最終更新日 2025-05-30

鬼鹿毛

鬼鹿毛

武田氏の名馬「鬼鹿毛」に関する総合的考察

序論

武田氏とその愛馬「鬼鹿毛」の紹介

戦国時代、甲斐武田氏はその強力な騎馬軍団で名を馳せ、馬は戦略上、また武将の威信を示す上で極めて重要な存在であった。数ある武田氏ゆかりの馬の中でも、特に武田信虎・信玄親子に関連付けられる名馬「鬼鹿毛(おにかげ)」は、後世の軍記物などを通じて広く知られ、現代に至るまで歴史愛好家の関心を集めている。鬼鹿毛は単なる移動や戦闘の手段としての馬に留まらず、武将の個性や親子間の複雑な関係性を象徴する存在として、様々な逸話と共に語り継がれてきた。その存在は、戦国時代の武士と馬との関わり、さらには武田家の内情を垣間見る上で、興味深い手がかりを提供する。

本報告の目的と構成

本報告は、現存する史料や関連研究の成果に基づき、名馬「鬼鹿毛」の実像に可能な限り迫ることを目的とする。具体的には、その名称の由来と意味、伝承される身体的特徴、所有者である武田信虎およびその子信玄との関わりを巡る逸話、そしてこれらの情報を伝える主要な史料である『甲陽軍鑑』の記述内容と史料的価値について、多角的に検討を行う。

報告の構成は以下の通りである。まず第一部では、鬼鹿毛の名称の由来と所有者について概観する。続く第二部では、伝承される鬼鹿毛の体格や毛色といった身体的特徴を、当時の日本の馬の一般的な姿と比較しながら考察する。第三部では、鬼鹿毛を巡る最も有名な逸話である武田信玄の渇望と、その情報源である『甲陽軍鑑』の記述の信頼性について深く掘り下げる。さらに、武田氏の鬼鹿毛とは異なる同名の馬の伝承についても触れ、混同を避ける。第四部では、より広い視野から、戦国時代の馬事文化、特に甲斐国の馬産と武田氏の騎馬隊の関連、そして当時の名馬の評価基準について論じ、鬼鹿毛が置かれていた歴史的文脈を明らかにする。最後に、これらの調査結果を総括し、鬼鹿毛が歴史の中で持つ意義について結論を述べる。

第一部:鬼鹿毛の概要

第一章:名称の由来と意味

「鬼」の含意する勇猛さと「鹿毛」の毛色

「鬼鹿毛」という名称は、その馬の特性と外見的特徴を端的に示していると考えられる。まず「鬼」という接頭辞は、日本の伝承において超人的な力を持つ存在や、荒々しい性質を指す言葉である。馬名にこれが用いられる場合、その馬が並外れて気性が荒いこと、または驚異的な強さや勇猛さを持っていることを示す意図があったとされる 1 。これは単に恐ろしいという否定的な意味合いだけでなく、乗り手を選ぶほどの卓越した能力に対する畏敬の念が込められていた可能性も考えられる。武将たちは、馬の単なる従順さよりも、その内に秘めた力強さや荒々しさをも含めた「格」を重視していた可能性があり、そのような馬を乗りこなすこと自体が、武将自身の力量や威厳を示す一種のステータスシンボルであったとも推測される。

次に「鹿毛(かげ)」とは、馬の毛色の一種を指す。具体的には、体毛が赤みがかった茶褐色(明るい赤褐色から暗い赤褐色まで幅がある)で、たてがみ、尾、そして四肢の下部が黒色を帯びるのが特徴である 2 。この毛色は、日本在来馬においても一般的なものであり 3 、現代の競走馬にも多く見られる毛色である 2

したがって、「鬼鹿毛」という名は、「気性が荒く勇猛な、あるいは並外れて優れた鹿毛の馬」といった意味合いを持つと解釈できる 1

戦国時代の馬名における「鬼」の用例

戦国時代やそれ以前の歴史において、「鬼」を冠する馬名は鬼鹿毛以外にも散見される。例えば、平安時代末期の武将である源義仲(木曽義仲)の愛馬として「鬼葦毛(おにあしげ)」の名が『平家物語』「木曽の最期」などに伝えられている 5 。葦毛は年齢と共に毛色が白く変化していく特徴を持つが、これに「鬼」が付くことで、その馬の尋常ならざる様相や能力が強調されたのであろう。

これらの用例は、「鬼」という言葉が持つ力強さや畏怖のイメージを借りて、名馬の際立った個性を表現しようとした当時の武将たちの価値観や感性の一端を示していると言えるかもしれない。

第二章:所有者と時代背景

武田信虎の愛馬として

鬼鹿毛は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名であり、武田信玄(晴信)の父である武田信虎の愛馬であったと、複数の資料で一致して伝えられている 1 。信虎は甲斐国を統一し、武田氏の戦国大名としての基礎を築いた人物である。彼は戦上手であったと同時に、馬や武具などを特に愛好した人物であったとされ 1 、鬼鹿毛も彼が所有した多くの名物の一つとして数えられていたようである。

武田信虎の人物像と鬼鹿毛への執着

武田信虎の人物像については、後世に編纂された『甲陽軍鑑』などを中心に、粗暴で傲慢、家臣や領民に厳しく当たった暴君として描かれることが多い 11 。しかし、これらの記述には、信虎を追放して家督を継いだ息子・信玄の行動を正当化するための脚色が含まれている可能性も歴史研究において指摘されている 11

鬼鹿毛に関して伝えられる逸話の中で最も有名なのは、信虎がこの馬を溺愛し、息子の信玄(当時の名は晴信)が再三にわたり所望したにもかかわらず、決して手放さなかったというものである 1 。この逸話は、信虎の頑固な性格や、一度気に入ったものに対する並々ならぬ執着心を示すものとして解釈されることが多い。信虎にとって鬼鹿毛は、単に優れた馬というだけでなく、自身の権威や甲斐国主としての威光を象徴する存在であった可能性がある。強力な戦国大名であった信虎が、自らが認めた名馬を所有し、それを誇示することは、自身の力を内外に示す行為でもあっただろう。そのような特別な馬を、たとえ嫡男であっても容易に譲らないという態度は、彼の支配者としての矜持の表れであったのかもしれないし、あるいは晴信に対する不信感や、自身の権力の健在ぶりを誇示する意図があったとも深読みできる。

第二部:鬼鹿毛の姿

第一章:伝承される身体的特徴

『甲陽軍鑑』に見る体高:四尺八寸八分

鬼鹿毛の身体的特徴に関する最も具体的な記述は、江戸時代初期に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』巻一に見られる。そこには、鬼鹿毛の体高(地上から馬の背の最も高い部分までの高さ)が「四尺八寸八分」であったと記されている 1 。当時の尺度である一尺は約30.3センチメートル、一寸はその十分の一、一分はさらにその十分の一と換算すると、四尺八寸八分は約147.8センチメートル、およそ148センチメートルとなる。この体高が事実であれば、当時の日本の馬としては際立って大きな体躯であったことを意味する。

毛色:「鹿毛」の詳細

名称が示す通り、鬼鹿毛の毛色は「鹿毛(かげ)」であったとされる。鹿毛は、馬の被毛が明るい赤褐色から暗い赤褐色までの範囲にあり、長毛(たてがみや尾)と四肢の下部(膝や飛節から下)が黒色を呈するのが特徴である 2 。栗毛との違いは、この長毛と四肢下部の色であり、栗毛ではこれらの部位が黒くならない 2 。鹿毛は、日本在来馬においてもごく一般的な毛色の一つであり 3 、その色合いの濃淡によって様々なバリエーションが存在したと考えられる。

第二章:戦国時代の馬との比較

当時の日本在来馬の体格

戦国時代に武将たちが戦場で騎乗していた馬は、主に日本在来馬であった。これらの馬は、現在の長野県木曽地方原産の木曽馬に代表されるような種類であったと考えられている 4 。日本在来馬の体高は、平均しておおよそ120センチメートルから140センチメートル程度であり、現在の国際的な基準(体高147センチメートル以下)では「ポニー」に分類される比較的小柄な馬であった 4 。これらの馬は、胴長短足で消化器が発達し、肢や蹄は堅固で、日本の急峻な山道や不整地での行動に適した頑強な体躯を持っていた 12

実際に、平成元年(1989年)に武田氏の居館であった武田氏館跡(現在の甲府市古府中町、武田神社境内)の発掘調査では、戦国時代のものと見られるほぼ完全な馬の骨格が出土している 10 。この馬の体高は約120センチメートルと推定されており 16 、当時の標準的な軍馬の大きさを具体的に示している。この馬は丁寧に埋葬されていた状況から、単なる荷駄馬ではなく、身分の高い武将が乗っていた馬、あるいはそれに準ずる重要な馬であった可能性が指摘されている 10

鬼鹿毛の体格の位置づけ

『甲陽軍鑑』が伝える鬼鹿毛の体高約148センチメートルという記述は、上記の日本在来馬の平均的な体格と比較すると、著しく大きい。もしこの記述が史実を正確に反映しているのであれば、鬼鹿毛は当時の日本において稀に見る大型の馬であり、その威容はまさに「名馬」と呼ばれるにふさわしいものであったと言えるだろう 1

ただし、この体高の記述はあくまで『甲陽軍鑑』という特定の史料に依拠するものであり、その史料的価値については慎重な検討が必要であることは後述する。鬼鹿毛の148センチメートルという体高は、史実としての正確性もさることながら、物語の中でその馬の稀少性や価値を際立たせ、信虎の頑迷さや信玄の渇望の度合いを強調するための文学的・象徴的な意味合いを帯びている可能性も否定できない。必ずしも誇張であると断定することはできないが、その数値が持つ物語上の機能を考慮に入れる必要がある。

以下に、鬼鹿毛の体高を他の馬と比較した表を示す。

馬の種類

体高(推定)

備考

鬼鹿毛

四尺八寸八分(約148cm)

『甲陽軍鑑』の記述に基づく 5

戦国時代の日本在来馬(平均)

約120cm~140cm(ポニー相当)

木曽馬など 4

武田氏館跡出土馬

約120cm

戦国期の大将級の馬と推定 16

サラブレッド(現代・参考)

約160cm~170cm

比較参考 1

この表からも、伝承される鬼鹿毛の体高が、当時の日本の馬の中でいかに突出していたかが理解できる。

第三部:鬼鹿毛をめぐる逸話と伝承

第一章:武田信玄の渇望

父信虎への懇願とその拒絶

鬼鹿毛にまつわる逸話の中で最も広く知られているのは、若き日の武田信玄(当時は晴信)が父・信虎に対し、この名馬を繰り返し所望したものの、信虎は頑としてこれを聞き入れなかったというものである 1 。ある資料によれば、信虎は「武田家の全てをやっても鬼鹿毛だけはやらん」とまで言い放ったとされ 19 、その執心ぶりは尋常ではなかったことがうかがえる。この逸話は、鬼鹿毛がいかに優れた馬であったか、そして信虎がいかにこの馬を愛蔵していたかを物語っている。

逸話が示唆する親子関係と信虎の性格

この鬼鹿毛を巡る一件は、信虎と晴信(信玄)の父子間の確執や不和を象徴するエピソードとして、しばしば後世の歴史物語などで引用される 1 。一部の解釈では、この出来事が親子関係のさらなる悪化を招き、最終的に天文10年(1541年)、晴信が家臣団と共に父・信虎を甲斐国から駿河国へ追放するという挙に出る遠因の一つになったとさえ言われている 1

しかし、信虎追放の歴史的背景はより複雑であったと考えられている。信虎が嫡男である晴信よりも次男の信繁を偏愛し、晴信の廃嫡を考えていたという説や 20 、信虎の度重なる戦役や苛烈な統治に対する家臣団や国人衆の不満が高まっていたこと 20 など、複数の要因が絡み合っていたとされる。したがって、鬼鹿毛の逸話は、これらの複雑な背景の中で、父子の緊張関係や信虎の強権的な性格を具体的に示す一つの象徴的なエピソードとして捉えるべきであろう。

この逸話が、信玄派による信虎追放の正当性を後世に伝えるためのプロパガンダ的要素を含んでいた可能性も考慮する必要がある。信虎を理不尽で強欲な人物として描き出すことは、信玄のクーデターを正当化する上で都合が良かったかもしれない。『甲陽軍鑑』のような史料が、そうした意図をもってこの逸話を強調した可能性は否定できない。名馬を巡る一件は、信虎の「悪政」や「理不尽さ」を具体的に示す象徴的な物語として機能したのではないだろうか。

第二章:『甲陽軍鑑』における記述とその史料価値

鬼鹿毛に関する主要な記述内容

鬼鹿毛に関する我々が知りうる情報の大部分は、江戸時代初期に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』に由来している 5 。具体的には、前述した鬼鹿毛の体高(四尺八寸八分)や、武田信玄(晴信)が父・信虎にこの馬を所望したが聞き入れられなかったという逸話などが、同書の巻一に記されている。

『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼の二代にわたる武田氏の治世や軍事行動、家臣団の逸話、軍法や武士の心得などを詳細に記述した書物であり、甲州流軍学の聖典として江戸時代を通じて広く読まれ、武士階級のみならず庶民にも影響を与えた 21

『甲陽軍鑑』の信憑性に関する議論と近年の再評価

『甲陽軍鑑』の史料としての価値については、歴史学研究の中で長らく議論の対象となってきた。明治時代以降、実証主義的な歴史学が主流になると、同書に見られる年紀の誤りや他の確実な史料との記述の矛盾点などが指摘され、史実を伝える一次史料としての信頼性は低いと見なされる傾向が強かった 22 。特に、武田信虎の悪行に関する記述や、山本勘助のような人物の活躍については、後世の創作や脚色が多く含まれていると考えられてきた 11

しかし、1990年代以降、国語学者の酒井憲二氏らによる綿密な文献学的・書誌学的研究が進められた結果、『甲陽軍鑑』の成立過程や記述内容の一部について、新たな視点からの再評価が進んでいる 22 。例えば、同書が戦国時代末期の口語的表現を色濃く残していることや、高坂弾正昌信の口述を元に成立したという伝承にも一定の根拠が見出されつつある。また、合戦の具体的な日時や経緯に関する記述には誤りが多いとしても、戦国時代の武士の思想や倫理観、武家故実、日常的な習俗などを知る上では、他に類を見ない貴重な情報を含んでいると認識されるようになってきた 22

鬼鹿毛に関する『甲陽軍鑑』の記述も、このような史料的性格を念頭に置いて解釈する必要がある。つまり、鬼鹿毛の存在自体や、信玄がそれを欲しがったという逸話の核となる部分には、何らかの史実が反映されている可能性は否定できない。しかし、その具体的な体高の数値や、逸話の細かな描写については、物語としての面白さを追求した結果の脚色や、特定の意図(例えば信虎の人物像を操作するなど)による誇張が含まれている可能性も考慮しなければならない。したがって、『甲陽軍鑑』の記述は、史実そのものを直接伝えるものとして鵜呑みにするのではなく、当時の人々が武田氏やその名馬に対して抱いていたイメージや、物語が形成される過程を理解するための一つの手がかりとして、史料批判の視点を持って慎重に扱うべきであると言える。

第三章:その他の「鬼鹿毛」伝承との区別

「鬼鹿毛」という名の馬は、武田信虎の愛馬として語られるもの以外にも、日本の各地の説話や伝説の中に登場する例がいくつか確認されている。これらは武田氏の鬼鹿毛とは時代背景や物語の内容が異なるため、混同しないよう注意が必要である。

例えば、神奈川県横浜市戸塚区俣野町周辺には、かつて横山大膳という盗賊が「鬼鹿毛」という人食い馬を飼っており、旅人をこの馬に乗せて殺害しようとしたという伝説が残っている 24 。この地域には「鬼鹿毛山」という地名も現存し、この伝説と関連付けられている 24

また、埼玉県新座市には、主人の急を知った愛馬「鬼鹿毛」が、既に命尽きていたにもかかわらず亡霊となって走り続け、主人の元へ駆けつけた後、その場で息絶えたという「鬼鹿毛の伝説」が伝わっており、村人たちがその霊を弔って馬頭観音を建立したという由来譚も存在する 26

これらの「鬼鹿毛」伝説は、武田信虎の愛馬とは直接的な関係はないものの、「鬼鹿毛」という名称が持つ喚起力(勇猛さ、超自然的な力、あるいは悲劇性など)が、時代や地域を超えて人々の想像力を刺激し、様々な物語を生み出す素地となった可能性を示唆している。それぞれの「鬼鹿毛」は、その土地の歴史や人々の信仰、あるいは特定の物語の類型と結びつき、独自の文脈の中で語り継がれてきたと考えられる。武田氏の鬼鹿毛もまた、そうした広範な「名馬伝説」の一つのバリエーションとして、甲斐武田氏という特定の歴史的文脈の中で形成され、語り継がれてきた事例と位置づけることができるだろう。

第四部:戦国時代の馬事文化と武田氏

第一章:甲斐国の馬産と武田騎馬隊

「甲斐の馬」の評価と歴史

甲斐国(現在の山梨県)は、古代より良質な馬の産地として知られていた。聖徳太子が甲斐国から献上された「甲斐の黒駒」という神馬に乗り、奈良の都から富士山まで一気に駆け巡ったという「甲斐の黒駒伝説」は、その象徴的な物語である 14 。『延喜式』にも甲斐国に官牧が置かれていた記録があり、組織的な馬産が行われていたことがうかがえる 27 。このような古くからの馬産の伝統と、馬を改良し育成する技術の蓄積が、戦国時代における武田氏の強力な騎馬戦力の基盤となったと考えられている 27 。山梨県立博物館をはじめとする研究機関や博物館では、甲斐の馬に関する考古学的調査や歴史的資料の収集・展示、研究活動が継続的に行われており、その歴史的意義の解明が進められている 14

武田軍における馬の役割と「武田騎馬隊」

武田信玄が率いた武田軍、特にその中核を成したとされる「武田騎馬隊」は、戦国最強と謳われ、その機動力と突進力を活かした戦術は、上杉謙信との川中島の戦いをはじめとする数々の合戦で威力を発揮し、諸国の戦国大名に恐れられた 12 。例えば、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、武田軍は騎馬隊を巧みに運用し、北条軍に勝利したと伝えられている 38

ただし、近年の歴史研究においては、映画やドラマなどで描かれるような、重装備の騎兵が密集隊形で敵陣に突撃するという「武田騎馬隊」のイメージは、やや誇張されたものであるという見方も有力になっている 12 。実際には、当時の日本の戦場や馬の特性を考慮すると、騎乗した武者が機動的に移動し、馬上から弓矢や槍で攻撃したり、あるいは馬を降りて徒歩で戦闘に参加したりする形態が主であったと考えられている。また、当時の日本在来馬は、前述の通り比較的小柄ではあったが、胴長短足で蹄が堅固であり、日本の急峻な山道や不整地での行動に非常に適していた 12

甲斐国が山がちの地形であったことは、そこで産出される馬の質(頑丈さ、登坂能力、持久力など)に影響を与え、それが武田氏の騎馬運用戦術(機動性を重視した奇襲や側面攻撃など)の発展と密接に結びついていたと考えられる。平地での大規模な騎馬突撃よりも、山岳地帯の地の利を活かした柔軟で効果的な馬の運用こそが、武田軍の強さの本質の一つであった可能性がある。

第二章:当時の名馬の評価

武将たちにとっての名馬の条件

戦国時代の武将にとって、馬は単なる移動手段や兵器ではなく、戦場での生死を左右する重要なパートナーであり、自身の武威や権勢を示す象徴であり、そして時には苦楽を共にするかけがえのない相棒としての意味も持っていた 41

名馬の条件としては、まず第一に優れた身体能力が挙げられる。長距離の移動に耐えうる持久力、戦場での俊敏な動き、そして時には甲冑をまとった武者を乗せて険しい地形を踏破する力強さなどが求められた。また、気性も重要な要素であった。あまりに臆病であったり、逆に制御不能なほど荒々しい馬は扱いが難しいが、一方で、武田信玄の愛馬「黒雲」のように、主君以外には決して乗りこなせないほどの激しい気性を持つ馬が、その主君の力量を示すものとして逆に評価されることもあった 6 。さらに、戦場において主君の危機を察知し、身を挺して守るような忠誠心や賢さも、名馬の資質として高く評価されたであろう 41

馬の毛色(鹿毛、栗毛、芦毛、青毛など 2 )も、それぞれの馬の個性を表す重要な特徴であったが、特定の毛色が馬の能力や気性と直接的に結びつけて評価されていたかどうかについては、現存する史料からは一概に断定することは難しい。むしろ、個々の馬の持つ総合的な能力や、主君との相性が重視されたと考えられる。

鬼鹿毛の評価と信虎・信玄の執着の背景

鬼鹿毛が、『甲陽軍鑑』に伝えられる通りの傑出した体躯と、「鬼」の名にふさわしい勇猛な気性や並外れた能力を実際に持っていたとすれば、武田信虎がこれに深く執着し、若き信玄が強く渇望したことは十分に理解できる。

特に、当時の日本の馬の平均的な体格を考えると、鬼鹿毛のような大型の馬は極めて稀少であり、その存在自体が戦略的価値を持つと同時に、所有者の威信を高めるものであった可能性が高い。傑出した馬を所有することは、武将自身の武勇や統率力を周囲に示す象徴的な行為であり、一種のステータスシンボルとしての意味合いも強かったと考えられる。信虎が鬼鹿毛を手放さなかったのは、単なる個人的な愛着だけでなく、自身の権威や甲斐国主としてのステータスを保持したいという意識の表れであった可能性も否定できない。そして、そのような名馬を自らのものにしたいという信玄の願いは、単に優れた馬が欲しいというだけでなく、父の権威に挑戦し、それを乗り越えたいという若き日の野心の表れであったのかもしれない。

結論

鬼鹿毛に関する調査結果の要約

本報告では、戦国時代の武田信虎・信玄親子にゆかりの深い名馬「鬼鹿毛」について、現存する史料と研究成果に基づき多角的な調査を行った。その結果、以下の点が明らかになった。

第一に、鬼鹿毛の名称は、その「鬼」のごとき勇猛さや並外れた能力と、「鹿毛」という毛色に由来すると考えられる。所有者は武田信虎であり、彼の愛馬として知られていた。

第二に、鬼鹿毛の身体的特徴として最も特筆すべきは、『甲陽軍鑑』に記された体高四尺八寸八分(約148センチメートル)という記述である。これが事実であれば、当時の日本在来馬の平均的な体高(約120~140センチメートル)を大きく上回り、破格の大きさを誇っていたことになる。

第三に、鬼鹿毛を巡る最も有名な逸話は、息子である武田信玄(晴信)がこの馬を再三にわたり所望したにもかかわらず、父・信虎がこれを拒絶し続けたというものである。この逸話は、信虎と信玄の父子間の不和や、信虎の強権的な性格を象徴する物語として後世に語り継がれている。

第四に、鬼鹿毛に関する記述の多くは、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に依拠している。同書は、戦国時代の武士の思想や習俗を知る上で貴重な情報を含む一方で、史実の正確性に関しては慎重な吟味が求められる史料である。したがって、鬼鹿毛に関する記述も、その物語性や編纂意図を考慮に入れた上で解釈する必要がある。

歴史における鬼鹿毛の意義

名馬「鬼鹿毛」は、その実在性や具体的な能力、あるいは逸話の真偽以上に、歴史の中で多層的な意義を持つ存在と言える。

まず、鬼鹿毛の物語は、戦国時代の武将と馬との密接な関係性を象徴している。馬は単なる道具ではなく、武将の武威を示し、時には運命を共にする存在であった。鬼鹿毛への信虎の執着や信玄の渇望は、そのような時代における名馬の価値を如実に物語っている。

次に、鬼鹿毛を巡る逸話は、武田信虎と信玄という、戦国史を彩る二人の著名な武将の親子関係やそれぞれの性格を考察する上で、興味深い素材を提供している。たとえそれが後世の脚色を多く含んでいたとしても、人々が彼らの関係性をどのように理解し、語り継いできたかを示す鏡となっている。

さらに、鬼鹿毛に関する記述の主要な情報源である『甲陽軍鑑』という史料の性格を考察する上でも、鬼鹿毛の物語は重要な事例となる。史実と創作が織り交ぜられ、特定の意図をもって編纂された可能性のある軍記物語が、いかにして後世の歴史認識や人物評価に影響を与えうるかを示している。

総じて、鬼鹿毛の物語は、歴史的事実そのものだけでなく、歴史がどのように語られ、記憶され、そして解釈されていくかというプロセスを映し出す貴重な事例である。一頭の名馬を巡る伝説が、武勇伝や英雄譚を彩る重要な要素として機能し、時代を超えて人々の歴史への関心を喚起し続ける力を持っていることを、鬼鹿毛の存在は我々に教えてくれる。

引用文献

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  38. 騎馬隊と流鏑馬/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/40364/
  39. 戦国時代、甲斐の武田軍は騎馬軍団を組織していたと言われるが、どの様な軍団であったのか?騎馬の蹄鉄はど... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000317026
  40. 「大量の鉄砲が武田の騎馬隊を蹴散らした」はウソである…最新の研究でわかった長篠の戦いの本当の姿 武田軍の主力は騎馬隊ではなく長槍隊だった - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/66303?page=1
  41. 戦国時代に活躍した名馬たち https://equia.jp/trivia/post-9407.html
  42. 競走馬の「毛色」を解説! 色の意味と種類を探る | 競馬用語ガイド - netkeiba https://dir.netkeiba.com/keibamatome/detail.html?no=3008
  43. 真っ黒なのに「青毛」!? - Pacalla(パカラ) https://pacalla.com/article/article-73/