最終更新日 2025-05-30

楢柴肩衝

楢柴肩衝

幻の名器「楢柴肩衝」-天下三肩衝の深淵-

序章:幻の名器「楢柴肩衝」

本報告は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、数多の茶人や権力者を魅了した「天下三肩衝」と称される名物茶入の一つ、「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」に焦点を当てる。現存する史料に基づき、その名称の由来、形状、伝来の軌跡、そして焼失・行方不明に至るまでの謎多き運命を多角的に解明し、日本文化史におけるその歴史的・文化的な意義を深く考察することを目的とする。楢柴肩衝は、単なる喫茶の道具に留まらず、戦国武将たちの権力と美意識、さらにはその時代の精神性をも象徴する稀有な存在であった。

「天下三肩衝」という言葉の響きには、当時の茶道具に対する破格の価値観が凝縮されている。その一角を占める楢柴肩衝は、特にその風雅な名称の由来と、現存しないことによる神秘性によって、他の二つの肩衝とは異なる独特の魅力を放ち続けている 1 。数ある茶入の中で、なぜこれら三つが「天下」とまで称揚されたのか。その背景には、室町時代から安土桃山時代にかけての茶の湯の隆盛と、それに伴う茶道具の価値の急騰が存在した。茶の湯が単なる喫茶の行為を超え、高度な精神文化と結びつき、さらには政治的な意味合いをも帯びるようになった時代、「天下三肩衝」という呼称そのものが、茶道具の価値観が確立し、それらが権力者たちの間でステータスシンボルとして流通した時代の産物であったと言える 3 。そして、楢柴肩衝が歴史の表舞台から姿を消したという事実は、皮肉にもその伝説性を一層高め、後世の人々の探求心を刺激し続けているのである。

第一章:「天下三肩衝」とは

「天下三肩衝」の成立と意義

「天下三肩衝」とは、古来より茶道具の中でも至高の逸品とされる「初花(はつはな)」、「新田(にった)」、そして本報告の主題である「楢柴(ならしば)」という三つの肩衝茶入を指す呼称である 1 。これらはすべて中国大陸からもたらされた「唐物(からもの)」であり、特に古い時代に渡来し質が高いとされる「漢作(かんさく)」の茶入として珍重された 3 。当時の価値観において、これらの名物は「一国一城に値する」とまで形容され 3 、所有することは武将たちにとって単なる道具の蒐集を超えた、権勢と文化的な素養を示す極めて重要な意味を持っていた。

「肩衝」とは、茶入の肩部が水平に張り、角ばった形状を特徴とし、その姿は力強さを感じさせる 1 。この形状が武家社会の気風と共鳴し、特に好まれた可能性が考えられる。唐物茶入は元来、中国では薬壺や油壺として使用されていた小壺が、日本において抹茶を入れる容器として見出され、茶の湯文化の発展とともにその価値を高めていった経緯がある 3 。その中でも「天下三肩衝」という概念の成立は、茶の湯の世界における「目利き」の文化と、名物を体系化しようとする動きの萌芽を示すものであった。それは単に形状の美しさだけでなく、「由緒」や「格」といった無形の価値が重視されるようになったことの現れであり、後の『山上宗二記』や『雲州名物帳』といった名物記へと繋がる価値評価の基礎を築いたと言えよう。

初花肩衝:その特徴と伝来

初花肩衝は、徳川将軍家伝来の至宝として知られ、中国の南宋または元時代の作と推定されている 4 。高さ8.8cmほどの小ぶりな器体ながら、肩から底部にかけて流れる茶褐色の釉薬が美しい「景色」をなし、均整の取れた優美な作振りが特徴的である 4 。その「初花」という詩的な銘は、室町幕府八代将軍・足利義政が、その気品ある姿を春一番に咲き誇る名花になぞらえて命名したと伝えられている 4 。また、日本伝来以前はかの楊貴妃の油壺であったという艶やかな伝承も、その価値を一層高めている 4

その伝来は、足利義政から村田珠光の門人である鳥居引拙、京の大文字屋疋田宗観を経て、永禄12年(1569年)頃には織田信長の手に渡った 4 。信長はこれを嫡男・信忠に家督相続の印として譲ったが、天正10年(1582年)の本能寺の変で信忠が討たれると一時流出する。その後、徳川家臣の松平親宅(法名・念誓)を経て徳川家康に献上され、さらに賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いとして羽柴(豊臣)秀吉へと贈られた 4 。秀吉の死後は宇喜多秀家が相続したが、関ヶ原の戦いで秀家が敗れると再び家康の所有となり、その後も松平忠直、松平光長といった徳川家ゆかりの大名の手を経て、最終的には江戸幕府の蔵するところとなった 4 。このように、初花の流転の歴史は、戦国時代から江戸初期にかけての権力の変遷を色濃く反映しており、特に信長、秀吉、家康という三人の天下人が相次いで所有したという事実は、この茶入が単なる美術品ではなく、時代の趨勢と深く結びついた象徴的な存在であったことを物語っている。現在は公益財団法人徳川記念財団に所蔵され、重要文化財に指定されている 4

新田肩衝:その特徴と伝来

新田肩衝もまた、天下三肩衝の一つに数えられる大名物であり、漢作の肩衝茶入の典型とされる 8 。その姿は、肩がしっかりと張り、胴の膨らみが豊かで、全体に灰色を帯びた紫褐色の釉薬が施されているのが特徴である 8 。茶地剣先梅鉢緞子と段織緞子の二種の仕覆(茶入を保護し装飾する袋)が付属していることも記録されている 8

「新田」という銘は、元々新田某という人物が所持していたことに由来するとされるが、その初期の伝来には諸説ある 8 。確かな記録としては、本能寺の変の後、大友宗麟の手に渡り、天正13年(1585年)には豊臣秀吉が「似茄子(にたなすび)」という別の名物茶入と共に百貫という高値で譲り受けたとされる 8 。千利休はこの新田肩衝を「天下一の肩衝茶入」と絶賛したと伝えられ、その評価がこの茶入の格を決定づけたと言っても過言ではない 8 。大坂夏の陣で大坂城が落城した際には、一度は灰燼に帰したかと思われたが、徳川家康の命を受けた塗師の藤元・藤巌親子が焼け跡から破片を探し出し、見事に修復したという逸話は名高い 8 。この修復の物語は、新田肩衝に対する当時の人々の並々ならぬ執着と、驚くべき修復技術の高さを今に伝えている。その後、家康から水戸徳川家初代藩主・徳川頼房に下賜され、以来同家に伝来し、現在は徳川ミュージアム(茨城県水戸市)に所蔵されている 8 。新田肩衝の「焼失と修復」というドラマは、単に物理的な再生を超え、名物の不滅性、あるいは所有者の権力による「再生」の象徴とも解釈でき、豊臣家から徳川家への時代の移行を文化的な側面からも印象づける出来事であったと言えるかもしれない。

三肩衝における楢柴肩衝の位置づけ

楢柴肩衝は、千利休の高弟である山上宗二が著した茶書『山上宗二記』において、初花、新田と並び称される天下の三名物の一つとして記録されている 8 。他の二つが数多の戦乱や火災を乗り越えて現代にその姿を伝えているのに対し、楢柴肩衝のみが江戸時代の明暦の大火(1657年)の頃に焼失したとされ、現在その所在は不明である 2 。この「失われた」という事実が、楢柴肩衝を他の二つとは異なる、一層神秘的で人々の想像力を掻き立てる存在へと昇華させている。

天下三肩衝はそれぞれ異なる個性と伝来の物語を持つが、楢柴の焼失は文化財の脆弱性と、歴史の中で失われていくものの儚さを示唆する。同時に、失われたからこそ、残された僅かな記録や伝承を通じてその姿を追い求める行為が活発になり、一種の「伝説化」が進んだと言えるだろう。初花と新田が実物として研究・鑑賞の対象となるのに対し、楢柴は文献や伝承の中にのみ存在する「幻の名器」としての特異な地位を確立しているのである。

表1:天下三肩衝 比較一覧

名称

推定製作年代

主な特徴

主要な伝来(主な所有者)

現状

特記事項

初花肩衝

中国 南宋~元時代

高さ8.8cm。均整の取れた優美な作ぶり。肩から底部への釉薬の流れが景色をなす。

足利義政 → 鳥居引拙 → 織田信長 → 織田信忠 → 徳川家康 → 豊臣秀吉 → 宇喜多秀家 → 徳川家康 → 松平忠直 → 松平光長 → 江戸幕府

公益財団法人徳川記念財団蔵(重要文化財)

足利義政命名。楊貴妃の油壺伝承。

新田肩衝

中国 南宋~元時代

典型的な漢作肩衝。胴の膨らみが大きめ。灰色を帯びた紫褐色の釉。二種の仕覆が付属。

新田某 → 大友宗麟 → 豊臣秀吉 → (大坂城落城で焼失後修復)→ 徳川家康 → 水戸徳川家

徳川ミュージアム蔵

千利休が「天下一の肩衝茶入」と賞賛。大坂城落城後に灰燼より発見・修復。

楢柴肩衝

中国 南宋~元時代

濃いアメ色の釉。「壺の形、尻のふくらみ具合がよい」と伝わる(『山上宗二記』)。詳細は不明。

足利義政(東山御物)→ 鳥居引拙 → 島井宗室 → 秋月種実 → 豊臣秀吉

明暦の大火(1657年頃)で焼失、または行方不明と推定される。

『万葉集』の歌に因む命名。天下三肩衝の中で唯一現存しない。

この一覧表からも明らかなように、楢柴肩衝は他の二つの名器と肩を並べる最高級の評価を得ていたが、その後の運命によって、物理的な存在としては歴史から姿を消すこととなった。しかし、この「不在」こそが、楢柴肩衝に対する後世の人々の尽きない関心と想像力を掻き立て、その伝説をより豊かなものにしていると言えるだろう。

第二章:楢柴肩衝の詳説

名称の由来:万葉集と釉色の景色

楢柴肩衝の名称は、その外観の最も顕著な特徴である釉薬の色合いと、日本の古典文学である『万葉集』の歌とが結びつけられて生まれた、極めて風雅なものである 1 。伝承によれば、この茶入の釉色は濃いアメ色を呈しており、その「濃い」という言葉が男女の情愛の深さを意味する「恋」に通じることから、選ばれたのが次の歌であった。

「御狩する 狩場の小野の 楢柴の 汝(なれ)はまさで 恋ぞまされる」 1

(意:帝が狩りをなさる狩場の小野の楢柴のように、慣れ親しんだあなたは以前にもまして恋しさが募るばかりだ)

この歌に詠まれる「楢柴」という植物の名を借りて、この肩衝茶入は「楢柴肩衝」と名付けられたとされる。このような命名は、単なる器物に文学的・詩的な背景と奥行きを与え、その文化的価値を飛躍的に高めるものであった。そこには、釉薬の景色という視覚的な特徴を、和歌という文学的モチーフ、さらには「恋」という人間の普遍的な感情へと昇華させる、日本の伝統的な美意識である「見立て」の精神が色濃く反映されている。この命名行為自体が、茶入を単なる道具としてではなく、賞翫の対象、さらには精神的な価値を宿すものとして捉える、成熟した文化の現れと言えよう。そして、この詩的な名称は、楢柴肩衝の物語性を豊かにし、所有者や茶人たちの間で語り継がれることによって、その価値を一層高める効果をもたらしたと考えられる。

形状と特徴:古記録からの考察(寸法、材質、釉調など)

楢柴肩衝は現存しないため、その正確な形状や寸法、材質、釉調といった具体的な姿を直接知ることは叶わない。しかし、残された古記録や、他の天下三肩衝、あるいは同時代の漢作肩衝茶入との比較から、その輪郭をある程度推測することは可能である。

材質については、他の天下三肩衝と同様、中国大陸で焼かれた陶製であり、「漢作唐物」であったことは衆目の一致するところである 1 。寸法に関しては具体的な記録は見当たらないが、例えば初花肩衝が高さ8.8cmであること 4 などから、楢柴肩衝も同程度の小ぶりな器であったと推測される。

形状や釉調に関する最も重要な手がかりは、千利休の言葉を伝えるとされる『山上宗二記』の記述である。同書には、楢柴肩衝について「壺の形、尻のふくらみ具合がよい」と、全体の均整の取れたフォルムを賞賛する言葉が見られる 12 。さらに釉薬に関しては、「飴色で、ひときわ濃いのが特徴」と記されており 12 、これが名称の由来ともなった濃艶なアメ色の釉景を裏付けている。

また、博多の豪商であり茶人でもあった神屋宗湛の日記『宗湛日記』には、文禄三年(1594年)に豊臣秀保の茶会で楢柴肩衝が用いられた際の記録があり、これに基づいた近年の研究や再現品の製作過程では、釉薬が垂れた「釉垂れ」の部分ではなく、釉薬が途切れた「釉切れ」の部分を茶入の正面として用いた可能性が指摘されている 11 。これは、当時の茶人たちが道具の「景色」をどのように捉え、その個性を最大限に引き出そうとしていたかという、独特の審美眼を示唆しており興味深い。

これらの断片的な記述を繋ぎ合わせることで、楢柴肩衝の姿は、濃いアメ色の釉薬に覆われ、均整の取れた美しいフォルムを持ち、そして茶人によってその個性的な景色が巧みに引き出されていた、魅力的な茶入であったと想像される。具体的な形状に関する記録の乏しさは、かえってその「幻」としての性格を強めているが、残された僅かな記述は、当時の茶人たちが茶入のどのような点に注目し、評価していたかを知る上で非常に貴重な手がかりとなる。

伝来の変遷:歴代所有者とその時代背景

楢柴肩衝の伝来の軌跡は、室町時代後期から安土桃山時代、そして江戸時代初期に至る日本の権力構造の変遷と、茶の湯文化の隆盛を色濃く映し出している。

足利義政から織田・豊臣期へ

楢柴肩衝の出自は、室町幕府八代将軍・足利義政が収集した「東山御物(ひがしやまごもつ)」の一つであったと伝えられている 7 。東山御物とは、当代最高の美術工芸品コレクションであり、これに数えられたという事実は、楢柴肩衝が当初から極めて高い文化的価値を有していたことを示している。

義政の後は、わび茶の祖とされる村田珠光の門人であり、堺の有力町衆でもあった鳥居引拙の所持となったとされる 4 。引拙は他の名物茶入である茄子茶入を手放した後も、この楢柴肩衝を格別に愛玩したと伝えられており 12 、当時の新興勢力であった町衆が文化の担い手として登場してきた時代背景を象徴している。

その後、楢柴肩衝は博多の豪商・島井宗室の手に渡る 12 。宗室は海外貿易によって巨万の富を築き、西国大名からも一目置かれる存在であった。彼のような経済力と文化的影響力を兼ね備えた商人が、このような最高級の茶道具を所持したことは、当時の社会における商人の地位向上を物語る。さらに、宗室から九州の戦国大名・秋月種実へと伝わったとされるが 12 、この時期の茶道具は、大名間の贈答品や外交の道具としても重要な役割を果たしていた。

豊臣秀吉による蒐集と天下統一

楢柴肩衝の運命が大きく動くのは、豊臣秀吉の時代である。天正15年(1587年)、秀吉は九州征伐を断行し、これに抵抗した秋月種実は降伏を余儀なくされる。その際、種実は降伏の証として、所持していた楢柴肩衝を秀吉に献上したと記録されている 4 。これにより、既に初花肩衝と新田肩衝を所有していた秀吉のもとに、ついに天下三肩衝の全てが揃うこととなった 4

秀吉が楢柴肩衝をはじめとする名物茶道具を熱心に蒐集した行為は、「名物狩り」とも称され、単なる個人的な趣味を超えた、天下人としての権威と文化的な覇権を確立するための重要な戦略であった。これらの名物を所有し、茶会で用いることは、自らの文化的洗練度と統治者としての正統性を示す強力な手段だったのである。文禄三年(1594年)には、秀吉の甥である豊臣秀保が主催した茶会において、この楢柴肩衝が実際に用いられたことが、神屋宗湛の日記『宗湛日記』に記されており 11 、豊臣政権下でこれらの名物が実際に茶の湯の場で活用され、その文化的な価値が享受されていたことを示している。

楢柴肩衝の伝来は、茶の湯文化が武家社会に深く浸透し、名物茶道具が政治的・社会的な価値を持つに至った過程を如実に物語っている。特に秀吉が三肩衝を揃えたことは、武力による天下統一だけでなく、文化的な権威をも掌握しようとした彼の野心の現れと言えるだろう。

表2:楢柴肩衝 伝来略年表

年代(推定含む)

関連人物(所有者、言及者など)

出来事(入手経緯、茶会での使用など)

典拠となった古記録名など

室町時代後期

足利義政

東山御物として所持

伝承、『山上宗二記』 12

15世紀末~16世紀初頭

鳥居引拙

所持。茄子茶入を手放した後も愛玩

『山上宗二記』 12

16世紀中期

島井宗室

所持

『山上宗二記』 12 、講談等 13

16世紀後半

秋月種実

所持

『山上宗二記』 12

天正15年(1587年)

豊臣秀吉

九州平定の際、秋月種実より献上される。これにより天下三肩衝が秀吉のもとに揃う。

諸記録 4

文禄3年(1594年)

豊臣秀保(秀吉の甥)

茶会にて楢柴肩衝を使用。神屋宗湛が客として招かれる。

『宗湛日記』(神屋宗湛記) 11

慶長年間以降

(徳川家康・江戸幕府)

豊臣家滅亡後、徳川方の手に渡り、江戸城に保管されたと推測されるが、具体的な記録は少ない。

推測

明暦3年(1657年)

明暦の大火により江戸城が炎上。この際に焼失、または破損・紛失したとされる。

諸説あり 2

この年表は、楢柴肩衝が辿った数奇な運命を概観するものである。それぞれの時代背景と所有者の変遷を追うことで、この名器がいかに日本の歴史と深く関わっていたかが見えてくる。

第三章:古記録に見る楢柴肩衝

楢柴肩衝は現存しないため、その姿や価値を偲ぶには、往時を伝える古記録に頼るほかない。幸いにも、いくつかの重要な茶書や日記にその名が記されており、断片的ではあるが、当時の茶人たちがこの名器にどのような眼差しを向けていたかを垣間見ることができる。

『山上宗二記』における記述とその解釈

千利休の高弟であり、その茶の湯の奥義を記したとされる『山上宗二記』は、楢柴肩衝の評価を語る上で最も重要な史料の一つである。同書の「珠光一紙目録」の項には、楢柴肩衝が「初花」「新田」と共に天下の三名物茶入として明確に挙げられている 12

興味深いのは、著者である山上宗二自身は楢柴肩衝を実見していなかったと記している点である。「引拙は、茄子茶入を手放した後も、この一品をなおさら楽しんだものである。ただし、自分は見ていない。宗易(千利休)が話すのをよく聞いて記憶した」 12 。この記述は、宗二が師である利休から伝え聞いた楢柴肩衝の素晴らしさを忠実に記録したことを示している。利休の評価として、「壺の形、尻のふくらみ具合がよい」「釉薬は飴色で、ひときわ濃いのが特徴」といった具体的な特徴が伝えられている 12

さらに宗二は、楢柴肩衝を「数寄の眼目」「これぞ天下一」とまで評し、利休も同様に賞賛したであろうと推測している 12 。実物を見ることなくとも、師である利休の言葉と、当時の茶道界における高い評判によって、楢柴肩衝が最高級の名物であると認識されていたことがわかる。これは、名物の価値が物理的な美しさだけでなく、それに付随する「物語」や「評価の歴史」、そして何よりも信頼できる人物による「目利き」によっても形成されるという、当時の茶道界における情報伝達と権威構造の一端を示している。この『山上宗二記』の記述により、楢柴肩衝は利休お墨付きの名物として、後世の茶人たちからも特別な存在として認識されることになったのである。

『宗湛日記』における記述とその解釈

博多の豪商であり、当代一流の茶人でもあった神屋宗湛(かみやそうたん)が記した『宗湛日記』もまた、楢柴肩衝に関する貴重な情報を提供している。同日記には、文禄三年(1594年)十月、豊臣秀吉の甥(養子とも)である豊臣秀保が主催した茶会に宗湛が客として招かれ、その席で楢柴肩衝が用いられた際の様子が詳細に記録されている 11

この記録は、楢柴肩衝が単に蔵の中に秘蔵されるだけでなく、実際に茶会というコミュニケーションの場で機能し、その美が時の権力者や一流の茶人たちによって共有されていたことを具体的に示すものである。宗湛のような人物がその詳細を記録したこと自体が、楢柴肩衝の価値をさらに高め、後世に伝える上で重要な役割を果たしたと言える。

『宗湛日記』の記述に基づき、近年の研究では、楢柴肩衝の扱い方について興味深い考察がなされている。特に注目されるのは、茶入の正面の取り方である。一般的に釉薬が景色となって流れ落ちる「釉垂れ」を正面とすることが多いが、楢柴肩衝の場合は、釉薬が途切れた「釉切れ」の部分をあえて正面として用いた可能性が、宗湛の記録した図や記述から読み取れるという 11 。また、「コレハ右ノワキ」という記述は、茶入そのものにとっての右側を指し、見る側から向かって右側ではないと解釈されている 11 。これらの点は、単に器物の形状や釉調だけでなく、それをどのように「生かし」、その個性を最大限に引き出すかという、当時の茶人たちの能動的で洗練された美意識の現れである。このような具体的な使用記録は、抽象的な評価だけでは窺い知ることのできない、楢柴肩衝が実際にどのように賞翫され、楽しまれていたかを我々に伝えてくれる。

なお、講談などの創作物においては、島井宗室が所持していた楢柴肩衝を織田信長に見せる場面や、秋月方の恵利内蔵助によって持ち去られるといった脚色された物語も存在するが 13 、『宗湛日記』の記述は一次史料に近いものとして、その史料的価値は極めて高い。

その他の史料に見る楢柴肩衝の姿

楢柴肩衝は、明暦の大火(1657年)によってその姿を消したとされるが、その後もその名声は衰えることなく、江戸時代を通じて編纂された数々の名物記にその名が記され続けた。これは、実物が失われても、その文化的価値や歴史的重要性は失われず、むしろ伝説として語り継がれる対象となったことを意味する。

特に、江戸時代後期の代表的な大名茶人である松江藩主・松平不昧(まつだいらふまい)が編纂に関わった『雲州名物帳』や、図録集である『古今名物類聚』においては、楢柴肩衝は「大名物(おおめいぶつ)」として最高位に格付けされている 6 。大名物とは、主に千利休の時代以前から名高い品物を指す区分であり、楢柴肩衝がその筆頭に挙げられていることは、その歴史的価値と茶道史における重要性が後世においても揺るがなかったことを示している。

松平不昧のような数寄大名がこれらの名物記を作成・編纂した行為は、過去の優れた茶道具の価値を再評価し、茶道文化の伝統と正統性を確立しようとする意図があったと考えられる。その中で、楢柴肩衝は、たとえ現存せずとも、日本の茶道文化を象徴する欠くことのできない重要な存在として位置づけられたのである。

寛政三年(1791年)に須原屋市兵衛によって刊行された『古今名物類聚』全18冊には、多くの名物茶道具の図版と解説が収録されている 16 。この中に楢柴肩衝の図版やより詳細な記述が含まれているかについては、国立国会図書館デジタルコレクションなどで本文を直接確認する必要があるが 16 、現時点での調査では、楢柴肩衝に関する直接的な図版や詳細記述の有無は確認されていない。しかし、茶道に関する包括的な資料であるため、何らかの言及がある可能性は否定できない。これらの名物記に記載され続けることで、楢柴肩衝の存在は人々の記憶に刻まれ、その伝説はさらに強化されていったのである。

第四章:明暦の大火と楢柴肩衝の終焉

天下三肩衝の一つとして、また数々の歴史上の人物の手を経てきた名物として、その価値を不動のものとしていた楢柴肩衝。しかし、その栄光の歴史は、江戸時代前期に発生した未曾有の大災害によって、突如として終焉を迎えたと考えられている。

明暦の大火(1657年)の概要と江戸城の被害

明暦三年(1657年)正月十八日から二十日にかけて江戸の町を襲った大火災は、後に「明暦の大火(振袖火事とも)」と呼ばれ、江戸時代を通じて最大級の被害をもたらした災害として記録されている 18 。この火災は、本郷丸山の本妙寺から出火したとされ、強風に煽られて瞬く間に江戸市中へと燃え広がり、武家屋敷、町人地、寺社仏閣を問わず、江戸の大部分を焼き尽くした。死者は十万人を超えたとも言われ、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたいものであった。

この大火の猛威は、江戸城にも及んだ。天守閣をはじめ、本丸、二の丸、三の丸の御殿や櫓の多くが焼失し、幕府の中枢機能も一時的に麻痺するほどの深刻な被害を受けた 19 。このような混乱の中で、城内に保管されていたであろう数多くの貴重な美術品、調度品、そして茶道具などもまた、その多くが失われたと考えるのが自然である。楢柴肩衝の運命もまた、この歴史的な大火と深く結びついているとされる。

明暦の大火は、江戸という都市の構造や防災意識に大きな影響を与えただけでなく、楢柴肩衝を含む多くの貴重な文化財を灰燼に帰したという点で、日本の文化史においても計り知れない損失をもたらした事件であった。楢柴肩衝の焼失は、このような歴史的カタストロフィの一幕として捉えることができる。

楢柴肩衝の焼失に関する諸説

明暦の大火が楢柴肩衝の運命に決定的な影響を与えたという点では多くの見解が一致しているが、その具体的な顛末についてはいくつかの説が存在する。

焼失・破損説

最も一般的に受け入れられている説は、楢柴肩衝が明暦の大火の際に江戸城内で焼失、あるいは修復不可能なほどに破損してしまったというものである 2 。ある伝承的な語り口の文献では、「江戸時代の明暦の大火でオラはばらばらになっただよ」と、楢柴肩衝自身が語るかのような記述も見られる 9 。この説は、大火の規模と江戸城の被害状況を考え合わせると、最も蓋然性の高いものと言えるだろう。

持ち出し・秘匿説

一方で、焼失を免れた、あるいは破損はしたものの修復され、その後何者かによって持ち出されて秘匿されているのではないか、というロマンあふれる説も存在する。江戸時代の茶書『茶道名物考』には、楢柴肩衝は明暦の大火では破損に留まり修繕されたものの、その後紛失し、消息が一切分からなくなったと記されているという 11

さらに、「幕府お抱えの塗師がオラを直してくれて、元の形に見えるようになっただ。しかし、あるお方が幕府のお蔵からオラを持ち出していっただ。これ以降、400年近く、オラはあるところにずーっと隠れているだ」という、より具体的な持ち出し・秘匿の伝承も存在する 9 。この説は、新田肩衝が大坂城落城後に灰の中から発見・修復された例 8 や、他の名物が戦乱や火災の混乱に乗じて持ち出された例 20 があることから、楢柴肩衝も同様の運命を辿ったのではないかという期待や憶測に基づいている。

これらの諸説の存在は、楢柴肩衝という名器に対する人々の強い関心と、失われたものへの尽きない想像力を示している。「焼失」という確定的な終焉よりも、「持ち出され秘匿されている」という物語の方が、再発見への期待を抱かせ、よりドラマチックであるため、人々の間で語り継がれやすい側面があるのかもしれない。

行方不明となった経緯の考察

楢柴肩衝が最終的にどのような運命を辿ったのか、確たる証拠は存在しない。焼失説が正しいとすれば、他の多くの文化財と共に、明暦の大火の炎の中に永遠に姿を消したということになる。江戸城という、当時日本で最も厳重に管理されていたはずの場所でさえ、未曾有の大災害の前には無力であったことを物語る。

持ち出し・秘匿説が真実であるとすれば、さらに多くの謎が残る。誰が、いつ、どのような目的で、そしてどのようにして幕府の厳重な管理下にあったはずの楢柴肩衝を持ち出すことができたのか。そして、その後どこへ持ち去られ、現在に至るまで秘匿されているのか。これらは歴史の闇に包まれたままである。もし持ち出されたとしても、その行為が非公式なものであれば記録に残るはずもなく、真相の解明は極めて困難である。

いずれの説が正しいにせよ、明暦の大火以降、楢柴肩衝に関する信頼できる記録は途絶えており、「行方不明」という状態が続いている。この「記録の空白」が、様々な憶測や伝説を生む土壌となり、楢柴肩衝を単なる「失われた名器」から、「謎に包まれた幻の名器」へと昇華させる要因となったと言えるだろう。歴史の混乱の中で個々の物品の正確な顛末を記録することは困難であり、楢柴肩衝の最期に関する確実な情報が失われた結果、その伝説はさらに深みを増すことになったのである。

第五章:楢柴肩衝の文化的価値と後世への影響

楢柴肩衝は、その物理的な存在を失って久しいにもかかわらず、日本の茶道史において、また文化史において、今なお重要な意味を持ち続けている。その背景には、この名器が宿していた固有の美的価値に加え、歴史の中で育まれた多層的な文化的価値が存在する。

茶道史における「大名物」としての評価

楢柴肩衝は、江戸時代に松平不昧らによって体系化された茶道具の格付けにおいて、最高の位である「大名物」に列せられている 6 。これは、千利休の時代以前から既に名高い品物であったことを意味し、その歴史的価値の高さを示している。特に、『山上宗二記』において、利休の言葉を引く形でその素晴らしさが称揚されたこと 12 は、後世の評価を決定づける上で極めて大きな影響を与えた。

一度最高位の評価を得た名物は、たとえ現物を失ったとしても、その名声と物語が茶道史の中に深く刻まれ、後進の茶人たちの規範意識や美意識に影響を与え続ける。楢柴肩衝が「大名物」として語り継がれることは、茶道文化における「伝統」と「権威」の形成プロセスを如実に反映している。実物を見ることができなくても、その存在と価値が知識として継承され、日本の茶道文化における理想化された名物の象徴の一つとして、その地位を不動のものとしているのである。そこには、物理的な存在を超えた「名声」の力と、茶道における「格」や「由緒」を重んじる文化の特質が見て取れる。

権力者たちを魅了した背景

足利義政に始まり、織田信長(間接的にその影響下にあった)、豊臣秀吉といった時の最高権力者たちが、なぜこれほどまでに茶道具、特に楢柴肩衝のような「天下」と冠される名物を渇望したのか。その理由は、単に美術品としての希少価値や美しさだけでは説明がつかない。

戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶の湯は武士階級を中心に広く普及し、大名たちの重要な教養であり、また精神修養や社交の場としても極めて重視された 21 。茶会は、単なる遊興の場ではなく、情報交換や政治交渉、同盟関係の確認といった高度な政治的駆け引きの舞台ともなり得た。そのような場で用いられる茶道具、特に「名物」と呼ばれる逸品は、亭主の財力、審美眼、そして何よりもその権勢を示す重要な要素であった。

楢柴肩衝のような最高級の名物を所有し、それを茶会で披露することは、自らが文化の頂点に立つ者であることを内外に宣言するに等しかった。それは、武力による支配を補完し、時にはそれ以上に効果的な、文化的な権威の象徴となったのである。したがって、これらの名物を手に入れることは、領土を拡大することと同様に、権力者にとって自らの地位を確立し、維持するための重要な目標の一つであった。彼らが楢柴肩衝に求めたものは、物質的な価値を超えた、所有することによる精神的な充足感、そして自らの統治者としての正統性を補強する文化資本であったと言えるだろう。茶の湯は、武力だけでなく文化によっても人を従わせる「ソフトパワー」の源泉でもあったのである。

失われた名器への追憶と再現の試み

楢柴肩衝が現存しないという事実は、逆にその存在を人々の記憶に強く刻み込み、その姿を想像し、語り継ぐという文化的な営為を生み出してきた。「幻」であることの魅力は、それを何とかして具現化したいという人間の創造力を刺激する。

近年では、映画制作における美術協力の一環として、専門の茶道具商が古書文献を徹底的に調査し、楢柴肩衝の再現品を製作した事例も報告されている 11 。このような再現の試みは、単なる模倣ではなく、失われた文化遺産に対する深い敬意と、その美を現代に蘇らせたいという熱意の表れである。それはまた、過去の文化と対話し、その精神性を現代に継承しようとする積極的な文化的営為とも言える。

この再現プロセスは、古記録の再解釈や、時には新たな知見の発見につながる可能性も秘めている。そして、再現された楢柴肩衝は、たとえオリジナルそのものではなくとも、失われた名器の記憶を可視化し、その物語を現代の我々に伝える貴重な媒体となる。それは、失われたものへのノスタルジアだけでなく、歴史的知識と想像力を駆使して「幻」に形を与えようとする人間の創造性の発露であり、楢柴肩衝の伝説が今なお生き続けている証左と言えるだろう。

終章:語り継がれる「楢柴肩衝」の伝説

本報告の総括

本報告では、天下三肩衝の一つ、「楢柴肩衝」について、その名称の由来、推定される形状と特徴、足利義政から豊臣秀吉、そして江戸幕府へと至る伝来の軌跡、さらには明暦の大火による焼失・行方不明という悲劇的な終焉に至るまでの経緯を、現存する古記録や諸説に基づいて詳細に検討してきた。

楢柴肩衝は、その濃艶なアメ色の釉景と均整の取れた姿、そして『万葉集』に由来する風雅な名称によって、他の二つの天下肩衝(初花、新田)と並び称される卓越した価値を有していた。それは単なる茶道具ではなく、室町幕府の権威を象徴する東山御物として出発し、戦国の動乱期には堺や博多の豪商、そして有力大名の手を経て、最終的には天下人・豊臣秀吉のコレクションに加えられた。この伝来の過程は、そのまま日本の権力構造の変遷と茶の湯文化の興隆を物語っている。

しかし、その栄光も明暦の大火という未曾有の災害によって終止符が打たれたとされ、以後、その確かな行方は歴史の闇に閉ざされた。この「失われた」という事実が、楢柴肩衝に一層の神秘性と伝説性を付与し、後世の人々の探求心を掻き立て続けている。

楢柴肩衝が現代に問いかけるもの

一つの茶入が、なぜこれほどまでに長きにわたり人々を魅了し、歴史にその名を深く刻み込むことができたのか。楢柴肩衝の物語は、現代の我々に対しても多くの問いを投げかけている。それは、物質的な価値を超えた文化財の持つ意味とは何か、そして失われた文化遺産を我々はどのように記憶し、次代へと継承していくべきか、という根源的な問いである。

楢柴肩衝の存在は、それが物理的に失われた後も、茶道史における「大名物」としての評価を揺るがせることなく、むしろその伝説性を高めてきた。これは、文化財の価値がその物理的存在だけに依存するのではなく、それを取り巻く人々の記憶、解釈、そして語り継ぐ行為によって絶えず再生産され、強化されていくことを示している。たとえ実物が失われても、その「名」と「物語」が生き続ける限り、文化遺産は不滅であり得るという、一つの証左と言えるかもしれない。

楢柴肩衝の物語は、日本の美意識の深淵、歴史のダイナミズム、そして人間の創造力や記憶のあり方について、我々に多くの示唆を与えてくれる。その「幻」の姿は、今後も新たな解釈や創作を生み出しながら、時代を超えて語り継がれていくことであろう。そして、その追憶と探求の過程自体が、我々の文化を豊かにしていく営みとなるに違いない。

引用文献

  1. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E6%9F%B4%E8%82%A9%E8%A1%9D#:~:text=%E6%A5%A2%E6%9F%B4%E8%82%A9%E8%A1%9D%EF%BC%88%E3%81%AA%E3%82%89,%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
  2. 天下三肩衝 | 茶の湯こぼれ噺 https://ameblo.jp/hyoutei-e/entry-12886626290.html
  3. 茶入とは|形状の種類と名称、歴史について解説 https://touji-gvm.com/pottery-teacontainer/
  4. 初花 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%8A%B1
  5. 【道具】天下三肩衝 唐物茶入大名物『初花』写 渡辺伸治作 https://ameblo.jp/darkpent/entry-12328324466.html
  6. 名物・中興名物・大名物と呼ばれる茶器とは? - いわの美術株式会社 https://iwano.biz/column/cha-dougu/tea_knowledge/tea_4.html
  7. 茶道具 翔雲堂 岡本 茶入とは http://shoundo.jpn.com/tool/chaire.html
  8. [ID:21] 大名物 漢作肩衝茶入 銘 新田 : 資料情報 | 収蔵品データベース | 公益財団法人 徳川ミュージアム http://jmapps.ne.jp/tokugawa/det.html?data_id=21
  9. 傷だらけの人生・天下三肩衝茶入/楢柴・初花・新田 - 骨董品・美術品買取こたろう https://kotto-kotaro.com/news/detail/katatsukicyaire/
  10. 天下三肩衝のひとつ「新田肩衝」 ~水戸徳川家名宝茶道具展~① | 徳川ミュージアムのブログ https://ameblo.jp/tokugawamuseum/entry-11507136930.html
  11. 楢柴肩衝茶入 of 茶の湯 墨東清友館 茶道具専門店(有)菊池商店 https://www.sadogu.co.jp/sadouguhanbai/ProductList/tyaire/narasibatyaire.html
  12. 『山上宗二記』の真実 第十回 新田・初花・楢柴 :掲示板:寺子屋 ... https://www.beach.jp/circleboard/ad25106/topic/1100103616603
  13. 『楢柴茶入』あらすじ - 講談るうむ http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/05-12_narasibatyaire.htm
  14. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  15. 茶入/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96847/
  16. 古今名物類聚 | NDLサーチ | 国立国会図書館 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010975778
  17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2607844
  18. 明暦の大火 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
  19. 明暦の大火 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/meirekitaika/
  20. 第2話 東長寺の千字文 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330666137766669/episodes/16818093081895791711
  21. なぜ、武士に茶の湯が? http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/social0_26.pdf