本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代にかけて珍重された著名な茶入「富士茄子(ふじなす)」について、現時点で入手可能な情報を基に、その名称の由来、形状、材質、伝来、歴史的価値、そして現在の所蔵状況に関する包括的な調査結果を提示することを目的とします。
「富士茄子」は、「天下三茄子(てんかさんなす)」の一つとして数えられ、その名は茶道史において広く知られています。茶の湯が武将たちの間で政治的・文化的に重要な役割を果たした時代背景の中で、この茶入がいかにして高い評価を得、どのような人々の手を経て今日に伝えられた(あるいは伝えられなかった)のかを明らかにすることは、当時の文化や社会を理解する上で意義深いと言えるでしょう。
本調査は、提供された各種文献資料や研究成果の断片情報を主な手がかりとしています。そのため、情報の網羅性や実見に基づく検証には限界がありますが、可能な限り多角的な視点から「富士茄子」の実像に迫ることを試みます。
「富士茄子」という名称の由来については、その姿形が日本の最高峰である富士山を想起させる堂々たるものであったこと、そして茄子形茶入の中でも最高位に位置づけられるべき名品であることを「富士山」に擬えて称したとする説が有力です。ある資料には、「富士山が山の中の大王であるようにこれは唐物茄子茶入の中の大王という意味でこう名付けられたものでしょう」との記述が見られます 1 。このことは、「富士茄子」が単に外見的な類似性から名付けられたのではなく、その格の高さ、すなわち茄子茶入の最高峰としての評価を「富士山」という言葉に託して表現したものである可能性を強く示唆しています。
また、「一富士二鷹三茄子」ということわざは、徳川家康が駿河の国の名物として富士山、鷹狩り、そして初物の茄子を挙げたことに由来するとも言われ、これらが縁起の良いものの順序として語り継がれています 2 。このことわざ自体が「富士茄子」茶入の直接的な命名理由であると断定することは難しいものの、「富士」と「茄子」が共に格の高いもの、価値あるものとして認識されていた当時の文化的背景をうかがい知ることができます。
「富士茄子」は、「九十九髪茄子(つくもなす)」、「松本茄子(まつもとなす)」と共に「天下三茄子」と称される最上級の茄子形茶入の一つです 5 。当時、中国から舶載された唐物茶入の中でも、茄子形のものは特に格が高いとされ、真の盆点(格式の高い点前)には茄子茶入以外は用いなかったとも言われるほどでした 6 。その中でも「天下三茄子」は、姿、釉調、伝来など、あらゆる面で他の追随を許さない名品として珍重されました。
「富士茄子」の形状は、その名の通り野菜の茄子に似ており、口元がやや締まり、胴がゆったりと膨らんだ姿をしています 5 。特に「大振りの堂々たる茶入」と形容されることから 1 、他の茄子茶入と比較しても、より雄大で風格のある姿であったと推測されます。
材質については、唐物茶入であることから中国で製作された陶器であると考えられます 5 。一般的に、この種の茶入の蓋は象牙で作られ、その裏には金箔が施されることが多かったとされます。これは、金箔が毒に触れると変色するという当時の信仰に基づき、抹茶に毒が盛られていないかを見分けるためであったと言われています 5 。また、茶入を保護し装飾するための袋である仕覆(しふく)は、摸作品の記述から剣先緞子(けんさきどんす)であった可能性が示唆されています 8 。
「富士茄子」の正確な寸法に関する記録は、提供された資料の中では見当たりませんでした。しかし、「大振り」という表現 1 や、小堀遠州がその内箱を製作または鑑定した可能性を示唆する記述 9 から、ある程度の大きさと風格を備えていたことがうかがえます。
製作年代は、他の「天下三茄子」である「九十九髪茄子」や「松本茄子」が中国の南宋から元時代(13世紀~14世紀)の作とされること 5 、また唐物茶入全般の傾向から類推して、同様に南宋~元代に製作されたものと考えられます。作者については、当時の唐物茶入の多くがそうであるように、特定されていません。
以下に、「富士茄子」の基本的な情報(推定を含む)を表にまとめます。
表1: 「富士茄子」の基本情報(推定を含む)
項目 |
内容 |
根拠資料 |
名称 |
富士茄子(ふじなす) |
1 |
分類 |
唐物茄子茶入、天下三茄子 |
5 |
形状 |
茄子形、大振りで堂々たる姿 |
1 |
材質 |
陶器(本体)、象牙(蓋)、金箔(蓋裏)、仕覆は剣先緞子の可能性(摸写より) |
5 |
寸法 |
不明(「大振り」との記述あり) |
1 |
製作年代 |
中国 宋代~元代(13~14世紀)推定 |
5 (他の天下三茄子や唐物茶入の一般的な製作年代からの類推) |
作者 |
不明 |
一般的な唐物茶入の性質 |
現所蔵(有力説) |
公益財団法人前田育徳会 |
8 |
この表は、「富士茄子」の概要を理解する上で基礎となる情報を提供します。特に現所蔵については複数の資料が前田育徳会を示唆しており、後述する伝来の議論において重要な意味を持ちます。
「富士茄子」は、その価値の高さゆえに、歴史上の著名な人物たちの手を経てきたと考えられています。文献資料から確認できる主な所有者(または所有したとされる人物)は以下の通りです。
「富士茄子」の伝来を追うと、いくつかの興味深い逸話や伝承が見受けられます。
前田利家と「富士茄子」の関係は特に注目されます。利家が茶の湯を深く愛好し、その中で「富士茄子」という天下の名物を所有していたことは、彼の武将としての側面だけでなく、文化人としての一面をも示しています 11 。加賀藩の至宝として大切に扱われたという事実は、「富士茄子」が単なる美術品を超え、藩の権威や文化的水準を象徴する存在であったことを物語っています 1 。
一方、徳川家康と「一富士二鷹三茄子」の諺を結びつける逸話も存在します 2 。家康が駿河で初物の茄子を賞味し、富士山や鷹狩りと並べてその素晴らしさを語ったという話は、この諺の由来として広く知られています。ある資料では、この諺が「富士茄子」茶入の価値と間接的に結び付けられているかのような示唆も見られますが 1 、これは茶入そのものの伝来とは区別して考えるべきでしょう。むしろ、このような諺が存在する文化的土壌が、「富士」の名を冠する茄子形茶入の価値を一層高める方向に作用した可能性は考えられます。
「富士茄子」の伝来経路を整理すると、前田利家への継承が最も蓋然性の高いルートとして浮かび上がってきます。徳川家康が所有し明暦の大火で焼失したという説は、他の有力な茶入との混同や、伝承が錯綜した結果生じた可能性が考えられます。例えば、織田信長や豊臣秀吉といった天下人が所有した名物茶入は数多く存在し、それらの伝来はしばしば複雑に入り組んでいます。また、火災による名物の焼失も歴史上度々起こっており、特定の茶入に関する情報が別の茶入の逸話と混同されることもあり得ます。複数の資料が前田利家から前田育徳会への伝来を示唆し、近年の展覧会での出品情報もこれを裏付けていることから、このルートの信憑性は高いと判断できます。
以下に、「富士茄子」の主な伝来経路(有力説に基づく)を表にまとめます。
表2: 「富士茄子」の主な伝来経路(有力説に基づく)
時代 |
所有者(推定含む) |
主な出来事・情報 |
根拠資料 |
室町時代後期 |
足利義輝(または足利将軍家) |
東山御物の一つとして伝来した可能性。 |
14 |
戦国時代 |
織田信長 |
「名物狩り」により入手か。 |
14 |
安土桃山時代 |
豊臣秀吉 |
信長より継承、あるいは別途入手か。 |
14 |
安土桃山~江戸初期 |
前田利家 |
秀吉より拝領、あるいは他の経路で入手し、加賀前田家の至宝となる。 |
1 |
江戸時代~現代 |
前田家(後に公益財団法人前田育徳会) |
代々継承され、現在に至る。 |
9 |
この表は、特に第5章で詳述する所蔵と焼失説の議論において、前田家伝来説の優位性を示すための基礎資料となります。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、茶の湯は武士階級を中心に広く流行し、単なる喫茶の習慣を超えて、政治、外交、社交の重要な手段となりました 17 。特に織田信長は、茶の湯を巧みに政治利用し、「名物狩り」と呼ばれる茶道具の収集を行いました。これにより集められた名物茶器は、家臣への恩賞として与えられ、時には一国一城にも匹敵するほどの価値を持つとされました 17 。信長のこの政策は「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」とも呼ばれ、茶道具が持つ価値観を大きく変容させました。
豊臣秀吉もまた、この流れを継承し、茶の湯を自身の権勢を示すために盛んに用いました。千利休のような茶人が秀吉の側近として政治的にも重要な役割を担ったことは、茶の湯が当時の社会においていかに大きな影響力を持っていたかを物語っています 17 。
茶入は、抹茶を入れるための小さな容器ですが、その形状や釉調、伝来によって細かく分類され、それぞれに格付けがなされていました。中でも、中国から渡来した唐物茶入は高く評価され、その形状によって「茄子(なす)」「肩衝(かたつき)」「文琳(ぶんりん)」などに大別されます。特に「茄子」は、その丸みを帯びた柔らかな姿形から愛され、唐物茶入の中でも最上位に位置づけられていたとされます 5 。
「天下三茄子」の一つである「富士茄子」は、このような時代背景の中で、数ある名物茶入の中でも最高級の価値と評価を得ていたと推測されます。それを所有することは、単に美術品を鑑賞するという趣味の範囲を超え、持ち主の権力、財力、そして文化的素養の高さを周囲に示す強力な象徴的意味を持っていました。
戦国武将にとって、名物茶入は自らのステータスを誇示する道具であると同時に、外交交渉や和睦、あるいは服従の証として献上されるなど、戦略的な政治・外交ツールとしての側面も持ち合わせていました 18 。例えば、ある大名が「富士茄子」を所持しているという事実は、彼が中央の権力者(例えば信長や秀吉)と深いつながりを持っていること、あるいはそれだけの財力と文化的影響力を持っていることを意味しました。茶会でこのような名物を披露することは、現代における国家間の重要な儀礼にも匹敵するような、高度に政治的なコミュニケーションの場であったと言えるでしょう。
前田利家が「富士茄子」を所有していたことは、まさにこの文脈で理解することができます。加賀百万石という大大名であった利家にとって、「富士茄子」は彼の武威だけでなく、文化的な洗練度をも示すものであり、内外に対する強力なメッセージとなったはずです。それはまた、利家が築き上げた前田家の権威と文化を象徴する品として、後代に大切に受け継がれていくことになります。
「富士茄子」が現在どこにあり、どのような状態であるのかについては、いくつかの説が存在しますが、その中でも特に有力なのは前田育徳会による所蔵説と、明暦の大火による焼失説です。
現在、最も有力視されているのは、公益財団法人前田育徳会が「富士茄子」を所蔵しているという説です。この説を裏付ける情報は複数の資料に見られます。前田利家が所有していたという記録 11 をはじめ、小説内での言及 12 、摸写の茶入が「前田利家 所持」として販売されている情報 8 、そして書籍での紹介 14 などが挙げられます。
さらに決定的なのは、近年の展覧会での出品情報です。石川県立美術館では、2023年に開催された特別陳列「前田家の至宝 I・II」において、重要文化財として「茄子茶入 銘 富士」が前田育徳会蔵として展示された記録があります 13 。この展覧会の情報には、実際に「富士茄子」の写真も掲載されており 16 、その現存を強く示唆しています。
また、2017年に東京国立博物館で開催された特別展「茶の湯」においても、「富士茄子」が前田育徳会の所蔵品として出品されたとの情報があります 15 。これらの公的な美術館での展示歴は、「富士茄子」が現存し、かつ前田育徳会によって適切に管理・保存されていることの極めて有力な証左と言えるでしょう。
一方で、「富士茄子」は江戸時代前期の明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火(振袖火事とも)」によって焼失したという説も存在します。ある資料には、豊臣秀吉から徳川家康に渡った「富士茄子」が、この大火で失われたと記されています 1 。また、『大正名器鑑』の巻頭言の引用として、「幕府は明暦の大火に於て一切を焼失し」という記述も見られます 22 。
しかしながら、前述の通り、前田家伝来および前田育徳会による現存説が多数の証拠によって裏付けられており、特に近年の展覧会での実物展示の事実は非常に重い意味を持ちます。このため、明暦の大火による焼失説の信憑性は低いと考えざるを得ません。
「明暦大火焼失茶道具目録」という史料が存在することは確認されていますが 23 、この目録に「富士茄子」という名の茶入が具体的に記載されているかどうか、また、仮に記載されていたとしても、それが前田家伝来の「富士茄子」と同一のものであるか、あるいは同名異物の可能性については、提供された資料からは直接確認することができませんでした。歴史上、特に茶道具の世界では、同名でありながら異なる品が存在した例や、一つの品に複数の呼称があった例も少なくありません。
したがって、前田育徳会が所蔵するとされる「富士茄子」が明暦の大火で焼失したとは考えにくく、焼失説は以下のいずれかの可能性が考えられます。
(a) 徳川幕府が所有していた別の「茄子」茶入、あるいは「富士」の名を持つ別の道具に関する情報が、「富士茄子」の情報と混同された。
(b) 『大正名器鑑』に見られるような、徳川幕府の所蔵品全般に関する一般的な記述が、特定の「富士茄子」に誤って適用された。
(c) あるいは、単に信憑性の低い伝承が記録された。
いずれにしても、前田育徳会所蔵とされる「富士茄子」とは別の存在を指しているか、情報が不正確である可能性が高いと結論付けられます。
現時点では、提供された資料からは上記二説以外に、「富士茄子」の現状に関する有力な説は見当たりませんでした。
「富士茄子」をより深く理解するためには、同じく「天下三茄子」と称される他の二つの名高い茄子茶入、「九十九髪茄子」と「松本茄子」と比較することが有効です。
「九十九髪茄子」は、天下三茄子の中でも特に評価が高いとされることもある名品です 5 。その名称の由来には諸説あり、一説には室町時代の茶人・村田珠光が九十九貫という高値で購入したためとも 27 、また『伊勢物語』に登場する「百とせにひととせ足らぬ九十九髪 われを恋ふらし 面影に見ゆ」という在原業平の和歌にちなむとも言われています 27 。
伝来としては、室町幕府3代将軍足利義満にはじまり、戦国時代には松永久秀、織田信長、豊臣秀吉といった時の権力者たちの手を経たとされています 5 。特に松永久秀が織田信長にこれを献上した逸話は有名です。その後、慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」で大坂城が落城した際に焼身となりましたが、奇跡的に発見され、漆工の名手であった藤重親子によって見事に修復されました 5 。
現在、「九十九髪茄子」は、東京都世田谷区にある静嘉堂文庫美術館に所蔵されています 5 。
「松本茄子」もまた、天下三茄子の一つに数えられる名物茶入です 5 。武野紹鴎が所持していたことから「紹鴎茄子」の別名でも知られています 30 。
その伝来は、松本珠報、天王寺屋宗伯、武野紹鴎、今井宗久、そして織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼へと受け継がれたとされています 31 。「九十九髪茄子」と同様に、「松本茄子」も大坂夏の陣で被災し、焼け跡から発見された後、藤重親子によって修復されました 1 。
現在、「松本茄子」も「九十九髪茄子」と同じく、静嘉堂文庫美術館に所蔵されています 1 。その寸法は、高さ6.4cm、口径2.7cm、胴径6.9cm、底径2.7cmと記録されています 36 。
天下三茄子のうち、「九十九髪茄子」と「松本茄子」が共に大坂夏の陣という歴史的な戦乱の中で被災し、その後、名工の手によって修復され、現代にその姿を伝えているという事実は非常に興味深い点です。この二つの茶入が同じ美術館に収蔵されていることも、その数奇な運命を物語っているかのようです。
「富士茄子」に関しては明暦の大火による焼失説が存在する一方で、他の二つの「天下三茄子」が戦火を乗り越えて現存していることは、それぞれが辿った運命の分岐点を示唆していると言えるでしょう。また、これらの名物茶入が現代に伝わる上で、藤重親子のような優れた修復技術がいかに重要であったかという点も浮き彫りになります。
以下に、天下三茄子の比較概要を表にまとめます。
表3: 天下三茄子の比較概要
項目 |
富士茄子 |
九十九髪茄子(付藻茄子) |
松本茄子(紹鴎茄子) |
主な特徴 |
大振りで堂々たる姿と伝わる。 |
天下三茄子中、最も評価が高いとも。名称に諸説あり。 |
紹鴎茄子とも呼ばれる。 |
主な伝来 |
足利義輝、信長、秀吉、前田利家など。 |
足利義満、松永久秀、信長、秀吉など。大坂夏の陣で被災・修復。 |
武野紹鴎、信長、秀吉、秀頼など。大坂夏の陣で被災・修復。 |
現所蔵 |
前田育徳会(有力説) |
静嘉堂文庫美術館 |
静嘉堂文庫美術館 |
備考 |
明暦の大火焼失説あり(信憑性は低いとの考察)。 |
藤重親子により修復。 |
藤重親子により修復。寸法:高6.4cm、胴径6.9cm 36 。 |
根拠資料 |
1 |
5 |
1 |
この表は、三つの著名な茶入の関係性を整理し、「富士茄子」の特異性や共通性を把握するのに役立ちます。
本報告書では、日本の戦国時代から江戸時代にかけて珍重された茶入「富士茄子」について、その名称の由来、形状、材質、伝来、歴史的価値、そして現在の所蔵状況に関する調査結果をまとめました。
調査の結果、「富士茄子」は「天下三茄子」の一つとして極めて高い評価を受け、その名称は姿形の堂々たる様や茄子茶入における最高位の格を富士山に擬えたものに由来すると考えられます。形状は大振りの茄子形、材質は中国製の陶器で象牙の蓋が付いていたと推測されます。
伝来については諸説ありますが、足利将軍家から織田信長、豊臣秀吉を経て前田利家の手に渡り、その後加賀前田家に代々受け継がれ、現在は公益財団法人前田育徳会が所蔵しているという説が、近年の展覧会出品情報など複数の根拠から最も有力であると判断されます。特に、石川県立美術館や東京国立博物館での重要文化財としての展示歴は、その現存と所蔵状況を強く示唆するものです。
一方で、明暦の大火によって焼失したという説も存在しますが、前田育徳会所蔵説との間に多くの矛盾点が見られ、その信憑性は低いと考えられます。ただし、この焼失説の根拠となった可能性のある一次史料の完全な検証や、同名異物の存在の可能性などを完全に排除するためには、さらなる研究が待たれます。
「富士茄子」は、単に美術的価値が高い工芸品であるに留まらず、戦国武将たちの権力の象徴、洗練された文化の担い手として、日本の歴史の中で重要な役割を果たしてきました。その存在は、茶の湯という文化が当時の社会においていかに深く浸透し、大きな影響力を持っていたかを物語る貴重な証左と言えるでしょう。
今後の研究課題としては、以下の点が挙げられます。
「富士茄子」は、その物理的な美しさや希少性のみならず、日本の歴史における権力と文化の交差点に位置づけられる名物茶入です。その伝来には未だ解明されていない部分も残されていますが、現存する可能性が高いという事実は、日本の文化財保護の観点からも極めて喜ばしいことであり、今後のさらなる研究によって、その全貌がより明らかになることが期待されます。