日本の戦国時代は、数多の武将が群雄割拠し、その武勇を競った時代である。その中にあって、徳川家康に仕えた本多忠勝は、生涯五十七度の合戦に臨みながらかすり傷一つ負わなかったと伝えられる稀代の勇将であった 1 。忠勝の武勲と共に語り継がれるのが、彼が愛用した一筋の槍、「蜻蛉切(とんぼきり)」である。この槍は、その驚異的な切れ味と、主と共に戦場を駆け抜けた数々の逸話により、単なる武器としての存在を超え、武勇の象徴として、また戦国という時代を映し出す文化財として、今日までその名を轟かせている。
蜻蛉切は、「日本号(ひのもとごう)」、「御手杵(おてぎね)」と並び、「天下三名槍」の一つに数えられる 3 。これらの名槍は、それぞれが独自の由緒と特徴を持ち、日本の武器史において特異な光彩を放っている。本報告書は、この蜻蛉切に焦点を当て、その名称の由来から物理的特徴、作者、所有者である本多忠勝との関わり、歴史的評価、現存状況、そして現代における文化的影響に至るまで、多岐にわたる側面を詳細に調査し、その全貌を明らかにすることを目的とする。名将とその愛槍とは、しばしば不可分のものとして語られ、互いの名声を高め合う関係にあるが、蜻蛉切と本多忠勝の結びつきは、その典型と言えるであろう。蜻蛉切の性能や逸話は、忠勝の武勲を裏付けるものとして、あるいは忠勝の武勇そのものを体現するものとして、人々の記憶に強く刻まれているのである。
蜻蛉切という特異な名称は、その驚異的な切れ味を端的に示す逸話に由来する。最も広く知られているのは、戦場で槍を立てていた際、偶然その穂先に蜻蛉(とんぼ)が止まったところ、蜻蛉は自らの重みで真っ二つに切れてしまった、あるいは穂先に触れただけで両断されたというものである 1 。この逸話は、蜻蛉切の刃がいかに鋭利であったかを鮮烈に物語っており、その名を不朽のものとした。
この名称の由来については、いくつかの史料に記述が見られる。例えば、江戸時代の諸藩の系譜や事績を記した『藩翰譜』には、「槍の身長きに、柄ふとく、二丈計なるに、青貝をすつたり、蜻蛉の飛来て、忽ちに触れて切れたれば、かくぞ名付しなる」とある 5 。また、本多忠勝の伝記である『本多平八郎忠勝傳』には、「忠勝は槍術に秀で、一度槍を振れば、乱舞する蜻蛉を切り落とす、との定評があったので、所持する槍を『蜻蛉切り』と名付けられた」との記述も存在する 5 。前者は槍を静止させていた際の出来事、後者は忠勝の槍術の技量に由来する説であり、細部には差異が見られるものの、いずれも蜻蛉切の並外れた切れ味を強調している点では共通している。
蜻蛉という小さく敏捷な虫が、槍にわずかに触れただけで切断されるという物語は、尋常ならざる切れ味を暗示するものであり、武器の性能を誇張して伝える武勇譚の一つの型とも考えられる。しかしながら、蜻蛉切の作者が、切れ味で名高い伊勢国桑名の刀工村正の一派である藤原正真であること 1 を考慮すれば、この逸話は単なる誇張ではなく、実際の鋭利さを基盤としたものである可能性も否定できない。優れた武具には、その性能を象徴する印象的な逸話が付随することが多く、これは武具の価値を高め、所有者の威光を示す役割も果たしたと考えられる。逸話が広まることで蜻蛉切の名声は高まり、それが本多忠勝の武勇と結びつくことで、さらに伝説的な存在へと昇華されたのであろう。このような逸話は、武器の物理的な性能を超えた「物語性」を付与し、文化的な記憶として後世に継承される上で重要な役割を担っている。
蜻蛉切は、その名高い切れ味だけでなく、実用性と美観を兼ね備えた槍であり、各部に戦国時代の武器としての機能性と、当時の工芸技術の粋が見られる。
蜻蛉切の穂先は、笹の葉に似た優美な形状を持つ「大笹穂槍(おおささほやり)」である 1 。その笹のバランスは何とも素晴らしく、曲線が美しいと評されている 6 。具体的な寸法としては、刃長(穂長)は一尺四寸(約43.7cm) 1 、元幅(茎近くの最も広い部分の幅)は一寸二分(約3.7cm)、重ね(刀身の厚さ)は三分半(約1cm)と記録されている 5 。材質については、日本刀と同様に「玉鋼(たまはがね)」が用いられたと考えられ、これは「たたら製鉄」によって作られる良質な鋼であり、日本刀製作には不可欠なものである 7 。
穂の刀身には樋(ひ)と呼ばれる溝が彫られ、そこには神仏の加護を願う梵字(ぼんじ)と、邪気や煩悩を打ち払うとされる密教法具である三鈷剣(さんこけん)が精緻に彫刻されている 1 。これらの彫物は、単なる装飾に留まらず、所有者である本多忠勝の信仰心や、戦場での武運長久を祈念する意味合いがあったと推察される。具体的には、鋒/切先側から順に地蔵菩薩を表す「カ」、阿弥陀如来を表す「キリーク」、聖観音菩薩を表す「サ」、そして三鈷剣を挟んで最下部に不動明王を表す長梵字「カンマン」の四つの梵字が確認されている 4 。
茎は、槍の穂先を柄に固定するための部分であり、蜻蛉切の場合、その長さは一尺八寸(約55.6cm)とされている 5 。茎には、柄から抜け落ちるのを防ぐために鑢(やすり)で細かい凹凸を施した「鑢目(やすりめ)」があり、柄を固定するための目釘を通す「目釘孔(めくぎあな)」が開けられている 8 。茎は刀工の個性が表れる部分の一つであり 8 、材質は比較的柔らかい「心鉄(しんがね)」で作られることが多い 9 。
蜻蛉切の柄は、当初その長さが二丈(約6m)にも及んだと伝えられている 1。これは当時の一般的な槍の柄(一丈半、約4.5m程度 11)と比較しても長大であり、これを戦場で自在に操るには相当な腕力と技量が要求されたであろう。この長大な柄は、本多忠勝の武勇を物理的な側面からも裏付けている。しかし、忠勝の晩年には、自身の体力の衰えに合わせてか、柄の長さを三尺(約90cm)ほど切り詰めたという逸話も残されている 1。この行為は、忠勝が名槍の伝説に固執するのではなく、実用性を重んじ、自身の身体能力の変化に合わせて武器を調整する合理的な武将であったことを示している。
柄の材質は黒漆で塗られ 5、青貝を用いた螺鈿(らでん)細工という美しい装飾が施されていたと伝えられるが、残念ながらこの華麗な装飾が施されたオリジナルの柄は現存していない 1。
穂先部分の重量は498グラムと記録されている 5 。長大な柄と合わせると相当な総重量になったと推測されるが、忠勝はこれを巧みに扱ったのである。
以下に蜻蛉切の基本情報をまとめた表を示す。
表1:蜻蛉切の基本情報
項目 |
内容 |
典拠例 |
号 |
蜻蛉切(とんぼきり) |
1 |
作者 |
藤原正真(ふじわらのまさざね) |
1 |
時代 |
室町時代後期 |
1 |
種類 |
槍、大笹穂槍 |
1 |
刃長(穂長) |
一尺四寸(約43.7cm) |
1 |
茎長 |
一尺八寸(約55.6cm) |
5 |
元幅 |
一寸二分(約3.7cm) |
5 |
重ね |
三分半(約1cm) |
5 |
重量(穂先) |
498グラム |
5 |
彫物 |
梵字、三鈷剣 |
1 |
柄の当初長 |
二丈(約6m) |
1 |
現所蔵 |
個人蔵(静岡県三島市 佐野美術館へ寄託) |
1 |
この表は、蜻蛉切に関する主要な物理的データや属性情報を一覧化したものであり、報告書全体の情報を補完し、参照点としての役割を果たす。
蜻蛉切という名槍を生み出したのは、三河文珠派(みかわもんじゅは)の刀工、藤原正真(ふじわらのまさざね)である 3 。藤原正真は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)を拠点とした村正(むらまさ)の一派に属し、「三河文殊」とまで称された名工であったと伝えられている 1 。
村正一派の刀剣は、その卓越した切れ味によって戦国武将たちの間で実用性を高く評価されていた 1 。藤原正真がこの村正の流れを汲む刀工であるという事実は、蜻蛉切の切れ味の伝説に強い信憑性を与えるものである。本多忠勝のような、数多の戦場を経験し、武器の実用性を見抜く眼を持った武将が、自身の主力武器として藤原正真の槍を選んだという事実は、正真の作が当時の武将たちから極めて高い評価を得ていたことを示唆している。
三河文珠派の成り立ちについては、大和国(現在の奈良県)の手掻派(てがいは)の刀工が三河国田原(現在の愛知県田原市)に移り住み、当時の領主であった戸田氏の庇護を受けて形成されたという説もある 15 。また、正真は伊勢桑名の村正の弟子であったとする史料も存在するが、正確な関係性は明らかになっていないものの、作品の裏表の刃文が同じであるなど、技術的な交流があった可能性が推測されている 15 。
しばしば「妖刀」として語られる村正であるが、その伝説は徳川家にとって不吉な出来事が続いたことなどから江戸時代以降に形成されたものであり 15 、戦国時代においては、その実用的な切れ味こそが最も重視されていた。蜻蛉切の存在は、村正一派の作刀技術が、純粋に武器として、また実戦における道具として高く評価されていたことを示す好例と言えるだろう。有名な武具の作者は、しばしば高名な流派に属し、その流派の特性を作品に色濃く反映させる。蜻蛉切における「切れ味」という特性は、まさに村正および三河文珠派の伝統と技術の賜物なのである。藤原正真の卓越した鍛刀技術と、村正から受け継がれる切れ味へのあくなき探求心が、蜻蛉の逸話を生むほどの類稀なる名槍「蜻蛉切」を誕生させたと言えよう。
蜻蛉切の名は、その所有者である本多平八郎忠勝の武勇と共に、戦国の世に鳴り響いた。忠勝は徳川家康に生涯を捧げた重臣であり、その戦歴はまさに伝説的である。五十七度(資料により回数に差異が見られる 1 )もの合戦に参加しながら、一度として傷を負わなかったと伝えられ、「徳川家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と敵将からも称賛された 12 。
忠勝の輝かしい戦歴において、蜻蛉切は常にその手にあった。1570年(元亀元年)の姉川の戦い 2 、1572年(元亀3年)の一言坂の戦い 2 や三方ヶ原の戦い 10 、1575年(天正3年)の長篠の戦い 2 、そして1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い 1 など、歴史に名高い数々の合戦において、忠勝は蜻蛉切を振るい、獅子奮迅の働きを見せた。特に小牧・長久手の戦いでは、わずか五百の手勢を率いて豊臣秀吉の八万とも言われる大軍と対峙し、その勇猛果敢な姿に秀吉自身も感嘆し、「殺さずに捕らえて我が家人とすべし」と命じ、討ち取ることを禁じたという逸話は名高い 1 。
戦場における忠勝の姿は、蜻蛉切と共に、鹿の角を模した「鹿角脇立兜(かづのわきたてかぶと)」、そして漆黒の「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」を身に纏ったものであったと伝えられる 1 。これらは忠勝の象徴的な出で立ちであり、敵味方に強烈な印象を与えた。「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という当時の川柳は、蜻蛉切を手に戦場を駆ける忠勝の、まさに鬼神のごとき武勇を的確に捉えている 1 。
蜻蛉切にまつわる逸話として、前述の名称の由来となった切れ味の伝説の他に、忠勝の人間性や合理性を伝えるものがある。それは、晩年に自らの体力に合わせて蜻蛉切の長大な柄を三尺(約90cm)ほど切り詰めさせ、「道具は自分の力に合った物でなければならない」と語ったというエピソードである 1 。これは、忠勝が名槍の伝説や外見に固執するのではなく、実戦における有効性を最後まで追求した現実主義者であったことを物語っており、単なる猛将ではない、思慮深い武将としての一面を浮き彫りにしている。
本多忠勝と蜻蛉切の関係は、武将個人の武勇、武器の性能、そしてそれらを取り巻く逸話や評価が相互に作用し合い、歴史的な英雄像を形成していく過程を見事に示している。蜻蛉切は、忠勝の「武」そのものを象徴する、まさに一心同体の存在であったと言えよう。
蜻蛉切は、その名を不朽のものとした数々の逸話と、本多忠勝という稀代の武将との強固な結びつきによって知られるが、日本の槍の歴史において、「日本号(ひのもとごう)」および「御手杵(おてぎね)」と共に「天下三名槍」と総称される栄誉を担っている 3 。これら三槍は、それぞれが独自の背景と特徴を持ち、日本の武器文化における槍の多様性と奥深さを示している。
「日本号」は、元来皇室の所有物(御物)であったが、正親町天皇より室町幕府十五代将軍足利義昭に下賜され、その後、織田信長、豊臣秀吉を経て福島正則の手に渡ったとされる名槍である 18 。特に有名なのは、黒田家の家臣である母里友信(太兵衛)が、主君黒田長政の使者として福島正則のもとを訪れた際、酒宴の席で正則からの勧めを断り切れずに大杯の酒を飲み干し、その褒美として日本号を譲り受けたという「呑み取りの槍」の逸話である 4 。この逸話は民謡「黒田節」の元となり、日本号の名を広く知らしめた。穂は平三角の大身槍で、刃長は二尺六寸一分五厘(約79.2cm)あり、樋には倶利伽羅龍(くりからりゅう)が浮き彫りにされている 18 。現在は福岡市博物館に所蔵されている 18 。
「御手杵」は、下総国結城城主であった結城晴朝が作らせたとされる大身槍である 4 。その号の由来は、晴朝が戦場で討ち取った敵の首級十数個を槍に刺して凱旋する途中、中央付近の首が一つ落ち、その時の槍の様子が餅などを搗く際に用いる「手杵」に似ていたことから、後に手杵形の鞘をあつらえ、それが名の由来となったというユニークなものである 4 。穂の長さ(刃長)は四尺六寸(約139cm)と天下三名槍の中でも最長を誇り、その断面は正三角形で深い樋が通っていたと伝えられる 20 。作者は駿河国嶋田派の四代義助とされる 4 。御手杵は結城家から松平大和守家へと伝来したが、残念ながら第二次世界大戦中の東京大空襲により焼失してしまい、現存しない 4 。
これら二槍と比較して、蜻蛉切の独自性は際立っている。日本号がその伝来の物語性や「槍に三位の位あり」と謳われた格式の高さ 18 で知られ、御手杵がその巨大な手杵型の鞘という外見の特異性と戦災による喪失という悲劇性で記憶されるのに対し、蜻蛉切は、何よりもまずその穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったという「切れ味の伝説」と、本多忠勝という一人の武将の生涯無傷の武勇と分かち難く結びついている点に最大の特徴がある。また、穂の形状が大笹穂であり、梵字や三鈷剣といった宗教的意味合いを持つ彫物が施されている点も、他の二槍には見られない蜻蛉切ならではの特色と言えるだろう。さらに、日本号と蜻蛉切は現存する本歌があるのに対し、御手杵は写しのみがその姿を伝えている点も異なる。
天下三名槍という概念は、単に優れた槍を列挙するだけでなく、それぞれの槍が持つ物語や文化的背景を通じて、戦国時代から江戸時代にかけての武士の価値観、美意識、そして武器に対する多様な視点(実用性、象徴性、芸術性)を後世に伝えている。蜻蛉切は、その中で武将個人の武勇と武器の性能が一体となった伝説として、ひときわ強い輝きを放っている。
以下に天下三名槍の比較概要を表に示す。
表2:天下三名槍 比較概要
項目 |
蜻蛉切 |
日本号 |
御手杵 |
号 |
蜻蛉切(とんぼきり) |
日本号(ひのもとごう、にほんごう) |
御手杵(おてぎね) |
主な所有者と逸話 |
本多忠勝(蜻蛉が穂先で切れた) |
皇室→足利義昭→織田信長→豊臣秀吉→福島正則→母里友信(呑み取りの槍、黒田節) |
結城晴朝(手杵形の鞘の由来)→松平大和守家 |
作者(流派等) |
藤原正真(三河文珠派、村正一派) |
不明(大和国金房派と推定) |
四代義助(駿河国嶋田派) |
穂の特徴 |
大笹穂槍、刃長約43.7cm、梵字・三鈷剣の彫物 |
平三角の大身槍、刃長約79.2cm、倶利伽羅龍の彫物 |
大身槍、刃長約139cm、正三角形の断面、深い樋 |
柄の特徴 |
当初長約6m、黒漆塗、青貝螺鈿細工(現存せず)、後に忠勝が切り詰める |
総長約321.5cm、当初は熊毛製の毛鞘に総黒漆塗の柄、現在は青貝螺鈿貼拵 |
総長約333.3cm、詳細は不明(本体焼失のため) |
特筆すべき逸話 |
穂先に止まった蜻蛉が切れた |
「槍に三位の位あり」、母里友信が酒宴で飲み取る |
鞘の形状が手杵に似ていた |
現存状況 |
現存(個人蔵、佐野美術館寄託) |
現存(福岡市博物館蔵) |
焼失(写しが現存) |
典拠例 |
1 |
4 |
4 |
蜻蛉切は、その武具としての卓越した性能のみならず、所有者である本多忠勝の武勇伝と不可分に結びつき、後世の文学、芸術、そして現代の大衆文化に至るまで、多岐にわたる文化的影響を与え続けている。
武具としての蜻蛉切は、その名の由来となった逸話に象徴されるように、並外れた切れ味が高く評価されてきた 1 。約6メートルにも及ぶ長大な柄を持ちながらも、本多忠勝のような傑出した使い手にとっては、そのリーチと破壊力を最大限に活かせる実用的な武器であったと推察される。特定の槍術流派への直接的な影響を示す史料は現時点では限定的であるが 22 、天下に名高い名槍としての存在そのものが、槍術全体のイメージや武勇譚における槍の描写に少なからぬ影響を与えた可能性は否定できない。
文学や芸術の分野においても、蜻蛉切は本多忠勝の武勇を象徴するアイテムとして描かれてきた。前述の「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳は、当時の人々が抱いた忠勝と蜻蛉切に対する畏敬の念を如実に表している 1 。また、明治時代に活躍した浮世絵師・水野年方が描いた「本多忠勝小牧山軍功図」では、豊臣秀吉の大軍を前に悠然と馬に水を飲ませる忠勝の傍らに、蜻蛉切の冴えた輝きが印象的に描写されており、作品全体の緊張感を高める役割を果たしている 1 。江戸時代の軍記物や講談においても、本多忠勝の華々しい活躍と共に、愛槍蜻蛉切の威力や逸話が語られたことは想像に難くない 24 。
現代における蜻蛉切の受容は、さらに多様な広がりを見せている。静岡県の佐野美術館に寄託されている本歌や、名古屋刀剣ワールドなどで展示されている精巧な写しは、多くの人々が歴史的遺物としての蜻蛉切に直接触れる貴重な機会を提供している 1。これらの実物展示は、蜻蛉切の物理的な美しさや迫力を伝え、歴史への関心を喚起する。
さらに特筆すべきは、近年の大衆文化における蜻蛉切の扱われ方である。例えば、人気オンラインゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」では、蜻蛉切が擬人化されたキャラクターとして登場し、若い世代を中心に新たなファン層を獲得している 3。このようなコンテンツは、蜻蛉切という歴史的武具に対する認知度を飛躍的に高めると同時に、それにまつわる史実や伝説への興味を促す入り口となっている。この現象は、歴史的遺物が現代の文化コンテンツを通じて「再発見」され、新たな物語性やキャラクター性を付与されて享受されるという、文化のダイナミズムを端的に示している。歴史的に著名な武具や人物は、時代ごとに異なる媒体や解釈を通じて再生産され、その都度新たな文化的意味を獲得するが、蜻蛉切もその好例と言えるだろう。蜻蛉切の持つ強力な物語性、すなわち切れ味の逸話や忠勇無双の所有者の存在が、時代を超えて人々の想像力を刺激し、様々な形での文化的受容を促してきたのである。
本多忠勝が戦場で振るった名槍「蜻蛉切」は、幸いなことにその本歌(ほんか、オリジナル)が今日まで伝えられている。本多家に代々受け継がれてきた蜻蛉切は、第二次世界大戦後のある時期に同家を離れ、静岡県沼津市の実業家であった矢部利雄氏の所蔵となった 1 。矢部氏の没後、そのコレクションの一部として、蜻蛉切は静岡県三島市にある佐野美術館に寄託され、現在も大切に保管されている 1 。佐野美術館では、折々の展覧会において一般にも公開されており、多くの刀剣愛好家や歴史ファンがその姿を目の当たりにする機会が設けられている 26 。
本歌の保存と並行して、蜻蛉切の姿と技を後世に伝えるための精巧な「写し」の製作も行われている。特に注目されるのが、名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」が主導する「天下三名槍 写し制作プロジェクト」である 1。この壮大なプロジェクトにおいて、蜻蛉切の写し製作という大役を担ったのは、現代刀匠の最高位である「無鑑査」にも認定されている上林恒平(かんばやしつねひら)刀匠である 1。上林刀匠は、蜻蛉切に関する様々な資料を丹念に調査し、本歌の持つ形状の美しさ、特に大笹穂槍としてのバランスや曲線の妙を再現することに心血を注いだとされる 6。また、穂に施された梵字や三鈷剣の彫物と刀身との調和も、この写しの見どころの一つである 6。
この写しは、本歌に迫る出来栄えを目指し、材料には日本刀製作に不可欠な玉鋼(たまはがね)が用いられた、文字通りの「本物の日本刀」である 1。完成した写しには、「大笹穂槍 銘 学古作長谷堂住恒平彫同人 令和二年六月日」という銘が切られている 2。このような写し製作は、単なる模倣ではなく、失われた可能性のある古の製作技術の探求や、オリジナルの持つ精神性を現代に蘇らせる試みとも言える。写し製作の過程で、オリジナルの形状の美しさや彫りの難しさなどが再認識され、原作者である藤原正真の技術の高さが改めて評価されることにも繋がる。また、精巧な写しは、それ自体が文化財としての価値を持ち、本歌が万が一失われた場合の「身代わり」としての役割も期待される。
その他にも、愛知県岡崎市の三河武士のやかた家康館には蜻蛉切のレプリカが展示されており 1 、また、江戸時代後期に白河藩松平家のお抱え刀工であった固山宗次(こやまむねつぐ)が製作した蜻蛉切の写しも存在が確認されている 28 。
佐野美術館では、本歌の蜻蛉切が特別展などで展示されることがあり、直近では2025年1月7日から開催される「名刀ズラリ」展での展示が予定されているとの情報もある 30 。名古屋刀剣ワールドでは、上林恒平刀匠による蜻蛉切の写しが常設展示されており、天下三名槍の他の二槍の写しと共に鑑賞することができる 13 。
蜻蛉切の本歌の保存と、現代の名工による写しの製作・公開は、貴重な文化財を未来へと継承するための多角的なアプローチを示している。それは、物理的な保存のみならず、製作技術やそれに込められた精神性の理解と伝承をも含むものであり、伝統技術の維持と発展にも寄与する意義深い取り組みと言えるだろう。
本報告では、戦国時代の名槍「蜻蛉切」について、その由来、物理的特徴、作者、所有者である本多忠勝との関わり、歴史的評価、そして現代における継承の様相を詳細に検討してきた。その結果、蜻蛉切が単なる過去の武器ではなく、多層的な価値と意味を内包する文化遺産であることが明らかになった。
蜻蛉切は、何よりもまず、本多忠勝という稀代の武将の武勇、忠義、そしてその生き様を象徴する存在である。穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったという逸話に代表される驚異的な切れ味の伝説 1 、笹穂の優美な形状とそこに施された荘厳な彫物 3 、そして本多忠勝と共に数々の戦場を駆け抜け、主君の危機を救い、敵将からも畏敬されたという数々の武勲 1 。これらは、蜻蛉切を単なる鉄の塊から、物語を持つ特別な存在へと昇華させた。武士道精神や日本の伝統的な美意識が、この一筋の槍に凝縮されているかのようである 34 。
その背景には、伊勢村正の流れを汲む三河文珠派の刀工、藤原正真の卓越した鍛刀技術があった 1 。実用性を第一とする戦国の世において、最高の切れ味と堅牢さを追求した名工の技が、蜻蛉切という傑作を生み出したのである。そして、その槍を手に戦場を駆け、生涯無傷という伝説を打ち立てた本多忠勝の存在が、蜻蛉切の名を不動のものとした。両者は互いの価値を高め合い、不可分の関係として歴史に刻まれた。
現代において、蜻蛉切の本歌は佐野美術館に大切に保管され、その姿を我々に伝えている 1 。同時に、上林恒平刀匠のような現代の名工によって精巧な写しが製作され、名古屋刀剣ワールドなどで公開されていることは、失われゆく伝統技術の継承と、歴史的遺産への新たな関心を喚起する上で極めて重要である 1 。さらに、ゲームなどの大衆文化を通じて、蜻蛉切は新たな世代にも知られるようになり、その物語は形を変えながらも語り継がれている 3 。
蜻蛉切が我々に語りかけるものは多い。それは戦国という激動の時代の記憶であり、武将の生き様であり、職人の技の結晶であり、そして時代を超えて人々の心を捉える物語の力である。物理的な存在としての価値に加え、それに付随する「物語」や「意味」こそが、歴史的遺物に不朽の命を与える。蜻蛉切は、まさにその好例であり、過去と現在、そして未来を繋ぐ「語り部」として、これからも日本の至宝の一つとして輝き続けるであろう。