尾張の要衝鳴海城は、応永年間に築かれ、鎌倉街道と鳴海潟を扼する。山口教継の離反で今川方の牙城となり、桶狭間の戦いでは信長の付け城戦術と岡部元信の忠義が交錯。後に廃城。
日本の戦国史において、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いは、織田信長の天下統一への道を切り拓いた画期的な出来事として知られる。その劇的な奇襲戦の影で、合戦の直接的な引き金となり、尾張と三河の国境地帯における勢力図を根底から揺るがした戦略的要衝が存在した。それが、尾張国東部に位置する鳴海城である。
本報告書は、鳴海城を単に桶狭間合戦の舞台装置の一つとして捉えるのではなく、築城から廃城に至るまでの全貌を詳細に分析し、その多層的な歴史的意義を解き明かすことを目的とする。鳴海城の歴史は、織田信秀の死という権力の空白期に、城主・山口教継が今川方へ寝返ったことで大きな転換点を迎える 1 。これは単なる一城の喪失に留まらず、織田家にとって尾張東部における防衛線の崩壊を意味し、信長の家督継承直後の政権基盤を著しく脅かす事態であった 3 。
この鳴海城と、時を同じくして今川方の手に落ちた大高城をいかにして無力化するかは、若き信長にとって喫緊の課題であった。信長は城を直接攻めるのではなく、周囲に複数の砦(付け城)を築いて包囲するという、当時としては高度な戦略を展開する。これにより、桶狭間の戦いは、今川義元の上洛戦という側面と同時に、鳴海城・大高城をめぐる「付け城合戦」という性格を色濃く帯びることとなった 2 。
さらに、鳴海城の歴史的変遷は、戦国時代の城郭が置かれた立場の変化そのものを体現している。室町期の土豪による地域支配の拠点(「点」の支配)として誕生し、織田・今川という広域勢力の国境紛争の最前線(「線」の攻防)となり、信長の包囲網によって周辺地域一帯を制圧する戦略の対象(「面」での制圧)へと変貌した。そして最終的には、天下統一事業の進展と共にその戦略的価値を失い、静かに廃城となる。この一連の流れは、戦国期の城郭政策と統治体制の進化を象徴する、まさに縮図と言えるだろう。
年代(和暦/西暦) |
主要な出来事 |
主要城主 |
応永年間 (1394-1428) |
足利義満の配下・安原宗範により築城。宗範の死後、一時廃城となる。 |
安原宗範 |
天文年間 (1532-1555) |
織田信秀により再興され、家臣の山口教継が城主となる。 |
山口教継 |
天文21年 (1552) |
山口教継・教吉父子が織田信長から離反し、今川義元に寝返る。赤塚の戦いが勃発。 |
山口教吉 |
永禄元年頃 (1558頃) |
山口父子が今川義元により誅殺され、今川家譜代の岡部元信が入城する。 |
岡部元信 |
永禄2年頃 (1559) |
織田信長が鳴海城包囲のため、丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を築く。 |
(同上) |
永禄3年 (1560) |
桶狭間の戦いで今川義元が討死。岡部元信は義元の首級と引き換えに城を開城。 |
(同上) |
永禄3年以降 |
織田家の重臣・佐久間信盛、信栄父子が城主となる。 |
佐久間信盛・信栄 |
天正8年 (1580) |
佐久間信盛が信長により追放される。この頃に廃城となったとする説が有力。 |
(なし) |
天正18年頃 (1590) |
豊臣政権下で完全に廃城となったとする説もある。 |
(なし) |
3
鳴海城の歴史は、室町時代前期の応永年間(1394年~1428年)に遡る 4 。築城主は、室町幕府4代将軍・足利義満の配下であったとされる、この地の土豪・安原備中守宗範であったと伝えられている 1 。築城に際して、元々城の敷地にあった成海神社が北方の乙子山へ移されたという伝承は 5 、この城が地域の信仰の中心地を占めるほどの重要拠点として計画されたことを示唆している。
しかし、安原宗範が築いた初期の鳴海城に関する史料は乏しく、宗範の死後は一度廃城になったと言われている 6 。そのため、戦国時代に再び歴史の表舞台に登場するまでの約1世紀間、その姿は歴史の中に埋もれていた。
戦国期に織田・今川双方から重要拠点と見なされた背景には、鳴海城が有する卓越した地理的条件があった。城は平野部に孤立して存在する丘陵上に築かれた「平山城」に分類される 9 。この立地は、平野を見渡せる視界と、丘陵そのものが持つ防御性を両立させるものであった。
さらに重要なのは、交通網における位置づけである。城のすぐ近くを、中世の基幹街道であった鎌倉街道が通過しており、陸上交通を扼する絶好の地点であった 11 。加えて、当時の城の西側と南側には「鳴海潟」と呼ばれる広大な干潟が広がっていた 4 。満潮時には城の麓まで海水が迫る天然の要害であり、特に熱田方面からの軍事侵攻は、干潮を待たねばならず、極めて困難であったとされる 12 。
この立地選定は、単なる防御のしやすさだけを考慮したものではない。陸路である鎌倉街道と、水運の拠点となり得た鳴海潟という、陸路と海路の結節点を同時に支配できるという点に、この地の本質的な価値があった。軍事拠点としてだけでなく、人や物資の流れを管理する経済的・物流的なハブとしての潜在能力を秘めていたのである。安原宗範による築城が、単なる土豪の居城という規模を超え、地域経済と交通の要衝を掌握するという高度な戦略的判断に基づいていたからこそ、後の時代に織田・今川という二大勢力による熾烈な争奪戦の対象となったのである。
一時廃城となっていた鳴海城が再び歴史の表舞台に登場するのは、天文年間(1532年~1555年)、尾張で勢力を拡大していた織田信秀の時代である。信秀はこの地の戦略的重要性を認識し、古城を改修・再興して、駿河の今川氏に対する防衛拠点とした 3 。城主として配されたのが、織田家の家臣・山口教継(左馬介)であった 1 。
1552年(天文21年)3月、信秀が病没し、嫡男の信長が家督を継ぐと、尾張の勢力図は大きく揺らぐ。山口教継は、若き信長の「うつけ」と評される言動や、家督相続をめぐる織田家内の混乱を見限り、鳴海城ごと今川義元に寝返るという挙に出た 5 。
教継の離反は、単に一城が敵に渡ったというだけではなかった。彼は息子の教吉を鳴海城主とし、自身は桜中村城を拠点としながら、さらに調略を用いて大高城や沓掛城をも今川方の手に引き入れた 4 。これにより、今川勢力は織田領の心臓部深くまで侵入し、あたかも楔を打ち込むかのような形で複数の拠点を確保することに成功したのである。
事態を重く見た信長は、同年4月、約800の兵を率いて鳴海城の奪還を試みる。しかし、山口勢との間で起こった「赤塚の戦い」では決着がつかず、双方で捕虜を交換して兵を退くという結果に終わった 4 。これは、家督を継いだばかりの信長にとって、軍事的な失態であると同時に、家臣の離反を力で抑えきれなかったという政治的な痛手でもあった 15 。
今川方にとって大功労者であったはずの山口教継・教吉父子であったが、その運命は暗転する。永禄元年(1558年)頃、父子は今川義元によって駿府へ召喚され、切腹を命じられた 5 。
この不可解な粛清の背景には、複数の説が唱えられている。一つは、信長が「山口父子が再び織田に寝返ろうとしている」という偽情報を流し、義元がその調略にはまったという説である 1 。また、赤塚の戦い以降の戦功が振るわなかった責任を問われたとする見方もある 4 。さらに、今川氏が、いつ裏切るか分からない外様の国人領主よりも、信頼の置ける譜代の重臣による直接支配を望んだためという、より政治的な判断があった可能性も指摘されている 3 。
この山口父子の粛清は、今川義元の尾張戦略における一つの弱点を露呈した事件であったと言える。敵地の有力者を調略によって味方に引き入れる能力はあっても、彼らを自軍の戦力として完全に統合し、信頼関係を構築する政治的手腕には課題があった。譜代の岡部元信を城主とすることで鳴海城の支配は確実なものとなったが、その一方で「今川に味方しても、最後は使い捨てにされる」という印象を尾張の他の国人衆に与えかねない危険な賭けでもあった。結果として、今川方は鳴海城周辺で政治的に孤立を深め、このことが後の桶狭間での敗北につながる遠因の一つとなった可能性は否定できない。
山口父子の死後、鳴海城には今川家譜代の重臣である岡部元信(五郎衛門)が入城した 1 。これにより、鳴海城は単なる国人領主の城から、今川軍の尾張侵攻における最前線基地、まさに「牙城」としての性格を強めることになった 4 。
これに対し、織田信長は鳴海城への直接攻撃という消耗戦を避け、城を経済的・物理的に孤立させる「付け城」戦術を採用した 3 。1559年(永禄2年)頃、信長は鳴海城を包囲するように、北に丹下砦、東に善照寺砦、そして南西に中嶋砦を構築した 3 。これらの砦は鳴海城からわずか500メートルから700メートルほどの至近距離に位置し 19 、城兵の活動を厳しく制限すると同時に、同じく今川方の重要拠点であった大高城との連携を完全に遮断する役割を担っていた 18 。この結果、鳴海周辺には城と砦が極めて狭い範囲に密集するという、戦国史上でも特異な状況が出現したのである 3 。
1560年(永禄3年)5月、今川義元は2万5千とも言われる大軍を率いて尾張への侵攻を開始する。この遠征の主目的の一つは、兵糧が尽きかけていた大高城への補給と、鳴海城を圧迫する信長方の砦群を掃討することであった 2 。
合戦当日、善照寺砦まで進出した信長は、佐々政次、千秋季忠らが率いる一隊を鳴海城への攻撃に向かわせた 4 。これは明らかに少数での陽動攻撃であり、岡部元信率いる鳴海城兵はこれを難なく撃退し、佐々、千秋らを討ち取っている 4 。しかし、この一見無謀な攻撃は、岡部元信の注意を城の正面に引きつけ、信長本隊が敵に察知されることなく中嶋砦へ移動し、さらに桶狭間の義元本陣へ奇襲するための時間を稼ぐという、極めて重要な役割を果たした。元信は眼前の敵の撃退に成功したが、その間に信長本隊の動きを見逃すという、戦略的な錯誤を犯したのである 4 。
今川義元が桶狭間で討死し、今川本隊が総崩れとなったという衝撃的な報せが届いても、岡部元信は全く動揺を見せず、鳴海城での籠城を続けた 2 。周囲を完全に織田軍に包囲され、援軍の望みも絶たれた絶望的な状況であった。
しかし、元信はここから驚くべき交渉手腕を発揮する。信長との開城交渉において、彼は城の明け渡しの条件として「亡き主君・義元の首級との交換」を提示したのである 1 。これは、単なる降伏ではなく、武将としての名誉と主君への最後の忠義を懸けた要求であった。
信長はこの元信の忠義心に深く感じ入り、その要求を全面的に受け入れた。義元の首は丁重に棺に納められて元信のもとへ返還され、元信は主君の首を輿に乗せ、全将兵と共に堂々と城を明け渡し、駿河へと帰国したと伝えられる 3 。この一連のやり取りは、軍事的に完全な敗北という状況下で、元信が①将兵の生命の保全、②武将としての名誉の維持、③主君への最後の忠義、という三つの目的を、外交交渉のみによって同時に達成したことを示している。これは、武士道という共通の価値観を交渉の切り札として利用した、戦国期ならではの高度な政治的駆け引きであり、敗戦処理の理想形の一つとして後世に語り継がれることとなった。
桶狭間の戦いの後、織田信長の手に渡った鳴海城は、織田家筆頭家老の一人であり、「退き佐久間」の異名で知られた猛将・佐久間信盛に与えられた 1 。信盛は息子の信栄と共に城主を務め、鳴海城は信長の尾張統一事業やその後の大規模な戦役において、佐久間家の拠点として重要な役割を果たした 24 。現在も城跡の近隣に残る「作町(さくまち)」という地名は、この佐久間氏に由来するという説が有力である 6 。
織田政権下で重臣の居城として機能した鳴海城であったが、その終焉については明確な記録がなく、廃城の時期をめぐっては複数の説が存在する 4 。
廃城時期を特定することが困難なのは、特定の戦闘による陥落や破壊ではなく、織田政権の統治体制の成熟と戦略の変化に伴い、城がその役割を静かに終えたためである。信長の勢力圏が畿内、北陸へと拡大するにつれ、尾張国内の支城である鳴海城の軍事的価値は相対的に低下していった。もはや国境線の維持ではなく、大規模な遠征軍の編成と動員が軍事戦略の中心となる中で、鳴海城は「戦略的陳腐化」を免れ得なかったのである。
天正8年(1580年)の佐久間信盛の追放は、このプロセスを加速させる政治的なきっかけであった。信長が信盛に突きつけた折檻状には、石山本願寺攻めにおける不手際や、利益を独占して家臣を十分に召し抱えない姿勢などが厳しく糾弾されている 24 。これは、旧来の門閥的家臣団から、より近代的で成果主義的な軍団へと織田家が変貌する過程で生じた摩擦の象徴であった。したがって、鳴海城の廃城は、単に「城主がいなくなったから不要になった」のではなく、「もはや戦略的に重要でなくなった城の管理を、成果を上げない旧弊な重臣に任せておくことはできない」という、信長の合理的な経営判断の結果と見るべきである。城の運命が、城主個人の運命のみならず、政権全体の構造改革と密接に連動していたことを示す好例と言えよう。
説(年代) |
根拠・背景 |
妥当性評価 |
天正3年 (1575) 説 |
佐久間信盛が三河国の刈谷城へ移ったことを根拠とする。この時点で鳴海城の重要性が低下したと見る。 |
可能性はあるが、信盛の主たる拠点が完全に移動したかは不明確。 |
天正8年 (1580) 説 |
佐久間信盛が信長によって追放された時期。城主の不在と所領の再編に伴い、廃城になったとする。 |
最も有力な説の一つ。信長の軍制改革と城郭政策の転換点と時期が一致する。 |
天正18年頃 (1590) 説 |
豊臣秀吉による天下統一後、全国的な支城破却令の流れの中で廃城になったとする。 |
可能性は低い。天正8年の時点で既に城としての機能は失われていたと考えられる。 |
3
鳴海城の具体的な構造を知る手がかりは、文献史料や古絵図に残されている。『鳴海誌』などの記録によれば、城の規模は「東西七十五間半(約137メートル)、南北三十四間(約62メートル)」とされ、丘陵の地形に沿った東西に長い城郭であったと推測される 6 。また、『本地鳴海古城跡之図』といった古絵図も存在し、本丸や二の丸といった曲輪の配置を推測する上で貴重な資料となっている 2 。これらの情報から、鳴海城は複数の郭が連なる連郭式の縄張りを持っていたと考えられる。
近年の名古屋市教育委員会による複数回にわたる発掘調査では、城の具体的な姿を裏付ける遺構が確認されている 27 。特に注目されるのは、城の防御施設である堀の跡と考えられる大規模な溝の発見である。ある調査地点では、幅約5メートル、深さ約3メートルと推定される大溝が検出されており、文献史料が伝える堅城ぶりを考古学的に証明している 27 。
一方で、これらの発掘調査は新たな問いも投げかけている。城が最も激しく争奪された15世紀から16世紀(戦国時代)に属する陶磁器などの遺物の出土量が、予想に反して限定的であるという点である 27 。この事実は、鳴海城の性格を考察する上で重要な示唆を与える。
文献、絵図、そして発掘調査の結果を総合すると、鳴海城の姿が浮かび上がってくる。それは、丘陵の地形を巧みに利用し、深く大規模な堀と土塁によって防御された、東西に細長い堅固な城郭であった。
しかし、戦国期の遺物が少ないという考古学的知見は、この城が恒久的な政庁や生活の場としてではなく、純粋な軍事拠点としての性格が強かった可能性を示唆している。特に、今川方の最前線基地となってからは、城主の家族が居住するような館は存在せず、兵士が詰める兵舎や武器・兵糧を保管する倉庫が中心の、実用本位の「要塞」であった可能性が高い。平時の統治拠点ではなく、常に臨戦態勢にある軍事施設であったと考えることで、文献が語る「堅城」という評価と、考古学調査が示す「生活感の希薄さ」という二つの側面を合理的に説明することができる。
かつて尾張東部の要衝として歴史を動かした鳴海城は、天正年間にその役目を終え、城郭としての姿を完全に失った。現在、城跡の中心部は名古屋市緑区の「鳴海城跡公園」として整備されているが、往時を偲ばせる石垣や建造物といった明確な遺構はほとんど残されていない 1 。しかし、周囲の市街地より一段高く、起伏に富んだ地形は、ここが天然の要害であったことを今なお雄弁に物語っている 4 。
物理的な城郭は失われたものの、その歴史を伝える痕跡は地域の各所に点在している。
鳴海城は、一つの城が時代の奔流の中でいかに重要な役割を担い、そして天下統一という大きな流れの中で静かにその役目を終えていったかを示す、戦国時代の縮図である。その姿は失われたが、点在する史跡や地名、そして何よりも桶狭間の戦いという日本史上の一大転換点をめぐる物語を通じて、その歴史的価値を未来へと伝え続けている。