本報告書は、日本の戦国時代に導入された「カルバリン砲」について、その定義、ヨーロッパにおける背景、日本への伝来経緯、構造と性能、実戦での運用、そして日本の在来火砲との比較を通じて、その歴史的意義を詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とします。対象時代は主に16世紀末から17世紀初頭とし、カルバリン砲およびその派生型であるデミ・カルバリン砲に焦点を当てます。
戦国時代は、鉄砲の導入を契機として日本の軍事技術が飛躍的に発展した時代であり、攻城戦や海戦における大砲の役割は次第に増大しました。カルバリン砲のような高性能なヨーロッパ製大砲の導入は、当時の日本の戦術や兵器開発に影響を与えた可能性があり、その実態を明らかにすることは、戦国時代の軍事史を理解する上で極めて重要です。
鉄砲伝来が日本の戦術を一変させ、足軽の集団戦術を可能にし、騎馬武者の突撃力を相対的に低下させた第一次軍事革命とすれば、カルバリン砲のような長射程・高威力の大砲の導入は、特に攻城戦の様相を変える可能性を秘めていました。これが広範に普及していれば、城郭のあり方や戦術思想にさらなる変革を促したであろうという仮説が成り立ちます。限定的な導入であったとしても、そのインパクトは大きく、戦国末期の軍事技術におけるカルバリン砲の位置づけを考察することは、その歴史的意義をより深く理解する上で重要です 1 。大坂の陣での使用は、そのポテンシャルの一端を示すものと言えるでしょう 3 。
カルバリン砲(Culverin)の名称は、ラテン語の「colubrinus」(ヘビのような)に由来し、その細長い砲身を特徴づけるものです 1 。この「ヘビのような」という名称は、単に物理的な形状を示すだけでなく、当時の人々が抱いたであろう「射程の長さ」「捉えどころのなさ」「一撃の致命性」といったイメージを喚起させ、心理的な威圧効果も伴っていたと考えられます。兵器の名称はその性能や印象を反映することが多く、「ヘビ」は多くの文化で狡猾さ、不意打ち、毒などのイメージと結びつきます。カルバリン砲の長射程と、当時の技術では予測しにくい弾道は、まさに「見えにくい場所から忍び寄る脅威」として認識された可能性があり、これは大坂の陣における豊臣方の混乱にも繋がる要素と考えられます 2 。
カルバリン砲は、近世ヨーロッパで用いられた前装式大砲で、一般的には弾丸重量18ポンド(約8.2kg)クラスの中口径砲とされます 4 。その派生形として、より小型の9ポンド(約4.1kg)の弾丸を発射する半カルバリン砲(デミ・カルバリン砲、Demi-culverin)も存在しました 4 。
カルバリン砲の構造は、当時の最先端技術を反映したものでした。
材質: 初期には主に青銅で鋳造されましたが、後には鉄製の鋳造砲も製造されるようになりました 1 。15世紀から16世紀のヨーロッパでは、大砲技術が成熟する過程で、鋳造青銅製の大砲が従来の鍛造製の大砲を次第に駆逐し、主流となっていきました。青銅は鉄よりも高価でしたが、火薬が増量され爆発の圧力が増大する中で、その圧力によく耐え、安全性が高かったためです 6 。一方で、イギリスのように銅資源に恵まれない地域では鋳鉄砲の開発が進められ、1543年には実用化に成功しています。鋳鉄砲の価格は青銅砲の約3分の1と安価でした 7 。
砲身と口径: カルバリン砲の最大の特徴の一つは、その長い砲身です。これにより、砲身内で火薬が生み出すガス圧を弾丸に長時間作用させることができ、効率よく弾丸の初速を高め、結果として長大な射程を実現しました 1 。16世紀のカルバリン砲の口径は一般的に5インチ(約12.7cm)前後、砲身長は3メートルを超えるものも珍しくありませんでした 7 。より詳細なデータによれば、16世紀の標準的なカルバリン砲は口径が4.75インチ(約12.1cm)から5.25インチ(約13.3cm)、砲弾重量は15ポンド(約6.8kg)から20ポンド(約9.1kg)の範囲にありました。砲身長と口径の比率(L/D比)は32から34、時には40以上に達することもあったとされています。デミ・カルバリン砲はこれよりやや小さく、口径4インチ(約10.2cm)から4.5インチ(約11.4cm)、砲弾重量9ポンド(約4.1kg)から12.75ポンド(約5.8kg)程度でした 9 。イングランドの軍艦メアリー・ローズ号(1545年沈没)から引き揚げられたカルバリン砲やデミ・カルバリン砲も青銅製で、その射程は299メートルから413メートルに及んだとされています 11 。
砲弾: 主に鋳鉄製の球形弾が用いられました。16世紀のヨーロッパでは、鋳鉄製の弾丸が石や鉛の弾丸に代わって一般的になりました。鋳鉄弾は従来の石弾よりも密度が約3倍も高く、同じ口径の大砲でもより重い弾丸を発射することが可能になり、その結果、破壊力も大幅に増大しました 6 。カルバリン砲の標準的な砲弾重量は約18ポンド(約8.2kg)とされていますが、徳川家康が用いたカルバリン砲は14kg(約30ポンド)の砲弾を発射したという記録も存在します 1 。
15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパにおける大砲技術の成熟は、青銅鋳造技術の確立と鋳鉄弾の登場という二つの技術的ブレークスルーに支えられていました。これらは相互に関連し、より強力な火薬の圧力に耐えうる鋳造青銅製の砲身が長砲身化と火薬量の増大を可能にし、一方で密度の高い鋳鉄弾が同じ口径でも威力を高めるという好循環を生み出しました。カルバリン砲は、まさにこれらの技術的進歩の集大成と言える兵器であり、その出現は戦場における火力の投射能力を格段に向上させました。
15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパでは大砲技術が著しい発展を遂げました。粒状火薬の登場による火薬の性能向上、冶金技術の進歩(青銅鋳造、後の鉄鋳造)、そして弾道学への理解の深まりなどがその背景にあります 6 。カルバリン砲は、このような技術革新の流れの中で、特に長射程と比較的高い命中精度を追求して開発された砲種です。
主要な用途:
カルバリン砲は、その優れた性能から多様な戦場で活用されました。
このように、カルバリン砲は海戦、野戦、攻城戦という多様な戦場で活用できる汎用性の高い兵器でした。特にその長射程は、敵の反撃を受けにくい安全な位置からの攻撃を可能にし、戦術的・戦略的な優位性をもたらしました。アルマダ海戦での活躍は、遠距離から敵艦に損害を与える能力を示しており、これは陸上での攻城戦や野戦においても同様の利点となったはずです。
技術的特徴:
表1:カルバリン砲の主要諸元(推定値を含む)
項目 |
カルバリン砲 |
デミ・カルバリン砲 |
備考 |
名称由来 |
ラテン語 "colubrinus" (ヘビのような) 1 |
|
砲身の長さを表す |
分類 |
中口径前装式大砲 4 |
中口径前装式大砲 4 |
|
材質 |
青銅、後に鉄 1 |
青銅、後に鉄 1 |
16世紀は青銅が主流 |
口径 (推定) |
約12-13cm 7 |
約10-11cm 9 |
資料により差異あり |
砲身長 (推定) |
3m以上 7 |
3m前後 10 |
長砲身が特徴 |
重量 (推定) |
約2トン 3 |
|
資料により差異あり |
砲弾重量 |
17-18ポンド (約7.7-8.2kg) 4 |
9-10ポンド (約4.1-4.5kg) 4 |
14kg砲弾の使用例も 1 |
砲弾材質 |
主に鋳鉄 6 |
主に鋳鉄 6 |
石弾より高密度・高威力 |
最大射程(説) |
約6.3km (14kg砲弾時) 1 |
|
実用的な有効射程はより短い |
有効射程(例) |
約500m 3 |
|
90mで厚さ15cmの板を貫通 3 |
この表は、カルバリン砲の基本的な性能を一覧化したものであり、その物理的特性を具体的に把握し、後の章で日本の大砲と比較する際の基礎情報を提供します。諸元に関する情報は複数の資料に断片的に存在し、また数値に幅が見られるため、代表的な値や範囲を示し、必要に応じて注釈で補足することが重要です。この表を参照することで、読者はカルバリン砲がどのような兵器であったかの全体像をまず掴むことができます。
16世紀後半から17世紀初頭にかけての日本は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスといったヨーロッパ諸国との間で、限定的ながらも交易関係(いわゆる南蛮貿易)を築いていました 17 。この交易を通じて、鉄砲をはじめとする様々な西洋の文物や技術が日本にもたらされました。
鉄砲は1543年の伝来以降、瞬く間に国内で普及し、国友や堺などの生産地では国産化も高度に進展し、戦国時代の合戦様相を一変させるほどのインパクトを与えました 20 。しかし、大型の高性能な大砲に関しては、ヨーロッパの技術水準に追いついていなかったのが実情でした。日本在来の大型火器としては、フランキ砲(「国崩し」とも呼ばれる後装式青銅砲) 21 や、大筒(主に鉄製の鍛造砲) 20 などが存在しましたが、これらはカルバリン砲が持つ長射程や破壊力といった点で及ばない部分がありました。
当時の日本は、鉄砲の製造技術や運用ノウハウにおいては世界でも有数のレベルに達していたと考えられますが、大型の鋳造砲、特にカルバリン砲のような長大な砲身を持ち、ある程度の命中精度と長射程を両立させる洗練された大砲の製造技術は、ヨーロッパに比べて遅れていた可能性が高いと言えます。日本の伝統的な製鉄法である「たたら製鉄」では、強度の高い均質な鉄を大量に生産することが難しく、大型砲の鋳造には不向きでした 28 。また、青銅砲の鋳造技術もヨーロッパからの模倣が主体であり、高品質な製品を安定して供給する体制は未熟だったと考えられます 7 。このような技術的背景から、特定の戦略的目的、例えば大坂城のような堅固な城郭を攻略するためには、高価であっても高性能な外国製大砲を選択的に導入する必要性が認識されたと推測されます。
記録上、ヨーロッパ式の青銅製鋳造砲が日本に本格的に導入されたのは、大坂の陣(1614-1615年)に備えて徳川家康がイギリスからカルバリン砲4門とセーカー砲1門を購入したのが最初とされています 1 。購入時期は、大坂冬の陣が始まる直前の慶長19年(1614年)6月頃と伝えられています 29 。
家康はイギリスからだけでなく、同時にオランダからもカノン砲と思われる大型大砲12門を購入しています。これらのオランダ製大砲は、弾丸重量が四貫目(約15kg、約33ポンド)から五貫目(約18.75kg、約41ポンド)に達するものであったことから、カルバリン砲よりもさらに大口径・大威力のカノン砲であったと考えられます 3 。
イギリスから購入したカルバリン砲4門とセーカー砲1門の合計価格は1400両であったと記録されています 3 。セーカー砲はカルバリン砲よりも小型であるため、単純計算でカルバリン砲1門あたりの価格は約300両程度であったと推定されます 7 。当時のヨーロッパにおける青銅製カルバリン砲の価格が約170両、より安価なイギリス製の鋳鉄砲であれば約60両程度であったことを考慮すると 7 、日本への輸送コストや希少性を加味すれば、300両という価格は必ずしも法外なものではなかった可能性があります。むしろ、家康が同時期に国産させた高性能な大砲(例えば芝辻清右衛門が製作した砲など)は、一門あたり800両から1000両以上したとも推定されており 7 、輸入カルバリン砲は性能対コストの観点から見ても魅力的な選択肢だったのかもしれません。
家康がイギリスとオランダという異なる国から、カルバリン砲(長射程)、セーカー砲(中距離支援)、そしてカノン砲(大威力攻城用)と、それぞれ特性の異なる複数の種類の最新鋭大砲を、大坂の陣という一大決戦の直前に集中的に購入している点は注目に値します。これは、単に武器を買い集めたというよりも、大坂城という巨大な目標を攻略するために、周到に計画された兵器システムの構築を目指したものであり、家康の卓越した戦略眼と、当時のヨーロッパの兵器技術に関する情報収集能力の高さを示唆しています。例えば、カルバリン砲で遠距離から城内の特定目標を狙撃しつつ心理的圧迫を加え 2 、カノン砲で城壁や櫓といった堅固な構造物に物理的な打撃を与えるといった、複合的な運用を想定していた可能性が考えられます。このような計画的な兵器調達は、当時のヨーロッパの軍事情勢や兵器市場に関するある程度の知識がなければ不可能です。
徳川家康による大規模な購入以前にも、ヨーロッパ製の大砲が日本に導入された事例は存在します。最も有名なのは、豊後の大名である大友宗麟が1576年(天正4年)にポルトガル人宣教師を通じてフランキ砲(石火矢、「国崩し」とも呼ばれる)を入手した事例です 21 。このフランキ砲は、砲尾から弾薬を装填する後装式の大砲であり、前装式のカルバリン砲とは構造が異なります。
島津氏もまた、ポルトガルやオランダとの交易を通じてヨーロッパ製大砲を導入していた可能性が考えられます。例えば、島津氏の所領であった阿久根で発見された「波羅漢砲」と呼ばれる大砲にはポルトガル王室の紋章があり、リスボンかゴアで鋳造されたものと推定されています 34 。これがカルバリン砲であるか否かは不明ですが、島津氏が海外との繋がりを通じて兵器を入手していたことを示す一例と言えるでしょう。ただし、提供された資料の中には、島津氏がカルバリン砲を具体的に導入したという直接的な記録は見当たりませんでした 29 。
16世紀中頃には、ポルトガル商人やイエズス会士によって銃や大砲が日本にもたらされ、それらを元に日本の大名や金属加工職人が複製を試みていたという記録もあります 19 。特に九州地方では、16世紀にヨーロッパ人が鋳造所を設立し、カルバリン砲やセーカー砲といったヨーロッパ式の砲を現地で生産していた可能性も指摘されています 20 。
これらの事例から、カルバリン砲のようなヨーロッパ製大砲の導入は、徳川家康による計画的かつ大規模な購入だけでなく、それ以前から九州の有力大名などを中心に、より小規模ながらも行われていた可能性が示唆されます。伝来のルートや導入された砲の種類、そしてそれらを活用する能力には、当時の日本の各地域や勢力によって差があったと考えられます。中央政権(後の徳川幕府)による戦略的な導入とは別に、西国の大名たちが独自に海外とのコネクションを築き、新たな兵器技術を獲得しようとしていた状況がうかがえます。
表2:徳川家康によるカルバリン砲等購入記録(大坂の陣前)
購入年 |
供給国 |
砲種 |
門数 |
価格(判明分) |
情報源 |
慶長19年(1614) |
イギリス |
カルバリン砲 |
4門 |
5門合計で1400両 (カルバリン砲1門あたり約300両) |
1 |
慶長19年(1614) |
イギリス |
セーカー砲 |
1門 |
|
1 |
慶長19年(1614) |
オランダ |
カノン砲 (四貫~五貫目玉、約33~41ポンド) |
12門 |
不明 |
3 |
この表は、徳川家康によるカルバリン砲等の一括購入の事実を具体的に示したものであり、その導入規模と戦略的意図を明確にしています。特に価格情報を含むことで、当時の兵器取引の一端と、家康がこの一大事業に投じた経済的リソースの大きさを垣間見ることができます。これは、続く大坂の陣におけるこれらの大砲の運用を理解する上での重要な前提となります。
慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣において、徳川家康はイギリスから購入したカルバリン砲を実戦に投入しました 1 。これらのカルバリン砲は、国産の大筒(百目筒から百五十目筒など)や、オランダから購入したより大口径のカノン砲と共に、難攻不落と謳われた大坂城に対する攻囲戦で重要な役割を果たしました 3 。
カルバリン砲は、その最大の特徴である長射程を活かして、大坂城の本丸や天守閣、その他重要な拠点に対して遠距離から砲撃を加えるために使用されたと考えられています 2 。当時の日本の大砲では届かない距離からの攻撃は、籠城する豊臣方にとって大きな脅威となりました。一説には、これらのカルバリン砲は、激戦が予想された城の南側ではなく、比較的防御が手薄と見られた、あるいは心理的効果を狙いやすい場所に戦略的に配置された可能性も指摘されています 3 。また、砲の操作には専門知識が必要であったため、オランダ人を呼び寄せて城中への射撃を行わせたとの記述も見られます 3 。
大坂の陣におけるカルバリン砲の運用は、単に城壁を物理的に破壊することを目指すだけでなく、城内の特定目標(天守閣や司令部周辺)を狙った精密砲撃(当時の技術レベルにおける)と、それによる心理的効果を組み合わせたものであった可能性があります。これは、従来の日本の攻城戦術においては比較的新しい試みであり、カルバリン砲の持つ長射程とある程度の命中精度(あるいはそのように見せかけること)が、それを可能にしたと言えるかもしれません。物理的損害と同時に豊臣方の戦意を削ぐことを狙ったこの戦術は、家康の老練な戦術眼を示すものと言えるでしょう。
カルバリン砲の射程は、従来の日本の大砲、例えば国産の大筒や石火矢(フランキ砲など)に比べて格段に長かったとされています。その結果、大坂城の奥深く、天守閣にまで砲弾が到達したと伝えられています 2 。具体的な射程については諸説あり、14kgの砲弾を6.3km先まで飛ばしたという説 1 や、少なくとも3kmの射程があったとする説 29 が存在します。防衛大学の大野氏が行ったシミュレーションによれば、備前島(大坂城から約2kmの地点)から発射されたカルバリン砲の砲弾は、着弾時に厚さ40cmのコンクリートをも貫通するほどの衝撃力を持っていたと推定されています 3 。
当時の砲弾は炸薬を充填した榴弾ではなく、単なる金属の塊(実体弾)であったため、着弾しても爆発することはありませんでした。しかし、その轟音と着弾時の凄まじい衝撃、そして何よりも「どこから飛んでくるかわからない長距離砲」という未知の脅威に対する恐怖感が、大坂城内の兵士や女中たちに大きな動揺と心理的圧迫を与えました 2 。
特に、豊臣秀頼の母である淀殿の居室近くにカルバリン砲の砲弾が着弾し、侍女数名が死傷するという事件が発生しました。この出来事は、強気であった淀殿自身に強烈な恐怖心と厭戦気分を植え付け、豊臣方が徳川方との和議に応じる直接的なきっかけの一つになったと、多くの記録が伝えています 2 。
大坂の陣におけるカルバリン砲の運用は、実際の物理的な破壊力以上に、その「見せかけの威力」や「未知の技術への恐怖」を最大限に利用した心理戦術としての側面が強かった可能性があります。家康は、カルバリン砲の長射程と命中精度(あるいは、そうであるかのように見せかけること)を利用して、豊臣方の継戦意欲を効果的に挫いたと言えるでしょう。砲弾が実際に天守閣の淀殿の居室近くに命中したのが、計算された精密照準の結果だったのか、あるいは偶然の産物であったのかは議論の余地がありますが、結果として豊臣方に与えた心理的インパクトは絶大でした。これは、兵器の性能そのものだけでなく、その運用方法と情報戦略がいかに戦局を左右しうるかを示す好例と言えます。
大坂の陣の様子を描いた「大坂の陣図屏風」などの当時の絵図には、異様に砲身の長い大砲が描かれているものが存在します。これらの描写が、徳川方が使用したカルバリン砲を指しているのではないかという推測がなされています 3 。確かに、カルバリン砲の最大の特徴はその細長い砲身であり、絵図の描写と外見的な特徴が一致する可能性はあります。
しかしながら、これらの図像史料の解釈には慎重さが求められます。戦国時代から江戸時代初期にかけての合戦図屏風は、必ずしも戦闘の様子を正確なスケールや構造で写実的に記録することを第一の目的としていたわけではありません。戦場の雰囲気や主要な出来事を強調するために、誇張や様式化された表現が用いられることも一般的でした。したがって、屏風に描かれた「異様に細長い大砲」が、具体的にカルバリン砲であると断定することは困難です。例えば、国産の長砲身の和製大筒である可能性も完全に否定することはできません。
大坂の陣図屏風の描写は、カルバリン砲の存在を示唆する間接的な手がかりの一つとはなり得ますが、それ自体を決定的な証拠と見なすことは避けるべきです。描かれた大砲の種類を特定するためには、文献史料に記録された砲の性能や配備状況、さらには現存する可能性のある同時代の大砲の形態(考古学的知見)など、他の情報源と照らし合わせ、多角的に検証することが不可欠です。図像史料は貴重な情報源であると同時に、その解釈には常に批判的な視点が必要とされます。
戦国時代の日本には、カルバリン砲以外にも様々な種類の大砲が存在しました。ここでは、代表的なフランキ砲(国崩し)および和製大砲・大筒とカルバリン砲を比較し、それぞれの特徴を明らかにします。
呼称と由来:
「国崩し」という勇ましい名称は、16世紀に豊後の大名・大友宗麟がポルトガル人から入手した石火矢(フランキ砲)に名付けたことに始まると広く伝えられています 21。「フランキ」という言葉は、当時の中国や日本でポルトガル人やスペイン人を指す呼称(フランク人)が転訛したものとされています 22。ある資料では、「国崩し」は口径92mm、全長313cm、重量1.7トンで、5.6kgの砲弾を発射する後装式の「仏郎機砲」であり、カルバリン砲とは明確に区別されると記述されています 24。しかしながら、別の資料では、「国崩し」という名称は通常フランキ砲を指すものの、広義にはカルバリン砲のような他の高性能大砲を含んだ総称として用いられた可能性も示唆されています 18。
この「国崩し」の名称の解釈については、興味深い点があります。元々は特定のフランキ砲を指した名称であったとしても、その破壊的な威力から、後に高性能な大砲全般を指す一種の代名詞のように使われるようになった可能性が考えられます。強力な兵器に象徴的な名前が与えられ、その名前が後に一般名詞化する現象は歴史上しばしば見られることです。「国崩し」というインパクトのある名称が、大友宗麟が用いた特定の砲だけでなく、同等かそれ以上の威力を持つと認識された他の大砲(例えば、後に登場するカルバリン砲)にも、比喩的あるいは混同して適用されたとしても不思議ではありません。これが、史料解釈の際に注意すべき点となり、後世の研究において混乱を生じさせる一因となっている可能性も否定できません。
構造と装填方式:
フランキ砲の最大の特徴は、砲尾から弾薬と火薬を収めた薬室(子砲)を挿入して装填する後装式であった点です 22。この方式は、砲口から弾薬を装填する前装式のカルバリン砲 4 に比べて、迅速な再装填が可能であったという利点がありました 20。材質は主に青銅製でした 24。
性能:
フランキ砲は比較的大口径でしたが、子母砲形式の構造的欠点として、薬室と砲身の隙間から発射ガスが漏れやすく、そのために口径の割には威力が小さく、また暴発の危険性も高かったとされています 25。しかし、大友宗麟が臼杵城の防衛戦で使用した際には、その巨大な砲弾と威力で攻め寄せる島津軍を驚かせ、撃退に貢献したという記録もあります 36。ある資料によれば、口径70mmで1.3kgの砲弾を発射できたとされています 20。一方、カルバリン砲は前述の通り、長射程と比較的高い威力を安定して発揮することができました 1。
運用と普及:
フランキ砲は、大友氏など一部の西国大名によって導入・運用されましたが、江戸時代に入り泰平の世が訪れると、その需要は減少し、広範な普及には至りませんでした。幕末期には、より新しい形式の後装砲がヨーロッパから伝来したため、フランキ砲は歴史の表舞台から姿を消しました 22。カルバリン砲に関しては、徳川家康が大坂の陣で使用したのが日本における最も顕著な運用事例であり、こちらも広範な普及には至らなかったという点で共通しています。
呼称と種類:
「大筒(おおづつ)」は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけて用いられた大型火器の総称であり、広義には国産の大砲全般を指します 26。その材質は主に鉄製で、伝統的な鍛造製法によって作られた前装式のものが多かったとされます 25。
一方、「和製大砲(わせいたいほう)」という呼称は、より限定的で、江戸時代初期以降に日本国内で製造された青銅製の前装式大砲を指す後世の用語です。これらは、カルバリン砲のようなヨーロッパ式の鋳造砲が日本に伝来した後、それらの技術を模倣あるいは参考にしながら作られ始めたと考えられています 25。
構造と製造方法:
日本の伝統的な大筒は、主に鉄を素材とし、鍛造によって製造されました。この製法による大筒は、前装式であるため比較的安全性が高く、口径の割には威力も優れていたとされますが、鍛造技術の限界から、極端な大口径化や長砲身化には制約がありました 25。
これに対し、ヨーロッパ製鋳造砲の技術を取り入れて製造された和製大砲は、主に青銅を材質としていました。その製造方法には二つの系統が存在したとされています。一つは、砲全体を一つの鋳型で鋳造する「南蛮流(なんばんりゅう)」あるいは「欧州流」と呼ばれるもので、これはヨーロッパの製造技術を比較的忠実に模倣したものです。もう一つは、「和流(わりゅう)」と呼ばれるもので、砲身本体とは別に尾栓(びせん)のみを鋳造し、それを砲尾にネジで固定する方式でした 25。この尾栓構造は、当時の日本の火縄銃の機構と類似していますが、なぜ大砲にこの形式が採用されたのか、その具体的な理由は明らかになっていません 25。
性能:
国産の大筒は、大坂の陣において徳川家康が輸入カルバリン砲やオランダ製カノン砲などと共に多数運用しており 3、その中には一貫目(約3.75kg)の砲弾を発射する「芝辻砲(しばつじほう)」などが有名です 26。ある記録によれば、国友村で製造された初期の大筒は全長3メートルで0.74kgの弾丸を発射し、慶長15年(1610年)に堺で製造された大筒は全長3メートル、重量135kgに達したとされています 20。また、土佐で製造された大筒の中には、1.125kgの弾丸を2.5km先まで飛ばしたという驚異的な性能を持つものもあったと伝えられています 20。
和製大砲は、ヨーロッパ製大砲を模倣して作られたため、性能的にはそれに近いものを目指したと考えられます。ある研究では、家康が国産させた大砲(芝辻砲など)は、輸入されたカルバリン砲よりも射程や狙撃可能な距離において優れていた可能性も指摘されています 7。ただし、この比較はカルバリン砲の性能をやや低く見積もった上でのものである可能性も考慮に入れる必要があります。
一般的に、輸入されたカルバリン砲は、当時の日本の大砲に比べて長射程・高威力であったと認識されています 2。
カルバリン砲のような先進的なヨーロッパ製大砲の伝来は、日本の大砲製造技術、特に和製大砲の発展に少なからぬ影響を与えました。「南蛮流」という直接的な模倣技術の導入はその明確な証左です。しかし同時に、日本の伝統的な鉄砲製造技術の系譜を引く「和流」という独自の工夫や発展が見られたことは、外来技術を単に受容するだけでなく、それを在来の技術体系と融合させようとする日本の技術的特徴を示していると言えるでしょう。ただし、その後の江戸時代における技術的停滞(詳細は第5章で後述)を考慮すると、この初期の技術導入と融合の試みが、必ずしも持続的な発展や国際水準へのキャッチアップに繋がらなかったことも重要なポイントとして指摘できます。
表3:戦国期日本における主要大砲の比較
項目 |
カルバリン砲 |
フランキ砲(国崩し) |
和製大砲/大筒 |
主な呼称 |
カルバリン砲、クルヴェリン砲、コルベリン砲 |
国崩し、石火矢、仏郎機(フランキ) |
大筒、和製大砲、芝辻砲など |
装填方式 |
前装式 4 |
後装式(子母砲形式) 22 |
前装式 25 |
主な材質 |
青銅、鉄 1 |
青銅 24 |
鉄(大筒)、青銅(和製大砲) 25 |
起源 |
ヨーロッパ 4 |
ヨーロッパ(ポルトガル経由) 21 |
日本国産(一部欧州技術模倣) 25 |
主な特徴 |
長砲身、長射程 1 |
迅速な再装填可能 20 、ガス漏れ・暴発の危険 25 |
多様な種類、鍛造技術(大筒)、鋳造技術(和製大砲、南蛮流・和流) 20 |
砲弾重量(例) |
約8kg (18ポンド) 4 、14kg 1 |
約1.3kg~5.6kg 20 |
0.74kg~数kg 20 、芝辻砲は一貫目(約3.75kg) 26 |
射程(例) |
有効射程500m~最大6.3km 1 |
不明瞭(カルバリンより短いか) |
土佐製大筒で2.5km 20 、「家康の大砲」はカルバリン砲の倍の可能性 7 |
主な使用者 |
徳川家康(大坂の陣) 1 |
大友宗麟 21 |
各地の大名、徳川家康 24 |
この比較表は、戦国末期から江戸初期にかけて日本で用いられた主要な大砲の種類を概観し、それぞれの技術的特徴、想定される性能、そして運用思想の違いを明確にすることを目的としています。これにより、カルバリン砲が当時の日本の兵器体系の中でどのような位置を占めていたのか、その独自性と相対的な優位性・劣位性を読者が理解しやすくなることを期待します。例えば、装填方式の違いが発射速度や安全性にどのように影響したか、材質の違いが製造コストや耐久性にどのように関わったか、そして射程や砲弾重量が戦術的役割にどのように結びついたかといった多角的な比較考察の土台となります。この表は、日本における大砲技術の多様性と、外来技術と在来技術の相互作用を視覚的に示す上で非常に有効です。
カルバリン砲の導入、特に大坂の陣におけるその運用は、日本の戦術、とりわけ攻城戦のあり方に対して一定の影響を与えたと考えられます。カルバリン砲の持つ長射程は、従来の日本の攻城戦術ではあまり想定されていなかった遠距離からの効果的な攻撃を可能にし、籠城側にとっては新たな、そして深刻な脅威となりました 2 。大坂城の天守閣にまで砲弾が到達したという事実は、城郭の最も安全と思われた中枢部ですら攻撃対象となりうることを示し、籠城側の心理に大きな動揺を与えました。
この経験は、その後の日本の城郭防御思想に影響を与えた可能性があります。単に城壁を高く厚くするといった従来の防御思想だけでなく、敵大砲の射線や射程を考慮に入れた曲輪(くるわ)の配置、あるいは城外の付帯施設(出城や馬出しなど)の戦略的重要性が再認識されたかもしれません。
しかしながら、カルバリン砲の導入は徳川家康による限定的な事例に留まり、日本全国の城郭構造や戦術全体を根本から変革するまでには至りませんでした。その背景には、大坂の陣以降、日本が急速に平和な江戸時代へと移行し、大規模な戦闘が終息したこと、そして徳川幕府による武家諸法度などを通じた諸藩の軍備制限や築城規制といった統制策があったと推測されます 25 。
カルバリン砲の登場は、攻城側が一方的に遠距離から攻撃できるという、ある種の非対称的な状況を生み出し、防御側はそれに対応する必要に迫られました。ヨーロッパでは、大砲技術の発展に対応して、砲撃に対してより効果的な防御力を持つ星形要塞(稜堡式城郭)が考案され、普及していきました。しかし、日本では本格的な稜堡式城郭が広範に採用されることはありませんでした。これは、カルバリン砲のような高性能な攻城砲自体の普及が極めて限定的であったため、城郭構造を抜本的に変革するほどの強い動機付けにはならなかったこと、そして前述の通り、江戸幕府による厳格な築城制限が、新たな防御技術の導入や発展を抑制した側面も影響していると考えられます 24 。
徳川家康がイギリスやオランダからカルバリン砲やカノン砲といったヨーロッパ製の鋳造砲を導入した後、日本国内でもこれらの先進技術を模倣、あるいは参考にした同形式の砲(いわゆる和製大砲)が製造されるようになりました 25 。
その製造方法には、前述の通り、ヨーロッパの技術を比較的忠実に導入しようとした「南蛮流」と、日本の伝統的な鉄砲製造技術(例えば、砲尾にネジ式の尾栓を設ける構造など)の要素を取り入れようとした「和流」という二つの系統が存在しました 25 。
しかしながら、カルバリン砲クラスの高性能な大砲を安定して国産化するには、多くの技術的課題が存在したと推測されます。具体的には、高品質な青銅や鉄を均質に鋳造する高度な冶金技術、長大な砲身を精密に穿孔・加工する工作技術、そして砲の性能を最大限に引き出すための適切な火薬の調合技術などが求められました。日本の伝統的な製鉄法である「たたら製鉄」では、大型砲の製造に適した強靭な鉄を大量に得ることは難しかったと指摘されています 28 。また、家康が輸入カルバリン砲よりも高価であったとされる国産大砲(芝辻砲など)を発注した理由として、より高い命中精度を極限まで追求したためではないかという推測もありますが 7 、これは裏を返せば、輸入砲と同等以上の性能を持つ砲を国産で安定して実現することの難しさを示唆しているとも解釈できます。
カルバリン砲の技術は、ある程度日本に移転され、和製大砲の製造に繋がりました。しかし、その後の発展は限定的でした。「和流」のような日本独自の工夫や改良の試みは見られたものの、ヨーロッパにおける火砲技術の急速な進歩の潮流からは次第に取り残されていったと考えられます。結果として、江戸時代を通じて日本の大砲技術は相対的に停滞し、幕末になって再び海外との大きな技術格差に直面することになります。これは、外来の先進技術を導入しつつも、それが持続的なイノベーションや国際標準へのキャッチアップに必ずしも繋がらず、国内の特殊な条件下で独自の進化(あるいは停滞)を遂げる、いわゆる「ガラパゴス化」の初期の兆候と見ることもできるかもしれません。技術開発のインセンティブが失われたこと 37 、そして「和流」の存在が示す日本独自の解釈や改良が、必ずしも世界標準の技術進化の方向性と一致していたわけではなかった可能性が考えられます。その結果、幕末には高島秋帆による西洋砲術の再導入など 25 、改めて海外の技術に学ぶ必要が生じたのです。
大坂の陣の終結と共に戦国時代は完全に終焉を迎え、日本は徳川幕府の下で約250年間にわたる比較的平和な時代(江戸時代)に入りました。この社会状況の変化は、カルバリン砲を含む大砲の需要と技術開発に大きな影響を与えました。大規模な戦闘がなくなったため、高性能な大砲の必要性は著しく低下しました 25 。
徳川幕府は、全国の安定支配を維持するために、諸藩の武備、特に鉄砲や大砲の保有・製造を厳しく制限・管理する政策を採りました 24 。武家諸法度などにより、新たな築城や城の増改築も厳しく規制されました。これにより、大砲の製造技術や砲術そのものが実用的な価値を失い、一部は武芸の嗜みや儀礼的なものへとその性格を変えていきました 37 。
かつて鉄砲や大砲の一大生産拠点であった国友鍛冶なども、需要の激減によりその規模を縮小せざるを得なくなり、高度な製造技術の継承も次第に困難になっていったと考えられます 24 。
結果として、19世紀半ばに黒船が来航し、日本が西洋列強の軍事的脅威に直接晒された際、日本の大砲技術はヨーロッパのそれと比較して著しく立ち遅れているという厳しい現実が露呈しました 25 。戦国時代の終焉と江戸幕府による平和の確立は、日本の大砲技術にとっては皮肉にも長期的な停滞期をもたらしたのです。戦乱という、技術開発を促進する最大の外的要因を失い、さらに幕府による厳格な統制が加わったことで、かつては世界有数の鉄砲保有国であり、一定水準の大砲製造能力も有していた日本の火器技術は、その後の数世紀の間に世界的な技術革新の潮流から大きく取り残されることになったのです。これは、日本の歴史における「平和の代償」の一側面と捉えることができるかもしれません。
本報告では、日本の戦国時代に導入されたカルバリン砲について、その定義、ヨーロッパにおける背景、日本への伝来経緯、大坂の陣における具体的な運用実態、そしてフランキ砲や和製大砲・大筒といった日本の在来火砲との比較を通じて、その実態と歴史的意義を多角的に考察しました。
カルバリン砲は、16世紀ヨーロッパの火砲技術の粋を集めた長射程・高威力の前装式大砲であり、その洗練された設計は当時の最先端を行くものでした。日本においては、特に徳川家康による大坂の陣での戦略的運用が際立っており、その長大な射程と心理的効果は、物理的な破壊力と相まって、合戦の帰趨に一定の影響を与えたと評価できます。大坂城の奥深くにまで砲弾を到達させ、豊臣方の戦意を削いだ事例は、カルバリン砲の特異な能力を示すものと言えるでしょう。
しかしながら、カルバリン砲の日本への導入は、徳川家康による限定的な事例に留まり、日本の大砲技術や戦術思想全体を根本から変革するには至りませんでした。その背景には、高価であったこと、運用に専門知識が必要であったこと、そして何よりも大坂の陣以降の平和な時代の到来と幕府による武備制限政策がありました。フランキ砲や様々な種類の和製大砲・大筒といった多様な火砲が併存する中で、カルバリン砲は、その高性能さにもかかわらず、日本の兵器史において特異な、しかし限定的な役割を果たした存在として位置づけられます。その導入は、日本の大砲製造技術に刺激を与え、和製大砲の発展を促す一因とはなりましたが、持続的な技術革新には繋がらず、江戸時代の技術停滞を招く遠因の一つともなった可能性が示唆されます。
本報告を通じて、戦国時代のカルバリン砲に関する一定の知見が得られましたが、なお未解明な点も多く残されています。今後の研究課題としては、以下の点が挙げられます。
これらの研究課題に多角的に取り組むことによって、戦国時代におけるカルバリン砲の歴史的意義と、それが日本の軍事技術史に与えた影響について、より深く正確な理解が得られることが期待されます。