不動行光(ふどうゆきみつ)は、鎌倉時代後期の著名な刀工である相州行光(そうしゅうゆきみつ)の作と伝えられる短刀です。日本の戦国時代において、特に天下人織田信長(おだのぶなが)およびその近習であった森蘭丸(もりらんまる)に愛用されたとされる一振りとして、日本刀剣史において特筆すべき存在感を放っています。その名称は、刀身に施された不動明王(ふどうみょうおう)と二童子(にどうじ)の精巧な彫刻に由来するとされ 1 、数々の逸話や複雑な伝来を有することから、多くの歴史愛好家や刀剣研究者の関心を集めてきました。
特に、日本史上屈指の劇的事件である本能寺の変との関わりや、その後の伝承における情報の錯綜は、不動行光に神秘的な色彩を与えると同時に、歴史学的な探求の対象としても尽きない魅力と論点を提供しています。この短刀が持つ価値は、単に古美術品としてのそれを超え、歴史上の重要人物との深い結びつき、劇的な歴史的事件との関連性、刀身彫刻の宗教的・美術的意義、そして伝来の謎に起因する学術的探求の対象としての側面など、多岐にわたる要素が複雑に絡み合って形成されています。さらに近現代においては、様々な文化コンテンツを通じて新たな受容のされ方を見せるなど 1 、その影響力は時代を超えて広がり続けています。このような多層的な価値構造を理解することは、不動行光がなぜこれほどまでに人々を惹きつけ、研究の対象となり続けるのかという根源的な問いへの深い洞察へと繋がるでしょう。
本報告書は、現存する諸資料に基づき、短刀「不動行光」の作刀背景、刀工「行光」とその作風、不動行光自体の物理的特徴、所有者の変遷を辿る伝来、関連する逸話、そして文化財としての価値について、多角的に調査・分析し、その全体像を明らかにすることを目的とします。
具体的には、まず刀工行光の人物像と相州伝における位置づけ、不動行光の寸法、刃文、地鉄、そして特筆すべき刀身彫刻の詳細を検証します。次に、織田信長、森蘭丸、小笠原家へと至る伝来の経緯と、それにまつわる逸話を紹介し、特に本能寺の変における本刀の状況についても考察を加えます。さらに、『享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)』における記載や、しばしば混同される「不動貞宗(ふどうさだむね)」や「不動国行(ふどうくにゆき)」といった他の「不動」の名を持つ刀剣との比較検討を通じて、不動行光をめぐる諸説を整理します。最後に、これらの調査結果を踏まえ、不動行光の歴史的・文化的重要性について総括し、今後の研究への展望を示します。
不動行光を鍛えたとされる刀工「行光」は、日本刀剣史において重要な位置を占める人物です。
行光、通称を藤三郎(とうさぶろう)といい、鎌倉時代後期に相模国(現在の神奈川県)で活動した刀工です 4 。彼の活動時期は、具体的な作例から嘉元年間(1303年~1306年)頃と推定されています 5 。行光は、日本刀の五箇伝(ごかでん)の一つである相州伝の初期を代表する刀工の一人として知られています。相州伝は、鎌倉時代中期に新藤五国光(しんとうごくにみつ)がその基礎を築き、行光やその子または弟弟子とされる正宗(まさむね)らによって発展、完成されたとされています 5 。
行光は、相州伝の祖とされる新藤五国光の門人であったと伝えられています 4 。国光からその技法を学び、それを正宗へと伝えた、あるいは正宗と共に相州伝を研究したとされ、相州伝の確立において橋渡し的な役割を担った重要な刀工と位置づけられています 2 。正宗は行光の子であるという説 2 と、弟弟子であるという説 7 がありますが、いずれにしても両者は極めて近しい関係にあったと考えられています。また、行光は豊後国(現在の大分県)の刀工・行平(ゆきひら)の子で、兄である大進坊祐慶(だいしんぼうゆうけい)と共に鎌倉へ移り住み、国光に師事したという伝承もあります 4 。
行光の作風として、現存する在銘の作品は短刀に限られている点が挙げられます。太刀も製作したと考えられていますが、それらはすべて大磨上無銘(おおすりあげむめい:元々は長大な太刀であったものを、後世に大幅に短く仕立て直され、銘も失われた状態)であり、刀身に樋(ひ:刀身に彫られた溝)が掻(か)かれているものが多いとされます 4 。
短刀の姿は、身幅が比較的狭く、内反り(うちぞり:刃が内側にやや反る形状)気味で、全体的に小振りなものが多いとされています 4 。刃文(はもん:焼入れによって刃部に現れる文様)は、師である新藤五国光の影響を受け、直線的な直刃(すぐは)を基調とし、沸(にえ:刃文を構成する肉眼で見える粒子)が強く付き、金筋(きんすじ)や砂流し(すながし)といった刃中の働き(はたらき:刃文の中に見える様々な変化)が見られるのが特徴です 6 。地鉄(じがね:刀身の刃部以外の部分の鉄の肌合い)は、小板目肌(こいためはだ:細かな木材の板目のような模様)が青白く冴え渡ると評されています 4 。帽子(ぼうし:切っ先の刃文)は、先が尖り気味で深く返るとされています 4 。行光は古刀最上作(ことうさいじょうさく:古い時代の刀工の中で最高の評価)に列せられ、国宝に指定された1振と、重要文化財に指定された5振の作品が現存しています 4 。
『享保名物帳』には、不動行光の他にも行光作とされる名物(めいぶつ:特に名高い刀剣)が記載されています。具体的には、「矢目行光(やのめゆきみつ)」、「大島行光(おおしまゆきみつ)」、「佐藤行光(さとうゆきみつ)」、「後藤行光(ごとうゆきみつ)」、「綾小路行光(あやのこうじゆきみつ)」などです 8 。しかしながら、これらの名刀の多くは、不動行光を除いて現在その所在が不明となっており、中には現存しているかどうかすら定かでないものもあるとされています 8 。
現存が確認されているものとしては、「名物・大島行光」があり、刀剣博物館での展示記録が残っています。この大島行光は、宝永元年(1704年)に本阿弥光忠(ほんあみこうちゅう)によって代金子(だいきんす:当時の鑑定価格)百枚と評価された折紙(おりがみ:鑑定書)が付帯しており、刃長が1尺1寸(約33.3cm)と行光の短刀としては長寸で、反りが強く、刀身彫刻が施されているなどの特徴が報告されています 8 。また、「綾小路行光」も名物として知られ 9 、かつて南部家に伝来した記録が確認できます 12 。
不動行光の具体的な製作年代を示す直接的な記録は乏しいものの、作者である刀工行光の活動時期から推察することが可能です。行光が鎌倉時代後期の14世紀初頭(嘉元年間、1303年~1306年頃)に活動していたとされることから 5 、不動行光も同様の時期に製作されたと考えるのが妥当でしょう。
不動行光をはじめとする行光作の刀剣に見られる精巧な刀身彫刻の多くは、行光自身の手によるものではなく、彼の兄弟子とされる大進坊祐慶(日光山法師とも)が施したという伝承が複数の資料で指摘されています 6 。この事実は、当時の刀剣製作工房において、刀身を鍛造する刀工と、その刀身に装飾的な彫刻を施す彫師との間で、高度な専門技術に基づいた分業体制が確立していた可能性を示唆しています。
大進坊祐慶は、行光の兄弟子、あるいは新藤五国光の子や弟子とも伝えられ、彫刻の名手として知られていました 13 。刀工自身が彫刻まで一貫して手掛ける例も存在しますが、行光ほどの高名な刀工の作品、特に不動行光に見られるような複雑で高度な図様の彫刻を、専門の彫師が担当したという伝承は、単なる個人的な技量の問題を超え、工房内あるいは流派内における体系化された分業システムの存在を窺わせます。本間薫山(ほんまくんざん)氏は、不動行光の彫刻を「類がないほど優れている」と高く評価しており 13 、その製作には極めて高度な専門技術が要求されたことは想像に難くありません。
このような背景は、鎌倉時代の相州伝における刀剣製作が、単一の刀工による一貫した作業工程のみならず、複数の専門技術者が連携する高度な生産体制を有していた可能性を示しており、当時の技術水準や職人社会の構造を理解する上で重要な手がかりとなります。同時に、刀剣の価値が、鍛え上げられた刀身そのものの出来栄えに加えて、施された彫刻の芸術性によっても大きく左右されていたことを物語っています。
不動行光は、その姿形や細部の特徴においても、多くの注目すべき点を有しています。
不動行光は短刀に分類されます 1 。戦国時代において短刀は、主兵装である太刀や打刀の補助として用いられるだけでなく、近接戦闘や護身用、さらには武士が自らの覚悟を示す際の道具(切腹の際など)としても重要な役割を担っていました 15 。
刀工行光の一般的な作風としては直刃(すぐは)調が知られていますが 4 、不動行光の刃文については、より具体的に「直刃調に沸(にえ)つき、匂口(においぐち:刃文と地鉄の境界線)ばさける」と記述されています 2 。沸とは、刃文を構成する肉眼で確認できる程度の大きさのマルテンサイト粒子であり、これが付くことで刃文に変化と輝きが生まれます。本間薫山氏は、後述する再刃(さいは:焼き直し)の影響を考慮し、「細直刃はまずまずよく出来ているが、くずれている」とも評価しています 13 。
地鉄に関しても、行光の一般的な作風は小板目肌(こいためはだ)が青白く冴えるとされていますが 4 、不動行光については「板目肌、地沸(じにえ)つき、地景(ちけい:地鉄の中に現れる黒光りする線状の模様)入る」と具体的に記述されています 2 。地沸は地鉄部分に見られる微細な沸であり、地景と共に地鉄の美しさと複雑さを構成する要素です。ここでも本間薫山氏は再刃の影響に言及し、「鍛えは板目、地景がよく入るが、どぎつくちぢれた感があり、地沸が強いがうわずっているのは再刃のため」と指摘しています 13 。
不動行光の最大の特徴とも言えるのが、刀身に施された精巧な彫刻です。
茎(なかご:刀身の柄に収まる部分)の指表目釘孔(めくぎあな)の下に、「行光」と二文字の銘が切られています 4 。しかし、本間薫山氏の詳細な観察によれば、この銘は作刀当初のオリジナルのものではなく、後世に彫り直された可能性が高いと指摘されています。元々は正真(しょうしん:本物)の銘であったものが、火災によって銘が一部不鮮明になり、それを技量の劣る者が彫り直した結果、特に「行」の字の三画目のハネが本来なかったものに加えられるなど、やや不自然な銘の姿になっているとされています 13 。
不動行光の茎は、作刀当初のままの形状を留めているとされる生ぶ茎(うぶなかご)です。茎の先端部分である茎尻(なかごじり)は丸みを帯びた栗尻(くりじり)形を呈し、表面に施された仕上げのヤスリの目は勝手下り(かってさがり:刃側から棟側へ斜めに下がる方向)とされています。目釘孔の数については資料によって記述に揺れがあり、一つとするもの 13 と三つとするもの 17 が存在します。本間薫山氏の専門的な観察記録では「孔一ケ」とされており 13 、こちらがより正確な情報である可能性が考えられます。
不動行光には、江戸時代に製作された黒塗刻鞘小さ刀拵(くろぬりきざみざやちいさがたなごしらえ)が付属していたと伝えられています 13 。この拵には、享保二年(1717年)に本阿弥光忠によって代金子百枚という高額な評価が付けられた折紙(鑑定書)が添えられていました 13 。
しかしながら、現在不動行光に付属しているとされる刻鞘の拵は、この享保年間のものとは異なり、江戸時代も後期に入ってから製作されたものであろうと本間薫山氏は推測しています 13 。織田信長が所持していた戦国時代の拵がどのようなものであったかは、残念ながら記録が乏しく不明ですが、現存するとされる江戸後期の拵とは様式が異なっていた可能性が高いと考えられます 13 。なお、現代において製作されている模造刀やコスプレ用の小道具としての拵 21 は、歴史的なものとは明確に区別して考える必要があります。
不動行光が本能寺の変において「焼け身」になったという伝承は複数の資料で見受けられます 1 。この「焼け身」とは、火災によって刀身が高熱にさらされ、焼刃(やきば:刃文のある硬い部分)が失われたり、変質したりした状態を指します。このような状態になった刀剣は、その美術的価値や武器としての機能が著しく損なわれますが、名刀の場合は「再刃(さいは)」または「焼き直し」と呼ばれる工程を経て、再び刃文を施し、姿を蘇らせることが試みられました。
本間薫山氏による不動行光の詳細な観察結果 13 は、本刀が火災に遭い、再刃された可能性を強く示唆しています。具体的には、前述の銘の不自然な彫り直しに加え、地鉄に見られる「どぎつくちぢれた感」や地沸の「うわずり」、刃文の「くずれ」、さらには刀身彫刻に見られる「すこしくただれた感」といった指摘は、熱による組織の変化と、その後の再加工の痕跡として解釈できます。
近年、静岡県の佐野美術館で開催された展覧会「REBORN 蘇る名刀」は、まさに焼身となり再刃された刀剣に焦点を当てたものであり、不動行光もその重要な一点として展示されました 24 。この展覧会に関するブログ記事 26 では、再刃された刀剣に共通して見られる特徴として、「肉が痩せる(刀身が薄くなる)」「水影(みずかげ:焼入れの際に生じる影のような模様)ができる」「潤いがなくなる(地鉄の輝きが失われる)」「刃切れ(はぎれ:刃先に生じる微細な亀裂)がある」などが挙げられています。同記事では、不動行光の輝きが他の再刃刀よりも大きく見えたという興味深い感想も記されています。
これらの情報を総合的に勘案すると、不動行光が何らかの火災(本能寺の変である可能性が極めて高い)によって被災し、その後、名工の手によって再刃され、現代にその姿を伝えているという仮説が成り立ちます。この再刃の事実は、不動行光の物理的特徴を評価する上で極めて重要な要素です。現在の姿は、作刀当初の完全な状態を100%留めているわけではない可能性があり、鑑定や美術的評価においては、この点を十分に考慮に入れる必要があります。しかし同時に、焼失の危機を免れて「焼け身」として残り、再刃という困難な工程を経て現代にまで伝えられたという数奇な経緯そのものが、この短刀の持つ物語性を一層深め、その歴史的価値を特異なものにしていると言えるでしょう。
項目 |
詳細情報 |
典拠例 |
刀工 |
(相州)行光(藤三郎) |
4 |
時代 |
鎌倉時代後期(14世紀初頭、嘉元頃) |
5 |
種別 |
短刀 |
1 |
刃長 |
8寸4分(約25.5cm)または25.4cm |
4 |
反り |
ほぼなし(無反り) |
2 |
銘 |
(表)行光(二字銘、彫り直しの可能性あり) |
4 |
彫刻(主題) |
(表)樋中に不動明王立像、矜羯羅童子、制多迦童子、蓮華、梵字(キリーク)。(裏)腰樋。 |
1 |
彫刻(彫刻者) |
大進坊祐慶(伝) |
6 |
茎(形状) |
生ぶ茎、栗尻、鑢目勝手下り |
13 |
茎(目釘孔) |
一つ(本間説)、三つ(異説あり) |
13 |
地鉄 |
板目肌、地沸つき、地景入る(再刃の影響で「どぎつくちぢれた感」「うわずり」ありとの指摘) |
2 |
刃文 |
直刃調に沸つき、匂口ばさける(再刃の影響で「くずれ」ありとの指摘) |
2 |
現所蔵者 |
個人蔵 |
4 |
特記事項 |
織田信長・森蘭丸愛刀。本能寺の変で焼け身になった後、再刃された可能性が高い。享保二年(1717年)本阿弥光忠による代金子百枚の折紙が付随した黒塗刻鞘小さ刀拵が付属(現存拵は江戸後期作か)。 |
7 |
不動行光の歴史は、その所有者たちの劇的な運命と深く結びついており、数々の逸話に彩られています。
不動行光は、戦国時代の覇者である織田信長の愛刀であったと広く伝えられています 1 。信長自身がこの短刀を深く愛し、誇りに思っていたことが諸資料から窺えます 14 。単なる武器としてではなく、信長の権威や美意識を象徴する品の一つであったと考えられます。
信長と不動行光を語る上で最も有名な逸話が、信長が酒宴の席で機嫌が良くなると口ずさんだとされる歌です。「不動行光、つくも髪(つくもがみ)、人には五郎左(ごろうざ)御座候(ござそうろう)」というこの歌は、信長が特に大切にしていた三つの宝物を詠んだものと解釈されています 1 。すなわち、短刀「不動行光」、名物茶入「九十九髪茄子(つくもなす)」、そして信頼する家臣「丹羽長秀(にわながひで)」(通称:五郎左衛門)の三者です。この逸話は、不動行光が信長にとって個人的な愛着の深い、特別な品であったことを雄弁に物語っています。
不動行光が信長からその近習であった森蘭丸(本名:森成利 もりなりとし)へと下賜された経緯についても、興味深い逸話が残されています。ある時、信長は小姓たちに対し、不動行光の鞘(さや)に施された刻み目の数を当てさせ、見事言い当てた者にはこの短刀を与えようと言い出しました。多くの小姓が思い思いの数を答えましたが、誰も当たりません。その中で、普段から信長の側に最も近く仕え、その刻み目の数を正確に知っていた森蘭丸は、黙って口を開きませんでした。信長がその理由を問いただすと、蘭丸は「既に存じ上げていることを、さも知らぬかのように申し上げ、射幸心をもってご下賜を願うのは臣下の道に悖る(もとる)と存じます」といった趣旨の誠実な返答をしたと伝えられています。信長はその蘭丸の正直さと忠誠心を高く評価し、褒美として不動行光を蘭丸に与えたとされています 6 。
森蘭丸は、信長に対する忠誠心が人一倍強かった人物として知られており、主君から下賜されたこの不動行光を非常に大切にしていたと伝えられています 6 。一説には、蘭丸は不動行光を常に肌身離さず佩用(はいよう)していたとも言われています 20 。この短刀は、蘭丸にとって単なる武器や下賜品を超え、主君信長との強い絆を象徴する品であったのかもしれません。
天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において明智光秀(あけちみつひで)が謀反を起こした本能寺の変の際、森蘭丸は不動行光を佩いて奮戦し、主君信長が自害するための時間を稼いだ後、明智方の安田国継(やすだくにつぐ、作兵衛とも)に討たれ、18歳という若さでその生涯を閉じたとされています 6 。
この時、蘭丸が佩いていた不動行光もまた、本能寺を包んだ炎の中で焼失してしまったという説 20 と、刀身が高熱にさらされて「焼け身」になったものの、完全に失われることはなかったという説 1 があります。
前述の通り、不動行光が焼け身の状態で現存している可能性は複数の資料で示唆されています。 7 の記述には「経緯は不明ながら焼け身の不動行光はその後、小笠原家に伝わり、現存しています」とあります。また、本間薫山氏による現存する不動行光の鑑定結果では、火災による損傷と再刃の痕跡が指摘されており 13 、これが本能寺の変における被災を裏付けるものと解釈することも可能です。この焼け身となった不動行光が、どのようにして回収され、後の世に伝えられたのか、その具体的な経緯は謎に包まれています。
本能寺の変以降の不動行光の伝来については、いくつかの説が存在し、情報が錯綜しています。
一つの説として、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける戦功の褒賞として、信濃国の武将であった小笠原貞慶が織田信長から不動行光を拝領したというものがあります 2 。しかしながら、この説には大きな矛盾点が指摘されています。史実として、小笠原貞慶が長篠の戦いに参戦したという記録が確認されておらず、この拝領説の信憑性は低いと考えられています 13 。
より有力視されているのは、織田信長から森蘭丸へと渡った不動行光が、本能寺の変を経た後、何らかの経緯で豊前国小倉藩(現在の福岡県北九州市)の初代藩主である小笠原忠真(おがさわらただざね)の手に渡ったという説です 4 。Wikipediaの記述 31 によれば、小笠原家に伝わる伝承として、本能寺の変後、織田信長の次男である織田信雄(おだのぶかつ)から小笠原忠真に贈られたとされています。このルートであれば、焼け身となった不動行光が回収され、修復(再刃)された後に小笠原家へと伝来した可能性が考えられます。
不動行光は、その後、小笠原家において代々受け継がれていったものと見られています 2 。明治時代の刀剣押形集である『光山押形(こうざんおしがた)』には、明治34年(1901年)に編者が伯爵小笠原家において不動行光を拝見したという記録が残されており 13 、近代まで小笠原家が所蔵していたことが確認できます。
不動行光は、小笠原家の手を離れた後、現在は個人所蔵となっているとされています 2 。近年では、静岡県の佐野美術館において複数回展示されており 24 、その姿を一般の人々も目にすることができる機会が設けられています。
不動行光の伝来に関する情報は、このように複数の説が並立し、中には史実との矛盾が指摘されるものも含まれるなど、非常に錯綜しています。特に「小笠原貞慶拝領説」の信憑性の低さや、本能寺の変で「焼失」したとされる刀剣が、どのようにして「焼け身」として回収され、修復を経て小笠原家へと伝来したのか、その具体的な経緯が不明瞭である点は顕著です。
しかし、このような情報の錯綜や未解明な部分が多いこと自体が、逆説的に不動行光の「物語性」を豊かにし、後世の人々の想像力をかき立て、関心を引きつけ続ける大きな要因となっていると考えられます。信長や蘭丸といった歴史上の英雄たちの悲劇的な最期と、不動行光自身の受難(焼失または焼け身)というドラマチックな要素が重なり合うことで、この短刀は単なる古美術品を超えた、歴史ロマンを象徴する存在として人々の記憶に深く刻まれてきました。史実の確定が困難な部分が多いからこそ、そこに様々な解釈や想像の余地が生まれ、多様な「物語」が派生し、語り継がれてきたと言えるでしょう。この複雑で謎に満ちた伝来こそが、不動行光の持つ独特の魅力を形成している重要な要素の一つなのです。
不動行光は、その物理的な特徴や伝来だけでなく、歴史的な評価や他の刀剣との比較においても、多くの議論と関心を集めてきました。
江戸時代中期に編纂された名刀のリストである『享保名物帳』における不動行光の扱いは、その評価を考える上で重要な論点となります。
『享保名物帳』には、「不動」という号の刀剣が記載されていますが、そこには刀工名「行光」の記述はなく、単に「不動」とのみ記されているとされています 13 。この「不動」の所持者は「小笠原右近将監殿(おがさわらうこんのしょうげんどの)」とされ、刃長、代金子百枚、そして由緒は不詳と記録されています 13 。
さらに重要な点として、この『享保名物帳』における「不動」の記載は、徳川吉宗に献上された正本やその副本といったオリジナルの帳簿には存在せず、時代が下った幕末期に、刀剣鑑定の権威であった本阿弥家の本阿弥長根(ほんあみちょうこん、本阿弥光悦の孫ともされる人物)によって追記されたものであるという説が有力視されています 13 。これが事実であれば、不動行光(あるいは『享保名物帳』の「不動」)は、厳密な意味での「享保名物」とは言えない可能性も出てきます。
国立国会図書館デジタルコレクションでは、『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形』(嵩山堂出版)といった関連資料が公開されており 30 、これらの資料を詳細に調査することで、『享保名物帳』やその他の名物帳における「不動」という号を持つ刀剣や、刀工「行光」作の刀剣に関する記載について、より具体的な情報や当時の認識を把握できる可能性があります。
不動行光に関する伝来の矛盾や『享保名物帳』における記載の曖昧さは、しばしば「不動貞宗(ふどうさだむね)」という別の名刀との混同によって生じているのではないかと考えられています 13 。
この混同が、不動行光の歴史を複雑にし、多くの謎を生んでいる一因とされています。
明治34年(1901年)に、当時の著名な刀剣収集家であった今村長賀(いまむらながよし)が、本阿弥家の本阿弥長識(ほんあみちょうしき)に『享保名物帳』記載の「不動」について照会したところ、「その作者は相州貞宗である」との回答を得たと伝えられています 13 。この本阿弥家の見解に従うならば、『享保名物帳』に追記された「不動」とは、現存する不動行光ではなく、不動貞宗を指している可能性が高まります。
不動貞宗は、相州伝を代表する名工の一人である貞宗の作とされ、『享保名物帳』にもその名が記載されています。伝来としては、肥前国唐津藩主であった寺沢広高(てらざわひろたか)が所持した後、豊臣秀吉、織田有楽斎長益(おだうらくさいながます)、そして二代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)へと渡り、最終的には秀忠の遺物として紀州徳川家に伝えられたとされています 35 。貞宗自身も刀身彫刻の名手として知られており 36 、不動貞宗にも何らかの彫刻が施されていた可能性が考えられますが、提供された資料からは不動行光ほど詳細な彫刻の内容は判明していません。
不動行光と不動貞宗の混同が生じた具体的な要因としては、以下の点が推察されます(主に 13 の記述に基づく)。
不動行光をめぐる混乱には、さらに「不動国行(ふどうくにゆき)」という名刀の存在も影響していると考えられます。
不動国行は、鎌倉時代中期の山城国(現在の京都府)の刀工である来国行(らいくにゆき)の作とされる小太刀(こだち)です 37 。この刀も織田信長の愛刀であったと伝えられており、刀身の表、鎺(はばき)元に近い樋の中に「岩上立不動(がんじょうりゅうふどう)」の彫り物があることから、その名が付けられました 37 。信長が酒に酔うとこの刀を自慢し、例の歌を口ずさんだという逸話は、不動行光に関するものと酷似しており 18 、これが両者の情報が混同される一因となった可能性は否定できません。
不動国行の伝来は、足利将軍家の重宝であったものが、永禄の変(1565年)の際に松永久秀(まつながひさひで)の手に渡り、その後、松永久秀が織田信長に降伏した際に献上されたとされています。信長の死後は明智秀満(あけちひでみつ)を経て豊臣秀吉の所有となり、さらに小牧・長久手の戦い(1584年)の和睦の証として徳川家康へと贈られ、徳川将軍家の重宝となりました。しかし、明暦の大火(1657年)で江戸城が炎上した際に焼失し、現在は現存しないとされています 38 。
刀剣研究家の福永酔剣(ふくながすいけん)氏は、不動行光、不動貞宗、そしてこの不動国行の三つの「不動」の名を持つ刀剣の逸話が、時代を経る中で互いに混同されていったのではないかと推測しています 17 。
不動行光は、その美術的価値と歴史的重要性から「名物」として広く知られています 2 。鑑定区分については、一部資料で「未鑑定」とされる一方で 4 、享保二年(1717年)に本阿弥光忠によって「代金子百枚」という極めて高い評価を受けた折紙が付随していたという記録もあり 13 、当時から非常に価値の高い品と認識されていたことが窺えます。この評価の差異は、調査の時期や参照した資料の違い、あるいは後述する再刃などの刀身状態の変化が影響している可能性も考えられます。現在のところ、国宝や重要文化財といった公式な文化財指定は確認されていません 27 。
不動行光は、近年、静岡県三島市の佐野美術館で開催された展覧会「REBORN 蘇る名刀」(2019年1月7日~2月24日)において展示され、大きな注目を集めました 24 。この展覧会は、火災などで焼身となった後に再刃され、現代に蘇った名刀に焦点を当てたものであり、不動行光もその代表的な一例として紹介されました。同展では、人気のオンラインゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」とのコラボレーション企画も実施され、不動行光をモチーフとしたキャラクターの等身大パネルなどが展示されたことも話題となりました 24 。あるブログ記事 26 では、この展覧会で展示された不動行光が「焼身レベル2 再刃されたもの」として紹介され、その輝きが他の再刃刀と比較しても際立っていたという感想が述べられています。
戦国時代において、短刀は単に戦場での補助的な武器としてだけでなく、武士の日常的な護身用具、さらには主君からの下賜品、儀礼的な場面での装飾品、そして武士が最後の覚悟を示す際の道具(切腹の際に用いられるなど)としても、多岐にわたる重要な役割を担っていました 15 。
不動行光が、天下統一を目前にした織田信長という当代随一の権力者に愛され、常に身近に置かれていたとされる事実は、この短刀が単なる実用的な武器としての価値を超え、信長の権威や美意識、さらには精神的な支えのようなものを象徴する品であった可能性を示唆します。また、その愛刀が忠臣である森蘭丸へと下賜されたという逸話は、主君と近習の間の深い信頼関係や、刀剣が褒美として持つ社会的・文化的な価値の高さを示すものと言えるでしょう。
「不動明王」は、密教における中心的な尊格の一つであり、その忿怒(ふんぬ)の相は一切の魔障を調伏し、行者を守護する強力な力を持つと信じられ、特に武家社会において武運長久や戦勝祈願の対象として広く信仰されていました。この不動明王の名を冠し、その姿を刀身に刻んだ刀剣は、単なる美術品や武器であることを超え、所有者に武運や守護をもたらす霊的な力を宿す護符としての意味合いを強く帯びていたと考えられます。
不動行光、不動貞宗、不動国行といった、いずれも歴史に名を残す名刀が「不動」の名を共有し、その彫刻の主題としている事実は、この「不動」というモチーフが持つ強い宗教的イメージと、それに対する武士たちの深い帰依の念を反映していると言えるでしょう。この「不動」という名称と意匠が持つ強い象徴性と付加価値が、複数の「不動〇〇」という名の刀剣を生み出す背景となり、それらの刀剣にまつわる逸話や伝来が、時代を経る中で互いに影響し合い、時には混同されていく素地となったのではないでしょうか。
例えば、『享保名物帳』における「不動」の記載が刀工名を欠いていたり 13 、織田信長が酒宴で自慢したという逸話が不動行光と不動国行の両方について語られていたりする点 18 は、個々の刀剣の厳密な区別よりも、「不動」という共通の霊的・権威的象徴性の方が人々の記憶に残りやすく、結果として情報が混ざりやすくなった可能性を示唆しています。
したがって、「不動」の名を持つ刀剣群の存在とそれらの間で見られる情報の混同は、単なる記録の誤りや歴史の曖昧さとして片付けられるべきものではなく、戦国時代から江戸時代にかけての武士の信仰心や、名刀に求められた精神的な価値(武威の象徴、守護の祈念、縁起の良さなど)を色濃く反映した文化現象として捉えることができます。特に「不動明王」という強力なモチーフは、所有者の権威を高めると同時に、刀剣自体に特別な物語性を付与し、結果として複数の名刀の記憶が人々の間で重なり合い、その区別がつきにくくなるという現象を引き起こしたのかもしれません。これは、名物と呼ばれる刀剣を研究する際に、個々の刀剣の物理的な特徴や製作技術だけでなく、その名称や意匠が持つ文化的な背景や象徴性をも深く考慮に入れることの重要性を示しています。
項目 |
不動行光 |
不動貞宗 |
不動国行 |
刀剣名 |
不動行光 |
不動貞宗 |
不動国行 |
刀工(流派) |
行光(相州伝) |
貞宗(相州伝) |
来国行(山城伝来派) |
時代 |
鎌倉時代後期 |
鎌倉時代末期~南北朝時代 |
鎌倉時代中期 |
種別 |
短刀 |
短刀(名物帳記載は「不動」) |
小太刀 |
主な物理的特徴 |
刃長約25.4cm。不動明王・二童子・梵字・蓮華の彫刻(表)、腰樋(裏)。銘「行光」。再刃の可能性。 |
『享保名物帳』所載。詳細な物理的特徴は本報告書資料内では不明。貞宗は彫刻を得意とした。 |
表の樋中に岩上立不動の彫刻。 |
主な伝来 |
織田信長→森蘭丸→(本能寺の変で焼け身か)→小笠原家→個人蔵 |
寺沢広高→豊臣秀吉→織田有楽斎→徳川秀忠→紀州徳川家 |
足利将軍家→松永久秀→織田信長→明智秀満→豊臣秀吉→徳川家康(明暦の大火で焼失) |
織田信長との関わり |
愛刀。酒宴で自慢した逸話あり。 |
織田有楽斎(信長の弟)が一時所有。信長自身との直接的関わりは薄いか。 |
愛刀。酒宴で自慢した逸話あり(不動行光と酷似)。 |
逸話の共通点・相違点 |
信長の酒宴の逸話は不動国行と共通。森蘭丸への下賜、本能寺の変との関わりが特徴的。 |
伝来は比較的明確だが、信長との直接的な逸話は少ない。 |
信長の酒宴の逸話は不動行光と共通。松永久秀からの献上、明暦の大火での焼失が特徴的。 |
『享保名物帳』での扱い |
「不動」として記載(幕末追記説)。刀工名なし。所持者小笠原右近将監。本阿弥家は貞宗作と回答。 |
「不動」として記載(本阿弥家回答)。 |
記載なし(焼失のためか)。 |
短刀「不動行光」は、鎌倉時代後期に相模国で活動した名工、行光の手による作品とされ、その美しい地鉄と刃文、そして何よりも刀身に施された不動明王と二童子の精巧な彫刻は、美術品として極めて高い価値を有しています。しかし、不動行光の重要性は、単にその美術的側面に留まるものではありません。
本刀の価値を一層高めているのは、戦国時代の覇者である織田信長と、その忠実な近習であった森蘭丸という、日本の歴史上においても特に劇的な生涯を送った人物たちの愛刀であったという伝承です。信長が酒宴の席でこの短刀を誇らしげに歌に詠んだという逸話や、蘭丸が主君信長からその誠実さを認められて拝領したという物語は、不動行光にロマンあふれる色彩を与えています。さらに、日本史の大きな転換点である本能寺の変において、蘭丸と共にその最期を見届けた可能性、そしてその際に焼け身となりながらも現代にまで伝えられたという数奇な運命は、この短刀に比類なき物語性を付与しています。
『享保名物帳』における記載をめぐる議論や、同じく「不動」の名を冠する不動貞宗や不動国行といった他の名刀との間で生じている情報の混同は、不動行光がいかに著名であり、かつ多くの謎に包まれた存在であったかを如実に物語っています。特に、本能寺の変で焼失した、あるいは焼け身となった後に再刃されたという可能性は、その歴史的価値を損なうどころか、むしろ幾多の戦乱や災禍を乗り越えて現代にその姿を伝えた稀有な文化財としての価値を一層深めていると言えるでしょう。
不動行光に関しては、未だ解明されていない点も多く、今後の研究によって新たな知見が得られることが期待されます。
まず、『享保名物帳』の諸写本や、本阿弥家をはじめとする刀剣鑑定に関わる古記録、小笠原家に伝わる史料などをより詳細に調査・分析することで、不動行光(および「不動」と名付けられた他の刀剣)の記載に関するより正確な情報や、当時の評価、伝来の経緯などが明らかになる可能性があります。
次に、現存する不動行光の刀身に対して、最新の科学技術を用いた非破壊的な調査(例えば、蛍光X線分析による材質の同定、高精細デジタルマイクロスコープによる製作技法や摩耗痕、熱影響の痕跡の観察など)が進められれば、再刃の有無やその程度、作刀当初の姿について、より客観的かつ詳細な知見が得られるかもしれません。
また、小笠原家に伝来した具体的な経緯や、それ以前の空白期間(特に本能寺の変から小笠原忠真の手に渡るまで)に関する新たな史料の発見も待たれます。これらの研究が進むことで、不動行光をめぐる謎が少しずつ解き明かされていくことでしょう。
不動行光は、その優れた美術的価値に加え、日本の歴史、武士の精神性、そして人々の物語への希求が交差する地点に位置する、極めて魅力的な文化財です。今後も、歴史学、美術史、保存科学といった多方面からの学際的な研究と、多くの人々の関心が寄せられ続けることは間違いありません。