天下人の手を渡りし名刀「宗三左文字」-その歴史、姿、伝来の徹底研究-
序章:宗三左文字とは
本報告書で取り上げる「宗三左文字」は、日本の戦国時代から江戸時代にかけて、数多の歴史的著名人の手を渡り歩いたことで知られる日本刀(打刀)である。その名は、最初の確かな所有者とされる三好政長(宗三)に由来し、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、天下統一を成し遂げた三英傑が相次いで所持したことから、日本の歴史において特筆すべき意義を持つ名刀として認識されている 1 。宗三左文字は、単なる武器としての役割を超え、所有者の権威や戦勝の象徴、さらには政治的な駆け引きにおける贈答品としての側面も有していた。その数奇とも言える運命は、日本の激動の時代を映し出す鏡であり、歴史の転換点に常に存在したかのようである。
この刀は、その複雑な伝来の経緯から、複数の名称で呼ばれている。最も広く知られているのは、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、今川義元が佩用していたことに由来する「義元左文字」という呼称である。この名は、現在、本刀が国の重要文化財として指定される際の正式名称ともなっている 1 。また、前述の通り、最初の所有者である三好政長の通称「三好宗三」から「三好左文字」、あるいは「宗三左文字」とも称される 3 。これらの複数の呼称が存在するという事実は、単に所有者が多かったという歴史的経緯を示すだけでなく、それぞれの時代や所有者にとって、この刀が持っていた意味合いや焦点が異なっていた可能性を物語る。例えば、「義元左文字」という名は、桶狭間の戦いという日本史上の劇的な事件と、その後の織田信長による金象嵌銘の追刻という、本刀の価値を決定づける出来事を強く印象づける。一方で、「宗三左文字」という名は、確かな記録に残る最初の所有者と、そこから始まる流転の歴史の起点を示している。これらの呼称は、後世の人々がこの刀の歴史をどのように解釈し、価値を見出し、語り継いできたかをも反映していると言えよう。
第一章:作者・左文字とその一派
宗三左文字の作者は、南北朝時代に筑前国(現在の福岡県)を拠点として活躍した名工、左文字であると伝えられている 1 。左文字の俗名は安吉、通称は左衛門三郎、法名を源慶といった 5 。彼は、相模国(現在の神奈川県)の伝説的な刀工である正宗に師事し、その最も優れた弟子たち「正宗十哲」の一人に数えられたとされている 3 。この正宗からの学びは、左文字とその一派の作風に決定的な影響を与え、それまでの九州地方の刀剣とは趣を異にする、洗練された相州伝の技術を筑前の地に根付かせることとなった。左文字の作刀は、地刃に沸(にえ)が強く付き、刃文は湾れ(のたれ)を基調とし、全体に明るく冴え渡るのが特徴とされる 6 。特に短刀の製作においてその技量は高く評価され、「左文字姿」と称される、やや寸が詰まり、身幅が狭く、先細りとなる独特の姿の短刀を数多く残している 3 。
左文字派は、その開祖とされる良西に始まり、左文字(安吉)の代でその名を不動のものとした 6 。一門には、吉貞、貞吉、行弘といった刀工が名を連ねる 6 。初期の左文字派は、九州地方に伝統的に見られる大和伝の影響を受けた作風であったが、左文字が相州正宗からその技法を習得して以降は、相州伝の特徴が顕著に現れるようになる 6 。その地肌は、板目肌がよく詰み、青黒く冴えた色合いを見せ、時には杢目肌が交じることもある。棟(刀身の背の部分)は、角が立った真の棟(三ツ棟)が多く、これは庵棟が多い他の九州鍛冶とは異なる点である 6 。左文字派が製作した太刀の多くは、後世において実用性を重視する形で磨り上げられ(刀身を短く仕立て直すこと)、銘が失われた無銘の作として現存するものが多い。在銘の太刀としては、国宝に指定されている「江雪左文字」などが知られている 6 。宗三左文字もまた、元来は太刀として作られたものが、後に磨り上げられて打刀の姿となった一振りである 5 。
左文字が相模の正宗に師事したという事実は、単に先進的な製鉄技術を習得したという以上の歴史的意義を持つ。当時、刀剣製作の中心地の一つであった鎌倉の相州伝は、日本刀の美的完成度と機能性を飛躍的に高めた革新的な様式であった。この最先端の技術を、地方である筑前に持ち帰り、それを基盤として独自の流派を確立した左文字の功績は、九州地方における刀剣文化の発展に大きく寄与したと言える。また、左文字派の太刀の多くが磨り上げられて無銘となっている現実は、後世の武士たちの戦闘様式の変化(太刀を佩くスタイルから打刀を腰に差すスタイルへ)や、個々の使用者の好みに合わせて姿を変えられてきたことを物語っている。これは、刀剣が単なる美術品ではなく、実用的な武器として長く使い続けられた証左であり、宗三左文字が辿った運命もまた、この時代の刀剣の一般的なあり方と軌を一にする部分がある。
第二章:宗三左文字の姿-変遷と現状-
宗三左文字は、南北朝時代に作刀されたとされ、その当初は長大な太刀であったと考えられている 3 。『信長公記』などの記録によれば、今川義元が所持していた当時の宗三左文字は、刃長が二尺六寸(約78.8cm)ほどあったとされ、これを桶狭間の戦いの後に手に入れた織田信長が、自身の差料として使いやすいように二尺二寸一分(約67.0cm)に磨り上げ、打刀に仕立て直したと伝えられている 9 。南北朝時代の太刀は、総じて長大で身幅が広く、豪壮な姿を特徴としており、左文字派の太刀もまた、長寸で反りが浅く、切先が大きく延びた姿が一般的であった 6 。宗三左文字も、作刀当初はこれに類する堂々たる姿を誇っていたと推測される。
以下に、現在の宗三左文字の基本的な情報をまとめる。
【表1】宗三左文字 基本情報
項目 |
詳細 |
出典例 |
鑑定区分 |
重要文化財 |
1 |
指定名称 |
刀 義元左文字 無銘中心ニ永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長ト金象眼アリ |
3 |
時代 |
南北朝時代 |
1 |
刀工 |
左文字 |
1 |
刀剣種別 |
打刀 |
1 |
刃長 |
67.0cm (二尺二寸一分半) |
1 |
反り |
1.6cm (五分三厘) |
1 |
銘 |
(金象嵌銘)表:永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀 裏:織田尾張守信長 |
1 |
現在の所蔵 |
建勲神社(京都府京都市) |
3 |
寄託先 |
京都国立博物館 |
3 |
現在の宗三左文字の姿は、鎬造りで、棟は丸棟である 9 。この丸棟は九州地方の刀剣によく見られる特徴であり、同じ左文字の作である江雪左文字なども同様の棟の形式を持つ 9 。身幅は元(手元に近い部分)と先(切先に近い部分)の差があまりなく堂々とし、鋒(きっさき、刀の先端部分)はやや詰まった猪首(いくび)ごころとなっている 9 。
宗三左文字の地鉄と刃文は、その数奇な運命の中で大きな変化を遂げている。本刀は、歴史上少なくとも二度の火災に見舞われ、その都度再刃(焼き直し)が施されたと記録されている。一度目は天正十年(1582年)の本能寺の変で焼けたとも伝えられるが、これについては確証がないとする見方もある 1 。より確実なのは、明暦三年(1657年)に江戸で発生した明暦の大火(通称「振袖火事」)であり、この際に徳川将軍家の所蔵であった宗三左文字は焼身となった 1 。この大火の後、幕府の命により、当時名高かった刀工の越前康継(江戸三代)が焼き直しを行ったとされている 9 。
焼失前の本来の地鉄は、小杢目肌がよく詰み、地沸(じにえ、地鉄の表面に見える微細な粒子)が厚くつき、地斑(じふ、地鉄の模様の一種)が見られたと伝えられる。刃文は、互の目(ぐのめ、半円形が連なったような刃文)が乱れ、刃縁から離れた箇所に焼きが入る飛び焼きがあり、帽子(鋒部分の刃文)も乱れ込んで鋭く尖るものであったとされる 9 。これらは、左文字派の典型的な作風に通じる特徴である。しかし、明暦の大火後の再刃によって、その姿は大きく変貌した。現在の刃文は、匂口(においぐち、刃文と地鉄の境界線)が締まった広直刃(ひろすぐは、直線的な刃文)調となり、所々に尖りごころの小乱れ刃が間遠に入り、刃縁から地鉄に向かって短い線状の模様である小足(こあし)が見られる。帽子は直ぐで小丸(こまる、小さく丸く返る形)に返る 9 。この二度の焼身、特に明暦の大火後の再刃によって、元の左文字としての刃文や地鉄の精緻な特徴は大きく損なわれ、今日ではその面影はほとんど残っていないとも評されている 1 。
茎(なかご、刀身の柄に収まる部分)は、織田信長によって大磨上(おおすりあげ)にされている 9 。これは、元々長大な太刀であったものを、信長が自身の差料(常に身につける刀)として実用的な長さに詰めたためである 9 。目釘孔(めくぎあな、柄を固定するための目釘を通す孔)は二つ開けられている 9 。刀身の表裏には、刀身彫刻の一種である樋(ひ、刀身の鎬地に彫られた溝)が掻き通されている 9 。
宗三左文字の現在の姿は、作刀された南北朝時代の様式と、その後の幾多の歴史的変遷、とりわけ火災と再刃という試練が重層的に現れた結果と言える。左文字本来の作風が失われたとされる点は、美術品としての純粋なオリジナリティを問うならば評価に影響するかもしれない。しかし一方で、越前康継という当代随一の名工による再刃は、歴史的価値を持つ刀を焼失の危機から救い出し、後世に伝えるための最善の処置であり、その行為自体がこの刀の歴史に新たな価値を付加したとも解釈できる。信長による大磨上げもまた、単に寸法を調整したという以上に、当時の主流であった太刀から打刀へと戦闘様式が移行する中で、実用性を追求した改造であった。これは、信長がこの刀を単なる観賞用の美術品としてではなく、実戦での使用も視野に入れていた可能性を示唆する。磨上げ後も、丸棟という九州物の特徴が残存している点は、大規模な改造を経てもなお、オリジナルの構造的特徴が一部保持されたことを示している。
第三章:金象嵌銘-刻まれた歴史の証言-
宗三左文字の茎には、その数奇な運命を象徴する極めて重要な金象嵌銘(きんぞうがんめい)が刻まれている。これは、織田信長が桶狭間の戦いの勝利を記念して入れさせたと伝えられるもので、本刀の歴史的価値を語る上で欠かすことのできない要素である。
その正確な表記は以下の通りである。
この金象嵌銘は、永禄三年(1560年)五月十九日、尾張国桶狭間において織田信長が駿河国の太守今川義元を奇襲により破った、日本史上名高い桶狭間の戦いの結果、義元が佩用していたこの左文字の刀を信長が戦利品として獲得したことを記念して入れられたものである 8 。信長はこの刀を二尺二寸一分(約67.0cm)に磨り上げさせ、自身の差料とするとともに、この輝かしい戦勝の証として、上記の銘文を金で茎に嵌め込ませた 9 。銘が入れられた正確な時期については、桶狭間の戦いの直後ではなく、信長が「尾張守」の官途名を公称するようになった後、あるいは彼の権威がより確立された時期である可能性も研究者によって指摘されている 10 。金象嵌という技法は、火災に対しても比較的強い耐久性を持つ。事実、宗三左文字が明暦の大火で焼身となった際も、刀身は大きな損傷を受けたものの、茎に施された金象嵌は、茎の先端部分の一部を除いてほぼ完全に残存したとされている 9 。
信長によって施されたこの金象嵌銘は、単なる戦勝の記念品という範疇を超え、自身の武功と天下取りへの野望を、不朽の証として刀身に刻み込むという、信長の強い意志の表れと見ることができる。敵将の佩刀を奪い、それに自らの名を刻むという行為は、今川義元の死と織田信長の時代の到来を、視覚的かつ象徴的に天下に示すプロパガンダとしての意味合いも帯びていたであろう。「彼所持刀」という、一見客観的な記述は、事実を淡々と記録する体裁をとりながらも、その事実の持つ歴史的な重大さをかえって際立たせている。この銘文は、桶狭間の戦いが信長にとって如何に決定的な出来事であったか、そしてこの刀を自身の武威の象徴としてパーソナライズしようとした信長の大胆さ、革新性、そして自らの歴史的役割に対する強い意識を反映していると言える。
また、金象嵌が火災後もほぼ残存したという事実は、当時の日本の金工技術の高さと、刀剣の構造上、茎という部分が刀身ほど直接的に高熱に晒されにくいという特性を示している。これにより、たとえ刀身が再刃によって作刀当初の姿から変化したとしても、所有者の歴史を雄弁に物語るこの貴重な銘は、奇跡的に後世に伝えられることとなった。これは、刀剣の価値が、作者のオリジナリティのみならず、その刀が経てきた歴史的背景、特にこのような由緒ある銘文の存在によっても大きく左右されることを示す好例である。
第四章:戦国乱世を渡り歩いた軌跡-数奇な伝来-
宗三左文字の歴史は、戦国時代から江戸時代初期にかけての権力者たちの手を次々と渡り歩いた、まさに流転の物語である。その華麗なる伝来は、本刀の価値を語る上で欠かすことのできない中核的な要素となっている。
【表2】宗三左文字 主な所有者と伝来
所有者 |
伝来の経緯・時期など |
出典例 |
三好政長(宗三) |
最初の確かな所有者。室町幕府管領・細川春元の重臣。「三好左文字」「宗三左文字」の号の由来。 |
3 |
武田信虎 |
三好政長より贈られる。甲斐武田氏初代。武田信玄の父。具体的な経緯は諸説あり。 |
1 |
今川義元 |
武田信虎の娘(信玄の姉)が今川義元に嫁ぐ際の婿引出物として今川家へ。 |
2 |
織田信長 |
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、戦利品として入手。磨り上げ、金象嵌銘を入れる。本能寺の変(1582年)で焼身になったとも伝わる。 |
8 |
豊臣秀吉 |
本能寺の変後、秀吉の手に渡る。松尾大社の神官経由説など諸説あり詳細は不明。 |
10 |
豊臣秀頼 |
秀吉死後、秀頼に相続。 |
10 |
徳川家康 |
関ヶ原の戦い後、あるいは大坂の陣の頃に秀頼より献上。家康は大坂の陣で佩用したとも伝わる。 |
10 |
徳川将軍家 |
以後、徳川将軍家の什宝として江戸城に伝来。明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼身、越前康継により再刃。 |
1 |
建勲神社 |
明治維新後、明治13年(1880年)頃、徳川宗家より織田信長を祀る建勲神社へ寄進。 |
1 |
宗三左文字の物語は、室町幕府の有力な武将であった三好政長(法名:宗三、1508-1549年)が所持していたことから始まる 3 。このため、本刀は「三好左文字」あるいは「宗三左文字」という名称で知られるようになった。その後、何らかの経緯で甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名、武田信虎(武田信玄の父)の手に渡る 1 。武田家からさらに、信虎の娘が駿河国(現在の静岡県中部)の太守、今川義元に嫁ぐ際に、婿引出物の一つとして今川家にもたらされた 2 。これにより、宗三左文字は今川義元の佩刀となった。
そして永禄三年(1560年)五月十九日、日本史を揺るがす桶狭間の戦いが勃発する。この戦いで今川義元は織田信長によって討ち取られ、義元が佩いていた宗三左文字は、信長の戦利品となった 8 。信長はこの刀を大いに気に入り、前述の通り自身の使いやすいように磨り上げさせ、輝かしい戦勝記念の金象嵌銘を刻ませて差料とした。天正十年(1582年)の本能寺の変の際、信長はこの刀を所持しており、本能寺と共に焼身となったという説もあるが、これについては明暦の大火による焼身と混同されている可能性も指摘されており、確証は得られていない 1 。
本能寺の変の後、宗三左文字は天下統一への道を歩む豊臣秀吉の手に渡る。その正確な経緯は不明な点が多く、一説には京都の松尾大社の神官の手を経て秀吉に献上されたとも 10 、あるいは明智光秀を討ち果たした秀吉が戦利品として入手したとも言われている。秀吉の死後は、その子である豊臣秀頼に受け継がれた 10 。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、日本の実質的な支配者となった徳川家康のもとへ、宗三左文字は豊臣秀頼から献上されたとされる 10 。家康はこの刀を大坂の陣(慶長19-20年、1614-1615年)で佩用したとも伝えられており、徳川の世の始まりを象徴する品の一つとなった。以後、宗三左文字は徳川将軍家の什宝として江戸城内に秘蔵され、代々の将軍へと受け継がれていった 1 。この徳川家所蔵の時代に、明暦三年(1657年)の明暦の大火に遭遇し焼身となり、越前康継の手によって再刃されるという試練を経験している 1 。
江戸幕府が終焉を迎え、明治維新という新たな時代が到来すると、宗三左文字の運命も再び転換期を迎える。織田信長を祭神とする建勲神社が京都に創建(明治2年鎮座、明治13年現在地へ遷座・本殿造営)されると、明治13年(1880年)頃、徳川宗家(当主は徳川家達)より、信長ゆかりの品として同社へ寄進された 1 。これにより、数世紀にわたり天下人の手を渡り歩いた名刀は、信長を祀る神社の御神宝として、新たな役割を担うことになったのである。
宗三左文字の伝来を辿ると、それはまさに戦国時代から江戸時代初期にかけての権力者の興亡そのものを映し出しているかのようである。三好氏から武田氏、今川氏へと渡り、桶狭間という歴史の一大転換点において織田信長の手に帰し、その後、天下統一を成し遂げる豊臣秀吉、そして徳川家康へと継承される。この刀は、単なる物としての存在を超え、あたかも次代の覇者へと受け渡される王者の印のような役割を担っていたかのようにも見える。勝者が敗者の象徴的な品を手にすることは、その力を吸収し、自らの権威を高めるという意味合いも持っていたであろう。特に、信長から秀吉、そして家康へと渡った流れは、日本の天下統一事業がバトンタッチされていく様を象徴しているかのようでもある。
また、この伝来の変遷は、時代ごとの刀剣の役割の変化をも示している。戦国乱世においては、実戦での使用や戦勝の象徴としての意味合いが強かった刀剣が、泰平の世となった江戸時代に入り徳川将軍家の什宝となると、武家の権威を象徴する美術品としての性格がより色濃くなる。そして明治維新後、神社への寄進という形で、かつての武家の象徴であったものが、国民の共有財産、あるいは信仰の対象へとその性格を変化させていく。これは、日本の近代化とそれに伴う価値観の変化を、一つの刀の運命を通して垣間見ることができる事例と言えるだろう。徳川宗家が、かつての敵将とも言える織田信長を祀る神社に、信長ゆかりの刀を寄進したという行為自体、単なる文化財の移管以上の深い意味合いを持つ。旧幕府体制から新政府へと移行する激動の時代において、過去の対立を超えて歴史上の偉人を顕彰するという姿勢を示すことは、新しい時代への融和や文化の継承を意図した、象徴的な行為であったとも考えられる。それは、あたかも徳川家による「手放し」と、信長へのある種の「返還」とも解釈できる、ドラマチックな歴史の一幕であった。
第五章:文化財としての宗三左文字
宗三左文字は、その美術的価値と歴史的重要性から、日本の文化財として高く評価されている。正式には「刀 義元左文字 無銘中心ニ永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長ト金象眼アリ」という名称で、国の重要文化財に指定されている 1 。この指定名称自体が、本刀の価値を決定づける上で、今川義元が所持していた事実と、桶狭間の戦い後に織田信長によって施された金象嵌銘がいかに重要視されているかを示している。刀身自体は磨り上げによって作者銘が失われた無銘の状態であるが、茎に刻まれた金象嵌銘が、その刀のアイデンティティと歴史的価値を雄弁に物語る稀有な例と言える。
文化財としての指定に至る経緯としては、大正十二年(1923年)に当時の古社寺保存法に基づき国宝(いわゆる旧国宝)に指定され、その後、昭和二十五年(1950年)の文化財保護法の施行に伴い、同法下の重要文化財として改めて指定されたものである 9 。
美術品としての評価においては、作者である左文字の卓越した技量、南北朝時代の刀剣が持つ豪壮な姿(磨り上げ前)、そして何よりも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑をはじめとする歴史上の重要人物が相次いで所持したという、他に類を見ない華麗な伝来が、本刀の文化財としての価値を極めて高いものにしている 9 。特に、信長自身によって刻まれたとされる金象嵌銘は、桶狭間の戦いという歴史的事件の直接的な物証であり、歴史資料としても極めて貴重であると認識されている 9 。度重なる焼身と再刃により、作刀当初の健全な姿や左文字本来の刃文の特徴は大きく損なわれた可能性が高いものの 1 、その変遷の歴史自体が、この刀が辿ってきた数奇な運命の一部を形成し、文化財としての深みを増していると言えるだろう。
現在、宗三左文字は京都市北区に鎮座する建勲神社が所有している 1 。しかし、文化財としての適切な保存管理のため、京都国立博物館に寄託されており、同博物館で開催される特別展などで、その姿が一般に公開されることがある 1 。建勲神社においては、宗三左文字の押形(刀身の形状や銘文を紙に写し取ったもの)や、本刀にちなんだ御朱印、各種授与品などが頒布されており、参拝者がその歴史に触れる機会を提供している 11 。
宗三左文字の歴史には、昭和時代に一度盗難被害に遭ったという逸話も残されている。幸いにも後に無事発見されたが、この事件は、いかに貴重な文化財であっても常に亡失の危険に晒されているという現実と、その保存管理の難しさを示す事例の一つと言える 3 。具体的な盗難の時期や経緯、発見の状況に関する詳細な情報は、現存する公開資料からは確認することが困難であるが、この出来事は文化財保護の重要性と、そのための継続的な努力の必要性を改めて認識させる。無事に発見されたことは、この名刀が持つある種の「強運」とも、あるいは関係者の並々ならぬ尽力の賜物とも言えるだろう。
建勲神社が所有しつつも京都国立博物館に寄託するという現在の管理形態は、文化財の適切な保存環境の確保と、広く一般への公開機会の提供という、文化財保護における二つの重要な要請を両立させるための方策である。神社にとっては専門的な知識と設備を有する博物館に管理を委託することで保存のリスクを軽減でき、博物館にとっては学術研究や展示のための貴重な資料を確保できる。そして何よりも、これにより多くの人々がこの歴史的遺産に触れ、その価値を共有する機会を得られるという点で、文化財の社会的な活用における一つの理想的な形を示していると言えよう。
終章:宗三左文字が現代に語りかけるもの
宗三左文字は、その刀身に刻まれた歴史の痕跡と、数世紀にわたる流転の物語を通じて、現代の我々に多くのことを語りかけている。本刀は、桶狭間の戦いをはじめとして、戦国時代から江戸時代初期に至る日本の歴史における数々の重要な局面において、その中心人物たちの傍らに存在し続けた。その意味で、宗三左文字は、歴史のダイナミズムを間近で見つめてきた「生き証人」とも形容できるだろう。この刀を手に取った武将たちが、どのような思いを抱き、どのような野望を胸に秘めていたのか。宗三左文字は、彼らの息遣いやその時代の空気までもが凝縮されているかのような、深い歴史的ロマンを感じさせる存在である。
刀剣文化という視点から見ても、宗三左文字は特異な位置を占めている。その華麗というほかない伝来、特に天下人との密接な関わり、そしてそれにまつわる数々の逸話は、宗三左文字を単なる古美術品としてではなく、物語性に満ち溢れた文化遺産として際立たせている。近年では、歴史や刀剣をテーマとしたゲームやアニメーションといったポップカルチャーの隆盛に伴い、宗三左文字の名は新たな世代にも広く知られるようになり、日本の伝統文化である刀剣への関心を喚起する重要なきっかけの一つとなっている 15 。これは、歴史的遺産が現代の文化と結びつくことで、新たな価値や関心層を生み出す可能性を示しており、文化財の継承という観点からも非常に意義深い現象である。
焼身と再刃という、刀剣にとっては致命的とも言える困難を二度も乗り越え、今日にその姿を伝えている宗三左文字の存在は、破壊と再生、そして記憶の継承という普遍的なテーマをも内包している。その波乱に満ちた歴史的背景と、そこに秘められた物語性を深く理解することは、私たちに日本の文化や歴史に対する新たな視点を与え、過去との対話を促す。宗三左文字は、その物質的な存在(刀身、そして茎に刻まれた銘)を通じて、作刀された南北朝時代から現代に至るまでの長い時間と、その間に関わった無数の人々の意志や歴史的出来事を凝縮して伝えている。それは、文字による記録だけでは捉えきれない、生々しい歴史の断片であり、この名刀を研究し、鑑賞することは、過去との対話であり、歴史の多層性を体感することに繋がるのである。