飯坂の局(いいさかのつぼね、永禄12年(1569年) – 寛永11年(1634年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性であり、出羽国・陸奥国の戦国大名である伊達政宗の側室として知られる人物である 1 。彼女はその生涯において、「猫御前(ねこごぜん)」という愛称でも呼ばれ、また居住した地名にちなんで「松森の局」「吉岡の局」とも称された 2 。
飯坂の局の生涯を辿ると、伊達家の重要な子女の養育に関わり、また実家である飯坂家の再興にも大きな役割を果たしたことが明らかになる。しかしながら、その一方で、彼女に関する記録、特に伊達政宗の長男・伊達秀宗や三男・伊達宗清の生母については史料によって記述が異なり、長年にわたり歴史研究の対象となってきた 2 。また、「猫御前」という愛称の由来とされる逸話も広く知られているが、その史実性については慎重な検討が求められる 3 。
本報告書は、現存する主要な史料や関連資料に基づき、飯坂の局の出自、伊達政宗の側室となった経緯、子女をめぐる諸説、呼称の変遷、逸話、隠棲と晩年、そして墓所といった多岐にわたる情報を網羅的に調査・分析する。これにより、史料間の異同や後世の創作による影響を整理し、飯坂の局の実像に可能な限り迫ることを目的とする。
飯坂の局は、永禄12年(1569年)に生まれた 1 。彼女は陸奥国信夫郡飯坂城主であった飯坂右近宗康(いいざか うこんむねやす)の次女である 1 。飯坂氏は伊達氏初代・伊達朝宗の四男・為家を祖とし、為家の曾孫・政信が飯坂に居を構えて飯坂氏を称したことに始まる伊達氏の庶流であり、一家の家格を有する名門であった 8 。しかし、寛文11年(1671年)の伊達騒動の際に当主が切腹となり御家断絶となったため、その詳細を伝える史料は散逸し、実態が明らかでない部分も多いとされる 8 。
飯坂の局の父・飯坂宗康は、伊達政宗の父・輝宗の代から伊達家に仕え、天正12年(1584年)に家督を継いだ政宗からも重用された武将であった 8 。宗康は人取橋の戦い(天正13年、1586年)で政宗の本陣近くに布陣し、本陣に攻め寄せる敵軍に突入して力戦し、政宗の退却を助けるなど、武功を重ねた 8 。このような父の伊達家における立場が、娘である飯坂の局が政宗の側室として迎えられる背景の一つとなったと考えられる。戦国時代における婚姻、特に大名家における側室の選定は、単なる個人的な関係に留まらず、主家と家臣団の関係強化や、有力な家臣への配慮といった政治的な側面を色濃く持つのが常であった 11 。飯坂氏が伊達氏の庶流であり名門であったという家格も、彼女が側室として選ばれる上で有利に働いた可能性は高い。飯坂の局は政宗の側室となり、米沢城に入って「飯坂の局」と呼ばれるようになった 1 。
飯坂の局は、伊達政宗の側室として米沢城にいた時代には、その出自である飯坂氏の名を冠して「飯坂の局」と称された 1 。
彼女は「猫御前」という愛称でも知られている。この愛称の由来として広く伝わるのは、彼女が初めて政宗の側室候補として米沢城に上がった際、城内で鼠を捕らえてみせたという逸話である 3 。この逸話からは、猫のように奔放で天真爛漫、明るく物怖じせず、また笑い上戸であったという彼女の性格がうかがえるとされる 3 。しかしながら、「猫御前」という呼称自体が、山岡荘八の小説『伊達政宗』や、それを原作とした1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』を通じて広く一般に知られるようになった可能性が高い点には留意が必要である 3 。これらの創作物における「猫御前」は、史実の飯坂の局と、後述する新造の方という別の側室の要素を合わせて造形されたキャラクターであると説明されており 5 、「猫御前」という呼称が一次史料において確認されるものではなく、後世の創作や大衆文化によって定着したイメージである可能性は否定できない。そのため、鼠退治の逸話やそこから想起される人物像も、史実の飯坂の局の性格を直接的に反映しているかについては慎重な判断が求められる。現代においては、ゲームのキャラクター 16 や観光キャンペーン 18 などでも「猫御前」の名が用いられており、その知名度の高さがうかがえる。
飯坂の局の呼称は、その後の彼女の生涯における居住地の変化や立場の変動を反映して変わっていった。政宗の所領替えに伴い松森(現在の仙台市泉区)に隠棲した際には「松森の局」、養子である伊達宗清が吉岡城主となった後に吉岡(現在の宮城県黒川郡大和町)に移り住んでからは「吉岡の局」とも呼ばれた 2 。これらの呼称の変遷は、彼女自身の出自(飯坂)、隠棲地(松森)、養子の所領(吉岡)に由来しており、当時の武家女性、特に側室の呼称が、その時々の居住地や関係する男性(この場合は養子)の状況によって変化することを示している。これは、女性自身の固有の名というよりは、その立場や所属を示す属性的な呼称であったことを示唆しており、武家の女性のアイデンティティが、男性や家、土地との関係性の中で規定されていたことを示す一例と言えるだろう。
飯坂の局に関する記述の中で最も錯綜し、議論の対象となってきたのが、伊達政宗の子供たち、特に長男・伊達秀宗と三男・伊達宗清の生母に関する問題である。
飯坂の局が伊達秀宗(幼名:兵五郎、後に宇和島藩初代藩主)の生母であるとする説は、いくつかの史料に見られる。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』には、秀宗と宗清の生母として飯坂氏(飯坂の局)の名が記されている 2 。また、愛媛県宇和島市の公式サイトに掲載された「県指定 伊達秀宗の墓」の解説文では、秀宗の母を「飯坂宗康の娘吉岡局」と明記しており、これは飯坂の局を指すと考えられる 20 。
一方で、秀宗の生母は新造の方(しんぞうのかた)という別の側室であるとする説も有力である。仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』によれば、新造の方は天正19年(1591年)12月に柴田郡村田城において政宗の第一子である兵五郎(後の秀宗)を出産したとされている 5 。この時期、政宗は豊臣秀吉の奥州再仕置によって米沢城を召し上げられ、玉造郡岩出山城へ移動する途中で、村田宗殖(伊達稙宗の九男)の居城に滞在しており、その際に出産したという 5 。新造の方はその後、兵五郎と共に岩出山城を経て京都伏見の伊達屋敷に移っている 5 。
このように、秀宗の生母については、飯坂の局とする説と新造の方とする説が主要な史料間で対立しており、問題の複雑性を示している。
飯坂の局が伊達政宗の三男である権八郎(後の伊達宗清、吉岡伊達家初代)の養母となったことは、多くの史料で一致して認められている 1 。宗清の生母は新造の方とされ、慶長5年(1600年)に京都伏見の伊達屋敷で生まれた 5 。しかし、生母である新造の方は慶長17年(1612年)に江戸屋敷で死去した(異説あり、慶長8年(1603年)死去説も 5 )。あるいは、宗清が4歳の時(慶長9年、1604年)に母を失ったともされる 21 。
いずれにしても、生母を早くに亡くしたか、あるいは生母と離れることになった宗清を、飯坂の局が引き取って養子とした 2 。これは飯坂の局が松森に隠棲してから13年目の出来事であった 1 。宗清は飯坂の局の養子となった後、翌年の慶長10年(1605年)に飯坂の局の実家である飯坂家を継ぎ、これにより一時断絶していた飯坂氏は再興された 2 。宗清は後に伊達姓を賜り伊達宗清と名乗り、黒川郡吉岡3万8千石を領する吉岡城主となった 8 。
ただし、宗清の生母についても、『寛政重修諸家譜』など一部の史料では飯坂の局が生母であると記されており 2 、秀宗の場合と同様に記述の錯綜が見られる。
飯坂の局と新造の方の出自については、両者ともに「飯坂宗康の娘(次女)」とする記述が複数の史料に見られる点が注目される 1 。例えば、『伊達治家記録』は新造の方を飯坂宗康の二女とし、秀宗・宗清の母であると記している 5 。一方で、飯坂の局も飯坂宗康の次女として記録されている 1 。
この点から、いくつかの可能性が考えられる。第一に、飯坂の局と新造の方が同一人物であり、史料によって異なる呼称で記録された可能性である。第二に、二人が姉妹であり、記録が混同されたか、あるいは詳細な区別がなされなかった可能性である。例えば、一方が「新造の方」という比較的新しい側室を指す呼称で呼ばれ、もう一方が実家の名を冠した「飯坂の局」として記録されたといった場合である。
「新造の方」という呼称自体が、特定の個人名ではなく、「新しく(殿の閨に)迎えられた女性」「新しい奥方」といった意味合いで、複数の側室に対して用いられた一般的な呼称であった可能性も考慮に入れる必要がある 22 。もしそうであれば、飯坂宗康の娘である側室が、当初「新造の方」と呼ばれ、後に実家の名を冠して「飯坂の局」として定着したという解釈も成り立つかもしれない。
秀宗・宗清の生母に関する記録の錯綜は、単なる記録ミスや記憶違いに起因するものとは言い切れない側面がある。伊達家内部の何らかの事情や、後世に編纂された史料の編纂意図が影響している可能性も考慮すべきである。例えば、特定の家系(この場合は宇和島伊達家や吉岡伊達家、あるいは再興された飯坂家)の正当性を強調するため、あるいは特定の人物(飯坂の局など)の功績を際立たせるために、記録に調整が加えられた可能性も否定できない。
秀宗は政宗の庶長子でありながら伊予宇和島10万石の大名となり 3 、宗清は飯坂家を再興して吉岡伊達家として3万8千石を領する大身となった 8 。彼らの出自、特に母系は、伊達家の分家や有力家臣の家系にとって重要な意味を持っていた。飯坂の局が宗清の養母として飯坂家の再興に深く関与した事実は複数の資料で一致しており 1 、この功績が彼女の評価に影響を与えた可能性は高い。
仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』と、幕府への公式提出資料である『寛政重修諸家譜』とで、子女の生母に関する記述が異なる背景には、それぞれの編纂目的や立場が影響した可能性が考えられる。例えば、幕府に対しては、飯坂家再興の正当性や、秀宗・宗清の母系の明確化を意図して、飯坂の局を前面に出した記述がなされたのかもしれない。一方で、仙台藩内部の記録では、史実として認識されていた、あるいは別の意図で新造の方を生母とする記述が採用されたのかもしれない。これらの複雑な要因が絡み合い、記録の錯綜を生んだと考えられる。
人物 |
史料名 |
記述内容(生母とされる人物名) |
備考 |
伊達秀宗 |
『伊達治家記録』 |
新造の方 5 |
天正19年(1591年)柴田郡村田城にて出産と記載。 |
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『寛政重修諸家譜』 |
飯坂氏(飯坂の局) 2 |
宗清と共に飯坂の局が生母と記載。 |
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宇和島市史料(市公式サイト) |
飯坂宗康の娘吉岡局 20 |
「吉岡局」は飯坂の局の別称。 |
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Wikipedia「飯坂の局」の記述 |
飯坂の局(異説あり) 2 |
新造の方説を異説として紹介。 |
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Wikipedia「新造の方」の記述 |
新造の方 5 |
『伊達治家記録』に基づく。飯坂の局が生母とする説もあると言及。 |
伊達宗清 |
『伊達治家記録』 |
新造の方 5 |
慶長5年(1600年)京都伏見にて出産と記載。飯坂の局は養母。 |
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『寛政重修諸家譜』 |
飯坂氏(飯坂の局) 2 |
秀宗と共に飯坂の局が生母と記載。 |
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『飯坂盛衰記』、『竜華山史』(伝) |
新造の方(生母)、飯坂の局(養母) 19 |
これらの史料では生母と養母を区別しているとされる。 |
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大和町史料(公式サイト) |
新造の方(生母)、飯坂の局(養母) 1 |
宗清は4歳で母(新造の方)を失い、飯坂の局が養母となったと記載。 |
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Wikipedia「飯坂の局」の記述 |
飯坂の局(義母、異説あり) 2 |
新造の方説を異説として紹介。宗清が飯坂の局の実子とする説もあると言及。 |
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Wikipedia「新造の方」の記述 |
新造の方 5 |
『伊達治家記録』に基づく。宗清は飯坂の局の養子となり、飯坂家を継いだと記載。 |
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Wikipedia「伊達宗清 (吉岡伊達家)」 |
新造の方(生母)・飯坂の局(養母)説と、飯坂の局(生母)説の両論を併記 19 |
『飯坂盛衰記』『竜華山史』を前者、『寛政重修諸家譜』を後者の根拠として挙げる。大河ドラマ『独眼竜政宗』は後者を採用。 |
(注:上記表は提供された情報を基に整理したものであり、各史料の網羅的な調査結果を示すものではありません。)
天正19年(1591年)9月、伊達政宗が豊臣秀吉の命により米沢城から岩出山城へ所領を替えられた際、飯坂の局は政宗に同行せず、米沢を離れて松森(現在の仙台市泉区松森)に隠棲したと伝えられている 1 。この時から彼女は「松森の局」と呼ばれるようになった 2 。福島市が作成した資料によれば、飯坂の局は天然痘を患い容貌が損なわれたことを恥じ、政宗の岩出山移封に同行せずに松森に隠棲したという説が紹介されているが 25 、この情報が他の一次史料で確認できるかは不明であり、慎重な扱いを要する。
松森での隠棲生活は十数年に及んだとされる。その間、慶長9年(1604年)に政宗の三男である権八郎(後の伊達宗清)の生母・新造の方が亡くなると(異説あり)、飯坂の局は権八郎を引き取って養子とし、養育にあたった 1 。
その後、養子とした伊達宗清が成長し、慶長10年(1605年)に飯坂の局の実家である飯坂家を継いでこれを再興した 2 。さらに宗清は、元和元年(1615年)に黒川郡吉岡(現在の宮城県黒川郡大和町吉岡)に吉岡城(吉岡要害)の築城を開始し、翌元和2年(1616年)に完成すると、3万8千石の領主として吉岡城に入った 8 。飯坂の局もこの時、宗清に伴って吉岡に移り住み、以降は「吉岡の局」と呼ばれた 2 。吉岡での生活は、養子である宗清の庇護のもと、比較的穏やかなものであったと推察される。
飯坂の局は、寛永11年7月17日(グレゴリオ暦:1634年8月10日)に66歳で死去したとされている 2 。奇しくも、養子である伊達宗清も同じ寛永11年(1634年)7月22日に35歳で死去しており 19 、飯坂の局は宗清の死後間もなく、後を追うように亡くなったとも伝えられている 27 。
飯坂の局の墓所は、宮城県黒川郡大和町吉岡に所在する天皇寺(てんのうじ)にある 1 。天皇寺は、元は飯坂氏の菩提寺として福島飯坂(当時は天王寺と称した)にあったが、飯坂氏の移転に伴って寺も移転を重ね、伊達宗清が吉岡城主となった元和2年(1616年)に、鶴巣下草(あるいは福島飯坂)から現在の吉岡の地に移されたと伝えられている 28 。天皇寺の境内には、飯坂の局の供養塔とされる五輪塔と、養子である伊達宗清の墓が並んで現存している 30 。
飯坂の局と養子宗清が同じ年に相次いで亡くなり、同じ天皇寺に葬られているという事実は、二人の絆の深さを物語っている。天皇寺が飯坂氏ゆかりの寺であり、宗清が吉岡に移る際に伴って移転建立された寺であることも、この関係性を裏付けている。飯坂の局にとって宗清は実子同然の存在であり、宗清にとっても飯坂の局は重要な保護者であったと考えられる。彼女の晩年は、養子宗清の成長と飯坂家の再興を見届け、その宗清と共に吉岡の地で過ごしたものであった。
飯坂の局に関する情報を得る上で重要な史料はいくつか存在するが、それぞれ成立の背景や性格が異なり、記述内容にも相違が見られる。
これらの史料は、その編纂目的や成立背景によって、特定の情報を強調したり、逆に省略したりする傾向が見られる。例えば、仙台藩の正史である『伊達治家記録』は伊達本家の権威や正当性を高める意図が、幕府編纂の『寛政重修諸家譜』は幕府の支配体制に合致するような情報整理が、それぞれ影響している可能性がある。地方史料や寺社縁起は独自の伝承を保持する一方で、客観性に課題がある場合も少なくない。これらの史料特性を理解し、比較検討することが、飯坂の局の実像に迫る上で不可欠である。
飯坂の局に関する研究において最大の論点は、依然として伊達秀宗および伊達宗清の生母が誰であったかという問題である。第一章第三節の【表1】で示したように、主要な史料間で記述が大きく異なっている。
『伊達治家記録』は新造の方を両名の母とする一方で、『寛政重修諸家譜』や宇和島市側の史料は飯坂の局(または吉岡局)を母としている。この矛盾を解釈する上で、飯坂の局と新造の方が同一人物であった可能性、姉妹であった可能性、あるいは全くの別人であった可能性が考えられる。両者ともに「飯坂宗康の娘」とされる点は共通しており 1 、これが謎を深める一因となっている。なぜ二つの呼称(飯坂の局と新造の方)が存在し、記録がこれほどまでに分かれるのか、その理由は未だ明確ではない。
「新造の方」という呼称が、特定の個人名ではなく「新しく迎えられた側室」を指す一般的なものであったとすれば、飯坂宗康の娘である側室(後の飯坂の局)が当初そのように呼ばれ、後に実家の名を冠した「飯坂の局」として定着したという解釈も成り立つ。しかし、この解釈だけでは、『伊達治家記録』が明確に新造の方を秀宗・宗清の母とし、飯坂の局を宗清の養母として区別している点を説明しきれない。
また、「猫御前」という呼称についても再検討が必要である。この愛称とそれにまつわる鼠退治の逸話は、大衆的な人気を得ている一方で、史実としての裏付けは乏しい。後世の創作物、特に山岡荘八の小説『伊達政宗』やNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響で広く知られるようになった可能性が高く 3 、これらの作品における猫御前の人物像が、史実の飯坂の局の姿と混同されている危険性がある。
飯坂の局に関する記録の錯綜や不足は、戦国時代から江戸初期にかけての女性に関する史料が、男性中心の記録の中で断片的になりがちであるという、女性史研究に共通する困難さを示している。側室という立場は正室に比べて記録が少なく、特に子女をもうけなかったり、早逝したりした側室は歴史の中に埋もれやすい 46 。飯坂の局の場合、養子とはいえ伊達宗清を育て、実家である飯坂家の再興に深く関わったことで、他の多くの側室に比べて記録が残された側面もある。しかし、それでもなお不明な点が多く、彼女自身の詳細な日常や思想を伝える一次史料(例えば和歌や書状など)は現在のところ確認されていない 49 。したがって、飯坂の局の実像を再構築するには、断片的な記録を丹念に繋ぎ合わせ、各史料の性格や編纂意図を慎重に考慮した上で推論を進める必要がある。
飯坂の局の出自である飯坂氏は、伊達氏初代当主・伊達朝宗の四男・伊達為憲(為家とも)を祖とし、為憲の曾孫にあたる飯坂政信が信夫郡飯坂(現在の福島県福島市飯坂町)に居を構え、飯坂氏を称したことに始まるとされる伊達氏の庶流である 8 。飯坂氏は伊達家中で一家の家格を有する名門として重んじられた 8 。
飯坂の局の父である飯坂右近宗康は、伊達輝宗・政宗の二代に仕えた武将である。天正4年(1576年)の相馬氏との合戦に際して伊達輝宗が諸将から取った起請文にもその名が見え 8 、天正13年(1586年)の人取橋の戦いでは、伊達政宗の本陣が危機に陥った際に奮戦し、政宗の退却を助けたと記録されている 8 。また、郡山合戦への参加や窪田城の防衛など、政宗の主要な戦いにおいて活躍したが、天正17年(1589年)秋に病没した 8 。
宗康には男子がいなかったため、彼の死によって飯坂家は一時的に断絶の危機に瀕した 8 。しかし、慶長9年(1604年)、宗康の娘である飯坂の局が、伊達政宗の三男である権八郎(後の伊達宗清)を養子として迎えることで、飯坂家は再興された 2 。宗清は後に伊達姓を賜り伊達宗清と名乗り、黒川郡吉岡に3万8千石を領する吉岡伊達家の祖となった 8 。この飯坂家再興は、飯坂の局の生涯において特筆すべき事績であり、彼女が伊達家と実家飯坂家の双方にとって重要な役割を果たしたことを示している。
戦国時代から江戸初期にかけての大名家における側室の役割は、第一に主君の子女をもうけ、家の繁栄と存続に貢献することであった 11 。また、出身家との関係を取り持つ政治的な意味合いを持つこともあった 11 。飯坂の局の場合、伊達政宗の子供たちの生母であったかについては諸説あるものの、少なくとも三男・伊達宗清の養母としてその養育に深く関与し、宗清を通じて実家である飯坂家を再興させたことは、彼女が伊達家および飯坂家において果たした重要な役割と言える。
飯坂の局が宗清の養育にあたったことは、単に身の回りの世話をするに留まらず、武家の後継者としての教育にも影響を与えた可能性が考えられる。江戸初期の大名家では、側室が藩主の初期教育に関与することもあったとされ 48 、飯坂の局もまた、宗清の人格形成や飯坂家当主としての意識の育成に寄与したかもしれない。
政宗からの寵愛の度合いや、正室である愛姫(めごひめ)、あるいは他の側室たちとの関係性については、現存する史料からは具体的な情報を得ることは難しい 13 。もし「猫御前」の逸話に何らかの史実の反映があるとすれば、政宗からある程度の好意を寄せられていた可能性も考えられるが、前述の通り逸話の史実性自体に疑問があるため、断定はできない。
飯坂の局の生涯は、側室が単に世継ぎを産むという生物学的な役割に限定されず、養母として子の教育に関与し、さらには実家の存続という家政の領域においても重要な役割を担い得たことを示している。特に、男子のいなかった実家を、主君の子を養子に迎えるという形で再興させるという動きは、武家の存続戦略の一環として注目される。これは、飯坂の局個人の意思のみならず、伊達政宗や飯坂家関係者の意向も反映した、伊達家と飯坂家の双方にとって利益のある戦略であったと考えられる。
飯坂の局は、「猫御前」という愛称と、米沢城で鼠を捕らえたという逸話によって、後世に広く知られることとなった。この「猫御前」のイメージは、特に山岡荘八の歴史小説『伊達政宗』や、これを原作とした1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』といった創作物を通じて大衆に浸透したと考えられる 3 。
これらの創作物において、「猫御前」は伊達政宗の寵愛を受け、奔放で魅力的な女性として描かれることが多い。しかし、前述の通り、大河ドラマにおける猫御前のキャラクターは、史実の飯坂の局と、伊達秀宗・宗清の生母とされる新造の方という二人の人物像を融合させたものであると指摘されており 5 、創作上の脚色が加えられていることは明らかである。これにより、史実の飯坂の局の姿とは異なる、あるいは誇張された「猫御前」のイメージが形成され、広く流布した可能性がある。
現代においても、「猫御前」の名は飯坂の局を指す愛称として定着しており、ゲームのキャラクターとして登場したり 16 、福島市飯坂温泉などのゆかりの地で観光PRのキャラクターとして活用されたりする例が見られる 18 。これは、彼女の存在が歴史上の人物としてだけでなく、文化的なアイコンとしても受容されていることを示している。ただし、これらの文化的受容においては、史実と創作の境界が曖昧になりやすい点に留意が必要である。
飯坂の局の生涯に関連する場所は、彼女の出自や生活の足跡を辿る上で重要である。
これらのゆかりの地は、飯坂の局の生涯を具体的に感じることのできる貴重な場所であり、彼女に関する伝承や歴史を後世に伝える役割を担っている。
本報告書を通じて、伊達政宗の側室である飯坂の局(猫御前)の生涯と、彼女をめぐる諸問題について考察してきた。飯坂の局は、永禄12年(1569年)に飯坂右近宗康の次女として生まれ、伊達政宗の側室となり、米沢、松森、そして吉岡へと居を移しながら、寛永11年(1634年)にその生涯を閉じた。彼女は伊達宗清の養母として飯坂家の再興に貢献し、伊達家および飯坂家の歴史において一定の役割を果たした人物であると言える。
しかしながら、その実像については未だ不明な点が多く、特に伊達秀宗・宗清の生母をめぐる問題は、主要な史料間での記述の相違から、決定的な結論を出すことが困難な状況にある。『伊達治家記録』と『寛政重修諸家譜』という、それぞれ仙台藩と江戸幕府という異なる立場から編纂された史料が異なる記述をしている点は、この問題の複雑さを象徴している。飯坂の局と新造の方が同一人物であったのか、あるいは姉妹であったのか、それとも全くの別人であったのか、これらの可能性については、現存する史料だけでは断定が難しい。
また、「猫御前」という愛称とその由来とされる逸話は、後世の創作物を通じて広く知られるようになった一方で、史実としての裏付けは十分ではない。大衆文化によって形成された「猫御前」の奔放で魅力的なイメージと、断片的な史料からうかがえる飯坂の局の実像との間には、乖離が存在する可能性を常に念頭に置く必要がある。歴史的事実と後世の創作とを区別し、慎重に人物像を捉えようとする姿勢が求められる。
今後の課題としては、まず第一に、未調査の地方史料や寺社文書、個人所蔵の古文書などの中に、飯坂の局や新造の方、あるいは飯坂氏に関する新たな情報が含まれていないか、継続的な史料調査が望まれる。特に、『飯坂盛衰記』や『竜華山史』といった、子女の生母問題に関して異なる説を提示するとされる史料の原本確認と詳細な内容分析は急務である。
第二に、既存史料のより精密な比較検討が必要である。各史料の編纂意図、成立過程、依拠した情報源などを多角的に分析することで、なぜ記述の矛盾が生じたのか、その背景にある歴史的事情を解明する手がかりが得られるかもしれない。
第三に、当時の武家社会における側室の一般的な地位や役割、呼称の慣習、子女の養育制度などに関する研究成果と、飯坂の局の事例を照らし合わせることで、彼女の置かれた状況や行動の理解を深めることができるだろう。
飯坂の局は、伊達政宗という著名な戦国武将の陰に隠れがちではあるが、戦国末期から江戸初期という激動の時代を生きた一人の女性として、また、伊達家と飯坂家という二つの家に関わった人物として、さらなる研究の進展が期待される。史料の制約と解釈の多様性を認識しつつ、多角的なアプローチによって、その実像に一歩でも近づく努力が続けられるべきである。