本報告書は、日本の戦国時代に存在したとされる「星崎」という名の馬について、現存する資料群に基づき、その詳細を明らかにすることを目的とする。調査対象は、「星崎」という名の馬の存在、名称の由来、所有者とされる人物、伝えられる特徴、関連する逸話、そしてそれら情報の史料的根拠である。
「星崎」という馬に関する情報は、特にその史料的根拠において不明瞭な点が多く、本報告書ではその点を踏まえつつ、提供された情報から可能な限りの考察を行う。まず、「星崎」という名称の背景として、尾張国の「星崎城」との関連性、および馬の身体的特徴としての「星」との関連を検討する。次に、名馬「星崎」の伝承として、所有者とされる富田一白、豊臣秀吉からの下賜の経緯、馬の特徴、関連逸話について詳述する。続いて、これらの情報の史料的検討と信憑性について論じ、最後に戦国時代の名馬に関する補足的情報を加えた上で結論を述べる。
「星崎」という馬名は、地名や馬の身体的特徴など、複数の要素が絡み合って形成された可能性が考えられる。本章では、これらの背景について検討する。
尾張国には「星崎城」という城郭が存在したことが確認されている 1 。この城は鎌倉時代初期に山田重忠によって築かれたと伝えられ、戦国時代には岡田重善やその子・重孝などが城主を務めた 1 。岡田重孝は織田信長の次男・信雄に仕えた尾張星崎城主であった 3 。
しかしながら、提供された資料からは、この星崎城やその城主であった岡田氏と、「星崎」という名の馬が直接的に関連するという明確な記述は見出すことができない 1 。馬の「星崎」の所有者として後述する富田一白と、尾張星崎城との間に直接的な領地関係や深い関与を示す資料も提供されておらず、馬名が星崎城に直接由来するとは考えにくい。
「星崎」という地名が歴史的に存在し、ある程度の知名度を有していたと仮定した場合、同名の馬の伝承が存在すれば、たとえ両者に直接的な史実としての関連がなくとも、名称の一致が人々の記憶に残りやすくしたり、あるいは両者が無意識的に関連付けられたりする可能性は考慮されてよい。特に、馬の「星崎」に関する史料的裏付けが薄い場合、著名な地名がその名称の「権威付け」や「記憶の補強」に寄与したという見方も成り立つかもしれない。これは、歴史的事実とは別に、伝承が形成され流布する過程における一つの要因を示唆している。したがって、地名と馬名の一致が、史実とは異なる関連性を想起させたり、伝承の定着に影響を与えたりする可能性を念頭に置く必要がある。
馬の額に見られる白い斑点を「星(ほし)」と呼ぶことは、古くから一般的である 4 。この「星」は、その形状や大きさによって「小星(こぼし)」「大星(おおぼし)」、あるいは形が乱れた「乱星(らんせい)」、曲がった「曲星(きょくせい)」、環状の「環星(かんせい)」などと細かく分類され、個体識別の重要な目印とされてきた 4 。
戦国時代の言葉としても、馬の額の白い毛の模様を指すものとして「戴星(うびたい)」や「星月(ほしづき)」といった、「星」の字を用いた表現が存在したことが記録されている 7 。例えば、『平家物語』に登場する名馬「望月(もちづき)」は、その額に「曲星(月型の白い毛)」があったことから名付けられたとされており、馬の身体的特徴が名称の由来となることは珍しくなかった 8 。
これらの事実を踏まえると、「星崎」という馬名が、その馬の額にあった「星」と呼ばれる特徴的な斑紋に由来する可能性は高いと推測される。「崎(さき)」という部分が具体的にどのような形状の星を指すのか、あるいは別の意味合いを持つのかは提供資料からは不明であるが、「際立って目立つ星」や「岬のように尖った形状の星」といった特徴を示唆する可能性も考えられなくはない。
馬の額の「星」は、単なる装飾ではなく、個体識別のための重要なマーキングであった 4 。もし「星崎」という名称が額の「星」に由来するのであれば、それはその馬の具体的な身体的特徴を捉えた命名法であり、単なる抽象的な名称ではなく、視覚的な特徴に基づいた実用的な意味合いを持っていた可能性が示唆される。これは、戦国武将が馬を単なる移動や戦闘の道具としてだけでなく、個々の特徴を持つ存在として認識し、時には愛着を抱いていたことの一端を示すものかもしれない。馬名が単なる記号ではなく、その馬の具体的な特徴や個性を反映していた可能性は、当時の人々と馬との関係性を垣間見せる上で興味深い点である。
以下に、馬の額の「星」に関連する呼称をまとめる。
表1: 馬の額の「星」に関連する呼称
呼称 |
意味・説明 |
主な典拠 |
星(ほし) |
額に見られる白い丸のような模様 |
4 |
小星(こぼし) |
親指より小さな星 |
4 |
大星(おおぼし) |
握り拳より大きな星 |
4 |
乱星(らんせい) |
星の形が乱れたもの |
4 |
曲星(きょくせい) |
星の形が曲がったもの |
4 |
環星(かんせい) |
星が環状になっているもの |
4 |
流星(りゅうせい) |
星が鼻筋方向に流れている模様 |
4 |
戴星(うびたい) |
馬の額の白い毛の模様を指す戦国時代の言葉 |
7 |
星月(ほしづき) |
馬の額の白い毛の模様を指す戦国時代の言葉 |
7 |
この表は、「星崎」の「星」が馬の身体的特徴と関連する可能性を具体的に示すものであり、当時の人々が馬の細かな特徴を認識し、名付けていた文化を浮き彫りにする。
「星崎」という馬は、特定の武将に所有され、その功績によって下賜されたという伝承が残されている。本章では、その詳細について検討する。
「星崎」の所有者として伝えられるのは、富田一白(とみた いっぱく)という武将である 9 。富田一白は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した大名であり、諱(いみな)は知信(とものぶ)、あるいは信広(のぶひろ)、長家(ながいえ)など複数伝わっている 11 。通称は平右衛門、号を一白、後に水西と称した 11 。
富田一白は、はじめ織田信長に仕え、天正元年(1573年)の長島一向一揆における千種合戦での奮戦などが伝えられる 11 。本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に仕え、その側近として重用された 11 。特に外交や実務に長けた人物であったとされ、小牧・長久手の戦い(天正12年、1584年)においては、秀吉と織田信雄との間の和睦交渉で活躍したと記録されている 12 。その功績もあってか、文禄4年(1595年)には伊勢国安濃津(あのつ)城主となり、5万石(一説には6万石)の大名となった 9 。晩年は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)の一人であった 11 。
富田一白が単なる一武将ではなく、大名格であり、秀吉の側近という高い地位にあったことは重要である。戦国時代において、名馬は武将のステータスシンボルであり、その武威を示す重要な要素であった 13 。彼ほどの人物であれば、優れた馬、すなわち名馬を所有していても何ら不自然ではない。このような社会的背景が、「星崎」の伝承が富田一白という特定の人物と結びつけられることの правдоподобие(もっともらしさ)を高めている可能性がある。名馬の所有が武将の格を示すという当時の価値観を理解することは、伝承が特定の人物に帰属する背景を考察する上で一つの視点となる。
「名馬星崎」は、豊臣秀吉から富田一白(知信)に下賜されたと伝えられている 9 。その理由として最も広く知られているのは、前述の小牧・長久手の戦いにおいて、富田一白が織田信雄との和睦交渉に奔走し、その成立に貢献した功績を賞してのものであったというものである 9 。
小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉にとって天下統一事業を進める上で極めて重要な戦役であり、その終結に貢献した人物への恩賞は十分に考えられる。戦国時代において、馬、特に名馬を下賜することは、武功や忠節に対する恩賞の一般的な形態の一つであった 15 。
「小牧・長久手の戦いでの和睦交渉の功」という具体的な下賜理由は、この伝承に一定のリアリティを与えている。しかしながら、この具体的な逸話が、信頼性の高い一次史料によって直接的に裏付けられているか否かは、提供された資料の範囲内では確認できない。具体的な逸話の存在は、物語性を高め、伝承をより魅力的なものにする効果がある一方で、それがそのまま史実であることを証明するものではない。むしろ、歴史的に著名な事件や人物に結びつけることによって、伝承がより広く受け入れられやすくなるという側面も考慮する必要がある。したがって、伝承が持つ物語性と、その史実性とは慎重に区別して評価する必要がある。
「星崎」という馬の特徴については、「体躯精悍、有風度」と評されている記述が散見される 10 。これは、その馬体が引き締まって強く、全体として風格があったことを意味し、名馬にふさわしい優れた身体能力と威厳を兼ね備えていたことを示唆する。
しかしながら、これは名馬に対する一般的な美辞麗句とも解釈でき、具体的な毛色、体高、あるいは特異な能力に関する詳細な情報は、提供された資料の中には見当たらない。「体躯精悍、有風度」という特徴描写は、多くの名馬に当てはまりうる一般的な賛辞である。これが、例えば特定の毛色、珍しい斑紋の形状(「星」の形状が「崎」と表現されるほど特徴的だったのかなど)、並外れた速さや持久力に関する具体的なエピソードなどを欠いている点は注目に値する。もし「星崎」が実在し、特筆すべき名馬であったならば、より具体的な特徴や、それを裏付ける逸話が記録されていても不思議ではない。この一般的な描写は、伝承が後世に形成される過程で、具体的なディテールが失われたか、あるいは元々具体的な情報が乏しかった可能性を示唆している。特徴に関する記述の具体性が乏しいことは、伝承の起源や史実性を考察する上での一つの論点となる。
提供された資料の中には、「星崎」という馬に直接関連する具体的な武勇伝や特別な逸話、例えば戦場で主人である富田一白の窮地を救った、あるいは特筆すべき能力を発揮したといった物語は見当たらない。ゲーム「毛利元就 誓いの三矢」には「星崎」という名称のアイテム(馬)が登場するものの、その由来やゲーム内での詳細な効果についての記述は提供されていない 18 。
戦国時代の名馬には、しばしばその馬の賢さや勇猛さ、主人との絆を示す逸話が付随することが多い 13 。しかし、「星崎」に関しては、豊臣秀吉からの下賜の経緯とされる話以外に、特筆すべき具体的な逸話が確認できない。これは、この馬に関する伝承が限定的であるか、あるいは詳細な物語が後世に伝わる過程で失われてしまった可能性を示している。
名馬「星崎」の伝承は存在するものの、その史料的根拠や信憑性については慎重な検討が必要である。本章では、関連資料の性質と一次史料における言及の有無を中心に考察する。
「星崎」という馬に関する情報は、主にインターネット上のウェブサイト(個人の歴史愛好家のサイト、歴史関連の情報を集めたまとめサイト、オンライン百科事典など)や、歴史シミュレーションゲームに関連する情報源に見られることが多い 9 。特に中国語のウェブサイト(例えばWikipediaやオンラインフォーラム)では、「星崎」が豊臣秀吉から富田知信(一白)へ下賜された名馬であり、「体躯精悍、有風度」であったといった記述が見られる 10 。
しかしながら、これらの情報源の多くは、同時代の一次史料を直接引用しているわけではなく、二次的、あるいは三次的な情報に基づいて記述されている可能性が高い。例えば、中国語版Wikipediaの「星崎」に関する記事は、2011年5月31日の時点で「参考資料や出典が全く示されていない」との注記が付されており、その情報の出所や信頼性については疑問符が付く状態であったことがわかる 17 。
このような状況は、「星崎」の伝承が、近年のインターネットを通じた情報拡散や、歴史を題材としたゲームなどの創作物を介して広まった可能性を示唆している。学術的に信頼性の高い一次史料や、それに準ずる質の高い編纂史料において、「星崎」という馬に関する明確な記述は、提供された資料の範囲内では確認できない。
情報が、特に典拠が不明確なウェブサイトや他言語のプラットフォームで散見されることは、情報が伝播する過程で変容したり、あるいは確証がないまま再生産されたりする可能性を考慮する必要がある。例えば、あるゲームに「星崎」という名の馬が登場し、それに何らかの背景設定が付与された場合、そのゲーム内の情報が史実として誤解されたまま広まるというケースも考えられる。中国語圏の資料で言及が見られる点も、特定のゲームや出版物がその情報伝播に影響を与えた可能性を考える上で興味深い。これは、現代における歴史情報の流通経路の多様性と、それに伴う情報の信頼性評価の難しさを浮き彫りにしている。
以下に、名馬「星崎」に関する主な情報を、その典拠の性質と共に示す。
表2: 名馬「星崎」に関する情報概要
項目 |
内容 |
主な典拠 |
典拠の性質(提供資料に基づく) |
所有者とされる武将 |
富田一白(知信) |
9 |
ウェブサイト、フォーラム |
下賜したとされる人物 |
豊臣秀吉 |
9 |
ウェブサイト、フォーラム |
下賜の経緯とされる出来事 |
小牧・長久手の戦いにおける和睦交渉の功 |
9 |
ウェブサイト、フォーラム |
伝えられる特徴 |
体躯精悍、有風度 |
10 |
ウェブサイト、フォーラム |
この表は、「星崎」に関する主要な言説を整理し、各言説がどのような種類の情報源に基づいているかを明確に示す。これにより、読者は一目で「星崎」の物語の核心部分と、その情報が学術的な一次史料ではなく、主にウェブ上の二次情報や伝聞に依存している可能性が高いことを理解できる。
富田一白(知信)自身に関する同時代の一次史料、例えば彼が発給または受領した書状などの存在は示唆されているものの 19 、提供された資料群の中に、彼が「星崎」という名の馬を所有していた、あるいは豊臣秀吉から下賜されたという直接的かつ明確な記述は見当たらない。富田一白の事績を記す複数の二次史料や概説書においても、「星崎」という馬に関する具体的な言及は確認できないのが現状である 11 。
現時点での提供資料に基づけば、「星崎」という馬の存在を、信頼性の高い一次史料によって確認することは困難であると言わざるを得ない。したがって、この伝承の信憑性については、それを積極的に肯定する史料的証拠が乏しい状況にある。
一次史料に「星崎」の記述が見られない(提供された範囲内では)という事実は、この馬の物語が厳密な意味での「史実」というよりは、多分に「伝承」の域に留まることを強く示唆している。伝承は、必ずしも厳密な史実に基づいていなくても、人々の記憶や語りの中で生き続けることがある。特に、富田一白のような歴史上の実在人物に関連付けられることで、伝承はより信憑性を帯びたかのように語られることがある。この場合、「星崎」の物語は、歴史的事実の記録というよりも、後世の人々が富田一白という人物や戦国時代という時代に対して抱いたイメージや期待が投影されたもの、あるいは何らかの断片的情報が増幅・変容したものである可能性も否定できない。
ただし、史料に残らなかった名馬が存在した可能性を完全に否定することもまた困難である。「名将に名馬あり」という言葉に代表されるように 14 、戦国武将とその愛馬を結びつける物語は人々に好まれる傾向があり、富田一白ほどの人物であれば、そのような伝承が後世に形成されたとしても不思議ではない。歴史研究においては、史料批判の重要性と、史実と伝承を慎重に区別する必要性が改めて認識される。
「星崎」の伝承をより広い歴史的文脈の中で理解するため、戦国時代における名馬の存在とその意義について簡潔に触れておくことは有益であろう。
戦国時代には数多くの名馬が存在し、その武勇や特徴、あるいは主人との逸話と共に名を後世に伝えている。例えば、武田信玄の愛馬とされ、信玄以外には乗りこなせない気性の荒い馬であったという「黒雲(くろくも)」 13 、上杉謙信が川中島の戦いで騎乗したと伝わる「放生月毛(ほうしょうつきげ)」 15 、織田信長が伊達輝宗から献上された奥州一の名馬「白石鹿毛(しろいしかげ)」や、蒲生氏郷に下賜した「小雲雀(こひばり)」 15 、徳川家康に仕えた本多忠勝の愛馬で、関ヶ原の戦いで活躍したとされる「三国黒(みくにぐろ)」 15 など、枚挙にいとまがない。
これらの名馬は、単なる移動手段や戦闘力の一部としてだけでなく、主人の武威やステータスを象徴する存在でもあった 13 。優れた馬を持つことは武将にとって誇りであり、時には恩賞として下賜されたり、外交の際の贈答品として用いられたりすることもあった 13 。また、多くの名馬には、戦場で主人を危機から救った話、驚くべき速さや持久力を示した話、あるいは主人との深い絆を示す心温まる話など、様々な逸話が伴っている 13 。
「星崎」の伝承もまた、このような「名将に名馬あり」という戦国時代の文化的背景の中で理解することができる。他の著名な戦国時代の名馬の事例と比較すると、「星崎」の伝承は、豊臣秀吉からの下賜の経緯と「体躯精悍、有風度」という一般的な特徴描写に留まり、具体的な活躍譚や詳細な身体的特徴に関する情報が、提供された資料の範囲内では欠けているように見受けられる。この比較は、「星崎」の伝承が他の名馬伝承と比べてやや輪郭が曖昧である可能性を示唆しており、その情報量や具体性の度合いを相対的に評価する上で一つの手がかりとなる。
本報告書では、日本の戦国時代に存在したとされる名馬「星崎」について、提供された資料群に基づいて詳細な調査と考察を行った。
その結果、以下の点が明らかになった。
以上の点を総合的に勘案すると、現時点では、「星崎」は史実として確定できる存在というよりは、戦国時代の武将と名馬をめぐる興味深い伝承の一つとして捉えるのが妥当である。富田一白という歴史上実在した人物に結び付けられたこの伝承は、当時の武士と馬との関わりや、名馬が持つ象徴的価値を反映している可能性があり、戦国時代の文化を考察する上での一つの材料となり得る。
今後のさらなる史料調査によって新たな情報が発見される可能性は皆無ではないが、本報告書の範囲においては、上記が「星崎」に関する知見の現状と限界である。