戦国時代の合戦において、馬は単なる移動手段に留まらず、戦局を左右する重要な戦略的要素であった。騎馬武者は戦場を疾駆し、部隊の指揮、機動的な展開、そして強力な突撃力として、勝敗に直結する役割を担った 1 。さらに、優れた馬、いわゆる「名馬」を所有することは、武将の権威や武勇を内外に示す象徴的な意味合いも持っていた 1 。四国の統一を目前にしながらも、中央の巨大な力と対峙し、激動の時代を駆け抜けた長宗我部元親にとって、優れた馬の確保と運用は、その軍事戦略を支える上で極めて重要な課題であったと言えよう。
本稿では、この長宗我部元親の愛馬として、特にその窮地を救ったとされる名馬「内記黒(ないきぐろ)」に焦点を当てる。内記黒に関する伝承は、近世に成立した軍記物語、とりわけ『土佐物語』に多く見出される 2 。本稿の目的は、これらの伝承を丹念に拾い上げるとともに、現存する関連史料や当時の時代背景を多角的に検討することを通じて、内記黒の出自、毛色や体格といった特徴、戦場での逸話、そしてその名の由来といった謎に迫り、可能な限りその実像を明らかにすることにある。その過程で、戦国武将と馬との関わりについても考察を深めたい。なお、ゲーム作品などに見られる内記黒の描写については、本稿の主題である史実の探求からは逸れるため、参考程度に留める。
内記黒に関する最も基本的な情報として、この馬が豊臣秀吉から長宗我部元親へ下賜されたものであるという点が挙げられる 2 。この下賜が行われた時期は、元親が秀吉による九州平定軍に加わった天正14年(1586年)頃と推測されるのが自然であろう。当時、秀吉が有力大名に対して馬のような貴重品を下賜することは、恩賞としての意味合いのみならず、服属の確認や忠誠を促すための政治的手段としても常套的に用いられていた。
四国征伐を経て秀吉の軍門に降った元親にとって 6 、天下人たる秀吉からの馬の下賜は、単なる物質的な価値を超えた象徴的な意味を持っていたと考えられる。それは、秀吉の広大な支配体制の中に元親が組み込まれたことを再確認させると同時に、秀吉の威光を元親の領国である土佐の内外に示す効果もあったであろう。内記黒が後世「名馬」として語り継がれる背景には、このような秀吉との関わり、すなわちその出自の確かさが少なからず影響した可能性は否定できない。馬という軍事的に重要な資産を与える行為は、秀吉が元親の武勇を依然として評価し、豊臣政権下でのさらなる働きを期待していたことの表れとも解釈できる。
内記黒の毛色については、諸資料一致して「葦毛(あしげ)」であったと記録されている 2 。葦毛の馬は、出生時には黒毛、鹿毛、あるいは栗毛といった有色の毛を持つが、年齢を重ねるにつれて白い毛が混じり始め、徐々に全体が白っぽく変化していくという特徴を有する 4 。このため、内記黒も若い頃は元々の地色が濃く、黒みが強かった可能性が示唆されている 4 。
日本においては、古くから葦毛の馬、特に体表に円形の淡い灰白色の斑紋が銭のように浮き出て見える「連銭葦毛(れんぜんあしげ)」が、武将たちの間で特に好まれたと伝えられている 9 。この嗜好は源平合戦の時代にまで遡るとされ、例えば福岡市博物館所蔵の黒田長政騎馬像に描かれた馬も、勇壮な連銭葦毛である 9 。
葦毛の馬が武将に好まれた理由としては、まずその見た目の美しさ、特に連銭葦毛の華やかさが挙げられるであろう。加えて、加齢とともに白く変化していくという特性が、武将自身の経験の蓄積や成熟といったイメージと重ね合わされ、象徴的な意味合いを帯びた可能性も考えられる。また、白い馬は神聖視される傾向が古来より存在し(例えば佐目毛の馬が神馬とされることがある 4 )、葦毛が最終的に白馬へと近づいていく過程も、武将の威厳や神秘性を高める要素として好まれたのかもしれない。希少性もまた、特定の毛色が珍重される一因であったろう。これらの美的感覚、希少性、そして白馬に対する潜在的な神聖視や象徴的意味合いが複合的に作用し、葦毛の馬への評価を形作っていたと推察される。
戦国時代における日本の馬、すなわち在来馬は、現代の競馬で見られるサラブレッド種などと比較すると総じて小柄であった。その体高は、およそ120センチメートルから140センチメートル程度が標準的であったとされ、木曽馬などがその代表的な種として知られている 4 。『甲陽軍鑑』には、武田信玄の父・信虎の愛馬「鬼鹿毛」の体高が四尺八分八寸(約148センチメートル)であったとの記述があり 3 、これは当時の在来馬の中では比較的大柄な個体であったことを示唆している。内記黒の具体的な体格に関する記録は現存しないものの、当時の日本の馬の一般的な範疇に収まるものであったと考えるのが妥当であろう。
これらの在来馬は、小柄ではあったものの、骨格は頑健で持久力に富み、日本の山がちで複雑な地形における活動に適した能力を持っていた 4 。気性については、当時の日本では馬の去勢の習慣が一般的でなかったため、特に牡馬は気性が荒いものが多かったという指摘がある一方で 10 、在来馬は比較的穏やかで、人によく馴れ、扱いやすいという記述も見られる 4 。内記黒が後に詳述する戸次川の戦いで元親の絶体絶命の危機を救ったという逸話は、単に強靭な体力だけでなく、主人との間に築かれた深い信頼関係と、危機的状況下でも主人の意を汲んで行動できる程度の従順さや賢明さを備えていたことを物語っている。
内記黒が「名馬」と称揚される所以は、単に豊臣秀吉からの下賜品であったという出自の良さのみに起因するのではなく、当時の日本の馬の基準において、体力、持久力、そして主人への忠誠心といった資質に秀でていた可能性が高い。戸次川の戦いにおける劇的な活躍は、まさにその優れた能力を証明する出来事であったと言えるだろう。その体格が日本の在来馬として標準的なものであったとしても、それを補って余りある総合的な能力と、主人との絆の強さが、内記黒を名馬たらしめた主要な要因であったと推測される。
天正14年(1586年)12月、豊臣秀吉による九州平定戦の一環として、豊後国戸次川において戦闘が発生した。この戦いでは、長宗我部元親とその嫡男・信親、仙石秀久、十河存保らを擁する豊臣方の先遣隊と、島津家久率いる島津軍が激突した 6 。
この戦役において、豊臣軍の軍監を務めた仙石秀久は、敵との兵力差を顧みず、無謀とも言える即時攻撃を主張したとされる 6 。長宗我部元親は味方の増援を待つべきであると慎重論を唱えたが、仙石秀久と十河存保が強硬に進軍を決定した結果、豊臣方は寡兵で強大な島津軍に挑むこととなった 3 。その結果は豊臣方の大敗であり、この戦いで元親は最も期待をかけていた嫡男・信親を失うという、生涯最大の悲劇に見舞われたのである 6 。
この戸次川の戦いにおける敗走の最中、長宗我部元親は絶体絶命の窮地に陥ったと、『土佐物語』をはじめとする後世の記録や伝承は伝えている 2 。
具体的な状況について、『土佐物語』などには次のように記されている。敗戦により、元親の周囲にはわずか二十一騎の家臣しか残っておらず、元親自身もはや武運尽きたと覚悟を決め、乗っていた馬を捨てて徒歩で敵陣に斬り込み、討死しようとしていた、あるいはまさに討死を覚悟した瞬間であったという 16 。
まさにその時、奇跡的にも、戦場をさまよっていたはずの愛馬・内記黒が元親のもとへと駆け寄ってきた。これを見た家臣の一人が、「これぞ家運の尽きぬしるしに御座候」と叫び、元親を内記黒に乗せた。そして、内記黒は主君を乗せて敵中を突破し、元親は辛くも豊後府内(現在の大分市中心部)へと逃れることができたと伝えられている 2 。この逸話によって、内記黒は主君の命を救った忠義の馬として、その名を後世に残すこととなった。
内記黒による元親救出の物語は、主として江戸時代中期の宝永5年(1708年)に成立した軍記物語である『土佐物語』に詳細が記されている。この『土佐物語』は、長宗我部氏の旧臣の子孫である吉田孝世によって編纂されたとされている 18 。軍記物語というジャンルの特性上、史実を核としつつも、物語としての面白さを追求するための文学的脚色や、後世への教訓的要素が含まれることは一般的であり、その記述を全て史実として鵜呑みにすることはできない 21 。
しかしながら、この内記黒の元親救出譚が、単なる馬の活躍を超えた深い意味を持って語り継がれたことは想像に難くない。戸次川での大敗、そして何よりも嫡男・信親の戦死という、元親にとってこれ以上ないほどの絶望的な状況下において、愛馬が奇跡的に現れ主君を救ったという物語は、一条の光明であり、長宗我部家の家運がいまだ尽きていないことを象徴する出来事として、当時の人々、特に長宗我部氏の旧臣たちにとって大きな精神的支柱となった可能性がある。
馬が主人を救うというモチーフは、洋の東西を問わず英雄譚や説話の中にしばしば見られる普遍的なものであり、元親自身の武勇や不屈の精神、さらには天運に恵まれたカリスマ性を強調する効果も持っていたと考えられる。逸話の細部にわたる史実性を厳密に証明することは困難であるとしても、元親が何らかの形で愛馬によって戦場を離脱し得たという事実が核となり、それが後世、より劇的で象徴的な物語へと昇華されていった可能性は十分に考えられる。この物語は、長宗我部元親という武将の人物像を形成し、その記憶を後世に伝える上で、非常に重要な役割を果たした伝承であると言えるだろう。それは単なる動物の行動の記録ではなく、戦国の困難な時代を生きた人々の願いや価値観、そして英雄への憧憬が投影された、意味深い物語なのである。
内記黒の名称に含まれる「黒」の一字は、その毛色に由来する可能性が最も高いと考えられる。前述の通り、内記黒は葦毛の馬であり、特に若齢期には地色である黒色が濃く現れていたと推測されるためである 4 。戦国時代の馬名には、その馬の毛色を直接的に示すものが数多く見受けられる。例えば、武田信玄の愛馬「黒雲」 3 や、源平時代の源義経の愛馬とされる「太夫黒」 5 などがその好例である。
また、古い馬の鑑定に関する記述として「毛短く密にして黒きものはよく寒に耐ゆ」 24 といったものがあり、黒馬に対して特定の評価やイメージが存在した可能性も示唆されるが、これが内記黒の命名に直接的に関連していたかどうかは定かではない。いずれにせよ、「黒」という名称が毛色に由来するというのは、自然な解釈と言えよう。
一方、「内記」という部分の由来については、いくつかの可能性が考えられるが、決定的な史料に乏しく、推測の域を出ないのが現状である。
最も興味深く、かつ有力な説として挙げられるのが、長宗我部元親の実弟である香宗我部親泰との関連である。親泰は、兄である元親を軍事・外交の両面で支えた重臣であり、その受領名(官途名)の一つとして「内記」を称していたことが記録されている 25 。親泰は長宗我部家にとって極めて重要な人物であり、その死は元親にとって大きな痛手であったと伝えられている 25 。
このような背景を考慮すると、元親が豊臣秀吉という天下人から拝領した特別な名馬に対して、最も信頼し、その能力を高く評価していた弟・親泰の官途名である「内記」を冠した可能性は十分に考えられる。これは、親泰への深い敬意や、その多大な功績を称える意図があったのかもしれない。あるいは、親泰は外交手腕にも長けていたとされるため 26 、この内記黒の拝領に際して、秀吉との交渉役を務めるなど何らかの形で関与し、その労をねぎらう意味で名付けられたという憶測も成り立つ。しかしながら、これらの推測を裏付ける直接的な史料は現在のところ確認されていない。
「内記」という名称は、律令制下の中務省に置かれた官職名であり、天皇の詔勅や宣命(せんみょう)の起草、あるいは公文書の記録などを司った文筆系の役職であった 27 。戦国時代においては、実際の職務とは別に、こうした律令官職名が武家の名誉的な称号である受領名として用いられることが一般的であった。香宗我部親泰が「内記」を称したのも、この慣習に倣ったものである。
戦国時代の馬の命名においては、その馬の毛色、産地、身体的特徴、気性、あるいは所有者の願いや故事来歴などを込めて名付けられることが多かった 4 。例えば、毛色(「鹿毛」「栗毛」など)、産地(武田信玄の「甲斐黒」、豊臣秀吉の「奥州黒」 2 など)、気性や能力(源義仲の「鬼葦毛」 3 など)に由来する名が見られる。
家臣や親族の名を馬に冠するという明確な慣習があったという記録は、提供された資料からは確認し難い。しかし、主君が特定の家臣や縁者に対して特別な思い入れがある場合、その名を愛馬に与えるという行為が全くなかったとは断言できない。もし元親が香宗我部親泰の名を内記黒に与えたとすれば、それは慣習に則ったものではなく、むしろ元親の親泰に対する個人的な信頼と情愛の深さを示す、特別な事例であった可能性も考慮すべきであろう。
「内記」の由来を特定するには、今後の史料発見や、同時代の他の武将による馬の命名事例との比較研究が一層求められる。
高知県高知市長浜には、長宗我部元親の墓所の近くに「愛馬の塚」と称される小高い塚が存在し、これが内記黒の墓であると古くから伝えられている 3 。この塚の存在は、内記黒が元親にとって単なる乗用馬ではなく、特別な絆で結ばれたかけがえのない存在として認識され、その死後も手厚く葬られたことを強く示唆している。
主君の墓の傍らに愛馬の墓が設けられるという事実は、その馬が主君の生涯においていかに重要かつ忠実な役割を果たしたかを物語るものである。特に内記黒の場合、戸次川の戦いにおける元親救出という劇的な逸話とこの塚の存在が結びつくことで、単なる愛馬の墓という以上に、主君への忠義の象徴として、後世の人々に語り継がれるための物理的な装置としても機能したと考えられる。この「愛馬の塚」は、元親と内記黒の間の深い絆、そして内記黒の功績を記憶し、顕彰するためのモニュメントとしての性格を帯びていると言えよう。
内記黒の物語をより深く理解するためには、同時代に活躍した他の著名な戦国武将の名馬と比較検討することが有効である。以下にいくつかの事例を挙げる。
馬名 |
所有者 |
毛色 |
主な逸話・特徴 |
入手経緯・その他 |
主な関連史料 |
内記黒 |
長宗我部元親 |
葦毛 |
戸次川の戦いで絶体絶命の元親を乗せ、敵中を突破し命を救った。 |
豊臣秀吉より拝領。高知市長浜に墓(愛馬の塚)と伝わるものがある。 |
『土佐物語』 3 |
黒雲 |
武田信玄 |
黒毛 |
気性が非常に荒く、信玄以外は乗りこなせなかったとされる。影武者も落馬したという。 |
|
『甲陽軍鑑』 3 |
放生月毛 |
上杉謙信 |
月毛 |
川中島の戦いにおける信玄との一騎討ちの際に騎乗していたとされる。月毛はクリーム色。 |
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諸伝承 3 |
松風 |
前田慶次 |
不明 |
巨体で並外れた能力を持つ名馬。利家のもとから出奔する際に奪ったとも。 |
逸話は多いが、史実としての詳細は不明な点も多い。 |
『常山紀談』など後世の編纂物 3 |
白石 |
徳川家康 |
黒毛 |
名は「白石」だが毛色は黒であったとされる。 |
|
3 |
鬼鹿毛 |
武田信虎 |
鹿毛 |
体高四尺八分八寸(約148cm)と当時としては大型。信玄が所望したが与えられなかった。 |
|
『甲陽軍鑑』 3 |
この比較表からもわかるように、名馬と称される馬には、その身体的特徴(毛色、体格)や能力(気性、速力、持久力)に加え、主人との間に生まれた印象的な逸話が伴うことが多い。内記黒の場合、豊臣秀吉からの下賜という出自の確かさ、葦毛という人気の毛色、そして何よりも戸次川での主人救出という劇的な物語が、他の名馬と比較しても際立った特徴となっている。特に、絶体絶命の危機から主人を救うという逸話は、主従の絆の強さを象徴するものとして、人々の記憶に残りやすい要素であったと言える。
内記黒の物語は、高知県を中心に地域伝承として受け継がれている。その証左として、高知県立歴史民俗資料館の公式マスコットキャラクターである「若武者もとちか君」には、その愛馬として内記黒が共にデザインされており、現代においても地域の人々に親しまれる存在であることがわかる 32 。
また、近年の歴史ブームやゲームなどの創作物の影響により、内記黒の名はより広範な層にも知られるようになっている 33 。これらの現代的な受容は、史実そのものとは区別して考える必要があるものの、内記黒という存在が持つ物語性が、時代を超えて人々を惹きつける魅力を持っていることを示していると言えよう。
本稿では、戦国時代の武将・長宗我部元親の愛馬とされる「内記黒」について、関連する史料や伝承を基に多角的な考察を行った。その結果、以下の点が明らかになった。
第一に、内記黒は豊臣秀吉から元親へ下賜された葦毛の名馬であり、その出自自体が当時において特別な価値を持っていたと考えられる。毛色である葦毛は、加齢と共に白化する特徴を持ち、武将たちに好まれた毛色の一つであった。
第二に、内記黒の名を不朽のものとしたのは、天正14年(1586年)の戸次川の戦いにおいて、絶体絶命の窮地に陥った元親を乗せて敵中を突破し、その命を救ったという劇的な逸話である。この逸話は主に『土佐物語』に記されており、長宗我部氏の家運を象徴する出来事として語り継がれた。
第三に、「内記黒」という名称のうち、「黒」は若い頃の毛色に由来する可能性が高い。一方、「内記」については、元親の信頼篤い弟であった香宗我部親泰(内記)の官途名に由来するという説が有力な仮説として考えられるが、これを断定する直接的な史料は確認できなかった。
第四に、高知市長浜に伝わる「愛馬の塚」は、内記黒が元親にとって単なる馬以上の存在であり、その死後も手厚く葬られたことを示唆しており、両者の間の深い絆を物語るものである。
内記黒に関する記述の多くは、江戸時代中期に成立した軍記物語である『土佐物語』に依拠している。軍記物語は史実を反映しつつも文学的な脚色を含むため、その記述の全てを史実と見なすことには慎重さが求められる。一次史料による裏付けが乏しい点が、本研究における最大の史料的限界と言える。
今後の研究課題としては、まず長宗我部氏関連の未調査の古文書や、同時代の他の武将の日記、書簡などから、内記黒あるいは当時の馬に関するより具体的な記述を探索し、発見することが挙げられる。また、近年の馬の骨の出土事例など、考古学的な知見との照らし合わせも、当時の馬の体格や飼育状況を明らかにする上で有効であろう。
さらに、「内記」という名称の由来について、より確度の高い説を構築するためには、戦国時代の武将による馬の命名慣習に関するさらなる事例収集と比較研究が不可欠である。家臣の名や官職名を馬名に冠する事例が他に見られるのか、あるいは特定の条件下でのみ行われたのかなど、より広範な視点からのアプローチが求められる。
内記黒の物語は、一頭の馬と一人の武将の絆を超えて、戦国という時代の厳しさ、そしてその中で育まれた忠誠心や希望といった人間的な価値観を我々に伝えてくれる。史料の制約の中でその実像に迫る努力は、戦国時代史研究の深化に繋がるものと確信する。