戦国乱世において、馬は武将にとって不可欠な存在であった。単に戦場を駆ける移動手段としての役割に留まらず、その機動力は戦術の根幹をなし、所有する馬の質や勇名は武将自身の武威を示す象徴ともなった。さらに、優れた馬は外交における重要な贈答品としても用いられ、時には勢力間の関係をも左右するほどの価値を有していたのである 1 。馬の生産地は経済的な豊かさをもたらし、そこから馬の扱いに長けた武力集団が台頭することも珍しくなく、まさに馬が歴史を動かす一翼を担ったと言っても過言ではない 1 。
数多存在する名馬の中でも、本報告では特に「白石」という名を持つ馬に焦点を当てる。この名称は、徳川家康や織田信長といった天下人の愛馬に見られるだけでなく、他の武将の馬にも散見される。この事実は、単なる偶然を超えた何らかの歴史的背景や、当時の馬に対する価値観、命名文化を反映している可能性を示唆しており、探求に値するテーマである。本報告は、現存する諸資料を博捜し、特に徳川家康の愛馬「白石」と織田信長の愛馬「白石鹿毛」を中心に、その実像に迫るとともに、関連する情報を整理・分析し、戦国時代における馬の意義の一端を明らかにすることを目的とする。
江戸幕府の創始者である徳川家康の愛馬として、「白石」という名の馬が存在したことは、複数の資料によって確認されている 4 。特筆すべきは、その名前に「白」の字を冠しながら、実際の毛色は黒であったという点である。「名は『白』だが毛の色は黒」 4 、あるいは「漆黒の馬だったそう!」 6 といった記述が散見される。
この「名と現の不一致」は、当時の馬の命名慣習の多様性を示唆している。馬名は必ずしも外見的特徴のみに基づいて付けられるわけではなく、産地、献上者、あるいは何らかの故事や象徴的な意味が込められることもあった。例えば、中国の故事に見られる「烏騅(うすい)」は、黒馬でありながら踵が白かったためにその名がついたとされる例もある 4 。家康の「白石」の場合、その命名の正確な由来は不明であるが、毛色とは異なる次元の理由が存在した可能性が高い。あるいは、「白石」という地名(例えば、その馬の産地や、家康が入手した経緯に関わる土地)に由来する可能性も考えられるが、これを裏付ける直接的な史料は現在のところ確認されていない。
徳川家康の愛馬としてその名は知られているものの、「白石」自体に関する具体的な逸話は、現存する資料からは乏しいのが現状である。「知名度の割に情報がとても少ない」 6 との指摘もあり、家康がいつ頃この「白石」に騎乗していたかについても、残念ながら明確な時期は判明していない 4 。
一部資料では、家康の他の愛馬や馬に関する逸話として、静岡県の久能山東照宮に晩年飼育されていた神馬の話や、東京都の初音森神社に伝わる愛馬「三日月」と関ヶ原の戦勝祈願の逸話などが紹介されている 6 。しかし、これらの馬が「白石」そのものであるという確証はなく、特に久能山東照宮の神馬については、その木像が白いことから「白石」である可能性は低いと推測されている 6 。
「白石」に関する逸話の少なさは、必ずしもこの馬が家康にとって重要でなかったことを意味するものではないであろう。むしろ、記録の残り方の問題や、特定の戦功のような際立ったエピソードに恵まれなかった可能性、あるいは本多忠勝の「三国黒」 4 のような他の著名な愛馬の影に隠れてしまった可能性などが考えられる。家康ほどの重要人物の所有物であれば、何らかの形で記録に残る機会は多かったはずだが、その中でも特に印象的な出来事と結びつかなければ、詳細な逸話として後世に伝わりにくかったのかもしれない。また、徳川家の公式記録である『徳川実紀』などにも、「白石」に関する直接的かつ詳細な記述は、提供された資料の範囲では見当たらない 8 。
徳川家康は、「海道一の馬乗り」と称されるほど、卓越した乗馬技術の持ち主であったと伝えられている 6 。この評価は、単に馬を乗りこなす技術に長けていただけでなく、馬の能力を見抜き、それを最大限に引き出す眼識をも備えていたことを示唆するものであろう。
そのような家康が愛馬とした「白石」は、恐らくは優れた資質を持つ馬であったと推測される。漆黒の毛並みを持つこの馬が、具体的にどのような能力(例えば、速度、持久力、気性など)を持っていたかを示す記録は乏しいが、家康の厳しい要求に応えうるだけの何らかの特長を備えていたことは想像に難くない。逸話は少ないものの、この黒馬「白石」が、戦場や平時における家康の行動を支えたとすれば、それは実用性に富んだ強健な馬であった可能性が高い。武将と馬の関係性を考察する上で、名声や見た目の美しさだけでなく、こうした実用性という側面もまた重要であったことを、「白石」の存在は静かに物語っているのかもしれない。
天下統一を目前にした織田信長もまた、馬を愛好した武将として知られている。その信長が所有した名馬として、「白石鹿毛」の名が記録に残されている 4 。この馬は、奥州の有力大名である伊達輝宗(伊達政宗の父)から信長へ献上されたものであった 4 。献上の時期については、天正9年(1581年)に京都で行われた大規模な軍事パレードである「京都御馬揃え」の際であったとされている 9 。
伊達輝宗から信長への「白石鹿毛」の献上は、単なる贈答の域を超え、当時の有力大名間の外交儀礼の一環として重要な意味を持っていたと考えられる。信長は馬や鷹を特に好んだとされ、諸大名は信長への忠誠や友好の証としてこれらの品を献上していた 6 。奥州随一と謳われる名馬を献上することは、伊達家の勢力と馬産の質の高さを示すと同時に、中央の覇者である信長に対する恭順の意を明確にする行為であった。伊達家は、天皇から馬具を拝領したり、他の有力者へ馬を贈ったりするなど、馬を介した外交や権威の表明を積極的に行っていた形跡があり 11 、「白石鹿毛」の献上もその文脈の中に位置づけられる。
「白石鹿毛」は、「奥州一と謳われた名馬」として高く評価されていた 4 。奥州は古くから良馬の産地として知られており 1 、その中で「随一」と称されるからには、血統、体格、能力など、何らかの点で傑出していたことは間違いない。
信長自身、若い頃から馬術の訓練を欠かさず、安土城や岐阜城には専用の馬場を設けるほど馬に関心が深かった 6 。そのような馬識豊かな信長がこの献上を受け入れたという事実は、「白石鹿毛」が客観的に見ても優れた馬であったことを間接的に証明していると言えよう。この馬の具体的な能力に関する詳細な記述は乏しいものの、「奥州一」という称号は、その価値を雄弁に物語っている。それは、当時の馬の評価基準、例えば速力、持久力、従順さ、あるいは姿の美しさといった要素において、高い水準にあったことを示唆する。
「白石鹿毛」という名の通り、この馬の毛色は「鹿毛(かげ)」であったと伝えられている 7 。鹿毛は、馬の代表的な毛色の一つであり、一般的には赤みがかった茶色の毛を持つ。馬名に毛色が含まれることはごく一般的であり、「白石鹿毛」の場合、「白石」が地名や何らかの由来を示し、「鹿毛」がその毛色を具体的に示していると解釈するのが自然である。
この命名法は、家康の愛馬「白石」(黒毛)の命名とは対照的である。「白石鹿毛」という名称は、その馬の素性(産地や由来としての「白石」)と外見的特徴(毛色の「鹿毛」)を組み合わせた、情報を的確に伝える命名法と言える。これは、戦国時代の馬の命名における多様なアプローチの一つを示す事例である。
「白石鹿毛」の名は、信長の一代記として信頼性の高い史料である『信長公記』にも記載が見られるとされている 9 。例えば、諸侯からの献上品を記す箇所で、「米沢の伊達輝宗が贈った「がんぜき黒」「白石鹿毛」」などが名馬として伝えられている、といった記述がこれに該当する 10 。
『信長公記』は、信長の側近であった太田牛一によって記された同時代史料であり、そこに具体的な馬名が記録されているという事実は、「白石鹿毛」が単なる伝説上の存在ではなく、歴史的に実在し、かつ当時の人々にとって注目に値する名馬であったことを強く裏付けるものである。重要な外交儀礼の一環として献上され、信長の所有となったという経緯が、このような公的な記録に名を留める要因となったと考えられる。これにより、「白石鹿毛」は、家康の「白石」と比較して、史料的裏付けがより明確な存在であると言えるだろう。
これまでの調査で明らかになった徳川家康の「白石」と織田信長の「白石鹿毛」について、その特徴を比較すると以下の表のように整理できる。
項目 |
徳川家康の「白石」 |
織田信長の「白石鹿毛」 |
馬名 |
白石(しらいし) |
白石鹿毛(しろいしかげ) |
主な所有者 |
徳川家康 |
織田信長 |
毛色 |
黒毛 4 |
鹿毛 7 |
主な逸話・特徴 |
名は「白」だが黒毛。逸話は少ない 6 。いつ頃の馬か不明 6 。 |
伊達輝宗より献上 4 。奥州一の名馬 4 。 |
関連史料(推定含む) |
諸記録に散見されるが、詳細な一次史料は不明瞭。 |
『信長公記』など 9 。 |
命名の推察 |
産地名「白石」? 特定の故事? 詳細は不明。 |
産地名「白石」+毛色「鹿毛」の可能性が高い。 |
この比較から明らかなように、両馬は名前の一部に「白石」という共通の語彙を含みながらも、所有者、毛色、そしておそらくはその出自や記録の残り方において、顕著な違いが見られる。家康の「白石」は、個人的な愛馬としての側面が強く、その詳細は謎に包まれている部分が多いのに対し、信長の「白石鹿毛」は、伊達家からの献上という公的な出来事と結びつき、比較的明確な記録が残されている。この対照は、戦国時代の馬に関する情報伝承のあり方の多様性を示すと同時に、馬が武将にとって私的な愛着の対象であると同時に、公的なステータスシンボルや政治的ツールでもあったという二重性を浮き彫りにしている。
徳川家康や織田信長の愛馬以外にも、「白石」という名を持つ馬が存在した可能性が示唆されている。例えば、ある資料には、武田勝頼の愛馬(後に織田信忠の手に渡る)や明智光秀の愛馬も「白石」という名であったが、これらはそれぞれ別の馬であると記されている 4 。
これらの馬については、情報が極めて断片的であり、家康の「白石」や信長の「白石鹿毛」ほどの詳細は不明である。しかしながら、同名または類似名の馬が複数の有力武将によって所有されていたという事実は注目に値する。これは、「白石」という名称が、特定の個人や一頭の馬に限定されず、ある種の流行や共通認識として、複数の優れた馬に名付けられた可能性を示唆している。その背景には、特定の地名(例えば「白石」という地)が良質な馬の産地として広く認識されていたことや、「白石」という言葉自体に武勇や希少価値を想起させるような文化的な含意があったことなどが考えられる。
「白石」という馬名の由来については、いくつかの可能性が考えられる。家康の愛馬「白石」が黒毛であったことは、その命名理由を探る上で一つの大きな謎となっている。前述の通り、毛色以外の要素、例えば産地や献上者、あるいは何らかの故事に由来する可能性が考えられるが、決定的な史料は見当たらない。
一方、信長の「白石鹿毛」に関しては、「白石」の部分が地名に由来する可能性が比較的高いと考えられる。この馬は伊達輝宗からの献上品であり、伊達氏の勢力範囲には現在の宮城県白石市をはじめとする「白石」という地名が存在する。実際に、「伊達世臣家譜」によれば、伊達家の一門である登米伊達氏の先祖・白石秀長は、その居住地の名によって白石姓を名乗ったとされており 14 、伊達家において「白石」が地名と強く結びついた名称であったことがうかがえる。このことから、「白石鹿毛」は「白石(という場所/由来)の鹿毛の馬」という意味合いが強いと推測される。また、佐賀藩の成富兵庫茂安がかつて杵島郡白石(現在の佐賀県杵島郡白石町)に知行地を持っていたことに地名が由来するという例もあり 15 、地名が呼称の起源となることは一般的であった。
古来、白い馬は神聖視され、神の乗り物や高貴な者の象徴として特別視される傾向があった 16 。しかし、家康の「白石」が黒馬であったという事実は、この一般的な象徴性とは異なる文脈で名付けられたことを示している。あるいは、黒馬でありながらあえて「白」の字を用いることで、何らかの特別な意味(例えば、希少性、逆説的な強さ、あるいは白い部分的な特徴など)を込めた可能性も皆無ではないが、これは憶測の域を出ない。
総じて、「白石」という馬名は、単一の由来ではなく、地名、毛色(「白石鹿毛」の場合)、あるいは何らかの象徴的意味合いが複合的に絡み合って成立した可能性があり、特に地名由来説は、当時の馬の流通や地域ブランドの観点からも重要な考察対象となる。
本報告では、戦国時代にその名を馳せた「白石」という名の馬、特に徳川家康の愛馬「白石」と織田信長の愛馬「白石鹿毛」を中心に、現存する資料に基づいて詳細な調査と考察を行った。
その結果、家康の「白石」は名前に反して黒毛の馬であり、具体的な逸話や活動時期については不明な点が多いものの、乗馬の名手であった家康の愛馬としてその存在が確認された。一方、信長の「白石鹿毛」は伊達輝宗から献上された鹿毛の名馬であり、「奥州一」と称され、『信長公記』にもその名が記されるなど、比較的明確な記録が残されていることが明らかになった。
両馬は「白石」の名を共有しつつも、所有者、毛色、出自、そして記録の状況において明確な違いが見られた。この名称の共通性については、特定の優れた馬産地(例えば「白石」という地名)に由来する可能性や、あるいは「白石」という言葉自体が持つ何らかの良いイメージが背景にあった可能性などが考察された。しかし、特に家康の「白石」の命名の真の由来や、その生涯に関する詳細は、依然として謎に包まれたままであり、今後のさらなる史料の発見と研究に期待が寄せられる。
「白石」という名の馬をめぐる調査は、戦国時代の歴史研究において、個々の事象の背後にある文化や社会構造、情報伝達の特性を読み解くことの重要性を示している。名馬一頭をとっても、その情報は断片的であることが多く、現存する史料を丹念に読み解き、多角的な視点から推論を交えつつ実像に迫る努力が求められる。これらの馬を通じて垣間見えるのは、戦国武将と馬との密接な関わり、当時の馬に対する多様な価値観、そして豊かな命名文化の一端であると言えよう。