戦国時代という動乱の時代において、武将と馬は不可分の関係にあり、多くの名馬が歴史に名を刻んでいる。本報告では、薩摩の勇将・島津義弘の愛馬として知られる「膝突栗毛(ひざつきくりげ)」に焦点を当て、その出自、名の由来、逸話、後世への影響について、現存する史料や伝承を基に詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。
戦国時代の武将にとって、馬は単なる移動や戦闘の手段を超えた存在であった。優れた馬は戦場での生死を左右するだけでなく、武将の威信や武勇を象徴するものであり、時には戦友とも呼ぶべき深い絆で結ばれていた 1 。武将の評価は戦場での活躍に大きく左右され、騎馬武者にとって馬の性能や訓練度は戦力に直結した 3 。特に優れた能力を持つ馬や、主君の危機を救うなどの功績があった馬は「名馬」として認識され、武将のステータスともなったのである 4 。膝突栗毛のような馬が後世に語り継がれ、墓まで建立されて顕彰される背景には、こうした馬と人との深い精神的な結びつきと、武勇を尊ぶ当時の価値観が存在する。
数ある名馬の中でも、膝突栗毛は主君の危機を救ったという劇的な逸話によって特に知られており、その名は武勇伝と共に記憶されている。本報告を通じて、その歴史的評価を再確認する。膝突栗毛の逸話は、馬の忠誠心と機転が主君の命を救ったという、まさに理想的な名馬の姿を示しており、特別な存在として記憶され、顕彰されたのは自然な流れと言える。
膝突栗毛は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した薩摩の武将、島津義弘(しまづ よしひろ、天文4年(1535年) - 元和5年(1619年))の愛馬であった 4 。義弘は勇猛果敢な戦いぶりで知られ、「鬼島津」の異名を持つほど数々の戦功を挙げた人物であり、その生涯において馬は重要な役割を果たした。
膝突栗毛は、その名の通り栗毛(くりげ)の馬であった 6。毛色は赤茶色で、「騂(くりげ)」の字もこの色を指す 9。性別は牝馬(ひんば)であったと記録されている 8。
当時の日本の馬は、木曽馬に代表される在来種であり、現代のサラブレッドなどと比較すると体高が低く、130センチメートル程度、大きいものでも140センチメートル台で、現代の分類ではポニーに相当するサイズであった 1。これらの馬は、胴長短足で消化器が発達し、蹄(ひづめ)が堅固で急峻な坂道の歩行に適していたとされる 12。膝突栗毛もこうした日本在来馬の特徴を備えていたと考えられる。一般的に軍馬というと勇壮な牡馬(おうま)を想起しがちだが、膝突栗毛が牝馬と明記されている点は、当時の馬の運用において、能力さえあれば性別は二の次であったか、あるいは牝馬特有の利点(例えば気性の穏やかさなど)が評価された可能性を示唆する。
「膝突栗毛」の他に、「膝跪騂(ひざつきくりげ)」という表記も見られる 9 。特に墓碑にはこの「膝跪騂」の字が用いられている。「跪」はひざまずくという意味であり、「突」と同様に、その名の由来となった逸話を反映している。
膝突栗毛が持つ日本在来馬としての資質は、その名を不朽のものとした逸話と無関係ではない。小型ながらも強靭な身体能力、山岳地帯での活動に適した頑健さ、そしておそらくは高い瞬発力やバランス感覚が、木崎原の戦いにおける絶体絶命の状況下での機敏な動きを可能にしたと考えられる。その活躍は、単なる偶然や奇跡ではなく、馬自身の資質と日頃の訓練の賜物であったと推測できる。
表1: 膝突栗毛の基本情報
項目 |
詳細 |
典拠 (史料ID) |
主君 |
島津義弘 |
4 |
毛色・性別 |
栗毛・牝馬 |
6 |
名前の由来「膝突」 |
木崎原の戦いにて膝を折り主君を救った逸話 |
1 |
別名 |
長寿院栗毛 |
1 |
主な功績 |
木崎原の戦いでの救主 |
1 |
墓所の所在地 |
鹿児島県姶良市鍋倉 亀仙院墓地 |
7 |
この表は、膝突栗毛に関する基本的な情報を集約し、報告書全体の理解を助けるものである。各情報には典拠を付記し、信頼性を担保している。
元亀3年(1572年)5月、日向国(現在の宮崎県)の伊東義祐(いとう よしすけ)軍約3000が、島津義弘が守る真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市周辺)に侵攻したことにより、木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)が勃発した 14 。島津軍はわずか300という寡兵であったが、義弘の巧みな戦術と情報戦、そして伏兵を駆使した奇襲により伊東軍を破った 14 。この戦いは、島津氏の薩摩・大隅・日向の三州統一における重要な戦いの一つと位置づけられている 14 。
この木崎原の戦いの最中、島津義弘は伊東軍の武将と一騎討ちになったと伝えられている。その相手は伊東軍の総大将格であった伊東祐信(いとう すけのぶ)とされることが多い 8。『木崎原の戦い - Wikipedia』によれば、「大将の祐信は義弘との一騎討ちに敗れ三角田の地で討ち取られる」とある 8。
一方で、柚木崎正家(ゆのきざき しょうか)、通称・丹後守(たんごのかみ)との交戦の際であったとする説も存在する 8。『粥餅田古戦場』に関する記述では、柚木崎丹後守正家が槍で義弘を突こうとした際に、義弘の馬が前脚を折ったため槍が外れ、結果として丹後守は義弘に討ち取られたと記されている 16。
敵将が槍を繰り出して義弘を狙ったまさにその瞬間、義弘が騎乗していた栗毛の牝馬が、機転を利かせて前膝を地面に着くほどに折り曲げ、主君の体を低くさせた 1。
この馬の行動により、敵将の槍は義弘の頭上を逸れ、義弘は致命的な一撃を回避することができた。この絶体絶命の状況で主君を救った馬の行動が、「膝突(膝跪)栗毛」という名の直接的な由来となったのである 9。
この逸話は、膝突栗毛の賢さと忠誠心、そして島津義弘の武運の強さを示すものとして、後世に語り継がれることとなった。また、寡兵で大軍を破った木崎原の戦いにおける象徴的な出来事の一つとしても記憶されている。一騎討ちの相手に複数の説が存在することは、この逸話が語り継がれる中で細部が変化した可能性を示唆するが、馬が膝を折って主君を救ったという核心部分は一貫しており、これが最も重要視された点である。木崎原の戦いは義弘の軍事的キャリアにおいて重要な勝利であり、その中での一騎討ちという個人の武勇が試される場面で愛馬が超常的とも言える行動で主君を救った物語は、劇的で人々の記憶に残りやすく、義弘の武運の強さ、馬の賢明さ、そして主従の絆という、戦国武将譚において好まれる要素を凝縮している。だからこそ後世まで語り継がれたと考えられる。
膝突栗毛は、「長寿院栗毛(ちょうじゅいんくりげ)」という別名でも知られている 1 。複数の資料でこの別名が併記されていることから、単なる誤伝ではなく、ある程度一般的に認識されていた呼称と考えられる。
「長寿院栗毛」という別名の存在は確認されるものの、その正確な由来は、提供された史料からは明確に特定することが難しい。
まず、膝突栗毛の墓碑に関する記録が重要な手がかりとなる。鹿児島県姶良市の亀仙院墓地にある膝突栗毛の墓は、宝永4年(1707年)に種子島伊時によって再建され、その由来を記した撰文が安永6年(1777年)に石碑に刻まれたとされている 9 。しかし、この墓碑や関連する記録(例えば、種子島伊時が碑を建立した際の経緯を記した京都大学学術情報リポジトリの資料 17 )には、「長寿院」という名称に関する記述は見当たらない 9 。この事実は、「長寿院栗毛」という呼称が、少なくとも18世紀初頭の公式な顕彰においては主要な名称ではなかった可能性、あるいは後代に広まったか、特定の範囲でのみ使用された愛称であった可能性を示唆している。
この「長寿院」という名称の由来として最も有力視されるのが、島津義弘の重臣であった長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ、? - 慶長5年(1600年))との関連である 18 。長寿院盛淳は、元は畠山氏の出自で、僧侶(安養院住持などを務めた 18 )から還俗し、島津義久・義弘に家老として仕えた人物である。特に、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、敗走する義弘の身代わりとなって敵中に残り、壮絶な討死を遂げたと伝えられる忠臣であった 18 。主君が寵愛する馬に、信頼する家臣の名や号、あるいはその家臣ゆかりの寺院の名(この場合は「長寿院」)を冠することは、十分に考えられる。また、 34 には長寿院盛淳の名を冠した焼酎が存在し、島津義弘の菩提寺である妙円寺(現徳重神社)が薩摩の寺院遺跡「長寿庵」の近くにあるとの記述もあり、「長寿院」という名称が島津氏やその周辺で一定の認知度を持っていたことがうかがえる。
しかしながら、長寿院盛淳と膝突栗毛(あるいは長寿院栗毛)を直接結びつける具体的な逸話や、義弘自身や同時代の人々がこの馬を「長寿院栗毛」と呼んでいたという明確な一次史料は、現時点の調査では確認されていない。単に馬の長寿を願って、あるいは実際に長命であったことから「長寿」という言葉が冠され、それに「院」が付いた可能性も完全に否定はできないが、特定の人物や場所との関連を考える方が自然であろう。
したがって、「長寿院栗毛」の名の由来については、長寿院盛淳との関連が最も蓋然性の高い仮説として考えられるものの、それを断定できる直接的な証拠は不足している。この別名がどのような経緯で、いつ頃から用いられるようになったのかについては、今後のさらなる史料調査(例えば、島津家の詳細な記録、江戸時代の地誌、個人の日記など)によって明らかにされることが期待される。この由来の曖昧さ自体が、歴史研究の一側面であり、今後の探求の余地を残していると言える。
膝突栗毛は、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでその名を広く知られるようになった後も、引き続き島津義弘の愛馬として各地の戦に従軍したと伝えられている 9 。島津義弘自身、九州統一を目指す戦いや、豊臣秀吉による九州平定後の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)、そして関ヶ原の戦いなど、生涯にわたり数多の重要な戦役に参加している 4 。膝突栗毛がこれらの戦の全てに帯同したかは定かではないが、主君の重要な局面において傍らにいた可能性は十分に考えられる。
膝突栗毛は長命であったと伝えられている 9 。具体的な没年や生きた年数に関する正確な記録は、提供された資料の中には見当たらない。しかし、主君である島津義弘は元和5年(1619年)に85歳(数え年)という当時としては非常に長寿を全うしており、もし膝突栗毛が義弘の晩年近くまで生きていたとすれば、確かに馬としても長命であったと言えるだろう。戦乱の世において、軍馬が戦傷や過労、疫病などで命を落とすことなく天寿を全うすることは容易ではなかった。そのような状況下で「長命であった」と特筆されることは、単に運が良かっただけでなく、手厚い飼育管理がなされていたことを示唆する。木崎原で自らの命を救われたという経験を持つ義弘が、膝突栗毛に対して特別な配慮をもって接し、大切に飼育したと考えるのは自然なことであろう。この「長命」の伝承は、義弘の馬に対する深い愛情と、その結果としての馬の福祉が比較的良好であったことを間接的に示しており、武将と馬の単なる主従関係を超えた、情愛の側面を浮き彫りにする。
木崎原の戦いにおける輝かしい逸話以降の、膝突栗毛の具体的な活躍や、いつ、どこでその生涯を閉じたのかについての詳細な記録は、現在のところ不明である。しかし、その死後、鹿児島県姶良市に墓が築かれ、手厚く葬られたという事実から、故郷である薩摩の地で穏やかな最期を迎えた可能性が高いと考えられる。
表2: 膝突栗毛関連年表
年代 (元号/西暦) |
主な出来事 |
関連人物・事項 |
典拠 (史料ID) |
元亀3年 (1572) |
木崎原の戦い。膝突栗毛が島津義弘の危機を救う。 |
島津義弘、伊東祐信、(柚木崎正家) |
4 |
慶長5年 (1600) |
(参考) 関ヶ原の戦い。島津義弘の家老・長寿院盛淳討死。 |
島津義弘、長寿院盛淳 |
18 |
元和5年 (1619) |
(参考) 島津義弘 没。 |
島津義弘 |
|
慶安2年 (1649) |
膝突栗毛の飼育係・橋口対馬 没(享年83)。 |
橋口対馬 |
9 |
宝永4年 (1707) |
種子島伊時により、損傷した膝突栗毛の墓が再建され、由来を記した撰文が亀仙院に与えられる。 |
種子島伊時、田中五右衛門国明 |
9 |
安永6年 (1777) |
種子島伊時の撰文が石碑に刻まれる。 |
種子島伊時 |
9 |
平成12年 (2000) |
関ヶ原400年記念事業を機に「十九日馬踊り」が復活。 |
― |
7 |
この年表は、膝突栗毛自身の活躍の時期から、その死後の顕彰、そして現代における伝承の復活までを時系列で示している。これにより、一頭の名馬の記憶が、いかに長い時間を超えて地域社会に影響を与え続けてきたかを理解することができる。
膝突栗毛の墓は、鹿児島県姶良市鍋倉(なべくら)宇都(うと)の北端に位置する亀仙院墓地(きせんいんぼち)内に現存している 9 。具体的な住所は「鹿児島県姶良市鍋倉1318」とされている 10 。この墓は馬の墓であり、その右隣には膝突栗毛の由来を刻んだ石碑が建立されている 9 。
現存する墓の製作年は江戸時代の宝永4年(1707年)である 9。碑文によると、この年、薩摩藩の家臣であった種子島伊時(たねがしま これとき)が郡県視察の際にこの地を訪れ、元々あった膝突栗毛の墓が著しく損傷しているのを見て、これを新しく建て直したと記されている 9。その際、伊時は膝突栗毛の由来を記した撰文(せんぶん、文章のこと)を儒官の田中五右衛門国明(たなか ごえもん くにあき)に作らせ、これを亀仙院に与えたという 9。17の記録には「史官田中五右衛門国明に嘱して文を草せしめ碑を立つ」とより具体的に記されており、この再建が公式な記録として残されていることがわかる。
その後、安永6年(1777年)になって、先に種子島伊時が亀仙院に与えた撰文が、石碑として刻まれた 9。このことから、現在我々が見ることのできる石碑の由来書きは、18世紀初頭にまとめられ、同世紀後半に石に刻まれた内容に基づいていることがわかる。一介の馬の墓が、その死後100年以上も経過した時期に、藩の要人によって再建され、公式な由来書まで作成されたという事実は、単なる感傷的な行為とは考えにくく、膝突栗毛の逸話が島津家の武勇伝の一部として、また義弘公の記憶を伝える上で重要であると認識されていたことを示している。
膝突栗毛の墓の東側には、この名馬の飼育を担当していた橋口対馬(はしぐち つしま)とその妻の墓が並んで建てられている 7 。橋口対馬は島津義弘の家臣として、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いにも従軍し、常に義弘のそばを守った忠実な人物であったと伝えられている 9 。彼は慶安2年(1649年)に83歳で亡くなったと記録されている 9 。主君の愛馬の墓のすぐそばに、その世話をした家臣夫妻の墓が設けられているのは非常に手厚い扱いであり、義弘が馬だけでなく、それを支えた人々をも大切に思っていたこと、そしてその後世の人々がその意を汲んで両者の絆を形として残そうとした結果かもしれないと推察される 27 。
かつて、春を告げる初午祭(はつうまさい)の折には、帖佐(ちょうさ、現在の姶良市の一部)の地域住民が、旧暦の正月十九日に、馬の守護神である馬頭観音(ばとうかんのん)への参詣の代わりに、この膝突栗毛の墓へ詣でるという風習があったと伝えられている 7。これは、膝突栗毛が単なる歴史上の名馬としてだけでなく、地域において馬の守護神的な存在として信仰の対象となっていたことを強く示唆している。馬頭観音は馬の守護仏であり、農耕や運搬に馬が不可欠であった時代には広く信仰されていた。膝突栗毛の墓がその代わりとして参詣の対象となったということは、この馬が「島津義弘の愛馬」という歴史上の存在を超えて、より普遍的な「馬の霊験」や「守護」といった性格を帯びるようになったことを意味する。これは、英雄譚が民衆の信仰に取り込まれ、ローカルな聖地として機能するプロセスの一例と言える。
この地域の伝統行事は長く途絶えていたが、平成12年(2000年)の関ヶ原合戦400年記念事業を一つの契機として、「十九日馬踊り(じゅうくにちうまおどり)」として復活し、現在も続けられている 7。これは、歴史的な記憶が現代において再活性化され、地域固有の文化遺産として継承されようとしている注目すべき事例である。
戦国時代に武将たちが戦場で騎乗していたのは、主に日本在来馬であった。これらの馬は、現代競馬などで見られるサラブレッド種などと比較すると総じて小型であり、体高(地面から肩までの高さ)は平均して120センチメートルから140センチメートル程度であったとされ、現代の馬の分類基準ではポニーに相当する 1。
長野県を原産地とする木曽馬などが、当時の代表的な在来種として挙げられる 1。これらの日本在来馬は、モンゴル高原の馬(蒙古馬)の系統を引くと考えられており、全体的にずんぐりとした体型、太く短い首、頑丈な肢体、そして豊かな鬣(たてがみ)や尾毛といった身体的特徴を持っていた 1。
性格は比較的温和で扱いやすく、粗食にもよく耐え、消化器官が発達していたとされる。また、蹄が非常に堅固であったため、日本では雪国で馬に履かせる藁沓(わらぐつ)などを除いて、蹄鉄を装着する技術や習慣があまり発達しなかったと言われている 3。
日本の在来馬の歩様(歩き方)には特徴的なものがあり、「側対歩(そくたいほ)」と呼ばれる、同じ側の前後の肢を同時に動かす歩き方をすることがあった。この歩様は、馬体が上下に揺れにくいため、荷物を運ぶ駄載に適しており、特に山道などの不整地を安定して進むのに有利であったとされている 3。戦国時代の合戦は山間部や不整地で行われることも多く、このような環境では大型馬よりも小型で足腰の強い日本在来馬の方が有利であった可能性が考えられる。
薩摩国、大隅国、日向国(現在の鹿児島県全域と宮崎県の一部に相当)は、古くから馬の産地として知られており、江戸時代の薩摩藩政期には「九州一の馬産地」との評判も得るほどであった 28。
藩内には「牧(まき)」と呼ばれる馬の放牧地が各地に設けられ、組織的な馬産が積極的に行われていた 28。例えば、現在の鹿児島県阿久根市にあった笠山には瀬崎野牧場という、藩内でも特に優秀な馬を産出したと言われる牧場が存在した記録がある 29。
これらの牧では、毎年春になると「春駒捕り」や「馬追(うまおい)」などと呼ばれる行事が行われ、二歳になった若駒を選別して捕獲し、軍馬やその他の用途に補充していた 28。
鹿児島県には現在もトカラ馬という在来馬の品種が残っており、これはかつての薩摩の馬産文化の名残の一つと言える 1。
島津氏は武家としての歴史も古く、鎌倉時代から馬術を重視していたことが記録からうかがえる。例えば、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、島津氏の2代当主島津忠時が犬追物(いぬおうもの、馬上から犬を弓で射る武芸)に参加したという記述が見られる 30。江戸時代に入ってからも、薩摩藩では麓(ふもと)と呼ばれる武家屋敷群には必ずと言っていいほど馬場が設けられ、武士たちは日常的に馬術の鍛錬に励んでいた 31。
膝突栗毛もまた、こうした薩摩の豊かな馬産文化と、日本在来馬が持つ優れた特性を背景として誕生し、育成された名馬であったと考えることができる。木崎原の戦いで見せた、その小柄な体躯からは想像もつかないほどの強靭さや機敏な動きは、まさに日本在来馬の特徴を体現していたと言えるだろう。膝突栗毛の活躍は、馬自身の資質に加え、それを引き出す飼育・訓練環境、そして乗り手である島津義弘の卓越した馬術という、複数の要因が複合的に作用した結果として捉えることができ、名馬伝説が単なる偶然の産物ではなく、それを生み出す確固たる土壌が存在したことを示唆している。
本報告では、戦国時代の名馬・膝突栗毛について、その主君である島津義弘との関係、馬名の由来となった木崎原の戦いにおける劇的な逸話、別名「長寿院栗毛」に関する多角的な考察、鹿児島県姶良市に現存する墓の存在とそれにまつわる地域伝承、そして当時の日本の馬の一般的な特徴や薩摩藩における馬産文化といった、幅広い視点から調査を行った。
その結果、膝突栗毛は栗毛の牝馬であり、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いにおいて、一騎討ちの際に機転を利かせて膝を折り、主君・島津義弘の危機を救ったことからその名が付けられたこと、後世には「長寿院栗毛」という別名でも呼ばれたこと、そしてその墓が鹿児島県姶良市に現存し、飼育係であった橋口対馬の墓と共に、地域住民によって大切に守り継がれていることなどが明らかになった。
膝突栗毛は、単に一頭の優れた馬であったという事実を超えて、歴史的に重要な意義を持つ存在である。まず、戦国武将と馬との間に存在した深い絆や信頼関係を象徴している。また、その名は島津義弘の武勇伝を彩る上で欠かせない要素となっており、危機的状況における機転と忠誠の価値を後世に伝えている。さらに、膝突栗毛の墓やそれに関連する地域の伝承(初午祭での参詣や十九日馬踊りの復活など)は、歴史上の出来事や人物、さらには動物までもが、地域社会の中でどのように受容され、記憶され、そして文化として継承されていくかを示す貴重な事例と言える。膝突栗毛の物語は、歴史的事実、伝説、そして地域信仰が融合した文化遺産として捉えることができ、島津義弘という英雄的人物の記憶を補強し、薩摩の歴史と文化に対する誇りを育む一助となってきたと考えられる。
本報告で一定の成果は得られたものの、いくつかの課題も残されている。特に「長寿院栗毛」という別名の正確な由来については、長寿院盛淳との関連が強く示唆されるものの、決定的な史料は見つかっておらず、さらなる史料の発見と分析が待たれる。また、膝突栗毛に関する記述が、今回調査した範囲以外の一次史料、例えば島津家関連のより詳細な古文書や、江戸時代に編纂された他の地誌(『三国名勝図会』や『薩摩旧記雑録』の未確認部分など)、個人の日記や記録などに存在しないか、継続的な文献調査が望まれる。これらの研究が進むことで、膝突栗毛の実像はより一層明らかになるであろう。現代においても、その物語や史跡が地域振興や歴史教育の場で活用される可能性を秘めている。
本報告書の作成にあたり参照した主要な情報源は以下の通りである。