本多忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、「徳川四天王」や「徳川十六神将」、「徳川三傑」の一人に数えられる、徳川家康の最も功績ある家臣の一人である 1 。生涯において五十七度もの合戦に参加しながら、一度も傷を負わなかったという伝説は、その武勇を象徴するものとして広く知られている 2 。戦国乱世において、馬は武将の機動力、戦闘能力を左右するだけでなく、その威厳を示す上でも不可欠な存在であった。優れた馬、すなわち名馬は、武将の力量や地位を象徴し、時にはその運命をも左右する重要な要素だったのである。本多忠勝の「生涯無傷」という伝説は、単に個人の武勇を示すだけでなく、主君徳川家康への揺るぎない忠誠心、それを支える強靭な精神力と肉体、そして蜻蛉切(とんぼきり)に代表される優れた武具や、これから詳述する愛馬「三国黒」のような「備え」の重要性をも物語っている。三国黒の物語は、忠勝の武勇伝を補完し、ある種神格化する要素の一つとして機能した可能性が考えられる。
本報告書では、本多忠勝の数々の武功を戦場で支えたとされる愛馬「三国黒(みくにぐろ)」に焦点を当て、その出自、名称の由来、特徴、逸話、そして関ヶ原の戦いにおける最期など、多角的な情報を基に、その実像と伝承を明らかにすることを目的とする。
三国黒の出自に関して最も広く知られているのは、本多忠勝が徳川家康の世子であり、後に江戸幕府第二代将軍となる徳川秀忠から拝領したという説である 1 。この拝領の具体的な時期や経緯に関する詳細な一次史料は乏しいものの、忠勝の徳川家における重臣としての立場や、数々の戦功に対する褒賞として、あるいは秀忠自身の忠勝への信頼の証として贈られた可能性が考えられる。戦国時代において、馬は単なる移動手段や戦闘力としてだけでなく、有力者間の贈答品としても重要な役割を担っていた。例えば、伊達輝宗から織田信長へ名馬と鷹が献上された記録があり 12 、また後述する「真田黒」の伝承も、馬が外交や人間関係構築における重要なアイテムであったことを示唆している。三国黒の拝領も、このような背景の中で、秀忠から忠勝への特別な信頼や期待の表れと解釈することができよう。
三国黒という名称は、その特徴と由来についていくつかの手がかりを与えている。
まず、「黒」という文字が示す通り、この馬の毛色が黒であったことはほぼ確実視されている 13 。戦国時代から江戸時代にかけての馬の毛色に関する呼称には、「黒」「青毛(あおげ)」「黒鹿毛(くろかげ)」など、黒系統のものが複数存在し 14 、三国黒もこれらのいずれかに該当する黒馬であったと推測される。
一方、「三国」という部分の解釈については、いくつかの説が考えられる。
第一に、地名由来説である。「三国」という地名が、馬の産地、あるいは本多忠勝や徳川秀忠にゆかりのある特定の土地を指している可能性が検討される。例えば、富士山麓に位置する駿河・甲斐・相模の三国 15 や、日本各地に存在する「三国」と称される地域が候補として挙げられる。しかしながら、本多忠勝の主要な領地であった上総国大多喜 2 や伊勢国桑名 17 、あるいは徳川秀忠にゆかりの深い江戸、明石、大坂、淀といった地名 18 と、「三国」という地名との間に直接的かつ強固な結びつきを見出すことは、現時点の資料からは困難である。ただし、特定の著名な馬産地、例えば甲斐(甲斐の黒駒伝説 20 )や奥州(南部馬など 14 )といった広域の呼称としての「三国」であった可能性は否定できない。
第二に、「三国一」の駿馬、すなわち「天下一等の優れた馬」を意味するという解釈である。「三国」という言葉は、古くは日本・中国・インド(天竺)、あるいは日本・中国・朝鮮を指し、「全世界」や「既知の世界全体」を意味する言葉として用いられてきた歴史がある 15 。この用法から転じて、「三国一」という言葉は「天下一」「世界で最も優れている」といった最上級の賞賛を表す際に使われた(例えば「三国一の花嫁」 21 )。したがって、「三国黒」の「三国」は、この馬が「三国に冠たる黒馬」、すなわち「世界一の黒馬」であるという賛辞を込めた命名である可能性が考えられる。中国の古典籍には「烏騅(うすい)」という語があり、これは黒馬を意味するが 7 、三国黒の「三国」も同様に、その卓越性を示すための修飾語であったのかもしれない。
第三に、類例との比較からの推測である。本多忠勝が上杉家家臣であった村上国清に宛てたとされる書状の中に、徳川家康秘蔵の馬「真田黒(さなだぐろ)」を上杉謙信への贈答品としたという記述が存在すると一部で指摘されている 11 。この「真田黒」は、「真田(信濃国の地名、あるいは真田氏)産の黒馬」または「真田氏ゆかりの黒馬」を意味すると考えられる。この例は、「地名(あるいはそれに準ずる固有名詞)+毛色」という馬の命名パターンが戦国時代に存在した可能性を示唆しており、「三国黒」も何らかの「三国」という地名に関連付けられた黒馬であったという説を補強する材料となり得る。ただし、この「真田黒」に関する書状については、一次史料そのものの直接的な確認が本調査の範囲では限定的であり、主に二次的な情報源に依拠している点には留意が必要である。
これらの考察を踏まえると、「三国黒」の「三国」という名称は、単一の由来に帰せられるものではなく、複数の意味合いが込められていた可能性も否定できない。例えば、「三国(特定の地域、あるいは信州のような広域の良馬産地)で産出された優れた黒馬」であり、かつその並外れた優秀さから「三国一(天下一)の黒馬」とも称えられた、というように、地名由来と卓越性の賞賛が複合的に作用した結果としての命名であったとも考えられるのである。
本多忠勝の愛馬、三国黒の具体的な身体的特徴、例えば体高や体格、気性といった詳細については、残念ながら遺骨やそれを記録した直接的な一次史料が発見されていないため、不明な点が多いとされている 13 。この情報の欠如は、三国黒の具体的な姿を現代に正確に伝える上での大きな制約となっている。
しかしながら、その名称が示す通り、毛色が黒であったという点については、多くの記録や伝承で一致しており、広く受け入れられている 13 。後世に制作された関ヶ原合戦図屏風などには、本多忠勝が黒馬に騎乗して勇猛果敢に戦う姿が描かれていることがあり、これらが三国黒のイメージを補強し、視覚的に伝えてきた側面がある 11 。例えば、天保八年(1837年)作とされる「姉川合戦図屏風」には、本多忠勝と思われる武将が描かれているとの言及があるが 13 、この馬が三国黒であるか、また姉川の戦いの時点で忠勝が三国黒を所有していたかは定かではない。また、彦根城博物館所蔵の「関ヶ原戦陣図屏風(右隻)」(江戸時代後期作) 22 や岐阜市歴史博物館所蔵の合戦図屏風 23 など、関ヶ原の戦いを描いた屏風は複数存在するが、これらの中に描かれた特定の黒馬を三国黒と断定するには慎重な検討を要する。
三国黒の具体的な特徴に関する文字史料が乏しい一方で、合戦図屏風のような視覚的媒体が、そのイメージ形成に大きな役割を果たしてきたと考えられる。人々は、勇猛果敢な本多忠勝の姿と、彼にふさわしい力強く美しい黒い駿馬のイメージを重ね合わせ、それが「三国黒」という名馬の具体的な姿として、後世の人々の心象風景の中に刻まれていったのではないだろうか。これは、歴史的事実の伝承において、文字記録の空白を視覚的表象が補完し、時にはイメージが先行して「事実」として受容されていく過程の一例と言えるかもしれない。
三国黒の最も著名な逸話は、慶長五年(1600年)九月十五日に行われた関ヶ原の戦いにおけるものである。この天下分け目の決戦において、本多忠勝は愛馬三国黒に騎乗して参戦したと広く伝えられている 1 。忠勝は東軍の主力として、井伊直政と共に軍監的役割も担いつつ、自らも先陣を切って奮戦した。
多くの記録や伝承によれば、三国黒はこの関ヶ原の戦いの最中、特に勇猛さで知られる島津義弘率いる島津軍との激しい戦闘において、敵の銃撃(鉄砲玉)を受け、その傷がもとで命を落としたとされる 1 。江戸時代中期の成立とされる『譜牒余録』には、「島津隊の銃撃により本多忠勝は馬を撃たれ、家来の馬に乗り換える」との記述があり 24 、これが三国黒の最期を具体的に示す史料の一つと考えられる。この出来事は、戦国末期から江戸初期にかけての戦闘において、鉄砲という新兵器が戦局に与える影響の大きさと、伝統的な騎馬武者にとっての新たな脅威を象徴している。いかに名馬といえども、また屈強な武将が騎乗していようとも、銃弾の前には脆弱であり、戦術の変化を促す一因ともなったのである。
愛馬三国黒を失い、徒歩となってなおも奮戦を続ける本多忠勝に対し、その窮地を見かねた家臣の梶勝忠(かじ かつただ、梶金平(かじ きんぺい)とも伝わる)が、自らの乗馬を主君に差し出して忠勝の危機を救ったという逸話が、複数の記録に残されている 4 。この逸話は、主君への絶対的な忠誠心と、自己犠牲をも厭わぬ家臣の鑑として、後世に美談として語り継がれている。三国黒の死という悲劇的な出来事が、かえって主従の絆の強さを際立たせるという、物語的な効果も生んでいる。京都大学アジア研究教育ユニットの論文によれば、『寛政重修諸家譜』、『家忠補』(松平家忠日記追加増補)、『藩翰譜』、『武徳編年集成』といった江戸時代に編纂された複数の二次史料に、忠勝が関ヶ原で三国黒を失い、梶金平の助けによって難を逃れた旨の記述が見られると指摘されている 4 。
関ヶ原という天下分け目の戦場、勇猛な島津軍との死闘、そして忠義を尽くした愛馬の死という要素は、三国黒の物語を非常にドラマチックなものにしている。この劇的な最期は、単なる一頭の馬の死という事実を超えて、戦の過酷さ、武士の覚悟、そして主従の揺るぎない忠義といった普遍的なテーマを内包し、後世の人々に感銘を与え、語り継がれる価値を高めたと言えよう。
本多忠勝の愛馬として名高い三国黒であるが、その実在性については、史料状況からいくつかの側面からの検討が必要となる。
まず、本多忠勝自身の日記や書状、あるいは同時代に生きた他の人物による確実性の高い一次史料において、「三国黒」という名の馬に関する直接的かつ明確な記述は、現在のところ確認されていないか、あるいは極めて乏しいと指摘されている 11 。これは、三国黒の存在を歴史学的に証明する上での大きな課題となっている。
しかしながら、後世の記録や伝承の中には、三国黒の存在を示唆する間接的な証左が見られる。その一つが、彦根藩井伊家の家臣であった三浦家に伝わる文書の記述である。三浦十左衛門安久の子孫が記録したとされるこの文書には、関ヶ原の戦いで本多忠勝が乗馬を失った際に、三浦安久が自らの馬を忠勝に献上したという逸話が記されており、この時に失われた忠勝の馬が三国黒ではないかと考察されている 11 。早稲田大学図書館所蔵の彦根藩三浦家文書目録には、本多忠勝から三浦安久に宛てた慶長十二年(1607年)付の書状が現存することが記されており、その内容からは両者の間に親密な交流があったことが窺える 25 。同目録の解題部分には「関ケ原の合戦では忠勝の危急を救ったこともあり」と明記されており、この「危急を救った」という記述が馬の献上を指している可能性は高い。一部の研究では、三浦安久自身が記した覚書には馬の献上に関する直接的な記述はないものの、忠勝と安久の間に複数の書状が交わされるほどの親密な関係があった事実は確認できるため、この逸話の信憑性は決して低くないと論じられている 11 。
さらに、江戸時代に編纂された複数の二次史料、例えば幕府による公式な系図集である『寛政重修諸家譜』 4 、新井白石の著作である大名史『藩翰譜』 4 、松平家忠の日記の増補版である『家忠補』 4 、徳川家や諸大名の事績を集めた『武徳編年集成』 4 、そして逸話集である『常山紀談』 26 などには、本多忠勝の愛馬として「三国黒」の名が登場し、関ヶ原の戦いでの最期などが記述されている。これらの史料は、三国黒の伝説が後世にどのように形成され、定着していったかを示す上で重要な手がかりとなる。
また、本多忠勝が三国黒に騎乗する際に使用したとされる鞍が現存するという情報も存在する 9 。この鞍の具体的な所蔵場所や詳細な来歴、そして三国黒との関連を裏付ける確たる学術的証拠については、さらなる調査と慎重な吟味が求められる。本多忠勝ゆかりの品は、岡崎市の三河武士のやかた家康館 28 、桑名市の桑名市博物館 33 、千葉県大多喜町の千葉県立中央博物館大多喜城分館(旧大多喜町立総南博物館) 13 などに所蔵されている可能性があるが、三国黒の鞍がこれらの中に含まれているか、またその真贋については現時点では不明確である。もしこの鞍が本物であり、かつ三国黒と明確に結びつけられるならば、その存在を補強する物質的な証拠として非常に価値が高いと言えるだろう。
以下に、三国黒に関する言及が見られる主要な史料をまとめた表を提示する。
史料名 |
成立年代 |
記述内容の概要 |
史料的性格・備考 |
『譜牒余録』 |
江戸時代中期か |
関ヶ原で忠勝の馬が島津勢に撃たれる 24 |
軍記物・編纂物。三国黒の名は不記載だが状況は一致する可能性あり。 |
三浦家文書(三浦義鎮記録など) |
江戸時代中期以降 |
関ヶ原で忠勝落馬、三浦安久が馬を献上( 11 に基づく考察) |
彦根藩士三浦家の記録。二次史料。本多忠勝と三浦安久間の書状(慶長12年など)が現存 25 。 |
『寛政重修諸家譜』 |
江戸時代後期 |
忠勝の愛馬として三国黒、関ヶ原で失う。梶金平の助け 4 。 |
幕府編纂の系図集。二次史料。 |
『藩翰譜』 |
江戸時代中期 |
関ヶ原での忠勝の活躍、愛馬を失う 4 。 |
新井白石著。大名史。二次史料。 |
『家忠補』 |
江戸時代中期 |
関ヶ原での忠勝の奮戦、三国黒を失う 4 。 |
松平家忠日記の増補。二次史料。 |
『武徳編年集成』 |
江戸時代中期 |
関ヶ原での忠勝の活躍、三国黒を失う 4 。 |
徳川家・諸大名の事績集。二次史料。 |
『常山紀談』 |
江戸時代中期 |
三国黒は秀忠から拝領、関ヶ原で被矢 26 。 |
逸話集。二次史料。 |
『甲子夜話』 |
江戸時代後期 |
忠勝の槍術に関する逸話はあるが、三国黒の直接的記述は見当たらず 6 。 |
随筆。三国黒の逸話の直接的な典拠としては確認できない。 |
一次史料による確証が乏しい以上、三国黒が「歴史学的に実在した」と断言することは難しい。しかし、江戸時代に編纂された複数の記録や家伝にその名が登場し、本多忠勝の有名な愛馬として語り継がれてきた「物語上の存在」としては、確かに実在すると言える。この二つの「実在」の層を区別しつつ、その歴史的背景を考察することが重要である。三浦家のような家臣の家伝や、『寛政重修諸家譜』のような幕府の公式記録に近い編纂物に三国黒の逸話が取り上げられた背景には、それぞれの編纂意図が影響している可能性が考えられる。三浦家にとっては先祖の忠義と武功を示す重要な逸話であり、幕府にとっては徳川譜代の勇将である本多忠勝の物語を顕彰し、その武勇や主従の絆を後世に伝えるという意義があったのかもしれない。
本多忠勝の愛馬、三国黒は、後世の様々な文化的媒体を通じてそのイメージが形成され、伝えられてきたと考えられる。
合戦図屏風においては、本多忠勝が黒馬に騎乗する姿が描かれることがある。例えば、天保八年(1837年)の制作とされる「姉川合戦図屏風」には、本多忠勝と思われる武将が描かれているが、その騎乗馬が三国黒であるか、また姉川の戦いの時点で忠勝が三国黒を所有していたかは不明である 13 。この屏風の制作年代が江戸後期であることを考慮すると、史実の正確な再現というよりは、既に定着していた忠勝の勇猛なイメージや伝承に基づいて描かれた可能性が高い。
より直接的に関連するのは「関ヶ原合戦図屏風」であろう。現存する関ヶ原合戦図屏風は複数あり(例えば、井伊家本 22 や津軽家本 38 など)、その中には本多忠勝が黒馬に騎乗して奮戦する場面が描かれているものが見られる。これらの描写が、三国黒の具体的なイメージとして人々に受容されてきた可能性がある 11 。しかし、これらの屏風が三国黒を特定して描いたものなのか、あるいは単に本多忠勝の乗馬として一般的な黒馬を描いたのかについては、各屏風の詳細な分析と比較検討が必要である。彦根城博物館所蔵の井伊家本「関ヶ原戦陣図屏風」(江戸時代後期作)の解説では、徳川家康や池田輝政といった主要武将の名は挙げられているものの、本多忠勝やその馬の具体的な描写に関する詳細な情報は含まれていない 22 。合戦図屏風は、戦闘の記録という側面と同時に、武勇を称揚し、後援者の威光を示すための芸術作品としての性格も併せ持っているため、必ずしも史実通りの描写とは限らない点には留意が必要である 39 。それでもなお、これらの視覚的表象が「勇将本多忠勝と黒馬」という組み合わせを人々の記憶に強く印象付け、それが三国黒のイメージと結びついて固定化していった可能性は十分に考えられる。黒馬自体が持つ力強さや精悍さといったイメージも、本多忠勝の武勇と親和性が高かったと言えよう。
文学作品や講談などにおける三国黒の扱いについては、今回の調査では具体的な作品名や詳細な内容を特定するには至らなかった。本多忠勝の武勇伝は、その劇的な生涯から講談や物語の格好の題材となり得たと考えられるが、三国黒がその中でどのように描かれてきたかについては、さらなる調査が待たれる。宮下英樹氏の歴史漫画『センゴク』シリーズ 40 や、様々な歴史関連ゲーム 41 において本多忠勝は重要なキャラクターとして登場するが、三国黒に特化した詳細な描写の有無は個別の作品分析に委ねられる。山岡荘八氏の長編歴史小説『徳川家康』や、司馬遼太郎氏の作品群など、著名な歴史小説において本多忠勝や三国黒がどのように描かれているかを確認することも、三国黒の文化的表象を理解する上で有益であるが、現時点では断片的な情報に留まっている 42 。また、浮世絵などの他の視覚芸術における三国黒の表現についても、今後の研究課題と言えるだろう 10 。
本多忠勝の愛馬として知られる三国黒であるが、その馬自身の墓や直接的な供養塔に関する明確な記録や現存するものは、今回の調査では確認することができなかった。
関ヶ原の古戦場には、合戦による数多の戦死者を弔うための首塚や胴塚が複数存在し、一部には馬頭観音が祀られている場所も見られる 46 。例えば、西首塚の御堂には千手観音と共に馬頭観音が安置されているが 46 、これらが三国黒と直接関連付けられているという記録や伝承は確認されていない。これらの馬頭観音は、合戦で命を落とした全ての馬たちを供養する意味合いが強いと考えられる。
一方、主君である本多忠勝自身の菩提寺や供養塔は、彼が城主を務めた千葉県大多喜町の良玄寺 48 、三重県桑名市の浄土寺 49 、そして高野山奥の院 49 など、ゆかりの地に複数存在する。これらの寺社に、三国黒に関する何らかの伝承や、主君と共に愛馬を偲ぶような供養の痕跡が残されている可能性も考えられるが、現時点では具体的な情報は得られていない。千葉県には駒形観音堂の馬頭観音に関する縁起があり、徳川家光の身代わりになった馬の話が伝えられているが 50 、これは三国黒とは異なる逸話である。
三国黒自身の明確な墓や供養塔が見当たらないという事実は、それが「戦死した馬」という、ある意味で武具や道具に近い存在として扱われた可能性を示唆するかもしれない。しかし、その死の物語性が非常に高く、主君の危機を救うという劇的な最期を遂げた名馬であるからこそ、物理的な墓石という形ではなく、主君である本多忠勝の武勇伝や、関ヶ原という歴史的な大戦の記憶の中に不可分に織り込まれる形で、語り継がれてきたのではないだろうか。馬頭観音信仰は、広く馬の守護や供養と関連するものであるが 51 、三国黒に特化したものは見当たらない。これは、三国黒の記憶が、一般的な動物供養の枠を超えて、本多忠勝という特定の英雄の物語や、関ヶ原の戦いという歴史的文脈と強く結びついていることの現れであるとも解釈できる。つまり、三国黒は、石碑や墓標ではなく、人々の語り継ぐ物語の中で生き続けてきたと言えるのかもしれない。
本多忠勝の愛馬「三国黒」に関する調査結果を総括すると、以下の点が明らかになる。三国黒は、徳川家康の嫡男である徳川秀忠から本多忠勝に拝領された黒馬であり、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、島津軍の銃撃により戦死したという伝承が広く知られている 1 。その名称「三国」については、特定の地名(あるいは広域の良馬産地)に由来する可能性と、「三国に冠たる」すなわち「天下一」の駿馬であることを意味する賞賛の言葉である可能性の両面が考えられるが、現時点の史料からは断定することは難しい 11 。
三国黒に関する一次史料、すなわち同時代の確実な記録における直接的な記述は極めて乏しい。しかしながら、彦根藩井伊家家臣三浦家に伝わる文書には、関ヶ原で忠勝が馬を失った際に三浦安久が馬を献上したという記述があり、これが三国黒の逸話の原型となった可能性が指摘されている 11 。また、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』や『藩翰譜』などの複数の二次史料によって、その存在と逸話が後世に伝えられてきた 4 。忠勝が三国黒に用いたとされる鞍が伝世するという情報もあるが、その詳細や真贋については不明確な点が多い 11 。
文化的表象としては、後世に制作された関ヶ原合戦図屏風などに、本多忠勝が黒馬に騎乗する姿が描かれ、これが三国黒の視覚的イメージの形成に寄与したと考えられる 11 。
本多忠勝にとって、愛馬三国黒は単なる移動や戦闘の手段を超え、その武勇を支える重要な戦友であったと想像される。そして、関ヶ原という天下分け目の戦場でのその劇的な最期は、忠勝自身の英雄譚をより一層印象深いものにしたと言えよう。三国黒の伝説は、本多忠勝という稀代の武将の勇猛さと、主君への忠誠を象徴する物語として、後世の武士道観や歴史認識にも少なからぬ影響を与えた可能性がある。
三国黒の物語は、厳密な史料考証に基づく歴史的事実の断片(例えば、忠勝が関ヶ原の戦いで何らかの馬を失った可能性)を核としつつ、そこに英雄譚としての肉付けがなされ、人々の記憶の中で長い時間をかけて醸成されてきた典型例の一つと見ることができる。これは、歴史が単に過去の出来事の客観的な記録であるだけでなく、後世の人々によって意味づけられ、時には再構築されながら語り継がれていくという、歴史叙述のダイナミックなプロセスを反映している。したがって、三国黒に関する調査は、単に一頭の馬の情報を追う作業に留まらず、歴史的記憶がいかに形成され、変容し、そして文化として継承されていくのかという、より大きな問いに関わるものであると言えるだろう。