序章:名刀「骨喰藤四郎」とは
本報告書は、鎌倉時代に作られたと伝わる名刀「骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)」、正式名称「薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光(名物骨喰藤四郎)」について、その基本情報、号の由来、物理的特徴、歴史的変遷、作者とされる粟田口吉光、美術的・文化財的価値、そして近年の動向に至るまで、現時点で入手可能な資料に基づき、詳細かつ徹底的に調査し、専門的見地からまとめることを目的とする。
骨喰藤四郎は、単に美術品としての価値に留まらず、日本の歴史上著名な武将たちの手を渡り歩き、数々の歴史的事件に関わってきた、いわば「歴史の証人」とも呼ぶべき存在である。その特異な号の由来、数奇な伝来、そして度重なる災禍からの再生は、この刀に唯一無二の物語性を与えている。骨喰藤四郎の伝来を詳細に追跡すると、足利将軍家の成立期(足利尊氏)、戦国時代の動乱期(足利義輝、松永久秀、大友宗麟)、天下統一期(豊臣秀吉)、江戸幕府の成立と安定期(徳川家康、徳川将軍家)、そして幕末維新という、日本の歴史における大きな転換点や重要な局面において、その名が確認される。これは単なる偶然ではなく、名刀が有する武威の象徴性、そしてそれを所有することの権威性が、時の権力者たちにとって極めて重要であったことを示唆している。名刀は、単なる武器としての機能を超え、時代の趨勢を左右する人物たちの傍らにあり、その精神的支柱、あるいは権力の象徴として機能していたと考えられる。このような背景は、骨喰藤四郎が単なる古美術品ではなく、日本の歴史と文化を理解する上で重要な鍵となる文化遺産であることを強調する。
第一章:骨喰藤四郎の基本情報
文化財としての指定(重要文化財)
骨喰藤四郎は、日本の文化財保護法に基づき、昭和25年(1950年)8月29日に重要文化財に指定されている 1 。指定名称は「薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光(名物骨喰藤四郎)」である 1 。この指定年月日は、戦後の文化財保護体制が整備される中で、比較的早期にその歴史的・美術的価値が公的に認められたことを示している。所有者は京都市の豊国神社であり、京都国立博物館に寄託されているという事実は、文化財としての適切な管理と公開のあり方を示唆している 1 。
表1:骨喰藤四郎 文化財指定情報
項目 |
内容 |
名称 |
薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光(名物骨喰藤四郎) |
ふりがな |
なぎなたなおしとうむめいでんあわたぐちよしみつ(めいぶつほねばみとうしろう) |
員数 |
1口 |
種別 |
工芸品 |
国 |
日本 |
時代 |
鎌倉 |
作者 |
伝粟田口藤四郎吉光 |
刃長 |
58.8 cm 1 (58.7 cm 2 ) |
元幅 |
3.4 cm 1 (3.46 cm 2 ) |
先幅 |
2.8 cm 1 (2.37 cm 2 ) |
反り |
1.4 cm 1 (1.42 cm 2 ) |
指定番号(登録番号) |
01369 1 |
国宝・重文区分 |
重要文化財 |
重文指定年月日 |
1950.08.29 (昭和25.08.29) 1 |
所在都道府県 |
京都府 |
所在地 |
京都府京都市東山区茶屋町527 |
保管施設の名称 |
京都国立博物館 |
所有者名 |
豊国神社 |
(出典: 1 に基づき作成。寸法には資料により若干の差異が見られる)
この表は、骨喰藤四郎の公的な位置づけと基本的な物理情報を一覧で示すものであり、報告書の冒頭で読者に正確な基礎情報を提供するために不可欠である。
刀種と時代背景
骨喰藤四郎の刀種は「薙刀直し脇差(なぎなたなおしわきざし)」である 2 。これは、元来長柄武器である薙刀の茎(なかご)を切り詰め、刀身を短くして脇差として作り直したものであることを示している。製作時代は鎌倉時代中期とされている 1 。この時代は、武士の台頭に伴い日本刀の製作技術が飛躍的に発展し、多くの名工が輩出された日本刀の黄金期の一つである。
鎌倉時代に製作された薙刀が、後の時代、特に室町時代以降に戦闘様式の変化や需要に応じて脇差や短刀に作り直される例は少なくない。骨喰藤四郎が薙刀直しであることは、武器としての実用性を追求する中で姿を変えながらも、その優れた刀身が後世まで価値を認められ、大切に伝えられてきた証左と言える。また、薙刀特有の豪壮な姿の名残が、磨上げ後の脇差としての姿にも影響を与え、独特の風格を生んでいる可能性が考えられる。この刀が単に「古い刀」なのではなく、時代の要請に応じて「作り変えられながら生き残ってきた」というダイナミックな歴史を持つことを示唆している。
作者と刀派(伝・粟田口吉光、粟田口派)
作者は、山城国(現在の京都府)の粟田口派の刀工、粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)、通称は藤四郎(とうしろう)と伝えられている 1 。ただし、骨喰藤四郎自体は無銘であり、「伝」が付されるのは、本阿弥家など代々の刀剣鑑定家による鑑定(極め)に基づくためである 3 。
粟田口派は、鎌倉時代初期から中期にかけて京都の粟田口を拠点とした刀工集団であり、優美な地鉄と直刃を基調とした品格の高い作風で知られている 5 。
骨喰藤四郎は無銘であるが、粟田口吉光の作と鑑定されている。吉光は短刀の名手として名高いが、太刀(例:一期一振)や薙刀直し(例:鯰尾藤四郎、そして骨喰藤四郎)も少数ながら現存する 10 。無銘の刀が最高峰の名工の作と鑑定されるには、その作風や品質が鑑定家の厳しい眼を納得させるだけの卓越したものでなければならない。これは、骨喰藤四郎が当初から非常に優れた出来栄えであったことを示唆している。作者不詳の刀が無数に存在する中で、特定の刀工、それも吉光のような歴史的名工の作と伝わることは、その刀の価値を格段に高め、歴史上の人物たちがこぞって求めた理由の一つと考えられる。
第二章:号の由来とそれにまつわる伝承
「骨喰」の号の起源に関する諸説
「骨喰」という特異な号の由来については、複数の説が伝えられている。最も広く知られているのは、その凄まじい切れ味に由来するというもので、「斬る真似をしただけで相手の骨が砕けた」あるいは「軽く振っただけで骨を切断する」といった逸話である 2 。
江戸時代に編纂された『享保名物帳』の第二類では、「戯(たわむ)れに斬る真似をして振り下ろしただけで相手の骨を砕いてしまったため」と説明されている 10 。また、徳川将軍家に伝来した刀剣の台帳の写本には、「骨を縫い綴ったような痛みを感じるから」という記述が見られる 10 。さらに、刀剣研究家である福永酔剣氏が所蔵していた『享保名物帳』の享保8年(1723年)の異本には、「これで斬られると骨にしみるように感じるから」とその由来が記されているという 10 。
これらの諸説は、表現に若干の違いこそあれ、いずれも「骨」という人体の最も硬い部分にまで影響を及ぼす、尋常ならざる切れ味や威力を示唆している点で共通している。「斬る真似だけで骨を砕く」という、やや超自然的な切れ味を強調するものから、「骨にしみる痛み」という感覚的な表現まで幅があるが、その根底にあるのは、この刀が持つ並外れた性能への畏怖と驚嘆であろう。このような強烈な号とそれにまつわる逸話は、刀の神秘性を高め、所有者の権威を象徴する役割を果たしたと考えられる。また、これらの伝承が口伝や書物を通じて広まることで、刀の「ブランドイメージ」が形成され、その価値をさらに高めた可能性がある。
『日本教会史』、『梅松論』、『享保名物帳』における記述
骨喰藤四郎に関する記述は、古記録にも散見される。安土桃山時代に来日したイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスは、その著書『日本教会史』の中で、豊臣秀吉から見せられた骨喰藤四郎について、「軽く振っただけで、根もとから切られた大根のように骨を切るので、骨を丸嚥みにする刀という意である」と記述している 2 。外国人宣教師による客観的な記録として、当時の骨喰藤四郎の評価をうかがい知る上で注目される。
さらに古い記録としては、南北朝時代に成立した軍記物語『梅松論』の流布本に、建武3年(1336年)の多々良浜の戦いに臨む足利尊氏が「骨食(ほねかみ)」という名の刀剣を帯びていたという描写がある 2 。これが骨喰藤四郎そのものを指すか、あるいは同名の別の刀剣である可能性も否定できないが、一般的には骨喰藤四郎と関連付けられており、「骨喰」という名称の古さを示す史料として重視されている。
江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗の命により編纂された名刀リストである『享保名物帳』にも、「骨喰藤四郎」は明確に記載されており 2 、この時点で既に幕府公認の「名物」としての地位が確立していたことを示している。
これらの記録は、『梅松論』のような中世の軍記物語から、近世初頭の外国人宣教師の記録、そして江戸幕府による公式な名刀リストに至るまで、骨喰藤四郎(あるいは「骨食」)の名とその特異な切れ味のイメージが一貫して語り継がれていたことを示している。これは、この刀が単なる一武具ではなく、時代や文化の垣根を越えて人々の記憶に残り、語られるだけの強い個性と物語性を持っていたことを物語る。特にロドリゲスの記録は、当時の日本国外の人物にもその名声が伝わっていた可能性を示唆し、骨喰藤四郎の評価が国内に限定されていなかったことをうかがわせる。
第三章:骨喰藤四郎の物理的特徴
姿と寸法
骨喰藤四郎の具体的な寸法については、複数の資料が存在し、若干の差異が見られる。豊国神社所蔵品としての記録では、全長71.2cm、刃長58.7cm(一尺九寸四分)、反り1.42cm(四分七厘)、元幅3.46cm、先幅2.37cm、重量726.5gとされている 2 。一方、文化庁の国指定文化財等データベースでは、刃長58.8cm、元幅3.4cm、先幅2.8cm、反り1.4cmと記載されている 1 。これらの数値は、概ね大脇差の範疇に入る堂々たる姿を示している。
形状は薙刀直し特有の、茎に近い部分で強く反る「腰反り(こしぞり)」の姿をしているとされる資料もあるが 15 、現存する刀身の写真や押形からは、反りは比較的浅く見えるという印象も受ける。元来が薙刀であったため、その名残からか元幅が広く、先に向かって幅が狭まり、踏ん張りのある力強い姿が特徴的である。
複数の資料で寸法に僅かな差異が見られるのは、計測時期や計測方法の違い、あるいは記録の写し間違いの可能性などが考えられる。しかし、いずれの記録も大脇差としての威厳ある姿を裏付けている。「腰反り」の記述と、実際の視覚的印象との間に認識の差が生じる可能性も考慮すべきである。これは、元々の薙刀の形状や、磨り上げの具体的な手法によって「腰反り」の度合いが異なるためかもしれない。物理的特徴の正確な把握は、刀の美術的評価や、製作・改変の歴史を考察する上で基礎となる。特に薙刀直しの場合、元の薙刀の姿を想像し、どのように脇差へと変容したのかを理解することが重要となる。
茎(なかご)の状態
骨喰藤四郎の茎は無銘である 2 。これは、薙刀を脇差に仕立て直す際に茎が切り詰められた(磨上げられた)ため、元々存在したかもしれない銘が失われたか、あるいは製作当初から無銘であった可能性が考えられる 4 。『享保名物帳』の記述や本阿弥家の鑑定により、粟田口吉光の作とされている 3 。
茎は磨上げられており、特に豊臣秀吉の時代に打刀拵えが新調された際、刀装金工師である埋忠寿斎(うめただみょうじゅ)の手によって中心尻(なかごじり)が約七分(約2.1cm)切り詰められたと伝えられている 4 。
目釘孔(めくぎあな)の数も変遷しており、刀剣鑑定家であった本阿弥光徳(ほんあみこうとく)が残した刀絵図(押形)には、その差異が記録されている。「大友本(文禄四年)」と呼ばれる押形では目釘孔が三つ描かれているのに対し、「毛利本(文禄三年)」では二つとなっている 4 。これは、磨上げや拵えの変更に伴って目釘孔が打ち直されたことを示唆している。
茎は刀の「履歴書」とも言える部分であり、骨喰藤四郎の茎に残る磨上げの痕跡、目釘孔の数の変化、そして無銘であるという事実は、この刀が複数の所有者の手を経る中で、その時々の用途や好みに合わせて姿を変えられてきたことを物語っている。特に埋忠寿斎による中心尻の切り詰めは、豊臣秀吉の時代に新たな拵えが製作されたことを具体的に示し、当時の刀剣文化の一端を垣間見せる。無銘でありながら粟田口吉光の作と鑑定された事実は、本阿弥家の鑑定眼の高さと、骨喰藤四郎自体の優れた出来栄えを証明するものであり、茎の状態の変遷は、刀剣鑑定や研究において極めて重要な情報となる。
彫物の詳細とその仏教的意味
骨喰藤四郎の刀身には、精緻な彫刻が施されており、その美術的価値を高めるとともに、当時の武士たちの信仰心を反映している。
刀身の表(差表)には、剣に龍が巻き付いた倶利伽羅龍(くりからりゅう)の浮き彫りと、梵字が彫られている 4 。倶利伽羅龍は不動明王の化身とされ、不動明王が右手に持つ降魔の利剣に龍が巻き付いた姿で表現されることが一般的である。この剣は三鈷剣(さんこけん)とも呼ばれ、その柄の形状は密教法具である三鈷杵(さんこしょ)に由来し、煩悩を打ち砕く強力な力を象徴している 18 。
一方、裏(差裏)には、不動明王の像と、その上部に毘沙門天(びしゃもんてん)を表す種子(しゅじ、梵字で仏を表す文字)である「ベイ」が彫られている 2 。不動明王は、大日如来の使者として一切の魔障を降伏させ、行者を守護する尊格であり、その憤怒の相は強力な守護力を示す。毘沙門天は四天王の一尊である多聞天(たもんてん)が単独で祀られる際の名称で、武運の神、財福の神として広く信仰された。
京都国立博物館の主任研究員である末兼俊彦氏によると、この不動明王と毘沙門天の組み合わせは、比叡山延暦寺の三塔の一つである横川(よかわ)で生まれた信仰形式であり、刀の所有者を観音菩薩に見立て、不動明王(動かざる守護の力)と毘沙門天(武運と財福の守護神)による二尊の強力な加護が得られるようにという願いが込められていると考えられている 2 。
これらの彫物がいつ施されたかについては、いくつかの可能性が考えられる。一つは、大友家で薙刀から脇差に磨り上げられた際に施されたという可能性である 4 。もう一つは、豊臣秀吉の手に渡った後、打刀拵えを製作した埋忠寿斎が「彫物もむらがあったので、寿斎が手まめに直した」 4 とされる際に、既存の彫りに手が加えられた、あるいは新たに追加された可能性である。
本阿弥光徳の刀絵図のうち、「石田本(天正十六年)」では龍の顔が他の押形と異なり、梵字が見られないとされている 4 。この情報に基づけば、梵字は石田本が作成された天正十六年(1588年)以降、埋忠寿斎による手直しの際に追刻された可能性が考えられる 4 。明暦の大火後の再刃の際に彫り物が入れられたとする説もあるが 19 、再刃後も彫物が存在している記述 4 から、再刃時に「新たに入れられた」とは断定し難い。むしろ、埋忠寿斎による「手直し」の記述が、豊臣秀吉の時代に彫物の最終的な形が整えられたことを強く示唆している。
表2:骨喰藤四郎 彫物一覧とその意味
彫物の種類 |
彫られている場所 |
図像の解説 |
仏教的意味・信仰 |
倶利伽羅龍 |
表(差表) |
剣に龍が巻き付いた浮き彫り |
不動明王の化身、降魔の象徴。三鈷剣は煩悩を打ち砕く力を示す。 |
梵字 |
表(差表) |
詳細不明 |
仏や菩薩を象徴する文字。 |
不動明王像 |
裏(差裏) |
不動明王の立像または坐像の浮き彫り |
大日如来の使者、魔障降伏、行者守護の尊格。 |
毘沙門天種子 |
裏(差裏) |
不動明王像の上部に梵字「ベイ」にて表現 |
武運長久、財福招来の守護神。不動明王との組み合わせは比叡山横川発祥の信仰形式とされ、所有者を観音菩薩に見立て、二尊による守護を願う意味合いがある 2 。 |
(出典: 2 に基づき作成)
骨喰藤四郎の彫物は、単なる装飾ではなく、所有者の武運長久や守護を願う強い宗教的意味合いを持つ。倶利伽羅龍、不動明王、毘沙門天という強力な守護尊が配されていることは、この刀が常に戦乱の中にあったこと、そして所有者たちがその力にすがろうとしたことを示している。押形の情報から、彫物の状態が時期によって異なっていた可能性が示唆されており、特に埋忠寿斎による「手直し」や梵字の追加は、豊臣秀吉の意向が強く反映された結果かもしれない。秀吉は神仏への信仰も深かったため、自らの愛刀にさらなる守護の力を付加しようとしたと考えることもできる。彫物の研究は、刀剣の美術的価値だけでなく、当時の武士の精神性や信仰、さらには刀剣が辿った歴史的背景を解明する上で非常に重要である。
地鉄と刃文
骨喰藤四郎の地鉄(じがね)と刃文(はもん)は、その製作年代と後の時代の出来事によって大きな影響を受けている。
第四章:骨喰藤四郎の歴史的変遷
骨喰藤四郎は、鎌倉時代に製作されたと伝えられて以来、数多くの歴史上の重要人物の手を経て、激動の時代を生き抜いてきた。その伝来は、日本の歴史そのものを映し出す鏡とも言える。
表3:骨喰藤四郎 主要伝来年表
年代(元号・西暦) |
主な出来事・所有者 |
関連史料・備考 |
鎌倉時代中期 |
粟田口吉光により製作(伝) |
|
不明(鎌倉時代説あり) |
大友能直が源頼朝より拝領(伝承) |
異説あり 3 |
建武3年(1336年) |
大友氏時(または貞順)、足利尊氏に献上 |
『梅松論』 2 、『大友興廃記』 10 |
室町時代 |
足利将軍家重代の宝刀となる |
|
永禄8年(1565年) |
永禄の変。足利義輝討死、松永久秀の手に渡る |
2 |
永禄8年(1565年)以降 |
大友宗麟、松永久秀より買い戻す(または返還) |
2 |
天正13年(1585年) |
大友義統、豊臣秀吉に献上 |
一次史料に基づく説 32 。千利休仲介説あり 4 |
安土桃山時代~慶長年間 |
豊臣秀吉・秀頼所持 |
大坂城一之箱に保管 4 |
慶長20年(1615年) |
大坂夏の陣。大坂城落城後、堀から発見され徳川家康へ |
3 |
江戸時代初期~中期 |
徳川将軍家所蔵 |
|
明暦3年(1657年) |
明暦の大火。江戸城炎上、焼身となる |
2 |
明暦3年(1657年)以降 |
三代越前康継により再刃(焼き直し) |
2 |
享保年間(1716-1736年)以降 |
紀州徳川家に下賜 |
『享保名物帳』記載後 2 |
明治2年(1869年) |
徳川宗家へ返還 |
2 |
明治時代 |
豊国神社(京都市)に奉納 |
1 |
現代 |
豊国神社所蔵、京都国立博物館寄託 |
1 |
(出典: 各伝来関連資料に基づき作成)
この年表は、骨喰藤四郎が特定の時代や人物とどのように結びついていたか、また、どのような経緯で所有者が移り変わっていったのかを明確にする。例えば、足利将軍家から松永久秀へ、そして大友宗麟を経て豊臣秀吉へと渡る過程は、戦国時代の権力闘争と文化財の移動を象徴している。
鎌倉時代~南北朝時代:大友家から足利将軍家へ
骨喰藤四郎の初期の伝来については、いくつかの伝承が残されている。豊後国(現在の大分県)の守護大名であった大友能直(おおともよしなお)が、鎌倉幕府を開いた源頼朝より拝領したという説もあるが、作者とされる粟田口吉光の活躍年代との整合性から異説も存在する 3 。この源頼朝拝領説は、刀の権威を高めるための後世の付会である可能性も否定できない。
より確実視されているのは、南北朝時代の軍記物語『梅松論』や江戸時代初期の軍記『大友興廃記』に見られる記述である。これらによれば、建武3年(1336年)、九州へ落ち延びた足利尊氏に対し、大友氏時(うじとき)(あるいは大友貞順(さだのり)とも)が、自家の重代の宝刀である「骨食(ほねかみ)」あるいは「吉光骨啄刀(よしみつこつ쪼くとう)」を忠誠の証として献上したとされている 2 。これが、骨喰藤四郎が足利将軍家の重宝となる起源と考えられている。この献上行為自体が、大友氏の政治的判断と、尊氏の九州における勢力回復の象徴的出来事であったと解釈できる。初期伝来の解明は、刀の由緒を明らかにし、その後の伝来の正当性を裏付ける上で重要となる。
室町時代~戦国時代:足利義輝と永禄の変、松永久秀、大友宗麟による奪還
足利将軍家の重要な宝物として代々伝えられた骨喰藤四郎は、戦国時代の動乱の中で再び歴史の表舞台に登場する。永禄8年(1565年)、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が、家臣であった三好三人衆や松永久秀(まつながひさひで)らによって京都・二条御所で襲撃され、非業の死を遂げるという事件(永禄の変)が発生した。この時、義輝が奮戦した際に用いたとも、あるいは御所内の宝物と共に奪われたとも言われ、骨喰藤四郎は松永久秀の手に渡ったと伝えられている 2 。
その後、この名刀の行方を聞きつけた豊後の大名・大友宗麟(おおともそうりん)が、骨喰藤四郎は元来大友家の什宝(じゅうほう)であったと主張し、松永久秀から金三千両と多くの財宝を費やして買い戻した(あるいは返還させた)という逸話が残っている 2 。この買い戻しの際、宗麟の家臣・毛利兵部少輔(もうりひょうぶのしょうゆう)が骨喰藤四郎を船で豊後へ運ぶ途中、播磨灘の海上にて数千万もの怪しい光に遭遇し、兵部の一喝で光が消え失せたという不思議な伝説も伝えられている 16 。
永禄の変における強奪は、戦国時代の下剋上の様相を呈しており、名刀が戦利品として扱われたことを示す。一方、大友宗麟による買い戻しは、単なる物質的価値を超えた、家の名誉や先祖伝来の品への強い執着を示している。松永久秀が、当時九州六ヶ国を支配する実力者であった大友宗麟の要求を断り切れなかったという背景も、当時の武家社会の力関係を反映していると言えるだろう。海上の怪光譚は、名刀に宿ると信じられた霊的な力や、その価値の高さが人々の想像力を刺激した結果生まれた物語であると考えられる。この時期の伝来は、骨喰藤四郎が単なる美術品ではなく、武家の威信やアイデンティティと深く結びついていたことを示している。
安土桃山時代:豊臣秀吉への献上
大友家の手に戻った骨喰藤四郎は、その後、天下統一を進める豊臣秀吉の許へ献上されることとなる。献上したのは大友宗麟自身、あるいはその子である大友義統(よしむね)とされ、時期については天正13年(1585年)に義統から秀吉に進上されたとするのが、一次史料に基づく確かな説とされている 2 。
一説には、茶人として名高い千利休が秀吉に骨喰藤四郎の存在を伝え、利休自身が使者となって大友義統から召し上げたとも言われている 4 。この時、骨喰藤四郎は既に大友家において薙刀から大脇差へと磨り上げられていたという 4 。
豊臣秀吉は刀剣コレクターとしても知られ、多くの名刀を蒐集したが、中でも骨喰藤四郎を非常に重視し、大坂城の刀箱の中でも最も重要な「一之箱」に納め、所持する刀剣を記録した「腰物帳」においても筆頭に挙げていたと伝えられている 4 。これは、骨喰藤四郎の美術的価値、由緒、そしてその切れ味に関する伝説が複合的に評価された結果であろう。秀吉の所持は、骨喰藤四郎の「名物」としての地位を決定的なものとし、その後の徳川家への伝来にも繋がる重要な転換点となった。
江戸時代
近代から現代:豊国神社への奉納と京都国立博物館への寄託
明治維新により江戸幕府が終焉を迎えると、多くの大名家が所有していた刀剣の運命も大きく変わった。骨喰藤四郎は、明治2年(1869年)7月に一度徳川宗家へ返還された後 2 、豊臣秀吉を祀る京都市の豊国神社に奉納された 1 。これは、秀吉ゆかりの刀剣が、秀吉を祭神とする神社に納められるという、その由緒に鑑みれば自然な流れであったと言える。
現在は豊国神社の所蔵品として、同市にある京都国立博物館に寄託管理されている 1 。明治維新による武家政権の終焉は、多くの刀剣の所有関係に変化をもたらした。骨喰藤四郎が徳川家から豊国神社へ移ったことは、旧体制の象徴物が新たな時代の中で再評価され、その由緒にふさわしい場所へ帰属する過程を示している。博物館への寄託は、文化財の適切な保存と公開という近代的理念に基づいた措置であり、これにより、骨喰藤四郎は特定の権力者の私有物から、国民全体の文化遺産として位置づけられるようになり、研究や鑑賞の機会が広がったと言える。
第五章:作者と伝わる粟田口吉光とその一派
粟田口吉光の人物と作風
骨喰藤四郎の作者と伝えられる粟田口吉光は、鎌倉時代中期に京都の粟田口を拠点として活動した日本刀草創期の名工である 2 。通称を藤四郎ということから、一般に「藤四郎吉光」として知られている 6 。
吉光は特に短刀作りの名手としてその名を馳せ、相模国の五郎入道正宗、越中国の郷義弘(江義弘)と共に「天下三作」の一人に数えられるほど高く評価されている 3 。その作品は、気品高く洗練された作風で知られ 9 、地鉄は梨子地肌(なしじはだ)と呼ばれる細かく詰んだ美しい肌合いを見せ、地沸(じにえ)が一面についている様は、五ヶ伝(山城伝、大和伝、備前伝、相州伝、美濃伝)の中でも最高峰と評されることもある 7 。刃文は直刃(すぐは)を基調とし、小沸(こにえ)がよくつき、小乱れ(こみだれ)を交えるものが多く見られる 7 。
江戸時代に編纂された『享保名物帳』には、焼失したものも含めて吉光作の刀剣が34振も記載されており 8 、これは当時の吉光の評価がいかに高かったかを物語っている。粟田口吉光が「天下三作」と称され、その作品が『享保名物帳』に多数収載されていることは、江戸時代において彼の評価が既に確立されていたことを示す。特に短刀における評価は絶大で、多くの武将や大名が彼の作品を求めた。骨喰藤四郎が吉光作と鑑定されたことは、その価値を保証する上で極めて重要であった。吉光の名は、刀剣の品質と価値を保証する一種の「ブランド」として機能し、骨喰藤四郎を含む彼の作品群が後世に大切に伝えられる大きな要因となった。
粟田口派の特徴と刀剣史における位置づけ
粟田口派は、山城伝を代表する刀工集団であり、鎌倉時代初期の国家(くにいえ)を祖とするとされている 7 。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、京都の粟田口(現在の京都市東山区粟田口)に居住した刀工たちで、後鳥羽上皇が設けた御番鍛冶(ごばんかじ)にも選ばれたほど、格式高い流派であった 9 。
その作風の特徴は、何と言っても精緻で美しい地肌にある。代表的なものとして、梨の肌のように細かく美しい模様が現れる梨子地肌が挙げられ、これは粟田口派の高い技術力を示すものである 7 。刃文は直刃を基調とし、細やかな沸(にえ)がつき、優美で品格のあるものが多い。
鎌倉時代中期には、同じく山城国で活動した来派(らいは)と共に京都鍛冶の双璧をなし、特に短刀製作においては他の追随を許さない高い評価を得た 5 。粟田口派の作品に見られる精緻な地鉄や品格のある刃文は、当時の京都の洗練された文化を背景とした高い技術力と美意識の現れである。後鳥羽上皇の御番鍛冶に選ばれたことは、朝廷との繋がりを示し、その社会的地位の高さを示唆する。粟田口派の確立した作風と高い評価は、骨喰藤四郎が吉光作と鑑定される上で重要な根拠となり、その美術的価値を支える基盤となっている。
吉光の作品の多様性(薙刀、太刀、短刀)
粟田口吉光は、主に短刀の名手としてその名を知られているが、現存する作品には、骨喰藤四郎(薙刀直し脇差)や鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう、同じく薙刀直し脇差)、そして太刀である一期一振(いちごひとふり)など、短刀以外の作例も少数ながら確認されている 10 。
これらの短刀以外の作品は、吉光の卓越した技術が短刀製作に限定されるものではなく、より多様な種類の刀剣製作にも及んでいたことを示している。特に薙刀直しである骨喰藤四郎や鯰尾藤四郎は、元々の薙刀としての姿から、実用性や時代の好みに応じて脇差へと作り変えられたものであり、その過程で吉光の技術がいかに活かされたのか、あるいは後世の刀工によってどのように手が加えられたのかという点も研究対象となる。短刀製作で頂点を極めた吉光が、薙刀や太刀といった異なる種類の刀剣も手がけていたことは、彼の技術の幅広さと、顧客の多様な要求に応える能力があったことを示している。これらの作例は、吉光の全体像を理解する上で貴重である。骨喰藤四郎が薙刀直しであることは、吉光の作品群の中でも特異な位置を占め、その製作経緯や注文主についてさらなる研究の余地を残している。
第六章:骨喰藤四郎の美術的・文化財的価値
『享保名物帳』における記述と評価
骨喰藤四郎の美術的・文化財的価値を語る上で欠かせないのが、江戸時代中期に八代将軍徳川吉宗の命により編纂された『享保名物帳』である。この名刀リストに、骨喰藤四郎は「名物 骨喰藤四郎」として収載されている 2 。これは、江戸時代中期において既に骨喰藤四郎が幕府公認の「名物」として高い評価を得ていたことを示す動かぬ証拠である。
『享保名物帳』には「焼失之部」という項目もあり、そこに骨喰藤四郎の名が見られるが 3 、これは前述の通り明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼身となったことを指している。しかし、その後三代越前康継によって再刃され、修復された後も、名物としての価値は維持されたと考えられる。『享保名物帳』への収載は、刀剣の価値を公的に認定し、その後の取引や伝来に大きな影響を与えた。骨喰藤四郎が「名物」としてリストアップされたことは、その由緒、切れ味の伝説、そして粟田口吉光作という鑑定が総合的に評価された結果である。「名物」の称号は、骨喰藤四郎が後世にわたり大切に保存・伝承されるための強力な後ろ盾となった。
歴史的背景と物語性から見た価値
骨喰藤四郎の価値は、その物理的な美しさや刀工の技量だけに留まらない。足利尊氏に始まり、足利義輝、松永久秀、大友宗麟、豊臣秀吉、徳川家康といった、日本の歴史を動かした錚々たる武将たちの手を渡り歩いたという比類なき伝来は、この刀に他に類を見ない豊かな物語性を付与している 2 。
永禄の変、大坂夏の陣、明暦の大火といった、日本の歴史における重要な事件との関わりも、その価値を一層深めている 2 。刀剣の価値は、物理的な美しさや出来栄えだけでなく、それにまつわる歴史や物語によっても大きく左右される。骨喰藤四郎ほど多くの著名な歴史上の人物と関わり、ドラマチックな出来事を経てきた刀剣は稀であり、その一つ一つのエピソードが刀の価値を重層的に高めている。「武美一如」 41 という言葉が示すように、武将たちの精神性や生き様が投影されたものとして、人々の心を惹きつけるのである。この豊かな物語性は、骨喰藤四郎を単なる美術品から、歴史ロマンを感じさせる文化遺産へと昇華させている。
薙刀直しとしての造形美
骨喰藤四郎は、元来薙刀であったものを脇差に作り替えた「薙刀直し」である。この出自は、その造形美にも独特の特徴を与えている。一般的に薙刀は、その用途から元幅が広く、切先(きっさき)にかけての身幅の減り方が穏やかで、反りも茎に近い部分で深くなる(腰反り)傾向がある。骨喰藤四郎も、磨上げられて脇差の姿となってもなお、元幅の広さや踏ん張りのある姿にその名残を留めており、通常の脇差とは異なる力強さや風格を持つと評される 2 。
さらに、刀身に施された倶利伽羅龍や不動明王といった精緻な彫刻も、その美術的価値を著しく高めている要素である 16 。これらの彫刻は、単なる装飾に留まらず、所有者の信仰心や武運長久への願いを込めたものであり、刀身と一体となって荘厳な雰囲気を醸し出している。薙刀直しという形態は、実用上の必要性から生まれたものであるが、結果として元の薙刀の豪壮さと脇差としての機能美が融合した、独特の造形美を生み出すことがある。骨喰藤四郎の姿や彫刻は、そうした薙刀直しならではの魅力を有していると考えられる。美術品としての評価において、薙刀直しという出自がどのように影響しているかを考察することは、刀剣の多様な美のあり方を理解する上で重要である。
第七章:近年の展示と研究動向
本歌及び写しの展示情報
骨喰藤四郎(本歌)は、豊国神社が所蔵し、京都国立博物館に寄託されており、特別展などでその姿を一般に公開されることがある 1 。記録によれば、平成27年(2015年)から平成28年(2016年)にかけて京都国立博物館で特別陳列されたほか 44 、平成30年(2018年)には同博物館で開催された特別展「京のかたな 匠のわざと雅のこころ」においても展示された 18 。
また、骨喰藤四郎には、初代越前康継によって製作された写しが現存しており、こちらは東京国立博物館に所蔵されている 4 。この写しは、明暦の大火で本歌が焼身となる以前の姿を伝える貴重な資料であり、平成28年(2016年)に大阪歴史博物館で開催された「真田丸」大阪展では、本歌の骨喰藤四郎と並んで展示されたこともある 2 。
近年の展示情報については、刀剣専門の展示情報サイトなどで情報が発信されることがあるが 46 、骨喰藤四郎の具体的な直近の展示予定については、所蔵者である豊国神社 50 や寄託先である京都国立博物館 47 の公式サイトなどで確認することが最も確実である。
復元刀の製作とその意義
平成30年(2018年)には、長野県無形文化財保持者(刀匠)である宮入法廣(みやいりのりひろ)氏によって、骨喰藤四郎の復元刀が製作されている 2 。
本歌や写しの公開展示は、骨喰藤四郎の美術的価値や歴史的背景を広く一般に伝える上で不可欠である。多くの人々が実物を目にすることで、その魅力に触れ、日本の伝統文化への理解を深める機会となる。また、現代の刀匠による復元刀の製作は、単に姿形を模倣するだけでなく、失われた可能性のあるオリジナルの姿や製作技術を追体験し、その技を現代に継承しようとする試みとして極めて重要である。復元作業を通じて得られる知見は、古刀剣研究に新たな視点をもたらす可能性も秘めている。これらの活動は、骨喰藤四郎という文化遺産への関心を高め、新たな研究や解釈を生むきっかけとなり、文化財を未来へ継承していくための具体的な取り組みとして、その意義は大きい。
結論:骨喰藤四郎が現代に伝えるもの
歴史的・美術的価値の再確認
骨喰藤四郎は、その製作(伝承)、特異な号の由来、変遷を重ねた物理的特徴、そして数奇な伝来の歴史において、日本刀剣史の中でも特筆すべき存在であることは論を俟たない。鎌倉時代に生を受けたとされるこの一振りの刀は、足利将軍家、戦国武将、天下人、そして徳川将軍家と、日本の歴史を動かした最高権力者たちの手を渡り歩き、数々の歴史的局面に関わってきた。この事実は、骨喰藤四郎が単なる武器や美術品を超えた、時代の象徴としての役割を担ってきたことを雄弁に物語っている。明暦の大火による焼身と再刃という危機を乗り越え、現代にその姿を伝える骨喰藤四郎は、日本の文化財保護の歴史をも体現していると言えよう。
今後の研究への展望
本報告書で詳述してきたように、骨喰藤四郎に関する情報は多岐にわたるが、未だ解明の余地が残されている点も少なくない。例えば、刀身彫刻の正確な製作時期や、埋忠寿斎による「手直し」の具体的な内容と範囲、明暦の大火による焼身と三代越前康継による再刃が、地鉄や刃文といった刀身の細部に具体的にどのような影響を与えたのかについてのより詳細な冶金学的分析、そして紀州徳川家への下賜の具体的な時期や理由、経緯などについては、さらなる研究が待たれる。
今後、新たな古文書や記録の発見、あるいは非破壊検査技術を含む科学的調査手法の進展により、これらの謎が解き明かされることが期待される。また、骨喰藤四郎が持つ豊かな物語性や、歴史上の人物との関わりから生まれる文化的アイコンとしての側面は、今後も歴史学、美術史、文学、さらには大衆文化の領域において、様々な形で再解釈され、新たな創作や研究のインスピレーションの源泉となるであろう。骨喰藤四郎は、過去の遺物であると同時に、未来に向けて新たな価値を生み出し続ける可能性を秘めた、日本の貴重な文化遺産なのである。