本報告書は、日本の戦国時代に使用された特異な長柄武器である「十文字槍」について、その定義、構造、歴史的背景、種類、運用方法、製法、著名な使用者、現存品、そして文化的影響に至るまで、多角的に調査し、詳細に解説することを目的とする。
戦国時代の合戦において槍が主要な武器であったことは広く知られている 1 。その中でも十文字槍は、穂先に十字形の鎌を持つという特異な形状と、それによってもたらされる多様な機能を有し、日本の武術史および武器史において重要な位置を占めている。本報告書を通じて、この十文字槍に関する総合的な理解を深めることを目指す。
十文字槍は、槍の穂の側面に枝刃、すなわち「鎌」を備えた「鎌槍(かまやり)」の一種として分類される 2 。その最大の特徴は、穂の両側に鎌が付き、槍穂全体が漢字の「十」の字に見えることであり、この視覚的な形状から「十文字槍」という名称が与えられた 2 。また、同様の形状的特徴から「両鎌槍(りょうかまやり)」あるいは「十字槍(じゅうじやり)」とも呼称されることがある 3 。
この「十文字」という名称は、武器の形状を直接的かつ具体的に表現しており、他の武器名称と比較してもその特徴が際立っていることを示している。鎌槍には、片側にのみ鎌を持つ「片鎌槍(かたかまやり)」などの形態も存在することから 3 、十文字槍は鎌槍の中でも特定の発展形態、あるいは特殊な用途や戦術思想に基づいて考案された形態であった可能性が考えられる。その特異な形状は、単なるデザインではなく、特定の戦闘状況における機能性を追求した結果生まれたものと推察される。
十文字槍の穂の長さは、短いもので20cm前後から、長いものでは60cm以上に及ぶものまで多様であったとされる 5 。具体的な例として、ある資料では刃長22cm、鎌を含めた幅16cmの十文字槍の穂が図示されている 6 。また、宝蔵院流槍術で用いられる十文字槍の穂は、穂長(中央の直刃部分)が約18cmから21cm、鎌の幅(左右の鎌の先端間の距離)が約12cmから15cmであるとされている 7 。
これに対し、一般的な槍の穂は両刃で、その長さは1尺から2尺(約30.3cmから60.6cm)が標準的であった 8 。ただし、長柄槍と呼ばれる長い柄を持つ槍の場合、穂は比較的短く、6寸6分(約20cm)前後のものが用いられた 8 。十文字槍の穂は、薄い刃物状であったと形容されることがある 9 。ある古様の十文字槍の例では、穂の長さ22cm、幅16cmで、左右裏表が対称に作られ、中央の穂先だけでなく鎌部分を含め、6つの面に刃が付けられていたという記録がある 6 。この複雑な刃付けは、後述する多様な攻撃方法を可能にする重要な要素であった。
穂の材質に関しては、十文字槍に特化した詳細な記述は少ないものの、一般的な日本刀と同様に、比較的柔らかい心鉄(しんがね)を硬い皮鉄(かわがね)で包み込むようにして鍛え上げる、あるいはそれらを積層して鍛錬するなどの高度な鍛造技術が用いられたと推察される 1 。
穂の寸法については、「適度なもの」といった曖昧な表現が用いられることもあり 9 、これは十文字槍が必ずしも特定の規格に統一された量産品ではなく、使用者や流派、あるいは戦闘の目的に応じて多様な形態で製作された可能性を示唆している。また、「実用的なものは少ない」 9 という記述と合わせて考えると、純粋な実戦用だけでなく、武将の威厳を示すための儀礼用や装飾的な意味合いを持つものも存在した可能性が考えられる。
槍の柄の長さは非常に幅広く、短いものでは数10cmから、長いものでは8mにも達するものまで存在し、戦国時代における平均的な長さは4mから6m程度であったとされる 5 。
十文字槍の柄の長さについては、前述の穂と同様に「適度なもの」 9 とされる場合がある一方で、より具体的な数値も伝えられている。例えば、宝蔵院流槍術で用いられる十文字槍の全長は約2.7mから3mであり 7 、ある古様の十文字槍の例では柄長が約180cmであったとされる 6 。宝蔵院流においては、鎌を効果的に利して敵の手元に入り込んだり、相手の武器を引き落としたり、巻き落としたりといった複雑な操作を行うために、一般的な素槍(鎌のない槍)に比べて短い柄が通例であったとされている 2 。このことは、十文字槍が長いリーチを活かすことよりも、近間での多様な技術行使を重視した武器であったことを示唆している。
柄の材質としては、樫(かし)や栗(くり)、胡桃(くるみ)、ブナといった頑丈な木材が用いられたほか、クヌギやナラ、桜など、硬度と柔軟性を兼ね備えた木材も使用された 5 。これらの材質選択は、槍一般に共通するものであったと考えられる。前述の古様の十文字槍の柄は、木材が乾燥して古びてはいるものの、手の込んだ作りであり、特に穂に近い先端部分には、弓のように蔓(つる)が巻かれ、さらに金属製の輪が3つはめられて補強されていたという 6 。このような補強は、鎌で相手の武器を受け止めたり、強力な打撃や捻りを加えたりする際に柄にかかる大きな負荷に耐えるための工夫であり、十文字槍の激しい使用法を物語っている。
十文字槍の最大の特徴は、その多機能性にある。槍の基本的な機能である穂先による「突き」に加え、両側に張り出した鎌を用いることで、「切り落とす」、「巻き落とす」、「摺り込む(相手の武器に沿わせて滑らせながら攻撃する)」といった多様な攻撃が可能であった 2 。
鎌が付けられた目的は、単に攻撃の選択肢を増やすためだけではなかった。相手の足や腕などを「斬る」ことの他に、穂先が敵体に深く刺さりすぎて抜けなくなるのを防ぐという、実戦的な役割も持っていた 3 。深く刺さった武器を引き抜く際の隙は、特に乱戦においては致命的となり得るため、この機能は連続的な攻撃や素早い体勢の転換を可能にする上で重要であった。
宝蔵院流槍術においては、これらの機能がさらに洗練された技法へと昇華されている。例えば、槍を押したり引いたりする動作によって鎌で斬撃を加える技、相手が突いてきた槍を鎌で引っ掛けて引き落としたり、逆に上へ押し上げて攻撃を逸らしたりする防御技などが伝わっている 7 。前述の古様の十文字槍のように、穂の6面全てに刃が付けられているものでは、突く、払う、引く、ひねるといったあらゆる方向への攻撃や、それに応じた防御が可能であったとされている 6 。
これらの機能から、十文字槍は単一の攻撃方法に特化した武器ではなく、攻撃(突き、斬り、払い)、防御(受け、流し、絡め取り)、さらには相手の動きの制御(深く刺さりすぎるのを防ぐ、巻き落とす)といった複数の要素を併せ持つ、攻防一体の高度な武器であったと言える。この多機能性が、特に個人間の戦闘において、状況に応じた多様な対応を可能にしたのである。
槍が日本の合戦において本格的に使用され始めたのは、鎌倉時代末期であるとされている 1 。その後、南北朝時代に入ると足軽が登場し、集団による戦闘が一般化するにつれて、槍は広く用いられるようになった 11 。
鎌槍や鍵槍といった、穂先に特殊な形状を持つ槍が登場したのは戦国時代に入ってからであり、これら新しい形態の槍の出現に伴い、それ以前から存在した直線的な穂先を持つ槍が「素槍(すやり)」と呼ばれるようになったと伝えられている 2 。戦国時代の末期になると、鎌槍、特に十文字槍のような特殊な形態のものは、単なる兵卒の武器としてではなく、武将が個人的に所有する特別な武器、いわゆる「持料(じりょう)」として脚光を浴びるようになった 2 。ある資料には、「非常に古い時代のものと推定される」十文字槍の存在が記されているが、具体的な年代は不明である 6 。
これらの経緯を考慮すると、十文字槍の出現と普及は、主に戦国時代中期以降と考えるのが妥当であろう。槍の歴史は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての集団戦における主要武器としての台頭に始まり、戦国時代に至って、より多様な形態へと分化していった。十文字槍のような特殊な鎌槍の登場は、合戦の形態が大規模な集団戦術だけでなく、武将個人の武勇や高度な技術が戦局に影響を与えるようになったことの現れとも考えられる。十文字槍が「武将の持料」 2 や「主に大将が使用」 12 されたとされるのは、その複雑な操作性や後述する製作コストの高さに加え、個人の武技を際立たせ、またその地位を象徴する武器としての性格があったためと推察される。初期のものは試行錯誤の段階であった可能性も否定できないが、戦国時代の動乱の中で実戦的な改良が加えられ、洗練されていったものと考えられる。
戦国時代において、槍は「万能武器」と称され、刀や弓矢、鉄砲など数ある武器の中でも最もポピュラーな存在であった 1 。その理由の一つとして、集団による接近戦を有利に進めるために槍が考案されたという背景がある 1 。例えば、織田信長は六間(約10.9m、ただし 1 の原文は6m)とも言われる長大な槍を足軽に装備させ、集団戦術に用いたとされるが、一般的な槍の長さは2mから3m程度であった 1 。
刀と比較した場合、槍は製作コストが比較的安価で、基本的な操作も習熟しやすかったため、合戦における主要武器として重宝された 1 。越前の戦国大名であった朝倉孝景が遺したとされる言葉に「高価な名刀を一本買うよりも、安価な槍を数多く揃えた方が合戦には有利である」といった趣旨のものがあり、当時の槍に対する実用的な評価を物語っている 1 。
このような一般的な槍の役割に対し、十文字槍は異なる性格を持っていた。前述の通り、突くだけでなく、払う、引く、ひねるといった多様な攻防が可能であり 6 、その複雑な操作性から「個人戦用であったろう」と推測されている 6 。戦国時代の槍部隊は、長大な槍を林立させて敵の突撃を防いだり(槍衾)、あるいは槍を振り下ろして「叩く」ように集団で攻撃したりしたことが知られている 13 。これは個々の兵士の高度な技術よりも、統率された集団としての動きを重視した戦術である。
一方、十文字槍は、宝蔵院流槍術に見られるように「切り落とす、巻き落とす、摺り込む」といった高度な個人技を駆使する武器であり 2 、その柄も一般的な長槍よりは短いものが用いられることが多かった 2 。これは、槍衾を形成するような集団戦術とは明らかに異なる運用思想を示している。
したがって、戦国時代の合戦においては、足軽が用いる長槍による集団戦術と、武将や熟練者が用いる十文字槍による個人技が、それぞれ異なる役割を担っていたと考えられる。十文字槍は、乱戦や武将同士の一騎討ち、あるいは特定の防御局面などで、その多様な機能が活かされたのであろう。
十文字槍に関して、「実用的なものは少ない」という評価が存在する 9 。しかしながら、奈良興福寺の宝蔵院流槍術のように、十文字槍を主要な武器として実戦的な技法を練り上げ、後世に伝えた流派も確かに存在する 2 。この一見矛盾する評価は、「実用性」という言葉の解釈によって理解できる。
「実用的なものは少ない」という記述は、いくつかの側面から解釈が可能である。第一に、十文字槍がその複雑な形状ゆえに製作コストが高く 12 、一般的な足軽に大量に配備するような武器ではなかったという点である。第二に、その多様な機能を使いこなすためには高度な熟練が必要であり、誰もが容易に扱える汎用性の高い武器ではなかったという点である。そして第三に、実戦本位のものだけでなく、武将の権威や格式を示すための儀礼用や装飾品としての性格を持つものが存在した可能性も考えられる。
宝蔵院流の存在は、特に第二の点に関連し、高度な訓練を積んだ熟練者にとっては、十文字槍が極めて実用的かつ強力な武器となり得たことを示している。しかし、そのような熟練者は限られていたであろう。
製作コストに関しては、穂先に鎌を付加し、複雑な形状に鍛え上げる手間を考えれば、単純な素槍に比べて高価であったことは想像に難くない。「主に大将が使用した」 12 、「武芸に自信があり、さらに身分の高い武士が所有していたものだろう」 6 といった記述は、この高コストと扱いの難しさを裏付けている。また、複雑な形状の刃物は研ぎや手入れにも手間がかかるため 6 、専門の従者を抱えるような高位の武士でなければ、その維持も困難であった可能性がある。
一般的な槍がコストパフォーマンスに優れ、広く普及したのに対し 1 、十文字槍は、その実用性が特定の条件下(高度な技量を持つ使用者、十分な経済力)において発揮される特殊な武器であり、同時に所有者の武勇や地位を示すステータスシンボルとしての側面も併せ持っていたと言えるだろう。
十文字槍は、基本的な十字形の穂先を持つもの以外にも、鎌の形状や取り付け方によって様々な変種が存在した。これらは、各流派の技術体系や、個々の武将の好みや戦術思想を反映したものと考えられる。
最も基本的な形態の十文字槍は、穂の両側に等しい長さの鎌が付くものであり、槍穂全体が明確な十字形を成す。この形状から「十文字槍」の名が付けられた 2 。宝蔵院流槍術で用いられる槍はこのタイプであり、突く、斬る、払う、巻き落とす、摺り込むといった多様な技法に対応する基盤となった 2 。等長の両鎌は、武器としてのバランスを保ちつつ、多方向への攻撃や防御を可能にする上で合理的であったと考えられる。
片鎌十文字槍は、左右に突き出た鎌(枝刃)の長さが異なるもの 12 、あるいは十文字槍の片側の鎌がない、つまり中央の穂先と片側のみに鎌が付いた形状の槍を指す場合もある 2 。左右非対称の形状は、特定の技法に特化させる意図があった可能性が考えられる。例えば、長い方の鎌で相手の武器を引っ掛けたり薙いだりしつつ、短い方の鎌や中央の穂先で追撃する、といった用法である。また、軽量化や製作コストの削減を意図したバリエーションであった可能性も否定できない。
千鳥十文字槍は、鳥が飛び立つような姿、あるいは槍身から両側に出た鎌が千鳥の群れが飛ぶような形をしていると形容される槍である 12 。この種の槍で特に名高いのは、戦国武将・真田信繁(幸村)が用いたとされる「大千鳥十文字槍」である 15 。「千鳥形」という名称は、鎌の形状が単なる直線的なものではなく、優美な曲線や特定の角度を持った、より装飾的で洗練されたデザインであったことを示唆している。この形状が、美的な要素だけでなく、特定の角度での引っ掛けやすさや相手の武器の捌きやすさといった実用的な機能と結びついていた可能性も考えられる。
掛け外し十文字槍は、穂先の鎌部分を取り外すことが可能な構造を持つものを指す 12 。この機能により、状況に応じて鎌を取り外して素槍に近い形で使用したり、あるいは運搬や手入れを容易にしたりする目的があったと考えられる。一方で、鎌の接合部の強度が、実戦における激しい衝撃に耐えうるものであったかという点は、製作技術上の課題であった可能性も推察される。
上下鎌十文字槍は、左右の鎌が水平ではなく、一方が上向き、他方が下向きに取り付けられているもの、あるいは両方の鎌が共に下向きについているものを指す 12 。特に、左右の鎌が互い違いに上下を向いているものは「卍鎌槍(まんじかまやり)」とも呼ばれた 12 。また、「手違上下十文字槍(てちがいじょうげじゅうもんじやり)」と呼ばれるものは、鎌の片方が長く下方を向き、もう一方が短く上方を向くという、非対称かつ複雑な形状をしていた 16 。鎌の向きや長さを変えることで、特定の角度からの攻撃や防御、あるいは相手の武器を制御する方法に独特の変化が生まれ、高度に専門化された技術体系の中で考案されたものと考えられる。資料によっては、鎌の向きによって「上向十文字」「下向十文字」「手違十文字」などの名称が用いられたことも記されている 17 。
上記以外にも、鎌の形状や角度、数などに細かな差異を持つ十文字槍が多数存在した可能性が示唆されている 17 。これらの名称や分類は、必ずしも厳密に統一されていたわけではなく、各流派や個々の武将、あるいは槍鍛冶の創意工夫によって、多様なバリエーションの十文字槍が生み出されたことを物語っている。
これらの多様な形態を以下の表にまとめる。
表1:十文字槍の主な種類と特徴の比較
種類名 |
穂先の形状(鎌の形状、向き、長さの対称性など) |
考えられる特徴や用途 |
代表的な使用例(武将や流派) |
標準的な十文字槍 |
穂の両側に等長の鎌が付き、十字形を成す。 |
バランスが良く、突く、斬る、払う、巻く、摺り込むなど多様な攻防に対応。 |
宝蔵院流槍術 2 |
片鎌十文字槍 |
左右の鎌の長さが異なる、または片側の鎌がない。 |
特定の技法に特化(例:長い鎌で引っ掛け、短い穂先で攻撃)、軽量化、コスト削減。 |
加藤清正(片鎌槍として有名) 2 |
千鳥十文字槍 |
鎌が千鳥の飛ぶ姿に似た、曲線や角度を持つ装飾的な形状。 |
美的要素に加え、特定の角度での引っ掛けやすさや捌きやすさなどの機能性も有した可能性。 |
真田信繁(大千鳥十文字槍) 15 |
掛け外し十文字槍 |
鎌部分が取り外し可能な構造。 |
状況に応じて素槍として使用可能、運搬や手入れの容易化。接合部の強度が課題か。 |
|
上下鎌十文字槍 |
左右の鎌が上下を向く(卍鎌槍)、または鎌が下向き。手違上下十文字槍は片鎌が長く下向き、他方が短く上向き。 |
特定の角度からの攻撃・防御、相手武器の制御に特化。高度な技術体系と結びつく。 |
片桐且元(手違い十文字として有名) 2 , 手違上下十文字槍 16 |
その他の特殊形状 |
上向十文字、下向十文字など、鎌の角度や形状に多様なバリエーション。 |
各流派や武将の工夫による専門化・細分化。 |
|
この表は、十文字槍の形態の多様性を示しており、それぞれの形状が特定の機能や思想と結びついていた可能性をうかがわせる。
十文字槍は、その特異な形状から多様な技法を生み出し、戦場において独特の役割を果たしたと考えられる。基本的な槍としての「突き」に加えて、左右に張り出した鎌を利用した「切り落とす」「巻き落とす」「摺り込む」といった複雑な攻撃が可能であった 2 。また、鎌は相手の足や腕を狙って斬りつけたり、穂先が深く刺さりすぎるのを防いで素早い次の動作に移ることを助けたりする機能も持っていた 3 。
宝蔵院流槍術においては、これらの特性を活かした具体的な技が体系化されている。例えば、穂先で突くだけでなく、槍全体を押したり引いたりすることで鎌による斬撃を加えたり、相手が突いてきた槍を鎌で巧みに引き落としたり、上へ押し上げて攻撃を無力化したりする防御技などが伝わっている 7 。ある古様の十文字槍では、穂の六面全てに刃が付けられていたとされ、これによりあらゆる角度からの攻撃とそれに対する防御が可能となり、特に個人戦においてその威力を発揮したと推測されている 6 。
集団戦において一般的な槍、特に長槍は、槍衾を形成して敵の突撃を阻止したり、一斉に振り下ろして「叩く」ように用いたりされた記録がある 13 。しかし、十文字槍がこのような集団戦でどのように用いられたかについての直接的な記述は乏しい。その複雑な形状と、習熟を要する多様な技法から考えると、長槍のような統一された一斉操作には不向きであった可能性が高い。
これらのことから、十文字槍の戦場での主な役割は、高度な技術を身につけた武将による個人戦闘や、小規模な部隊での特殊な戦闘場面であったと考えられる。集団戦において用いられるとすれば、槍衾の前衛で敵の攻撃を巧みに捌いて陣形を崩したり、あるいは大将の周囲を固める護衛が、その特殊な技能を活かして使用したりといった限定的なケースが想定されるが、足軽の主装備として広く配備されるような性質の武器ではなかったであろう。
鎌槍の目的の一つとして「相手の足を斬る」という記述があり 3 、これは歩兵だけでなく、騎乗した敵の馬の脚を狙うことも含意している可能性がある。馬の脚を攻撃して機動力を奪うことは、対騎馬戦術の重要な要素である。
一般的な槍も、その長さを活かして騎馬隊の突撃に対する防御壁として用いられたり、馬上の敵を突き落としたりするのに有効であった 18 。十文字槍の鎌は、こうした基本的な槍の機能に加え、馬上の敵を引きずり下ろすために引っ掛けたり、薙ぎ払うように用いて馬の脚を効果的に攻撃したりするのに役立った可能性がある。特に、穂先だけでなく鎌部分も鋭利な刃物であるため、斬撃の効果も期待できたであろう。
ただし、戦国時代の騎馬隊が実際に馬上でどのように戦ったかについては諸説あり 19 、また、十文字槍が対騎馬戦闘に特化してどのように運用されたか、その具体的な戦術や効果に関する詳細な史料は現在のところ限定的である。しかしながら、槍全般が持つ対騎馬能力と、十文字槍の鎌が持つ特有の形状と機能を考慮すれば、対騎馬戦闘においても一定の有効性を発揮したと推測することは可能である。
宝蔵院流槍術は、奈良興福寺の塔頭である宝蔵院の院主であった覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい、1521年 - 1607年)が創始した、十文字槍(鎌槍)を用いることを最大の特徴とする槍術流派である 2 。胤栄は薙刀術にも通じていたと伝えられている 20 。
胤栄は、剣術を新陰流の流祖である上泉伊勢守信綱から、槍術を香取神道流の兵法家であった大西木春見から学んだとされ、これらの武術的素養を基礎として、十文字槍を用いた独自の流儀を確立した 7 。胤栄自身が十文字槍を発明したという伝説も広く知られており、特に有名なのは、猿沢の池の水面に映る三日月を槍で突いた際に、その三日月の形から十文字槍の着想を得たという逸話である 21 。この発明伝説は、史実としての真偽はともかく、胤栄の創意工夫と、十文字槍が宝蔵院流の中核をなす象徴的な武器であったことを強調する物語として、流派のアイデンティティ形成に大きく寄与したと考えられる。
宝蔵院流槍術は、胤栄の直弟子や、その技を受け継いだ者たちによってさらに発展した。特に二代目とされる中村市右衛門(後の宝蔵院胤舜)は、胤栄から受け継いだ鎌槍の操法と術技を整理・体系化し、流儀としての教授内容や伝書の形式を整え、宝蔵院流槍術が全国に広まる礎を築いたとされている 7 。このように、剣術や既存の槍術、薙刀術といった複数の武術的背景から生まれた宝蔵院流槍術は、その技法が単なる突きの技術に留まらず、多様な攻防の理合を含む洗練された武術体系として発展していった。
宝蔵院流槍術で用いられる十文字槍は、一般的に穂長(中央の直刃部分)が六寸から七寸(約18cmから21cm)、鎌幅(左右の鎌の先端間の距離)が四寸から五寸(約12cmから15cm)、そして石突(柄の末端部分)も尖った形状で長さ四寸から五寸(約12cmから15cm)、全長は九尺から一丈(約2.7mから3m)程度であったとされる 7 。
その技法は、単に穂先で突くだけでなく、槍全体を押したり引いたりする動作によって鎌で相手を斬ったり、相手が突いてきた槍を鎌で引っ掛けて引き落としたり、逆に上へ押し上げて攻撃を逸らしたり、下から掬い上げるようにして相手の体勢を崩したりするなど、極めて多彩であった 2 。防御面においても、鎌を水平に構えることで相手の突きを効果的に防ぐことができた 7 。これらの複雑な操作を行うためには、柄を比較的短く持ち、取り回しを容易にすることが適していたとされている 7 。
宝蔵院流槍術の技法には、「摺込(すりこみ)」、「引落(ひきおとし)」、「巻落(まきおとし)」といった具体的な名称が付けられたものも伝わっている 23 。また、ある解説によれば、鎌の部分で相手の小手を斬ったり、十文字の部分で相手の槍を絡め落としてから穂先で突いたり、さらには石突で相手の急所(水月など)を打つといった技も存在した 24 。
宝蔵院流槍術の理合(根本的な武術思想)として特筆すべきは、「活人剣(かつにんけん)」の思想である 7 。これは、相手の仕掛けに応じて攻防一体の技を施して勝利するものの、必ずしも相手の命を奪うことを目的とせず、手足を攻めて戦闘能力を奪い、闘争心を失わせることを重視する考え方である。この思想は、泰平の世となった江戸時代において、武術が単なる殺傷術ではなく心身鍛錬の道として捉えられる中で、宝蔵院流槍術が広く受け入れられ、普及した一因となったと考えられている 7 。十文字槍の特異な形状と、それを用いた高度な技術体系は不可分であり、武器と技法が一体となって発展した武術の典型例と言える。
宝蔵院流槍術が十文字槍を専門的に扱う代表的な流派であることは論を俟たないが、他の槍術流派においても、鎌槍や十文字槍が部分的に取り入れられていた可能性が示唆されている。
例えば、新陰疋田流(疋田陰流とも)の槍術には、十文字槍や鍵槍(穂先にL字形の鉤が付いた槍)を用いる技法が一部含まれていたとされる記録がある 25 。ただし、これらの技法の具体的な内容や、どの程度重視されていたかについては、現存する資料からは詳細が不明な点が多い 27 。
また、江戸時代中期の明和年間(1764年~1772年)頃には、槍術の稽古や試合において、鍵槍や十文字槍を用いる流派(横手流儀とも称された)が、突き技だけでなく、面を打ったり、鍵で相手の武器を引っ掛けたり、十文字の鎌で相手の槍を挟み込んだり、あるいは相手を押し張ったりするなど、多彩な技術を駆使して激しい攻防を展開するようになったという記録がある 28 。これは、実戦から離れた平時の稽古や試合という状況下で、より多様な技術が追求され、十文字槍などの特殊な形状を持つ槍の技法が、さらに洗練され、あるいは複雑化していった可能性を示している。
これらのことから、十文字槍の有効性やその独特な技術体系が他の武術家にも認識され、各流派が自らの技術体系に何らかの形で組み込もうとした動きがあったのかもしれない。しかしながら、宝蔵院流ほど十文字槍を中核に据えて体系化した流派は他に見当たらず、その専門性は際立っている。他流派における鎌槍・十文字槍の受容や発展の実態については、さらなる史料の発見と研究が待たれるところである。
十文字槍は、その特異な形状と高度な技術を要する点から、多くの武将に用いられたわけではないが、一部の著名な武将が愛用したと伝えられており、彼らの武勇伝と共にその名が記憶されている。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将、真田信繁(一般には真田幸村の名で知られる)は、十文字槍の使い手として特に有名である。大坂冬の陣・夏の陣(1614年~1615年)において、朱色に塗られた十文字槍を振るい、寡兵ながら徳川家康の本陣に幾度も迫る猛攻を見せたと伝えられている 12 。この獅子奮迅の働きにより、信繁は敵味方双方から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛された 12 。
信繁が愛用したとされる槍は、「大千鳥十文字槍」という名で知られている 15 。これは、槍身から左右に突き出た鎌が、千鳥の群れが飛ぶ姿、あるいは鳥が翼を広げたような優美な形状をしていたとされる 15 。この「千鳥形」の鎌が具体的にどのような戦術的利点を持っていたかは必ずしも明らかではないが、装飾的な美しさだけでなく、特定の角度で相手の武器を引っ掛けたり、捌いたりする際に機能的な意味合いも持っていた可能性がある。
また、信繁が用いた槍の柄は、真田軍の軍装として有名な「赤備え」と同様に、鮮やかな朱色に塗られていたとされている 29 。朱槍(しゅやり)は、特に優れた武功を立てた武将のみが持つことを許されたとも言われ、信繁の武勇と名声を象徴するものであった。真田信繁の逸話は、十文字槍が単なる武器としてだけでなく、持ち主の武勇やカリスマ性を象徴する特別なアイテムとして機能していたことを強く示している。
可児才蔵(本名:吉長)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、槍の名手として知られる。「笹の才蔵」という異名を持ち、これは戦場で討ち取った敵兵の首が誰のものであるかを示すため、あるいは首盗人に奪われるのを防ぐために、目印として口に笹の葉を含ませておいたという逸話に由来する 30 。
才蔵は十文字槍を巧みに用い、その技を磨くために宝蔵院で槍術を修行したと伝えられている 30 。興味深い逸話として、宝蔵院での修行を終えて実戦に臨んだ際、かえって恐怖心が強くなってしまったが、再び宝蔵院を訪れてさらに修行を重ねた結果、ついに極意を会得し、敵が突き出す槍の軌道がはっきりと見えるようになったという話がある 30 。これは、武術の習得における理論と実践、そして精神的な成長の重要性を示唆している。
また、才蔵が宝蔵院流の技である「摺込(すりこみ)」、「引落(ひきおとし)」、「巻落(まきおとし)」などを部下たちの前で演武し、これらの技への対策を教えたという逸話も残っている 23 。これは、十文字槍の高度な技法が、単なる個人的な奥義として秘匿されるだけでなく、実戦部隊において共有され、教育されうるものであった可能性を示している。ただし、その技の高度さゆえに、生半可な理解ではかえって危険である(「かも」にされる)とも語っており、習得の難しさも同時に物語っている。関ヶ原の合戦(1600年)においても、福島正則隊の一員として奮戦し、多くの敵兵を討ち取ったと記録されている 31 。
脇坂安治は、安土桃山時代の武将であり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えた。賤ヶ岳の戦い(1583年)において、十文字槍を振るって目覚ましい功績を挙げ、加藤清正や福島正則らと共に「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、その勇名を轟かせた 14 。
この戦功と結びついた脇坂安治所用の十文字槍は、その後、脇坂家の家宝として代々伝えられた。現在では、安治を祭神とする龍野神社(兵庫県たつの市)の神宝として大切に守られている 14 。この事例は、十文字槍が戦場での功績を具体的に示す証として、また家の名誉を象徴する品として、後世に伝えられるほど高い価値を持つものと認識されていたことを示している。また、現存する作例として、その形状や製作技術を研究する上で貴重な手がかりとなる。
上記以外にも、戦国時代末期には、いくつかの武将が特筆すべき鎌槍や十文字槍を所持していたことが伝えられている。例えば、加藤清正が用いたとされる片鎌槍、片桐且元の手違い十文字(左右非対称の鎌を持つ十文字槍)、森長可の大十文字(大型の十文字槍)などが、当時の武将たちの「持料」として記録に残っている 2 。
これらの事例は、当時の武将たちが、必ずしも規格化された武器を用いるだけでなく、自身の戦闘スタイルや好み、あるいは特定の戦術思想に合わせて、鎌の形状、数、大きさなどを独自に工夫した特注の槍(鎌槍・十文字槍)を所持していたことを示唆している。武器が、単なる道具としてだけでなく、武将の個性や武威を反映するものであったことがうかがえる。
これらの著名な使い手と彼らに関連する情報を以下の表にまとめる。
表2:著名な十文字槍の使い手と関連情報
武将名 |
活躍した時代 |
使用したとされる十文字槍の名称や特徴(判明している範囲) |
関連する逸話や武功 |
主な情報源 |
真田信繁(幸村) |
戦国末期~江戸初期 |
大千鳥十文字槍(鎌が千鳥形)、朱塗りの柄 |
大坂の陣での徳川本陣突撃、「日本一の兵」と称される。 |
12 |
可児才蔵吉長 |
戦国~江戸初期 |
十文字槍(詳細は不明、宝蔵院流を修行) |
「笹の才蔵」の異名、関ヶ原での奮戦、宝蔵院での修行と極意会得の逸話。 |
30 |
脇坂安治 |
安土桃山時代 |
十文字槍(詳細は不明、龍野神社に現存) |
賤ヶ岳の戦いで活躍、「賤ヶ岳の七本槍」の一人。 |
14 |
加藤清正 |
安土桃山~江戸初期 |
片鎌槍 |
武将の持料として有名。 |
2 |
片桐且元 |
安土桃山~江戸初期 |
手違い十文字 |
武将の持料として有名。 |
2 |
森長可 |
安土桃山時代 |
大十文字 |
武将の持料として有名。 |
2 |
十文字槍の穂先の製作は、日本の伝統的な刀剣製作技術に準ずるものであったと考えられる。すなわち、比較的柔軟な心鉄(しんがね)を、硬く焼きの入る皮鉄(かわがね)で包み込むか、あるいはこれらを幾重にも折り重ねて鍛錬する「折り返し鍛錬」といった工程を経て、強靭さと鋭利さを両立させる工夫がなされたと推察される 1 。この折り返し鍛錬には、同一方向に折り曲げ続ける「一文字鍛え」や、縦横交互に折り曲げていく「十文字鍛え」といった方法があり、刀匠の選択によって用いられた 32 。鍛え上げられた槍穂は、最終的に焼き入れを施されることで刃としての硬度を得るが、この際、刃の部分の切れ味を保ちつつ、衝撃で欠けたり折れたりしにくいように、焼き幅を調整するなどの工夫が凝らされた 10 。日本刀に求められる「折れず、曲がらず、良く切れる」という特性は、槍の穂先においても同様に追求されたのである。
十文字槍が素槍と大きく異なるのは、穂の中央部分から左右に張り出す鎌(横刃)の存在である。この鎌部分を製作し、穂本体に強固に接合する技術は、単純な素槍の製作よりも格段に複雑で、高度な鍛冶技術を要したことは想像に難くない。具体的な鍛接(金属同士を熱して接合する技術)の方法に関する詳細な記述は乏しいものの、例えば甲冑製作において意図的に複雑な構造が採用される例があるように 33 、武器製作全般には様々な工夫と試行錯誤が存在した。鎌部分は戦闘中に大きな衝撃を受けるため、接合部の強度は極めて重要であり、十分な強度を確保しつつ、武器全体の重量バランスを損なわないような設計が求められたはずである。この製作の難易度と手間が、前述した十文字槍の製作コストの高さ 12 の大きな要因の一つであったと考えられる。
また、穂先と柄を接合する部分である「茎(なかご)」や、その根元部分の形状「螻蛄首(けらくび)」も、槍全体の強度や機能性に関わる重要な要素であった 12 。これらの部分の仕上げにも、槍鍛冶の技術が注がれたことであろう。
戦国時代における槍の主要な生産地や、特に十文字槍のような特殊な槍を専門とした鍛冶についての具体的な情報は、残念ながら限定的である。刀剣の生産は全国各地で行われており、例えば鎌倉時代初期には山城国(現在の京都府南部)、備前国(現在の岡山県南東部)、備中国(現在の岡山県西部)などが代表的な刀剣産地として知られていた 34 。また、鉄砲伝来で有名な種子島にも、古くから刀鍛冶が存在し、鉄砲製作以前から刀剣類を生産していた記録がある 35 。これらの地域で槍が製作されていなかったとは考えにくいが、十文字槍に特化した産地として名を残す場所は明確ではない。
数少ない手がかりとして、江戸時代前期に尾張国(現在の愛知県西部)で活躍した刀工、美濃守藤原政常(みのかみふじわらのまさつね)が製作した十文字槍が現存しており、その作例が知られている 5 。また、名古屋刀剣博物館の展示では「十文字槍 銘 長陽」という作例が言及されているが 36 、「長陽」が刀工名なのか、あるいは製作地を示す地名なのかは、現在のところ不明である。
十文字槍のような特殊な形状と高度な製作技術を要する武器は、汎用的な槍を量産する鍛冶とは別に、専門的な技術を持つ槍鍛冶や、刀身製作において特に優れた技量を持つ刀鍛冶によって手がけられた可能性が高い。しかし、彼らの具体的な名や工房、流派などが詳細に記録として残されている例は少ない。尾張のような武将文化が栄え、多様な武器の需要が存在した地域では、こうした特殊な槍の製作も行われていたと推測される。今後の史料研究や考古学的発見によって、新たな情報が明らかになることが期待される。
戦国時代から江戸時代にかけて製作された十文字槍の中には、幸運にも今日まで伝えられ、博物館や神社、個人蔵などとして現存するものが存在する。これらの実物は、十文字槍の具体的な形状、構造、材質、製作技術などを知る上で極めて貴重な一次史料となる。
いくつかの著名な博物館や資料館には、十文字槍が収蔵・展示されている。
これらの現存品は、その製作年代や伝来、保存状態によって史料的価値は異なるものの、十文字槍という武器の多様性や、時代による様式の変化、用途による構造の違いなどを具体的に考察する上で不可欠な存在である。特に、儀礼用として伝えられた上田市立博物館の槍と、実戦での使用が伝えられる脇坂安治や可児才蔵の槍を比較検討することは、十文字槍の多面的な性格を理解する上で有益であろう。
現存する十文字槍の中で、国宝、重要文化財、あるいは都道府県や市町村指定の文化財として保護されているものがどれだけあるかについては、網羅的な情報を得ることは容易ではない。文化遺産オンラインで「十文字槍」を検索すると、前述の東京国立博物館所蔵品などがヒットするが 38 、これらの個々の指定状況(指定の有無や等級)は、各文化財の詳細情報を個別に確認する必要がある。
東京国立博物館が所蔵する刀剣類の中には、国宝や重要文化財に指定されたものが多数含まれるが 40 、その中に十文字槍が具体的にどれだけ含まれ、どのような評価を受けているかについては、より専門的なデータベースや図録、研究論文を参照する必要がある。
文化財指定は、その美術的価値、歴史的価値、学術的価値などが総合的に評価された結果であり、指定された十文字槍は、その製作技術の高さや伝来の確かさ、歴史上の重要性などにおいて特に優れたものであると言える。これらの文化財を調査することは、十文字槍の評価を客観的に把握する上で重要である。
これらの現存する代表的な十文字槍について、判明している情報を以下の表に試みとしてまとめる。ただし、各項目の詳細情報が不足しているものも多い点に留意されたい。
表3:現存する代表的な十文字槍(情報が限定的なものも含む)
所蔵場所(推定含む) |
名称または銘(伝承含む) |
伝来(使用者など) |
製作年代(推定含む) |
寸法(判明範囲) |
形状的特徴(判明範囲) |
文化財指定等 |
主な情報源 |
東京国立博物館 |
十文字槍(管理番号 F-19797-286など複数) |
不明 |
不明 |
不明 |
十字形の鎌を持つ。 |
不明 |
37 |
名古屋刀剣博物館(展示予定) |
十文字槍 銘 長陽 |
不明 |
不明 |
不明 |
両端に枝刃(鎌)が付く。 |
不明 |
36 |
上田市立博物館 |
松平家行列用持ち槍(十文字槍) |
上田藩主松平家 |
江戸時代 |
不明 |
貂の皮の鞘が特徴。行列用。 |
不明 |
39 |
龍野神社(兵庫県) |
脇坂安治所用 十文字槍 |
脇坂安治 |
安土桃山時代 |
不明 |
賤ヶ岳の戦いで使用と伝わる。 |
神宝 |
14 |
才蔵寺(岐阜県) |
可児才蔵所用 十文字槍(伝) |
可児才蔵 |
戦国~江戸初期 |
不明 |
|
不明 |
30 |
(詳細不明の古例) |
(無銘の古様な十文字槍) |
不明 |
古い時代 |
穂長22cm、幅16cm、柄長約180cm 6 |
左右裏表対称、6面に刃が付く。柄に蔓巻きと金属輪で補強。木製の十字形の鞘。 |
不明 |
6 |
この表からもわかるように、現存する十文字槍に関する情報は断片的であることが多く、特に文化財指定や詳細な寸法、製作年代については、個々の作例に対する専門的な調査が不可欠である。
戦国時代に実戦武器として、また武将の象徴として用いられた十文字槍は、時代が下り、平和な世となるにつれてその役割を変容させながらも、現代に至るまで様々な形でその姿を留め、人々の記憶や創作物の中に影響を与え続けている。
日本の各地で行われる祭りや時代行列、武者行列などにおいて、過去の武士の姿を再現する一環として、様々な武器や武具が用いられることがある。槍もその代表的なものの一つであり、行列に威厳と華やかさを添える小道具として重要な役割を担っている。
例えば、京都の時代祭では、各時代の風俗を再現した行列が練り歩き、歴史上の人物に扮した参加者が当時の衣装や武具を身に着けて登場する 42 。また、出石(兵庫県豊岡市)の「大名行列槍振り」では、江戸時代の参勤交代の行列を模し、奴(やっこ)たちが様々な種類の槍(二本道具、白熊、黒鳥毛、小白鳥、大白鳥など)を巧みに操りながら独特の掛け声と共に練り歩く様子が見られる 43 。これらの行列で用いられる槍は、必ずしも全てが実戦的なものではなく、装飾性や象徴性が重視されることが多い。
十文字槍がこれらの一般的な祭りや行列で具体的にどのように再現されているかについては、詳細な記録が乏しい場合もあるが、前述した上田市立博物館所蔵の「松平家行列用持ち槍」には十文字槍が含まれており、これは江戸時代の大名行列で実際に使用された儀礼用の槍である 39 。この事例は、十文字槍が実戦から離れた後も、武家の権威や格式を象徴する道具として、行列などの儀礼的な場で用いられ続けた可能性を示唆している。
現代の祭りにおける武具の再現は、史実の忠実な再現を目指すものから、エンターテイメント性や視覚的な効果を優先してデフォルメが加えられるものまで様々である。十文字槍がこれらの場でどのように扱われているか(あるいは、あえて扱われていないか)を観察することは、その武器が現代においてどのようなイメージで捉えられているかを理解する上で興味深い視点を提供する。
十文字槍の特異な形状と、それを用いたとされる著名な武将たちの逸話は、後世の創作意欲を刺激し、歴史小説、漫画、ゲームといった様々なエンターテイメント作品において、魅力的なモチーフとして取り上げられてきた。
特に、真田信繁(幸村)は十文字槍(あるいは大千鳥十文字槍)の使い手として、多くの創作物で英雄的に描かれている 12 。例えば、人気ゲームシリーズ「戦国BASARA」に登場する真田幸村は、二本の十文字槍を駆使して戦うキャラクターとして設定されており、その勇猛果敢なイメージを強調する上で十文字槍が効果的に用いられている 45 。
漫画作品においても、十文字槍を操るキャラクターが登場する例が見られる。上条明峰氏の漫画『SAMURAI DEEPER KYO』には、「十文字實手槍・虎翼」や、妖刀村正の一つとされる槍「北落師門」といった、十文字槍に類する武器を操るキャラクターが登場する 47 。これらの武器は、キャラクターの戦闘スタイルや個性を際立たせるための重要な要素となっている。
また、可児才蔵の逸話として伝えられる「突けば槍 薙(な)げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも 外れあらまし」という流行り歌は 23 、十文字槍の多機能性を端的に表しており、このような言葉が創作のインスピレーション源となることもあったであろう。この歌は、十文字槍が単なる突き武器ではなく、薙刀や鎌のような多様な使い方ができる万能武器として認識されていたことを示している。
これらの創作物において、十文字槍はしばしば、持ち主の卓越した武技や英雄性、あるいは特殊な能力を象徴するアイテムとして描かれる傾向がある。その独特の形状は視覚的にも印象的であり、多様な攻撃方法は戦闘シーンに変化と迫力をもたらす。史実の武将や逸話をベースにしつつも、エンターテイメント性を高めるために、武器の性能や描写が誇張されたり、オリジナルの設定が大胆に加えられたりすることも一般的である。十文字槍の現代におけるイメージは、こうした創作物を通じて形成され、広く一般に拡散されている側面も無視できない。
ただし、創作物における描写は必ずしも史実を正確に反映しているわけではなく、例えばある資料で『るろうに剣心』のキャラクターが十文字槍を使うとされているものは 48 、実際にはその記述内容から判断すると、漫画『鬼滅の刃』に登場するキャラクター「哀絶(あいぜつ)」が用いる槍(技名は「激涙刺突(げきるいしとつ)」)に関する情報が誤って関連付けられた可能性が高い。このように、情報の正確性には注意が必要である。
本報告書では、日本の戦国時代における特異な長柄武器「十文字槍」について、その定義、構造、歴史的背景、種類、運用方法、製法、著名な使用者、現存品、そして文化的影響に至るまで、多角的な調査に基づき考察を加えてきた。
十文字槍は、戦国時代という実戦本位の社会背景の中で、主要武器であった槍から派生した特殊な形態であり、単なる刺突武器としての機能を超え、斬る、払う、絡め取る、防ぐといった多様な機能を有していた。この多機能性は、穂先に十字形に付加された鎌(枝刃)に由来するものであり、その形状こそが十文字槍を十文字槍たらしめる最大の特徴であった。
宝蔵院流槍術に代表されるように、十文字槍はその特異な形状を最大限に活かすための高度な技術体系と不可分に結びつき、個人の武技を極限まで発揮するための武器として発展を遂げた。その複雑な構造と操作の難しさ、そして製作コストの高さから、使用者層は武将や高度な技術を持つ武士に限定されたと考えられるが、真田信繁(幸村)や可児才蔵といった著名な武将に愛用されたという伝承は、十文字槍が単なる実用武器としてだけでなく、持ち主の武勇や個性を象징する存在としても語り継がれる要因となった。
現存する作例は決して多くはないものの、博物館や神社などに伝えられる十文字槍は、その具体的な形状や製作技術を今に伝える貴重な史料である。また、その特異な形状と機能、そして英雄たちの物語と結びついたイメージは、後世の武術や文化にも影響を与え、現代の歴史小説や漫画、ゲームといった創作物においても、依然として魅力的なモチーフとして取り上げられ続けている。
総じて、十文字槍は、戦国時代の武器の多様性と、当時の武士たちの技術的探求心、そして個人の武勇を尊ぶ精神性を色濃く反映した、日本武具史におけるユニークかつ重要な存在であると結論づけることができる。その研究は、戦国時代の戦闘技術や武士文化を理解する上で、今後も多くの示唆を与えてくれるであろう。