本報告書は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した樂家初代・長次郎の作と伝えられる赤楽茶碗「早船(はやふね)」について、その造形的な特徴、歴史的背景、そして文化的な価値を、現存する資料に基づいて多角的に調査し、詳述することを目的とする。この茶碗は、桃山時代の茶の湯文化を象徴する名碗の一つとして、古くから茶人たちの間で高く評価されてきた 1 。
作者である長次郎(生年不詳~天正17年(1589年))は、千利休(天文11年(1522年)~天正19年(1591年))の指導のもと、侘び茶の精神を具現する樂茶碗を創始したと伝えられている 2 。赤楽茶碗「早船」が制作されたとされる天正年間後期(1573~1592年頃)は 1 、織田信長や豊臣秀吉といった天下人が茶の湯を政治的・社会的なコミュニケーションの手段としても用いた時代であり、茶の湯文化が隆盛を極めた時期にあたる 4 。千利休は、それまでの華美な唐物道具を中心とした茶の湯に対し、簡素で内省的な「侘び茶」の思想を大成させた。この思想的転換は茶道具の価値観にも大きな影響を与え、作為の少ない素朴な和物(わもの)、すなわち国産の茶道具が重視されるようになり、その中で樂茶碗は特筆すべき役割を果たした 5 。長次郎の茶碗は、まさにこの利休の侘び茶の精神性を映し出すものとして、従来の唐物至上主義の価値観に新たな視点をもたらしたのである。
なお、赤楽茶碗「早船」は「中興名物(ちゅうこうめいぶつ)」として名高く 1 、現在は畠山記念館(現・荏原畠山美術館)に所蔵されている 7 。しかしながら、本報告書作成にあたり参照した資料群からは、この茶碗が国の重要文化財に指定されているか否かについて、現時点では確定的な情報を得るには至らなかった。文化庁の国指定文化財等データベースの検索結果 1 や関連情報 7 によれば、「早船」が公式に重要文化財としてリストアップされている事実は確認されていない。この点については、本報告書の該当箇所で詳細に考察する。
赤楽茶碗「早船」の造形は、長次郎作品の特徴を随所に示しながらも、独自の個性を有している。
「早船」の寸法は、高さ約8.0cm、口径は約11.2cmから11.5cm(資料により11.3cmとするものもある)、高台径は約4.7cm、高台高さは約0.8cmから0.9cmと記録されている 7 。これらの数値は複数の資料でおおむね一致しており、手に馴染む頃合いの茶碗であったことが窺える。
成形は轆轤(ろくろ)を用いない手捏ね(てづくね)によるものであり 2 、その結果として生じる僅かな歪みや手の痕跡が、樂茶碗特有の温かみや「侘び」の風情を醸し出している。全体としては薄作りの造形であり 8 、口縁はやや内側に抱え込むように作られ 8 、「一文字作り(いちもんじづくり)」と呼ばれる高低差の少ない作行きで、口端はわずかに蛤端状(はまぐりばじょう)を呈していると評される 10 。胴はほぼまっすぐに立ち上がり、腰にかけて緩やかな丸みを帯びる 8 。特に腰部には、大きな箆目(へらめ)が二筋、段状に巡らされており、胴と腰との境界を明確に意識させる造形となっている 10 。
釉薬は、低火度で焼成される赤楽釉が用いられている 1 。茶碗の内側全面と外側の胴の大部分、及び腰の一部には赤釉が施され、腰の大部分と高台、高台裏全面には白釉がかけられている 10 。
この赤釉の色調は「淡い諸色(もろいろ)」と表現され、長次郎の赤楽としては珍しく透明感があり、鮮麗さが感じられると指摘されている 7 。これは、一般的な長次郎の赤楽釉が比較的マットな(艶消しの)仕上がりであることと比較して、特筆すべき点である。一方、白釉は、胴や腰、あるいは高台際にかかった部分が灰色を呈し、大部分は変化して青黒い色調(資料によっては青鼠色とも表現される)になっている 8 。この青鼠色の釉が、胴から高台にかけて山形に流れる様は、「早船」の独特な「景色」として高く評価されている 8 。樂焼、特に赤楽は焼成温度が比較的低いため、釉薬の溶け方や発色が不安定になりやすい特性を持つが 1 、長次郎はこのような条件の中で、利休の求める「侘び」の美意識に合致する景色を追求したと考えられる。「早船」に見られる赤釉の「鮮麗感」や白釉の「青黒い変化」は、特定の焼成条件や釉薬の調合の結果であり、長次郎の赤楽の中でも特徴的な作例と言えよう。
また、口縁から腰回りにかけては長い貫入(かんにゅう:釉の表面に生じる細かいひび模様)が見られ、黒漆による修繕(継ぎ)が施されている 7 。資料によっては、六カ所に割れたものを継いだと記されているものもある 10 。この修繕の跡は、単なる欠点としてではなく、むしろ「早船」の重要な見どころの一つとされ、物を大切に使い続ける日本の伝統的な精神文化や、「侘び」の美意識を反映したものとして肯定的に解釈されている 7 。不完全さの中に美を見出す「侘び寂び」の精神の現れであり、単なる機能回復以上の価値を茶碗に付与している。これらの作為(手捏ね、施釉)と無作為(窯変、破損と修繕)が一体となった美の境地は、「早船」の唯一無二の個性を形成する上で重要な要素となっている。
高台は比較的小さく作られている 8 。腰と高台の境や、高台裏の回りにも箆跡が残り、高台の輪郭がくっきりと意識されている。高台裏は低い巴状(ともえじょう)をなしている 10 。高台の直径は約4.7cmである 7 。
目跡(めあと:焼成時に器物が窯床や他の器物と融着するのを防ぐために置かれた支えの跡)については、高台の畳付(たたみつき:高台の底面で接地する部分)には明瞭なものが二つのみ確認されるが、見込み(みこみ:茶碗内側の底部分)には不正五角形状に点々と目跡がはっきりと認められるという 10 。この見込みの目跡は、畳付の目跡に比べて大きく、小豆粒の半分ほどの大きさとされる 10 。
赤楽茶碗「早船」の名は、その背景にある数々の逸話や伝承と分かち難く結びついている。
「早船」という銘の由来については、いくつかの説が伝えられている。最も広く知られているのは、千利休が茶会を催すにあたり、この茶碗を京都から大坂へ急ぎ取り寄せさせた際、船便を用いた、あるいは特別に早船を仕立てて運ばせたという逸話に由来するというものである 7 。この逸話は、茶会にとってこの茶碗がいかに重要であったかを物語っている。
もう一つの興味深い説は、利休が茶席で客であった細川三斎(忠興)から「これは何焼の茶碗か」と問われた際に、「早船を仕立てて高麗(こうらい)から取り寄せたものだ」と当意即妙に答えたというものである 15 。楽茶碗を高麗から取り寄せるはずはないため、これは利休の機知に富んだ座興であったと解釈されている 16 。当時、高麗茶碗は非常に高く評価されていた。利休が国産である楽茶碗をあえて「高麗から」と冗談めかして言ったことは、若い細川三斎の性急な問いを巧みにいなすウィットであると同時に、新しい楽茶碗に箔をつけ、既存の価値観(唐物・高麗物至上主義)に挑戦する意図があった可能性も考えられる。この出来事が、「早船」が名物としての評価を高める一因になったとされている。これらの逸話は、茶碗に物語性を付与し、その文化的価値を高める効果があり、利休自身がそのような価値創造のプロセスを意識していた可能性も示唆している。結果として、「早船」は単に「急いで運ばれた茶碗」以上の、「利休の機知と物語に彩られた名碗」としての地位を確立したのである。
この茶碗には、千利休の真筆と伝えられる添状(そえじょう)が付属しており、「早船茶碗の文」とも呼ばれている 7 。この書状は、天正14、5年頃(1586、1587年頃)のものと推定されている 16 。
その内容は、利休が古田織部、蒲生氏郷、細川三斎の三人を招いた茶会の後、氏郷と三斎がそれぞれ茶碗(氏郷が「早船」、三斎がおそらく黒楽「大黒」)を所望したことに対し、利休が思案の末、「早船」をまもなく下向する氏郷への餞別(せんべつ)とし、黒楽「大黒」を実子である紹安(じょうあん)に与えることを決め、その旨を伝えるものである 16 。そして、何も得られなくなる三斎の心情を慮り、年長者である古田織部に三斎への取りなしと説得を依頼している 16 。
この書状の宛名は「両三人まいる」と一見奇妙な形になっているが、これは直接的には茶碗を所望した三斎と氏郷の「両人」に宛てつつも、織部にもこの手紙を見せて話し合ってもらうことを期待した、利休の意図の現れであると解釈されている 16 。この添状は、当時の茶道具が単なる器物としてだけでなく、武将間の贈答品や人間関係を取り持つ媒介としても機能していたこと、そして利休がその中でいかに慎重に配慮を巡らせていたかを示唆する、極めて貴重な歴史資料である。名物茶道具が人間関係や社会的地位を左右するほどの力を持ち、茶の湯の場がそうした力学の働く舞台でもあったことを物語っている。
上記の添状が書かれるに至った背景には、利休と当時の名だたる武将茶人たちとの間の交流があった。添状に名が見える蒲生氏郷は利休七哲の一人に数えられる武将であり 17 、細川三斎(忠興)や古田織部もまた、利休門下で茶の湯に深く通じた人物であった。
ある暁、この三人が利休のもとを訪れた。これは氏郷の出発を間近に控えた送別の茶会であったと推測される 16 。利休はこの茶会で、長次郎作の新しい二つの茶碗、すなわち赤釉の「早船」と黒釉の「大黒」を用いた。席中での主客のやりとりから、これらの銘が付けられたとされる 16 。三斎は「早船」を、氏郷は「大黒」をそれぞれ所望したが、利休は即答を避けた。その後、三斎からの重ねての所望の手紙を受け、利休は上記の添状を書くに至ったのである 16 。利休が「早船」を最も愛玩していたこと、そしてこの二人の有力な武将からの所望に苦慮したことが、添状の内容からも窺い知ることができる 10 。
赤楽茶碗「早船」は、その制作背景と後の所有者の変遷においても、日本の茶道史や美術品蒐集史における重要な位置を占めている。
長次郎七種(ちょうじろうしちしゅ)は、時に利休七種(りきゅうしちしゅ)とも呼ばれ、樂家初代長次郎が制作した茶碗の中から、千利休が特に優れたものとして選び出したと伝えられる七つの名碗の総称である 10 。これらは黒楽茶碗三碗と赤楽茶碗四碗から構成される。黒楽は「大黒(おおぐろ)」、「東陽坊(とうようぼう)」、「鉢開(はちびらき)」、赤楽は「早船(はやふね)」、「木守(きまもり)」、「検校(けんぎょう)」、「臨済(りんざい)」である 13 。
この長次郎七種の中で、赤楽茶碗「早船」は、赤楽四碗のうち唯一現存する、あるいは完器に近い状態で現存する唯一の作品とされている点が極めて重要である 7 。他の赤楽茶碗の状況は以下の通りである。
この事実は、赤楽茶碗「早船」の歴史的および資料的価値を著しく高めている。以下に長次郎七種の赤楽茶碗の概要と現況をまとめる。
表1:長次郎七種・赤楽茶碗の概要と現況
銘 |
逸話・特徴の要点 |
現存状況 |
主な所蔵(判明分) |
早船 |
利休が早船で取り寄せた逸話。長次郎七種赤楽で唯一現存。 |
現存(修繕あり) |
畠山記念館 |
木守 |
来年の豊作を願い木に残す果実に見立てた。関東大震災で被災。 |
破片が現存。樂惺入が破片を組み込み再現。 |
(高松松平家旧蔵) |
検校 |
利休が「皆々検校殿よ」と賞賛した逸話。 |
消失 |
― |
臨済 |
口作りの曲線が京都臨済五山を思わせる。織田有楽斎作の説あり。 |
消失 |
― |
赤楽茶碗「早船」の伝来は、桃山時代から現代に至るまでの数々の著名な茶人や蒐集家の手を経ており、それ自体がこの茶碗の価値を物語っている。
千利休の没後、添状に記された通り、この茶碗は蒲生氏郷の所有となった 10 。その後、京都の大文字屋宗夕(だいもんじやそうせき)、桔梗屋六右衛門(ききょうやろくえもん)、矢倉九右衛門(やぐらきゅうえもん)といった豪商たちの手を経たとされる 10 。これらの町人茶人の所蔵は、当時の経済力と文化的影響力の増大を反映している。
江戸時代に入り、矢倉九右衛門が所持していた折には、出雲松江藩主であり当代随一の大名茶人として知られる松平不昧(まつだいらふまい、治郷(はるさと))が熱心にこの茶碗の譲渡を望んだものの、その目的は果たされなかったという逸話が残っている 1 。これは、「早船」が当時から既に「大名物」に匹敵する極めて高い評価を得ていたことを示している。
明治時代になると、明治9年(1876年)に大阪の茶器商である戸田露吟(とだろぎん)の手に渡り、同13年(1880年)には金沢の茶人であり蒐集家でもあった亀田是庵(かめだぜあん)の所蔵となった 10 。
さらにその後、近代日本の実業界で活躍し、美術蒐集家としても名高い藤田平太郎(藤田美術館の設立者である藤田傳三郎の嗣子)や、同じく実業家で大原美術館の設立者である大原孫三郎といった、近代の大コレクターたちの手を経ることになる 10 。これは、近代における古美術品の価値の再編と、新たな文化のパトロンとしての蒐集家の登場を象徴している。
そして現在、赤楽茶碗「早船」は、実業家であり茶人でもあった畠山一清(はたけやまいっせい、即翁(そくおう))によって設立された畠山記念館(2024年秋より荏原畠山美術館としてリニューアルオープン予定)の所蔵となっている 7 。畠山記念館に収蔵されたことで、個人の所有を超えて広く一般に公開され、後世へと伝えられる道が開かれたのである。このように、「早船」の伝来は、各時代の社会構造、経済力、そして文化の担い手の変化を映し出す鏡であり、それ自体が歴史的価値を持つと言えるだろう。
赤楽茶碗「早船」は、その優れた造形と豊かな伝承に加え、日本の茶道史および陶磁史上において重要な文化的価値を有している。
赤楽茶碗「早船」は、松平不昧公所持の「中興名物」として古来より著名な名碗であり、長次郎作の赤楽茶碗の代表作、桃山時代における重要な作例として高く評価されてきた 1 。畠山記念館の公式ウェブサイトにおいても、「長次郎七種に数えられる赤楽茶碗では、これが現存する唯一である」と紹介されており、その希少性と重要性が強調されている 8 。
しかしながら、本報告書の序論でも触れた通り、文化庁の国指定文化財等データベースにおいて「赤楽茶碗 早船」または畠山記念館所蔵の長次郎作赤楽茶碗として検索した結果、現時点では重要文化財としての指定を確認するには至っていない 1 。長次郎作の他の赤楽茶碗、例えば「無一物(むいちもつ)」 1 や「太郎坊(たろうぼう)」 9 は重要文化財に指定されている。また、同じく長次郎七種に数えられる黒楽茶碗「大黒」 1 や「東陽坊」 30 も重要文化財である。
この状況は、「早船」が持つ歴史的・美術的重要性とその公式な文化財指定との間に何らかの背景が存在することを示唆している。例えば、茶碗に見られる修繕の状態が指定基準に影響する可能性や、所有者からの指定申請の有無などが考えられるが、現存する資料からは断定することはできない。茶道具の世界では「早船」の修繕跡は景色として肯定的に捉えられているが 7 、文化財指定の基準においては異なる評価がなされる可能性も否定できない。この「非指定」の事実は、「早船」の価値が低いことを意味するものではなく、むしろ「名物」としての評価が必ずしも国の指定と一致するわけではないという、日本美術の評価のあり方の一側面を示している可能性がある。茶道の世界における「名物」の評価は、作品自体の出来栄えに加え、伝来、逸話、そして実際に茶の湯の道具として使われてきた歴史(いわゆる「育ち」)といった要素が複雑に絡み合って形成される。これは、国の文化財指定の基準とは異なる評価軸が存在することを示唆していると言えよう。
赤楽茶碗「早船」は、千利休の侘び茶の理念を色濃く反映した長次郎の作品として、日本の茶道史において極めて重要な位置を占めている 1 。手捏ねによる温かみのある造形、赤楽釉の独特の表情は、初期楽焼の様式を今に伝える貴重な作例として、日本陶磁史上においても高い価値を持つ 1 。特に、長次郎七種の赤楽茶碗の中で唯一現存する、あるいは完器に近い状態で伝世する唯一の作品であるという点は 7 、その資料的価値を一層高めている。
赤楽茶碗「早船」は、現在、東京都港区白金台にある畠山記念館(2024年秋より荏原畠山美術館としてリニューアルオープン予定)に所蔵されている 7 。同館のコレクションを代表する名品の一つとして、折々の展覧会などで一般に公開される機会がある 28 。畠山記念館は、創立者・畠山一清の茶の湯に対する深い理解を反映し、茶室を念頭に置いた展示空間で作品を鑑賞できる環境を提供しており 28 、「早船」もまた、その本来の姿に近い形で鑑賞者に感銘を与えている。
赤楽茶碗「早船」は、樂家初代長次郎の卓越した造形力、千利休の深遠な美意識、そして数々の歴史的逸話と輝かしい伝来によって、他に類を見ない重層的な魅力を持つ名碗である。その手捏ねによる柔らかなフォルム、赤楽釉と白釉が織りなす独特の景色、そして黒漆による修繕の跡さえも味わいとして取り込む美意識は、桃山時代の茶の湯の精神を色濃く反映している。
さらに、「早船」という銘の由来にまつわる利休の機知に富んだ逸話や、有力武将たちがこの一碗を巡って繰り広げた人間模様を伝える添状の存在は、この茶碗に比類なき物語性を与えている。そして何よりも、長次郎七種の赤楽茶碗の中で唯一現存する、あるいは完器に近い形で伝世する唯一の作品であるという事実は、その歴史的・資料的価値を揺るぎないものにしている。
赤楽茶碗「早船」は、その物理的な美しさだけでなく、背景にある豊かな物語性と学術的な希少性によって、今日においても多くの人々を魅了し続けている。畠山記念館(現・荏原畠山美術館)による適切な保存管理と、展覧会を通じた公開は、この貴重な文化遺産が後世へと確実に継承されていく上で極めて重要な意義を持つと言えよう。この一碗を通して、我々は桃山時代の茶人たちの息遣いや、時代を超えて受け継がれる美の力を感じ取ることができるのである。