戦国時代という激動の時代において、茶の湯は単なる趣味や芸道を超え、武将たちの政治的駆け引き、社会的地位の象徴、そして精神文化を涵養する上で不可欠な要素でありました。織田信長が「御茶湯御政道」を敷いたことに象徴されるように、茶道具、とりわけ「名物」と称される逸品は、領地や金銀に匹敵する、あるいはそれ以上の価値を持つものとして認識され、恩賞や外交上の贈答品としても頻繁に用いられました 1 。これらの名物茶道具は、美術的価値のみならず、それを所有し、用いることが一種の権力行使や文化資本の誇示に繋がるという、当時の武家社会における「戦略的資産」としての側面を色濃く持っていたと言えるでしょう。茶道具の収集や下賜は、美的趣味の範疇を超え、戦国武将の統治戦略の一環であり、物質的な価値だけでなく、文化資本を通じた権力掌握の試みという、より深い次元での理解が求められます。
数ある名物茶道具の中でも、特に「肩衝(かたつき)」と呼ばれる、肩部が力強く張った形状の茶入は、その堂々たる姿が武士階級の気風に合致したためか、格別に珍重されました 2 。そして、その肩衝茶入の頂点に立つものとして、「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」と総称される三つの茶入が存在しました。これらは単なる器物ではなく、所有することが天下人の証とも見なされるほどの至宝であり、その価値は「所領一国をも凌ぎ」、三つ全てを手中に収めることは「天下を治めるのに等しかった」とまで言われています 2 。本レポートでは、この天下三肩衝の中でも、ひときわ優美な姿と華麗な伝来で知られる「初花肩衝(はつはなかたつき)」を中心に、その歴史的・美術的価値について詳細な調査結果を報告いたします。
「天下三肩衝」とは、室町時代から安土桃山時代にかけて、数多ある茶入の中でも特に優れたものとして選び抜かれた三つの肩衝茶入、「初花(はつはな)」、「楢柴(ならしば)」、そして「新田(にった)」の総称であります 2 。これらの茶入は、いずれも中国の南宋時代から元時代にかけて製作された舶来品、いわゆる「唐物(からもの)」であると推定されています 8 。
これらの茶入が最高峰の名物として位置づけられる上で決定的な役割を果たしたのが、茶聖・千利休の高弟である山上宗二(やまのうえそうじ)が著した茶道具の秘伝書『山上宗二記』です。この書において、これら三つの肩衝は「天下三大茶入」あるいは「天下三の名物」として記録されており、当時既に最高位の評価を得ていたことを示す一級の史料となっています 2 。具体的には、「一 新田肩衝 珠光が所持する。天下一である。関白様一 初花 同一 楢柴 同」との記述が見られ 14 、新田肩衝が「天下一」と明記され、初花肩衝と楢柴肩衝がそれに「同一」、すなわち同格と見なされていたことが窺えます。この「同一」という評価は、単純な序列の中での同等性を示すというよりは、それぞれの茶入が持つ独自の個性と価値を認めつつ、総合的な格付けにおいて肩を並べる存在であったことを示唆していると考えられます。例えば、新田はその由緒ある伝来(珠光所持、後の被災と修復の物語)、初花はその優美な姿と詩的な銘、楢柴はその独特の釉景と入手困難性など、それぞれが異なる側面で「天下一」と評され得る要素を備えていた可能性があり、当時の茶道具評価における多角的かつ複眼的な視点を反映していると言えるでしょう。
これらの茶入は、文字通り一国に匹敵するほどの経済的価値を有するとされ 1 、その所有は武将にとって最高の栄誉であり、権力、富、そして文化的な洗練を内外に示す象徴でありました。事実、織田信長は初花と新田を手中に収めましたが、楢柴の入手は叶いませんでした。その後、豊臣秀吉に至って初めて三つ全てを所蔵したという事実は、これらの茶道具がいかに天下人の象徴として渇望されたかを雄弁に物語っています 2 。天下三肩衝の価値の高さは、その希少性や美術的価値に加え、名だたる武将や茶人が関わったという「物語性」によってさらに増幅され、その物語性が人々の所有欲を刺激し、価値を不動のものとしたと考えられます。
表1:天下三肩衝 比較概要
特徴項目 |
初花肩衝 |
新田肩衝 |
楢柴肩衝 |
推定製作時代 |
中国 南宋~元代 8 |
中国 南宋~元代 9 |
中国 南宋~元代 (推定) |
主な特徴 |
優美な姿、肩から腰へ流れる三筋の釉薬(景色) 8 |
丸みを帯びた撫肩、元は海松色(みるいろ)の釉 9 |
濃い飴色の釉、釉薬の切れた「釉切れ」を正面に用いるとされた 11 |
銘の由来 |
足利義政が命名、古今和歌集の和歌に因む説など 18 |
当初所持した新田某に因む説、新田義貞所持説など 9 |
釉薬の濃い色合いから万葉集の和歌に因む 11 |
著名な所有者 |
足利義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など 18 |
村田珠光、大友宗麟、豊臣秀吉、徳川家康など 10 |
島井宗室、秋月種実、豊臣秀吉、徳川家康など 17 |
現状 |
重要文化財、公益財団法人徳川記念財団所蔵 8 |
重要美術品、公益財団法人徳川ミュージアム所蔵 9 |
明暦の大火で被災後、所在不明。「幻の茶入」と称される 16 |
初花肩衝は、古来より「大名物(おおめいぶつ)」として名高く、数ある茶道具の中でも最高位に格付けられる至宝であります 8 。その文化財としての価値は揺るぎないものであり、昭和34年(1959年)12月18日には重要文化財に指定されています 8 。その際の正式名称は「唐物肩衝茶入 銘初花(からものかたつきちゃいれ めいはつはな)」と記録されています 8 。
この稀代の名品は、現在、公益財団法人徳川記念財団によって大切に保管されています 8 。近代においては、高橋箒庵(たかはしそうあん)が編纂した名物茶道具の図録『大正名器鑑』において、「公爵徳川家達氏藏」として掲載されており 25 、徳川宗家に代々受け継がれてきたことが確認できます。
初花肩衝の美術的価値を理解するためには、その製作背景、材質、寸法、器形、そして何よりも釉薬が織りなす「景色」に注目する必要があります。
製作年代と推定産地 : 初花肩衝は、中国の南宋時代(1127年~1279年)または元時代(1271年~1368年)の作と推定されています 8 。これは、当時の日本において最高級品とされた唐物茶入の典型的な出自であり、その洗練された作風は中国陶磁の粋を集めたものと言えるでしょう。
材質、寸法 : 材質は陶製であり 8 、その寸法は、高さ8.8cm、胴径7.9cm、口径4.7cm、底径4.5cmと記録されています 8 。これらの数値は、他の天下三肩衝と比較してもやや大ぶりであることを示唆しており 18 、堂々たる存在感を放っています。特筆すべきはその薄さで、厚みは約2mmと極めて薄く作られており、これは当時の作陶技術の粋を凝らしたものであり、現代の目で見ても驚嘆に値します 2 。
器形 : 「肩衝」の名の通り、肩部が力強く水平に張り出し、そこから胴が垂直気味に落ち、胴紐(どうひも)と呼ばれる僅かな段を過ぎると腰部がやや窄まるという、均整の取れた優美な姿をしています 8 。口縁は外側に僅かに反り(「口縁が返り」と表現される 12 )、口縁下のくびれた部分である甑(こしき)は高く、引き締まった印象を与えます 18 。底は「板おこし」と呼ばれる平らな作りで、これは同時代の唐物茶入に共通する特徴の一つです 12 。また、胴の中央付近に一本、甑際にも一本、線刻が施されており、器形にアクセントを加えています 12 。
釉薬と景色 : 初花肩衝の最大の魅力の一つは、その釉薬が織りなす複雑で美しい「景色」にあります。素地は鉄分を多く含んだ鼠色の粘土質の土が用いられています 12 。器全体には薄茶色の釉薬が掛けられ、その上に黒味がかった褐釉(黒褐釉)が肩から腰へと三筋に流れ落ちる景色が、この茶入の正面(置形)を飾る最大の見どころとされています 8 。この釉薬の流れは「なだれ」とも呼ばれ、自然が生み出した芸術的な模様として高く評価されています 23 。釉薬が厚く掛かった部分は深みのある黒褐色を呈し、薄く掛かった部分は明るい茶褐色となり、その濃淡のコントラストが器に立体感と表情を与えています 12 。一部の資料では、正面の景色について、窯の中で薪の灰が自然に降りかかって溶け、ガラス質(ビードロ状)になった自然釉や、炎による焦げ付きも見られると解説されており 26 、また別の資料では、釉色は栗色地の上に黒褐釉が施され、時には焼成時の化学変化(窯変)によって紫色を帯びた部分も見られると記述されています 23 。
専門家による評価: 初花肩衝に対する評価は、古来より極めて高いものでしたが、その表現には興味深い幅が見られます。「優美で女性的」と評されることがある一方で、「荘厳さを欠く」という、やや否定的なニュアンスを含む評価も存在します 18。この評価は、江戸時代の儒学者・新井白石が著書『紳書』において、初花肩衝を「楊貴妃の油壺なりき」と記したという(史実ではないものの)伝説とも結びつけて語られることがあります 23。しかし、多くの専門家は、その完璧な造形と気品を称賛しており、「すべての点において十全具足」「完全無欠」といった言葉でその美しさを表現しています 18。特に、近代数寄者の代表格である高橋箒庵は、その著書『大正名器鑑』において、「其気品の高きに感ぜしむる事、蓋し此初花に如く者なかるべし」(その気品の高さに感銘を受けること、おそらくこの初花に及ぶものはないであろう)と激賞しています 18。また、数々の戦乱や政変を乗り越え、「いささかの負傷もないこともまた奇跡に近い」 23 と、その保存状態の良好さも特筆すべき点として挙げられています。
このような一見矛盾する評価、すなわち「優美で女性的」という評価と「荘厳さを欠く」という評価、そして「気品」を絶賛する声が共存することは、鑑賞者の美的基準や時代背景の違いを反映している可能性があり、むしろ初花肩衝が持つ多面的な魅力、単純な一面的評価では捉えきれない奥深い美しさを示していると言えるでしょう。
名物茶道具において、その「銘」は単なる呼称ではなく、その道具の個性や由緒、そしてそれにまつわる人々の想いを凝縮した重要な要素です。初花肩衝の「初花」という優美な銘の由来については、いくつかの説が伝えられています。
足利義政による命名説 : 最も有力とされているのは、室町幕府の8代将軍であり、東山文化のパトロンとしても知られる足利義政が、その美しい姿を、天下に先駆けて咲く初花(その季節に最初に咲く花)にたとえて「初花」と名付けたという説です 8 。『日本陶瓷史』などの文献では、この命名が平安時代の勅撰和歌集である『古今和歌集』に収められた和歌「くれないの はつ花ぞめの 色ふかく 思ひしこころ われわすれめや」(詠み人知らず、巻第十四 恋歌四)に因んだものであろうと推測されています 20 。この歌は、「紅色の初花染めのように、深く心に染みついたあなたのことを、どうして忘れられましょうか」という情熱的な想いを詠んでおり、初花肩衝の鮮烈な美しさ、希少性、そしてそれを手にした時の深い感動を象徴していると解釈することができます。
真松斎春渓『分類草人木』の異説 : 一方で、江戸時代の茶人・真松斎春渓(しんしょうさいしゅんけい)の著書『分類草人木(ぶんるいそうもくしょう)』には、「初花は新田より壺の開き早きに依て初花と名付し也」という記述が見られます 23 。これは、同じく天下三肩衝の一つである新田肩衝と比較して、初花肩衝の口の開きが大きい(あるいは開花が早い=優れている、の意か)ことから名付けられたという説であり、器形に基づいた物理的な特徴からの命名の可能性を示唆しています。
楊貴妃の油壺であったとする伝承 : さらに、中国唐代の玄宗皇帝の寵姫であり、絶世の美女として知られる楊貴妃が用いた油壺であったというロマンティックな伝説も伝えられています 16 。これは史実ではないと考えられていますが 23 、初花肩衝が持つ優美で高貴なイメージを補強し、その神秘性を高める物語として、長く語り継がれてきたのでしょう。
これらの銘の由来に関する複数の説が存在することは、初花肩衝が単一の視点からのみ評価されてきたのではなく、美的感覚(足利義政の和歌説や楊貴妃伝説)と物理的特徴(器形比較説)の両面から高く評価され、多層的な意味が付与されてきたことを示唆しています。それぞれの説が、この茶入の価値を異なる角度から照らし出し、その魅力をより豊かなものにしていると言えるでしょう。
初花肩衝の価値を語る上で欠かせないのが、その華麗かつ波乱に満ちた伝来の歴史です。足利将軍家から始まり、戦国の梟雄、天下人、そして徳川将軍家へと、日本の歴史を彩る錚々たる人物たちの手を渡り歩いてきました。
足利義政から織田信長へ : 初花肩衝は、まず東山文化の礎を築いた室町幕府8代将軍・足利義政の所持するところであったと伝えられています。その後、堺の豪商であり、村田珠光に次ぐ茶の名人とされた鳥居引拙(とりいいんせつ)、そして京都の豪商で「大文字屋」の屋号で知られた疋田宗観(ひきたそうかん)の手を経て、天下統一を目指す織田信長の所有となりました 18 。
信長から信忠、そして本能寺の変 : 信長はこの初花肩衝を深く愛蔵し、後に嫡男である織田信忠に、大和の梟雄・松永久秀を討伐した際の恩賞として下賜しました 15 。しかし、天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発し、信長が横死すると、信忠もまた二条御所に籠城し、奮戦の末に自刃します。この未曾有の混乱の中、初花肩衝は奇跡的に戦火を免れました。一説によれば、信忠が皇太子誠仁親王とその子である和仁王(後の後陽成天皇)を御所から脱出させる際に共に持ち出され、朝廷や徳川家と縁の深い京都の誓願寺(せいがんじ)を経由して、徳川家康の家臣である松平親宅(まつだいらちかただ)の手に渡ったとされています 16 。また、別の資料では家康の部将で三河にて茶園を経営していた松平念誓(まつだいらねんせい)が所持したとも記されています 18 。
徳川家康から豊臣秀吉へ : その後、初花肩衝は松平親宅(あるいは念誓)から徳川家康に献上されました 16 。家康は親宅の功を賞し、倉役・酒役など一切の諸役を免除したと伝えられています 16 。そして天正11年(1583年)、家康は、前年の山崎の戦いに続き、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を破り、織田信長の後継者としての地位を確固たるものにしつつあった羽柴(後の豊臣)秀吉に対し、戦勝の祝賀品としてこの初花肩衝を贈呈しました 15 。この歴史的な贈答の事実は、千利休が博多の豪商・島井宗室(しまいそうしつ)に宛てた同年6月20日付の書状にも記されており、当時の茶の湯の世界における重要な出来事であったことが窺えます 16 。
秀吉と利休、そして再び家康へ : 秀吉の手に渡った初花肩衝は、彼の主催する壮麗な茶会で用いられることになります。特に有名なのは、天正13年(1585年)10月7日、秀吉が宮中において正親町(おおぎまち)天皇に茶を献じた際、千利休が点前(てまえ)を務め、この初花肩衝が用いられたという記録です 18 。天下人が天皇に献茶するという晴れがましい舞台で、当代随一の茶人が天下第一の茶入を用いるという、まさに歴史の一場面でありました。秀吉の死後、初花肩衝は五大老の一人であった宇喜多秀家(うきたひでいえ)の手に渡りますが、関ヶ原の戦いで西軍の主力として敗れた秀家が没落すると、再び徳川家康の所蔵となりました 18 。
徳川将軍家の至宝「柳営御物」へ: 関ヶ原の戦いを経て天下の実権を握った家康は、大坂夏の陣(慶長20年、1615年)での戦功を賞し、孫である松平忠直(まつだいらただなお、越前福井藩主)に初花肩衝を与えました 18。その後、上総大多喜(おおたき)藩主であった松平備前守(まつだいらびぜんのかみ)の所蔵を経て、元禄2年(1689年)頃(16では元禄11年(1698年)説あり)、5代将軍徳川綱吉の時代に徳川将軍家に献上され、将軍家所蔵の美術品を指す「柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)」の中でも筆頭の宝物として、徳川宗家に代々受け継がれることとなったのです 18。
初花肩衝が数々の戦乱や政変を乗り越えて、ほぼ無傷の状態で現存することは、その時々の所有者たちがいかにこの茶入を珍重し、その保護に心を砕いたかの証左と言えるでしょう。その美術的価値の高さが手厚い保護へと繋がり、そしてその奇跡的な保存状態がさらに価値を高めるという、好循環を生んだと考えられます。また、「柳営御物」の筆頭という位置づけは、徳川幕府が武力だけでなく、文化的な権威においても日本の頂点に立つことを示す象徴的な意味合いを持っていたと言えるでしょう。
表2:初花肩衝 伝来略年表
年代(推定含む) |
所有者・出来事 |
典拠 (例) |
室町時代中期 |
足利義政(「初花」と命名) |
18 |
室町時代後期~戦国時代 |
鳥居引拙(堺の豪商)、疋田宗観(京都の豪商・大文字屋) |
18 |
永禄12年(1569年)頃 |
織田信長(疋田宗観より召し上げ) |
[ 16 (献上年の記述あり), 18 ] |
天正年間 |
織田信忠(信長より松永久秀討伐の恩賞として下賜) |
16 |
天正10年(1582年) |
本能寺の変後、松平親宅(徳川家康家臣、または松平念誓)が入手 |
16 |
天正11年(1583年) |
徳川家康(親宅より献上)、同年、豊臣秀吉(家康より賤ヶ岳合戦勝利の祝賀品として贈呈) |
16 |
天正13年(1585年) |
豊臣秀吉、宮中にて正親町天皇に献茶の際、千利休が点前で使用 |
18 |
慶長年間 |
宇喜多秀家、その後再び徳川家康の所蔵となる |
18 |
元和年間 |
松平忠直(越前福井藩主、家康より大坂夏の陣の戦功により拝領) |
18 |
江戸時代前期 |
松平備前守(上総大多喜藩主) |
18 |
元禄2年(1689年)頃 |
徳川将軍家(5代将軍綱吉の時代に献上され、「柳営御物」の筆頭となる) |
1816 |
大正時代 |
徳川家達(公爵、徳川宗家16代当主) |
25 |
現代 |
公益財団法人徳川記念財団 |
8 |
初花肩衝の価値をより深く理解するためには、同じく天下三肩衝と称された新田肩衝と楢柴肩衝についても触れておく必要があります。これら三つの茶入は、それぞれ異なる個性と運命を辿りながらも、戦国時代から江戸時代にかけての茶の湯文化において特別な位置を占めていました。
特徴 : 新田肩衝は、初花肩衝と比較すると、胴がより丸みを帯びて張り出し、肩のラインがなだらかな「撫肩(なでがた)」の形状を持つとされています 9 。高さは約8.5cmと記録されています 9 。当初の釉薬は「海松色(みるいろ)」と呼ばれる、やや緑がかった土色であったと伝えられています 9 。
大坂の陣での被災と修復 : 新田肩衝の伝来において最も劇的な出来事は、大坂夏の陣での被災と、その後の奇跡的な修復です。豊臣秀吉の死後も大坂城内に留め置かれていましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂城が落城・炎上した際に戦火に巻き込まれ、木っ端微塵に砕け散ってしまいました 2 。しかし、この名品の消失を惜しんだ徳川家康は、幕府お抱えの塗師であった藤重藤元(ふじしげとうげん)・藤厳(とうごん)親子に命じ、焼け跡の膨大な灰の中から丹念に破片を探し出させ、漆を用いてそれらを繋ぎ合わせ、元の形に復元させたのです 2 。この壮絶な修復作業は、単なる器物の保存を超えた、文化財に対する執念とも言える情熱と、それを可能にした権力者の意思、そして職人の高度な技術力の三位一体を象徴する出来事と言えるでしょう。この修復の結果、現在の新田肩衝は、元の海松色ではなく、光沢のある黒褐色の姿となっています 9 。
千利休による評価 : 『山上宗二記』においては、「天下一の肩衝茶入」と賞賛されたと記されており 10 、また、茶道の祖とされる村田珠光(むらたじゅこう)が所持したとも伝えられています 14 。これらの記述は、新田肩衝が古くから極めて高い評価を受けていたことを示しています。
現在の所蔵 : 奇跡的に蘇った新田肩衝は、徳川家康から自身の十一男であり水戸徳川家の祖となる徳川頼房(よりふさ)に与えられ、以後、水戸徳川家に代々伝来しました 9 。現在は重要美術品に指定され、茨城県水戸市にある公益財団法人徳川ミュージアムに所蔵されています 9 。
特徴と銘の由来 : 楢柴肩衝は、その釉色が濃い飴色(あめいろ)をしていたことが特徴とされています。その銘は、この「濃い」釉色を男女の「恋(こい)」の情念の深さになぞらえ、『万葉集』巻第十に収められた和歌「み狩りする 狩場の小野の 楢柴の 汝(なれ)はまさらで 恋(こひ)ぞまされる」(大意:狩りをする狩場の小野の楢柴のように、あなたは少しも私に靡かないが、私の恋心は募るばかりだ)にちなんで名付けられたと伝えられています 11 。また、一般的な茶入が釉薬の垂れを正面の景色とするのに対し、楢柴肩衝は釉薬が途中で切れた「釉切れ(ゆうぎれ)」の部分を正面に用いるという、独特の鑑賞法があったとされています 19 。
伝来の経緯 : 楢柴肩衝は、博多の豪商であり茶人でもあった島井宗室(しまいそうしつ)が所持していたことで広く知られています 11 。織田信長もこの名品を強く欲しましたが、入手する前に本能寺の変で横死したため、その手にすることはありませんでした 16 。その後、楢柴肩衝は筑前の戦国大名・秋月種実(あきづきたねざね)の手に渡ります。この経緯については、種実の家臣であった恵利内蔵助(えりくらのすけ)が主君を諌めるために、宗室から半ば強引に楢柴肩衝を入手したという逸話が講談などで語り継がれています 21 。そして、豊臣秀吉による九州征伐の際、島津氏に与していた秋月氏が秀吉に降伏する証として、この楢柴肩衝を献上しました。これにより、ついに天下三肩衝は全て秀吉の所有するところとなったのです 11 。秀吉の死に際しては、徳川家康に授けられたとされています 11 。
明暦の大火とその後:「幻の茶入」 : 徳川将軍家の所有となった楢柴肩衝ですが、その運命は他の二つとは大きく異なりました。明暦3年(1657年)に江戸市中の大部分を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)で江戸城も炎上した際に焼失したとも、あるいは破損し修復されたものの、その後所在不明になったとも伝えられています 11 。確かなことは、現在その現存が確認されておらず、「幻の茶入」と称されていることです 19 。そのミステリアスな存在感は人々の想像力をかき立て、近年では映画撮影のために古文献を基にした再現品が製作されるなど、失われた名品への憧憬は今なお続いています 19 。楢柴肩衝の「所在不明」という現実は、歴史の偶然性や災害の破壊力を示すと同時に、失われた名品へのロマンをかき立て、「幻」としての新たな価値を付与していると言えるでしょう。
初花肩衝が無傷で現代に伝世し、新田肩衝が被災から蘇り、そして楢柴肩衝が歴史の闇に消えたという三者三様の運命は、名物茶道具がいかに過酷な歴史の試練に晒されてきたか、そしてそれらが現代にまで伝わることの奇跡性を浮き彫りにしています。
天下三肩衝をはじめとする肩衝茶入が、戦国時代から江戸時代にかけての武士階級に特に珍重された背景には、その独特の形状と、それが武士の価値観や美意識に合致した点が挙げられます。
肩衝茶入が武士階級に珍重された理由 : 肩衝茶入の最大の特徴は、その名の通り、器の上部、肩にあたる部分が角張って力強く横に張り出している点にあります。この堂々たる姿が、武士の威厳ある佇まいや、背筋を伸ばして正座した姿に似ているとされ、武士階級の気風に好まれたと言われています 3 。また、その形状から全体として「力強い印象」 4 を与えることも、武勇を重んじ、質実剛健を旨とする武士の美意識に訴えかけたと考えられます。単に形状が武士の姿に似ているという外面的な理由だけでなく、その「張り」や「角」が、困難に屈しない意志の強さ、堂々たる威厳、あるいは曖昧さを排し筋を通す潔さといった、武士の精神性を象徴すると解釈された内面的な理由も大きかったのではないでしょうか。
「茄子は天下、肩衝は征夷大将軍」 : 当時の茶道具の格付けや評価を象徴する言葉として、「茄子は天下、肩衝は征夷大将軍」というものがあります 4 。これは、丸みを帯びた形状の「茄子(なす)茶入」が、全てを包み込むような「天下」の象徴とされたのに対し、肩衝茶入は武家の最高権力者である「征夷大将軍」にたとえられたことを意味します。この比喩は、肩衝茶入が将軍の持つ権威や力強さを象徴するものとして認識されており、武士たちがこれを格別に重んじた大きな理由の一つと考えられます。この言葉は、茶道具の格付けを通じて、当時の社会における理想的な権力構造や役割分担を示唆しているとも解釈できます。「天下」が包括的で至高の存在を意味し、丸みを帯びた茄子茶入の形状がそのイメージと合致するのに対し、「征夷大将軍」は武家のトップであり、実質的な統治者としての力強さや威厳が求められ、肩衝茶入の力強い形状がこれに対応すると考えられたのでしょう。茶道具の序列が、単なる美術品の格付けではなく、当時の人々が抱いていた社会秩序や権力観を反映したものであったことを示しており、茶の湯の世界観が現実の政治体制や社会構造と呼応していたことの現れと言えます。
茶道具が持つ政治的・経済的価値と戦国時代の社会 : 前述の通り、名物茶道具は一国に匹敵するほどの経済的価値を持ち 1 、恩賞や贈答品として政治的な役割も果たしました。特に織田信長は、茶の湯を巧みに政治利用し、家臣に対して茶会開催の許可を与えることや、手柄を立てた武将に褒美として名物茶道具を与えることで、家臣団の統制と忠誠心の維持を図りました 1 。これは、従来の土地による恩賞が限界に達しつつあった戦国時代において、新たな価値体系を導入する革新的な試みでありました。茶道具の価値は、その美術的完成度のみならず、誰が所持し、どのような歴史的背景を持つかという「来歴(伝来)」によっても大きく左右され、その物語性が価値をさらに高めるという側面も持っていました。このような茶道具を通じた価値観の共有は、戦国武将間のコミュニケーションツールとしても機能し、共通の文化基盤を形成することで、対立だけでなく同盟や交渉の円滑化にも寄与した可能性が考えられます。
本レポートでは、天下三肩衝の一つである「初花肩衝」を中心に、その歴史的背景、美術的特徴、そして戦国時代から江戸時代にかけての武家社会における意義について詳述してまいりました。
初花肩衝は、その優美な姿と華麗な伝来を通じて、日本の歴史、文化、そして美意識を色濃く映し出す、類稀な存在であると言えます。室町幕府8代将軍・足利義政による命名に始まり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人の手を渡り、最終的には徳川将軍家の至宝「柳営御物」の筆頭として受け継がれてきた事実は、この茶入が単なる美術工芸品を超えた、時代の象徴であったことを雄弁に物語っています。その美術的完成度の高さ、特に釉薬が織りなす深遠な景色や、均整の取れた気品ある器形は、中国渡来の唐物茶入の中でも最高峰の一つとして、後世の茶人や美術愛好家に対し、計り知れない影響を与え続けてきました。
初花肩衝を含む天下三肩衝は、その存在自体が茶道具の価値基準を飛躍的に高め、武家茶道の発展を力強く後押しする一因となりました。これらの名品を巡る数々の逸話や伝承は、茶の湯の世界に豊かな物語性をもたらし、日本の美術史、工芸史においても極めて重要な位置を占めています。また、新田肩衝の劇的な修復や、楢柴肩衝の謎に包まれた逸失は、文化財の保存と継承のあり方について、現代の我々にも多くの示唆を与えています。
総じて、天下三肩衝、とりわけ初花肩衝は、日本の文化遺産の中でも特筆すべき至宝であり、その多岐にわたる価値は未来永劫語り継がれるべきものでありましょう。これらの名宝が辿った数奇な運命、そしてそれらが持つ物語は、モノが秘める「力」――人々を魅了し、時には歴史を動かし、そして文化を形成する力――を我々に強く示しています。それらは単なる器ではなく、時代精神の結晶であり、後世の人々に絶えず新たなインスピレーションを与え続ける、生きた文化装置であると言えるのではないでしょうか。これらの貴重な文化財を次世代に確実に伝え、その価値を共有していくことは、現代に生きる我々の重要な責務であると、改めて認識させられます。