「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」とは、日本の茶道史において特に名高い三つの肩衝茶入(かたつきちゃいれ)、「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」「初花肩衝(はつはなかたつき)」、そして本報告書の主題である「新田肩衝(にったかたつき)」を指す尊称である 1 。これらはすべて中国大陸で製作された舶来の茶入、いわゆる唐物(からもの)であり、室町時代から安土桃山時代にかけて、その卓越した美術的価値と希少性から至高の茶道具「大名物(おおめいぶつ)」として珍重された 4 。
「肩衝」とは、茶入の器形の一種で、胴の上部、すなわち肩の部分が角張っている、あるいは水平に強く張り出している形状を特徴とする 3 。その力強く堂々とした姿は、特に武士階級の気風に合致し、彼らに好まれたと伝えられる 7 。戦国乱世の武将たちにとって、これらの名物茶入を所有することは、単に茶の湯の道具を手に入れる以上の意味を持ち、自身の権威と文化的洗練を示す象徴であった。事実、「天下三肩衝」のすべてを揃えることは「天下を取るより難しい」とまで形容された 3 。この言葉は、これらの茶入が如何に得難く、また、その所有が如何に大きな意味を持っていたかを端的に物語っている。
「天下三肩衝」という呼称がいつ頃から定着したか、その正確な起源を特定することは困難であるが、茶の湯の世界に大きな影響力を持った人物の言及が、その評価を不動のものとしたと考えられる。千利休の高弟であった山上宗二(やまのうえそうじ)は、その著書『山上宗二記』(天正16年、1588年奥書)において、「初花」「(楢)柴」「新田」の三つの肩衝を「天下に三名物ノ一」として特筆している 9 。当時の茶道界における利休及びその門流の権威を鑑みれば、この記述が後世の「天下三肩衝」という評価の確立に決定的な影響を与えたことは想像に難くない。これは、茶道具の価値評価において、単に器物自体の希少性や美術的完成度のみならず、それを誰がどのように評価し、語り伝えたかという人的要素、すなわち茶の湯の伝統と権威が深く関わっていたことを示唆している。
室町時代後期において、茶道具の中で最も重視されたのは茶壺であったが、時代が下り江戸時代初期になると、茶入がその地位に取って代わり、「御道具」と言えば茶入を指すほどになった 11 。このような茶道具の価値観の変遷の中で、肩衝茶入、とりわけ「天下三肩衝」と称された三名物は、その頂点に輝く存在として、歴史にその名を刻むこととなったのである。
本報告書で詳述する新田肩衝は、この「天下三肩衝」の一角を占める大名物として、初花肩衝、楢柴肩衝と並び称されてきた 1 。その伝来は、わび茶の祖と仰がれる村田珠光(むらたじゅこう)に始まるとされ、その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、日本の歴史を動かした三人の天下人の手を経て、最終的には水戸徳川家に秘蔵されるに至った 12 。この華麗にして劇的な伝来は、新田肩衝が単なる美術工芸品に留まらず、激動の時代を生き抜き、歴史の転換点に立ち会ってきた稀有な証人であることを物語っている。
本報告書は、この新田肩衝に焦点を当て、その名称の由来から、製作された時代や作者に関する考察、美術品としての形状や材質、釉薬の特色、そして数奇な歴史的変遷とそれにまつわる逸話、さらには文化史的価値に至るまで、多角的な視点から詳細かつ徹底的に調査・分析を行うものである。また、「天下三肩衝」と総称される他の二つの名物、初花肩衝および楢柴肩衝との比較検討を通じて、新田肩衝が持つ独自の個性と意義をより鮮明に浮き彫りにし、日本の茶道文化ならびに美術史において果たしてきた役割とその重要性を明らかにすることを目的とする。
新田肩衝の名称が何を根拠として付けられたのかについては、いくつかの説が存在するものの、未だ決定的な定説を見るには至っていない。
有力な説の一つとして、歴史家である桑田忠親氏が提唱した「新田義貞所持説」が挙げられる 14 。これは、南北朝時代の悲劇の英雄として名高い新田義貞が、かつてこの茶入を所持していたことに由来するというものである。戦国武将たちが茶の湯を嗜む上で、歴史上の著名な武将、特に義貞のような勇名を馳せた人物との所縁を求める心理は理解できる。そのような物語性は、茶入の価値を一層高める効果があったであろう。しかしながら、この説を裏付ける具体的な史料的根拠は乏しく、疑問視する見解も存在する 10 。
もう一つの主要な説は「新田某所持説」である。これは、徳川ミュージアムの解説にも見られるように、「はじめ新田某が所持していたことからその名が付いた」とするもので 13 、この茶入を納める木箱である挽家(ひきや)の蓋に「にった」という墨書が残されていることが、その根拠の一つとして挙げられている 10 。この「新田某」が具体的にどのような人物であったのかは、残念ながら今日まで明らかになっていない 10 。
さらに、江戸時代の文献には異なった表記も見られる。『万宝全書』には「仁田肩衝」あるいは「仁田、新田共有」との記述があり、『真書き太閤記』では「しんでんと読む」とされている 10 。これらの記述は、名称の表記や読み方にもある程度の揺れがあったことを示唆している。
いずれにせよ、わび茶の祖である村田珠光以前の所持者や、銘の正確な由来については、確たる史料が不足しており、依然として不明な点が多い 14 。新田肩衝の名称由来に関するこれらの諸説の存在は、この茶入が長い年月を経て多くの人々の手を渡り歩く中で、様々な物語や解釈が付与されていった過程を映し出していると言えよう。特に「新田義貞所持説」のような英雄譚は、茶入の権威を高める意図があった可能性も否定できない。一方で、「新田某所持説」は、挽家の蓋の記述という具体的な物証に基づいているものの、その人物が特定できないという点が、この茶入の神秘性を一層深めている。
新田肩衝は、中国の南宋時代(1127年~1279年)または元時代(1271年~1368年)に製作されたものと推定されている 14 。この推定は、同時代に製作された他の唐物茶入の様式的特徴や、当時の日本と中国間の陶磁器貿易の状況などを総合的に勘案した結果と考えられる。
しかしながら、具体的な作者名や製作された窯については特定されていない。当時、日本に舶載された唐物茶入の多くは、元来中国では薬や香辛料、油などを入れるための小壺として日常的に用いられていたものが、日本に渡ってから茶の湯の道具としてその美を見出され、転用されたものであることが多い 4 。そのため、美術品として個別の作者名が記録として残されているケースは極めて稀である。
近年の研究においては、従来の鑑定眼や伝承に基づく分類に対して、より科学的なアプローチからの再検討が試みられている。『大正名器鑑』などの権威ある図録で踏襲されてきた窯分け(産地の同定)についても、必ずしも十分な科学的根拠に基づいているとは言えず、近年の考古学的発掘調査の成果などを反映した修正が迫られているとの指摘もある 16 。このことは、新田肩衝を含む唐物茶入の製作地や正確な年代の特定については、なお多くの研究の余地が残されていることを示唆している。新田肩衝の製作年代や作者が不詳であることは、唐物茶入の一般的な特性であり、むしろその来歴や日本における受容の歴史こそが、その価値を形成する上でより重要な要素であったことを物語っている。今後の考古学的研究や理化学的な分析の進展により、従来の鑑定眼に基づく分類が見直され、新たな知見が得られる可能性も秘めている。
新田肩衝は、その姿形、材質、そして釉薬の調子(景色)において、数ある茶入の中でも特筆すべき特徴を有している。
寸法・重量: 複数の資料により若干の差異は見られるものの、おおよそ高さ8.5cmから8.6cm、口径約4.5cm、胴径約7.7cmから7.9cm、底径約4.5cmから4.6cm、重量は約116gから120gと記録されている 10 。
形状: その姿は、「しっかりと肩が張った典型的な漢作肩衝の姿」 13 と評される一方で、「初花肩衝に比べ胴が張っているため全体に丸みを帯びており、撫肩(なでがた)である」 14 、「少し肩に丸みが見られる」 17 との記述もある。また、『山上宗二記』を参照した解説では「口造りが高く、胴の膨らみが初花肩衝や北野肩衝よりもやや大きく、撫肩」と、より具体的に他の名物との比較がなされている 10 。これらの記述を総合すると、新田肩衝は、肩衝本然の力強さを備えつつも、撫肩や胴の張りに見られるような柔らかさや丸みを併せ持つ、均整の取れた造形美を有していると解釈できる。
材質: 陶製である 6 。
釉薬・景色: 新田肩衝の釉薬の色調は、その複雑な来歴を反映して、一言で表現するのが難しい深みを持っている。徳川ミュージアムの解説によれば、「灰色を帯びた紫褐色の釉が特徴的」とされている 13 。しかし、ある資料では、当初は海松(みる:暗緑色)の釉薬が施されていたが、後述する大坂の陣での被災によって変化し、今日見られるような光沢のある黒褐色の姿になったと記されている 14 。この劇的な変化が、現在の「灰色を帯びた紫褐色」という複雑な色調評価に繋がっている可能性は高い。また、修復後の状態として「総体に光沢のある釉色に見える」との記述もあり、これは元の釉質との調和を考慮して巧みに復元された結果であろう 10 。器の底部、釉薬が掛かっていない土見せの部分は黒ずんでおり、これが釉薬の黒と相まって、格調高い雰囲気を醸し出しているとされる 17 。底には、轆轤(ろくろ)から切り離す際にできる糸切(いときり)の跡が明瞭に残されている 10 。
大坂の陣での被災と修復の影響: 新田肩衝の美術的特徴を語る上で欠かせないのが、慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣における被災と、その後の修復の経緯である。大坂城落城の際、城内の戦火によって新田肩衝は破損した 9 。しかし、徳川家康の命を受けた塗師(ぬし)の藤元(藤重藤元とも)と藤巌の親子が、焼け跡の灰燼の中からその破片を丹念に探し出し、見事に元の姿に修復したと伝えられている 9 。この被災と修復は、新田肩衝の釉薬の色調に大きな影響を与えたと考えられ、当初の海松色から黒褐色への変化は、この歴史的事件の痕跡と言える。修復は漆を用いた継ぎ(漆継ぎ)で行われたと推測され 9 、その高度な技術もまた、この茶入の価値を高める一因となっている。新田肩衝の現在の美術的特徴、特にその複雑な釉薬の色合いは、製作当初の姿と、大坂の陣という歴史的カタストロフィ、そしてそれを乗り越えた修復という、幾重もの時間が堆積した結果形成されたものである。この「傷跡」と「修復の痕跡」こそが、他の名物には見られない新田肩衝独自の物語性と、深い美術的価値を付与していると言えよう。それは単なる物理的な変化に留まらず、茶入に「死と再生」の物語を刻み込み、戦国の世の無常と、それを乗り越えて文化を継承しようとする人間の強い意志を象徴しているかのようである。したがって、新田肩衝の「景色」を鑑賞する際には、この歴史的背景を理解することが不可欠であり、釉薬の複雑な色調や質感は、その数奇な来歴を雄弁に物語る「歴史の証言」として捉えることができるのである。
表1:新田肩衝の基本情報
項目 |
詳細 |
名称 |
新田肩衝(にったかたつき) |
分類 |
大名物、漢作肩衝茶入 |
製作年代(推定) |
中国 南宋~元時代(12世紀末~14世紀前半頃) |
材質 |
陶製 |
寸法(代表値) |
高さ 約8.5cm、口径 約4.5cm、胴径 約7.7-7.9cm、底径 約4.5-4.6cm |
重量(代表値) |
約116-120g |
釉薬(現状) |
灰色を帯びた紫褐色、光沢のある黒褐色(大坂の陣で被災後) |
特徴 |
撫肩で胴が張る、底は糸切 |
付属品 |
仕覆(茶地剣先梅鉢緞子、段織緞子など 10 )、象牙蓋、挽家 |
現所蔵 |
徳川ミュージアム 1 |
文化財指定 |
重要美術品 1 |
この表は、新田肩衝に関する客観的な基本情報を一覧で示すものであり、読者の理解を助けることを意図している。特に寸法、材質、文化財指定といった基礎データは、この茶入の美術品としての位置づけを明確にする上で重要である。これらの情報は、続く歴史的・文化的考察の確固たる土台を提供するものである。
新田肩衝が辿った道程は、日本の歴史における激動の時代と深く結びついている。その所有者は、茶道の黎明期を彩った人物から、戦国乱世を駆け抜けた武将、そして天下統一を成し遂げた覇者たちへと、時代を象徴する顔ぶれが連なる。
新田肩衝の華麗なる伝来の歴史は、わび茶の祖と称される村田珠光(1423年~1502年)が所持していたことに始まると伝えられている 12 。珠光は、それまでの華美な茶の湯に対し、簡素な道具を用い、精神性を重んじる新たな茶風を打ち立てた人物であり、彼が愛用したとされる道具は、後世の茶人たちにとって特別な意味を持つことになった。新田肩衝が珠光の手元にあったという伝承は、この茶入が単なる舶来の美術品としてではなく、わび茶草創期からその精神性に関わる重要な道具として認識されていた可能性を示唆している。珠光の名と結びつくことによって、新田肩衝の格は飛躍的に高まったと言えよう。珠光が所持したとされる他の名物茶入には、「投頭巾肩衝(なげずきんかたつき)」(焼失)や「珠光文琳(じゅこうぶんりん)」(現存)などがある 22 。
珠光の後、新田肩衝は戦国時代の武将であり、茶人としてもその名を知られた三好宗三(みよしそうさん、三好政長とも、?~1549年)の手に渡った 12 。三好氏は当時、畿内において強大な勢力を誇った一族であり、その当主たちは高い文化的素養も備えていた。
そして、時代は大きく動き、天下統一の野望に燃える織田信長(1534年~1582年)が、この新田肩衝を自身のコレクションに加えることとなる 12 。信長は、武力による天下布武を進める一方で、茶の湯を政治的に利用し、各地の名物茶器を積極的に収集した(いわゆる「名物狩り」 5 )。これらの名物は、服従した大名から献上させたり、功績のあった家臣への恩賞として与えられたりするなど、信長の権威を象徴する道具として重要な役割を果たした。新田肩衝もまた、信長がその価値を認め、入手した数ある名物の一つであった。信長は同じく天下三肩衝の一つである「初花肩衝」も所持しており、これにより天下三肩衝のうち二つをその手に収めていたことになる 23 。信長による新田肩衝の所有は、茶道具が単なる趣味の品を超え、戦国武将の権力闘争や外交戦略において重要な意味を持つ「戦略物資」としての側面を帯びていたことを明確に示している。名物を集めるという行為は、文化的な覇権を握るという意味合いも色濃く含んでいたのである。
天正10年(1582年)、本能寺の変によって織田信長が非業の死を遂げると、新田肩衝の運命もまた新たな局面を迎える。この名物は、九州の豊後国(現在の大分県)を拠点とした戦国大名であり、熱心なキリシタン大名としても知られる大友宗麟(おおともそうりん、1530年~1587年)の手に渡った 12 。宗麟は、武将としての側面だけでなく、文化人としても高い名声を持ち、多くの茶器を収集していたことが知られている 24 。
その後、天正13年(1585年)あるいは翌14年(1586年)に、大友宗麟は、信長の後継者として天下統一を目前にしていた豊臣秀吉(1537年~1598年)に、この新田肩衝を献上した 13 。当時、九州では島津氏の勢力が拡大し、大友氏はその侵攻に苦しんでいた。この献上は、宗麟が秀吉に対して救援を求め、その誠意を示すための重要な外交手段であったと考えられる。秀吉は、新田肩衝を「似茄子(にたなす)」という別の名物茶入と共に、代金百貫で譲り受けたとされる記録もある 13 。
秀吉は、この新田肩衝を非常に珍重し、自身の権勢を天下に示す壮大な茶会であった天正15年(1587年)の北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)をはじめ、数々の重要な茶会でこれを用いたと伝えられている 12 。新田肩衝の所有者の変遷は、戦国時代の権力構造のダイナミックな変化と密接に連動している。大友宗麟から豊臣秀吉への献上は、地方の有力大名が中央の覇者に対して臣従の意を示す際の象徴的な行為であり、名物茶入が外交交渉の場において重要な役割を果たしたことを物語っている。秀吉がこの新田肩衝を、自身の一大政治イベントとも言える北野大茶湯で使用したことは、自身の絶対的な権威と文化的な洗練を天下に誇示する明確な意図があったと言えよう。
秀吉は、新田肩衝に加えて「初花肩衝」と「楢柴肩衝」も入手し、これにより「天下三肩衝」すべてを揃えた歴史上唯一の人物となった 7 。
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に没すると、日本の政治情勢は再び大きく揺れ動く。新田肩衝は、秀吉の遺品としてか、あるいは関ヶ原の戦い(1600年)を経て、徳川家康(1543年~1616年)の所有するところとなった 12 。
そして、この名物茶入の歴史において最も劇的な出来事の一つが、慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣である。豊臣氏が滅亡し、大坂城が炎上した際、城内にあった新田肩衝もまた戦火に見舞われ、無残にも破損してしまった 9 。
しかし、新田肩衝の物語はここで終わりではなかった。徳川家康は、この名物の消失を惜しみ、当代随一の塗師であった藤元(藤重藤元)・藤巌の親子に命じ、焼け落ちた大坂城の灰燼の中から、新田肩衝の破片を探し出させたのである 9 。この捜索と修復作業は困難を極めたと想像されるが、藤重親子は卓越した技術をもってこれに応え、バラバラになった破片を丹念に繋ぎ合わせ、見事に元の形に近い状態に復元したと伝えられている。
大坂の陣での被災と、家康によるその修復命令は、新田肩衝の歴史において極めて重要な転換点を印す。この出来事は、豊臣氏の滅亡と徳川氏による新たな時代の到来を象徴すると同時に、家康が武力によって天下を制圧するだけでなく、前代の文化的な遺産をも継承し、それを再興する強い意志を持っていたことを示していると解釈できる。藤重親子の高度な修復技術もまた特筆すべきであり、当時の日本の工芸技術の水準の高さを今に伝えている。この被災と修復の物語は、新田肩衝に「不死鳥」のような特別な物語性を付与し、その価値を一層高めることになった。物理的な傷跡は、単なる損傷ではなく、激動の歴史を生き抜いた証として、この茶入に深い陰影を与えているのである。
見事に修復された新田肩衝は、その後、徳川家康からその十一男であり、徳川御三家の一つである水戸徳川家の初代藩主となる徳川頼房(とくがわよりふさ、1603年~1661年)に下賜された 12 。この下賜は、家康が水戸家に対して特別な配慮を示したものであり、また、天下の名宝を御三家に伝えることで、徳川政権の文化的権威を確立しようとする意図があったとも考えられる。
以後、新田肩衝は水戸徳川家に家宝として代々受け継がれ、大切に保管されてきた。数々の戦乱や所有者の変遷という波乱の歴史を経てきたこの名物茶入は、水戸徳川家という安定した環境の下で、ようやく安住の地を得たと言えるだろう。
そして現代、新田肩衝は、水戸徳川家に伝来した数多くの什宝を収蔵・展示する徳川ミュージアム(茨城県水戸市)の所蔵品として、大切に保管され、時折その姿を一般に公開されている 1 。新田肩衝が水戸徳川家に下賜されたことは、この茶入が徳川政権内においても特別な価値を持つ品として認識されていたことを明確に示している。御三家の一つである水戸家に伝来したことにより、その権威はさらに確固たるものとなり、後世にその価値を伝え続けるための安定した基盤が築かれたのである。
表2:新田肩衝の歴代主要所有者と関連年表
時代(推定) |
所有者 |
関連する出来事・逸話 |
室町時代中期 |
村田珠光 |
わび茶の祖による所持 |
戦国時代前期 |
三好宗三(政長) |
戦国武将・茶人による所持 |
戦国時代中期 |
織田信長 |
名物狩りの一環として入手 |
天正10年(1582)頃 |
(本能寺の変後)大友宗麟 |
九州の雄が入手 |
天正13/14年 |
豊臣秀吉 |
宗麟より献上(または購入)、北野大茶湯などで使用 |
慶長年間 |
徳川家康 |
秀吉死後に入手 |
慶長20年(1615) |
(大坂夏の陣) |
大坂城にて被災・破損 |
元和年間 |
徳川家康 |
藤重親子に修復させる |
寛永年間以降 |
徳川頼房(水戸藩祖) |
家康より下賜、以後水戸徳川家伝来 |
現代 |
徳川ミュージアム |
所蔵・展示 |
この年表は、新田肩衝が辿った複雑な歴史的経路を時系列で整理し、各時代の権力者との関わりを明確にすることで、その価値がどのように形成され、維持されてきたかを視覚的に理解させることを目的としている。新田肩衝の価値は、その物自体の美しさだけでなく、誰の手を経てきたかという「伝来」の歴史に大きく依存しており、歴代の所有者はいずれも日本の歴史や茶道史において重要な位置を占める人物ばかりである。これらの所有者の変遷を、本能寺の変、北野大茶湯、大坂の陣といった主要な歴史的出来事と結びつけることで、新田肩衝が歴史のダイナミズムの中でいかに重要な役割を演じてきたかがより鮮明になるであろう。
新田肩衝は、その数奇な伝来のみならず、茶道史における意義、美術品としての評価、そしてそれにまつわる豊かな逸話によって、多層的な文化的価値を形成している。
新田肩衝の茶道史における重要性を語る上で欠かせないのが、千利休(1522年~1591年)とその高弟・山上宗二(1544年~1590年)による高い評価である。千利休は、新田肩衝を「天下一の肩衝茶入」と賞賛したと伝えられている 13 。利休は、わび茶を大成させ、その後の茶の湯のあり方に決定的な影響を与えた人物であり、彼の言葉は茶道具の価値を定める上で絶対的な権威を持っていた。
さらに、山上宗二は、その著書『山上宗二記』の中で、新田肩衝を「初花肩衝」「(楢)柴肩衝」と共に「天下に三名物ノ一」と明確に位置づけ、かつ「此壺肩衝ノ天下一ナリ」と、師である利休と同様の最高の賛辞を贈っている 10 。利休や宗二といった茶道の中心的人物によるこのような高い評価は、新田肩衝が単に美しい美術品であるに留まらず、茶の湯の精神性や美意識を体現する「道具」として、当時の最高位に位置づけられていたことを明確に示している。この評価こそが、戦国の武将たちがこの茶入をこぞって求めた背景にある、文化的な権威の源泉であったと言えよう。彼らの評価は、単に形状や釉薬の美しさだけでなく、茶事における道具の扱いやすさや、道具そのものが持つ「気品」や「格」といった、より総合的な判断に基づいていたと考えられる。
「大名物」という格付けは、数ある茶道具の中でも特に優れたものに与えられる最高の称号であり、新田肩衝はこの大名物の一つとして広く認識されていた 10 。戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶道具は単なる器物を超え、大名間の贈答品や、自身のステータスを誇示するための象徴として、時には一国一城にも匹敵するほどの価値を持つに至った 4 。新田肩衝は、まさにそのような時代を象徴する名宝であった。
新田肩衝は、その際立った歴史的価値と優れた美術的価値が公に認められ、国の重要美術品に認定されている 1 。この認定は、日本の文化財保護法制の下で、この茶入が国民的財産として保護されるべき価値を有することを示すものである。
美術品としての具体的な特質については、第一部1.3で詳述した通り、均整の取れた撫肩の造形と、大坂の陣での被災およびその後の修復を経たことによって生まれた独特の釉景(景色)が挙げられる。特に、火災による釉薬の変化と、それを繋ぎ合わせた修復の痕跡は、他の名物茶入には見られない、新田肩衝特有の歴史性を物語る景色として高く評価される。この「時間の痕跡」は、日本の伝統的な美意識において、「わび・さび」や「もののあはれ」といった概念とも通底するものであり、単に新品の完全な美しさとは異なる、深い味わいと物語性を器物に与えている。したがって、新田肩衝の美術的価値は、製作当初の完成度に加え、その後の数奇な歴史的経緯によって付加された「時間性」や「物語性」によって、より一層深められていると言える。重要美術品としての指定は、このような多層的な価値を公的に認めたものと理解すべきであろう。
新田肩衝には、その価値をさらに高める数々の興味深い逸話や伝承が付随している。これらの物語は、この茶入が単なる物質的な存在を超え、人々の記憶や想像力を刺激し、文化的な意味合いを深めてきたことを示している。
最も有名な逸話は、やはり大坂夏の陣での出来事であろう。戦火によって一度は失われたかと思われた新田肩衝を、徳川家康の強い意志と、塗師・藤重親子の卓越した技術によって灰燼の中から探し出し、見事に修復したという物語である 9 。この逸話は、家康の文化財に対する深い関心と、藤重親子の驚くべき技量の高さ、そして何よりも新田肩衝が持つ「奇跡的」とも言える強運を鮮やかに描き出している。
また、豊臣秀吉が主催した壮大な茶の祭典である北野大茶湯において、新田肩衝が用いられたという伝承も広く知られている 12 。この事実は、新田肩衝が当時の茶の湯文化の頂点を飾るにふさわしい最高級の名器であったことを雄弁に物語っている。
さらに、第一部1.1で触れたように、その名称の由来に関する新田義貞所持説や新田某所持説といった諸説の存在自体が、この茶入にまつわる豊かな物語性を形成している 10 。これらの逸話や伝承は、新田肩衝を単なる「古い壺」としてではなく、歴史と物語を幾重にも纏った「生きている遺産」として捉えさせる力を持ち、後世の人々の関心を惹きつけ、その価値を語り継いでいく上で不可欠な要素となっているのである。
新田肩衝の特質と意義をより深く理解するためには、「天下三肩衝」と総称される他の二つの名物、すなわち「初花肩衝」と「楢柴肩衝」との比較検討が不可欠である。これら三つの茶入は、いずれも中国大陸で製作された舶来品であり、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて最高の評価を得た肩衝茶入であるが、それぞれに異なる個性と物語を有している。
概要: 初花肩衝は、しばしば天下三肩衝の筆頭に挙げられる名品である 11 。中国の南宋時代または元時代に製作されたと推定され 15 、一説には、かの楊貴妃が油壺として用いたという華やかな伝説も伝えられている 5 。「初花」という優美な銘は、室町幕府の第八代将軍・足利義政が、その気品ある姿形を、春に先駆けて咲く初花(その年最初に咲く花、あるいは桜の初花)に譬えて名付けたとされる 5 。
伝来: 初花肩衝の伝来もまた、歴史上の著名な人物たちの手を経ている。堺の豪商で茶人としても知られた鳥居引拙(とりいいんせつ)、京都の豪商・疋田宗観(ひきたそうかん、大文字屋栄甫とも)を経て、織田信長の所有となる。信長はこれを嫡男・信忠に下賜したが、本能寺の変で信忠が討死した後、徳川家康の部将であった松平念誓(まつだいらねんせい)がこれを入手し、家康に献上した。その後、家康は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの戦勝祝いとして、この初花肩衝を豊臣秀吉に贈った 5 。秀吉はこの名物をこよなく愛し、北野大茶湯など重要な茶会で使用したと記録されている。秀吉の死後は、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の手を経て再び家康の所有となり、最終的には徳川将軍家に伝来した 5 。現在は、公益財団法人徳川記念財団が所蔵し、国の重要文化財に指定されている 5 。
特徴: 初花肩衝は、唐物肩衝の理想的な姿を体現していると高く評価され、大振りで、口縁部(甑:こしき)が高いのが特徴である 11 。強く張った肩から胴にかけては垂直に落ち、胴紐を過ぎると腰部がやや窄まるという、均整の取れた優美な姿をしている。器表は薄茶色の地に、正面(置形:おきがた)には黒みがかった褐色の釉薬が肩から腰へと三筋に流れ落ち、美しい景色をなしている 11 。その姿は優美で女性的とも評されることがある 30 。高さは約8.8cmと記録されている 6 。
新田肩衝との比較:
初花肩衝と新田肩衝は、共に天下三肩衝に数えられる名品であり、製作年代や基本的な器形(肩衝)は共通するが、細部の造形や伝来、そして今日の評価においてはそれぞれ異なる個性を見出すことができる。
これらの比較から、初花肩衝が一種の「古典的完成美」を体現する名品として評価されるのに対し、新田肩衝は、その製作当初の美しさに加え、被災と修復という歴史の痕跡そのものが景色となり、より深い物語性を纏った美を持つと言えるだろう。両者は共に天下人の手を経た最高級の茶入であるが、その美の質や歴史の中で付与された物語には、それぞれ際立った個性がある。
概要: 楢柴肩衝もまた、天下三肩衝の一つとしてその名を轟かせた名物茶入である。その銘は、器表を覆う濃い飴色の釉薬の「濃い」を「恋」にかけ、『万葉集』に収められた恋の歌「御狩する 狩場の小野の 楢柴の 汝はまさで 恋ぞまされる」(あなたが茂っている以上に、私の恋心は募るばかりだ)に因んで名付けられたとされている 7 。千利休の高弟であった山上宗二は、この楢柴肩衝を「天下一品の壷」と絶賛したと伝えられる 7 。
伝来: 楢柴肩衝の伝来もまた華やかである。元は足利義政の所有であったとされ 7 、その後、所有者を転々とし、博多の豪商であり茶人でもあった島井宗室(しまいそうしつ)の手に渡る 7 。織田信長もこの名物を欲したが、本能寺の変により入手には至らなかった。その後、筑前の戦国大名・秋月種実(あきづきたねざね)が、宗室から半ば強引な形でこの楢柴肩衝を手に入れた 3 。そして、豊臣秀吉による九州征伐の際、秋月種実は降伏の証として、この楢柴肩衝を秀吉に献上した。これにより、秀吉は天下三肩衝のすべてをその手に収めることとなった 7 。秀吉の臨終に際しては、徳川家康に授けられたとされている 7 。
特徴: 楢柴肩衝の最大の特徴は、その名の由来ともなった濃い飴色の釉薬である 7 。博多の豪商で茶人でもあった神屋宗湛(かみやそうたん)が記した茶会記『宗湛日記』には、この楢柴肩衝の形状に関する詳細な記述が残されている。それによると、「口付ノ筋二ツ、腰サカツテ帯一、肩丸クナテ候。筋ノアタリニ茶色ノ薬アリ。土青メニ細ク、薬ハツレハ四一五分、底糸切也。ソノ切目ウシロノハタニカル」とあり、肩は丸みを帯び、腰が下がって胴に一本の帯(おそらく釉薬の切れ目か段差)があり、口縁部には二筋の線が見られ、筋のあたりに茶色の釉薬が掛かり、土は青みがかって細かく、釉薬の剥がれが四、五分ほどあり、底は糸切りで、その切れ目は後ろの肌に似ている、といった具体的な特徴が読み取れる 26 。さらに、この茶入を収める袋(仕覆)についても、「白地ノ金ラン、紋テッセン花、カナ地、ヒシ也。裏香色ノ片色也。緒ツカリコイアサキ」(白地の金襴で、文様は鉄線花、金糸を用いた菱文。裏地は香色の一色。緒は濃い浅葱色)と詳細に記されている 26 。神屋宗湛は、文禄三年(1594年)に豊臣秀吉の甥である豊臣秀保(とよとみひでやす)が催した茶会に招かれ、そこでこの楢柴肩衝を実見し、その際に釉薬の垂れではなく、釉薬の切れ目を正面として用いたことが、図と共に記録されている 34 。
所在不明の経緯: 徳川将軍家の所有となった楢柴肩衝は、明暦三年(1657年)に江戸で発生した明暦の大火(振袖火事とも)の際に江戸城内で被災し、破損したと伝えられる。その後、修復されたものの、いつしか所在が不明となり、今日に至るまでその行方は杳として知れない 4 。ただし、『茶道名物考』には、明暦の大火では破損に留まり、修繕されて厳重に保管されていたが、その後紛失したという説も記されている 36 。
新田肩衝との比較:
楢柴肩衝と新田肩衝を比較すると、いくつかの興味深い共通点と相違点が見出される。
楢柴肩衝の物語は、その美術的な美しさや華麗な伝来に加え、「喪失と謎」という要素によって強く特徴づけられている。新田肩衝が「破壊と再生」の物語を纏っているとすれば、楢柴肩衝は「不在の美学」とも言うべき物語を秘めている。この楢柴肩衝の不在は、現存する新田肩衝と初花肩衝への関心を一層高めると同時に、いつの日か再発見されるかもしれないという浪漫をかき立てる。名物茶入の価値は、現存するか否か、そしてそれに関する記録がどれほど豊富に残されているかによっても大きく左右されることを、この比較は示している。
表3:天下三肩衝 比較一覧
項目 |
新田肩衝 |
初花肩衝 |
楢柴肩衝 |
名称の由来(説) |
新田某所持、新田義貞所持 |
足利義政が初花に例え命名 |
万葉集の歌に因む(濃いアメ色=恋) |
製作年代(推定) |
中国 南宋~元 |
中国 南宋~元 |
中国 南宋~元 |
主な特徴 |
撫肩、胴張り、灰色を帯びた紫褐色の釉(被災後) |
理想形、優美、高い甑、薄茶地に黒褐釉の三筋流れ |
濃いアメ色の釉、肩が丸い(宗湛日記による) |
主な伝来 |
珠光→三好宗三→信長→宗麟→秀吉→家康→頼房(水戸徳川家) |
義政→引拙→宗観→信長→信忠→家康→秀吉→家康→徳川将軍家 |
義政→宗室→種実→秀吉→家康(徳川将軍家) |
被災 |
大坂夏の陣(1615年)で被災、修復 |
目立った被災なし |
明暦の大火(1657年)で被災、修復後所在不明 |
現所蔵 |
徳川ミュージアム |
徳川記念財団 |
所在不明 |
文化財指定 |
重要美術品 |
重要文化財 |
(不明) |
特記事項 |
藤重親子による修復逸話 |
楊貴妃の油壺伝説、義政命名 |
『宗湛日記』に詳細な図と記述、「幻の茶入」 |
この比較表は、天下三肩衝と総称される三つの名物茶入それぞれの個性と共通点を一覧で示すことにより、新田肩衝が持つ独自の歴史的背景や美術的特質をより明確に浮かび上がらせることを目的としている。特に、伝来の経緯、被災の有無とその後の運命、そして現存状況の違いは、それぞれの茶入が纏う物語性を際立たせている。また、記録の残り方(新田肩衝の修復譚、初花肩衝の命名譚、楢柴肩衝の『宗湛日記』における詳細な記述)も三者三様であり、それぞれの茶入に関する研究を進める上での史料の性質の違いも示唆している。この比較を通じて、新田肩衝が天下三肩衝の中でどのような位置を占め、どのような特異性を持っているのかが、より客観的に理解されるであろう。
新田肩衝は、単に優れた美術工芸品としてその価値を認められるに留まらず、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の政治、社会、そして文化の様相を色濃く映し出す、鏡のような存在であると言える。その所有者の変遷は、そのまま権力の移り変わりを物語っており、茶の湯という文化が当時の武将たちにとっていかに重要であり、また政治的な意味合いを帯びていたかを如実に示している 38 。武将たちは、名物茶入を所有し、茶会を催すことを通じて、自身の権威と教養を誇示し、また時には外交交渉の手段としても用いた。新田肩衝は、まさにそのような時代を象徴する名宝の一つであった。
特に、大坂の陣における被災と、その後の藤重親子による修復という出来事は、この茶入の物語に深い奥行きを与えている。それは、戦乱による破壊と、それを乗り越えて文化を継承しようとする人間の創造力、そして再生への願いという、時代を超えて普遍的なテーマを内包している。物理的な傷跡は、むしろその歴史的価値を高め、見る者に深い感銘を与える。
今日、新田肩衝が徳川ミュージアムに大切に保管され、重要美術品として多くの人々に鑑賞の機会を提供していることは、歴史的遺産を未来へと繋いでいくことの重要性を改めて我々に認識させる。それは、過去の文化を尊重し、そこから学び、未来の創造へと活かしていくという、文化の連続性を示唆しているのである。
新田肩衝をはじめとする天下三肩衝に関する研究は、今後も多くの可能性を秘めている。文献史学、美術史、考古学、そして保存科学といった、多岐にわたる学術分野からの学際的なアプローチが期待される。
具体的には、製作年代や産地に関するより精密な特定が、今後の重要な課題となるであろう。 16 で指摘されているように、従来の鑑定眼に加え、近年の科学技術を用いた分析(例えば、胎土や釉薬の理化学的分析)は、これらの茶入の起源について新たな光を当てる可能性がある。また、大坂の陣や明暦の大火で被災した新田肩衝や楢柴肩衝の修復技法についても、当時の工芸技術の水準を明らかにする上で、さらなる詳細な検討が望まれる。
そして何よりも、所在不明となっている楢柴肩衝の行方に関する関心は尽きない。関連する古文書のさらなる発掘や、現存する可能性のある場所の調査など、地道な研究の積み重ねが、いつの日かこの「幻の茶入」の再発見に繋がるかもしれないという期待は、多くの研究者や愛好家の心を捉え続けている。
これらの研究を通じて、戦国時代から江戸時代初期にかけての茶の湯文化の深層や、当時の美術工芸の粋、そしてそれらを取り巻く人々の精神性に対する我々の理解は、一層深まることが期待される。新田肩衝をはじめとする天下三肩衝は、単なる過去の遺物ではなく、未来の研究への扉を開き、日本の文化史の豊かさを再認識させてくれる貴重な存在なのである。これらの茶入を通じて、我々は歴史のダイナミズム、文化の深層、そして物を介した人間の営みについて、今後も新たな発見と洞察を得ることができるであろう。