本報告書は、戦国時代にその名を馳せた茶入「珠光小茄子(じゅこうこなす)」について、現時点で入手可能な情報を網羅的に収集・整理し、その歴史的背景、特徴、伝来、関連する逸話、そして茶道史における意義を明らかにすることを目的とする。「珠光小茄子」という名称は、当時の茶の湯文化における村田珠光の影響力と、茄子形茶入の流行を示唆しており、その実像に迫ることは戦国時代の文化理解に不可欠である。
戦国時代において、茶入は単なる茶道具としての機能を超え、武将たちの間で権力、富、そして文化教養の象徴と見なされた。時には一国の領地にも匹敵するほどの価値を持つとされ、茶入(小壺)一個がその地位を誇示する象徴となったのである 1 。特に織田信長による「名物狩り」や「御茶湯御政道」といった政策は、名物と呼ばれる茶道具の価値を一層高め、茶の湯を政治的手段として用いる気風を醸成した 1 。このような時代背景の中で、「珠光小茄子」は数ある名物茶入の中でも特に著名な存在として語り継がれている。
「珠光小茄子」の名声は、単に物としての希少価値のみならず、複数の要因が複合的に作用した結果形成されたと考えられる。茶道の祖と仰がれる村田珠光の名を冠することによる精神的価値 1 、そして当代随一の権力者であった織田信長が所持し、その寵臣が渇望したという来歴が付与する政治的価値 5 が、この茶入を特別な存在へと昇華させた。戦国時代における茶道具の評価は、材質や製作技術といった実質的な価値に加え、それに付随する物語、すなわち誰が所持し、どのような逸話が残されているかによって大きく左右された。滝川一益が領地よりも「珠光小茄子」を望んだという逸話 5 は、物理的な価値を超越した評価軸が存在したことを如実に物語っている。茶入一個が「一国の領地と比肩される」 1 という表現は、その象徴的価値の極致を示すものであり、「珠光小茄子」のように著名な人物の名を冠する茶道具は、その傾向が特に顕著であったと言えよう。
「珠光小茄子」の名称は、室町時代中期に活躍し、侘び茶の祖とされる村田珠光(1422年または1423年~1502年)に由来すると考えられている 1 。珠光が実際にこの小茄子を所持していたのか、あるいは珠光の茶風を象徴するような小ぶりな茄子形茶入であったためにその名が冠されたのかについては諸説ある。有力な説の一つとして、『國學院雜誌』には「珠光小茄子は茄子形の茶入であるが、東山御物の九十九(つくも)茄子より形が小さいので、小茄子と命銘された」との記述が見られる 4 。この記述は、「珠光小茄子」が著名な「九十九髪茄子」とは別の、より小型の茶入であったことを示唆する重要な手がかりとなる。
その形状は、名称が示す通り「茄子形」であったとされる 4 。茄子形茶入は、口元がすぼまり胴部が丸く膨らんだ、野菜の茄子に似た形状を特徴とする。材質については、現存しないため断定は困難であるが、当時の名物茶入の多くが中国(唐物)からもたらされた陶磁器であったことから、「珠光小茄子」も同様に唐物であった可能性が高いと推察される 1 。事実、『茶道大辞典 新版』においては「漢作唐物茄子茶入」として分類されている 4 。
「珠光小茄子」は「名物」として高く評価され、特に優れた茄子形茶入を指す「天下の四茄子」の一つに数えられるほどであった 4 。『山上宗二記』において茄子茶入の筆頭に挙げられる「唐物茄子茶入(紹鴎・一名みをつくし)」(湯木美術館蔵、重要文化財)など、他の名物茄子茶入との比較を通じても、その格の高さが窺える 13 。
「小茄子」という呼称は、単に物理的なサイズが小さいことを示すだけでなく、より深い意味合いを含んでいた可能性がある。「九十九髪茄子」のような既存の権威ある大名物との差異化を図りつつ、村田珠光が追求した侘びの精神性、すなわち過度な壮大さを避け、簡素なものの中に美を見出す姿勢を反映したネーミングであったとも考えられる。珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追求したとされ 16 、その美意識が「小」という言葉に託されたのかもしれない。また、「珠光小茄子」が「漢作唐物」とされる点は、村田珠光の茶道における重要な理念である「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」 10 という言葉と響き合う。舶来品である唐物でありながら、珠光の名を冠することで和様の精神性が付与され、単なる輸入高級品ではない、珠光の審美眼によって選び抜かれた侘び茶の理念を体現する道具としての独自の価値を持つに至ったと解釈できよう。
「珠光小茄子」と、同じく著名な茄子形茶入である「九十九髪茄子(つくもかみなす、別名:付藻茄子)」との関係については、古来より議論があり、両者が同一の茶入を指す異名であるとする説と、それぞれ別の茶入であるとする説が存在する。
結論から述べれば、両者は別個の茶入であったとする説が有力である。その根拠として、まず前述の『國學院雜誌』における「珠光小茄子は(中略)九十九茄子より形が小さいので、小茄子と命銘された」という記述 4 が挙げられる。これは、両者の大きさが明確に異なっていたことを示唆している。さらに、「天下の四茄子」を挙げる多くの資料において、「珠光茄子(珠光小茄子)」と「付藻茄子(九十九髪茄子)」がそれぞれ独立した名物として並記されている点も重要である 4 。これは、当時から両者が明確に区別されていた証左と言える。加えて、両者の伝来と現況も異なる。「九十九髪茄子」は、足利義満以来、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの手を経て、大坂夏の陣で罹災後修復され、現在は静嘉堂文庫美術館に「大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子」として現存している 18 。一方、「珠光小茄子」は本能寺の変で織田信長と共に焼失したと伝えられている 4 。この明確な運命の違いも、両者が別物であったことを強く支持する。
異名同物説が生じる背景には、いくつかの要因が考えられる。両者ともに村田珠光との関連が語られることがある点(特に「九十九髪茄子」の名称由来として、珠光が九十九貫で購入したという伝説 18 )、どちらも茄子形の名物茶入であるという共通点、そして長い年月を経る中で伝承が混同された可能性などである。ただし、珠光が「九十九髪茄子」を九十九貫で購入したという話は、あくまで伝承の域を出ないとする指摘もある 19 。また、「九十九髪茄子が二つあった」とする説 24 も存在する。この説では、一つは信長に献上され本能寺で紛失し、もう一つは秀吉に献上され大坂の陣で焼失後修復されて静嘉堂文庫所蔵となったとされるが、これは「珠光小茄子」と「九十九髪茄子」を巡る複雑な伝承を合理的に説明しようとする後世の試みと解釈できるものの、かえって混同を助長する側面も否定できない。
名物茶入の伝来は、後世に語り継がれる中で、より劇的で権威あるものへと脚色されていく傾向が見られる。「珠光小茄子」と「九十九髪茄子」を巡る情報の錯綜も、その一例と言えよう。特に村田珠光や織田信長といった歴史上の著名な人物との関連は、道具の価値を高める上で極めて重要な要素であった。彼らの名声が、茶入の物語性を豊かにし、所有欲を刺激したのである。「小茄子」という呼称の存在自体が、「九十九髪茄子」が当時から既に大きな権威と知名度を有していたことの裏返しと捉えることもできる。「珠光小茄子」は、その絶対的な存在との対比の中で、あるいは珠光の審美眼を反映した新たな価値軸を持つ名物として、独自のアイデンティティを確立した(あるいは後世にそのように位置づけられた)と考えられるのである。
以下に、「珠光小茄子」と「九十九髪茄子」の比較検討表を示す。
項目 |
珠光小茄子 |
九十九髪茄子(付藻茄子) |
別名 |
珠光茄子 |
付藻茄子、松永茄子、九十九茄子、作物茄子など 22 |
形状の特徴 |
茄子形。九十九髪茄子より小型とされる 4 。漢作唐物 4 。 |
茄子形。漢作唐物。南宋~元時代(13~14世紀)作。高さ7.1cm、胴径7.4cm 23 。 |
主な伝来 |
村田珠光→古市澄胤→三好実休→本願寺→武野宗瓦→織田信長 4 。 |
足利義満→足利義政→山名政豊→朝倉宗滴→松永久秀→織田信長→豊臣秀吉→有馬則頼→大坂城→徳川家康→藤重家→岩崎彌之助 18 。 |
村田珠光との関連 |
名称の由来。珠光所持と伝わる 1 。 |
珠光が九十九貫で購入したという伝説があるが、確証はない 18 。 |
終焉/現存状況 |
本能寺の変にて焼失したとされる 4 。 |
大坂夏の陣で罹災後、藤重親子により修復。現在、静嘉堂文庫美術館所蔵(大名物) 19 。国宝・重要文化財指定はなし 23 。表面は漆で修復 22 。 |
特記事項 |
天下の四茄子の一つ 4 。 |
天下の四茄子の一つ 4 。天下三茄子の一つとも 21 。 |
「珠光小茄子」の伝来については、いくつかの史料に断片的ながら記述が見られる。『國學院雜誌』や『茶道大辞典 新版』などの記述を総合すると、この名高い茶入は、村田珠光の所持を経た後、古市播磨守澄胤(ふるいち はりまのかみ ちょういん)、南都興福寺の尊行院(そんぎょういん)、次いで長惣寺(ちょうそうじ)の手に渡ったとされる。その後、三好実休(みよし じっきゅう)が二千貫という高額で購入し、実休の死後は本願寺の坊官であった下間大蔵法橋(しもつま たいぞう ほっきょう)に三千貫の質物として渡り、法橋の没後は下間丹後(しもつま たんご)が所持した。丹後の死後は本願寺門跡に献上され、最終的には武野紹鴎(たけの じょうおう)の嫡子である武野宗瓦(たけの そうが)が本願寺から三千七百貫という、さらに高額な値段で買い取り、織田信長に献上するに至ったと伝えられている 4 。
この伝来の過程で特筆すべきは、その取引価格である。三好実休による二千貫での購入、そして武野宗瓦による三千七百貫での購入という具体的な金額は、当時の茶道具が単なる美術品としてだけでなく、貨幣同様の交換価値を持ち、時にはそれ以上の投機の対象にさえなっていた状況を如実に反映している。短期間における価格の急騰は、茶の湯の流行と名物への渇望が社会現象化し、一種のバブル経済のような様相を呈していた可能性を示唆する。特に織田信長による「名物狩り」は、市場に出回る名物の希少性を高め、価格上昇を煽った側面も否定できないであろう。
「珠光小茄子」の伝来は、足利将軍家が所持したとされる東山御物の「九十九髪茄子」 18 と同様に、茶道具が時の最高権力者の手を渡り歩いた歴史を象徴している。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちは、名物茶入を所有することによって、武力のみならず文化的権威をも天下に示そうとした 1 。また、「珠光小茄子」が本願寺を経由している点は、当時の寺社勢力が単に宗教的権威を持つだけでなく、経済的・文化的な中心地としての機能も有していたことを示している。広大な荘園を背景とした経済力と、文化人や武将との広範な交流を持つ有力寺社が、名物茶入を一時的に保有したり、その売買に関与したりすることは自然な流れであり、茶道具の流通ルートの一つとして寺社が存在したことを物語っている。
「珠光小茄子」の名を不朽のものとした最も有名な逸話は、織田信長の重臣であった滝川一益(たきがわ かずます/いちます)にまつわるものである。天正10年(1582年)、武田氏滅亡の功により、一益は信長から関東管領の職と上野一国(厩橋城主)という破格の恩賞を与えられた。しかし一益は、この領地よりもむしろ、かねてより渇望していた名物茶入「珠光小茄子」を拝領することを望んでいたと伝えられる。だがその願いは叶わず、一益は大いに落胆し、悔しがったという 4 。
この逸話は、「珠光小茄子」がいかに当時の武将たちにとって垂涎の的であったか、そして名物茶入が文字通り一国の領地以上の価値を持つと認識されていたことを象徴的に示している 1 。ある書状の中で一益は、上野のような遠国に配されたことで「茶湯の冥利ももはやつき果てた」と嘆いており 4 、その渇望の度合いの深さを物語っている。この滝川一益の逸話は、その劇的な内容から後世の関心を引き続け、山田芳裕氏の漫画『へうげもの』(戦国鬼才伝)などの創作物においても印象的に取り上げられている 5 。
これらの逸話の史実性については、一次史料による完全な裏付けが困難な場合もある。しかし、当時の武将たちの茶の湯への傾倒ぶりや、名物に対する並々ならぬ執着心を考慮すれば、十分にあり得た話として広く受け止められている。滝川一益の逸話は、単なる一個人の嗜好を超え、信長政権下における新たな価値体系の確立と、それに対する家臣たちの適応、あるいは渇望を象徴していると解釈できる。土地という伝統的な価値基準に対し、茶道具という文化資本が対抗しうる、あるいは凌駕するほどの価値を持つようになった時代の転換点を示すものと言えよう。信長が意図的に作り出した「名物」の価値を、家臣である一益が内面化し、強く求めたというこの物語は、信長の茶の湯を利用した価値観の転換政策が、家臣団に深く浸透しつつあったことを示唆している。また、「珠光小茄子」をめぐる逸話が後世の創作物に影響を与え続けている事実は、この茶入が持つ物語性が、時代を超えて人々の想像力を刺激する普遍的な魅力を有していることの証左であろう。
数々の武将や茶人の手を経て、その名声を高めた「珠光小茄子」であったが、その終焉は所有者であった織田信長の最期と時を同じくしたと伝えられている。多くの史料が一致して示すところによれば、「珠光小茄子」は天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において明智光秀の謀反により信長が自刃した際、炎上する本能寺と共に焼失したとされる 4 。
この焼失説の根拠としては、複数の信頼性の高い文献が挙げられる。『茶道大辞典 新版』には、「信長愛蔵の品として知られ、(中略)のち本能寺の変にて焼失した」と明記されている 4 。また、『國學院雜誌』においても、「(珠光小茄子は)信長へと伝わったが、本能寺の変で焼失した」との記述が見られる 4 。さらに、江戸時代初期の茶書である『山上宗二記』の珠光名物を記した箇所(『淡交』所収)にも、「珠光小茄子(本能寺で火中)」との記録があり 4 、当時から焼失した名物として認識されていたことがわかる。
信長が天下統一を目前にしながら非業の最期を遂げた本能寺の変は、日本の歴史における一大転換点であった。その歴史的事件の中で、信長が最後まで愛蔵していたとされる「珠光小茄子」が運命を共にしたという物語は、この茶入の伝説性を一層高める要因となっている。現時点での提供資料からは、この本能寺焼失説以外の有力な説は見当たらない。
「珠光小茄子」の本能寺における焼失は、単に一文化財の喪失という事実に留まらず、より深い象徴的な意味合いを帯びていると解釈できる。信長は茶の湯を政治的に利用し、名物茶道具を自らの権威の象徴として収集・活用した 1 。「珠光小茄子」はその中でも特に著名な名物であり、信長が築き上げようとした茶の湯を通じた新たな権威と秩序の象徴の一つであったと言える。その焼失は、信長の野望の頓挫と重ねて語られることで、彼の時代の終焉を強く印象づける出来事となった。失われた名宝は、その具体的な姿が不明であるからこそ、かえって人々の想像力をかき立て、その価値や神秘性を高めることがある。「珠光小茄子」の場合、本能寺での悲劇的な最期が、後世の人々の記憶に深く刻まれ、語り継がれる大きな要因となっているのである。
「珠光小茄子」は、単独でその名声が語られるだけでなく、「天下の四茄子(てんかのよんなす)」と称される、特に優れた四つの茄子形茶入の一つとしても知られている 4 。この呼称自体が、茶道具の格付けと序列化を好んだ当時の茶の湯文化の現れであり、特定の道具を選び出し権威付けることで、茶の湯の世界における価値基準を形成しようとした意図が窺える。
一般的に「天下の四茄子」として挙げられるのは以下の通りである。
これらの名だたる茄子茶入の中で、「珠光小茄子」はいくつかの際立った特徴を持つ。まず、「付藻茄子」よりも小型であったとされる点 4 が挙げられる。また、本能寺の変で焼失したとされるため、現存する他の三つ(あるいは「百貫茄子」の現存が確認されれば二つ)とは異なり、その姿を直接目にすることは叶わない。しかし、その名声は数々の伝承や逸話を通じて今日まで語り継がれている。そして何よりも、侘び茶の祖である村田珠光の名を直接的に冠している点で、他の茄子茶入とは異なる独自のアイデンティティを有していると言えよう。「百貫茄子(似たり茄子)」に関する情報の不確かさ、特に山下桂惠子氏の研究が示唆する静嘉堂文庫美術館所蔵説は、「天下の四茄子」の構成メンバーが固定的なものではなく、時代や研究の進展によって変動しうる可能性を示している。これはまた、歴史的な名物の同定がいかに困難な作業であるかを示す好個の事例とも言える。
以下に、「天下の四茄子」の情報を整理した表を示す。
名称(別名含む) |
主な特徴(伝わる情報) |
主要な伝来(判明範囲) |
現存状況(所蔵場所、文化財指定など) |
珠光小茄子 (珠光茄子) |
茄子形、小型。漢作唐物。 |
村田珠光→三好実休→織田信長など 4 。 |
本能寺の変で焼失と伝わる 4 。 |
付藻茄子 (九十九髪茄子) |
茄子形。漢作唐物。南宋~元時代作。 |
足利義満→松永久秀→織田信長→徳川家康→岩崎家など 18 。 |
静嘉堂文庫美術館所蔵(大名物) 19 。修復歴あり。 |
紹鴎茄子 (みをつくし茄子) |
茄子形。漢作唐物。南宋~元時代作。飴色釉に三筋の釉景色 13 。 |
松本珠報→武野紹鴎→織田信長→豊臣秀吉など 13 。 |
湯木美術館所蔵(重要文化財) 13 。 |
百貫茄子 (似たり茄子、博多茄子) |
茄子形。詳細は諸説あり。東山御物との説も 32 。『茶道名数事典』では博多茄子 4 。 |
詳細は不明瞭な点が多い。静嘉堂文庫美術館所蔵の可能性を示唆する研究あり 32 。 |
現存状況、所蔵場所については諸説あり、確定していない部分が多い。山下桂惠子氏の研究によれば静嘉堂文庫美術館所蔵の可能性 32 。文化財指定の情報は不明。 |
「珠光小茄子」のような名物茶入が戦国武将たちによって渇望され、時には一国の領地以上の価値を持つとされた背景には、当時の特異な社会状況と、茶の湯文化が果たした多面的な役割が存在する。
織田信長が推し進めた「名物狩り」 1 は、単なる美術品の収集という側面を超え、既存の価値体系を解体し、自らが中心となる新たな権威を確立するための高度な政治的戦略であった。全国各地の名だたる茶道具を自身の元に集めることで、信長は文化的な中心としての地位を誇示し、それらを論功行賞に用いることで家臣団を巧みに統制した。名物茶入は、服従の証として献上されたり 18 、忠誠への褒美として下賜されたりする 1 ことで、武将間の主従関係や同盟関係を視覚化し、強化する強力なメディアとして機能したのである。
茶の湯そのものもまた、戦国武将たちにとって極めて重要な意味を持っていた。それは、戦場での絶え間ない緊張を和らげ、精神を修養する場であると同時に、外交交渉や情報交換、同盟の確認といった政治的な駆け引きが繰り広げられる舞台でもあった 2 。茶会を主催すること自体が一つのステータスであり、信長は家臣に対して茶会開催の許可制を敷く(いわゆる「ゆるし茶湯」 3 )など、茶の湯を巧みに統制し、自らの権力基盤の強化に利用した。これは「御茶湯御政道」 1 とも呼ばれ、茶の湯が政治と不可分に結びついていたことを端的に示している。
戦国時代の茶の湯文化の隆盛は、武将たちが「武」の力だけでなく、「文」の側面においても覇を競い合うようになったことの現れと言える。名物茶入を所有し、洗練された茶会を催すことは、高い文化的教養を持つことの証明であり、単なる武力だけでは得られない尊敬と権威を当主にもたらした。茶の湯は、武将が自らの文化的素養を誇示し、他者との差別化を図るための重要な手段であった。これにより、彼らは単なる戦闘集団の長から、文化をも統べる為政者としてのイメージを構築しようとしたのである。「名物狩り」は、文化財の集中と保護という側面も持ち合わせていた一方で、地方の文化的多様性をある程度奪い、中央集権的な価値観を広める効果ももたらした。結果として、茶の湯における「名物」の基準や評価が、信長やその周辺の茶頭(千利休など)の審美眼によって方向づけられ、ある種の美意識の共有が進んだ可能性も指摘できる。
本報告書は、戦国時代の名物茶入「珠光小茄子」について、現存する史料や研究成果に基づき、その概要、伝来、関連する逸話、そして歴史的・文化史的意義を考察してきた。
調査の結果、「珠光小茄子」は、侘び茶の祖である村田珠光の名を冠し、優美な茄子形でありながらも「九十九髪茄子」よりは小型であったと推定されること、そして漢作唐物であった可能性が高いことが明らかになった。その伝来は、村田珠光から三好実休、本願寺、武野宗瓦を経て織田信長の手に渡り、信長が愛蔵した名物として知られる。特に、重臣滝川一益が一国の領地よりもこの小茄子を渇望したという逸話は、当時の武将たちの価値観と名物茶入の絶大な影響力を象徴的に物語っている。また、「天下の四茄子」の一つに数えられるほどの高い評価を得ていたが、その栄光は長くは続かず、天正10年(1582年)の本能寺の変において、主君信長と共に炎の中に消えたという悲劇的な終焉が、この茶入の伝説性を一層高めている。
「珠光小茄子」は、単なる美術工芸品に留まらず、戦国時代の武将たちの価値観、茶の湯の政治的利用、そして名物茶入が持った絶大な影響力を具現化した存在であったと言える。現存しないにもかかわらず、その名と数々の逸話が今日まで語り継がれている事実は、物質的な存在を超えた、深い文化史的な意義を持つことの証左である。この茶入の物語は、名物茶入が単なる器物ではなく、歴史を動かす人々の欲望、権力、美意識、そして運命と深く結びついた、いわば「生きた存在」であったことを我々に教えてくれる。
今後の研究への展望としては、「珠光小茄子」に関する一次史料のさらなる発掘や、関連する他の名物茶入、特に「天下の四茄子」に数えられる品々との比較研究を通じて、その実像により深く迫る余地が残されている。特に「百貫茄子(似たり茄子)」の同定と詳細な研究が進むことは、「天下の四茄子」全体の理解を深め、「珠光小茄子」の位置づけをより明確にする上で重要となるであろう。「珠光小茄子」のような失われた名宝に関する研究は、断片的な史料の解釈や伝承の分析を通じて、過去の文化や価値観を再構築する試みであり、歴史学における想像力と実証の双方の重要性を示していると言える。