 1 。また、師団長官舎をはじめとする洋風建築が次々と建てられ、城下町の景観は一変した。城という近世のシンボルの物理的な破壊が、近代都市としての再生の起爆剤となったのである。
4.2 高田城址公園の誕生と「日本三大夜桜」
現在、高田城址公園の春を彩り、全国から多くの観光客を魅了する見事な桜並木。その起源は、陸軍師団の駐屯と深く関わっている。明治42年(1909年)、在郷軍人団が第13師団の入城を記念して、城跡に2200本もの桜の木を植樹したのがその始まりである 1 。
当初は軍用地であったため、市民が自由に出入りすることはできなかったが、大正6年(1917年)から師団司令部が構内での花見を許可したことで、桜は市民に広く親しまれるようになった 1 。昭和初期には、地元の保勝会(後の観光協会)が観桜会を主催し、堀に沿ってぼんぼりを灯した。水面に映る桜とぼんぼりの幻想的な美しさは人々の心を捉え、高田の夜桜は名物となった 1 。戦後、城跡が公園として整備されると、この観桜会はさらに発展。現在では「高田城址公園観桜会」として、吉野山(奈良県)、弘前公園(青森県)と並び、「日本三大夜桜」の一つに数えられるまでになり、毎年100万人を超える人々で賑わっている 29 。
また、春の桜と並んで高田城址公園の夏を象徴するのが、外堀を埋め尽くす蓮の花である。その広大さと美しさは「東洋一」とも称され、見頃の時期には「上越はすまつり」が開催され、多くの人々を楽しませている 25 。
4.3 現代に蘇る威容:三重櫓の復元と史跡としての価値
第二次世界大戦後、軍用地であった城跡は公園として整備され、市民の憩いの場となった。そして平成5年(1993年)、明治の火災で失われた三重櫓が、学術的考証に基づいてかつての威容を現代に蘇らせた 32 。この復元事業は、高田の歴史的シンボルを再興し、地域のアイデンティティを再確認する上で、極めて大きな意義を持つものであった。
こうした歴史的価値と、四季折々の美しい景観が評価され、高田城跡は公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」に選定されている 33 。さらに、夜間、美しくライトアップされた三重櫓の姿は、大阪城、高知城とともに「日本三大夜城」にも認定され、新たな観光資源として注目を集めている 33 。
現在、城跡は高田城址公園として、復元された三重櫓や極楽橋 20 、そして地域の歴史を伝える上越市立歴史博物館 33 などを擁する、一大文化拠点となっている。かつての軍事要塞は、時代を経て、市民の憩いと学びの場として、新たな役割を担っているのである。
結論:高田城が語る徳川幕府の戦略と時代の変容
越後高田城の400年以上にわたる歴史は、単一の物語では語り尽くせない、複雑で多層的な軌跡を描いてきた。
それは、徳川家康の天下統一戦略を体現する、計算され尽くした権力の象徴として生を受けた。大坂の陣を前に、前田・上杉という巨大外様大名を睨む北国の楔として、異例の速さで築かれたこの「土の城」は、徳川の武威と政治力を天下に示すモニュメントであった。
しかし、初代城主・松平忠輝の悲劇的な改易と、その後の度重なる城主交代、そして藩の存亡を揺るがした越後騒動は、この城の性格を大きく変容させた。かつての戦略的要衝は、泰平の世の到来と共にその重要性を失い、いつしか不遇の大名が送られる「座敷牢」としての性格を帯びていく。
その一方で、高田の地は未曾有の災害からも不死鳥の如く蘇る強さを見せた。寛文大地震による壊滅的な被害から、家老・小栗美作の卓越したリーダーシップの下で、より強靭で機能的な都市へと生まれ変わった歴史は、危機を乗り越え未来を創造する人間の営みの力強さを物語っている。
幕末の動乱期には、時代の奔流に翻弄され、自らの意思とは別に新政府軍の先鋒という過酷な役目を担わされた。近代化の波の中では、その身を削って陸軍師団を誘致し、近代都市高田の発展の礎となった。
そして現代、かつての威容の一部である三重櫓を蘇らせ、日本有数の桜と蓮の名所として、多くの人々に愛されている。高田城は、築城から現代に至るまで、各時代の政治・社会情勢を色濃く反映し続ける「生きた歴史遺産」である。その変遷の軌跡を辿ることは、日本の近世から近代、そして現代へのダイナミックな移行期を理解する上で、極めて貴重な示唆を与えてくれるのである。
引用文献
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