守山城の戦い(1584)
天正十二年、北陸の覇権を巡り佐々成政と前田利家が激突。守山城の戦いと称されるも、実態は末森城の攻防。利家は奇策で佐々軍を破り、前田家の礎を築いた。
天正十二年、北陸の雌雄:佐々成政と前田利家の決戦 ― 「守山城の戦い」の真相と末森城の激闘
序章:天正十二年、北陸の対峙 ― 「守山城の戦い」の問いを解き明かす
天正十二年(1584年)、越中国を舞台に佐々成政と前田利家が激突し、北陸の覇権が決したとされる「守山城の戦い」。この問いの核心は、疑いなく同年における佐々・前田両陣営の雌雄を決した一大決戦にあります。しかしながら、史料を丹念に紐解くと、この運命を分けた戦いの主たる舞台は、越中国の守山城ではなく、能登国の 末森城 であったことが明らかとなります 1 。本報告書は、この歴史的認識の齟齬を解き明かし、利用者様の真の関心事である「1584年の佐々・前田決戦」の全貌を、合戦のリアルタイムな様相に焦点を当てて徹底的に詳述するものです。
まず、「守山城」を巡る歴史的情報を整理する必要があります。戦国時代、日本各地に同名の城が存在しましたが、本件に関連する城は主に二つです。
第一に、利用者様の問いにある 越中国守山城 (現在の富山県高岡市)です。この城は二上山に位置し、立山連峰や富山平野、日本海を一望できる戦略的要衝でした 4 。戦国期には神保氏の拠点として、上杉謙信の侵攻を受けるなど、越中の歴史において重要な役割を果たしました 5 。しかし、佐々成政と前田利家が直接矛を交えた主戦場ではありません。この城が前田家と深く関わるのは、天正十三年(1585年)、豊臣秀吉に降伏した佐々成政に代わり、前田利家の嫡男・利長が越中三郡(砺波・射水・婦負)の新たな支配者として入城してからです 6 。この「末森城の戦いの結果、前田家が越中を支配し、その拠点として守山城に入った」という一連の因果関係が、後世において「守山城の戦い」という一つの物語として凝縮され、伝承された可能性が極めて高いと考えられます。
第二に、 尾張国守山城 (現在の愛知県名古屋市守山区)の存在です。こちらは徳川家康の祖父・松平清康が家臣に暗殺された「守山崩れ」の舞台として名高く 9 、後に織田信長の叔父や弟が城主を務めましたが、北陸における佐々・前田の抗争とは直接的な関係はありません 12 。
したがって、本報告書は、利用者様の問いの核心である「1584年の佐々・前田決戦」、すなわち**「末森城の戦い」**を主軸に据え、その戦略的背景、両将の因縁、そして合戦の劇的な経過を時系列に沿って再現します。その上で、戦後の北陸情勢の変転と、その結果として歴史の表舞台に登場する「越中守山城」が果たした真の役割を正確に位置づけることで、この歴史的問いに対する包括的な回答を提示します。
第一部:大局 ― 小牧・長久手の戦いと北陸戦線の連動
天正十二年(1584年)の北陸における佐々成政と前田利家の激突は、単なる両者の領土紛争ではありませんでした。それは、織田信長の死後、日本の覇権を巡って繰り広げられた羽柴秀吉と徳川家康の巨大な対立構造が生み出した、全国規模の戦乱の一環であり、いわば「代理戦争」としての側面を色濃く帯びていました。
本能寺の変後の政治情勢と秀吉の台頭
天正十年(1582年)の本能寺の変により、天下統一を目前にした織田信長が横死すると、織田家の後継者争いが激化します。その中で、山崎の戦いで明智光秀を討ち、続く賤ヶ岳の戦いで筆頭家老の柴田勝家を破った羽柴秀吉が、織田家家臣団における実質的な主導権を掌握しました 3 。しかし、この急激な秀吉の台頭は、旧来の織田家家臣や他の有力大名との間に深刻な軋轢を生み出します。
小牧・長久手の戦いの勃発
秀吉の権力掌握に公然と異を唱えたのが、信長の次男・織田信雄でした。彼は、織田家の正統な後継者としての立場を主張し、東海地方に強大な勢力を持つ徳川家康と同盟を結び、秀吉に対抗する姿勢を鮮明にします 12 。天正十二年三月、秀吉が信雄の家老三名を内通の疑いで殺害させたことをきっかけに、両者の対立はついに軍事衝突へと発展しました。これが「小牧・長久手の戦い」です。
秀吉が十万ともいわれる大軍を動員したのに対し、織田・徳川連合軍はその三分の一にも満たない兵力でしたが、家康は小牧山に堅固な陣城を築き、巧みな戦術で秀吉軍を翻弄、戦線は膠着状態に陥りました 14 。この状況を打開すべく秀吉方が敢行した、家康の本拠地・三河を奇襲する「三河中入り作戦」は、家康に事前に察知され、長久手の地で池田恒興、森長可といった有力武将を失うという壊滅的な敗北を喫します 17 。
戦術的には家康方が優勢に進めたこの戦いでしたが、秀吉は巧みな政治工作によって信雄を抱き込み、十一月には単独講和を成立させます。これにより、信雄を盟主として戦っていた家康は大義名分を失い、停戦せざるを得なくなりました 20 。結果として、秀吉は軍事的な劣勢を政治的な勝利で覆し、天下人への道をさらに確実なものとしたのです。
北陸における第二戦線の形成
小牧・長久手の戦いは、尾張・美濃を主戦場としながらも、その影響は紀伊の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親などを巻き込み、全国規模に波及しました 22 。そして、この巨大な戦乱において、北陸は極めて重要な「第二戦線」としての意味を持っていました。
秀吉は、若き頃より親交の深かった前田利家を、北陸における自陣営の重鎮と位置づけました 2 。利家は加賀・能登を領し、秀吉方として越後の上杉景勝との連携を図る役割を担います。
一方、越中を支配していた佐々成政は、織田家への忠誠を重んじ、成り上がりの秀吉を快く思っていませんでした 2 。そこへ家康・信雄から同盟の誘いが届くと、成政はこれに呼応し、反秀吉方として参戦を決意します 25 。成政の狙いは、秀吉主力が家康によって小牧に釘付けにされている隙に、秀吉の盟友である利家を迅速に撃破し、北陸を完全に平定することでした。そして、家康と連携して秀吉を東西から挟撃するという、壮大な戦略構想を描いていたのです。
かくして、中央における秀吉と家康の対峙は、北陸における利家と成政の直接対決という形で投影され、末森城の戦いへと至る緊張が、日増しに高まっていくことになりました。
第二部:両雄、相克す ― 前田利家と佐々成政
末森城で激突した前田利家と佐々成政。二人は単なる敵対大名という言葉では語り尽くせない、複雑な因縁で結ばれた宿命のライバルでした。織田信長の下で武功を競い合った同僚であり、北陸平定を共にした戦友でもあった二人が、なぜ袂を分かち、死闘を演じるに至ったのか。その背景には、信長の死によって激変した時代の潮流と、両者の武将としての生き様、そして価値観の根本的な違いが存在しました。
織田信長配下の双璧 ― 赤母衣と黒母衣
前田利家と佐々成政は、共に尾張国の出身で、ほぼ同年代。若き日から織田信長に仕え、その天下布武の戦いを支えました 1 。信長の親衛隊ともいえる「母衣衆」において、利家は「赤母衣衆」の筆頭、成政は「黒母衣衆」で頭角を現し、互いにその武勇を競い合う関係でした 1 。「槍の又左」の異名を持つ利家と、鉄砲隊の指揮に長けた成政は、それぞれの個性を発揮し、信長の寵を争う好敵手として戦場を駆け巡ったのです。
天正三年(1575年)以降、北陸方面軍総司令官に任じられた柴田勝家の与力として、二人は不破光治と共に越前府中に入り、「府中三人衆」と称されます 27 。彼らは勝家を補佐し、難敵であった越前一向一揆の鎮圧や、上杉謙信との戦いなど、北陸平定の最前線で苦楽を共にしました 13 。この時期、二人の間には戦友としての固い絆があったはずです。
賤ヶ岳の戦い ― 運命の分岐点
両者の運命を決定的に分けたのは、本能寺の変後の天正十一年(1583年)に勃発した「賤ヶ岳の戦い」でした。信長の後継者の座を巡り、旧友である羽柴秀吉と、長年の上司であり「親父様」とまで呼んで慕った柴田勝家が激突した際、利家は究極の選択を迫られます 3 。
当初、勝家方として参戦した利家でしたが、戦況が膠着する中、突如戦線を離脱。府中城へと兵を引いてしまいます。この利家の行動が、勝家軍の戦線崩壊の引き金となり、秀吉に決定的な勝利をもたらしました 13 。利家のこの決断は、旧主への恩義よりも、秀吉との友情と天下の時流を読んだ現実主義的な選択であったと言えます。
一方、佐々成政は、織田家への忠義を貫き、最後まで柴田勝家と共に戦いました。勝家が滅亡した後、一度は秀吉に降伏したものの、その心は決して屈していませんでした 1 。成政にとって、利家の行動は許しがたい裏切りであり、旧主を見捨てて新興勢力に媚びを売る行為と映ったことでしょう。一部の史料には、かつて利家が信長の勘気を被り浪人していた際、成政が経済的にも精神的にも彼を助けた恩があったにも関わらず、利家はその恩を仇で返した、と成政の家臣が嘆いたという記録も残っています 29 。
この賤ヶ岳の戦いにおける選択の違いが、二人の間にあった戦友としての絆を断ち切り、修復不可能な亀裂を生み出したのです。末森城の戦いは、この個人的な恩讐と、武士としての信義を巡る感情が爆発した、宿命の対決でもありました。
両将の人間性と価値観の衝突
両者の選択の違いは、その人間性や価値観の根源的な相違に起因します。
前田利家 は、秀吉とは家族ぐるみの付き合いがあり、妻のまつと秀吉の妻ねねも親しい間柄でした 28 。三女の摩阿姫を秀吉の側室として差し出すなど、前田家の安泰のために、秀吉との関係を最重要視していました 31 。彼は「律儀者」と評されますが、その律儀さは、旧来の秩序への固執ではなく、新たな人間関係や時代の流れの中で信義を尽くすという、柔軟で現実的なものでした 23 。
対照的に、 佐々成政 は、良くも悪くも旧時代の価値観に生きた武将でした。彼の忠誠心は、あくまで織田信長とその家系に向けられていました。主君信長が浅井・朝倉氏の髑髏で杯を作った際に、人道に外れるとして唯一諫言したという逸話は、彼の剛直で不器用なまでの誠実さを示しています 24 。彼にとって、農民出身の秀吉が天下を差配することは、到底受け入れられるものではなかったのです。
結局のところ、二人の対立は、戦国乱世の終焉期という時代の大きな転換点において、武将が自らの生き方をどう定め、未来をどう選択したかという、根本的な価値観の衝突でした。利家は「豊臣の天下」という新たな秩序に適応し、その中で家名を高める道を選びました。一方、成政は「織田家の忠臣」としての矜持に殉じ、変わりゆく時代に抗う道を選んだのです。末森城の戦いは、この二つの異なる「武士の生き様」が、北陸の大地で激しく火花を散らした舞台であったと言えるでしょう。
第三部:決戦、末森城 ― 合戦のリアルタイム詳解
天正十二年九月、小牧・長久手の戦いが膠着する中、佐々成政はついに動きました。北陸における秀吉方の要である前田利家を叩き、戦局を一気に有利に進めるため、その矛先を能登半島の付け根に位置する戦略拠点・末森城に向けたのです。ここから、前田家の運命を決定づける、息もつかせぬ四日間の攻防が始まります。
開戦前夜(天正12年8月~9月初旬)
本格的な衝突に先立ち、加賀と越中の国境地帯では、両軍による小競り合いが頻発していました。八月二十八日、成政はまず利家の支城である加賀・朝日山城を急襲しますが、城将・村井長頼の奮戦により撃退されます 33 。この一帯には、両軍が互いを警戒して築いた城砦群が点在し、一触即発の緊張状態が続いていました 7 。
成政の描いた戦略は、電撃的な奇襲作戦でした。前田領である加賀と能登を繋ぐ結節点に位置する末森城を迅速に攻略し、両国を分断。孤立した利家を叩くというものでした 36 。この作戦のため、成政は一万五千という、末森城の守備兵力とは比較にならない大軍を動員します。
一方、守る末森城には、城主として利家譜代の重臣である奥村永福が就いていました 38 。永福は利家が最初に家臣にしたともいわれるほどの古参であり、その武勇と忠誠心は高く評価されていました。しかし、彼が率いる城兵は、一説にわずか五百余名。圧倒的な兵力差は誰の目にも明らかでした 1 。
攻防の開始(9月9日~10日)
九月九日 、佐々成政率いる一万五千の大軍は、宝達山を越え、突如として末森城下に姿を現します。完全に不意を突かれた城内は一時混乱に陥りますが、城主・奥村永福はすぐさま兵を掌握し、城門を固く閉ざして籠城の構えを取ります 37 。佐々軍は四方から城を包囲し、怒涛の攻撃を開始しました。
九月十日 、攻防はさらに激化します。佐々軍は城の水の手を断ち、兵糧攻めと力攻めを併用して猛攻を加えました 1 。数に劣る城兵は必死に抵抗するものの、次々と死傷者が増え、ついに三の丸が陥落。敵兵は二の丸にまで迫り、城は風前の灯火となります 1 。この絶望的な状況に、さすがの猛将・永福も弱気になったと伝えられています。しかし、その時、妻の安(松樹院)が夫を「古の楠木正成は全国の兵を相手に籠城したと聞き及んでおります。殿はたかだか佐々一手の勢に囲まれただけのこと。何を気弱なことを申されますか」と厳しく叱咤激励し、城兵の士気を再び奮い立たせたという逸話が残っています 1 。
金沢の動揺と利家の決断(9月11日)
午後二時頃 、末森城から決死の脱出を果たした急使が、約三十キロ離れた利家の居城・金沢城に到着します。「末森城、落城寸前」との報に、城内は激しく動揺しました。重臣たちの間では、寡兵で救援に向かうのは無謀であり、金沢城の守りを固めるべきだという慎重論が支配的でした。
しかし、利家は即座の出陣を決断します。「末森は我が両腕に等しい。これを失えば、加賀・能登も失うことになる」と述べ、家臣の反対を押し切りました 3 。彼が動員できた兵力は、わずか二千五百。六倍の敵が待ち受ける戦場へ、利家は僅かな手勢を率いて、豪雨の降りしきる中を出陣したのです 36 。
午後八時頃 、利家軍は中継地点である津幡城に到着。ここで短い軍議を開き、進軍経路を定めました 40 。
深夜の強行軍(9月11日夜)
成政も利家の救援を警戒し、金沢から末森へ至る主要街道には、神保氏張らの部隊を配置して警戒網を敷いていました 34 。利家はこの敵の配置を正確に予測していました。彼は街道筋を避け、敵の警戒が手薄な海岸線沿いの道なき道を進むという、大胆な迂回作戦を選択します。
闇夜と豪雨が利家軍の姿を隠しました。利家は進軍の途中、土地勘のある周辺の領民から佐々軍の布陣状況に関する詳細な情報を収集し、作戦に反映させていきます 3 。兵士たちは泥濘に足を取られながらも、主君の決意に応えるべく、不眠不休で三十キロの道のりを踏破しました。この隠密強行軍こそが、戦いの帰趨を決する重要な布石となったのです。
決着の刻(9月12日早朝)
十二日早朝 、利家軍は末森城の北西に位置する今浜(現在の石川県宝達志水町)に到着。疲労困憊の兵を休ませつつ、佐々軍本陣の背後を突く絶好の位置に布陣を完了させました 40 。城攻めに集中し、勝利を確信していた佐々軍は、背後に敵の大軍が出現していることに全く気づいていませんでした。
夜明け と共に、戦況は劇的に動きます。利家軍は鬨の声を上げ、金の扇の馬印を押し立てて、一斉に佐々軍本陣へ突撃を開始しました。同時に、この救援軍の出現を城内から確認した奥村永福も、残った城兵を率いて城門から打って出て、佐々軍を正面から攻撃します。
完全に意表を突かれ、前後から挟撃される形となった佐々軍は大混乱に陥り、組織的な抵抗もできないまま総崩れとなりました 3 。成政は、自軍の陣形が崩壊し、勝利が絶望的になったことを悟ると、全軍に撤退を命令。越中へと引き返していきました 37 。
この劇的な勝利の後、利家は同日の夕方には金沢城に帰還しています 40 。わずか半日の出来事が、北陸の、そして両将の運命を永遠に変えたのです。
末森城の戦い タイムライン(天正12年9月9日~12日)
日時(天正12年) |
佐々成政軍(約15,000)の動向 |
前田利家・末森城方(約500→救援2,500)の動向 |
備考 |
9月9日 |
宝達山を越え、末森城を包囲。奇襲的に攻撃を開始。 |
城主・奥村永福、寡兵で籠城。必死の防戦に徹する。 |
成政の狙いは加賀・能登の分断。 |
9月10日 |
水の手を断ち、猛攻を継続。三の丸を占拠し、二の丸に迫る。 |
永福夫妻の叱咤激励で士気を維持するも、落城寸前の危機に陥る。 |
城内の戦力は限界に近づく。 |
9月11日 午後2時頃 |
包囲と攻撃を継続。勝利を確信する。 |
末森城からの急使が金沢城に到着。利家に救援を要請。 |
金沢城内では救援を巡り意見が対立。 |
9月11日 午後8時頃 |
街道筋に神保氏張らを配置し、利家の救援を警戒。 |
利家、2,500の兵を率いて金沢を出陣。夜、津幡城に到着し軍議。 |
豪雨の中での出陣。 |
9月11日 深夜 |
|
津幡城から海岸線ルートを選択し、末森へ向け夜通しの強行軍を開始。 |
佐々軍の警戒網を迂回する奇策。 |
9月12日 早朝 |
城攻めに集中し、背後の敵襲を予期せず。 |
今浜に到着し、佐々軍本陣の背後に布陣を完了。 |
奇襲の準備が整う。 |
9月12日 夜明け |
背後からの奇襲を受け大混乱。陣形が崩壊し、越中へ向け撤退を開始。 |
利家本隊が佐々軍本陣に突撃。城内の永福も呼応して打って出る。 |
前田軍の決定的勝利。戦いの帰趨が決した瞬間。 |
第四部:越中守山城の真実 ― 戦後の北陸情勢と前田氏の拠点
末森城における劇的な勝利は、単に一つの合戦の勝敗を決しただけではありませんでした。それは、北陸地方の勢力図を塗り替え、佐々成政と前田利家という二人の武将の運命を決定的に分かつ、歴史の大きな転換点となったのです。そして、この戦いの帰結として、越中守山城が前田家の歴史において重要な役割を担うことになります。
末森城の戦いがもたらした影響
前田利家にとって、末森城の勝利は計り知れない価値がありました。この勝利により、彼は北陸における主導権を完全に掌握し、豊臣秀吉からの信頼を不動のものとしました。小牧・長久手の戦いという大局において、秀吉陣営の勝利に大きく貢献したことで、その後の豊臣政権下での地位は飛躍的に向上します。後に豊臣五大老の一人に数えられ、「加賀百万石」と称される大大名へと成長する礎は、まさにこの一戦によって築かれたと言っても過言ではありません 2 。
一方、佐々成政はこの敗北により、軍事的に手痛い打撃を受けただけでなく、その戦略構想も完全に破綻しました。家康と連携して秀吉を挟撃するという目論見は水泡に帰し、北陸における影響力を大きく失墜させたのです。
成政、最後の賭け ― 「さらさら越え」
末森での敗北から二ヶ月後の天正十二年十一月、成政にとってさらに絶望的な報せがもたらされます。小牧・長久手の戦いが、盟主であるはずの織田信雄と秀吉の単独講和によって終結したのです。これにより徳川家康も停戦し、秀吉に反旗を翻した成政は、越中で完全に孤立無援の状態に陥りました 20 。
この窮地を打開するため、成政は常人には考えも及ばない行動に出ます。厳冬期の北アルプス・立山連峰を自ら踏破し、浜松の徳川家康に面会して、秀吉との抗戦継続を直訴しようとしたのです。これは後に「さらさら越え」として知られる壮挙であり、雪深い山々を越える過酷な旅でした 26 。
しかし、この決死の行動も報われませんでした。浜松城で成政を迎えた家康は、その労をねぎらいはしたものの、すでに秀吉との和睦を決意しており、抗戦継続の説得に応じることはありませんでした 36 。成政の「さらさら越え」は、彼の不屈の精神と主家への忠誠心を示す逸話として後世に語り継がれましたが、それは同時に、変化する大局を読めず、旧来の価値観に固執した彼の時代への不適合を象徴する、悲劇的な行動でもありました。
天正十三年「富山の役」と佐々家の終焉
翌天正十三年(1585年)八月、天下人への道を突き進む豊臣秀吉は、自ら十万の大軍を率いて越中に侵攻します(富山の役)。もはや成政に抗う術はありませんでした。秀吉軍は越中を蹂躙し、成政の居城・富山城を包囲します。完全に孤立無援となった成政は、ついに降伏を決意しました 7 。
秀吉は成政の命こそ助けたものの、越中の支配権は剥奪。成政は領地を失い、後に肥後へ転封されますが、そこでも国人一揆を抑えきれず、その責を問われて切腹を命じられます。織田信長の下で勇名を馳せた猛将は、歴史の闇へと消えていきました。
前田利長の守山城入城
佐々成政の降伏後、秀吉は越中の新たな支配体制を構築します。成政の旧領のうち、越中西部の三郡(砺波・射水・婦負)は、末森城での功績を高く評価された前田利家に与えられました 6 。利家はこの新たな領地を、嫡男である前田利長に統治させることにします。
そして、利長が越中支配の拠点として入城したのが、 越中守山城 でした 7 。守山城は、加賀・能登との連携が容易であり、越中平野を見渡せる要衝であったため、新たな支配の拠点として最適だったのです。利長は守山城を拠点に城下町を整備し、前田家による越中支配の基礎を築きました 6 。
この歴史的事実こそが、利用者様の当初の問いである「1584年 守山城の戦い」という認識の源流です。すなわち、「末森城の戦い」という原因が、「佐々成政の没落と前田家の越中進出」という結果を生み、その象徴的な出来事が「前田利長の守山城入城」であったのです。この一連の出来事が、長い年月を経て語り継がれる中で、一つの物語として結実したと考えるのが最も合理的でしょう。
結論:越中の帰趨を決したもの ― 末森城の勝利がもたらした前田家の飛躍
本報告書で詳述した通り、天正十二年(1584年)に北陸の、ひいては佐々成政と前田利家の運命を決定づけた合戦は、越中国の守山城ではなく、能登国の 末森城 を舞台に繰り広げられました。この戦いにおける前田利家の劇的な逆転勝利こそが、越中の帰趨を決した真の転換点であったと結論付けられます。
利用者様が当初提示された「守山城の戦い(1584)」は、直接的な戦闘としては史実には存在しません。しかし、それは歴史が語り継がれる過程で生まれた、象徴的な表現として理解することができます。すなわち、 原因 である「末森城の戦い」での勝利と、その 結果 として翌年にもたらされた「前田家の越中守山城支配」という二つの重要な歴史的事実が、時間と空間を超えて一つの物語として結びついたものなのです。
前田家にとって、末森城の戦いは、まさにその後の繁栄を決定づけた、家にとっての「桶狭間」とも言うべき合戦でした 2 。圧倒的な兵力差を、将の迅速な決断力、巧みな情報戦、そして兵の忠誠心によって覆したこの勝利は、豊臣政権下における前田家の地位を不動のものとし、後の「加賀百万石」へと続く栄光の道を開きました。
一方、佐々成政にとって、この一戦の敗北は、単なる軍事的後退に留まらず、政治的・戦略的な完全な破綻を意味しました。小牧・長久手の戦いという大局と連動した彼の戦略はここで頓挫し、政治的孤立を深め、最終的な滅亡へと繋がる坂道を転がり落ちるきっかけとなったのです。
最終的に、越中守山城は、佐々・前田の直接対決の舞台としてではなく、その抗争の帰結として、前田家が越中支配を確立するための新たな拠点として歴史にその名を刻みました。天正十二年という時代の大きなうねりの中で、二人の武将が繰り広げた宿命の対決のドラマは、末森城の攻防に凝縮され、その後の北陸の歴史を大きく規定したのです。
引用文献
- 110「末森・鳥越城攻防戦(前)」 https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x110.html
- 末森城の戦いは前田家の運命を決めた!前田利家 VS 佐々成政とその後 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14388/
- 16 「前田利家 VS 佐々成政」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/16.html
- この40年ほどの間に二上山が隆起したのか、今では274メートルだという。「そんな馬鹿な」と思いいろいろ調べてみましたが - 古城万華鏡Ⅰ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou/kojyou3.html
- 富山県高岡市 - 守山城跡詳細調査概報1 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/25/25985/19017_1_%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82%E5%AE%88%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%A6%82%E5%A0%B1.pdf
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