最終更新日 2025-08-25

黒井城

丹波の赤鬼・赤井直正が築いた黒井城は、明智光秀を苦しめた堅城。土と石の築城技術が混在し、戦国時代の変遷を物語る。春日局生誕の地としても知られる。

丹波黒井城 ― 「赤鬼」の要塞と織田信長の天下統一事業

序章:丹波に聳える戦国の巨城、黒井城

兵庫県丹波市春日町、緑豊かな丹波の山並みの中に、ひときわ峻険な山容を誇る猪ノ口山(標高356m)が聳える。この山全体を要塞として築かれたのが、戦国史にその名を刻む山城、黒井城である 1 。別名を保月城(ほげつじょう)、あるいは保築城(ほづきじょう)とも呼ばれるこの城は、単なる一地方の城郭に留まらない 1 。京の都に隣接し、西国の雄・毛利氏と、天下布武を掲げる織田信長の勢力圏が激しく衝突する戦略的要衝、丹波国。その地にあって、黒井城は戦国時代という激動の時代を象徴する存在であった。

この城の名を天下に轟かせたのは、その城主であった荻野(赤井)直正、後に「丹波の赤鬼」と恐れられた稀代の猛将である 2 。彼の興隆と、それに伴う城の大規模な拡張は、黒井城を戦国屈指の堅城へと昇華させた。そして、その堅城は、織田信長の天下統一事業において、避けては通れない巨大な障壁として立ちはだかることになる。信長の命を受け、丹波平定の総大将となった明智光秀の前に、黒井城と赤井直正は最大の難敵として君臨したのである 6

本報告書は、黒井城という一つの城郭を多角的に分析することにより、戦国時代の歴史力学を解き明かすことを目的とする。城の成り立ちから、その構造的特徴、そして城主・赤井直正の人物像、さらには明智光秀との壮絶な攻防戦に至るまでを詳述する。それは、一城の盛衰の物語であると同時に、地方の独立勢力が中央の巨大権力にいかにして対峙し、そして飲み込まれていったかの縮図でもある。黒井城の土塁と石垣に刻まれた歴史を紐解くことで、戦国という時代の本質に迫りたい。


第一部:城の成り立ちと支配者の変遷

第一章:黎明期 ― 赤松氏の築城と荻野氏の統治

黒井城の歴史は、南北朝時代の動乱期にまで遡るとされる。建武年間(1334年-1338年)、播磨国を中心に勢力を誇った守護大名、赤松貞範によって築かれたのがその始まりと伝えられている 1 。この時期、全国的に軍事的な緊張が高まっており、丹波国もまたその例外ではなかった。赤松氏がこの地に城を築いたのは、丹波を自らの勢力圏に組み込むための戦略的拠点、すなわち広域支配のための前線基地としてであったと推察される。

赤松氏による統治は約120年間に及んだとされるが、その支配形態は城主が直接この地に常駐するものではなく、代官を派遣して治める遠隔統治であった可能性が指摘されている 1 。このことは、当時の黒井城がまだ小規模な砦、あるいは拠点施設程度の規模であったことを示唆している。

時代が下り、室町幕府の権威が揺らぎ、守護大名の力が衰退の一途をたどると、丹波国内では土着の国人領主が台頭し始める。黒井城周辺では荻野氏が勢力を伸張し、天文年間(1532年-1554年)には荻野秋清が黒井城主としてこの地を治めていた記録が確認できる 1 。この支配者の交代は、黒井城の性格が、広域勢力の前線基地から、より地域に根差した国人領主の拠点へと変化したことを物語っている。これは、守護大名の支配体制が崩壊し、国人たちが自立していく戦国時代特有の権力構造の変動を、城の歴史が如実に体現している事例と言えよう。

第二章:「丹波の赤鬼」の誕生 ― 赤井直正の台頭

黒井城の歴史、ひいては丹波の戦国史を語る上で、赤井直正という人物の存在は決して欠かすことができない。丹波国氷上郡の有力国人、赤井時家の次男として生まれた彼は、当初、荻野氏へ人質、あるいは養子として送られていた 1 。しかし、彼が歴史の表舞台に躍り出る様は、極めて衝撃的であった。

天文23年(1554年)正月、直正は新年の挨拶のためとして黒井城を訪れると、宴席の最中に城主であり叔父(または養父)にあたる荻野秋清を自らの手で刺殺し、城を乗っ取ったのである 1 。この下剋上は、仁義や恩義といった旧来の価値観を根底から覆す行為であり、力こそが全てを支配する戦国乱世の到来を象徴する事件であった。この一件により、彼は「悪右衛門」と名乗るようになる 6 。この「悪」の一字は、単に非道な行為を指すのではなく、旧来の秩序を破壊するほどの圧倒的な勇猛さと力を示す、畏怖を込めた称号であったと解釈されている 5

黒井城主となった直正の武威は、丹波一円に鳴り響いた。彼は細川晴元派として三好氏との抗争を続け、永禄8年(1565年)には、当時丹波国で随一の実力者とされた三好長慶の重臣、松永久秀の弟・内藤宗勝(松永長頼)を討ち取るという大金星を挙げる 1 。これにより丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿)を完全に支配下に置き、その勢いは隣国の但馬、丹後にも及んだ 1 。彼の武勇は「丹波の赤鬼」と称され、敵対する者たちを震え上がらせた 5

その名声は、丹波一国に留まるものではなかった。驚くべきことに、甲斐武田氏の軍学書として名高い『甲陽軍鑑』には、当代の「名高キ武士」として、徳川家康や長宗我部元親といった錚々たる大名と並び、「丹波ノ赤井悪右衛門」の名が記されている 10 。交通や通信が未発達であった当時、敵対勢力圏である東国の甲斐にまでその武名が届いていたという事実は、彼の武勇が局地的な伝説ではなく、全国の武将が注目するほどの「ブランド」であったことを証明している。出自や手段の是非よりも、結果として勝ち取り、維持する「武」と「実力」が最も評価される戦国時代の価値基準を、赤井直正という武将はまさに体現していたのである。この全国的な名声こそが、後に織田信長が丹波平定において、彼の討伐を最重要課題と位置づけた最大の理由であったと言えるだろう。


第二部:城郭の構造と戦略

第三章:猪ノ口山の要塞 ― 黒井城の縄張り

赤井直正の手によって、黒井城は単なる国人の居城から、戦国屈指の巨大要塞へと変貌を遂げた。その最大の特徴は、猪ノ口山の山頂部のみならず、三方に伸びる尾根、中腹、そして山麓に至るまで、山全体を有機的に連携させた広域城郭群として構築されている点にある 1

黒井城の防御思想の核心は、どの方向からの攻撃に対しても三重の防御線を展開できる「三段構え」の構造にある 1

第一段の防御線は、山頂から放射状に伸びる三方の尾根筋の先端に巧みに配置された「出砦(でとりで)」群である。北西には千丈寺砦、北東には龍ヶ鼻砦、南東には的場砦などが築かれ、これらは山頂の主郭部から約1km前後とほぼ等しい間隔にあり、相互に連携し、敵の接近を早期に察知し、迎撃する前線基地としての役割を担った 1。

敵がこの第一段を突破しても、次には山の中腹から山麓にかけて設けられた第二段の防御線が待ち受ける。「石踏の段」や「太鼓の段」、「三段曲輪」といった大小様々な曲輪群が段々畑のように連なり、兵の駐屯地や迎撃拠点として機能した 1 。これらの曲輪は巧みに配置され、敵兵を狭い通路に誘い込み、側面から攻撃を加える(横矢をかける)ことが可能な設計となっていた 16

そして最後の砦となるのが、山頂部に位置する第三段、本丸・二の丸・三の丸からなる主郭部である 1 。城の中枢であり、司令塔として、また最後の抵抗拠点として堅固に固められていた。

一方で、平時の政務や城主の居住空間は、山麓の「下館(しもやかた)」に置かれていた。現在の興禅寺がその跡地とされ、周囲には水を湛えた濠や石垣が巡らされ、それ自体が堅固な防御施設を備えた居館であったことが窺える 1 。下館を中心に家臣団の屋敷や城下町が形成され、これらの防御施設群が一体となって城下町全体を防衛する「惣構え」に匹敵する機能を持っていた可能性も指摘されている 1

このような多層的かつ広大な防御システムは、単に敵の攻撃を耐え忍ぶ受動的な籠城戦を想定したものではない。出砦、山麓曲輪、山頂主郭部という段階的な防御ラインは、敵を丹波の奥深くへと引き込み、地の利を活かして段階的に消耗させ、味方の反撃や友軍との連携を容易にするための、極めて能動的な「縦深防御」思想に基づいている。黒井城の特異な縄張りは、赤井直正の得意とした戦術を最大限に発揮するために、意図的に設計・構築された軍事思想の物理的な発露であったと言えよう。

第四章:土と石の協奏 ― 過渡期城郭としての構造的特徴

黒井城が城郭史上きわめて貴重な遺跡とされる理由は、その縄張りのみならず、戦国時代における築城技術の変遷を、一つの城の中で明確に見て取れる点にある。現存する遺構は、大きく二つの時代の特徴を併せ持っており、それはさながら土と石の協奏曲のようである 1

第一の姿は、赤井直正時代に完成された「土の城」としての側面である。西の丸や千丈寺砦などに色濃く残る大規模な土塁、尾根を断ち切る鋭い堀切、斜面を駆け上がろうとする敵兵の動きを阻害する畝状竪堀などは、戦国時代中期から後期にかけての山城築城術の極致を示すものである 19 。これらは、あくまで実戦における防御能力を最大限に高めることを目的とした、実用本位の構造であった。

第二の姿は、明智光秀による丹波平定後、新たな城主となった斎藤利三や堀尾吉晴といった織豊政権下の武将たちによって加えられた「石の城」としての側面である 1 。特に山頂の主郭部には、自然石をそのまま積み上げる「野面積み」や、隅角部を強化するために長方形の石を交互に組み上げる初期的な「算木積み」といった技法を用いた石垣が導入された 1 。興味深いことに、これらの石垣は特に城下から仰ぎ見える南面に重点的に構築されており、単なる防御機能の強化だけでなく、新たな支配者の権威と威光を領民に示すための「見せる城」という政治的・象徴的な意図があったことが指摘されている 4

表1:黒井城の段階的改修と構造的特徴

時代区分

第一期(南北朝~戦国初期)

第二期(戦国中期~後期)

第三期(安土桃山時代)

この「土」から「石」への変化は、城に求められる役割が「戦うための城」から「統治の象徴としての城」へと移行していく、戦国末期から安土桃山時代にかけての城郭思想の転換を明確に示している。さらに、本丸や二の丸跡からは瓦が多数出土しており、当時としては先進的であった瓦葺きの壮麗な建造物が存在したことも実証されている 1

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを最後に、黒井城が歴史の表舞台から姿を消し、大規模な改修を受けることなく廃城となったことは 1 、結果としてこの過渡期の姿を「凍結保存」する奇跡をもたらした。もし江戸時代を通じて城が存続していれば、全面的な石垣化や天守の建設など、さらなる改修によって赤井氏時代の「土の城」の遺構は失われていた可能性が高い。その歴史的価値は、何が「ある」かだけでなく、何が「されなかった」かにも存在するのである。黒井城は、中世山城から近世城郭へと移行するプロセスが未完のまま残された、城郭史研究における「生きた化石」と呼ぶべき、比類なき遺跡なのである 17


第三部:丹波平定戦の激闘

第五章:光秀、最初の蹉跌 ― 第一次黒井城の戦い

天正3年(1575年)、織田信長は重臣・明智光秀に対し、丹波平定を厳命する 22 。当時、将軍・足利義昭を京から追放した信長に対し、丹波の国人衆の多くは義昭に与し、反信長の姿勢を鮮明にしていた。その中でも、但馬にまで勢力を伸ばし、毛利氏とも連携する赤井直正の存在は、信長の天下統一事業にとって看過できない脅威であった 11

丹波に入った光秀は、巧みな外交手腕で瞬く間に丹波国衆の過半数を味方につけ、同年10月、満を持して黒井城を包囲した 7 。光秀軍の猛攻の前に、黒井城は兵糧も尽きかけ、落城は時間の問題と見られていた 7 。攻城戦が2ヶ月以上に及んだ翌天正4年(1576年)1月15日、戦況は誰もが予測し得なかった形で劇的に転回する。

光秀軍の一翼を担っていたはずの丹波有力国人、八上城主・波多野秀治が突如として信長を裏切り、赤井方に寝返って光秀軍の背後を急襲したのである 1 。前面の黒井城と背後の波多野軍に挟撃される形となった光秀軍は総崩れとなり、光秀自身も命からがら京の坂本城へと敗走を余儀なくされた 11 。この鮮やかな逆転劇は、後に「赤井の呼び込み戦法」として語り継がれ、「丹波の赤鬼」赤井直正の武名を一層高めることとなった 1 。この戦法が、直正と秀治の間で事前に練られた密約に基づく、計画的なものであった可能性も高い 19

この敗戦は、光秀の軍事的才能の欠如を示すものではない。むしろ、丹波国人衆の複雑な利害関係や、信長という外部の巨大権力に対して抱く潜在的な反感を、彼が完全には掌握しきれていなかったという「政治的・情報的」な失敗であった。波多野秀治の離反は、丹波の国人としての独立を維持したいという、地域勢力に共通する意思の表れであり、光秀はその深層心理を見抜けなかった。この手痛い敗戦は、光秀にとって、丹波平定には単なる軍事力による制圧だけでは不十分であり、地域の政治力学を根底から覆す、より長期的で周到な戦略が必要であることを痛感させる、苦い教訓となったのである。

第六章:鬼の死、城の陥落 ― 第二次黒井城の戦い

第一次黒井城の戦いでの屈辱的な敗北から約2年後の天正5年(1577年)10月、光秀は丹波平定戦を再開する。しかし、その戦略は以前とは全く異なる、慎重かつ冷徹なものへと変貌していた 10

まず光秀は、丹波攻略の恒久的な拠点として亀山城(現・京都府亀岡市)の築城に着手し、兵站線を確保する 22 。次に、前回の敗因となった赤井氏と波多野氏の連携を断ち切るため、両者の勢力圏の中間地点にあたる郡境に金山城を築城。これにより二大勢力を物理的に分断し、相互の救援を不可能にするという、極めて戦略的な手を打った 6

そして、第二次丹波攻めの最大の転機が訪れる。天正6年(1578年)3月、あれほどの武勇を誇った「丹波の赤鬼」赤井直正が、黒井城内にて病によりこの世を去ったのである 1 。一説には「首切り疔」と呼ばれる悪性の腫瘍であったという 1 。赤井軍は精神的支柱を失い、丹波の反信長連合の求心力は急速に失われていった。

この好機を光秀は見逃さなかった。しかし彼は、逸って黒井城を直接攻撃することはしなかった。まず標的としたのは、かつて自分を裏切った波多野秀治の八上城であった。光秀は八上城を徹底的に包囲し、外部との連絡を完全に遮断。1年以上にわたる兵糧攻めの末、ついにこれを陥落させた 1

その後、光秀は黒井城周辺の支城を一つずつ確実に攻略し、黒井城を完全に孤立無援の状態に追い込んだ。指導者を失い、援軍の望みも絶たれた黒井城に、もはや抗う術は残されていなかった。天正7年(1579年)8月9日、黒井城はついに落城し、5年近くに及んだ丹波平定戦は、ここに終止符を打ったのである 1

この第二次丹波攻めは、明智光秀の武将としての真価を示す戦いであった。彼は最初の失敗から学び、拠点整備、敵勢力の分断、そして各個撃破という、近代的で合理的な戦略を完遂した。それは、戦国時代の合戦が、個人の武勇や奇策に頼る段階から、兵站、情報、外交、そして長期的な戦略構想を重視する総力戦へと移行していく様を明確に示している。黒井城の攻防戦は、この戦術思想の進化を象徴する戦いであったと言える。


第四部:落日と後世への遺産

第七章:城の終焉と新たな息吹

丹波平定後、黒井城には明智光秀の重臣・斎藤利三が入城し、西丹波統治の拠点とした 1 。この時期、黒井城の歴史に、戦いの記憶とは対照的な、新たな一頁が加わる。利三の娘・お福、すなわち後の徳川三代将軍・家光の乳母として権勢を振るい、大奥の礎を築いた春日局が、この黒井城下の興禅寺で生まれたと伝えられているのである 2 。興禅寺には、今なお「産湯の井戸」や「腰かけ石」といった伝承の地が残り、戦国の動乱の象徴であった城が、泰平の世を支える人物を生み出した場所として語られている 2

しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。天正10年(1582年)、本能寺の変で光秀が信長を討つと、その後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北。光秀と共に、城主・斎藤利三もまた命を落とし、黒井城は秀吉の家臣・堀尾吉晴の支配下に入った 1

そして、黒井城が最後に歴史の舞台に登場するのは、天正12年(1584年)のことである。秀吉と徳川家康が対峙した小牧・長久手の戦いに際し、かつての城主・赤井直正の弟である赤井時直が、遠く家康に呼応して黒井城に立てこもり、反秀吉の兵を挙げた 1 。これが、黒井城における最後の戦闘となった。この事件の後、黒井城は廃城となり、約250年にわたるその歴史に静かに幕を下ろしたと考えられている 1

この廃城の決定には、新支配者である秀吉の徹底した政治的意志が働いていたと見られる。旧城主一族による抵抗の象徴となった黒井城を存続させることは、将来の反乱の火種を残すことに他ならなかった。城の廃止は、単なる軍事的な合理性を超え、旧勢力の影響力を丹波の地から根絶やしにするという、秀吉の天下統一に向けた強い決意の表れであった。こうして、戦国の世を駆け抜けた巨城は、その役目を終えたのである。

第八章:史跡としての黒井城

戦いの時代が終わり、歴史の表舞台から姿を消した黒井城であったが、その価値が失われたわけではなかった。むしろ、その後の大規模な改変を免れたことにより、戦国時代末期の城郭の姿を極めて良好な状態で現代に伝える、第一級の歴史遺産となったのである 17

特に、赤井直正時代の「土の城」の遺構と、斎藤利三以降の「石の城」への改修の痕跡が混在する様は、中世山城から織豊系城郭へと移行する過渡期の姿を留めるものとして、学術的に極めて高い評価を受けている。この歴史的価値が認められ、昭和64年(平成元年)、黒井城跡は国の史跡に指定された 2 。さらに、2017年には公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」(163番)に選定され、全国の城郭ファンや歴史愛好家が訪れる重要な史跡となっている 3

復元された天守閣などの建造物は存在しないが 20 、それゆえに訪れる者は、戦国時代そのままの土塁や石垣に直接触れ、当時の武将たちが見たであろう丹波の山並みを追体験することができる。この「ありのまま」の姿こそが、歴史のリアリティを伝え、人々を惹きつける最大の魅力となっている。また、気象条件が揃えば、山頂の本丸跡から眼下に広がる雲海を望むことができ、「天空の城」としての幻想的な一面も持つ 26

現在、黒井城は歴史研究の対象としてだけでなく、多くの人々が訪れる観光地として、そして地元では毎年秋に「黒井城まつり」が開催されるなど 5 、地域住民の誇りであり、郷土のシンボルとして深く愛されている。戦国時代の軍事拠点が、時代を経て、学術、観光、地域振興という新たな役割を担い、現代に生き続けているのである。


結論:黒井城が戦国史に投じる光

丹波の山中に静かに眠る黒井城跡は、単なる過去の遺物ではない。それは、戦国時代という激動の時代を多角的に映し出す、雄弁な語り部である。

本報告書で詳述した通り、黒井城の歴史は、「丹波の赤鬼」と恐れられた城主・赤井直正の栄光と、その死と共に訪れた落城という悲劇に、あまりにも密接に結びついている。彼の武威によって、黒井城は一地方の城から天下に名を馳せる堅城へと昇華し、彼の死によって、その抵抗の歴史は幕を閉じた。城と城主の運命が一体であった、戦国時代の典型がここにある。

構造的には、中世的な「土の城」の防御思想と、近世的な「石の城」の政治的象徴性が同居する、城郭史上の「生きた化石」としての価値は計り知れない。その過渡期の姿は、戦国という時代そのものが、旧来の価値観から新たな秩序へと移行していくダイナミズムを我々に示してくれる。

そして、黒井城の存在は、織田信長の天下統一事業がいかに困難な道のりであったかを物語る。明智光秀という当代随一の知将ですら、一度は手痛い敗北を喫したこの城は、信長の前に立ちはだかった巨大な壁であった。しかし、その攻略の過程で光秀が見せた戦略の進化は、彼が単なる武人ではなく、優れた戦略家へと成長していく姿を映し出している。

一地方の山城が、傑出した個人の物語、築城技術の変遷、そして中央集権化という大きな歴史のうねりといった、多様な歴史の断面を鮮やかに切り取って見せてくれる。黒井城は、戦国史を理解する上で欠くことのできない、第一級の史料であり、その土塁と石垣は、これからも多くのことを我々に語りかけてくれるに違いない。

引用文献

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  2. Vol.02|黒井城跡・興禅寺・柏原八幡宮・兵主神社(兵庫県丹波市) | まるごと北近畿 https://kitakinki.gr.jp/mitsuhide/02mitsuhide
  3. 「黒井城(保月城)」 ~春日局を生んだ山城~ [続日本100名城No.163]|Kagirohi - note https://note.com/kagirohi_001/n/n12cb43424c65
  4. 黒井城 | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育委員会 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/castle/kuroi/
  5. 【丹波市】2020大河ドラマ「麒麟がくる」特集 -明智光秀・赤井直正 https://tamba-tourism.com/taiga2020/
  6. 赤井 (荻野) 直正 ~ 赤井 悪右衛門 - 丹波市観光協会 https://www.tambacity-kankou.jp/spot/spot-3656/
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  9. 明智光秀と赤井直正――あるいは光秀の前に立ち塞がった壁 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/17/100000
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  14. 黒井城 [1/2] 丹波の赤鬼 赤井直正の居城、主郭に巨大石垣が残る。 https://akiou.wordpress.com/2013/12/09/kuroi-jo/
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  16. 丹波市で、フォーラム「黒井城を語る」を拝聴 - 播磨屋 備忘録 http://usakuma21c.sblo.jp/article/186648086.html
  17. 黒井城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138894
  18. 黒井城跡/丹波市ホームページ https://www.city.tamba.lg.jp/soshiki/shakaikyoikubunkazaika/gyomuannai/7/1/1922.html
  19. 光秀と「赤鬼」の攻防史 荻野直正「黒井城の戦い」 武勇優れるも現実路線歩む - 丹波新聞 https://tanba.jp/2020/07/%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%A8%E3%80%8C%E8%B5%A4%E9%AC%BC%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%94%BB%E9%98%B2%E5%8F%B2%E3%80%80%E8%8D%BB%E9%87%8E%E7%9B%B4%E6%AD%A3%E3%80%8C%E9%BB%92%E4%BA%95%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6/
  20. 黒井城跡Q&A - 丹波市 https://www.city.tamba.lg.jp/soshiki/shakaikyoikubunkazaika/gyomuannai/7/1/2820.html
  21. 黒井城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/447/memo/4292.html
  22. 黒井城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E4%BA%95%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  23. 光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第4回|光秀に抗った丹波国人たちの城【黒井城・八上城など】 https://shirobito.jp/article/1167
  24. 丹波平定 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/SengokuTanbaHeitei.html
  25. 第2章 明智光秀が築いた城下町 福知山~このまちの、はじまりのはなし https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/18094.html
  26. 黒井城の見所と写真・1000人城主の評価(兵庫県丹波市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/447/
  27. 黒井城 - 日本100名城ガイド https://www.100finecastles.com/castles2nd/kuroijo/
  28. 続日本100名城スタンプ「黒井城」の設置場所のご案内 - 丹波市 https://www.city.tamba.lg.jp/soshiki/shakaikyoikubunkazaika/gyomuannai/7/2747.html
  29. 名城詳細データ | 黒井城 - 日本百名城塗りつぶし同好会 https://kum.dyndns.org/shiro/castle.php?csid=163