最終更新日 2025-05-29

セーカー砲

セーカー砲

日本の戦国時代におけるセーカー砲:その実態と歴史的意義に関する調査報告

はじめに

本報告書の目的と概要

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、「セーカー砲」と呼ばれる種類の大砲が、日本においてどのように認識され、導入され、そして他の火砲と比較してどのような位置づけにあったのかを、現存する資料に基づいて詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とします。当時の日本は、1543年の鉄砲伝来以降、火器の国産化と改良が進み、戦場における火器の重要性が飛躍的に高まった時代でした。特に、ポルトガルからもたらされたフランキ砲や、国内で製造された大筒(おおづつ)といった大砲は、合戦の様相を大きく変えつつありました。本報告書では、ヨーロッパで一定の評価を得ていたセーカー砲が、この日本の兵器史の変革期において、どのような役割を果たし得たのか、あるいは果たせなかったのかを多角的に考察します。

戦国時代における大砲の重要性と「セーカー砲」への関心

戦国時代の合戦、とりわけ攻城戦において、大砲は城門や櫓(やぐら)の破壊、さらには敵兵への心理的威圧といった点で、従来の兵器にはない決定的な影響力を持つようになりつつありました 1 。織田信長による石山本願寺攻めや、豊臣秀吉の小田原征伐、そして徳川家康による大坂の陣など、重要な戦いにおいて大砲が使用された記録は数多く残されています。このような背景の中で、ヨーロッパで開発され、海戦や攻城戦で用いられたセーカー砲が、日本の歴史においてどのような記録を残し、どのような評価を受けていたのかを明らかにすることは、当時の兵器技術の国際的な伝播と、日本におけるその受容および展開の実態を理解する上で、極めて意義深いと考えられます。

第一章:セーカー砲の概要

1.1. 定義と名称の由来

セーカー砲(英語: Saker)は、16世紀初頭にヨーロッパ、特にイングランドで開発・使用された中型のカノン砲の一種です 4 。その名称は、鷹狩りに用いられるハヤブサの一種である「セーカーハヤブサ(Saker falcon)」に由来するとされています 4 。当時のヨーロッパでは、大砲のサイズや種類に応じて鳥獣の名を冠する慣習があり、カルバリン砲(ラテン語の蛇に由来)やファルコン砲(ハヤブサ)などもその例です。セーカー砲は、より大型のカルバリン砲に比べてやや小型でありながら、一定の射程と破壊力を有していました 4

1.2. 基本仕様

セーカー砲の具体的な仕様は、製造された年代や国、工房によって多少の差異が見られますが、一般的には以下のような特徴を持っていたとされています。

  • 口径、砲身長、重量:
    代表的なセーカー砲の口径は3.25インチ(約8.3センチメートル)、砲身長は約9.5フィート(約2.9メートル)、砲自体の重量は約1,900ポンド(約860キログラム)と記録されています 4。別の資料では、口径3.5インチ(約8.9センチメートル)、砲身長7~9フィート(約2~2.7メートル)、重量1,800~2,000ポンド(約816~907キログラム)という数値も示されており 7、これらの差異は設計や製造のバリエーションによるものと考えられます。
  • 砲弾(種類、重量):
    主として重量5.25ポンド(約2.38キログラム)の鉄製球形弾を発射しました 4。7の資料では5~5.5ポンド(約2.3~2.5キログラム)とされています。19世紀に高性能な炸裂弾が普及する以前の大砲の砲弾は、主にソリッドな鉄球であり、目標に直接的な打撃を与えるだけでなく、地面を跳弾させて広範囲に被害を及ぼすことも意図されていました 4。
  • 射程、使用火薬:
    約4ポンド(約1.8キログラム)の黒色火薬を用いて、砲弾を約2,400ヤード(約2.2キロメートル)先まで到達させることが可能でした 4。1950年代にフランスで行われた試射では、砲を45度の仰角で発射した場合、その射程は3,000ヤード(約2.7キロメートル)を超えたと報告されています 4。
  • 材質と製造法概略:
    セーカー砲の砲身は、主に青銅を鋳造して作られました。16世紀のイングランド王ヘンリー8世は、海軍力増強のために多数のセーカー砲を製造させましたが、そのために大量の青銅が必要となり、結果として青銅の原料である錫(すず)が世界的に不足する事態を引き起こしたという記録も残っています 4。大砲の鋳造は当時の最先端技術であり、砲身内部の均一性や強度、鋳造時の欠陥の有無が、大砲の安全性や射撃性能を大きく左右しました 8。

以下に、セーカー砲の主要な諸元をまとめた表を示します。これにより、セーカー砲の基本的な技術的特徴を一覧でき、その物理的な規模と性能を具体的に把握する助けとなります。この情報は、後の章で他の種類の大砲と比較検討を行う際の基礎データとなります。

【表1:セーカー砲の主要諸元】

項目

仕様

典拠例

口径

3.25インチ (約8.3 cm)

4

砲身長

約9.5フィート (約2.9 m)

4

総重量

約1,900ポンド (約860 kg)

4

砲弾重量

5.25ポンド (約2.38 kg)

4

使用火薬量

約4ポンド (約1.8 kg) の黒色火薬

4

有効射程

約2,400ヤード (約2.2 km)

4

最大射程(試験値)

45度仰角で3,000ヤード (約2.7 km) 超

4

材質

主に青銅

4

1.3. 主な製造・使用年代と地域(ヨーロッパにおける状況)

セーカー砲は16世紀初頭に開発され、特にイングランドで広く採用されました 4。イングランド内戦(17世紀中頃)においては、攻城戦の際に攻守双方によって多用された記録があり、また、1689年のジャコバイト蜂起の際にもウィリアム3世とジェームズ2世の両軍によって使用されました 4。フランスでは「クーレヴリン・モワイエンヌ(couleuvrine moyenne、中型カルバリンの意)」として知られ、陸戦のみならず海戦においても頻繁に使用されました。例えば、ヴェネツィアの商船は地中海の海賊からの自衛のためにセーカー砲を搭載しており、16世紀末のスペイン無敵艦隊の沈没船からも類似の大砲が発見されています 4。新大陸においても、プリマス植民地のピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号に搭載されていた海軍用セーカー砲を陸揚げし、入植地の防衛に使用した記録があります 4。

18世紀初頭の1714年、イギリス陸軍の砲兵専門家であったアルバート・ボルガード准将は、従来のカルバリン、セーカー、ミニオンといった伝統的な大砲の名称を廃し、砲弾の重量に基づいた新しい分類システムを考案しました。これにより、セーカー砲という名称は公式には次第に使われなくなっていきました 4。

1.4. 軍事用途と特徴

セーカー砲は、その中程度のサイズと威力から、陸戦においては攻城砲として、また野戦における支援火器として、海戦においては艦載砲として多目的に使用されました 4。カルバリン砲のような大型砲に比べて小型軽量であるため、比較的小型の船舶への搭載も可能であり、これが汎用性を高める一因となりました 6。

砲弾の重量はカルバリン砲に劣るものの、そのクラスの火砲としては十分な射程と破壊力を有しており、中程度の強度を持つ目標(例えば、野戦築城や木造の防御施設、小型艦船など)に対して有効な兵器であったと考えられます。

一部資料 6 には、「カルバリン砲よりも弾丸重量が小さいが、その代わり装薬量を増やし砲身長を長くする事で長射程を可能とした」という記述が見られます。しかし、一般的なカルバリン砲はセーカー砲よりも大型で砲身も長いものが多く 7 、より重い砲弾をより遠くへ投射する能力を持っていました。このため、前述の記述は、セーカー砲が絶対的にカルバリン砲より長砲身であったという意味ではなく、セーカー砲が属する砲のクラス(5ポンド砲クラス)の中では、相対的に砲身長を確保し、装薬量を調整することで、そのサイズに見合った最大限の射程を得ようとした設計思想を示唆していると解釈するのが自然です。16世紀から17世紀にかけての砲術では、長砲身に多量の火薬を詰めることで射程と貫通力を高めるという考え方が一般的であり 8 、セーカー砲も、より小型のクラスにおいてその思想を部分的に踏襲し、軽量化と長射程のバランスを追求した結果、小型船への搭載という利便性と長射程という特徴をある程度両立させた可能性があります。この点が、もし日本で評価される機会があったとすれば、注目された要素となったかもしれません。

第二章:戦国時代の日本におけるセーカー砲

2.1. 日本への伝来の可能性と記録

戦国時代の日本において、セーカー砲がどの程度知られ、また使用されたかについては、現存する史料からは極めて限定的な情報しか得られません。

  • 徳川家康による輸入の記録:
    日本の歴史記録において「セーカー砲」という名称が具体的に登場するのは、大坂の陣(慶長19-20年、1614-1615年)直前に、徳川家康がイギリスから数門の大砲を輸入した際の一件が最初とされています 10。歴史研究家の桐野作人氏の著作『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』(2010年)の56ページ、および武具研究家の笹間良彦氏の著作『図録日本の合戦武具事典』(1999年)の140ページには、徳川家康がイギリスからカルバリン砲4門とセーカー砲1門を合計1400両で購入したとの記述が見られます 11。
    この記録は注目に値しますが、日本におけるセーカー砲の存在を示す数少ない事例である点を考慮する必要があります。16世紀半ばにはポルトガルからフランキ砲(「国崩し」とも呼ばれた後装式砲)が大友宗麟らによって導入され、一部は国産化も試みられるなど、比較的早い時期から日本社会に浸透していました 1。また、カルバリン砲についても、家康が上記のように4門購入し、大坂の陣で実際に使用して戦果を挙げたことが伝えられており、その威力は当時の人々に強い印象を与えたと考えられます 11。さらに、国産の大筒も、織田信長や徳川家康の命により、堺の芝辻理右衛門や近江国友村の鍛冶によって製造され、実戦で用いられていました 3。
    これら他の大砲の導入・製造状況と比較すると、セーカー砲に関する記録は徳川家康による1門の購入事例にほぼ限られており、その後の運用実績や追加購入、国産化の試みといった情報は現在のところ見当たりません。この事実は、セーカー砲が戦国末期から江戸時代初期の日本において、兵器体系に大きな影響を与えるほどの存在ではなかった可能性を強く示唆しています。家康によるセーカー砲の輸入は、広範な兵器調達活動の一環としての試験的な導入であったか、あるいは主力と見なされたカルバリン砲の取引に付随する形で行われた可能性も考えられます。
  • 『イギリス商館長日記』等の関連史料の検討:
    徳川家康によるセーカー砲購入の記述の確度を検証する上で、その一次史料の特定は極めて重要です。具体的には、当時平戸にあったイギリス東インド会社商館の長であったリチャード・コックスの日記や書簡、あるいは本国の東インド会社宛ての公式報告書などに、この取引に関する具体的な記述が残されているかどうかが焦点となります。
    しかしながら、国会図書館レファレンス協同データベースにまとめられた情報によれば、桐野作人氏や笹間良彦氏の著作がセーカー砲購入の典拠として具体的にどの一次史料のどの箇所(例えば、リチャード・コックスの日記の何年何月何日付の記述など)を指しているのかは、その要約情報からは明らかにされていません 11。この点は、セーカー砲の日本伝来に関する記述の信頼性を評価する上で、慎重な検討を要する部分です。
    提供された資料の中には、リチャード・コックスの日記の序文や関連情報が含まれていますが 19、これらはイギリス商館設立の経緯や当時の日本の一般的な状況について触れているものであり、セーカー砲を含む具体的な武器取引の詳細を記したものではありません。
    17世紀初頭のイギリス東インド会社は、アジア各地で多様な貿易活動を展開しており、日本との間でも武器を含む様々な品目が取引された可能性は十分に考えられます 21。また、徳川家康の外交・軍事顧問として活躍したイギリス人ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)が、イギリスと日本の貿易開始に大きな役割を果たしたことも背景として重要です 25。
    それにもかかわらず、「セーカー砲1門をカルバリン砲4門と共に1400両で購入した」という具体的な取引内容を直接的に証明する一次史料が、現時点での調査では明確に提示されていないことは、この情報の確度を判断する上で留意すべき点です。したがって、本報告書においては、この購入記録を著名な研究者の記述として紹介しつつも、その一次史料による裏付けについては今後の研究課題である旨を付記することが、学術的な誠実さを保つ上で適切であると考えられます。

2.2. 大坂の陣における使用の可能性

徳川家康が輸入したとされるセーカー砲が、実際に大坂の陣で使用されたかどうかについては、明確な記録が存在しないとされています 10。大坂の陣、特に冬の陣においては、家康がイギリスから輸入したカルバリン砲が実戦投入され、その長大な射程と破壊力によって大坂城内の豊臣方に大きな物理的・心理的打撃を与え、和議交渉の進展に影響したと一般に理解されています 11。

仮にセーカー砲が大坂城攻めに持ち込まれていたとしても、カルバリン砲が4門であったのに対しセーカー砲は1門と数が少なく 11、またカルバリン砲の戦果が際立って記録されているため、セーカー砲の活動は目立たなかったか、あるいは実際には戦闘に参加しなかった可能性も否定できません。一部の考察では、当時「国崩し」という呼称がフランキ砲だけでなく、カルバリン砲など輸入大砲全般を指す総称として用いられた可能性も指摘されており 27、もしセーカー砲が何らかの形で使用されたとしても、特定の名称で記録されず、より広範な「大砲」や「石火矢(いしびや)」といった一般的な呼称の中に埋もれてしまった可能性も考えられます。

2.3. 戦国期日本における「セーカー砲」呼称の定着度

提供された資料を精査する限り、徳川家康による購入記録を除いて、「セーカー砲」という名称が当時の日本で一般的に使用されたり、あるいは砲術書などで専門用語として定着したりしたという証拠は見当たりません。例えば、ポルトガルから伝来したフランキ砲が「国崩し」や「石火矢」といった和名で呼ばれ、ある程度の知名度を得ていたのとは対照的です 12 。セーカー砲にそのような日本独自の通称があったという記録も確認されていません。この事実は、セーカー砲の日本への導入がごく限定的なものであり、日本の兵器体系や砲術用語に特筆すべき影響を与えるほど普及しなかったことを強く示唆しています。

第三章:セーカー砲と戦国期の他の大砲との比較

戦国時代から江戸時代初期の日本には、セーカー砲以外にも様々な種類の大砲が存在しました。ここでは、セーカー砲を当時の代表的な大砲であるカルバリン砲、フランキ砲(国崩し)、そして国産大筒と比較し、その特徴と位置づけを考察します。

3.1. カルバリン砲との比較

  • 仕様・性能:
    セーカー砲は、カルバリン砲と比較して一般的に小型軽量であり、用いる砲弾の重量も軽いとされています 4。カルバリン砲には様々なサイズが存在しましたが、例えば「通常カルバリン砲」と呼ばれるものでは、砲弾重量が17ポンド5オンス(約7.9キログラム)、口径5.5インチ(約140ミリメートル)、砲身長12フィート(約3.7メートル)、「最小カルバリン砲」であっても砲弾重量14ポンド9オンス(約6.6キログラム)と、セーカー砲の標準的な砲弾重量である5.25ポンド(約2.4キログラム)を大幅に上回っていました 9。
    射程に関しては、一部資料でセーカー砲が「長射程を可能とした」と記述されていますが 10、徳川家康が用いたカルバリン砲が14キログラムの砲弾を最大6.3キロメートル先まで飛ばしたという記録もあり 15、大型のカルバリン砲の方が長大な射程距離を有していたと考えられます。第一章で触れたように、セーカー砲の「長射程」という特性は、あくまでその砲のクラス内での相対的な評価、あるいは特定の設計思想に基づくものと解釈するのが妥当でしょう。
  • 価格:
    徳川家康はカルバリン砲4門とセーカー砲1門を合わせて1400両で購入したとされていますが 11、それぞれの個別の価格は不明です。単純に頭割りすれば1門あたり280両となりますが、これはあくまで平均値です。ある資料では、セーカー砲がカルバリン砲よりも小型であることから、カルバリン砲1門の価格を300両程度と見積もり、セーカー砲はそれよりも安価であったと推測する記述も見られますが 28、これも確たる証拠に基づくものではありません。
  • 日本での導入状況:
    徳川家康がイギリスから購入した大砲は、カルバリン砲4門に対してセーカー砲は1門であり、数においてはカルバリン砲が優勢でした 11。大坂の陣でその威力を発揮し、戦局に影響を与えたと伝えられるのも主にカルバリン砲であり 11、セーカー砲の具体的な戦功に関する記録は見当たりません。
    この導入数の違いや戦場での記録の差は、徳川家康の兵器調達戦略において、カルバリン砲がより重要な位置を占めていた可能性を示唆しています。カルバリン砲は、より重い砲弾を長距離に投射できるため 9、大坂城のような堅固な城郭に対する攻城兵器として、より大きな期待が寄せられたと考えられます。一方、セーカー砲は、より小型軽量であるため、例えばより機動的な野戦での運用や、小型船への搭載といった異なる役割を想定されていた可能性も考えられますが、その具体的な運用構想や実績を示す記録は、提供された資料の中には見出せません。したがって、家康の兵器調達において、セーカー砲はカルバリン砲を補完する役割、あるいは性能評価のための試験的な導入であった可能性が推測されます。もし主力兵器として期待されていたのであれば、より多くの数が導入されたと考えるのが自然でしょう。

3.2. フランキ砲(国崩し)との比較

  • 構造・仕様:
    フランキ砲は、砲尾から装填する後装式の大砲であり、子砲(こほう)と呼ばれる火薬と砲弾を詰めたカートリッジ状の部品を交換することで、比較的迅速な連続射撃が可能でした。多くは青銅製で、旋回可能な砲架に据え付けて使用されました 12。大友宗麟が用いた「国崩し」と呼ばれるフランキ砲も青銅製で、子砲が付属し、特徴的な紋様や照準器を備えていたとされています 13。現存する黒田長政所蔵のフランキ砲の口径は約5.8センチメートルです 13。
    これに対して、セーカー砲は砲口から弾薬を装填する前装式であり、一体鋳造された砲身を持つカノン砲の一種です 4。
  • 運用思想:
    フランキ砲は、その速射性と旋回性から、主に船上での対人・対小型船戦闘や、城壁からの近距離防御に適していたと考えられます。大友宗麟は、フランキ砲を沿岸防衛や日向国高城救援戦などの攻城戦で使用した記録があります 2。
    一方、セーカー砲は、単発の威力とより長大な射程を重視した設計であり、野戦における支援射撃や、より遠距離からの城郭攻撃などを意図した兵器であったと考えられます。
    フランキ砲とセーカー砲は、装填方式、砲身構造、そして想定される戦術的役割において、根本的に異なる技術系統に属する兵器と言えます。フランキ砲は16世紀半ばにポルトガルからもたらされ、日本でもある程度受容が進み、国産化まで試みられました 1 。これは後装式・カートリッジ交換式という、当時としては先進的な技術でした。対してセーカー砲は、17世紀初頭にイギリスから伝来した可能性のある、より古典的な前装式鋳造カノン砲です 10 。当時の日本の技術者や武将たちは、これら異なるシステムの兵器に触れ、それぞれの利点と欠点を比較評価したはずです。フランキ砲の持つ速射性や取り回しの良さと、セーカー砲(やカルバリン砲)が持つ長射程・高威力を天秤にかけ、自軍の戦術や兵站、技術力に適合するものを選択しようとしたでしょう。フランキ砲が「国崩し」の名で知られ、一定の知名度と使用実績を残したのに対し、セーカー砲に関する記録が乏しい背景には、その導入時期の遅さ、輸入数の限定性、あるいは日本の戦場環境や既存の戦術思想との適合性の問題などがあったのかもしれません。日本は複数の技術系統の大砲に触れる機会がありましたが、セーカー砲が主流とならなかったのは、既に存在したフランキ砲や国産大筒である程度のニーズが満たされていたか、あるいはより高性能なカルバリン砲の方に関心が集まったといった要因が考えられます。

3.3. 国産大筒との比較

  • 材質・製造技術:
    戦国時代から江戸時代初期にかけて日本国内で製造された大筒の多くは鉄製であり、鍛造(たんぞう)と呼ばれる、熱した鉄を叩いて成形・接合する技術によって製造されました 3。具体的には、短冊状に加工した鉄片を熱して芯棒に巻き付け、鍛接(たんせつ)を繰り返して円筒形の砲身を形成する手法が用いられました。これは、ヨーロッパの大砲が主に青銅を鋳型に流し込んで作る鋳造(ちゅうぞう)であったのとは異なる、日本独自の技術的特徴です。
    堺の鉄砲鍛冶である芝辻理右衛門が徳川家康の命によって製作した大砲は、鋼鉄を用いた鍛造砲であったとされ、その口径は9.3センチメートル、全長313センチメートル、砲弾重量は約5.6キログラム(一貫五百匁)に達しました 3。この砲弾重量は、セーカー砲の標準的な砲弾重量(約2.4キログラム)よりもかなり大きなものです。また、近江国友村の鍛冶も、織田信長の命により砲身長九尺(約3メートル)、二百匁(約750グラム)弾を発射可能な大口径砲を製造したと伝えられています 3。
  • 威力・運用:
    国産大筒は、攻城戦において城の石垣や櫓を破壊する十分な威力を持っていました 2。運用にあたっては、その重量と発射時の反動から、専用の台に据え付けて使用するのが一般的でしたが 31、これはセーカー砲のようなカノン砲も同様に砲架を必要とする点では共通しています。国産大筒の大きな利点は、日本の職人の手によって製造・改良が可能であり、各大名のニーズに応じて様々な口径や仕様のものが作られた点にあります。
    日本には既に独自の製法(主に鉄鍛造)による大筒製造技術が存在し、戦場である程度の威力を持つ兵器が供給されていました。セーカー砲のような外来の兵器は、これらの国産兵器と比較して、性能、コスト、入手の容易さ、運用ノウハウといった様々な観点から総合的に評価されたはずです。徳川家康がセーカー砲を1門のみ購入したという記録の背景には、既に国産大筒や他の輸入砲(カルバリン砲、フランキ砲など)によって一定の戦力を保有しており、セーカー砲の導入が急務ではなかった、あるいは性能やコスト面で国産品や他の輸入品に対して明確な優位性が見いだせなかった可能性が考えられます。特に、前述の芝辻理右衛門製作の大砲(砲弾重量5.6キログラム)は、セーカー砲(砲弾重量約2.4キログラム)よりも重い砲弾を運用できるものであり、単純な破壊力では国産品が勝る場合もあったかもしれません。セーカー砲の日本における影響が限定的だったのは、単に希少であったからだけでなく、既に存在した国産兵器や他の輸入兵器との比較において、必ずしも圧倒的なアドバンテージを示すことができなかったためかもしれません。このことは、当時の日本の兵器技術も独自の発展を遂げており、外来技術を無条件に受け入れるのではなく、実情に合わせた取捨選択が行われていたことを示唆しています。

以下に、セーカー砲と戦国期から江戸初期にかけて日本で存在が確認される主要な大砲の特性を比較した表を示します。これにより、各砲の相対的な位置づけや特徴がより明確になり、なぜ特定の種類の砲が日本で受容され、あるいはされなかったのかについて、技術的な側面から考察する手がかりを得ることができます。これは、戦国時代の兵器体系の多様性と、当時の日本の技術選択の複雑さを示す上で非常に有効です。

【表2:セーカー砲と戦国期主要大砲の比較】

項目

セーカー砲

カルバリン砲 (通常型例)

フランキ砲 (国崩し例)

国産大筒 (芝辻砲例)

主な導入/製造年代

16世紀初頭~ (欧州)、日本では慶長年間輸入記録

15-17世紀 (欧州)、日本では慶長年間輸入記録

16世紀半ば~ (日本)

16世紀後半~17世紀初頭 (日本)

口径 (約)

8.3 cm

14.0 cm 9

5.8 cm (黒田長政所蔵砲) 13

9.3 cm 3

砲身長 (約)

2.9 m

3.7 m 9

2.0 m (黒田長政所蔵砲、尾栓含む) 13

3.1 m 3

砲弾重量 (約)

2.4 kg

7.9 kg 9

不明 (フランキ砲は多様)

5.6 kg 3

射程 (約)

2.2 km (有効)

6.3 km (最大記録) 15

不明 (比較的短射程か)

不明 (例:信長の大筒は二百匁玉) 3

装填方式

前装式 4

前装式

後装式 (子砲使用) 12

前装式 3

主な材質

青銅 4

青銅/鉄

青銅 13

鉄 (鍛造) 3

日本での主な使用者/記録

徳川家康 (輸入記録) 10

徳川家康 (輸入・大坂の陣で使用) 14

大友宗麟、島津氏 (鹵獲) 1

織田信長、徳川家康 3

第四章:戦国期日本の大砲導入と国産化の文脈におけるセーカー砲の位置づけ

4.1. 16世紀~17世紀初頭の日本における大砲の導入史概観

日本の歴史において、大砲が本格的に導入され始めたのは16世紀半ば以降のことです。1543年のポルトガル人による鉄砲伝来は、日本の戦術や兵器に革命的な変化をもたらしましたが、それにやや遅れて大砲もまた、南蛮貿易を通じて日本にもたらされました 1。

初期に導入された代表的な大砲は、ポルトガル商人から伝わったフランキ砲です。これは「石火矢」や、その威力から「国崩し」などとも呼ばれ、豊後の大友宗麟などが積極的に導入し、実戦で使用しました 1。フランキ砲は砲尾から子砲を装填する後装式であり、比較的速射性に優れ、多くは旋回可能な砲架に据え付けられました。

その後、17世紀初頭に入り、オランダやイギリスとの貿易が本格化すると、フランキ砲とは異なるタイプの、より大型で長射程を持つ前装式のカノン砲も日本に導入されるようになりました。徳川家康が大坂の陣に際してイギリスから輸入したとされるカルバリン砲や、本報告書の主題であるセーカー砲も、この流れの中で日本にもたらされたと考えられます 10。これらの輸入大砲は、主に堅固な城郭を攻撃するための攻城兵器として、あるいは海戦における艦載兵器としての役割が期待されました。

4.2. 大砲の国産化の努力

外国から大砲が導入される一方で、日本国内でも大砲を自力で製造しようとする試みが活発に行われました。

  • 大友氏と渡辺宗覚:
    豊後の大友宗麟は、フランキ砲を輸入するだけでなく、国外(おそらく明か東南アジア)で火砲の鋳造技術および使用法を習得してきたとされる渡辺宗覚という人物を召し抱え、日本で初めて大砲の国産化に成功したと言われています 13。宗覚の鋳造技術は、その後、日本国内における青銅製火砲鋳造の主流となり、文禄の役の際に宗麟の嫡男である大友義統が改易された後、宗覚の技術は徳川家康のもとへも流出したと伝えられています。
  • 芝辻理右衛門:
    堺の鉄砲鍛冶として名高い芝辻理右衛門は、徳川家康の命を受け、慶長16年(1611年)に大型の鍛造鉄製大砲を完成させました 3。この大砲は「芝辻砲」とも呼ばれ、日本の伝統的な鍛造技術を応用した国産大砲の一つの到達点を示すものと言えます。
  • 国友鍛冶:
    鉄砲の一大生産地として知られる近江国友村の鍛冶たちも、大砲の製造に関わっていました。織田信長は国友の鍛冶に鉄砲の大量生産を命じると同時に、大砲の試作も命じたとされ、実際に二百匁玉を撃ち出す大口径砲が岐阜城に届けられた記録があります 3。その後も国友鍛冶は徳川家康の需要に応じ、大坂の陣などに使用される大筒を製造しました 11。国友で製造された大砲は、主に鉄を素材とした鍛造品で、砲口から弾薬を装填する前装式でした 3。
  • 材質と技術の変遷:
    日本における大砲国産化の初期、特にフランキ砲の模倣品は青銅鋳造であり、日本国内で産出される金属材料が用いられていたと考えられます。しかし、17世紀初頭以降の国産砲には、華南(中国南部)産の材料を主体とした外国産の金属材料が用いられるようになるなど、材料調達や合金技術にも変化が見られました 13。これは、より高品質な砲を製造するための試行錯誤や、朱印船貿易などを通じた海外との材料取引の活発化を反映している可能性があります。一方、芝辻理右衛門や国友鍛冶が手掛けた大筒は、主に鉄を素材とし、伝統的な鍛造技術が用いられました。
    戦国末期から江戸初期にかけての日本の大砲国産化には、大きく分けて二つの技術的な潮流があったと見ることができます。一つは、ポルトガルからもたらされたフランキ砲を模倣し、改良しようとする流れであり、これは主に青銅を用いた鋳造技術を基盤とし、後装式の機構を持つものでした。もう一つは、日本古来の刀剣や鉄砲製造で培われた鉄の鍛造技術を応用し、より大型の鉄製大筒を開発しようとする流れであり、これは前装式のものが中心でした。
    本報告書の主題であるセーカー砲は、ヨーロッパでは主に青銅で鋳造される前装式のカノン砲であり 4、日本のこれら二つの国産化の潮流のいずれとも異なる技術系統に属します。日本でセーカー砲を国産化するには、大型の青銅器を精密に鋳造する技術と、カノン砲特有の砲身設計や高腔圧に耐えるためのノウハウが必要となります。フランキ砲の鋳造経験はあったものの、セーカー砲のような大型で肉厚なカノン砲の鋳造は、また異なる技術的課題を伴った可能性があります。加えて、もし鉄の鍛造によって同等以上の性能を持つ大筒が製造可能であったならば、敢えて材質も製法も異なる青銅鋳造のセーカー砲を国産化する積極的な動機は薄かったかもしれません。結果として、セーカー砲は徳川家康による1門の輸入記録が伝えられるに留まり、国産化の対象とはならなかったと考えられます。このことは、当時の日本の技術者たちが、既存の技術基盤(青銅鋳造技術や鉄鍛造技術)と照らし合わせながら、導入する外国兵器の国産化の可否やコストパフォーマンスを現実的に判断していた可能性を示唆しています。セーカー砲は、その点で、フランキ砲や国産大筒ほど魅力的な選択肢とは見なされなかったのかもしれません。

4.3. セーカー砲が日本の兵器体系に与えた影響(あるいは与えなかった影響)

徳川家康による1門の輸入記録が伝えられるのみで、大坂の陣での実戦使用も不明確であるという現状の知見に基づけば、セーカー砲が戦国末期から江戸時代初期の日本の兵器体系や戦術に直接的かつ大きな影響を与えたとは考えにくいと言わざるを得ません。

むしろ、同時期に同じくイギリスから輸入され、大坂の陣で実際に戦果を挙げたとされるカルバリン砲の方が、大型カノン砲の持つ長大な射程と破壊力を日本の武将たちに強く印象づけた可能性があります。

セーカー砲の存在は、当時の日本がヨーロッパからもたらされる多様な兵器に関する情報を入手し、その中から選択的に導入を試みていたという、国際的な技術交流の一側面を示す一例とは言えるかもしれません。しかし、その影響は極めて限定的であり、一過性のものに終わったと評価するのが妥当でしょう。

日本の砲術は、その後、フランキ砲や国産大筒の運用経験を基盤としつつ、江戸時代中期以降には高島秋帆らによって西洋式の近代砲術が導入され、発展していくことになりますが 36、その歴史的過程において、セーカー砲が特筆すべき役割を果たしたという形跡は、現在のところ見出すことができません。

結論

調査結果の要約と総括

本報告書では、日本の戦国時代から江戸時代初期における「セーカー砲」について、その定義、ヨーロッパでの仕様、日本への伝来の可能性、他の主要な大砲との比較、そして兵器史上の位置づけを、現存する資料に基づいて調査・考察しました。

その結果、以下の点が明らかになりました。

  1. セーカー砲は、16世紀初頭にヨーロッパで開発された中型のカノン砲であり、口径約8.3センチメートル、砲弾重量約2.4キログラム、有効射程約2.2キロメートルといった一定の性能を有していました。
  2. 日本においては、徳川家康が大坂の陣直前にイギリスからカルバリン砲4門と共にセーカー砲1門を1400両で購入したという記録が、桐野作人氏や笹間良彦氏といった研究者の著作に見られます。しかし、この購入を直接的に裏付ける一次史料(例えば、イギリス東インド会社の公式記録やリチャード・コックスの日記の該当箇所など)の具体的な提示については、現時点では不明確な点が残ります。
  3. 輸入されたとされるセーカー砲が、大坂の陣で実際に使用されたかどうかは記録上確認されていません。また、当時の日本において「セーカー砲」という呼称が一般的に定着した形跡も見られません。
  4. 同時期に日本に存在した他の大砲、すなわちカルバリン砲、フランキ砲(国崩し)、そして国産大筒などと比較すると、セーカー砲の日本兵器史における存在感は希薄であったと言わざるを得ません。これは、輸入数の少なさ、実戦での明確な戦功記録の欠如、そして国産化の対象とならなかったことなどが要因として考えられます。

戦国時代の「セーカー砲」に関する知見と今後の研究課題

本調査を通じて、戦国時代の日本におけるセーカー砲の記録は極めて限定的であり、その影響もごく僅かであった可能性が高いことが示されました。この事実は、当時の日本が外来技術に対して、必ずしも無条件に受け入れるのではなく、自国の状況や既存技術との比較検討を通じて取捨選択を行っていたことを示唆しています。

今後の研究課題としては、まず第一に、徳川家康によるセーカー砲購入記録の一次史料、特にイギリス東インド会社関連の文書(平戸商館長リチャード・コックスの日記や書簡、本国への報告書、積荷目録など)を徹底的に調査し、当該記述の有無およびその内容を特定・検証することが挙げられます。これにより、購入の事実関係や具体的な取引状況が明らかになる可能性があります。

第二に、もし購入が事実であった場合、なぜセーカー砲の導入が1門のみという極めて限定的な規模に留まったのか、その背景をさらに深く考察する必要があります。考えられる要因としては、技術的な評価(国産大筒や他の輸入砲と比較しての性能)、コストパフォーマンス、兵站上の問題、あるいは当時の日本の戦術思想との整合性などが挙げられます。これらの要因を総合的に分析することで、当時の日本の兵器導入・選択のメカニズムや、国際的な兵器技術の伝播と受容の実態について、より詳細かつ具体的な理解が得られると期待されます。

これらの研究を進めることは、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての軍事技術史、さらには日本とヨーロッパ間の初期交流史をより深く理解する上で、重要な貢献を果たすものと考えられます。

引用文献

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