最終更新日 2025-05-29

数珠丸恒次

数珠丸恒次

天下五剣「数珠丸恒次」に関する調査報告書

序論

数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)は、日本の刀剣文化において、「天下五剣」の一振りとして名高く、その美しさ、由来、そして数奇な伝来によって多くの人々を魅了し続けている太刀である。本報告書は、現存する資料に基づき、数珠丸恒次の歴史的背景、作者、刀身の特徴、文化的価値、そして現代における意義を包括的に明らかにすることを目的とする。

特に本報告書では、ご依頼のあった「戦国時代」における数珠丸恒次についても考察を加える。数珠丸恒次は鎌倉時代に製作され、日蓮聖人に佩用されたと伝わる。その後、江戸時代中期に一時行方不明となるまで身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)に秘蔵されていたとされている 1 。この伝来を鑑みるに、戦国時代(1467年~1615年頃)という動乱の世にあって、数珠丸恒次は久遠寺という宗教的聖域に守られ、実戦でその鋭利な刃が振るわれることなく、むしろ霊宝としての性格を強めていった可能性が高い。他の天下五剣が戦国武将の手に渡り、歴史の表舞台でその存在感を示したのとは対照的に、数珠丸恒次は信仰の対象として、あるいは寺の権威を象徴する宝物として、静かにその時代を見つめていたのではないだろうか。本報告書では、資料に基づき、この戦国時代における数珠丸恒次の特異な状況についても考察を深めていく。

第一章:数珠丸恒次の概要

1.1. 天下五剣としての位置づけ

「天下五剣(てんがごけん)」とは、数ある日本刀の中で特に優れた名刀五振りの総称であり、数珠丸恒次はその栄誉ある一振りとして数えられている 3 。具体的には、三日月宗近(みかづきむねちか)、童子切安綱(どうじぎりやすつな)、大典太光世(おおでんたみつよ)、鬼丸国綱(おにまるくにつな)と共に、日本刀の至宝として並び称される存在である 1

天下五剣という呼称がいつ、誰によって定められたのかは明確な記録がなく、その選定基準についても諸説ある。しかし、これらの刀剣が名刀として認識されるようになった背景には、その卓越した作刀技術、美術的価値に加え、歴史上の著名な人物との関わりや、それらにまつわる逸話・伝説が大きく影響していると考えられる 6 。江戸時代後期、1828年(文政11年)に出版された『諸家名剣集』には、これら五振りが「五振ノ内也」として記載されており、これが天下五剣の呼称の初出とされている 7 。数珠丸恒次がこの五振りに含まれることは、その歴史的・文化的な重要性が古くから認識されていたことを示している。

1.2. 文化財としての価値

数珠丸恒次は、その美術的価値と歴史的重要性から、文化財としても高く評価されている。まず、1922年(大正11年)4月13日に、当時の国宝保存法に基づき旧国宝(現行の文化財保護法における重要文化財に相当)に指定された 1 。その後、1950年(昭和25年)8月29日には、文化財保護法が施行されたことに伴い、改めて重要文化財として指定されている。その際の指定名称は「太刀 銘 恒次(名物 数珠丸)」である 9

さらに特筆すべきは、江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗の命により刀剣鑑定家の本阿弥家が編纂した名刀リストである『享保名物帳』に、「名物」として記載されていることである 1 。『享保名物帳』に記載される「名物」とは、単に姿形が優れているだけでなく、その刀剣が持つ由緒や伝来も評価の対象となったとされ、数珠丸恒次が日蓮聖人との深い関わりを持つという点が、名物としての評価に影響を与えた可能性は高い 7 。このように、数珠丸恒次は大正時代から国の保護を受けるべき文化財として認められ、それ以前の江戸時代においても既に名刀としての評価が確立していたことがわかる。

第二章:作者と製作年代

数珠丸恒次の作者については、古来より複数の説が存在し、現代においても完全な特定には至っていない。しかし、その作風や銘の特徴から、いくつかの有力な説が提唱されている。

2.1. 刀工:青江恒次説とその根拠

数珠丸恒次の作者として最も一般的に知られているのは、鎌倉時代に備中国(現在の岡山県西部)で活躍した青江派の刀工、「青江恒次」(あおえつねつぐ)であるとする説である 10 。青江派は、平安時代末期から鎌倉時代、南北朝時代を経て室町時代中期頃まで活動した一大刀工群であり、特に鎌倉時代に作られた作品は「古青江(こあおえ)」と称され、優れた名工を多く輩出した 10 。恒次もこの古青江を代表する刀工の一人とされ、後鳥羽上皇が設けた御番鍛冶(朝廷に仕え月交代で刀剣を製作した刀工)の一人であったという伝承も存在する 2

青江派の刀工は名前に「次」の字を通字として用いることが多く 13 、数珠丸恒次の茎(なかご)に切られた「恒次」という銘との整合性から、この説は古くから支持されてきた。

2.2. 刀工:古備前恒次説と作風比較

一方で、近年では数珠丸恒次の作風を詳細に分析した結果、青江恒次ではなく、備前国(現在の岡山県東南部)の古備前派(こびぜんは)の刀工、「古備前恒次」または「左近将監恒次(さこんのしょうげんつねつぐ)」の作ではないかとする説が有力視されるようになってきている 3 。この説の根拠は、主に以下の刀身の特徴に見られる。

  1. 地鉄(じがね) : 数珠丸恒次の地鉄は、細かく均一な木目状の模様である小板目肌(こいためはだ)がよく詰んでおり、刃文と鎬筋の間に白く影のように見える乱映り(みだれうつり)が鮮明に現れている 14 。古青江派の地鉄は、絹織物の縮緬(ちりめん)のような細かな皺状の模様を見せる縮緬肌や、地鉄の中に黒っぽく澄んだ部分が現れる澄肌(すみはだ)が特徴とされるのに対し、小板目肌が詰み乱れ映りが立つのは古備前派の作風に近いとされる 14
  2. 刃文(はもん) : 刃文は、直線的な直刃(すぐは)を基調としながら、丁子(ちょうじ)の実が連なったような複雑な模様である小丁子乱れ(こちょうじみだれ)が交じり、刃縁から刃先に向かって短い線状に入る小足(こあし)が見られる 14 。これは、古青江派に見られる直刃調に小乱れが交じる作風とも、古備前派の作風(一見直刃に見えるが細かく乱れる)とも共通する部分があり、一概にはどちらの流派とも断定しがたい要素である 14
  3. 帽子(ぼうし) : 鋒(きっさき、刀の先端部分)の刃文である帽子は、小さく丸く返る小丸風(こまるふう)となっている 14 。古青江派の帽子は、大きく丸く返る大丸(おおまる)や、焼きが鋒の先端で途切れる焼詰風(やきづめふう)が典型的であるのに対し、古備前派の正恒(まさつね)系統の刀工には小丸風の帽子が見られるため、この点では古備前派との類似性が指摘される 14
  4. 銘(めい) : 茎に切られた「恒次」の二字銘は、鏨(たがね)の使い方が太く力強い印象を受ける 14 。古青江派の銘は細鏨(ほそたがね)で優雅に切られることが多いのに対し、古備前派の銘は太鏨(ふとたがね)を用いる傾向があり、数珠丸恒次の銘字は古備前派の特徴と合致するとされる 14
  5. 鑢目(やすりめ) : 茎に施された仕上げの鑢目は筋違鑢(すじかいやすり)であり、これも古青江派の急角度の斜線である大筋違鑢(おおすじかいやすり)とは異なり、古備前派の作風と一致する点である 14

著名な刀剣研究家である佐藤貫一(号は寒山)氏は、これらの作風から数珠丸恒次を古備前派の刀工・正恒の子である備前恒次の作ではないかと推測している 2 。このように、作者については未だ議論が続いており、その作風の複雑さが数珠丸恒次の神秘性を一層深めていると言えるだろう。

2.3. 製作年代:鎌倉時代とその背景

数珠丸恒次の製作年代は、一般的に鎌倉時代(12世紀末頃から14世紀初頭頃)とされている 10 。資料によっては、鎌倉時代初期 12 、あるいは鎌倉時代中期 14 とより具体的に言及されることもある。

鎌倉時代は、武士階級が台頭し、その需要に応じて日本刀の製作技術が飛躍的に発展を遂げた時代である。各地で優れた刀工群が興り、実用性と美術性を兼ね備えた多くの名刀が生み出された。数珠丸恒次が日蓮聖人(1222年~1282年)に寄進されたのが文永11年(1274年)とされていることからも 1 、鎌倉時代中期頃の作とすれば年代的な整合性が取れる。この時代の太刀は、優美な姿と優れた切れ味を両立させたものが多く、数珠丸恒次もその代表的な一例と言えるだろう。

第三章:姿と特徴

数珠丸恒次は、その長大で優美な姿と、細部に至るまで精緻な作風によって、天下五剣の一振りとしての品格を示している。

3.1. 全体像:寸法、姿の特色

数珠丸恒次の最も顕著な特徴の一つは、その堂々たる大きさである。

  • 刃長(はちょう) : 資料により若干の差異が見られるが、83.9cm 14 または83.7cm 8 とされ、展示説明では84cmと記される場合もある 8 。これは天下五剣の中で最も長い刃長である 14
  • 反り(そり) : 3.0cm 8 。天下五剣の中では二番目に深い反りとされる 14 。特に腰元で強く反る「腰反り(こしぞり)が高い」姿をしており、力強い印象を与える 8 。茎にも0.5cmの反りが見られる 8
  • 元幅(もとはば) : 茎に近い部分の刀身の幅は3.1cm 8
  • 先幅(さきはば) : 鋒に近い部分の刀身の幅は1.8cm 8
  • 重ね(かさね) : 刀身の厚みである元重ね(茎に近い部分の厚み)および先重ね(鋒に近い部分の厚み)について、資料 38 には「元重ね8ミリ、先重ね4.0ミリ」との記載がある。しかし、同資料に記載されている元幅が28.9ミリ(2.89cm)であり、数珠丸恒次の一般的な元幅3.1cmとは異なるため、この数値は数珠丸恒次本体のものではない可能性が高い。他の主要な資料には、具体的な重ねの数値は見当たらない 14

姿は全体的に長大で反りが深く、身幅も広く、品格の高いしっかりとした印象を与える 8 。手元から鋒に向かって身幅が顕著に狭まっていく様子は、人が両足に力を入れて踏ん張っている姿に喩えられ、「踏ん張りが強い」と表現される 16

表1:数珠丸恒次の詳細寸法

項目

数値

典拠

刃長

83.7cm ~ 83.9cm (展示説明では84cm)

8

反り

3.0cm

8

茎反

0.5cm

8

元幅

3.1cm

8

先幅

1.8cm

8

元重ね

不明(信頼できる数値の記載なし)

先重ね

不明(信頼できる数値の記載なし)

目釘孔

1

8

恒次 (佩表、目釘孔より鎺に近い棟寄り)

8

製作年代

鎌倉時代

10

この表は、数珠丸恒次の物理的なスケールを具体的に示し、他の刀剣との比較や、その姿の印象を客観的データで裏付けるために重要である。特に天下五剣中最も長大である点などを数値で明確化できる。重ねの情報が不足していることを明記することも、学術的誠実さを示す上で重要である。

3.2. 造り込み:鎬造り、庵棟

数珠丸恒次の造り込みは、日本刀の典型的な形式である「鎬造り(しのぎづくり)」であり、棟(むね、刃の反対側の背の部分)の形状は「庵棟(いおりむね)」である 13 。鎬造りとは、刀身の平地と鎬地との間に稜線(鎬筋)が通っているもので、日本刀の基本的な造り込みであるため「本造り(ほんづくり)」とも呼ばれる 4 。庵棟は、棟の断面が屋根のような三角形に見える形状を指す 4 。これらの造り込みは鎌倉時代の太刀として標準的なものであり、数珠丸恒次が当時の刀剣製作技術の正統な流れを汲むことを示している。

3.3. 地鉄:小板目肌、乱れ映りの詳細

地鉄は、刀身の肌合いのことで、数珠丸恒次の地鉄は「小板目肌(こいためはだ)」がよく詰んでいると評される 14 。これは、細かく整った木材の板目のような模様が密に現れていることを意味し、鍛錬が優れている証とされる。さらに、地鉄には「乱れ映り(みだれうつり)」が鮮明に立つのが特徴である 14 。映りとは、光を当てた際に刃文と鎬筋の間に白く影のように見える働きのことで、特に乱れ映りは備前伝の刀剣によく見られる特徴であり、これが数珠丸恒次の作者論争において古備前説が浮上する一因ともなっている 14 。また、地鉄の表面には細かな粒子状の沸(にえ)が見られる「地沸(じにえ)つく」という表現も用いられる 8

3.4. 刃文:直刃調小丁子乱れ、小足入りの特徴

刃文は、焼き入れによって刃先に現れる紋様のことで、数珠丸恒次の刃文は「直刃(すぐは)」を基調としながらも、部分的に「小丁子乱れ(こちょうじみだれ)」が交じり、「小足(こあし)」がよく入るとされる 14 。直刃は直線的な刃文であるが、そこに丁子の実が連なったような細かく複雑な小丁子の模様が加わることで、静謐な美しさの中に変化と動きが生まれている。小足とは、刃縁から刃先に向かって入る短い線状の働きで、刃文に繊細な表情を与える。匂口(においぐち、刃文と地の境目)は締まり、匂(におい、粒子が細かく霞んで見える部分)が深く、小沸(こにえ、粒子が肉眼で判別できる程度に荒い部分)がよくつくとも評される 13

3.5. 帽子:小丸風とその焼き込み

帽子とは、鋒部分の刃文のことで、刀工の個性や流派の特徴が最も顕著に現れる部分の一つである。数珠丸恒次の帽子は、焼きが比較的弱く、先端で小さく丸く返る「小丸風(こまるふう)」であるとされている 14 。この落ち着いた返り方は、刀身全体の品格と調和しており、古備前正恒系の帽子と合致するという指摘は、作者論争において重要なポイントとなっている 14

3.6. 茎:生ぶ茎、銘の位置と書体、目釘孔の数と状態

茎(なかご)は、柄に収められる部分で、刀剣鑑定において重要な情報が多く含まれる。数珠丸恒次の茎は、製作された当時のまま手を加えられていない「生ぶ茎(うぶなかご)」であるとされている 8 。古い時代の太刀は、後の時代に打刀として使いやすくするために茎を切り詰めて短くする「磨上げ(すりあげ)」が行われることが多いが、数珠丸恒次が生ぶ茎であることは、作刀当時の姿を今に伝える上で極めて貴重である。

銘は、佩表(はきおもて、太刀を刃を下にして腰に佩く際に体の外側になる面)の目釘孔よりも茎の根元(鎺に近い部分)の棟寄りに、「恒次」と二字銘が切られている 8 。目釘孔(めくぎあな、刀身を柄に固定するための目釘を通す穴)は一つである 8 。茎の先端の形状である茎尻(なかごじり)は、栗の実のように丸みを帯びた栗尻(くりじり)である 13 。茎に施される仕上げの鑢目(やすりめ)については、資料により「大筋違(おおすじかい)」 13 または「筋違(すじかい)」 14 と記述にやや揺れが見られるが、数珠丸恒次本体の解説としては筋違とする方が適切かもしれない。

表2:数珠丸恒次の作風と青江派・古備前派の比較

比較項目

数珠丸恒次の特徴

古青江派の一般的な特徴

古備前派の一般的な特徴

地鉄

小板目肌詰む、乱れ映り鮮明

縮緬肌、澄肌

小板目肌詰む、乱れ映り立つ

刃文

直刃調、小丁子乱れ交じる、小足入る

直刃調、小乱れ交じる

直刃調に見える小乱れ

帽子

小丸風

大丸風、焼詰風

小丸風(正恒系)

銘の鏨使い

太鏨の印象

細鏨

太鏨

鑢目

筋違鑢

大筋違鑢

筋違鑢

典拠: 14

この表は、作者論争の核心である作風の違いを一覧で比較することで、読者が論点を視覚的に理解しやすくすることを目的としている。各派の特徴と数珠丸の特徴を対比させることで、なぜ古備前説が有力視されるのか、その根拠が明確になる。

第四章:由来と伝来

数珠丸恒次の名は、その特異な由来と数奇な伝来によって、一層神秘的な輝きを放っている。特に日蓮聖人との関わりは、この太刀に単なる武器以上の意味を与えている。

4.1. 日蓮聖人との関わり

4.1.1. 南部(波木井)実長による寄進の経緯

数珠丸恒次は、鎌倉時代の仏教僧であり日蓮宗の開祖である日蓮聖人(1222年~1282年)が、護身用として所持していたと広く伝えられている 3 。その入手経緯として最も有力視されているのが、文永11年(1274年)、日蓮聖人が身延山(現在の山梨県南巨摩郡)に入山し、久遠寺を開く際に、信者の一人であった地頭の南部(波木井)実長(なんぶさねなが、はきいさねながとも)が、聖人の身を案じて護身用としてこの太刀を寄進したという説である 1 。当時の身延山周辺は山賊が出没するなど治安が悪く、聖人の安全を願う信者の深い帰依の念がこの寄進の背景にあったと考えられる 1

一部には、この時寄進されたのは三条宗近作の太刀であったとする異説も存在するが、数珠丸恒次の茎には「恒次」の銘が確認されていることから、南部実長が恒次作の太刀を寄進したという説が一般的に受け入れられている 1 。この寄進という行為が、数珠丸恒次に「聖人の守り刀」という特別な意味を付与し、その後の寺宝としての地位を確立する最初の出来事となった。

4.1.2. 「数珠丸」号の由来と破邪顕正の守り刀としての役割

「数珠丸」という特徴的な号の由来は、日蓮聖人が寄進されたこの太刀を佩用する際、その柄(つか)に数珠を巻き付けていたことによるとされている 1 。この逸話は、仏具である数珠と武器である太刀という、本来相反する要素が一つになったことを象徴しており、この太刀の持つ特異な性格をよく表している。

日蓮聖人はこの太刀を単なる護身用としてだけでなく、「破邪顕正(はじゃけんしょう)」の守り刀として大切にしたと伝えられる 1 。破邪顕正とは、邪(よこしま)な教えや考えを打ち破り、正しい仏法の真理を明らかにして世に広めるという意味であり、数珠丸恒次は物理的な守護だけでなく、仏法そのものを守護するという精神的な役割をも担っていたと考えられる。また、日蓮聖人が身延山に登る際に、この太刀を杖代わりにしたという伝承も残されている 10 。これらの逸話は、数珠丸恒次が日蓮聖人の布教活動において、いかに重要な存在であったかを物語っている。

4.2. 久遠寺から本興寺へ

日蓮聖人の入滅後、数珠丸恒次は聖人ゆかりの品として、袈裟や中啓(扇の一種)と共に「三遺品」の一つとして身延山久遠寺に秘蔵され、大切に守り伝えられてきた 2 。しかし、その後の歴史の中で、数珠丸恒次は数奇な運命を辿ることになる。

4.2.1. 一時的な行方不明の時期と背景

江戸時代中期、享保年間(1716年~1736年)頃に、数珠丸恒次は久遠寺から忽然と姿を消し、その行方が分からなくなってしまったとされている 1 。一部の資料では「明治まで長く久遠寺の所蔵」 19 との記述もあり、流出時期については若干の幅があるものの、江戸時代後期から明治初期にかけてのいずれかの時点で寺外に流出し、所在不明の状態が続いたと考えられている。

名高い寺宝がなぜ流出したのか、その具体的な理由は諸説あり、寺の財政難、管理体制の不備、あるいは盗難など様々な可能性が考えられるが、確たる記録は残されていない。この約200年にも及ぶ「空白の期間」は、数珠丸恒次の来歴にミステリアスな色彩を加え、その物語性を一層深める要因となっている。

4.2.2. 杉原祥造による大正時代の再発見とその経緯

永らく行方知れずとなっていた数珠丸恒次が再び歴史の表舞台に姿を現したのは、大正時代のことである。1919年(大正8年)頃 12 、あるいは1920年(大正9年) 20 に、兵庫県尼崎市在住の刀剣鑑定家であり研究家でもあった杉原祥造(すぎはらしょうぞう)氏によって、ある華族の家で行われた競売の品々の中から偶然にも再発見されたと伝えられている 8 。杉原氏は宮内省の刀剣御用掛を務めていた人物であったとも言われている 20

一度は失われたと思われた名刀が、専門家の慧眼によって劇的に再発見されるという経緯は、数珠丸恒次の物語性を豊かに彩るエピソードである。この杉原氏による再発見がなければ、数珠丸恒次は歴史の闇に埋もれたままだった可能性も否定できない。

4.2.3. 本興寺への寄進と現在

再発見者である杉原祥造氏は、数珠丸恒次を元の所蔵場所であった身延山久遠寺に返納しようと試みた。しかし、久遠寺側は、長期間行方不明であったことなどから、その真贋を疑い受け取りを拒否した 2 、あるいは交渉がまとまらなかった 20 とされている。

その結果、杉原氏は自身の邸宅の近くにあった法華宗本門流の寺院である本興寺(兵庫県尼崎市)に、この貴重な太刀を寄進することとなった 8 。本興寺もまた日蓮聖人を宗祖と仰ぐ寺院であり、数珠丸恒次が再び法華宗の寺院に納められたことは、その出自と深く関わる縁と言えるだろう。この経緯を経て、数珠丸恒次は現在も本興寺に大切に所蔵され、年に一度の機会に一般公開されている 1

第五章:戦国時代における数珠丸恒次

ご依頼のあった「戦国時代」における数珠丸恒次の動向について考察する。この時代は、日本各地で武将たちが覇を競い、刀剣が武器としての実用性のみならず、武将の権威や武威を象徴する品として極めて重要な役割を担った時代であった。

5.1. 戦国時代の歴史的背景と刀剣の役割

戦国時代(15世紀後半から17世紀初頭にかけての約150年間)は、応仁の乱以降、室町幕府の権威が失墜し、各地の守護大名や国人領主が実力で領地を拡大しようと絶え間ない争いを繰り広げた動乱期である。この時代、刀剣は武士にとって不可欠な武器であり、その性能は生死を分かつ重要な要素であった。同時に、優れた刀剣は美術品としての価値も高く評価され、大名間の贈答品や戦功に対する恩賞としても用いられた。著名な武将たちは、こぞって名刀を収集し、自らの権勢を示す象徴とした。

5.2. 資料に基づく数珠丸恒次の戦国時代における状況の考察

数珠丸恒次の伝来を鑑みると、戦国時代におけるその状況は、他の多くの名刀とは一線を画すものであった可能性が高い。前述の通り、数珠丸恒次は鎌倉時代に製作され、日蓮聖人に寄進された後、江戸時代中期(享保年間)に一時的に行方不明になるまで、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺に寺宝として秘蔵されていたとされている 1

この伝承が正しければ、戦国時代の動乱期においても、数珠丸恒次は久遠寺の奥深くで大切に保管され、戦場に出ることはなかったと考えられる。これは、他の天下五剣の動向と比較すると非常に特徴的である。例えば、鬼丸国綱は北条氏や足利将軍家、三日月宗近も足利将軍家、大典太光世も足利将軍家から豊臣秀吉、そして前田家へと伝わるなど、戦国時代の権力者の手を渡り歩いた記録が残っている 23 。豊臣秀吉は数珠丸恒次を除く天下五剣の四振りを所有していたとされ、また室町幕府第13代将軍足利義輝は、永禄の変において自ら収集した多くの名刀を振るって最期を遂げたと伝えられるが、これらの名刀の中に数珠丸恒次が含まれていたという記録は見当たらない 23

久遠寺は日蓮宗の最も重要な聖地であり、戦国時代においても甲斐国を支配した武田氏など、有力な戦国大名から一定の保護を受けていた可能性が考えられる。寺社勢力が独自の武力を持つことも珍しくなかった時代であるが、久遠寺は宗教的権威によってその寺宝を守り抜いたのかもしれない。あるいは、数珠丸恒次が日蓮聖人の遺品として極めて神聖視され、厳重に秘匿されていたため、武将たちの間でその存在があまり知られていなかったという可能性も考えられる。

これらの考察から、戦国時代における数珠丸恒次は、実戦で武勲を立てる刀としてではなく、信仰の対象、あるいは寺の権威を象徴する霊宝として、戦乱の世を「静かに」見守り続けたと推測される。これは、他の天下五剣が辿った武家の手を渡り歩き、時には戦場でその切れ味を示した運命とは大きく異なる、数珠丸恒次ならではの特異な歴史と言えるだろう。この「戦場に出ない名刀」という側面こそが、戦国時代における数珠丸恒次の最も重要な特徴であり、その後の数奇な運命へと繋がる伏線となっていたのかもしれない。

第六章:現状と公開情報

数奇な運命を経て現代に伝わる数珠丸恒次は、現在も大切に保管され、限られた機会にその姿を一般に公開されている。

6.1. 所蔵:本興寺(兵庫県尼崎市)

数珠丸恒次は現在、兵庫県尼崎市開明町に在る、法華宗本門流の大本山である本興寺(ほんこうじ)に所蔵されている 1 。大正時代に杉原祥造氏によって再発見された後、同氏から本興寺に寄進されて以来、同寺の寺宝として大切に守られている。数多くの名刀が美術館や博物館に収蔵されている中で、数珠丸恒次が寺院に所蔵されているという事実は、その出自である日蓮聖人との関わりを今に伝えるものであり、この太刀の持つ宗教的な背景を色濃く反映していると言える 23

6.2. 公開機会:虫干会(例年11月3日)を中心とした情報

本興寺では、毎年11月3日の文化の日に「虫干会(むしぼしえ) 大宝物展」が開催され、その際に数珠丸恒次が他の寺宝と共に一般に公開される 1 。この虫干会が、数珠丸恒次の実物を拝観できるほぼ唯一の定例的な機会とされており、全国から多くの刀剣愛好家や歴史ファンが訪れる 21

過去には5年に一度程度の頻度で企画展などで公開されたとの情報もあるが 14 、近年は年に一度の虫干会での公開が通例となっているようである。本興寺は公式のX(旧Twitter)アカウント(@Honkouji_PR、旧アカウント名は@Juzu_buddhism)を通じて情報発信を積極的に行っており、虫干会の詳細な日程、時間、整理券の配布に関する情報なども事前に告知されるため、拝観を希望する者はこれらの情報を確認することが肝要である 26

年に一度という限られた公開機会は、数珠丸恒次の希少性と神秘性を一層高める要因となっている。また、寺院が主体となって文化財を管理し、伝統的な行事の中で公開するという形式は、文化財保護と信仰の継承という二つの側面を併せ持つ、日本の文化財のあり方を示す好例と言えるだろう。

第七章:天下五剣の比較

数珠丸恒次をより深く理解するためには、同じく「天下五剣」と称される他の四振りの名刀との比較が有効である。それぞれが異なる歴史と特徴を持ち、その対比によって数珠丸恒次の独自性が一層際立つ。

表3:天下五剣の比較一覧

項目

数珠丸恒次

三日月宗近

童子切安綱

大典太光世

鬼丸国綱

作者

恒次(青江説、古備前説)

三条宗近

大原安綱

三池典太光世

粟田口国綱

時代

鎌倉時代

平安時代

平安時代

平安時代末期

鎌倉時代初期

文化財指定

重要文化財

国宝

国宝

国宝

御物(皇室私有財産)

刃長

約83.7~83.9cm

約80.0cm

約80.0cm

約65.1~66.0cm

約78.2cm

反り

約3.0cm

約2.7cm

約2.7cm

約2.7cm

約0.3cm (輪反り)

主な特徴

長大、腰反り高い、直刃調小丁子乱れ、乱れ映り

細身、腰反り高い、刃中に三日月状の打除け多数

腰反り高く小鋒、小乱れの刃文、地沸厚くつく

身幅広く豪壮、腰樋あり、細直刃に湾れごころ

輪反り、中鋒、地肌板目肌立ちごころ

主な伝来・逸話

日蓮聖人佩用、柄に数珠、破邪顕正の守り刀、一時行方不明後再発見

足利将軍家、豊臣秀吉、徳川将軍家伝来、「名物中の名物」

源頼光が酒呑童子を斬った伝説、徳川将軍家、松平家伝来

足利将軍家、豊臣秀吉、前田家伝来、姫の病を癒した逸話

北条時頼の夢に現れ鬼を退治した伝説、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家、皇室

現所蔵

本興寺(兵庫県)

東京国立博物館

東京国立博物館

前田育徳会(石川県)

宮内庁

典拠: 1

この比較表からいくつかの点が明らかになる。まず、文化財としての格付けにおいて、数珠丸恒次は重要文化財であるのに対し、他の三振り(三日月宗近、童子切安綱、大典太光世)は国宝、鬼丸国綱は皇室の私有財産である御物として扱われている 5 。これは、必ずしも文化財としての価値の優劣を直接示すものではないが、指定経緯や保存状況の違いを反映している可能性がある。

刃長においては、数珠丸恒次が約83.7~83.9cmと天下五剣の中で最も長大である 14 。一方で、大典太光世は約65.1~66.0cmと比較的短い。反りも各々異なり、鬼丸国綱の輪反り(刀身全体が均等に反る)は特徴的である 33

最も大きな違いは、その伝来と逸話であろう。三日月宗近、童子切安綱、大典太光世、鬼丸国綱は、いずれも名だたる武将や権力者の手を経ており、武勇伝や権力闘争の歴史と深く結びついている。童子切安綱の酒呑童子退治や鬼丸国綱の鬼退治といった伝説は、これらの刀剣が持つ武威を象徴している。これに対し、数珠丸恒次は日蓮聖人という宗教的指導者との関わりがその来歴の中心であり、「破邪顕正の守り刀」としての役割や、柄に数珠を巻いたという逸話は、他の四振りとは明らかに異なる性格を示している 1 。戦国時代においても、他の四振りが武将の所持品として歴史の表舞台に登場するのに対し、数珠丸恒次は寺院に秘蔵されていた可能性が高いことは前述の通りである。

このように、天下五剣はそれぞれが比類なき名刀でありながら、その個性は多岐にわたる。数珠丸恒次は、その中でも特に宗教的背景と精神性を色濃く持つ、異色の存在として位置づけられる。

結論

本報告書では、天下五剣の一振りである数珠丸恒次について、その概要、作者と製作年代、姿と特徴、由来と伝来、戦国時代における状況、そして現状と公開情報に至るまで、現存する資料に基づいて詳細な調査と考察を行った。

数珠丸恒次は、鎌倉時代に製作されたと推測される長大な太刀であり、その作者については青江恒次説と古備前恒次説が存在し、未だ確定には至っていない。しかし、いずれの説を取るにしても、その作域は古雅にして品格に溢れ、小板目肌のよく詰んだ地鉄に鮮やかな乱れ映りが立ち、直刃調に小丁子乱れが交じる刃文は、美術品としても極めて高い価値を有している。

この太刀を特異な存在たらしめているのは、何よりも日蓮聖人との深い関わりである。聖人が護身用として佩用し、柄に数珠を巻いたことから「数珠丸」と号され、「破邪顕正の守り刀」として仏法守護の役割を担ったという伝承は、この刀に武器としての側面を超えた宗教的な権威と霊性を付与した。戦国時代という動乱の世にあっても、久遠寺に秘蔵されることで戦火を免れ、その清浄性を保ち続けた可能性が高いという点は、他の武将の手を渡り歩いた多くの名刀とは一線を画す、数珠丸恒次ならではの歴史的背景である。

江戸時代に一時その姿を晦まし、大正時代に劇的な再発見を遂げるという数奇な運命もまた、この刀の物語性を深めている。現在は兵庫県尼崎市の本興寺に所蔵され、年に一度の虫干会でのみその優美な姿を一般に公開されるという事実は、その希少価値を高めるとともに、文化財としての保護と信仰の対象としての伝統が両立するあり方を示している。

数珠丸恒次は、単に美しい古名刀というだけでなく、日本の歴史、信仰、そして文化財の保護と継承という多層的な文脈の中で理解されるべき存在である。その物語は、武器が精神的な支柱となり得ることを示唆し、現代に生きる我々に対しても、物に込められた歴史や人々の想いの深さを静かに語りかけている。戦国時代というキーワードから始まった本調査であるが、結果として、数珠丸恒次がその時代において「戦わなかった」可能性が高いという結論に至ったことは、この名刀の持つ本質的な平和性と宗教性を象徴しているのかもしれない。

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