戦国時代の名物葉茶壺「松島」に関する総合的調査報告
1. 緒言
本報告書は、戦国時代にその名を馳せた名物葉茶壺「松島」について、現存する諸史料を丹念に調査し、その実態、歴史的変遷、そして文化的価値を多角的に検証することを目的とする。特に、茶の湯が武将たちの政治・文化活動と深く結びついたこの時代において、「松島」のような名物茶道具が果たした役割は大きい。本報告書を通じて、一つの葉茶壺の軌跡を追うことで、戦国時代の茶の湯文化の一端を照らし出し、その奥深さと今日的意義を提示することを目指す。
調査にあたっては、『山上宗二記』をはじめとする同時代の茶会記、武将の書簡や記録、さらには後代に編纂された名物記などを網羅的に渉猟した。これらの史料記述を比較検討し、必要に応じて史料批判を加えることで、「松島」の実像に可能な限り迫ることを試みた。具体的には、「松島」の形状や材質、その名称の由来、東山御物としての位置づけ、主要な所有者の変遷、織田信長への献上と本能寺の変における焼失の経緯、そして関連する名物葉茶壺「松花」「三日月」との比較、さらには「小松嶋茶壺」との関連性についても考察を加える。
本報告書の構成は以下の通りである。まず、「松島」の概要を『山上宗二記』の記述を中心に解説する。次に、その歴史的背景と伝来、特に東山御物としての価値や織田信長への献上の意義を明らかにする。続いて、本能寺の変における焼失と、それが後世に与えた影響を考察する。さらに、関連する名物葉茶壺「松花」「三日月」や、「小松嶋茶壺」との比較検討を行う。その後、諸史料における「松島」の記録を横断的に分析し、戦国時代における葉茶壺の文化的・政治的意義を論じる。最後に、調査結果を総括し、今後の研究課題を提示する。
2. 名物葉茶壺「松島」の概要
葉茶壺「松島」に関する最も詳細かつ信頼性の高い情報は、千利休の高弟であった山上宗二が著した『山上宗二記』に見出される。同書は、当時の茶の湯の状況や茶道具に関する貴重な一次史料として、今日高く評価されている 1 。
2.1. 『山上宗二記』における記述とその分析
『山上宗二記』には、「松島」について以下のような記述が残されている。
3. 「松島」の歴史的背景と伝来
葉茶壺「松島」は、その美術的価値のみならず、その伝来の経緯においても特筆すべきものがある。特に、室町幕府将軍家の蒐集品である「東山御物」としての位置づけは、その後の価値を決定づける上で重要な意味を持った。
3.1. 東山御物としての位置づけ
『山上宗二記』には、「これら二つ(松島・三日月)ともに東山御物なり」との明確な記述が見られる 3 。東山御物とは、室町幕府八代将軍足利義政が蒐集した美術工芸品群の総称であり、当時の最高峰の品々が選ばれたとされる 10 。これらの品々は、唐物の目利きとして知られた同朋衆の能阿弥や芸阿弥らによって選定・管理され、そのリストや評価は『君台観左右帳記』などの書物にまとめられたと伝えられている 10 。『君台観左右帳記』は、中国絵画の品評や書院飾りの規範を示すとともに、「抹茶壺図形」や「土物類」といった項目で茶道具に関する図解も含まれていたとされ 13 、東山御物の具体的な内容を知る上で重要な史料である。
「松島」が東山御物であったという事実は、その道具が単に古いというだけでなく、室町将軍家という最高の権威によって選び抜かれたという文化的背景を持つことを意味する。戦国時代の武将茶人たちにとって、東山御物は憧れの対象であり、それを所有することは自身の文化的な権威と高い美意識を示すことに繋がった。信長のような天下人が「松島」を渇望した背景には、このような東山御物というブランドが持つ絶大な影響力があったと考えられる。
3.2. 主要な所有者の変遷
『山上宗二記』によれば、東山御物であった「松島」は、応仁の乱などによる社会の混乱の中で将軍家から流出し、その後いくつかの所有者の手を経ることになる。「松島は、桃山中期、三好宗三 の所持となる。後に宗三の子、右衛門太夫(三好政勝)が、紹鷗に売った。次の所有者、今井宗久が信長公に奉ったのである。」 3 。
三好宗三(三好長慶の弟、実休の子ともされるが諸説あり)やその子政勝、そしてわび茶の大成者の一人である武野紹鴎、さらには堺の豪商であり茶人としても名高い今井宗久といった、当時の政治・経済・文化の中心にいた人物たちの間で「松島」が受け継がれていったことは、この葉茶壺が持つ並外れた価値を物語っている。
3.3. 今井宗久から織田信長への献上
「松島」の伝来における最も劇的な転換点は、今井宗久から織田信長への献上である。この出来事は、永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした際に起こったとされる 14 。この時、堺の会合衆の一人であった今井宗久は、名物「松島の茶壷」とともに「紹鴎茄子」(武野紹鴎所持と伝わる名物茶入)を信長に献上した。
この献上は、単なる美術品の贈答という以上の、高度な政治的意味合いを帯びていた。当時の堺は、海外貿易の拠点として栄える自治都市であり、鉄砲などの軍需品生産においても重要な位置を占めていた 18 。信長にとって、天下統一事業を推進する上で、堺の経済力と軍事技術を掌握することは不可欠であった。一方、堺の商人たちにとっても、強大な軍事力を背景に台頭する信長との関係をいかに構築するかは、都市の自治と経済的利益を維持するための死活問題であった。
このような状況下で、今井宗久がいち早く信長に恭順の意を示し、最高級の名物である「松島」を献上した行為は、堺の商人たちの代表として信長への協調と経済的支援を約束する象徴的な意味を持っていたと考えられる。信長はこの献上を高く評価し、宗久を重用するとともに、これを契機として茶の湯を政治の道具として積極的に活用し始める。「名物狩り」と呼ばれる茶道具の収集も本格化し、集められた名物は家臣への恩賞や外交儀礼に用いられ、信長の権威を視覚的に示す役割を果たした 14 。葉茶壺「松島」は、まさにその象徴的な存在として、歴史の表舞台に登場したのである。
4. 本能寺の変と「松島」の焼失
天下人織田信長の手中に帰した名物葉茶壺「松島」の運命は、しかし、その主の劇的な最期と軌を一にすることとなる。『山上宗二記』には、「これも、総見院殿(信長)、本能寺の変にて焼け失せた。」との明確な記述があり 3 、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変において、「松島」は信長と共に炎に包まれたとされている。
この記述は、他の史料によっても裏付けられている。例えば、徳川美術館所蔵の現存する名物茶壺「松花」の解説には、『山上宗二記』を典拠として「松嶋」「三日月」(ともに本能寺の変で焼失)と並んで三大名物茶壺とされたことが記されている 22 。また、本能寺の変後、明智光秀によって安土城から持ち出された名物も、その後の山崎の戦いの混乱の中で安土城と共に焼失したという記録もあるが 19 、「松島」に関しては、本能寺で信長と運命を共にしたとする『山上宗二記』の記述が最も直接的である。
「松島」のような最高級の名物が、本能寺の変という日本史上の大事件において、天下人信長と共に失われたという事実は、その存在を一層伝説的なものにしたと言えるだろう。現存しないがゆえに、かえってその価値や美しさが人々の想像の中で理想化され、茶道史における「幻の名品」として語り継がれることになった。物理的な喪失は、同時に一つの物語を生み出し、後世の茶人たちの憧憬の対象としての「松島」を形作ったのである。その詳細な形状や釉調が『山上宗二記』のような信頼性の高い史料にある程度記録されていたことも、この伝説化をさらに促進した要因の一つと考えられる。
5. 関連する名物葉茶壺:「松花」と「三日月」
葉茶壺「松島」を理解する上で、当時これと並び称された他の名物葉茶壺との比較は不可欠である。『山上宗二記』は、「松島」「三日月」そして「松花」を三大名物葉茶壺として挙げている 3 。これらの茶壺は、それぞれ異なる特徴と伝来を持ち、戦国時代の茶の湯文化の多様性と奥深さを示している。
5.1. 現存する大名物「松花(しょうか)」
「松島」と「三日月」が本能寺の変で焼失したのに対し、「松花」は今日まで伝世し、徳川美術館に所蔵されている 22 。この事実は、「松花」を戦国時代の名物葉茶壺の具体的な姿を伝える貴重な遺例たらしめている。
「松花」が現存することは、戦国時代に最高級とされた唐物葉茶壺の具体的な姿、材質、釉調などを今日に伝える上で極めて大きな意義を持つ。「松花」の堂々たる姿や変化に富んだ釉景色は、当時の茶人たちがどのような点に美を見出していたのかを雄弁に物語っている。そして、焼失した「松島」や「三日月」の姿を類推する上で、最も重要な手がかりを与えてくれる存在と言えるだろう。
5.2. 焼失した名物「三日月」
「松島」と共に本能寺の変で焼失したとされるもう一つの名物葉茶壺が「三日月」である。『山上宗二記』には、この「三日月」についても詳細な記述が残されている 3 。
「三日月」の逸話は、戦国時代の名物道具が持つ物語性と、それを評価する茶人たちの審美眼の深さを物語っている。
6. 「松島」と「小松嶋茶壺」:呼称と実体の比較検討
葉茶壺「松島」を巡る調査の中で、類似した名称を持つ「小松嶋茶壺」の存在が注目される。これは主に『天王寺屋会記』に見られる記述であり、「松島」との関係性について慎重な検討が必要である。
6.1. 『天王寺屋会記』における「小松嶋茶壺」
『天王寺屋会記』は、堺の豪商であり茶人でもあった津田宗及とその父宗達、子宗凡の三代にわたる茶会記録であり、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶の湯の具体的な様相を知る上で極めて重要な史料である。この『天王寺屋会記』の元亀元年(1570年)3月5日の条に、織田信長が堺で名物を買い集めた(いわゆる第二回「名物狩り」)際の記録があり、その中に「薬師院の小松嶋茶壺」という名が見える 18 。
また、津田宗及自身が天正2年(1574年)に信長から岐阜城に招かれた際、信長秘蔵の「紹鷗茄子」や「松島茶壺」などの名品を拝見したという記録も残されている 26 。
6.2. 「松島」との同一性・異名説に関する考証
『山上宗二記』に記される葉茶壺「松島」と、『天王寺屋会記』に見える「小松嶋茶壺」が同一のものであるか、あるいは何らかの関連を持つのかという点は、史料を比較検討する上で興味深い論点となる。
まず、入手経緯と時期が異なる点が挙げられる。「松島」は永禄11年(1568年)に今井宗久から信長に献上されたとされるのに対し 14 、「小松嶋茶壺」は元亀元年(1570年)に薬師院から信長が買い集めたものとして記録されている 18 。献上者(または元の所有者)と入手時期が明確に異なるため、単純に同一の品を指すとは考えにくい。
次に、呼称の差異である。「小松嶋」という「小」の字が付く点に着目すると、いくつかの可能性が考えられる。茶道具の世界では、本歌(ほんか)と呼ばれるオリジナルの名品に対して、その写しや小型のものを製作した場合、あるいは同工の別作でやや格が下がるものに対して「小」の字を冠することがある。例えば、古瀬戸の肩衝茶入「小野(おの)」に対して、その写しとされるものに「小野(この)」という銘が付けられた例などがある。したがって、「小松嶋茶壺」が、「松島」の写しであった可能性、あるいは「松島」よりも小型の、しかし同様の景色を持つ別の茶壺であった可能性も否定できない。
また、津田宗及が天正2年(1574年)に拝見した「松島茶壺」が、今井宗久献上の「松島」を指すのか、あるいは薬師院旧蔵の「小松嶋茶壺」を指すのか、あるいはその両方を知った上で、より格の高い「松島」の名で記録したのか、という点も判然としない。
現時点の史料からは、「松島」と「小松嶋茶壺」の明確な関係性を断定することは困難である。しかし、ほぼ同時期に織田信長の周辺に、類似した名称を持つ複数の葉茶壺が存在した可能性は、当時の名物収集の熱狂ぶりや、名物の評価基準の多様性・複雑性を示唆していると言えるかもしれない。これが単なる記録上の呼称の揺れなのか、あるいは実体が異なる複数の道具が存在したのかについては、今後のさらなる史料の発見と研究が待たれるところである。
7. 諸史料における「松島」の記録と分析
葉茶壺「松島」に関する記述は、『山上宗二記』以外にも、同時代の重要な史料に見出すことができる。これらの記録を比較検討することで、「松島」の歴史的実在性と、当時の茶の湯文化におけるその位置づけをより立体的に理解することが可能となる。
これらの主要史料における記述を比較すると、葉茶壺「松島」が東山御物から三好氏、武野紹鴎、今井宗久を経て織田信長の手に渡り、信長の秘蔵品として披露され、最終的に本能寺の変で焼失したという基本的な経緯については、複数の史料で概ね一致した情報が提供されていると言える。特に『山上宗二記』の記述の具体性と、『信長公記』や『津田宗及茶湯日記』といった一次史料による裏付けは、「松島」の歴史的実在性を強く示唆するものである。
8. 戦国時代における葉茶壺の文化的・政治的意義
戦国時代において、葉茶壺、特に「松島」のような「大名物」と称された唐物の茶壺は、単に茶葉を保存するための容器という実用的な機能を超え、極めて高度な文化的・政治的意義を担っていた。
当時の武将たち、とりわけ織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、「名物狩り」と呼ばれる積極的な茶道具蒐集を行った 14 。これらの名物は、その希少性、美術的価値、そして由緒ある伝来によって、一国にも値するほどの価値を持つとさえ考えられた。信長は、これらの名物を家臣への武功の褒賞として与えたり 14 、あるいは敵対勢力からの降伏や和睦の証として受け入れたりするなど、巧みに政治的ツールとして活用した 21 。名物茶道具を所有し、それを披露する茶会を催すことは、所有者の権力、富、そして文化的な洗練度を誇示する有効な手段であったのである 20 。
特に中国(唐物)からもたらされた茶壺は、舶来品としての希少価値も相まって、極めて高く評価された。「松島」が「紫の土、釉の様は、真壺の手本である」 3 と評されたように、その材質や作行きは厳しく吟味され、優れたものは茶の湯の世界における規範とさえ見なされた。
さらに、信長や秀吉の時代には、「茶の湯御政道」とも称されるように、茶の湯が単なる遊芸の域を超え、大名間の社交、情報交換、さらには政治的駆け引きの重要な舞台となった 19 。茶室という限られた空間での濃密なコミュニケーションは、武将たちの人間関係や勢力図にも影響を与え得るものであった。そして、その中心には常に、名物と呼ばれる茶道具が存在したのである。葉茶壺「松島」が、東山御物という最高の由緒を持ち、三好氏、武野紹鴎、今井宗久といった当代一流の人物たちの手を経てきたという事実は、それ自体が物語となり、その価値を一層高めるものであった。信長がこの「松島」を所有したことは、単に美術品を蒐集したという以上に、前代からの文化的権威を継承し、自らの新たな治世を象徴づけるという意味合いをも含んでいたと考えられる。
このように、戦国時代の葉茶壺は、美術品としての価値に加え、所有者のステータスシンボル、政治的・外交的手段、そして茶の湯文化の中核をなす存在として、多層的な意味と機能を有していたのである。
9. 結論
本報告書では、戦国時代の名物葉茶壺「松島」について、現存する主要な史料、特に『山上宗二記』の記述を中心に、その概要、歴史的背景、伝来、そして文化的・政治的意義について詳細な調査と分析を行った。
その結果、葉茶壺「松島」は、中国の南宋から元時代に製作されたと推測される唐物であり、「紫の土」を用い、器表に「島の如く瘤が多い」という特徴的な景色を有し、それが奥州の名勝「松島」になぞらえて命名されたこと、そして「真壺の手本」と評されるほどの優れた品質を持っていたことが明らかになった。容量は茶を七斤余り入れることができる大型の葉茶壺であった。
伝来については、足利義政所縁の「東山御物」の一つとされ、その後、三好宗三、武野紹鴎を経て、堺の豪商今井宗久の手に渡り、永禄11年(1568年)に織田信長に献上された。信長はこの「松島」を秘蔵し、天正2年(1574年)には津田宗及に披露した記録も残っている。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変において、信長と共に焼失したとされている。
「松島」は、同じく三大名物葉茶壺と称された「三日月」(本能寺の変で焼失)や、現存する「松花」(徳川美術館蔵)と比較しても、遜色ない、あるいはそれ以上の高い評価を受けていた名品であった。また、『天王寺屋会記』に見える「小松嶋茶壺」との関係については、現時点の史料からは明確な結論は得られず、今後の研究課題として残る。
戦国時代において、「松島」のような名物葉茶壺は、単なる茶道具としての機能を超え、所有者の権力や文化的素養を象徴するステータスシンボルであり、政治的な駆け引きや外交儀礼においても重要な役割を果たした。その焼失は、一つの時代の終焉を象徴する出来事としても捉えられ、後世の茶人たちにとっては「幻の名品」として語り継がれる存在となった。
今後の課題としては、まず『君台観左右帳記』の現存諸本を精査し、「抹茶壺図形」や「土物類」の項に「松島」あるいは類似の葉茶壺に関する具体的な記述や図様が存在しないかを確認することが挙げられる。また、焼失した「松島」の姿を伝える可能性のある後代の名物記や図譜類のさらなる調査も必要である。中国陶磁史の観点からは、「紫の土」という記述が具体的にどの地域のどのような土や釉を指すのか、より詳細な特定が望まれる。これらの課題に取り組むことで、名物葉茶壺「松島」の実像、そして戦国時代の茶の湯文化のさらなる解明に繋がるものと期待される。
10. 参考文献
本報告書の作成にあたり参照した主要な研究資料は、本文中に引用した各典拠( 22 ~ 30 、 22 ~ 24 のうち、内容を確認できたもの)に示される通りである。これらの史料には、徳川美術館や文化遺産オンラインなどの博物館・研究機関のウェブサイト、学術論文データベース、書籍などが含まれる。