本報告書は、戦国時代にその名を馳せた茶入「似たり茄子」、別名「百貫茄子」について、現存する諸資料に基づき、その名称、形状、材質、伝来、歴史的評価、そして関連する逸話を網羅的かつ詳細に調査し、その実像に迫ることを目的とする。特に、近年提唱されている静嘉堂文庫美術館所蔵の国宝「付藻茄子」との関連性についても深く掘り下げ、最新の研究動向を踏まえた考察を行う。
戦国時代、茶の湯は武将たちの間で単なる趣味を超え、政治的・社会的なステータスを示す重要な文化装置であった。名物とされる茶道具、特に茶入は、一国の価値にも匹敵するとされ、武勲の恩賞や外交の道具としても用いられた 1 。このような背景において、「似たり茄子」は「天下三名物」 2 や「天下一」 3 と称された最高級の茶入の一つであり、その存在は当時の武将たちの権力と美意識を象徴するものであった。
戦国時代の茶道具の価値は、単に美術品としての美しさや希少性だけに留まるものではなかった。それらは、第一に所持者の権威を示す象徴としての価値を持ち、第二に政治的な交渉における贈答品としての道具的価値を、そして第三に茶会というコミュニケーション空間における中心的な役割を担う文化的価値をも有していた。例えば、「茶入、茶椀一つで国が買えてしまう」とまで言われたり 1 、織田信長や豊臣秀吉が恩賞として茶道具を用いたりした事実は、これらの道具が単に高価であっただけでなく、所有すること自体が力や文化的資本の誇示に繋がったことを示している。茶会がしばしば政治的な交渉の場ともなったことを考慮すれば、名物茶入はその場における一種の「切り札」のような役割も果たし得たと考えられる。このような多層的な価値認識こそが、「似たり茄子」のような名物を巡る数々のドラマを生み出した背景にあると言えよう。したがって、「似たり茄子」の「百貫」という評価も、この多層的な価値観の中で理解する必要があり、単なる市場価格を超えた、政治的・文化的影響力を含んだ総合的な「値付け」であった可能性が高い。
「似たり茄子」という呼称の起源については、複数の説が存在するが、有力なものとして、現存する著名な茶入「付藻茄子(つくもなす、九十九髪茄子とも)」 4 との形状の類似性を指摘する説がある。『山上宗二記』の現代語訳を紹介する書籍では、「似たり茄子」は「つくも茄子」に似ていることから名付けられたと解説されている 6 。また、茶道史研究者の山下桂惠子氏の論文タイトルにも「百貫茄子(似たり茄子)」と併記されており 7 、これら二つの名称が同一の茶入を指す可能性が高いことを示唆している。実際に、『数寄雑談』には、村田珠光の小茄子が「つくも茄子の茶入より少し小さかったから」小茄子と名付けられたという記述があり 8 、名物茶入の命名において、既存の著名な茶入との比較が行われる慣習があったことが窺える。
一方、「百貫茄子」という呼称は、その価値に由来すると考えられる。徳川美術館の所蔵品解説によれば、豊臣秀吉が「似茄子」を「新田肩衝」と共に代百貫で大友宗麟から譲り受けたとされる 2 。この取引価格が「百貫茄子」の呼称の直接的な由来である可能性が高い。『古今名物類聚』にも、大友宗麟から関白(秀吉)へ「新田肩衝と此茄子と兩種百貫に賣り候也」との記述が見られる 9 。
近年、この「似たり茄子(百貫茄子)」の特定に関して注目されているのが、静嘉堂文庫美術館が所蔵する国宝「付藻茄子」との関連性である。山下桂惠子氏は、静嘉堂文庫美術館が「付藻茄子」として所蔵・展示している茶入が、実は豊臣秀吉が所持した「似たり茄子」であるという説を提唱している 10 。山下氏の論拠の一つは、津田宗及が記した「似たり茄子」の拝見記と、静嘉堂所蔵品の形状的特徴(例えば、「紹鴎茄子」よりも丸みを帯びており大振りである点、釉薬が華やかである点など)が符合するという点である 10 。さらに、大坂夏の陣で被災した茄子茶入は「似たり茄子」と「紹鴎茄子」の二点であったという織田有楽の言質を、大徳寺の江月宗玩和尚が記録しており 10 、これが静嘉堂所蔵品(「付藻茄子」と称されるもの)が辿ったとされる被災・修復の経緯と結びつく可能性を示唆している。
これに対し、静嘉堂文庫美術館自身は、所蔵品を「付藻茄子」として解説しており、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが所持し、本能寺の変および大坂夏の陣で被災し、修復されたものとして伝来を説明している 12 。
この「似たり茄子」と「付藻茄子」を巡る名称の問題は、名物茶道具の呼称が、時代や所蔵者、あるいは記録者によって変動しうる可能性、また後世の研究によって従来の定説が覆る可能性を示している点で重要である。静嘉堂文庫美術館が公式に「付藻茄子」としてその伝来を説明している一方で、山下氏が複数の一次史料(津田宗及の拝見記や江月和尚の覚書など)を比較検討し、それが「似たり茄子」であると主張していることは、単なる名称の違いに留まらず、伝来の経緯や歴史的文脈の再解釈を迫るものである。「付藻茄子」は本能寺の変で焼失したともされる記録がある一方で 4 、豊臣秀吉が「似たり茄子」を百貫で購入したという明確な記録が存在するなど 2 、両者の伝来にはいくつかの混乱が見受けられる。山下氏の説は、この混乱を整理し、現存する名物と史料記述を結びつけようとする学術的な試みと言える。このような論争は、美術史研究において、現物調査(X線調査などを含む)と文献史料の双方からのアプローチがいかに重要であるかを示しており、また、一度「国宝」や「大名物」として定着した名称や評価であっても、新たな研究によって見直しが行われるという美術史研究のダイナミズムを示唆している。
表1:「似たり茄子」に関する主要茶書・記録の記述比較
史料名 |
記述者/編纂者 (推定) |
年代 (推定) |
「似たり茄子」の名称 |
形状・釉薬・寸法等 |
伝来・所持者 |
評価・逸話 |
関連情報/備考 |
『山上宗二記』 |
山上宗二 |
天正年間 (16世紀後半) |
似たり茄子 |
形チ、コロ、土薬トモニ天下一ナリ 3 |
珠光所持 3 、(大友宗麟を経て) 関白様 (豊臣秀吉) ヘ 9 |
天下一 3 、珠光褒美の名物 3 、天下三名物の一つ (初花・楢柴と並ぶ) 2 |
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『古今名物類聚』 |
松平不昧 |
寛政年間 (18世紀末) |
似たり茄子 |
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昔は珠光所持。紹悅より豊後の太守 (大友宗麟) に五十貫にて売る。其後太守より關白様へ、新田肩衝と此茄子と兩種百貫に賣り候也 9 。 |
天下無双なり、關白にあり 9 。 |
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『津田宗及茶湯日記』 (『天王寺屋会記』の一部) |
津田宗及 |
天正年間 (16世紀後半) |
似たり茄子 |
(山下氏の論考によれば) 紹鴎茄子より丸目で大形、釉薬は華やか 10 。 |
(山下氏の論考によれば) 秀吉所持 10 。 |
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山下桂惠子氏が静嘉堂所蔵品同定の根拠の一つとする 10 。 |
江月和尚「覚書」 |
江月宗玩 |
元和元年 (1615年) |
茄子二つ (内一つが「似たり茄子」) |
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(大坂落城にて) 滅タル道具 10 。 |
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織田有楽が大坂夏の陣で失われた秀吉名物として言及。「紹鴎茄子」と共に被災したとされる 10 。 |
『大友興廃記』 |
不明 |
江戸時代 |
似たり茄子 |
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宗麟公御所持之茶湯道具 14 。 |
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『茶傳記録』 |
不明 |
不明 |
似たり茄子 |
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紹悅より豊後の太守(大友宗麟)に賣る五十貫に其後太守より關白様へ、新田肩衝と此茄子と兩種百貫に賣り候也昔は珠光所持天下無双なり、關白にあり 9 。 |
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『古今名物類聚』とほぼ同内容の記述。 |
静嘉堂文庫美術館の解説 |
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付藻茄子 (「似たり茄子」とは異なる名称で解説) |
唐物茄子茶入 13 。高さ約7.2cm~7.9cm、胴径約7cm、口径約2.7cm、底径約2.7cm 15 。表面は漆による修復 15 。 |
足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、岩﨑家 13 。 |
一国一城に値するほど尊ばれた 13 。本能寺の変、大坂夏の陣で被災、藤重親子により修復 13 。 |
山下桂惠子氏はこれを「似たり茄子」と考定 10 。 |
「茄子茶入」は、その形状が野菜の茄子に似ていることから名付けられ、中国(唐物)伝来の茶入の中でも特に格が高いとされている 19 。一般的に、胴がふっくらと張り、口は小さく、底は平底で轆轤(ろくろ)から切り離した際の糸切り跡を残すのが典型的な特徴である 20 。このような茄子茶入の中でも、「似たり茄子」は格別の評価を受けていた。『山上宗二記』には、「似たり茄子(なす)を「形チ,コロ,土薬トモニ天下一ナリ」とあり 3 、その姿形、手に取った際の程よい重みや存在感(コロ)、そして素地となる土と施された釉薬(土薬)の全てが最高水準であったと絶賛されている。文化遺産データベースに記載されている重要文化財「唐物茄子茶入(紹鴎・一名みをつくし)」は、鉄分を含んだ細密な褐色の陶胎で、薄く轆轤成形され、口辺は強く外側に反り、やや紫がかった飴色の鉄釉が掛けられ、肩先から裾にかけて三筋の釉がなだれかかるなどの特徴を持つ 20 。これは、「似たり茄子」の具体的な姿を想像する上での一つの参考となりうる。
山下桂惠子氏の説に基づき、静嘉堂文庫美術館が所蔵する「付藻茄子」を「似たり茄子」と仮定してその詳細を見ると、まず製作年代と場所については、南宋から元時代(13世紀~14世紀)の中国で製作された唐物茶入であるとされる 13 。材質と釉薬に関しては、元々は陶製で、美しい釉薬が施されていたと推測されるが、その詳細は不明な点が多い。なぜなら、この茶入は大坂夏の陣で大きな損傷を受け、その後の修復によって表面の大部分が漆で覆われているためである 15 。1994年に行われた透過X線撮影調査や、2022年に東京国立博物館で実施されたX線CTスキャン調査により、多数の陶器の破片を繋ぎ合わせ、漆でその形状を補修・復元していることが科学的に確認されている 10 。現在我々が目にする表面の美しい景色や質感は、江戸初期の塗師、藤重親子による卓越した漆仕事の成果なのである 15 。
修復後の寸法については、複数の資料でおおよそ高さ7.2cmから7.9cm、胴径約7cm、口径約2.7cm、底径約2.7cmといった数値が報告されており 15 、手のひらに心地よく収まる程度の小ぶりな茶入であったことがわかる。その形状は、「茄子のように、お尻がっぷりとしている愛らしさ」と評されるように 16 、丸みを帯びた豊かな胴を持ち、安定感と優美さを兼ね備えている。付属品としては、桐緞子裂の仕覆(しふく、茶入を入れる袋)が添えられているとの情報もある 15 。
「似たり茄子」(とされる静嘉堂所蔵品)が経験した壮絶な被災と、藤重親子による見事な修復の事実は、当時の人々が名物茶入に対していかに高い価値を認め、それを後世に伝えようと並々ならぬ努力を払ったかを物語っている。大坂城落城の灰燼の中から探し出させ、修復を命じた徳川家康の執念 2 、そしてその期待に応え、「古今不思議の手涯、言舌の及ばざる細工」とまで賞賛された藤重親子の技術 22 は特筆に値する。X線調査で明らかになったように、表面はほぼ漆でありながら、元々の陶器が持っていたであろう質感や釉薬の景色を見事に再現している点は、単なる「修理」を超えた「美術的再生」への強い意識を物語っている。破損した器を漆で修復し、そこに新たな美しさや価値を見出すという態度は、例えば金継ぎに代表されるような、日本の伝統的な美意識や価値観と深く通底するものである。この茶入は、製作された当初の美しさだけでなく、戦乱の歴史を生き延び、卓越した修復技術によって新たな生命を与えられたという重厚な「物語」をも内包している。この歴史的な積層性こそが、現代におけるこの茶入の価値をさらに高めていると言えよう。そして、その修復行為自体が、一つの芸術的創造として評価されるべき側面をも持っているのである。
表3:静嘉堂文庫美術館所蔵「付藻茄子」の物理的特徴とX線調査結果(「似たり茄子」同定説に基づき整理)
項目 |
詳細 |
情報源 |
名称(静嘉堂) |
唐物茄子茶入 付藻茄子 |
13 |
製作年代・場所 |
南宋~元時代(13~14世紀)、中国 |
13 |
寸法(修復後) |
高さ:約7.2cm~7.9cm |
15 |
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胴径:約7cm |
15 |
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口径:約2.7cm |
15 |
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底径:約2.7cm |
16 |
材質 |
元:陶製(鉄分を含んだ細密な褐色陶胎と推定 20 ) |
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修復:多数の陶片を接合し、表面は主に漆で補修・復元 |
15 |
釉薬 |
元:不明(やや紫がかった飴色の鉄釉などの可能性 20 ) |
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現状:漆による再現(元の景色を意識した仕上げと推測) |
15 |
形状的特徴 |
胴が張った茄子形。口は小さく、口辺を強く外反させ、口端を丸く捻り返す(類品の一般的特徴 20 )。「お尻がっぷりとした愛らしい」丸みのある胴 16 。 |
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X線・CTスキャン調査結果 |
1994年(透過X線)、2022年(X線CTスキャン)に実施 17 。 |
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内部は多数の陶片を繋ぎ合わせた構造であることが確認された 10 。 |
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藤重親子による高度な修復技術(漆による補強、形状再現)が明らかになった 21 。 |
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付属品(伝世品) |
桐緞子裂仕服 15 。挽家の蓋に椰子(類品「紹鴎茄子」の例 20 )。 |
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特記事項 |
大坂夏の陣で被災し、徳川家康の命で藤重親子が修復 2 。修復後の出来栄えは高く評価された 22 。 |
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「似たり茄子」の伝来は、茶道史における重要人物や歴史的事件と深く結びついており、その価値を一層高めている。
初期の所持者として最も重要なのは、わび茶の祖とされる村田珠光である。『山上宗二記』には、「似たり茄子(なす)を「形チ,コロ,土薬トモニ天下一ナリ. 珠光褒美の名物也」と明確に記されており 3 、珠光がこの茶入を極めて高く評価し、愛蔵していたことがわかる。「珠光褒美」という言葉は、単に珠光が褒めたというだけでなく、珠光が提唱した茶の湯の理念や美意識に適うものとして公に認められた、という意味合いを持つと考えられる 23 。『古今名物類聚』にも「昔は珠光所持」との記述が見られることから 9 、珠光との関わりは後世まで広く認識されていた。
その後、「似たり茄子」は、詳細不明ながら商人であった可能性のある紹悦という人物の手を経て 24 、豊後の戦国大名である大友宗麟へと渡ったとされる。『古今名物類聚』によれば、この際の取引価格は五十貫であったという 9 。大友宗麟は、武将としての側面だけでなく、茶の湯にも深く通じ、多くの名物茶道具を熱心に収集していたことで知られている 14 。実際に、江戸時代に編纂された『大友興廃記』の中には、宗麟が所持していた茶道具のリストがあり、そこに「似たり茄子」の名が明確に挙げられている 14 。
天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉は、大友宗麟から「新田肩衝」というもう一つの天下の名物と共に「似たり茄子」を譲り受けた。この時の代償は合わせて百貫であったと記録されている 2 。この取引は、秀吉の茶道具に対する並々ならぬ収集熱と、大名物を介した大名間の政治的駆け引きの一端を如実に示している。秀吉はこの「似たり茄子」を非常に珍重し、自身の権勢を内外に示す場でもあった北野大茶湯 2 をはじめとする重要な茶会で度々用いたと伝えられている 10 。記録によれば、秀吉は「似たり茄子」を内側に赤漆を施した盆や堆朱(ついしゅ)の盆に据えて大切に扱ったとされ 10 、その格別の扱いぶりが窺える。
しかし、この名宝も安泰ではなかった。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂城が落城した際、「似たり茄子」は戦火に見舞われ、無残にも破損してしまったのである 2 。だが、その運命はそこで尽きなかった。新たに天下人となった徳川家康は、この名物の消失を惜しみ、塗師の藤元・藤巌親子(藤重親子とも)に命じて、焼け跡の灰燼の中から探し出させ、修復させた 2 。この修復作業は困難を極めたと想像されるが、藤重親子の卓越した技術により、見事に元の姿に近い形を取り戻したと伝えられている。
修復後、「似たり茄子」は徳川家康から、彼の息子であり水戸藩の初代藩主である徳川頼房に譲られた 2 。これにより、この名物は徳川御三家の一つである水戸徳川家に伝来することとなった。もし、静嘉堂文庫美術館が所蔵する「付藻茄子」が「似たり茄子」と同一であるならば、その後の伝来は明治期に岩﨑家へと続くことになる 13 。
「似たり茄子」の伝来経路は、わび茶の祖である村田珠光から始まり、戦国時代の文化的な大名、そして豊臣秀吉、徳川家康という天下人、さらには有力な譜代大名家である水戸徳川家へと受け継がれるという、まさに日本の歴史の表舞台を渡り歩いた壮大な軌跡を描いている。この伝来の物語自体が、茶入にさらなる権威と歴史的な重み、そして物語性を付与していると言える。珠光が所持したという事実は 3 、この茶入がわび茶の草創期から既に重要視されていたことを示している。大友宗麟のような文化的な素養の高い大名が所有し 2 、その後、天下人である秀吉が百貫という破格の評価で入手したという事実は 2 、この茶入が当時の最高権力者たちの垂涎の的であったことを雄弁に物語る。大坂夏の陣での被災と、家康による執念とも言える回収・修復の逸話は 2 、単なる美術品を超えた、ある種の執着の対象としての価値を浮き彫りにする。そして水戸徳川家への下賜 2 は、徳川幕府政権下における文化財の安定的な継承の一例とも見なせるだろう。一つの茶入がこれほど多くの歴史的指導者や重要人物の手を経ることは極めて稀であり、その伝来の軌跡は、それぞれの時代の権力構造、文化意識、そして茶の湯が社会において果たした役割を色濃く反映している。「似たり茄子」は、単なる美しい器物であるに留まらず、歴史の変遷を見つめてきた証人としての側面を強く持っているのである。
表2:「似たり茄子」の推定される伝来経路と関連人物・出来事
時代区分 |
推定所持者/関連人物 |
関連する出来事・逸話 |
価値・評価 |
情報源 |
室町時代後期 |
村田珠光 |
所持、高く評価。「珠光褒美の名物」と称される。 |
天下一(形状、コロ、土薬) |
3 |
戦国時代 |
紹悦 (商人か) |
大友宗麟へ売却。 |
五十貫 |
9 |
戦国時代 |
大友宗麟 (豊後大名) |
所持。『大友興廃記』に記載あり。 |
|
9 |
安土桃山時代 (天正13年/1585年頃) |
豊臣秀吉 (関白) |
大友宗麟より「新田肩衝」と共に譲り受ける。北野大茶湯などで使用。内赤盆・堆朱盆に据えて大切に扱った。 |
二品で百貫 |
2 |
江戸時代初期 (慶長20年/1615年) |
(大坂夏の陣にて被災) |
大坂城落城時に破損。 |
|
2 |
江戸時代初期 |
徳川家康 |
灰燼より探し出させ、塗師・藤重親子に修復を命じる。 |
修復後の出来栄えを絶賛 |
2 |
江戸時代初期 |
徳川頼房 (水戸藩初代藩主) |
徳川家康より下賜される。水戸徳川家伝来。 |
|
2 |
(明治時代以降) |
(岩﨑家) |
(静嘉堂文庫美術館所蔵「付藻茄子」が「似たり茄子」である場合) |
|
13 |
「似たり茄子」は、その美術的価値のみならず、茶道史における重要な位置づけと、当時の武将たちの価値観を反映する存在として高く評価されている。
千利休の直弟子であり、利休の茶の湯を伝える上で欠かせない人物である山上宗二が著した『山上宗二記』は、安土桃山時代の茶道具の評価や茶会の実態を知る上で第一級の史料とされている。この中で「似たり茄子」は、「形チ,コロ,土薬トモニ天下一ナリ. 珠光褒美の名物也」と、これ以上ないほどの賛辞をもって評価されている 3 。ここで用いられる「天下一」という評価は、単に品質が他よりも優れているという相対的な意味合いを超え、他に比類なき唯一無二の絶対的な存在であることを示し、当時の茶人たちがこの茶入に対して抱いていた深い畏敬の念を表していると言えよう 3 。
また、『山上宗二記』の記述を引用する徳川美術館の解説によれば、「似たり茄子」は、同じく天下の名物として名高い肩衝茶入の「初花肩衝」や「楢柴肩衝」と並んで「天下の三名物」と賞賛されたとある 2 。これは、「似たり茄子」が肩衝茶入の最高峰と並び称されるほどの、茄子茶入における代表格であったことを明確に示している。(ただし、「天下三茄子」としては「九十九髪茄子・松本茄子・富士茄子」を挙げる説も存在し 19 、「似たり茄子」が具体的にどのカテゴリーにおいて「三名物」とされたかについては、史料によって多少の揺れがある可能性も考慮に入れるべきである。)
戦国武将たちにとっての茶道具の価値、特に「似たり茄子」が「百貫」と評価されたことの意味は大きい。前述の通り、豊臣秀吉は「似たり茄子」と「新田肩衝」を合わせて百貫という破格の価格で購入した 2 。当時の「百貫」という価値を現代の貨幣価値に単純に換算することは非常に難しいが、一城にも匹敵するとも言われるほどの莫大なものであったことは想像に難くない 1 。例えば、ある資料によれば、金1枚(大判1枚に相当し、これは10両に値する)が40貫に相当し、1両が現代の約10万円と仮定すると、金1枚は約100万円、1貫は約2.5万円という計算になる 26 。この計算に基づけば百貫は250万円となるが、これはあくまで一つの目安であり、時代や経済状況によって大きく変動する。より重要なのは、当時の武将たちにとって、名物茶入が領地や兵力と同様に、自身の権力と威信を内外に示すための重要な資産、あるいは象徴と見なされていたという点である 27 。織田信長の家臣であった滝川一益が、武田攻めの恩賞として関東管領の地位よりも「珠光小茄子」という茶入を望んだという有名な逸話は 1 、名物茶入の価値が単なる物質的なものを遥かに超えていたことを象徴的に物語っている。
茶道史における「似たり茄子」の重要性は計り知れない。わび茶の祖である村田珠光に認められ 3 、千利休の時代にその高弟である山上宗二によって「天下一」と最高の評価を与えられた「似たり茄子」は、わび茶の成立から発展、そして確立に至るまでの重要な過程を見届けた、まさに歴史の証人とも言える茶入である。その優美な形状、深みのある釉薬の味わい、そして何よりも歴代の天下人たちに愛され、数々の歴史的な茶会で用いられてきたという事実は、この茶入を茶道史における伝説的な存在へと押し上げている。
「珠光褒美」という評価は、単に村田珠光が個人的に好んだという以上に、珠光が目指した茶の湯の理想、例えば『山上宗二記』に見られる「胸中ノ奇麗ナル者トテ、珠光褒美セ」 23 という記述が示すように、清浄な心を持つ数寄者を褒めたという珠光の精神性を体現する器物であったことを意味するのではないだろうか。「似たり茄子」が「珠光褒美」とされたのは、その器自体が珠光の求める精神性を喚起する何か、あるいはそれを持つにふさわしい人物の心を映し出す鏡のような役割を果たしたからかもしれない。一方、「天下一」という評価 3 は、絶対的な美の基準が存在したかのような印象を与えるが、ある史料 3 に「倭の風俗では,あらゆる事がらや技術について,必ずある人を表立てて天下一とします」とあるように、この評価が当時の社会的な価値付与のシステムの一環であった可能性も示唆される。つまり、「天下一」とは、ある種の権威や専門家による評価と、それを受け入れる社会的なコンセンサスによって作り上げられたブランドであり、そのブランド力によってさらに価値が高まるという循環が存在したのではないかと考えられる。このように、「似たり茄子」の評価は、単に美的優越性を示すだけでなく、茶の湯の精神性や、当時の社会における価値創造のメカニズムと深く結びついている。この茶入を多角的に理解することは、戦国・安土桃山時代の茶道文化の本質に迫る上で、極めて重要な手がかりとなる。
本報告書を通じて、「似たり茄子(百貫茄子)」は、その名称の由来、具体的な形状、そして静嘉堂文庫美術館所蔵「付藻茄子」との関連性など、未だ完全に解明されていない点も残されているものの、戦国時代を代表する極めて重要な名物茶入の一つであったことが明らかになった。
『山上宗二記』をはじめとする信頼性の高い同時代の史料によって裏付けられるその比類なき評価、そして村田珠光から豊臣秀吉、徳川家康といった日本の歴史を動かした重要人物たちに受け継がれてきた華々しい伝来の軌跡は、この茶入が単なる美しい器物を超えた、特別な存在であったことを雄弁に物語っている。
「似たり茄子」は、戦国・安土桃山時代の武将たちの洗練された美意識、茶の湯文化の隆盛、そして茶道具が政治的・社会的に果たした多岐にわたる役割を、現代に具体的に示す貴重な文化遺産であると言える。特に、静嘉堂文庫美術館が所蔵する「付藻茄子」が「似たり茄子」と同一であるとする山下桂惠子氏の説が正しいとすれば、大坂夏の陣における被災と、藤重親子による奇跡的とも言える修復の逸話は、戦乱の時代における文化財の過酷な運命と、それを守り抜き後世に伝えようとした人々の並々ならぬ情熱を、我々に強く訴えかける。
この一個の小さな茶入を多角的に研究し、その背景にある歴史や文化、人々の想いを紐解いていくことは、日本の美術史、文化史、さらには精神史をより深く理解する上で、依然として大きな意義を持ち続けるであろう。今後の更なる研究によって、この名宝を巡る謎が解き明かされ、その歴史的価値が一層明確になることが期待される。