御手杵(おてぎね)は、日本の戦国時代から江戸時代にかけてその名を轟かせた槍であり、特に「日本号(にほんごう/ひのもとごう)」、「蜻蛉切(とんぼきり)」と並び称される「天下三名槍」の一つとして知られています( 1 )。その名は、特異な形状の鞘、あるいは初代所持者である結城晴朝にまつわる勇壮な逸話に由来すると伝えられています。天下三名槍という呼称は、単に武器としての性能だけでなく、それぞれの槍が持つ物語性や所有者の格といった文化的価値を付与する装置として機能していたと考えられます。御手杵がその一角を占めるという事実は、当時の武家社会において、この槍がいかに高く評価されていたかを物語っています。本報告書では、この御手杵について、その基本情報から歴史的背景、文化的意義に至るまで、現存する資料に基づき詳細に検討します。
本報告書は、戦国時代の槍「御手杵」に関する包括的な情報を整理し、その歴史的実像と文化的意義を明らかにすることを目的とします。具体的には、御手杵の製作背景、物理的特徴、伝来の経緯、焼失と復元の状況、そして現代における受容について、多角的に論じます。
御手杵の読みは「おてぎね」とされます( 1 )。その名称の由来については、主に二つの説が伝えられています。
第一の説は、鞘の形状が餅つきなどに用いる「手杵(てぎね)」に似ていることから名付けられたとするものです( 3 )。この手杵形の鞘は、御手杵を象徴する顕著な特徴の一つとして広く認識されています。
第二の説は、初代所持者である下総国の戦国大名・結城晴朝(ゆうきはるとも)にまつわる逸話に基づくものです。晴朝が戦場で討ち取った十数個の敵の首級(しゅきゅう)をこの槍に刺し連ねて帰還する途中、槍の中ほどに刺していた首が一つ転がり落ち、その結果、槍と残りの首級が織りなす全体の形状が手杵のように見えたため、後に晴朝が手杵形の鞘を作らせ、「御手杵」と名付けたとされています( 1 )。
これら二つの説は、必ずしも互いに排他的なものではなく、むしろ相互補完的に御手杵の特異なイメージを形成していると考えられます。つまり、結城晴朝の首級に関する逸話が手杵形の鞘を製作する直接的な動機となり、その特徴的な鞘の形状が広く名称の由来として認識されるに至った、あるいは元々手杵に類似した槍の運用方法や形状があり、それに逸話と鞘の形状が結びついた可能性も推察されます。いずれにせよ、物理的な特徴と物語的な要素が不可分に結びつくことで、「御手杵」という名はより印象深く、後世に語り継がれることになったのでしょう。
御手杵の製作年代は室町時代とされています( 1 )。より具体的には、後述する刀工・四代義助が活躍した天正年間(1573年~1593年)と推測されています( 6 )。
製作者は、刀工「義助(ぎすけ/よしすけ)」の作とされ( 4 )、駿河国嶋田(するがのくにしまだ、現在の静岡県島田市)を拠点とした刀工一派「嶋田派」の四代目義助であるというのが通説です( 4 )。一部の資料では「五条義助(ごじょうぎすけ)」とも記されていますが( 5 )、これは嶋田義助が五条とも称したためであり、同一人物または同一流派を指すものと考えられます( 11 )。この四代義助は槍作りの名手として広く知られており( 6 )、その技量が高く評価されていたことが、御手杵の品質と価値を裏付けています。製作者が槍の名手であったという事実は、御手杵が単なる儀仗用の槍としてではなく、実戦での使用も視野に入れた高度な技術をもって製作された可能性を示唆しています。また、嶋田という具体的な地名が製作地として特定されていることは、当時の刀剣生産体制や流通に関する手がかりとなり、地域史研究の観点からも重要です。
御手杵は、槍の中でも特に穂先が長大な「大身槍(おおみやり)」に分類されます( 1 )。
その穂の形状は、断面が正三角形であり( 1 )、これは刺突に特化した武器であることを明確に示しています( 12 )。さらに、穂の三つの面にはそれぞれ深く太い樋(ひ、刀身に彫られた溝)が掻かれているのも大きな特徴です( 1 )。この樋は、軽量化を図りつつ強度を維持し、刺突時の威力を高めるための工夫であったと考えられます。江戸時代の刀剣鑑定家である本阿弥光遜(ほんあみこうそん)は、この樋を見て「谷のように深い溝である」と評し、その卓越した製作技術を称賛したと伝えられています( 4 )。この専門家の評価は、御手杵が単なる大きさだけでなく、細部の仕上げにおいても極めて高度な技術が用いられていたことを示唆しています。
地鉄(じがね、刀身の鋼の表面)は小杢目肌(こもくめはだ)であるとされ( 1 )、一部の資料では柾目(まさめ)が交じる( 13 )、あるいは小杢目交じり( 12 )とも記述されています。刃文(はもん、焼き入れによって現れる刃の模様)については、直刃(すぐは)であるとする記述( 1 )のほか、直刃に小乱れ(こみだれ)が交じる( 13 )、あるいは小乱れに砂流し(すながし、刃中に現れる模様の一種)が入る( 12 )といった記録も見られます。これらの地鉄や刃文に関する記述の差異は、実見した時期や参照した資料の違い、あるいは実物の複雑さや伝聞の過程での変化による可能性があり、総合的な検討が必要です。総じて、御手杵の穂は、実用性と美的要素を兼ね備えた設計であった可能性が高いと言えます。
御手杵の寸法については、いくつかの記録が残されています。
全長約3.8メートル、穂長約1.4メートルという寸法は、一般的な槍と比較して際立って長大であり、まさに「大身槍」と呼ばれる所以です。これほど巨大な槍を実戦で自在に操るには、相当な技量と膂力(りょりょく、腕力)が必要であったと考えられ、儀仗的な意味合いも強かった可能性があります。また、穂長に対して茎長が比較的長いことも、長大な穂を安定して支えるための構造的特徴と言えるでしょう。その巨大さは、御手杵の最も顕著な物理的特徴であり、その用途や象徴性にも大きな影響を与えたと考えられます。
御手杵の重量に関する記録は、その尋常ならざる大きさを裏付けています。
本体だけで22.5キログラムという重量は、人間が武器として振り回すには極めて重く、実戦での継続的な使用は困難であった可能性が高いです。鞘を含めるとさらにその重量は増すことから、特に参勤交代などで馬印として掲げられる際には、その威容を示す一方で、運搬には多大な労力を要したと推測されます。一部で語られる「不戦の槍」という異名( 16 )も、この桁外れの重量とそれに伴う運用上の困難さから来ている可能性が考えられます。この並外れた重量は、御手杵の儀仗的性格を強め、その伝説性を補強する一因となったと言えるでしょう。
御手杵の材質については、以下の情報が確認されています。
天下三名槍とは、日本の歴史上特に名高い三本の槍、すなわち「日本号」、「蜻蛉切」、そして「御手杵」を指します。これらの槍は、その姿が美しく、切れ味も優れ、かつ持ち主となった武将も超一流であったとされています( 1 )。
江戸時代には、特に「西の日本号、東の御手杵」として、この二槍が並び称されていました( 1 )。この対比は、単に地理的な配置を示すだけでなく、それぞれの槍が持つ個性や文化的背景、そしてそれらを所持した大名家の勢力圏や格などを反映していた可能性があります。後に、徳川四天王の一人である本多忠勝の武勇で名高い「蜻蛉切」がこれに加わり、天下三名槍と呼ばれるようになったとされています( 1 )。蜻蛉切が後から加わった経緯は、武器の物理的な性能だけでなく、それにまつわる武勇伝の魅力や物語性が、武器の評価に大きな影響を与えることを示しています。天下三名槍の選定には、物理的な性能、物語性、そして文化的評価が大きく関与していたと言えるでしょう。
御手杵を他の二槍と比較することで、その独自性と共通性がより明確になります。
御手杵は三名槍の中で唯一現存しないという点が、その伝説性を一層高めていると言えます。また、穂の大きさが際立っており、実用性よりも威容を重視した側面があった可能性も示唆されます。日本号の「呑み取り」、蜻蛉切の「切れ味」といった逸話に対し、御手杵は「鞘の形状」と結城晴朝の「首級」という、視覚的かつ行為的な逸話が中心であり、その点でも他の二槍とは異なる個性を有しています。
提案テーブル1: 天下三名槍比較表
項目 |
御手杵 |
日本号 |
蜻蛉切 |
名称の読み |
おてぎね |
にほんごう/ひのもとごう |
とんぼきり |
製作者 |
島田(五条)義助(四代) |
不明(大和国金房派説あり) |
藤原正真(三河文珠派、村正一派) |
製作年代 |
室町時代(天正年間) |
室町時代 |
室町時代(伊勢国村正一派) |
全長 |
約333.3cm (一丈一尺) |
約321.5cm (十尺六分) |
約312.1cm (一丈三寸) |
穂長 |
約139cm (四尺六寸) |
約79cm (二尺六寸一分五厘) |
約43.7cm (一尺四寸) |
穂の形状 |
正三角形、三面に太い樋 |
平三角形、樋に倶利伽羅龍の浮彫り |
平三角形(大笹穂槍)、蓮華・梵字の彫物 |
主な所持者 |
結城晴朝、結城秀康、松平大和守家 |
皇室、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、福島正則、母里友信(黒田家) |
本多忠勝 |
主な逸話 |
手杵形の鞘、首級を刺した逸話 |
「呑み取りの槍」、黒田節 |
穂先に触れた蜻蛉が切れた逸話、本多忠勝の武勇伝 |
現存状況 |
焼失(東京大空襲) |
現存 |
現存 |
現在の所蔵 |
なし(写し・復元品多数) |
福岡市博物館 |
個人蔵(佐野美術館寄託) |
この表は、三名槍の主要な特徴を一覧で比較可能にすることで、御手杵の独自性(最大の穂、焼失という悲劇)と共通性(名将による所持、逸話の存在)を明確に示しています。読者は各槍の個性を容易に把握でき、御手杵の位置づけをより深く理解することができます。例えば、御手杵の「最大級の威容」( 7 )や「穂がいちばん大きく、とにかく格好良い」( 1 )といった評価の根拠を具体的に示すことができます。
御手杵は、下総国(現在の茨城県結城市周辺)の大名であった結城晴朝が、室町時代末期から安土桃山時代にかけて活躍した鍛冶師・五条義助(島田義助)に作らせたとされています( 1 )。
その後、結城晴朝の養子となった結城秀康(徳川家康の次男)に受け継がれました( 1 )。この継承により、御手杵は結城家から、後に松平姓を名乗る秀康の子孫、すなわち松平大和守家(まつだいらやまとのかみけ)へと伝わることになります。
結城秀康の五男である松平直基(まつだいらなおもと)が結城氏の名跡を継いだため、御手杵は松平大和守家の家宝として代々受け継がれていきました( 4 )。松平家ではこの槍を非常に大切にし、刀身にわずかでも錆(さび)が出るとすぐに研師(とぎし)に研がせ、手入れを担当した研師には十人扶持(じゅうにんぶち、武士の俸禄の一種)の加増をしたという逸話も残っており、その大切にされ具合を如実に物語っています( 6 )。
松平大和守家は、江戸時代を通じて「引越し大名」の異名を持つほど頻繁に転封(てんぽう、領地替え)を繰り返したことで知られています(10)。主な移封先として、越前勝山、越前大野、出羽山形、播磨姫路、豊後府内、石見浜田、下総古河、武蔵川越、上野前橋などが挙げられます。家宝である御手杵も、これらの移封に伴って移動したと考えられます。
例えば、松平大和守家が播磨姫路藩主であった時期(松平直基が姫路藩主であった時期を含む、26参照)の記録として、姫路城の御城印に御手杵の槍が描かれているものが存在します(27)。これは、姫路時代にも御手杵が同家の象徴として認識されていた可能性を示唆しています。
また、武蔵川越藩主であった時期も長く(10)、川越城本丸御殿には現在、御手杵の槍鞘のレプリカが展示されています(20)。これは、川越藩松平大和守家記録(28)など、同家と川越の深いつながりを背景としています。
幕末には上野前橋藩に戻り(10)、前橋東照宮には松平大和守家ゆかりの品として御手杵のレプリカが奉納されています(15)。
江戸時代末期には、第11代将軍徳川家斉の二十四男で松平大和守家の養嗣子となった松平斉省(まつだいらなりさだ)が、御手杵を所有しました。斉省は、それまでの黒熊毛の鞘と同じ形の杵形(きねがた)で、白熊毛(はぐま/しろくまげ)の鞘を新たに作らせ、江戸城登城の際の自身専用の馬印(うまじるし)としました( 4 )。この白熊毛の鞘の製作は、御手杵とその鞘が松平家の権威を象徴する重要なアイテムであったことを示すと同時に、時代ごとの当主が御手杵に新たな意味や価値を付与しようとした試みとも解釈できます。
これらの伝来の経緯は、福井県文書館が所蔵する古文書『結城御代記』( 24 )にも記されており、結城晴朝から秀康、そして松平直基へと御手杵が継承された経緯や、松平斉省が受け継いだことなどが確認できます。
松平大和守家による手厚い管理と、数々の移封を経てもなお家宝として受け継がれた事実は、御手杵が単なる武器ではなく、家の歴史と権威を体現する象徴であったことを強く示しています。御手杵の伝来史は、松平大和守家の歴史と分かちがたく結びついており、その価値が時代を超えて認識されていたことを示しています。
御手杵を語る上で欠かせないのが、その特徴的な鞘(さや)です。
鞘の形状は、御手杵の名の由来ともなった「手杵形」です( 1 )。これは、餅などをつく際に用いる、中央がくびれた太い棒状の道具である手杵に似た形をしています。
この手杵形の鞘は、黒熊の毛皮で覆われていました( 1 )。その大きさも尋常ではなく、高さは約5尺(約150センチメートル)、最大直径は1尺5寸(約45センチメートル)と巨大でした( 4 )。
鞘自体の重量も相当なもので、6貫目(約22.5キログラム)ありましたが、雨天時には水を吸ってさらに重くなり、10貫目(約37.5キログラム)を超えたと伝えられています( 4 )。この記録は、その運用上の困難さを示すと同時に、当時の素材の特性を伝えています。
この巨大で特異な形状の鞘は、松平大和守家の参勤交代の際に、藩主の所在を示す馬印/馬標(うまじるし)として用いられました( 1 )。その視覚的なインパクトは絶大であり、馬印としての役割を効果的に果たしたと考えられます。前述の通り、江戸時代末期には、松平斉省が同様の杵形で白熊毛の鞘をあつらえ、江戸城登城の際の自分専用の馬印としたことも、この鞘が持つ象徴的な意味合いの大きさを示しています( 4 )。
御手杵の鞘は、本体である槍と同等、あるいはそれ以上の注目を集めていた可能性があり、単なる武器の一部というよりは、松平大和守家の権威の象徴としての独立した意味合いを強く持っていたと言えます。鞘は御手杵のアイデンティティを形成する上で極めて重要な要素であり、武器としての機能以上に象徴的な意味合いが強かったと考えられます。
天下三名槍の一つとしてその威容を誇った御手杵ですが、そのオリジナルは現存していません。御手杵は、東京大久保にあった松平邸の所蔵庫に大切に保管されていましたが、1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲により焼失しました( 1 )。記録によれば、焼夷弾が所蔵庫を直撃し、さらに悲劇的なことに、所蔵庫内に湿気対策として敷き詰められていた木炭がこの焼夷弾によって燃え上がり、庫内は溶鉱炉のような超高温状態になったと推測されています。その結果、御手杵は溶解し、ただの鉄塊と化してしまい、もはや復元は不可能な状態となったのです( 4 )。
戦災による文化財の焼失という悲劇の具体例として、御手杵のケースは極めて象徴的です。特に、文化財保護のために施された保管方法(木炭の使用)が、結果として焼失を決定的なものにしてしまったという皮肉な事実は、文化財保護の難しさと、予測不可能な事態への対応の限界を示唆しています。御手杵の焼失は、その物理的な存在を歴史から奪っただけでなく、貴重な一次資料の完全な喪失を意味するものでした。
オリジナルの御手杵は失われましたが、その焼失を惜しむ多くの人々の声や、近年の歴史・刀剣への関心の高まりを背景に、複数の写し(うつし)や復元品が製作されています( 6 )。これらは、失われた名槍の姿を現代に伝えようとする熱意の結晶と言えるでしょう。
これらの写し・復元品は、それぞれ異なる背景や目的、そして製作者の解釈に基づいており、焼失した名槍の記憶を多角的に現代に伝えています。
提案テーブル2: 御手杵の主な写し・復元品一覧
所蔵・展示場所 |
種類 |
製作者/寄贈者/主体 |
製作/寄贈/公開年 |
主な根拠資料/特徴 |
関連資料 |
結城蔵美館(茨城県結城市) |
レプリカ(模造) |
島田市有志(塚本昭一氏ら) |
2002年復元、2003年寄贈 |
結城氏初代朝光没後750年祭記念。鍔付き。黒熊毛鞘(当初牛毛、後に黒熊毛で再製作) |
2 |
前橋東照宮(群馬県前橋市) |
レプリカ(模造) |
松平大和守家17代当主 松平直泰氏 |
2016年奉納(2018年私費で復元・奉納との記述も) |
松平家伝来の写真・古文書を元に本科とほぼ同寸で復元 |
15 |
箭弓稲荷神社(埼玉県東松山市) |
レプリカ(模造) |
地元名士(比企総合研究センター高島氏ら) |
2015年奉納 |
全長3.3m。「不戦のシンボル」。松山陣屋との縁。 |
10 |
川越城本丸御殿(埼玉県川越市) |
槍鞘レプリカ |
川越藩火縄銃鉄砲隊保存会 |
不明(常設展示) |
黒熊毛鞘。松平大和守侯行列図巻等を元に本来の製作法で復元。白熊毛鞘も復元。 |
15 |
名古屋刀剣ワールド(愛知県) |
真剣(写し) |
刀匠 上林恒平氏 |
2020年着手、2024年頃完成 |
全長221cm、刃長142.3cm、重さ3.4kg。銘「長谷堂住恒平作」「令和二二年八月吉日」。天下三名槍写し制作プロジェクト。玉鋼約25kg使用。 |
4 |
個人蔵(群馬県) |
真剣(写し) |
刀匠 上林恒平氏、高橋恒厳氏 |
2018年完成 |
大正期・昭和初期の書籍写真画像を元に考証。槍身約140.5cm。 |
15 |
結城市ふるさと納税返礼品 |
1/10スケール |
金工作家 |
2024年受付開始 |
玉鋼、純銅、赤銅、銀など使用。彫金仕様。結城紬・桐箱付き。 |
17 |
この表は、焼失した御手杵が、多様な主体によって様々な形で現代に蘇っている状況を一覧化することで、その人気の高さと文化的影響力を具体的に示しています。各復元品の製作背景や特徴を比較することで、御手杵という存在が多角的に解釈され、継承されている様子が明らかになります。
オリジナルの御手杵が焼失したため、これらの写しや復元品の製作にあたっては、残された断片的な史料を繋ぎ合わせ、時には推測を交えながら作業が行われたことがうかがえます。主な根拠とされた史料には、以下のようなものがあります。
これらの史料は、特に槍の全体像や細部の形状、鞘のデザインなどを復元する上で重要な手がかりとなったと考えられます。しかし、情報が断片的であるため、史料の種類や解釈によって、復元品ごとに細部の表現が異なる可能性も考慮されるべきです。復元作業は、失われた文化財を現代に蘇らせるための学術的かつ創造的な試みであり、残された情報を最大限に活用しようとする関係者の努力がうかがえます。
御手杵は、その巨大な姿、特異な鞘の形状、そして松平大和守家という名門譜代大名に代々受け継がれたという事実は、単なる武器として以上の意味を持っていたことを示しています。すなわち、武家の権威や格式を象徴する道具としての役割です( 4 )。特に、江戸時代における参勤交代の際に馬印として使用されたことは、その象徴性を際立たせるものでした( 1 )。大名行列における馬印は、藩主の存在と威光を示す重要な装置であり、御手杵の特異な外観は、その役割を効果的に果たしたと考えられます。
一部の復元品、特に埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社に奉納されたものに関連して、「不戦のシンボル」という異名が言及されています(16)。この解釈は、御手杵がその途方もない大きさと重量から、実際の戦闘で頻繁に用いられることはなく、主に儀仗用や馬印として掲げられたという事実に由来すると考えられます(16)。
「不戦の槍」という言葉は、現代的な平和希求の価値観を投影したものと捉えることもできます。しかし同時に、近世武家社会における「見せる武力」の思想、すなわち武威を示すこと自体が戦を抑止するという考え方を反映している可能性も否定できません。つまり、その威圧的な存在感によって、争いを未然に防ぐという役割を期待されたのかもしれません。「不戦の槍」という言葉は多義的であり、時代背景や解釈する立場によってその意味合いが変化しうるものと言えるでしょう。
御手杵は、現代の多様なメディアを通じて新たな命を吹き込まれ、広範な層に受容されています。
これらの現代のメディアにおける展開は、歴史的武具である御手杵に新たなキャラクター性を付与し、その魅力を再発見させる力を持っています。これは、文化財の新しい形での継承と活用の一例と言えるでしょう。ただし、キャラクターとしてのイメージが先行し、史実との間に混同が生じる可能性については留意が必要です。
御手杵ゆかりの地では、その物語性や知名度を活かした地域振興策が展開されています。これは、歴史的文化財が現代社会において観光資源や地域アイデンティティの核となり得ることを示しています。
これらの事例は、御手杵がその物語と共に地域社会に新たな活力を与える可能性を秘めていることを示しています。
御手杵は、その比類なき巨大な姿、黒熊毛で覆われた特異な手杵形の鞘、そして結城家から松平大和守家という名だたる武将家に代々受け継がれたという由緒ある伝来により、戦国時代から江戸時代にかけて武家の権威を象徴する名槍としてその名を知られました。1945年の東京大空襲による焼失は、日本の文化財にとって大きな損失でしたが、幸いにも残された古写真、古文書、そして実見した人々の証言といった断片的な史料と、名槍の記憶を後世に伝えようとする人々の熱意によって、数多くの写しや復元品が製作されました。これにより、御手杵の威容とその物語は、形を変えながらも現代に語り継がれています。
特に近年では、オンラインゲーム『刀剣乱舞ONLINE』やそれを原作とするミュージカルなどの現代文化における受容が、御手杵に新たなファン層をもたらし、その知名度を飛躍的に高めました。これに呼応するように、ゆかりの地である結城市、前橋市、東松山市などでは、御手杵を地域の歴史的シンボル、あるいは観光資源として活用する動きが活発化し、地域振興の核としての役割も担いつつあります。
このように、御手杵の文化的意義は、時代と共に変容しつつも、失われることなく力強く継承されています。御手杵に関する調査は、単一の武具の研究に留まらず、日本の歴史、武家文化、そして人々の記憶や物語がいかにして形作られ、時代を超えて受け継がれていくのかを考察する上で、極めて示唆に富む事例と言えるでしょう。
御手杵の物語は、物理的な「モノ」としての槍が失われた後も、その「コト」(すなわち、槍にまつわる物語、人々の記憶、文化的な意味)がいかに強く残り、さらには再生産され続けるかを示す好例です。焼失という悲劇を経験しながらも、多様な形で現代に蘇り、多くの人々に影響を与え続けているという事実は、文化財の本質的な価値が、必ずしも物質的な存在のみに依存するのではないことを我々に教えてくれます。御手杵は、物質文化と精神文化の相互作用、そして時代を超えた文化のダイナミズムを体現する存在として、今後も語り継がれていくことでしょう。