本報告は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、その名が史料や伝承の中に散見される特異な火縄銃、「馬上宿許筒(ばじょうしゅくきょづつ、または、ばじょうしゅくしゃづつ)」に焦点を当てるものである。この銃は、特に真田幸村(信繁)が大坂の陣で用いたとされる連射機能付きの騎馬銃という、際立った特徴と共に語られることが多い。しかしながら、「馬上宿許筒」に関する情報は断片的であり、その実態は謎に包まれ、時に伝説的な色彩を帯びている。
本報告の目的は、現存する史料、近年の研究成果、そして各地に残る伝承を網羅的に調査・分析することにより、「馬上宿許筒」の名称の由来、構造、機能(特に連射機構の有無と詳細)、運用法、歴史的背景、そして関連する人物や製造地との関わりを可能な限り明らかにすることにある。錯綜する情報を整理し、客観的かつ実証的なアプローチを通じて、この謎多き火縄銃に対する学術的な評価を試みる。この研究は、戦国時代の武器技術史、特に火縄銃の多様な発展と特殊化の様相を理解する上で、重要な意義を持つと考えられる。
天文12年(1543年)、種子島へのポルトガル人の漂着によって日本にもたらされた鉄砲は、その後の日本の合戦様相を一変させる画期的な出来事であった 1 。当初、刀槍弓矢を主兵装とした戦術が主流であったが 1 、鉄砲の圧倒的な威力と、それを国産化し量産する技術の急速な発展 3 は、戦国大名たちの戦術思想に大きな影響を与え、火力を重視した集団戦法への移行を促した 3 。
鉄砲の威力は、戦場の花形であった騎馬武者にとっても大きな魅力であった。しかし、標準的な火縄銃は長大で重く、馬上で扱うには不向きであったため、騎乗での使用に適した小型軽量化された「馬上筒(ばじょうづつ)」が開発されるに至った 7 。奥州の雄、伊達政宗が編成したとされる騎馬鉄砲隊 や、豊臣秀吉配下の勇将、加藤清正による朝鮮出兵における馬上筒の積極的な運用 8 は、騎馬の機動力と鉄砲の火力を融合させた新たな戦術の可能性を示すものであった。
このような鉄砲技術の急速な発展と多様化の背景には、戦国大名たちが常に軍事的優位性を求め、新兵器の導入と改良に極めて積極的であったという状況がある 5 。鉄砲という革新的な技術の登場は、既存の戦力である騎馬隊との融合を模索させ、さらなる技術革新、すなわち小型化や特殊機能化(速射性、連射性の追求など)へと繋がる必然的な流れを生んだと言える。「馬上宿許筒」に関する伝承もまた、この戦国時代特有の技術革新への渇望と、より効果的な戦術を絶えず模索する軍事的背景の中に位置づけられる可能性を秘めている。この銃の実在性や具体的な性能がどうであれ、その名が語り継がれていること自体が、当時の武将たちの新兵器にかける期待の大きさを物語っていると言えよう。
史料や伝承において「馬上宿許筒」という名称で言及されるこの火縄銃の読み方については、「ばじょうしゅくきょづつ」または「ばじょうしゅくしゃづつ」の二通りが考えられる。現代のゲーム作品『千銃士』に関連する資料においては、「しゅくしゃづつ」とルビが振られている例が見られる。
特筆すべきは、千葉県立関宿城博物館が所蔵する堺製の火縄銃(堺筒)に「馬上宿許筒」という銘が実際に刻まれているとの情報が存在することである 1 。この情報が事実であれば、この名称は単なる後世の通称ではなく、製作当時から銃そのものに付与された固有名詞であった可能性が高まり、その研究上の価値は飛躍的に増す。
「馬上筒」とは、一般に馬上で扱いやすいように銃身を短縮したり、全体を軽量化したりした火縄銃の総称である 7 。一方、「騎馬鉄砲」は、騎乗した兵士が用いる鉄砲そのもの、あるいはそれを用いた戦術や部隊を指す、より広義の用語と言える 8 。
「馬上宿許筒」は、その名称から馬上での使用を前提とした銃であることは明らかであり、広義には馬上筒の一種、あるいは騎馬鉄砲として運用された武器と見なすことができる。しかしながら、後述する連射機能などの特殊な性能を持つという伝承が存在する点で、一般的な馬上筒とは区別して語られることが多い。つまり、「馬上宿許筒」は、馬上筒というカテゴリーに属しつつも、その中でも特異な存在として認識されていた可能性が示唆される。
「馬上宿許筒」という名称のうち、「馬上」は用途を示すが、「宿許」という部分の正確な語義は、現時点の提供資料からは明確に解明できない。「宿(しゅく)」という文字は、宿場や宿営地、あるいは一時的に滞在する場所を意味する一般的な古語である 11 。例えば、 13 では「間の宿(あいのしゅく)」が「中間(あい)の旅宿または公儀通過の休所」と説明されており、「宿」が特定の機能を持つ場所を指すことがわかる。一方、「許」の文字は、場所や範囲を示す接尾辞として用いられることや、許可・認可といった意味合いを持つことがある。
しかしながら、「宿許」という二字を組み合わせた熟語としての具体的な用例や、火縄銃の名称として何を意味するのかについては、直接的な手がかりが乏しい。火縄銃の名称は、生産地(例:堺筒、国友筒)、開発者や所持者の名、あるいは銃の構造的特徴(例:大筒、短筒)に由来することが多いが、「宿許」がこれらのいずれに該当するのか、あるいは全く異なる由来を持つのかは不明である。前述の千葉県立関宿城博物館所蔵の堺筒に「馬上宿許筒」の銘があるという情報 1 が確かならば、この名称は単なる通称ではなく、実際に銃に刻まれた固有名詞である可能性が高まる。この場合、「宿許」が特定の工房名、流派名、あるいは何らかの特殊な機能や性能を示唆する言葉であった可能性も考えられるが、現状では憶測の域を出ない。この名称の由来が不明であることは、「馬上宿許筒」の神秘性を一層高める要因となっており、今後の史料発見や言語学的分析による解明が待たれる。
「馬上宿許筒」の具体的な寸法、重量、口径、材質に関する信頼性の高い一次史料は、現在のところ確認されていない。しかし、その名称が示す通り馬上での使用を前提とし、また「馬上筒」の一種として語られることが多いことから、一般的な馬上筒の形態に準じたものであったと推測することは可能である。
馬上筒の一般的な諸元としては、全長が50センチメートルから80センチメートル程度、重量が1キログラムから2キログラム程度、口径が10ミリメートルから13ミリメートル程度(玉の重さで五匁程度に相当)とされている 9 。したがって、「馬上宿許筒」も、これらの範囲に収まるか、あるいは連射機構などの特殊な構造を持つために若干の差異があったとしても、大幅に逸脱するものではなかったと考えられる。材質については、当時の日本の火縄銃と同様に、銃身は鍛造された鉄、銃床は堅牢な木材(多くは樫材など)が用いられたと考えるのが自然であろう。
「馬上宿許筒」の位置づけをより明確にするために、同時代の他の代表的な火縄銃との比較を行うことは有益である。特に、その物理的特徴を比較することで、想定される運用法や戦術的役割について考察する手がかりが得られる。
表1:各種火縄銃の比較
銃種別 |
全長(cm) |
重量(kg) |
口径(mm) |
弾丸(匁) |
主な特徴 |
用途 |
典拠例 |
小筒 |
約130 |
約4-5 |
約8-13 |
1-3 |
一般的、安価、扱いやすい |
歩兵、狩猟 |
9 , S25 |
中筒 |
約130 |
約4-5 |
約13-18 |
4-10 |
小筒より高威力 |
足軽 |
9 , S25 |
士筒 |
約100 |
約5 |
約19 |
10 |
高威力、高価、扱いに熟練を要す |
上級武士 |
9 , S25 |
馬上筒 |
約50-80 |
約1-2 |
約10-13 |
5 |
馬上用、小型軽量、射程・命中精度は劣る |
騎兵 |
9 , S12 |
短筒 |
約30-40 |
約1 |
約10-13 |
2-3 |
片手操作可能、携帯性高い |
護身、馬上 |
9 , S19 |
馬上宿許筒 |
(推定) |
(推定) |
(推定) |
(推定) |
(伝承)馬上用、連射機能ありとされる |
(伝承)騎兵 |
- |
抱え大筒 |
多様 |
多様 |
26以上 |
30以上 |
大型、高威力、手持ち可能なものもある |
城攻め、対物 |
S11, 8 |
この表からもわかるように、「馬上宿許筒」は、その名称と伝承される用途から、一般的な「馬上筒」のカテゴリーに属すると考えられる。通常の歩兵が用いる小筒や中筒、士筒と比較すれば、大幅に小型軽量化されていたはずである。一方で、同じく馬上での使用を想定された「短筒」よりは大型であった可能性も否定できない。もし「馬上宿許筒」が連射機構を備えていたとすれば、その機構を内蔵するために、同程度の銃身長の単発式馬上筒よりも若干重量が増加していた可能性も考慮すべきであろう。
この比較を通じて浮き彫りになるのは、「馬上宿許筒」が単なる馬上筒の異名ではなく、何らかの特殊な機能、すなわち伝承にあるような連射能力を備えていたのか否かという核心的な問いである。その物理的特徴の推定は、この問いに迫るための一つのアプローチとなる。
「馬上宿許筒」が他の火縄銃と一線を画す最大の特徴として語り継がれているのは、その連射または速射能力である。この能力に関する記述は、いくつかの異なる情報源に見られるが、その性質や信頼性には幅がある。
最も具体的かつ古くまで遡れる可能性のある記録は、紀州徳川家の事績をまとめた江戸時代後期の編纂史料『南紀徳川史』に見られるものである。同書によれば、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、真田幸村(信繁)が徳川家康本陣への決死の突撃を敢行した際、家康を狙撃するために用いたのが「馬上宿許筒」であり、これは8発の弾丸を連続して発射できる最新式の火縄銃で、通常の火縄銃の5倍以上の連射速度を誇ったと記されている 15 。しかし、幸村はこの銃を落としてしまったため、家康狙撃は失敗に終わったという逸話が伝えられている 16 。この『南紀徳川史』の記述は、「馬上宿許筒」の連射機能に関する最も重要な根拠の一つとされている。
この伝承は、現代の創作物にも影響を与えている。例えば、スマートフォン向けゲームおよびそれを原作とするアニメ『千銃士』には、真田幸村(作中では真田信繁の名で登場するキャラクターもいる)が所用した「馬上宿許筒」として擬人化されたキャラクターが登場する。作中では、「馬上から銃弾を連射することができる」、「8発の弾丸を10秒おきに撃てる、超高速の連発銃だぜ!」 といった能力が設定されている 17 。これらはフィクション作品における描写であるが、『南紀徳川史』の伝承を基にしている可能性が高い。
また、過去にはトレーディングフィギュアの商品として「馬上宿許筒(半自動・連射連発銃)」と銘打たれたものが存在した記録もある。これも現代の商品展開における表現であり、連射可能な特殊な銃というイメージを強調したものと言える。
和歌山県九度山町の真田ミュージアムで開催された企画展では、鉄砲研究家・澤田平氏が所蔵する「宿許筒」が展示されたことがある 18 。一部報道では、この銃が「8発込めの単発銃」と紹介されており 18 、『南紀徳川史』の「8連発」という記述との間に解釈の相違がある可能性も示唆される。この点については後ほど詳述する。
『南紀徳川史』の記述は、その具体性から注目に値するが、いくつかの疑問点も存在する。まず、編纂物であるという性質上、後世の加筆や、真田幸村の英雄譚を際立たせるための脚色、あるいは伝承の混入といった可能性を完全に排除することはできない。 50 は一般的な編纂史料の注意点として、後世の書き換えの可能性を指摘している。紀州藩の他の記録、例えば『紀伊国続風土記』に見られるツルの生態に関する記述の正確さが指摘されている例 19 もあるが、これが直ちに「馬上宿許筒」に関する記述の信憑性を保証するものではない。
「馬上宿許筒」に関する記述が『南紀徳川史』の具体的にどの巻のどの部分に、どのような文脈で現れるのか、原典に近い形での確認が不可欠である。幸いにも、『南紀徳川史』は国立国会図書館デジタルコレクションなどで閲覧できる可能性がある 20 。
8連発で通常の5倍の連射速度という性能は、当時の火縄銃の技術水準から考えると極めて高度であり、特異なものである。もしそのような高性能な武器が実在したのであれば、なぜ他の主要な軍記物や技術史料にその名がほとんど見られないのか、という根本的な疑問が生じる。紀州藩の記録である『南紀徳川史』が、敵将であった真田幸村の用いた武器について、これほど詳細かつ特異な記述を残している点自体が興味深い。これには、何らかの確かな伝聞や鹵獲品に基づく情報が存在したのか、あるいは物語性を高めるための創作的要素が含まれているのか、慎重な分析が求められる。この記述が仮に事実に基づくとすれば、日本の火器技術史における画期的な事例となるが、その検証は困難を伴い、現時点では「伝承」の域を出ない可能性が高いと言わざるを得ない。
表2:「馬上宿許筒」の連射能力に関する主要情報源の比較
情報源 |
主張される能力 |
使用者(伝承) |
情報の性質 |
備考 |
『南紀徳川史』 15 |
8連発、通常火縄銃の5倍以上の連射速度 |
真田幸村 |
江戸時代後期の編纂史料(紀州藩記録) |
大坂夏の陣での逸話として記述 |
千銃士(ゲーム・アニメ) 17 |
馬上から連射、8発を10秒おきに発射可能 |
真田幸村 |
現代のフィクション作品 |
『南紀徳川史』の伝承を基にしている可能性が高い |
ダイキャスト製火縄銃マスコット |
半自動・連射連発銃 |
(真田幸村) |
現代の玩具・商品の説明 |
連射のイメージを強調 |
九度山・真田ミュージアム展示 18 |
8発込めの単発銃「宿許筒」と紹介(連射の言及は限定的か、文脈による解釈が必要) |
真田幸村 |
現代の博物館展示(研究家所蔵品) |
澤田平氏所蔵品、大坂の陣での逸話を紹介。連発機能の有無は要検証。 |
この表は、「馬上宿許筒」の連射機能に関する様々な情報源を整理し、それぞれの情報の性質と内容を比較することで、読者が多角的に評価するための一助となることを意図している。特に『南紀徳川史』の記述と、それを基にしたと思われる現代の解釈や創作との関係性を浮き彫りにすることが重要である。
「馬上宿許筒」の連射機能の謎に迫るためには、当時の日本において、単発式火縄銃の限界を克服しようとする試み、すなわち連射や斉射(複数の弾丸を同時に発射すること)を目指した技術開発がどの程度行われていたのかを比較検討する必要がある。
江戸時代初期、幕府の鉄砲方を務めた井上外記正継(いのうえげきまさつぐ)は、連発式銃器の開発者として知られている。彼が元和年間(1615年~1624年)に考案したとされる「三捷神機(さんしょうしんき)」は、回転式の連発銃であったと伝えられている 23 。 25 の資料には「三連式の三本砲身燧式銃『三捷神機』の全形図」という記述があり、これが伝統的な火縄式ではなく、より進んだ点火方式である燧石式(フリントロック式)であった可能性を示唆している。燧石式は火縄を必要としないため、連発機構の設計において火縄式よりも有利な点が多い。
また、井上外記の系統に連なる国友(近江国、現在の滋賀県長浜市国友町)の鉄砲鍛冶たちは、三代将軍徳川家光の命により、井上正継が考案した「二十連発斉発銃」を製作したとされる 24 。これは、20本の銃身を扇形あるいはちりとりのような形状に束ね、20発の弾丸を同時に発射するものであった。連続的な速射(連発)とは異なるが、一度に多数の弾丸を投射できるため、集団戦において大きな威力を発揮したと考えられる。この銃は軍事機密として「御秘事の鉄砲」と称され、国友勘右衛門や国友甚太夫といった名工が製作に携わったと記録されている 24 。靖国神社にその実物が所蔵されていたとされ、所荘吉氏の著書『新版 図解古銃事典』には写真が掲載されているという 24 。この他にも、8連発や5連発の斉発式火縄銃が開発された記録がある 24 。
さらに、 23 には、島津家に伝来したとされる無銘の三連発輪廻式火縄銃(江戸時代中期、摂津製)が紹介されている。これは銃身自体が回転する構造を持ち、火縄式の連発銃の現存例として注目される。この銃もまた、井上外記の「三捷神機」の技術的系譜に連なるものと考察されている。
これらの事例は、戦国末期から江戸初期にかけての日本において、単発銃の射撃間隔の長さを克服し、火力を増強するための様々な試みがなされていたことを明確に示している。
表3:日本の多銃身・連発式・速射関連火器の比較
名称/技術 |
方式 |
弾数・連射性 |
主な開発者/流派/生産地 |
時代 |
備考 |
典拠例 |
馬上宿許筒(伝承) |
不明(回転式?多銃身式?特殊装填式?) |
(伝)8連発、5倍速 |
(伝)真田幸村所用 |
戦国末期~江戸初期 |
馬上での使用を想定、火縄式か? |
15 , S21, S32 |
三捷神機(さんしょうしんき) |
回転式多銃身(燧石式の可能性あり 25 ) |
3連発 |
井上外記正継 |
江戸初期(元和) |
幕府鉄砲方 |
23 |
六雷神機(ろくらいしんき) |
回転式多銃身 |
6連発 |
井上外記流 |
江戸初期 |
重量過多の問題が指摘されている 24 |
24 |
二十連発斉発銃 |
多銃身斉発式(扇形・ちりとり形) |
20発同時発射 |
井上正継(考案)、国友鍛冶 |
江戸初期 |
「御秘事の鉄砲」、歩兵用対集団兵器。連続的な速射ではない。 |
23 |
三連発輪廻式火縄銃(島津家伝来) |
回転式多銃身(火縄式) |
3連発 |
(伝)堺鍛冶 |
江戸中期 |
現存品あり 23 。井上外記の技術の系譜に連なる可能性。 |
23 |
早合(はやごう) |
装填補助具(弾と火薬を一体化させた容器) |
単発銃の装填時間短縮 |
各流派、各地 |
戦国期~江戸期 |
機械的な連射機構ではなく、装填作業を効率化する工夫。 |
51 |
この表からわかるように、日本の鉄砲鍛冶たちは、連射や斉射といった火力の向上を目指して多様な技術的アプローチを試みていた。しかし、「馬上宿許筒」の伝承にあるような、騎兵が馬上で扱える小型軽量の8連発「火縄式」銃というのは、これらの事例と比較しても際立って高性能であり、その技術的背景には特筆すべきものがあったと考えられる。例えば、「二十連発斉発銃」は「同時発射」を目的としたものであり、「馬上宿許筒」の伝承にあるような「連続的な速射」とは異なる。また、「三捷神機」が燧石式であった可能性は、火縄式の「馬上宿許筒」とは技術的基盤が異なることを示唆する。
火縄式の銃器で、信頼性の高い連発機構を小型の馬上筒に組み込むことは、当時の技術水準を考慮すると極めて困難であったと言わざるを得ない。その主な技術的課題としては、以下のような点が挙げられる。
53 では、幕末期に日本の鉄砲鍛冶がスペンサーカービン(当時最新の連発銃)を模倣できたことを、日本の職人の技術力の高さの証左として挙げている。しかし、これは金属薬莢を用いる後装式(銃尾から弾薬を装填する方式)の銃であり、弾丸・火薬・雷管が一体となった薬莢を使用するため、前装式(銃口から弾薬を装填する方式)の火縄銃とは技術的次元が大きく異なる。
もし「馬上宿許筒」が何らかの連発機能を有していたとすれば、それは極めて独創的で、かつ限定的な状況下でのみ有効な、特殊な機構であった可能性が高い。例えば、複数の銃身を束ね、それぞれの火皿に個別に点火していくような、原始的な多銃身構造であった可能性も考えられる。しかし、この方式では『南紀徳川史』に記された「通常の火縄銃の5倍以上の連射速度」という伝承に合致するかは疑問である。あるいは、特殊な装填方法によって次弾装填時間を大幅に短縮する工夫が施されていたのかもしれないが、これも機械的な連発機構とは異なる。
結論として、「馬上宿許筒」が火縄式のままで8連発という高性能を実現していたとすれば、それは当時の日本の技術水準の限界に挑戦するものであり、あるいはそれを超える画期的な発明であったと言える。しかし、その具体的なメカニズムが不明である以上、その技術的実現性については慎重な評価が求められる。
「馬上宿許筒」の名を最も有名にしているのは、戦国時代末期の悲劇の英雄、真田幸村(信繁)との結びつきであろう。前述の通り、紀州藩の記録である『南紀徳川史』には、大坂夏の陣において、幸村が徳川家康本陣への最後の突撃を敢行した際、この「馬上宿許筒」を用いて家康を狙撃しようとしたものの、寸でのところで銃を落としてしまい(あるいは落馬により)、その目的を果たせなかったという逸話が詳細に記されている 15 。
この逸話は、真田幸村の不屈の闘志と卓越した武勇、そして悲劇的な最期を象徴するエピソードとして、江戸時代を通じて講談や軍記物の中で語り継がれ、後世の創作物にも大きな影響を与えてきたと考えられる。幸村の英雄像を形成する上で、このような特殊な武器を用いた決死の試みという物語は、非常に魅力的な要素であったと言える。
近年、和歌山県九度山町にある九度山・真田ミュージアムでは、この逸話に関連するとされる「宿許筒」が展示されたことがある 18 。この銃は、大阪在住の鉄砲研究家である澤田平氏が所蔵するもので、一部報道によれば「8発込めの単発銃」と説明されている 18 。この「8発込め」という表現が、『南紀徳川史』に記された「8連発」と具体的にどのように異なるのか、あるいは同一のものを指しているが表現が異なるだけなのか、展示の際の詳細な解説内容や、所蔵者である澤田氏の見解が重要となる。もしこれが、一度に8発分の弾薬を何らかの形で装填できる特殊な構造の単発銃を指すのであれば、それは「連発銃」とは異なる概念であり、伝承の解釈にも影響を与える可能性がある。
真田幸村は、大坂の陣での獅子奮迅の働きにより、江戸時代を通じて高い人気を誇る武将となった。英雄の物語には、しばしば特異な武具や超人的な能力が伴うことがある。「馬上宿許筒」の逸話は、幸村の知略や武勇を一層際立たせ、強大な徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めたという劇的な状況を効果的に演出する。『南紀徳川史』が編纂されたのは江戸時代も後期に入ってからであり、既に幸村の英雄像が社会に広く浸透していた時期である。そのため、史実としての正確性とは別に、幸村という人物のキャラクター性を補強する物語的要素として、「馬上宿許筒」の逸話が採用された、あるいは特に強調された可能性も考慮に入れる必要があるだろう。歴史上の人物と特定の武器を結びつける物語は数多く存在するが、「馬上宿許筒」の事例は、その形成プロセスや、史実と伝承がいかに交錯し影響しあうかを考察する上で、非常に興味深いケーススタディを提供している。
仮に「馬上宿許筒」が、伝承されるような連射可能な騎馬鉄砲であったとすれば、その戦術的意義は非常に大きかったはずである。騎兵の持つ高い機動力と、鉄砲の持つ遠距離からの攻撃能力を組み合わせた騎馬鉄砲は、敵陣への突撃や攪乱、追撃といった多様な局面で有効な戦力となり得た 8 。
織田信長が武田勝頼の騎馬隊に対し、大量の鉄砲を集中運用して勝利を収めた長篠の戦い(天正3年、1575年)は有名であるが 3 、これは主に歩兵による鉄砲の集団運用であり、騎兵自身が馬上で鉄砲を撃つ騎馬鉄砲とは戦術的性格が異なる。加藤清正は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、配下の騎兵隊員に特製の馬上筒を装備させ、突撃しながら射撃を行い敵陣を崩すという戦術を用いたと伝えられている 8 。また、稲富流砲術の秘伝書には、馬上から火縄銃を構えて射撃する様子を描いた絵図が残されており、現代においてその再現を試みる研究者もいる 10 。
もし「馬上宿許筒」が連射可能であったならば、一騎駆けで敵将に肉薄し、短時間のうちに複数回の射撃を加えるといった、より積極的かつ効果的な攻撃が期待できたであろう。これは、特に指揮官を狙った精密射撃や、敵の意表を突く奇襲攻撃において、大きなアドバンテージとなった可能性がある。
しかしながら、当時の火縄銃を馬上で扱うこと自体の難しさも看過できない。 9 やS12が指摘するように、不安定な馬上での火縄銃の装填、照準、そして発射は極めて困難であり、命中精度も著しく低かった。連射機構が加われば、その操作はさらに複雑化し、射手には極めて高度な練度が要求されたと考えられる。 54 で触れられている槍の運用に関する記述は直接的ではないものの、馬上からの攻撃におけるリーチの概念や、武器の取り回しの重要性を示唆しており、騎馬鉄砲の運用を考える上でも参考になる。
奥州の戦国大名である伊達政宗は、鉄砲を重視し、高い鉄砲装備率を誇る精強な騎馬鉄砲隊を組織していたことで知られている。政宗は、大坂の陣においても、それまでの常識を覆すほど大量の鉄砲を軍勢に配備したとされ、その軍事思想の先進性が窺える。
しかしながら、伊達政宗の騎馬鉄砲隊が、「馬上宿許筒」のような特殊な連射式火縄銃を装備していたという直接的な証拠は、提供された資料の中には見当たらない。伊達家に関連する古文書や、仙台市博物館などに収蔵されている武具・資料 27 の中に、「馬上宿許筒」に関する情報が含まれているかどうかは、現時点では不明である。
伊達政宗や加藤清正など、一部の先進的な戦国大名は騎馬鉄砲の潜在的な可能性に着目し、部隊編成や装備に独自の工夫を凝らしていた。これらの騎馬鉄砲は、主に単発式の馬上筒を改良し、集団で運用することを前提としたものであったと考えられる。「馬上宿許筒」の伝承に見られるような、「個人が携行し、単独で高い火力を発揮する連射式騎馬銃」というコンセプトは、これらの一般的な騎馬鉄砲の運用思想とはやや異なる、より個人的な武勇や特殊な任務に特化したものと言えるかもしれない。戦国時代においては、個人の武技を重視する伝統的な戦闘思想と、鉄砲の登場によって加速された集団戦術を重視する新しい思想とが併存していた。「馬上宿許筒」の逸話が、真田幸村という特定の英雄的人物の武勇伝として語られることが多いのは、この銃が(仮に実在したとして)集団運用を前提とした量産兵器ではなく、卓越した個人の技量に依存する特殊な武器であった可能性を示唆している。戦国時代の武器開発は、部隊全体の火力を組織的に向上させる方向性(例えば、長篠の戦いにおける鉄砲三段撃ちの工夫や、伊達軍の高い鉄砲装備率など)と、個々の武者の戦闘能力を極限まで高める方向性(例えば、名工による名刀や特殊な形状・機能を持つ槍、そして「馬上宿許筒」のような伝説的な武器の追求など)の両面から進められていたと考えられる。
「馬上宿許筒」の製造地として最も有力視されるのが、戦国時代から江戸時代初期にかけて国内最大の鉄砲生産拠点の一つとして栄えた堺(現在の大阪府堺市)である。天文12年(1543年)に種子島に鉄砲が伝来した後、堺の商人であった橘屋又三郎などが鉄砲の製造法を学び、堺に持ち帰って生産を始めたとされている 29 。堺は、古くから鍛冶技術が発達しており、また海外との交易拠点でもあったため、鉄砲生産に必要な原料や技術が集積しやすい環境にあった 31 。
極めて重要な情報として、千葉県立関宿城博物館が所蔵する火縄銃の中に、「馬上宿許筒」という銘が刻まれた堺製の銃(堺筒)が存在するというものがある 1 。この情報が事実であるならば、「馬上宿許筒」が堺で製造されたことを示す直接的な物的証拠となり、その出自を特定する上で決定的な手がかりとなる。
堺の鉄砲鍛冶たちは、一般的な火縄銃の大量生産のみならず、顧客の要求に応じた様々な種類の鉄砲や、特殊な機構を持つ鉄砲、さらには豪華な装飾が施された大名向けの高級品なども手がける高い技術力を有していた 31 。例えば、芝辻理右衛門という堺の鍛冶は、徳川家康の命により巨大な大筒を製作したと記録されている 31 。また、 55 では、戦国時代に製作されたとされる稀少な小型の馬上筒(内カラクリと呼ばれる内部に発条を持つ機構で、実戦向きのシンプルなもの)が紹介されており、これも堺の鉄砲鍛冶の技術水準の高さを示す一例と言える。
「馬上宿許筒」に伝承されるような連射機構は、極めて複雑で高度な技術を要するものであったと考えられる。そのような特殊な銃を製作するには、堺のような技術集積地が最も適していたであろう。もし真田幸村が「馬上宿許筒」を所持していたという伝承が何らかの史実を反映しているのであれば、豊臣氏と経済的・政治的に深い繋がりを持っていた堺の商人や鉄砲鍛冶を通じて入手した可能性も十分に考えられる。大坂の陣の直前、幸村は大坂城に入城しており、堺との地理的近接性もこの推測を補強する。したがって、「馬上宿許筒」が堺で製造されたという可能性は非常に高く、この銃の謎を解明する上で、堺の鉄砲鍛冶の系譜や、彼らが手掛けた特殊な注文品に関するさらなる調査が不可欠である。
堺と並び称される鉄砲の一大生産地として、近江国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)が挙げられる 3 。国友の鉄砲鍛冶たちもまた、幕府の御用を務めるなど高い技術力を誇り、前述の井上外記流「二十連発斉発銃」の製作にも携わったとされている 23 。国友においても、江戸時代後期には短筒や脇差鉄砲(刀剣のように偽装した小型銃)、さらには連発銃なども製作されるようになったという記録がある 34 。
しかしながら、「馬上宿許筒」と国友を結びつける直接的な史料や伝承は、提供された資料の範囲では見当たらない。もちろん、国友の鍛冶が高い技術力を持っていたことは疑いようがなく、特殊な注文に応じて「馬上宿許筒」のような銃を製作した可能性を完全に否定することはできないが、現時点では堺との関連性の方がより強く示唆されていると言える。
戦国時代から江戸時代初期にかけては、標準的な量産品とは異なる、特殊な注文に応じて製作された火縄銃も存在した。 23 で紹介されている島津家伝来とされる三連発輪廻式火縄銃は、江戸時代中期に摂津(堺を含む地域)で製作されたとされ、その精巧な作りから特注品であった可能性が高い。「他国に漏洩することを禁じた御秘事の鉄砲」として、その技術が秘匿されていたと伝えられている。
また、 56 では、仙台藩の片倉家の家臣が、十匁筒(比較的大口径の火縄銃)を天皇行幸の警備という特殊な任務の際に、火の付いた火縄を付けたまま携帯したという記録があり、特定の任務や用途のために特別に用意された鉄砲が存在したことを示唆している。
これらの事例は、「馬上宿許筒」のような特殊な機能を持つとされる鉄砲が、必ずしも量産品ではなく、特定の目的や有力な顧客(例えば戦国大名やその重臣)からの注文に応じて、ごく少数が試作的に、あるいは秘匿性を保ちつつ製作された可能性を示している。
「馬上宿許筒」の現存を巡る情報の中で、特に注目されるのが、第二次世界大戦後に米国へ流出し、その後日本へ返還されたという説である。 15 およびS21(同一のブログ記事に由来する情報と思われる)には、紀州徳川家の家臣であった葛野(かどの)家に伝来したとされる「馬上宿許筒」(8連発仕様と記述)が、第二次世界大戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による武装解除の際に、米国の著名な銃器研究家であったロバート・キンブロー氏によって米国オレゴン州に持ち去られたが、2013年になってようやく日本へ返還された、という内容の記述が見られる。
この情報が事実であるならば、伝承に合致する可能性のある「馬上宿許筒」の実物が日本国内に現存することになり、その学術的価値は計り知れない。しかしながら、この返還されたとされる銃の現在の具体的な所在や、その後の学術的な調査・鑑定結果、公開状況などについては、提供された資料からは一切不明である。この情報の出所とされるブログ記事の信頼性や、ロバート・キンブロー氏のコレクションに関する詳細な情報、そして2013年の返還がどのような経緯で行われたのかなど、検証すべき点は多い。この「返還された銃」が、後述する九度山・真田ミュージアムで展示された澤田平氏所蔵の「宿許筒」と同一のものであるのか、あるいは何らかの関連があるのかという点も、今後の調査における重要なポイントとなる。文化財の海外流出と返還は、歴史研究においてしばしば直面する複雑な問題であり、この「馬上宿許筒」の事例も、その追跡調査が今後の研究の進展に大きく関わる可能性がある。
「馬上宿許筒」とされる火縄銃の現存や展示に関する情報は複数存在するが、その内容は錯綜しており、慎重な検証が必要である。
和歌山県九度山町にある九度山・真田ミュージアムでは、過去に「火縄銃の魅力!」と題した企画展が開催され、その中で大阪在住の鉄砲研究家・澤田平氏が所蔵する「宿許筒」が展示されたことがある 18 。 18 の記事によれば、この銃は真田幸村が徳川家康を狙撃しようとした際に用いたとされるもので、「8発込めの単発銃」と説明されている。この「8発込め」という表現が、『南紀徳川史』に記された「8連発」と具体的にどのような点で異なるのか、あるいは同一のものを指しているが表現が異なるだけなのかは、展示の際の詳細な解説や図録、所蔵者である澤田氏の見解などを確認しない限り断定できない。もしこれが、複数の弾丸を一度に装填できるが、発射は一発ずつ行う単発銃(例えば、複数の弾丸を銃身内に重ねて装填し、順次発射するローマカンデラ式のような構造、あるいは単に予備弾を銃床などに収納できる構造)を指すのであれば、「連発銃」という概念とは異なり、伝承の解釈にも大きな影響を与える。
もう一つ極めて重要な情報として、千葉県立関宿城博物館の火縄銃展示紹介ページに、堺で製作されたことを示す「堺筒」であり、かつ「馬上宿許筒」という銘が刻まれた銃の写真が掲載されているというものがある 1 。これが事実であるならば、公的な博物館に「馬上宿許筒」の銘を持つ銃が実在することになり、その学術的価値は非常に高い。この銃の具体的な構造、製作年代、材質、伝来経緯などについて詳細な調査を行うことは、「馬上宿許筒」の実態解明に不可欠である。ただし、関宿城博物館に関連する他の提供資料 12 の中には、この「馬上宿許筒」に関する直接的かつ詳細な情報は含まれていないため、別途の確認調査が必要となる。
また、 57 のインターネットオークションの過去の出品情報には、「馬上鉄砲 火縄銃 馬上宿許筒の銃床 からくり可動 34cm パーツ」という記録があり、部品レベルでの流通の可能性も僅かながら示唆されるが、その信憑性や詳細は不明であり、慎重な取り扱いを要する情報である。
このように、「馬上宿許筒」とされる現存品に関する情報は複数存在するものの、これらが同一の個体を指すのか、それぞれ異なる個体なのか、あるいは一部が誤認や混同に基づいているのかは、現時点では判然としない。特に、千葉県立関宿城博物館に「馬上宿許筒」の「銘」を持つ堺筒が実在するかどうかの確認は、この銃の名称が後世の呼称ではなく製作当時から存在したことを示す可能性があり、客観的な証拠として極めて価値が高いため、最優先で取り組むべき課題と言える。澤田氏所蔵の銃が「8発込め単発銃」と説明されている点と、『南紀徳川史』の「8連発」という記述との間に存在する可能性のある齟齬の解明もまた、この銃の正体に迫る上で避けて通れない問題である。現存するとされる銃器の詳細な調査、すなわち銘の有無と内容の確認、構造の精密な分析、製作年代の科学的な特定、そして伝来経緯の文献的追跡が、「馬上宿許筒」の実態を明らかにするための最も重要な鍵となるであろう。
本報告では、戦国時代から江戸時代初期にかけてその名が語られる特殊な火縄銃「馬上宿許筒」について、現時点で入手可能な情報を基に多角的な調査・分析を行った。その結果、以下の点が明らかになった。
現時点での調査結果を総合的に判断すると、「馬上宿許筒」が『南紀徳川史』に記されるような高性能な連発式騎馬銃として、戦国末期から江戸初期の合戦で広範に、あるいは効果的に用いられたという確たる証拠は得られていない。むしろ、その実態としては、特定の有力な武将からの特殊な注文に応じてごく少数が試作的に製作された「秘伝の武器」であった可能性、あるいはその機構が複雑すぎたり信頼性に欠けたりしたために実用化には至らなかった実験的な銃であった可能性、さらには後世の創作や伝承によってその性能や逸話が誇張され、伝説的な色彩を帯びるに至った可能性も否定できない。
歴史的評価としては、その実在性と具体的な性能が科学的・客観的に確定しない限り、「馬上宿許筒」は依然として伝説的な存在として扱わざるを得ない部分が大きい。しかしながら、この銃に関する伝承が生まれ、語り継がれてきたこと自体が、当時の武将たちが新兵器に寄せた大きな期待や、より高度で効果的な戦術を絶えず模索していたという、戦国時代から江戸初期にかけての軍事技術に対する熱意や探求心を反映しているとも言える。
「馬上宿許筒」の謎を解き明かし、その実態に迫るためには、今後のさらなる研究が不可欠である。具体的な研究課題としては、以下の点が挙げられる。
これらの課題に対する地道な研究の積み重ねを通じて、「馬上宿許筒」という謎に包まれた火縄銃の実像が、少しでも明らかになることが期待される。それはまた、日本の武器技術史における創造性と多様性の一端を照らし出すことにも繋がるであろう。
本報告書の作成にあたり参照した主要な情報源は、提供された調査結果スニペット( 11 ~ 48 、 15 ~ 25 )に基づいている。特定の書籍や論文の書誌情報を網羅的に提示することは困難であるが、特に重要な情報源として以下のものが挙げられる。
これらの情報源は、その性質(一次史料、二次史料、研究、伝承、現代の創作物など)や信頼性において様々であり、本報告書ではそれらを批判的に検討しつつ利用した。今後の研究においては、これらの情報源をさらに深く掘り下げ、原典に遡った調査を進めることが肝要である。