最終更新日 2025-05-29

帝釈栗毛

帝釈栗毛

加藤清正の愛馬「帝釈栗毛」に関する総合的考察

序論

戦国時代において、馬は単なる移動手段に留まらず、武将の武威を象徴し、戦場における機動力を左右する極めて重要な軍需品であった。優れた馬、いわゆる名馬は、所有する武将の格を示す一種のステータスシンボルであり、時には戦局そのものに影響を与え得るほどの価値を持ったと認識されている。数多の武将が名馬を求め、その逸話は今日にも語り継がれている。

その中でも、豊臣秀吉子飼いの武将として数々の戦功を挙げ、築城の名手としても知られる加藤清正の愛馬として伝えられる「帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)」は、主の勇猛さを映し出すかのように、特異な逸話と共にその名を歴史に刻んでいる。

本報告書は、この加藤清正の愛馬「帝釈栗毛」に関して現存する資料や伝承を可能な限り網羅的に調査し、その名称の由来、身体的特徴、気性、関わる逸話、清正との関係性、そして後世に与えた影響について、詳細な分析と考察を行うことを目的とする。

第一章:帝釈栗毛の概要

一.名称と語源:「帝釈栗毛」の名とその由来

帝釈栗毛という名は、「帝釈」と「栗毛」という二つの要素から構成されている。「栗毛(くりげ)」とは馬の毛色の一種を指し、黄褐色または赤みがかった茶色の毛を持つ馬の呼称であり、これは馬の一般的な命名法に則ったものである。

注目すべきは「帝釈」の部分であり、複数の資料 1 が一致して、この名は仏教の守護神である「帝釈天(たいしゃくてん)」に由来すると指摘している。帝釈天は、仏法を守護する天部の神であり、須弥山の頂上にある忉利天(とうりてん)の主とされる。武勇に優れ、戦闘神としての性格も有しており、古くから武人たちの信仰を集めてきた。

加藤清正自身が熱心な日蓮宗(法華宗)の信者であったことは、彼が戦場で「南無妙法蓮華経」の題目を記した旗を用いたことからも明らかである 1 。この信仰心に鑑みれば、愛馬に帝釈天の名を冠した背景には、戦場での守護や武運長久を祈念する意図があったと推察される。また、帝釈栗毛の並外れた能力や威容を、勇武の神である帝釈天になぞらえたとも考えられよう。具体的な命名の経緯に関する直接的な史料は見当たらないものの、当時の武将が愛馬に勇壮な名や縁起の良い名を付けることは一般的であった。帝釈天の名を冠することは、単に勇ましさを表現するだけでなく、その馬に神聖な格を与え、ひいては主君である清正の権威を高める効果も期待されたのではないか。清正の信仰心、帝釈天の神格、そして馬の持つ力強さが結びつき、「帝釈栗毛」という名は、単なる個体名を超えた意味合いを帯びるに至ったと考えられる。

二.身体的特徴と「六尺三寸」の謎

帝釈栗毛は「巨体」であったと多くの資料で言及されており 3 、その勇壮な姿が伝説の一翼を担っている。特に注目されるのは、その具体的な体高として「六尺三寸」という数値が複数の二次資料 1 で示されている点である。一尺を約30.3センチメートルとして換算すると、六尺三寸は約190.89センチメートルとなり、現代の大型馬にも匹敵する堂々たる体躯である。加藤清正自身も大柄な人物であったと伝えられており 5 、巨漢の主にこそふさわしい巨馬というイメージが、後世において形成されていった。

しかしながら、この「六尺三寸」という数値の信憑性については慎重な検討を要する。戦国時代の日本の在来馬の平均体高は、現代のサラブレッド(平均約160~170センチメートル 6 )と比較して総じて小さく、概ね130センチメートルから145センチメートル程度であったと考えられている。例えば、当時の馬の体高記録法として、四尺(約120センチメートル)を基準とし、それを超える分を「何寸何分」と記述した可能性が指摘されている 7 。また、近世南部藩における馬の記録では、四尺を「尺」と称し、五尺を「十寸(とき)」と呼ぶ言葉があったとの記録もある 8 。もし帝釈栗毛の体高が文字通り六尺三寸であったとすれば、当時の日本の馬としては破格の大きさであり、大陸からの輸入馬であった可能性も考えられるが、そのような記録は確認されていない。

この「六尺三寸」という具体的な数値が、同時代の一次史料(清正自身の手記や信頼できる同時代の記録など)によって裏付けられているわけではない。後世の編纂物や口承によって定着した可能性が高いと考えられる。したがって、「六尺三寸」という数値は、帝釈栗毛の並外れた印象を強調するための象徴的な表現、あるいは誇張が含まれたものである可能性も否定できない。

以下に、伝承される帝釈栗毛の体高と他の馬の体高を比較した表を示す。

表1: 帝釈栗毛の伝承される体高「六尺三寸」の換算と比較

項目

体高(推定)

備考

帝釈栗毛(伝承)

約190.89cm

六尺三寸

戦国時代の日本在来馬(平均)

130cm - 145cm

諸説あり

現代のサラブレッド(平均)

160cm - 170cm

6

この表からも明らかなように、伝承される帝釈栗毛の体高は、当時の日本の馬の基準から著しく逸脱している。この「六尺三寸」という具体的な数値が繰り返し語られることは、史実性の検証とは別に、帝釈栗毛の「伝説化」に大きく寄与した要素と言えるだろう。数値は具体的なイメージを喚起しやすく、記憶に残りやすいため、伝承の過程でこの特徴が強化され、多くの二次資料で引用されることで「帝釈栗毛=六尺三寸の巨馬」というイメージが広く定着した。そして、この定着したイメージが、さらなる逸話や伝説を生み出す土壌となった可能性も考えられる。

三.気性と世評

帝釈栗毛の気性については、「巨体で暴れまわる馬だった」と伝えられており 3 、非常に荒々しい性質であったことがうかがえる。熊本の本妙寺境内にあると伝えられる栗毛堂(後述)に関する記述の中にも、「かなり気性の激しい馬だったらしい」との言及が見られる 9

気性が荒い名馬は、優れた乗り手でなければ乗りこなせないとされ、それを乗りこなすこと自体が武将の技量と勇気を示すものであった。帝釈栗毛もまた、加藤清正という傑出した武将だからこそ自在に操ることができたという含意が、これらの伝承の背後には読み取れる。

その勇名は江戸時代の庶民にまで広く知れ渡っていた。後述する「江戸のもがりにさわりはすると よけて通しゃれ帝釈栗毛」という歌が江戸市中で謳われたこと 3 が、その何よりの証左である。この歌は、帝釈栗毛の武勇、あるいは恐ろしさが、専門的な武人の間だけでなく、一般大衆の間にまで浸透していたことを示している。

帝釈栗毛の「荒々しい気性」は、単に扱いにくいという否定的な側面だけでなく、その並外れた力強さや生命力の現れとして肯定的に捉えられた可能性が高い。武勇を尊ぶ当時の価値観と結びつき、主である清正の武威を高めるとともに、馬自身の名声をも高める要因となったのである。制御し難いほどのエネルギーを持つ馬を乗りこなす武将という構図は、英雄譚として語り継がれやすいものであった。

第二章:帝釈栗毛をめぐる逸話と伝承

一.「江戸のもがりにさわりはすると よけて通しゃれ帝釈栗毛」の深層

帝釈栗毛に関する最も有名な伝承は、江戸の市民の間で謳われたとされる以下の歌である。

「江戸のもがりにさわりはすると よけて通しゃれ帝釈栗毛」

この歌は多くの資料で引用されており 3、帝釈栗毛の知名度と、人々が抱いていた畏敬の念を如実に示している。

この歌の解釈において鍵となるのが「もがり」という言葉の語義である。古語としての「もがり(殯)」は、貴人の遺体を本葬前に一定期間安置する儀式やその場所を指す言葉であり 11 、歌の文脈にはそぐわない。一方、江戸時代の俗語としての「もがり(虎落)」は、「ゆすり・たかり」といったならず者の行為や、そのような者たちを指す言葉として用いられていた 13 。井原西鶴の浮世草子『本朝二十不孝』や『織留』にも、「おそろしきもがりどもにかたられ」といった用例が見られる 14

歌の文脈から判断すれば、「もがり」は後者の「ゆすり・たかりを働くような江戸のならず者、あるいはそのような危険な場所や行為」と解釈するのが最も自然である。すなわち、この歌は「江戸の町のならず者に手を出すような命知らずな者であっても、帝釈栗毛にだけは手出しをするな、避けて通るべきだ」という意味合いになり、帝釈栗毛の恐ろしさ、容易に手出しのできない存在としての威厳を強調している。

この歌の存在は、帝釈栗毛が単なる一頭の馬としてではなく、江戸市中において一種の畏怖の対象、あるいは伝説的な存在として認識されていたことを強く示唆している。加藤清正自身の武勇や人望が江戸時代においても高く評価されていたこと、そして物語性に富んだ逸話が当時の庶民に好まれた世相を反映していると言えよう。特に江戸という大都市でこの歌が流行したことは、情報の伝播力の大きさと、庶民の英雄譚や珍奇なものに対する関心の高さを示している。歌という形態は口承に適しており、帝釈栗毛の伝説をより広範囲に、かつ永続的に伝える上で大きな役割を果たしたと考えられる。

二.その他の逸話と記録の空白

帝釈栗毛に関する逸話は、前述の歌が特に有名であるが、他にも断片的な記述や、逆に記録が乏しい側面も見られる。

ある資料 16 において、帝釈栗毛が「城塞を滅ぼす兵器」という概念を持ち、障害物をことごとく粉砕する力を持つとされる記述がある。しかし、この記述の出典や文脈が不明瞭であり、歴史的事実としてではなく、後世の創作やゲームなどの設定である可能性も考慮し、慎重に扱う必要がある。

加藤清正が活躍した主要な戦役、例えば文禄・慶長の役(朝鮮出兵)や九州平定などにおいて、帝釈栗毛が具体的にどのような役割を果たし、どのような活躍を見せたかについての詳細な記録は、提供された資料群からは乏しいのが現状である 2 。清正の朝鮮での戦いぶりや、関連する出来事については複数の資料で触れられているものの 1 、その際の乗馬に関する具体的な記述は少ない。名馬の逸話は、必ずしも具体的な戦功と直結するわけではなく、その馬の持つ際立った特徴(姿、気性、血統など)や、所有者との関係性から生まれることが多い。帝釈栗毛の場合、その圧倒的な存在感と「江戸のもがりに~」の歌が、具体的な戦功記録以上にその名を高めた可能性がある。

また、帝釈栗毛を清正がいつ、どこで、どのような経緯で入手したのかという具体的な情報を示す信頼性の高い史料は見当たらない。山内一豊の愛馬「鏡栗毛」については、妻千代の機転によって高価な名馬を購入し、それが織田信長の目に留まるきっかけとなったという有名な逸話が残っているが 4 、帝釈栗毛に同様のドラマチックな入手譚があったかどうかは不明である。名馬の入手に関する物語は、しばしばその馬の価値や所有者の慧眼を示すものとして語られるが、帝釈栗毛に関してはその部分が記録の空白となっている。この不明瞭さが、かえって帝釈栗毛の出自を神秘的なものにし、伝説性を高める一因となっているのかもしれない。帝釈栗毛に関する記録は、具体的な「行動」よりも、その「存在」そのものに焦点が当てられている傾向が見受けられる。これは、馬が単なる道具としてではなく、主の威光や伝説を体現する象徴として認識されていたことを示唆している。

第三章:加藤清正と帝釈栗毛

一.猛将清正と巨馬の威容

加藤清正は、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられるなど、その武勇で知られた猛将である 17 。朝鮮出兵の際には虎を退治したという伝説も残り 1 、その勇猛果敢なイメージは広く浸透している。加えて、清正自身も大柄な人物であったと伝えられており 5 、その巨躯に、六尺三寸(約191cm)と伝わる帝釈栗毛のような巨馬は、まさに相応しい組み合わせであったと言えるだろう。

大男の清正が、この帝釈栗毛に騎乗した姿は、戦場において敵に強烈な威圧感を与えたであろうことは想像に難くない 5 。これは単に物理的な戦闘力に寄与するだけでなく、敵の士気を挫き、味方の士気を高揚させるという心理的な効果も大きかったと考えられる。武将とその愛馬は一心同体と見なされることが多く、帝釈栗毛の持つ勇猛さや威容は、そのまま清正の武威をさらに高めることに繋がり、逆に清正の武勇が帝釈栗毛の名声を不動のものにしたと言える。清正と帝釈栗毛の関係は、単なる主と騎乗馬という実用的な関係を超え、互いのイメージを増幅し合う共生的なものであった。帝釈栗毛の存在が清正の「猛将」としてのイメージを補強し、清正の武名が帝釈栗毛を「名馬」として伝説の域に押し上げたのである。

二.入手経緯の謎

前述の通り、帝釈栗毛の具体的な入手経緯、すなわち清正がいつ、どこで、誰から、あるいはどのような状況でこの馬を得たのかを示す信頼できる史料は、現在のところ確認されていない。考えられる可能性としては、朝鮮出兵の際に戦利品として獲得した、あるいはかの地で優れた馬を見出した可能性、国内の有力大名や商人からの献上、または購入などが挙げられるが、いずれも推測の域を出ない。

名馬の入手譚は、しばしばその馬の価値や所有者の慧眼、時には運命的な出会いを物語る重要なエピソードとして語り継がれることが多い。しかし、帝釈栗毛に関しては、その部分が歴史のベールに包まれている。この情報の欠落は、帝釈栗毛の出自をある種神秘的なものにし、伝説性を高める一因となっているとも考えられる。詳細な記録が存在すれば、その物語はより具体的なものとなったであろうが、現状では後世の人々の想像力を掻き立てる余地を残している。「どこからともなく現れた名馬」「清正の武勇に引き寄せられるようにして彼の許に来た馬」といった、よりロマンチックで英雄譚的な解釈が生まれる土壌を提供したとも言えよう。

三.戦場における役割:伝説と史実の狭間

加藤清正は、文禄・慶長の役において主力武将の一人として朝鮮半島を転戦し、数々の戦いでその武勇を示した 1 。当然、愛馬である帝釈栗毛もこれらの戦いに帯同していたと考えられる。しかしながら、具体的な戦闘において帝釈栗毛がどのような役割を果たし、どのような活躍を見せたのかを詳細に記した一次史料は乏しい。『朝鮮王朝実録』など朝鮮側の記録においても、清正の動向や戦略については記述が見られるものの 18 、その乗馬に関する詳細までは言及されていないのが通常である。

朝鮮出兵以前の九州平定戦や、関ヶ原の戦いに際しての九州における西軍方諸城の攻略など 16 、清正が騎馬武者として陣頭指揮を執ったであろう戦いは数多いが、これらの戦いにおける帝釈栗毛の具体的な役割や功績もまた、明確な記録としては伝わっていない。

近年のゲームや創作物においては、帝釈栗毛に特殊な能力が付与されたり、特定の役割が与えられたりする描写が見られることがある。例えば、あるゲームでは「歩兵を強化する軍馬」として設定されていたり 22 、別の文脈では「城塞を滅ぼす兵器」といった概念的な評価がなされたりしているが 16 、これらはあくまでフィクションの範疇であり、史実とは区別して考える必要がある。

帝釈栗毛の戦場での実際の役割は、その伝承される巨体と荒々しい気性から推測するに、まず第一に主である清正の武威を示す象徴としての役割が大きかったと考えられる。また、敵陣への突撃の際には、その巨躯を活かして先駆けとなり、敵の戦列に衝撃を与える役割も担ったであろう。しかしながら、具体的な戦闘記録よりも、その圧倒的な存在感自体が伝説として語り継がれた側面が強いと言わざるを得ない。戦国時代の戦闘記録は、武将の采配や部隊の動き、討ち取った首の数などが中心に記されることが多く、個々の馬の行動まで詳細に記録されるケースは、よほど特殊な逸話がない限り稀であった。帝釈栗毛は清正の主要な戦いに常に帯同し、その威容で貢献した可能性は高いが、それが具体的な「戦功」として記録に残る形にはならなかった。しかし、その並外れた姿や気性は人々の記憶に強く残り、「江戸のもがりに~」の歌のような形で、戦場での具体的な活躍とは別の形で伝説化が進んだ。これは、史料に残る「戦功」と、人々の記憶に残る「伝説」とが、必ずしも一致しない場合があることを示す一例と言えるだろう。

第四章:後世への影響と記憶

一.熊本における伝承と奉斎:本妙寺「栗毛堂」

加藤清正の菩提寺である熊本市西区の本妙寺は、清正ゆかりの寺として知られ、その遺品などが数多く納められている 23 。この本妙寺の境内に、「栗毛堂(くりげどう)」と称される御堂が存在し、帝釈栗毛が祀られていると伝えられている 9 。一部の記録によれば、堂内には馬の人形が安置されているともいう 9

愛馬を専門の堂宇を設けて祀るという行為は、その馬が単なる家畜や道具としてではなく、特別な存在として認識されていたことを強く示唆するものである。帝釈栗毛が加藤清正の寵愛を受けた名馬であったこと、そしてその馬自身が持つ伝説性が、このような形で後世に伝えられる理由となったと考えられる。栗毛堂の具体的な建立年代や詳細な経緯に関する情報は、提供された資料からは明確ではないが、本妙寺が清正の菩提寺として整備され、信仰の対象として崇敬を集めていく過程で、清正にゆかりの深い重要な存在として帝釈栗毛もまた祀られるようになったと推測される。これは馬そのものへの信仰というよりは、清正への敬愛の念が、その愛馬にも及んだ結果と見るべきであろう。清正を顕彰する上で、その象徴的な存在であった帝釈栗毛の記憶もまた不可分であり、栗毛堂の建立は、清正の記憶を後世に伝えるという目的の中で、その愛馬の伝説もまた保存し、語り継ぐための装置として機能したと考えられる。

二.各地の銅像と帝釈栗毛の影

加藤清正の勇姿を伝える銅像は日本各地に存在するが、騎馬像の場合、その乗馬が帝釈栗毛をイメージしているのか、あるいは特定のモデルがあるのかは興味深い点である。

熊本市内の健軍神社の参道には、加藤清正の勇壮な騎馬像が建立されている 26 。この像の馬が、清正の愛馬である帝釈栗毛ではないかと推測する向きもある 26 。しかし、この健軍神社の像に関しては興味深い指摘がなされている。それは、この銅像の馬は、騎乗する清正をより大きく、威厳あるものとして見せるために、意図的に実際の馬の均整よりも小さく作られているというものである 26 。これが事実であれば、帝釈栗毛の伝承される「巨体」とは逆の表現アプローチであり、銅像制作者の芸術的判断や、顕彰対象である清正を際立たせるという目的が優先された結果と言える。

その他の地域にある清正の騎馬像についても、その馬が帝釈栗毛を具体的にモデルとしていると明示されているケースは少ない。しかし、帝釈栗毛の伝説が広く知られているため、清正の騎馬像を見る人々が、その乗馬の姿に自然と帝釈栗毛の面影を重ね合わせることは十分にあり得るだろう。銅像における馬の表現は、史実の忠実な再現のみを目的とするのではなく、制作者の解釈、像が設置される場所の歴史的・文化的文脈、依頼主の意向など、様々な要因によって左右される。健軍神社の像の事例は、伝説がそのままの形で視覚芸術に反映されるとは限らず、表現媒体やその目的に応じて解釈され、時には変容されることを示している。

三.文学・創作における姿

帝釈栗毛の伝説は、そのドラマチックな要素から、後世の文学や創作物の題材としても魅力的であったと考えられる。

「江戸のもがりにさわりはすると よけて通しゃれ帝釈栗毛」という歌自体が、当時の庶民文芸、例えば流行歌や都々逸といったものの一環であった可能性が考えられる。その他の江戸時代の文学作品、例えば講談や軍記物語の類で帝釈栗毛がどのように描かれたかについては、さらなる専門的な調査が必要となるが、提供された資料からは具体的な作品名を特定することはできなかった。

近現代の歴史小説や漫画、ゲームなどの創作物においては、加藤清正が登場する場合、その愛馬として帝釈栗毛が言及されることは少なくない。ただし、その描写は作者の創作や脚色が多く含まれるため、史実とは慎重に区別して扱う必要がある。例えば、特定の能力を持つ馬として描かれたり 16 、清正との間に特別な絆が強調されたりすることがある。

帝釈栗毛に関する史実の細部が不明な点が多いことも、かえって創作者の想像力を刺激する要因となっている可能性がある。強烈なイメージ(巨体、荒馬、有名な歌)と、史料の乏しさとの間に存在するギャップが、創作物において多様な解釈や役割を与える余地を生んでいる。創作者は、基本的な伝説(巨体、荒馬など)を踏まえつつ、物語上の役割や清正との関係性などを自由に肉付けすることができる。結果として、帝釈栗毛は様々な創作物において、時に史実以上にドラマチックな存在として描かれ、その伝説が再生産され続けている。

結論

加藤清正の愛馬として語り継がれる帝釈栗毛は、その名称(帝釈天由来)、伝承される巨体(六尺三寸)、荒々しい気性、そして何よりも「江戸のもがりにさわりはすると よけて通しゃれ帝釈栗毛」という江戸市中で謳われた有名な歌によって、戦国時代から江戸時代、さらには現代に至るまで、人々の記憶に残り続ける名馬である。

その具体的な出自や戦場での詳細な活躍については、信頼性の高い一次史料が乏しく不明な点が多い。しかし、その圧倒的な存在感と主君加藤清正との強固な結びつきが、数々の逸話や伝承を生み出し、帝釈栗毛を単なる馬以上の伝説的な地位へと押し上げた。史実と伝説が複雑に絡み合い、その姿を形作っていると言えよう。

後世への影響も大きく、清正の菩提寺である熊本の本妙寺における栗毛堂での奉斎や、各地に建立された清正の騎馬像における乗馬の姿に、帝釈栗毛の面影が偲ばれる。このように、帝釈栗毛は単なる武将の持ち馬という範疇を超え、加藤清正という傑出した歴史上の人物を語る上で不可欠な文化的アイコンとして、後世に大きな影響を与え続けている。

今後の課題としては、帝釈栗毛に関する未発見の一次史料のさらなる発掘調査や、現存する関連伝承の比較検討を通じて、その実像と伝説が形成されていった過程をより深く解明することが期待される。

参考文献

本報告書作成にあたり参照した資料は、 3 から 19 、及び 4 から 26 の記号で示される各情報源である。これらに加え、戦国時代の馬に関する専門書、加藤清正に関する伝記、熊本県関連の郷土史料なども、本考察の背景として参照されるべきものである。

引用文献

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