国司茄子(こくしなす)は、日本の茶道史において「大名物(おおめいぶつ)」として極めて高く評価される唐物(からもの)の茄子茶入(なすちゃいれ)の一つである。その名称は、最初の所持者とされる伊勢国の国司、北畠氏に由来すると伝えられている 1 。茶入は抹茶を点てるための茶器の中でも特に重視され、中でも茄子形のものは姿形の愛らしさと格調の高さから珍重されてきた。国司茄子は、そうした茄子茶入の中でも、その美しさ、伝来の由緒、そしてそれにまつわる逸話によって、特異な存在感を放っている。
本報告書は、この国司茄子について、現存する資料に基づき、その形状、材質、釉調、寸法といった物理的特徴から、付属する仕覆や盆などの調度品、さらには伊勢国司北畠氏の手を離れて以降、数々の数寄者や大名、近代の実業家の手を経て現在に至るまでの詳細な伝来を明らかにする。また、松花堂昭乗による「天下第一」との賞賛や、他の著名な茄子茶入との比較を通じて、歴史的にどのような評価を受け、茶道史上にどう位置づけられてきたのかを考察する。特に、その呼称の由来となった北畠氏との関わり、所有者の変遷に伴う評価の確立、そして近代における蒐集家たちの熱意あふれる入手劇など、多角的な視点から国司茄子の持つ文化的価値の深層に迫ることを目的とする。
国司茄子は、その物理的特徴と付属品においても、他の名物茶入とは一線を画す品格を備えている。
国司茄子は、中国の宋時代から元時代(13~14世紀)にかけて製作されたと見られる「漢作唐物茄子茶入(かんさくからものなすちゃいれ)」に分類される 1 。唐物茶入は舶載品として珍重され、中でも茄子の形をしたものは、その丸みを帯びた穏やかな姿から茶入の最上品とされ、極めて格が高いとされてきた 3 。
現在、藤田美術館が所蔵する国司茄子の実測値は、高さ5.9 cm、胴の最大径6.3 cm、口径2.8 cmと記録されている 1 。実際に手に取ると驚くほど薄く軽い焼き物であると評されており 1 、その繊細な作りが窺える。なお、一部資料には「ϕ 6.9 cm × H 6.9 cm」との記載もあるが 3 、これは国司茄子の写しや関連商品の寸法である可能性が高く、藤田美術館が提示する寸法が実測値として最も信頼性が高いと考えられる。
材質は、鉄分を比較的多く含む良質な土を用いた陶胎で、その色は褐色を呈していると推察される。これは、同じく唐物茄子茶入の代表作である「富士茄子」の材質記述(鉄分を含んだ細密な褐色陶胎)からも類推される特徴である 6 。轆轤(ろくろ)によって極めて薄く成形されており、丸みを帯びた全体の形状は優雅で、各部の均衡も絶妙であると評されている 1 。
国司茄子の最大の魅力の一つは、その釉薬と、それによって生み出される「景色」である。全体には深みのある艶やかな飴釉(あめゆう)が掛けられており、その上に白濁した釉薬が一筋、あるいは複数筋流れ落ちる景色が見どころとなっている 1 。この景色は、あたかも夜空に残る月影を思わせることから「残月(ざんげつ)」の景色に似ているとも評されている 2 。口縁から両面に流れた青白い釉は、濃密な黒飴釉との美しい対比を見せ、茶入の表情を豊かにしている 2 。小さいながらも、内側から力が漲るような緊張感を秘めており、明るい朱漆の盆に載せると一層その華やかさが増すとされる 1 。
表1:国司茄子の基本情報
項目 |
内容 |
名称 |
国司茄子(こくしなす) |
分類 |
漢作唐物茄子茶入(かんさくからものなすちゃいれ)、大名物(おおめいぶつ) |
時代 |
中国 宋~元時代(13~14世紀) |
寸法 |
高さ5.9 cm、胴径6.3 cm、口径2.8 cm (藤田美術館蔵) |
材質 |
陶器(鉄分を含む褐色の陶胎) |
釉薬 |
濃い飴釉、一部に白濁釉のなだれ |
主要付属品 |
仕覆各種(国司間道など)、堆朱七賢之盆、象牙蓋 |
現所蔵者 |
藤田美術館 |
国司茄子には、その格の高さを物語るように、数々の貴重な付属品が伴っている。これらの牙蓋、仕覆、盆などは、中国など海外より渡来した素材を用いつつも、いずれも日本で茶道具として仕立てられ、巧みに組み合わされたものである 1 。
仕覆(しふく)は、茶入を保護し、また茶席での取り合わせの楽しみを増す重要な役割を担う。国司茄子には複数の仕覆が伝わっており、主なものとして以下のものが挙げられる 2 。
盆(ぼん)としては、**堆朱七賢之盆(ついしゅしちけんのぼん)**が付属する 1 。これは、表面に彫漆技法の一種である堆朱で文様が施された盆で、その意匠は中国3世紀頃の魏晋時代に、俗世を離れて竹林に集い清談を行ったとされる七人の賢者、「竹林の七賢人(ちくりんのしちけんじん)」に由来する 1 。このモチーフは、世俗を超越した精神性を尊ぶ茶の湯の思想とも親和性が高い。
その他、象牙で作られた蓋(きばぶた)が二つ伝わっており 2 、これは茶入の口を密閉し、抹茶の風味を保つためのものである。さらに、江戸時代初期の大茶人である小堀遠州(こぼりえんしゅう)の筆による書付がある桐白木の仕覆箱や盆箱、藤重作と伝えられる茶入を納めるための家(箱)、解袋を収める箱、そして添状などが付属している 2 。
これらの付属品の存在は、国司茄子が単なる抹茶の容器としてではなく、総合的な美術品として、また茶の湯の精神性を体現する道具として、歴代の所有者たちによって極めて丁重に扱われ、高い美意識のもとに選び抜かれた調度品とともに愛玩されてきたことを雄弁に物語っている。特に由緒ある名物裂の使用や、古典的モチーフをあしらった盆の選択は、所有者たちの深い教養と、道具に対する敬意の深さを反映していると言えよう。これらは単なる保護具や飾りではなく、茶入本体の価値を一層高め、茶席において一つの調和した世界観を演出するための重要な要素であったと考えられる。
国司茄子の価値を語る上で、その伝来の歴史は欠かすことができない。伊勢国司の手を離れた後、戦国時代から江戸、明治、大正へと、数々の歴史上の著名な人物や数寄者の手を経て現在に至るまでの軌跡は、この茶入がいかに時の権力者や文化人たちを魅了してきたかを物語っている。
国司茄子の名は、その最初の確かな所持者とされる伊勢国(現在の三重県)の国司、北畠氏に由来する 1 。北畠氏は鎌倉時代末期から戦国時代にかけて伊勢国に勢力を張った名家であり、14世紀以降、代々伊勢国司の職を世襲した 1 。国司茄子はこの期間のいずれかの時点で同家の所有となり、その名で呼ばれるようになったと考えられる。
この茶入が北畠氏の所持であったことを示す最も古い記録の一つが、堺の豪商であり茶人でもあった津田宗及(つだそうぎゅう)が記した茶会記『津田宗及茶湯日記(他会記)』である。その天正元年(1573年)5月18日の条に、同じく堺の道具商であった若狭屋宗可(わかさやそうか)が催した茶会において、「床ニ ナスヒ 此壺 イセノ国司ノ也」と記されており 2 、これが国司茄子の文献上の初見の一つとされている。また、江戸時代初期に編纂された名物記である『万宝全書(まんぽうぜんしょ)』にも「国司茄子 伊勢」との記載が見られることから 2 、古くから伊勢の国司、すなわち北畠家伝来の品として認識されていたことがわかる。
北畠氏の後、国司茄子は戦国時代の経済・文化の中心地であった堺の豪商であり、道具商としても知られた若狭屋宗可の手に渡った 1 。これは天正年間(1573年~1592年)、織田信長や豊臣秀吉が天下統一を進めた時代のこととされる 2 。堺は当時、茶の湯文化が隆盛を極め、多くの名物茶道具が集散する場所であり、若狭屋宗可のような目利きの商人がその流通に大きな役割を果たしていた。
若狭屋宗可の後、江戸時代初期(17世紀前半)に、国司茄子は石清水八幡宮瀧本坊(いわしみずはちまんぐうたきのもとぼう)の社僧であった松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう、1582/1584年~1639年)の所持するところとなった 1 。松花堂昭乗は、能書家として「寛永の三筆」の一人に数えられるだけでなく、絵画、和歌、茶の湯にも通じた当代一流の文化人であった 11 。
彼の審美眼によって選び抜かれた所持品は「八幡名物(やわためいぶつ)」として知られ、茶人たちの間で高く評価された。国司茄子はその中でも筆頭とされ、「天下第一」とまで賞賛されたと伝えられている 2 。この評価は、国司茄子の芸術的価値を決定づける上で極めて重要な意味を持った。松花堂昭乗は、男山(石清水八幡宮のある山)周辺に多くの文人墨客を集め、一種の文化サロン(「男山文化圏」とも称される 11 )を形成しており、そのような人的ネットワークを通じて国司茄子の名声は広まり、その評価が権威付けられていったと考えられる。
さらに、国司茄子の箱書付は、松花堂昭乗と親交のあった大茶人、小堀遠州によってなされたものとされている 14 。瀧本坊に伝来した茶道具の目録である「瀧本坊蔵帳」に記載された品々のうち、遠州による箱書付や添状が付属するものは半数以上にものぼるといい 14 、当代一流の茶人による鑑定が、その価値をさらに高めたことを示している。このように、「名物」の価値は、単独の専門家による鑑定のみならず、多様な階層の数寄者や文化人による人的ネットワークと、そこでの評判の伝播によって形成・維持されていく側面がある。国司茄子の場合、北畠氏という大名の旧蔵品であるという来歴、若狭屋宗可のような目利きの商人による仲介、そして松花堂昭乗や小堀遠州といった当代随一の文化人・茶人による高い評価が複合的に作用し、その名声を不動のものとしたと言えよう。
松花堂昭乗以降の江戸時代中期から後期にかけての伝来には不明な期間もあるが、幕末には大阪の道具屋であった勝兵衛(通称:道勝)が入手したとされる 2 。
そして明治維新後の明治4年(1871年)頃、旧若狭小浜藩主であった酒井忠禄(さかいただゆき)が、金二千両という大金でこの国司茄子を買い取った 1 。以降、国司茄子は酒井家に伝来することとなる。
国司茄子の伝来史において最も劇的な逸話として知られるのが、大正時代における藤田家への移動である。大正12年(1923年)、東京美術倶楽部で開催された若狭酒井家の売立において、国司茄子が出品された 1 。
この時、関西の実業界を代表する二人の大物が、この茶入を巡って熾烈な競り合いを演じた。一人は、藤田財閥の二代目当主である藤田平太郎(ふじたへいたろう)、もう一人は野村財閥を築いた野村徳七(のむらとくしち、号は得庵)であった 1 。双方とも一歩も譲らず、入札でも決着がつかなかったため、当時の有力者であった大谷尊由(おおたにそんゆ)が仲裁に入り、最終的には籤引きによって藤田平太郎が20万円という破格の値段で落札したと伝えられている 1 。
当時の20万円という金額は、山手線の最低運賃が5銭であったことから計算すると、現在の貨幣価値で約5億2000万円にも相当すると推測されており 5 、当時の実業家たちの茶道具に対する熱狂ぶりと、それを支える経済力を如実に示している。この逸話は、国司茄子が単なる美術品としての価値を超え、所有者の威信や文化的ステータスを象徴する存在であったことを物語る。特に「国司」という名称が持つ「国を司る」という権威的な響きが、近代日本の産業界を牽引した実業家たちにとって、自らの社会的地位や指導者としてのアイデンティティを投影する対象として、抗しがたい魅力を持っていた可能性が指摘されている 5 。彼らにとって国司茄子の所有は、歴史的な権威と自らを結びつけ、経済的成功者が文化資本を獲得し、新たな社会階層としての正統性を確立しようとする動きの一環とも解釈できるであろう。
国司茄子の伝来については、上記とは大きく異なる経路を示す資料も一部に存在する。例えば、ある資料では「足利義政、村田珠光、鳥居引拙、松本珠報、織田信長、本能寺、豊臣秀吉、徳川家康、水戸家」という伝来が記されている 8 。
しかしながら、この情報は、藤田美術館の公式な記述 1 や、他の多くの信頼性の高い専門書や研究 2 とは整合性が取れず、また、この異説を支持する具体的な根拠や一次資料も不明であるとされている 8 。したがって、本報告書では、伊勢国司北畠氏から始まり、若狭屋宗可、松花堂昭乗、酒井家を経て藤田平太郎に至る伝来を、最も確度の高いものとして記述する。
表2:国司茄子の主要伝来経路と関連事項
所有者/時代 |
関連事項 |
北畠氏(伊勢国司) |
最初の所持者とされ、「国司茄子」の名称の由来。天正元年(1573年)『津田宗及茶湯日記』に記録。 |
若狭屋宗可(堺商人) |
天正年間(1573~1592年)頃に所持。 |
松花堂昭乗 |
江戸初期に所持。「八幡名物」の筆頭とされ、「天下第一」と賞賛される。小堀遠州による箱書付。 |
酒井家(旧小浜藩主) |
幕末に道具屋勝兵衛を経て、明治4年(1871年)頃に酒井忠禄が入手。 |
藤田平太郎 |
大正12年(1923年)、酒井家売立にて野村徳七と競り合い、籤引きの末20万円で落札。この出来事は「国司」という名称の持つ象徴的価値への渇望を示唆する。現在、藤田美術館所蔵。 |
国司茄子は、茶道具の中でも特に優れたものに与えられる「大名物」としての評価を確立し、さらに「天下第一」とまで称された独自の高い評価を得ている。
国司茄子は、数ある茶道具の中でも特に由緒正しく、姿形、伝来ともに優れたものとして「大名物」に分類される 2 。この格付けは、茶道具の世界における最高の栄誉の一つである。
さらに、前述の通り、松花堂昭乗が所持していた江戸時代初期には「天下第一」とまで賞賛されたと伝えられている 2 。この評価は、国司茄子が単に美しいだけでなく、その姿形、釉調、伝来の由緒、そして茶の湯の道具としての品格など、総合的な価値において他の追随を許さないほどに卓越していたと、当代随一の文化人によって認められたことを意味する。そのやや尻張りの、丸みを帯びて安定した理想的な茄子形は、容姿・品格ともに同類の茶入の中でも傑作と評されている 2 。
茄子茶入は、茶入の様々な形の中でも最も格式が高いとされ、真の点前などでも用いられる重要な器物である 4 。その中でも特に名高いものとして、「天下三茄子(てんかさんなす)」と呼ばれる三つの茄子茶入、「付藻茄子(つくもなす、別名:九十九髪茄子)」、「松本茄子(まつもとなす)」、「富士茄子(ふじなす)」が存在する 4 。これらは、いずれも戦国武将や大名たちの間で争奪の的となった名宝として知られている。
国司茄子は、通常この「天下三茄子」には含められない。しかし、それに匹敵する、あるいは松花堂昭乗によって「天下第一」と称されたように、独自の高い評価を得ている点が注目される。
例えば、「富士茄子」は、室町幕府13代将軍足利義輝から、医師の曲直瀬道三、織田信長、豊臣秀吉を経て前田家に伝来し、現在は公益財団法人前田育徳会が所蔵しており、国の重要文化財(旧重要美術品)に指定されている 6。
また、「付藻茄子」は、足利義満・義政、村田珠光、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった錚々たる人物の手を経て岩崎家に伝わり、現在は静嘉堂文庫美術館が所蔵している 8。
これらの「天下三茄子」が、主に室町将軍家や天下人といった日本の最高権力者の間を移動し、その権威の象徴ともなった歴史を持つのに対し、国司茄子の伝来は、伊勢国司北畠氏に始まり、堺の商人、そして松花堂昭乗という文化人、さらに近世大名家の酒井家、近代実業家の藤田家へと、やや異なる経路を辿っている。その特徴である濃い飴釉と印象的な釉なだれ、そして堆朱七賢之盆といった付属品の取り合わせも独自性があり、「天下三茄子」とは異なる価値軸で評価されてきたことが窺える。
国司茄子が「天下三茄子」という確立されたグループには含まれない一方で、「天下第一」と称されたという事実は、茶道具の評価が一元的なものではなく、時代や評価者、重視される美的基準によって多様な序列や価値観が存在したことを示唆している。「天下三茄子」が主に大名間の権力移動と深く結びついた名宝としての側面が強いのに対し、国司茄子の「天下第一」という評価は、特に松花堂昭乗という当代屈指の文化人の審美眼に依拠する部分が大きく、その芸術性や茶道具としての品格が特に強調された結果である可能性が考えられる。あるいは、彼が主宰した「八幡名物」という特定のコミュニティや価値観の中で最高位とされたことが、「天下第一」という言葉で表現されたのかもしれない。
表3:国司茄子と「天下三茄子」との比較
茶入名称 |
格付け・評価 |
特徴 |
主な伝来者 |
現所蔵者 |
国司茄子 |
大名物、「天下第一」(松花堂昭乗による評価) |
濃い飴釉、釉なだれ、堆朱七賢盆 |
北畠氏、松花堂昭乗、酒井家、藤田家 |
藤田美術館 |
付藻茄子 |
大名物、天下三茄子の一つ |
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足利義満・義政、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、岩崎家 |
静嘉堂文庫美術館 |
松本茄子 |
大名物、天下三茄子の一つ |
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珠光、松本珠報、織田信長、豊臣秀吉、岩崎家 |
静嘉堂文庫美術館 |
富士茄子 |
大名物、天下三茄子の一つ、重要文化財(旧 重要美術品) |
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足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、前田家 |
前田育徳会 |
注:付藻茄子、松本茄子の「特徴」欄は、本調査の主要対象外のため簡略化している。
数々の歴史の舞台に登場し、多くの人々を魅了してきた国司茄子は、現在、大切に保管され、その美しさを後世に伝えている。
国司茄子は、現在、大阪府大阪市都島区網島町にある藤田美術館(ふじたびじゅつかん)に所蔵されている 1 。藤田美術館は、明治時代に活躍した実業家である藤田傳三郎(ふじたでんざぶろう)と、その長男・平太郎、次男・徳次郎の親子二代にわたる蒐集品を基に、昭和29年(1954年)に開館した美術館である。そのコレクションは、日本・東洋の古美術品を中心とし、国宝9件、重要文化財53件(2021年時点の指定数 16 )を含む、国内有数の質と量を誇る。国司茄子も、この藤田美術館が所蔵する数多くの名品の中の重要な一つとして位置づけられており、展覧会などを通じて一般に公開される機会もある 15 。
国司茄子が、藤田平太郎という一個人の蒐集家の情熱と財力によって入手され、そのコレクションを母体とする私立美術館に収蔵されていることは、近代以降の日本における文化財保護の一つのあり方を示している。実業家による大規模な美術品蒐集が、結果として貴重な文物の海外流出や散逸を防ぎ、組織的な管理・研究・公開のための基盤となった例は少なくない。藤田美術館のような機関が、国司茄子を含む多くの文化財を今日に守り伝え、我々がその歴史的・美術的価値に触れる機会を提供している意義は極めて大きいと言える。これにより、個人の情熱が公的な文化財保護とは異なる形で、しかし同様に重要な役割を果たしうることが示されている。
国司茄子が「大名物」として茶道界で極めて高く評価され、美術品としても一級の価値を持つことは疑いない。しかしながら、現在の文化財保護法に基づく国宝または重要文化財としての指定状況については、今回参照した資料からは明確に確認することができなかった。
比較対象として、前述の「天下三茄子」の一つである「富士茄子」は、国の重要文化財に指定されている(指定年月日:1999年6月7日、所蔵:公益財団法人前田育徳会) 6 。また、一部資料では「重要美術品」との記載も見られるが 8 、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」(昭和8年公布)に基づいて認定された「重要美術品」は、戦後の文化財保護法(昭和25年制定)における重要文化財とは制度が異なる。国司茄子が過去に重要美術品として認定されていた可能性は否定できないが、現在の国指定の重要文化財であるか否かは、本調査の範囲では断定できなかった。この点については、文化庁の国指定文化財等データベースなど、より直接的な情報源による確認が望まれるところである 19 。
国司茄子は、その優美な丸みを帯びた姿と、深みのある飴色の釉調、そしてそこに流れる景色によって、見る者を惹きつけてやまない魅力を持つ漢作唐物の名品である。その名は伊勢国司北畠氏に始まり、戦国の気風が残る安土桃山時代から泰平の江戸、そして近代へと、数々の著名な数寄者や大名、実業家の手を経てきた。この由緒ある伝来は、国司茄子の価値を一層高めている。
特に、文化人として名高い松花堂昭乗による「天下第一」の賞賛は、この茶入が持つ美術的価値の高さを客観的に証明するものであり、近代における藤田平太郎と野村徳七による熾烈な競り合いの逸話は、時代を超えて人々を魅了し続けるこの茶入の持つ力を如実に物語っている。さらに、国司間道をはじめとする格調高い仕覆や、中国の古典に取材した堆朱の盆など、付属品の一つ一つにも歴代所有者たちの高い美意識と茶入への深い愛情が反映されており、全体として一つの調和した小宇宙を形成していると言えよう。
藤田美術館に大切に所蔵される現在も、国司茄子は日本の貴重な文化遺産として、多くの人々に深い感銘を与え続けている。その歴史的背景、美術的価値、そしてそれにまつわる人々の物語を理解することは、日本の茶道文化の深奥に触れ、その精神性をより深く味わうことに繋がるであろう。
本報告書が、この類稀なる名宝、国司茄子への理解を深める一助となれば幸いである。