最終更新日 2025-05-29

黒雲

黒雲

武田信玄の愛馬「黒雲」に関する総合的考察

序章:戦国武将と馬

戦国時代において、馬は単なる移動手段や農耕の労働力に留まらず、軍事戦略上、そして武将の社会的地位を示す上で極めて重要な意味を持っていた。騎馬隊は戦場における機動力と突撃力を担い、戦況を左右する存在であった。また、迅速な情報伝達にも馬は不可欠であり、広大な領地を支配する武将にとって、その価値は計り知れないものであった。さらに、優れた馬を所有することは武将の威信を高め、その武勇や統率力を象徴するものであった。まさに「名将に名馬あり」 1 という言葉が示すように、馬は武将の力量を映す鏡とも言えたのである。当時の「名馬」の基準は、単に体格が大きい、足が速いといった物理的な能力だけでなく、その気性、耐久力、さらには主人との精神的な繋がりや相性といった、より多角的な要素を含んでいたと考えられる。武田信玄の愛馬と伝えられる「黒雲」が、「当時最大級の馬」 2 とされながらも、その荒々しい気性が特に強調される点 3 は、こうした当時の価値観を反映しているのかもしれない。

当時、日本で主に用いられていた馬は、現代の競馬で見られるサラブレッド種とは異なり、「日本在来馬」と呼ばれる種類であった。木曽馬(現在の長野県産)、南部馬(東北地方産)などがその代表であり、これらは総じて体高が120センチメートルから140センチメートル程度と比較的小柄で、現代の基準ではポニーに分類されることもある 5 。しかし、これらの在来馬はずんぐりとした頑健な体躯を持ち、持久力に富み、日本の複雑な地形や気候に適応していた。戦国武将たちは、こうした馬に跨り、甲冑を身に着けて戦場を駆け巡ったのである。馬の毛色も多様で、鹿毛(かげ)、栗毛(くりげ)、葦毛(あしげ)、黒毛(くろげ)など、様々な呼称で区別されていた 5 。武田信玄の愛馬「黒雲」の「黒」という名は、その漆黒の毛並みを想起させ、力強さと神秘性を感じさせる。

特筆すべきは、武田信玄の拠点であった甲斐国(現在の山梨県)が、古来より名馬の産地として知られていたという事実である。聖徳太子が甲斐国から献上された「甲斐の黒駒(くろこま)」に乗り、奈良から富士山まで天を駆けたという伝説は、その象徴的な物語として語り継がれている 6 。この「甲斐の黒駒伝説」という地域的な背景が、信玄の愛馬「黒雲」という黒い馬の伝説と無関係であるとは考えにくい。ある資料では、「黒雲」を「甲斐の黒駒の頂点に立つ馬」と表現しており 4 、この古くからの名馬のイメージが、信玄の愛馬伝説の形成に影響を与えた可能性は十分に考えられる。

本報告書は、武田信玄の愛馬とされる「黒雲」について、現存する資料や伝承を多角的に検討し、その実像と伝説の様相を明らかにすることを目的とする。

第一章:武田信玄の愛馬「黒雲」の概要

「黒雲」の名称と存在の伝承

甲斐の虎と称された戦国武将、武田信玄には、「黒雲(くろくも)」という名の愛馬がいたと広く伝えられている 2 。その名は、あたかも黒い雲が天を覆うかの如き雄大さや、見る者を圧倒するような力強さ、そしてどこか不穏なまでの迫力を感じさせる。この印象的な名称自体が、伝説として語り継がれる上で大きな役割を果たしてきたと言えよう。

伝承される黒雲の姿、毛色、体格

「黒雲」という名が示す通り、その毛色は黒であったと一般に解されている。また、多くの伝承において「黒雲」は「当時最大級の馬だった」とされており 2 、その体躯の大きさが特徴の一つとして語られる。前述の通り、戦国時代の日本の馬は比較的小柄であったため、「最大級」といっても現代のサラブレッドのような大きさを想像するのは早計かもしれないが、当時の基準においては群を抜く大きさであったことを示唆している。この「大きさ」は、単に物理的な特徴に留まらず、乗り手である信玄の威容を一層際立たせる要素となったであろう。

黒雲の気性と武田信玄との関係に関する逸話

「黒雲」に関する伝承の中で最も際立っているのは、その気性の荒々しさである。数多くの資料が一致して伝えるところによれば、「黒雲」は非常に気性が激しく、武田信玄その人以外には誰一人として乗りこなすことができなかったという 2 。この逸話は、信玄の卓越した武勇や人間的な器量、カリスマ性を象徴するものとして、後世にわたり好んで語られてきた。主人を選ぶ馬というモチーフは、英雄譚において主人公の非凡さや特別な資質を強調するためによく用いられる手法であり、「黒雲」の物語もこの類型に属すると考えられる。

この「黒雲」の逸話としばしば対比的に語られるのが、信玄の父・武田信虎の愛馬「鬼鹿毛(おにかげ)」にまつわる話である。若き日の信玄(当時は晴信)は、父・信虎が所有していた名馬「鬼鹿毛」を強く欲しがったが、信虎はこれを与えなかったと伝えられている 2 。この「鬼鹿毛」を得られなかった後に「黒雲」が信玄の愛馬となったという経緯は、あたかも運命的な出会いや、より優れた馬との絆を暗示するような物語性を帯びている。信玄の英雄性を際立たせるための神話的装置として、「黒雲」の「気性の荒さ」と「信玄のみが乗りこなせる」という属性が機能している側面は否定できない。信玄が常人以上の存在として描かれる過程で、この種の逸話は特に強調されたと考えられる。そして、「鬼鹿毛」という具体的な名馬(『甲陽軍鑑』巻一には体高四尺八分八寸、約148センチメートルと記される 7 )との対比は、「黒雲」が単なる代替品ではなく、信玄自身の力量で見出された、あるいは彼にこそふさわしい特別な馬であったという印象を強める効果を生んでいる。

第二章:歴史資料における「黒雲」の記述

『甲陽軍鑑』における「黒雲」および関連する馬の記述の検討

武田氏研究、特に武田信玄の事績や軍略を語る上で頻繁に参照されるのが『甲陽軍鑑』である。この書物は、江戸時代初期に成立したとされ、武田家の戦略・戦術、家臣団の逸話などを豊富に含んでいる 9 。しかしながら、その成立過程や記述の史実性については、研究者の間でも様々な議論があり、史料として扱う際には慎重な吟味が必要とされる 9

多くの二次資料、解説書などにおいて、武田信玄の愛馬「黒雲」に関する記述の出典は『甲陽軍鑑』であるとされている 5 。しかしながら、提供された情報に基づき『甲陽軍鑑』の本文(デジタル化されたものを含む)を検索した結果では、「黒雲」という固有名詞を直接確認することはできなかった 11 。この事実は、一般に流布している情報との間に矛盾を生じさせており、いくつかの可能性が考えられる。例えば、特定の版や異本にのみ「黒雲」の記述が存在する可能性、後世の編者による加筆や解釈が混入した可能性、「黒雲」という具体的な名前ではなく、信玄が乗った黒い馬に関する記述を指して「黒雲」の出典としている可能性などが挙げられる。

一方で、信玄の父・武田信虎の愛馬「鬼鹿毛」については、『甲陽軍鑑』の巻一に「体高四尺八分八寸」(約148センチメートル)という具体的な記述が存在することが確認されている 7 。この「鬼鹿毛」に関する記述の具体性と比較すると、「黒雲」に関する『甲陽軍鑑』中の記述とされるものの確度は、現時点では慎重に判断せざるを得ない。『甲陽軍鑑』が江戸時代を通じて甲州流軍学の聖典として高い権威を持っていたことは 9 、武田信玄に関する著名な逸話が、たとえ後世に形成されたものであったとしても、その権威に結び付けられ、『甲陽軍鑑』に由来するかのように語られるようになった背景の一つかもしれない。

その他の文献資料における「黒雲」の言及可能性

『甲陽軍鑑』以外に「黒雲」の記述が見られる可能性のある文献としては、江戸時代に成立した他の軍記物や地誌、逸話集などが考えられる。 1 では、「黒雲」が「三日月」や「内記黒」といった他の著名な名馬と並んで、各種軍記物に見られる馬として挙げられている。このことから、江戸時代には「黒雲」という名はある程度知られた存在であった可能性が示唆される。しかし、その具体的な初出文献や、いつ頃から「黒雲」の逸話が形成され始めたのかについては、現時点では判然としない。明治44年(1911年)発行の『逸話文庫 通俗教育 武士の巻』 2 は、比較的後代の資料であり、それ以前の「黒雲」に関する言及を遡って調査する必要がある。

ここで再び注目されるのが、前述した甲斐国古来の「甲斐の黒駒伝説」 6 である。信玄の愛馬「黒雲」という名称や、その黒い馬体というイメージの類似性から、この古い伝承が信玄の愛馬伝説の形成に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。 4 において「黒雲」が「甲斐の黒駒の頂点に立つ馬」と詩的に表現されていることは、この二つの伝説の間に意識的あるいは無意識的な繋がりが見出されていたことを示唆している。しかし、明治期の『逸話文庫』以前に「黒雲」の逸話がどの程度流布していたのか、その具体的な伝播経路(口承、他の軍記物、地誌など)については、提供された資料からは明確にし難いものの、この「黒雲」伝説の成立と伝播の過程は、今後の研究における重要な課題と言えるだろう。

表1:『甲陽軍鑑』における関連記述の比較

馬名

『甲陽軍鑑』での記述内容

二次資料での言及

史料的確度に関する考察

黒雲

本文検索では直接的な記述を確認できず 11

多くの資料で『甲陽軍鑑』が出典とされる 5 。気性が荒く信玄以外乗りこなせなかったとされる。

『甲陽軍鑑』における明確な記述の特定は困難。伝承が『甲陽軍鑑』の権威に結び付けられた可能性、あるいは特定の異本にのみ存在する可能性などが考えられる。史実としての確証は薄い。

鬼鹿毛

巻一に「武田信虎の愛馬。体高四尺八分八寸(約148cm)。晴信(信玄)が所望したが信虎は聞き入れず」との具体的記述あり 7

武田信虎の愛馬として言及。信玄が欲しがった逸話も知られる 2

『甲陽軍鑑』に具体的な記述が存在し、史料的根拠は比較的明確。体高の記録は当時の馬の大きさを知る上で貴重。

この表は、『甲陽軍鑑』に関する情報の錯綜を整理し、「黒雲」の史料的根拠について客観的に判断する一助となることを意図している。「鬼鹿毛」の記述の具体性と比較することで、「黒雲」に関する情報の性質(伝承か、特定の版にのみ存在する記述か等)を考察する上で重要な視点を提供する。

第三章:「黒雲」にまつわる伝承と文化的影響

映画『影武者』における「黒雲」の描写とその影響

武田信玄の愛馬「黒雲」の逸話が現代において広く知られるようになった背景には、黒澤明監督の映画『影武者』(1980年公開)の影響が大きいと考えられる。この作品の中で、「黒雲」は単なる馬としてではなく、物語の重要な転換点に関わる象徴的な存在として描かれている。具体的には、信玄の死後、その影武者となった主人公が、生前の信玄の威厳を真似ようと「黒雲」に騎乗しようとするが、気性の荒い「黒雲」は影武者を振り落としてしまう。この出来事によって、影武者が本物の信玄ではないことが家臣たちの間で露見し始めるという、劇的な場面が展開される 2

映画『影武者』は国内外で極めて高い評価を受け、多くの観客に感銘を与えた。この映画を通じて、「黒雲」の持つ「信玄以外には決して靡かない気性の荒々しさ」や「主人への忠誠心」といったイメージが、視覚的にも強烈な印象と共に広まったことは想像に難くない。元々の伝承を知らなかった人々にとっても、この映画の描写は「黒雲」のキャラクターを決定づけるものとなった可能性が高い。このように、近現代のメディア、特に影響力の大きな映画作品が、歴史上の人物やそれにまつわる伝説を再解釈し、新たなイメージを付与して大衆に広める力は絶大であり、「黒雲」の現代におけるイメージ形成もその影響を色濃く受けていると言えるだろう。

「黒雲」伝説の形成と受容

「黒雲」の伝説、特に「主人を選び、その主人以外には懐かない賢馬あるいは烈馬」というモチーフは、古今東西の英雄譚や神話において普遍的に見られる要素の一つである。アレクサンドロス大王の愛馬ブケファラスしかり、関羽の赤兎馬しかり、英雄の偉大さを際立たせるために、その乗騎もまた非凡な存在として描かれることが多い。「黒雲」の物語も、この類型に属すると考えられ、戦国時代屈指の英雄である武田信玄のイメージを補強し、そのカリスマ性を一層高める役割を担ってきた。

信玄の死後も、この「黒雲」の伝説は語り継がれ、武田信玄という人物を象徴するアイコンの一つとして受容されてきた。近代以降においても、例えば流鏑馬神事において新しくお披露目される馬に、その勇壮さや気高さにあやかって「黒雲」の名が拝借されるといった事例が見られる 4 。これは、「黒雲」という名が単なる過去の伝説としてではなく、武勇や気品、あるいは甲斐の国の誇りを象徴する、現代にも生き続ける文化的なアイコンとして機能していることを示している。このような現代的な活用は、「黒雲」というブランドが持つ喚起力がいまだに有効であることを物語っている。

他の戦国武将の愛馬伝説との比較

「黒雲」の伝説をより深く理解するためには、同時代の他の著名な戦国武将たちの愛馬にまつわる伝説と比較検討することが有効である。例えば、織田信長の愛馬としては、伊達家から献上された奥州一の名馬と伝わる「白石鹿毛(しろいしかげ)」 3 や、京都御馬揃えに参加した「鬼葦毛(おにあしげ)」 5 などが知られている。また、信玄の宿敵であった上杉謙信には「放生月毛(ほうしょうつきげ)」 5 という愛馬がいたとされ、その名の由来と共に逸話が残る。さらに、傾奇者として名高い前田慶次(利益)の愛馬「松風(まつかぜ)」は、巨躯の慶次を乗せてもびくともしなかった強靭さと俊足ぶりで知られ、数々の豪快な逸話と共に語り継がれている 5

これらの名馬伝説の多くは、主人の武勇伝や人となりを色彩豊かに飾り、後世の講談や創作物の格好の題材となってきた。ただし、これらの逸話の史実性については、慎重な検証が必要である。「黒雲」の伝説と同様に、史実としての確証が乏しいものも少なくない 2 。しかし、史実性の度合いは様々であっても、これらの名馬伝説は、当時の武士と馬との深い結びつきや、馬が武将のステータスや個性を象徴するものであったという文化的背景を反映している点で共通している。

表2:戦国時代の著名な武将の愛馬比較

武将名

馬名

毛色・特徴(伝承)

主な逸話(伝承)

関連史料・伝承の性質

武田信玄

黒雲

黒毛、当時最大級、気性荒く信玄以外乗れず 2

信玄の死後、影武者を振り落とす(映画『影武者』) 2

『甲陽軍鑑』が出典とされるが本文未確認。伝説的要素強い。

織田信長

白石鹿毛

鹿毛(名は白石だが毛色は黒との説も 7 )、奥州一の名馬 13

伊達家より献上 13

軍記物、逸話集など。信長は馬好きで多数所有 5

上杉謙信

放生月毛

月毛(黄色みを帯びた薄褐色の体に白いたてがみ・尾)。

川中島の戦いで騎乗したとされる 5

軍記物、逸話集など。

前田慶次(利益)

松風

不明(巨体、強靭、俊足) 5

巨漢の慶次を乗せても平然。利家から奪ったとも 5

江戸時代の軍記物、逸話集、近現代の創作。

徳川家康

白石

黒毛(名は白石) 7

詳細は不明な点が多い 13

逸話集など。

この表は、「黒雲」の伝説を、戦国武将と愛馬を巡るより広い文化的文脈の中に位置づけることを目的とする。他の名馬伝説と比較することで、「黒雲」の逸話が持つ典型性や特異性がより明確になり、その理解を深める一助となるであろう。

第四章:考古学的知見と「黒雲」

武田氏館跡(山梨県甲府市)出土の馬骨の調査状況

武田信玄の愛馬「黒雲」の伝説に、間接的ながらも興味深い光を当てる考古学的発見がある。平成元年(1989年)、武田氏の本拠地であった躑躅ヶ崎館跡(現在の武田神社境内、山梨県甲府市)の発掘調査において、戦国時代のものと見られる馬のほぼ完全な骨格が一体、出土した 2

この馬骨について詳細な調査が行われた結果、いくつかの注目すべき点が明らかになった。まず、その埋葬状況が丁重であったこと、そして馬自身の体格などから、専門家は「大将クラスの人物を乗せた馬であった可能性が非常に高い」との鑑定を下している 2 。さらに、残存していた歯の状態を分析したところ、良質な飼料を与えられ、大切に飼育されていたことが判明したという 2 。これらの事実は、当時の武田氏において、高位の武将が用いる馬が特別な扱いを受けていたことを具体的に示している。

出土馬骨と「黒雲」との関連性についての考察

この武田氏館跡から出土した馬骨が、伝説上の名馬「黒雲」そのものであるという直接的な証拠は、残念ながら存在しない。馬骨に名札が付けられていたわけでもなく、文献記録と照合できるような特徴が見つかったわけでもないからである。

しかしながら、この考古学的発見は、「黒雲」伝説を考察する上で非常に示唆に富む。なぜなら、この馬骨は、武田信玄のような最高位の武将が実際にどのような馬を所有し、それをどのように扱っていたかについて、具体的な物証を提供するものだからである。文献資料だけでは窺い知ることのできない、当時の武士と馬との関係性の一端を垣間見せてくれる点で、その価値は極めて高いと言える。「黒雲」が「当時最大級の馬だった」という伝承 2 があるが、もしこの出土馬骨が当時の在来馬の平均的な体格と比較して実際に大きかったとすれば、その伝承に何らかのリアリティがあった可能性を慎重に推測することもできるかもしれない。

この馬骨の発見は、「黒雲」そのものではないとしても、信玄クラスの武将が「大切にされた」「体格の良い」馬を所有していたという具体的な状況証拠を提供する。これは、「黒雲」伝説の背景にあるリアリティの一端を示唆する可能性がある。伝説は完全に虚構から生まれるとは限らない。出土した馬が丁重に埋葬され、良い餌を与えられていたという事実は、当時の有力武将が馬を非常に重視していたことを物語っている。ただし、これはあくまで可能性の域を出ず、断定的な結論を導くことは避けるべきである。この事例は、歴史研究における物証と文献記録の双方の重要性と、それらを組み合わせる際の解釈の慎重さが必要であることを示している。

結論:「黒雲」の実像と伝説の総括

本報告書では、武田信玄の愛馬と伝えられる「黒雲」について、その名称、姿、気性に関する伝承、歴史資料における記述の検討、文化的影響、そして関連する可能性のある考古学的発見に至るまで、多角的な調査と考察を行ってきた。

その結果、「黒雲」は、武田信玄の勇猛さやカリスマ性を象徴する存在として、特にその気性の荒々しさと信玄への絶対的な忠誠(信玄以外には乗りこなせない)という点で、後世にわたり広く語り継がれてきた名馬であることが確認された。しかしながら、その史料的根拠、とりわけ武田氏研究の基本史料の一つとされる『甲陽軍鑑』における明確な記述については、現時点では確認が難しく、伝説的側面が色濃いと言わざるを得ない。信玄の父・信虎の愛馬「鬼鹿毛」に関する『甲陽軍鑑』中の具体的な記述と比較すると、その差は顕著である。

一方で、「黒雲」の伝説は、甲斐国古来の「甲斐の黒駒伝説」との関連性、英雄譚に共通して見られる「主を選ぶ賢馬」というモチーフ、そして何よりも黒澤明監督の映画『影武者』による現代的なイメージの再生産と普及といった、複数の要素が絡み合いながら形成されてきたと考えられる。武田氏館跡から出土した丁重に埋葬された馬骨の存在は、「黒雲」そのものではないとしても、信玄のような高位の武将が優れた馬を大切に扱っていたという歴史的背景を裏付けるものであり、伝説にリアリティの息吹を与えている。

このように、「黒雲」のイメージは、単一の起源から生まれたものではなく、『甲陽軍鑑』への(真偽はともかく)言及、古い「甲斐の黒駒」伝説からの影響、英雄譚の普遍的モチーフ、そして近現代メディアによる再生産といった複数の層が積み重なって形成された、複合的な文化現象であると総括できる。

「黒雲」の物語は、史実としての確証は薄いかもしれない。しかし、それが武田信玄という戦国屈指の英雄のイメージを豊かにし、その記憶を後世に伝える上で重要な役割を果たしてきたという文化的な意味は大きい。歴史的事実の探求は学術研究の根幹であるが、同時に、なぜ特定の伝説が生まれ、どのように受容され、人々の心に影響を与えてきたのかを理解することもまた重要である。「黒雲」は、その両側面から考察するに値する、魅力的な対象と言えるだろう。

今後の研究においては、未発見の史料の探索や、既存史料に対する新たな解釈、あるいは比較民俗学的なアプローチなどによって、「黒雲」の実像、そしてその伝説が持つ意味について、さらに深い理解が得られる可能性が残されている。

引用文献

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  2. 武将と馬の逸話を大調査!?【前編】 | Pacalla(パカラ) https://pacalla.com/article/article-3772/
  3. 武将の名馬一覧/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/historian-text/warlord-horse/
  4. 駿馬乱舞 | 心の旅ブログ https://ameblo.jp/sugiura-kouken/entry-12438959580.html
  5. 戦国武将はポニーに乗っていた!? 小さくてもパワフルなずんぐり馬たちがかわいい! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/40611/
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  8. 名馬一覧とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%90%8D%E9%A6%AC%E4%B8%80%E8%A6%A7
  9. 甲陽軍鑑 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
  10. 「甲陽軍鑑」を知る・・・① - funny 一時 serious のち interesting - ココログ http://arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/2015/08/post-8b0b.html
  11. 甲陽軍鑑 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
  12. 甲陽軍鑑/品第十一 - Wikisource https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91/%E5%93%81%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%80
  13. 武将と馬の逸話を大調査!?【後編】 - Pacalla(パカラ) https://pacalla.com/article/article-3781/
  14. 前田慶次の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38365/
  15. 前田慶次の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64494/
  16. 花の慶次の登場人物 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E6%85%B6%E6%AC%A1%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9