最終更新日 2025-05-30

四十石

四十石

戦国時代の名物茶壺「四十石」に関する調査報告

序論:名物茶壺「四十石」とその時代背景

戦国時代は、下剋上の風潮が吹き荒れる一方で、茶の湯文化が武将たちの間で隆盛を極めた時代でもあった。茶の湯は単なる喫茶の行為を超え、政治的な交渉や社交の場として重要な役割を担い、そこで用いられる茶道具、特に「名物」と称される優れた道具は、所有者の権力、富、そして文化的洗練度を象徴するものとなった 1 。茶器は美術品としての価値のみならず、時には一国の価値にも匹敵するとされるほどの経済的価値を持ち、武将たちはこぞって名物を収集した 1

本報告書では、数ある名物茶道具の中でも、特にその伝来の特異性から注目される葉茶壺「四十石(しじっこく)」について、詳細かつ徹底的な調査を行う。この茶壺は、室町将軍家から織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という天下人たちの手を渡り歩いたとされ、その名は米四十石(当時の価値で広大な農地)と交換に入手されたことに由来すると伝えられている 1 。しかしながら、その具体的な姿や現在の所在については謎に包まれており、本調査は、現存する史料や記録を丹念に読み解き、「四十石」の歴史的実像に迫ることを目的とする。戦国時代において、茶道具が社会的・政治的な資本としての側面を強く持っていたことを鑑みれば、「四十石」のような名物茶壺の調査は、単なる美術史研究に留まらず、当時の政治文化を理解する上でも重要な意義を持つと考えられる。

第一章:「四十石」の名称の由来と初期の伝来

「四十石」という銘の起源:関本道拙の逸話

「四十石」という特徴的な銘は、その入手経緯に由来するとされる。室町時代、京都千本に住した関本道拙(せきもとどうせつ)という人物が、当時百疋から二百疋程度の価値であった真壺(優れた茶壺)を、米四十石が収穫できるほどの価値を持つ田地と引き換えに手に入れたという逸話が伝えられている 2 。この米四十石という評価は、当時の経済状況を考えると極めて高額であり、それだけの価値をこの茶壺に見出した道拙の審美眼と、茶道具に対する当時の人々の熱狂ぶりを物語っている。この交換が、「四十石」という銘の直接的な由来となったと考えられている 1

この名称自体が、当時の経済感覚と茶道具の異常なまでの価値の高騰を如実に示している。米四十石は相当な量の米であり、それを産出する田地は大きな経済基盤を意味する。この名は、単なる識別符号ではなく、その茶壺が持つ経済的価値と、それを手に入れるために支払われた代償の大きさを常に想起させるものであり、後の所有者たちにとっても、その価値を再認識させる効果があったと推察される。

足利義政と東山御物

関本道拙が入手したこの茶壺は、やがて室町幕府八代将軍足利義政の知るところとなる。義政はこの茶壺を高く評価し、自らが収集した美術工芸品のコレクションである「東山御物(ひがしやまごもつ)」の一つに加えたとされている 2 。東山御物とは、足利将軍家、特に義政が東山山荘で蒐集・鑑賞した中国(宋・元・明)の絵画や工芸品を中心とする名品の総称であり、これに選定されることは、その道具が当代随一の美術品であることを公に認めるものであった 5

一説には、「四十石」という銘は、この東山御物に加えられた後に正式に命名されたともいう 4 。この説が正しければ、義政がその価値を改めて評価し、公的なものとして認定した行為と解釈できる。関本道拙の逸話が「通称」や「由来」として語られ、義政によって正式な「銘」として権威付けられた可能性が考えられる。東山御物への編入は、「四十石」の価値を不動のものとし、義政の審美眼によって選び抜かれたという事実は、後世の権力者たちにとって、この茶壺を所有することの文化的権威性を保証するものであった。義政の時代は、書院茶の様式が確立され、唐物名物が特に珍重された時代であり、「四十石」がこのコレクションに加わったことは、それが当時の最高峰の美術品の一つとして公認されたことを意味する。この「箔」が、後の時代における争奪の対象となる要因の一つとなったと考えられる。

第二章:天下人たちの手を渡った「四十石」

東山御物散逸後の流転

室町幕府の権勢が衰退し、足利将軍家が収集した東山御物も次第に散逸していく中で、「四十石」もまた新たな所有者のもとへと渡る。記録によれば、東山御物散逸後、「四十石」はまず南都(奈良)の茶人であった蜂屋紹佐(はちやじょうさ)の手に渡り、その後、経済都市として繁栄を極めた堺の豪商・銭屋宗訥(ぜにやそうとつ)が所持したと伝えられている 2

東山御物の散逸は、名物道具が中央の権力者から地方の有力者や新興の商人階級へと拡散する一つの契機となった。特に堺のような自由都市の豪商が「四十石」を所持したという事実は、当時の経済力と文化的影響力が、伝統的な武家階級以外にも拡大していたことを示す興味深い事例である。蜂屋紹佐や銭屋宗訥といった人物がどのような背景を持つ人物であったか、彼らがどのようにして「四十石」を入手し、手放したのか、その具体的な経緯は詳らかではないが、この時期の茶道具の流通経路や、茶の湯文化の担い手の多様性を窺わせる。

織田信長の所持

戦国の動乱期を経て、やがて「四十石」は天下統一を目指す織田信長の手に渡ったとされる 1 。信長は、武力による天下布武を進める一方で、茶の湯を政治的に利用し、名物道具の収集(いわゆる「名物狩り」)を積極的に行ったことで知られる 6 。信長にとって名物収集は、単なる個人的な趣味ではなく、自らの権力を誇示し、支配体制を強化するための重要な手段であった。「四十石」のような最高級の茶道具を所有することは、自身が文化の頂点に立つ者であることを天下に示す行為であり、その収集もまた、信長の文化戦略の一環であった可能性が高い。

信長が足利将軍家や有力寺社、豪商などから名物を集めたことは、旧体制の権威を吸収し、自らの新たな権威を確立する意図があったと考えられる。「四十石」の入手も、その象徴的な出来事の一つであったかもしれない。文禄二年(1593年)に宗魯が著した『仙茶集』所収の『唐物凡数』には、「一、四十石 大壺 羽柴殿へ出 之」との記述が見られる 7 。この史料は永禄年間から天正年間の名物リストとされ、道具の移動情報を含む点で貴重であり、この記述は信長から羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)へ「四十石」が渡った可能性を示唆するものとして注目される。

豊臣秀吉の時代:「天下一の壺」としての評価

本能寺の変と名物茶壺の焼失

天正十年(1582年)六月、本能寺の変において織田信長が横死すると、彼が所有していた多くの名物茶道具もその運命を共にした。特に葉茶壺においては、信長秘蔵の「三日月(みかづき)」と「松島(まつしま)」という二つの天下に名高い名物が、この時に焼失したと伝えられている 2 。これらのライバルとも言うべき名壺の喪失は、「四十石」の価値を相対的に、そして絶対的に高める大きな要因となった。

これにより、「四十石」は豊臣秀吉の時代において「天下一の壺」と称されるようになったとされる 1 。「天下一」という称号は、単に品質が優れていることを示すだけでなく、他に比類なき唯一無二の存在であることを意味する。秀吉はこの「天下一」の称号を政治的にも利用した可能性があり、天下統一を進める中で、文化的な至宝を独占することは、自らの権威を内外に示す上で効果的であったと考えられる。

賤ヶ岳の戦勝祝い

天正十一年(1583年)、羽柴秀吉が柴田勝家を破り、織田家内での主導権を確立した賤ヶ岳の戦いの後、その戦勝祝いとして、徳川家康から秀吉へ「四十石」が贈られたという記録が存在する 1 。この贈答は、単なる祝いの品という以上に、家康の秀吉に対する臣従の意、あるいは少なくとも当時の力関係を認める政治的ジェスチャーであったと解釈できる。名物道具が武将間の関係性を象徴する役割を担っていたことを示す好例であり、家康が秀吉の台頭を認め、友好関係を築こうとした戦略の一環であったとも考えられる。

徳川将軍家への伝来

豊臣秀吉の死後、「四十石」は再び徳川家康の手に渡り、その後、徳川将軍家に伝来したとされている 1 。その具体的な経緯については詳細な記録が待たれるが、「四十石」が最終的に徳川将軍家の所有となったことは、徳川幕府が名実ともに天下の支配者となり、文化的な権威も継承したことを象徴していると言えるだろう。江戸時代に入り、徳川家は多くの名物道具を収集・管理し、「四十石」もその中で、将軍家の権威を飾る重要な什器として扱われたと考えられる。その後の徳川家での扱いや記録の有無が、現存状況を解明する鍵となる。

表1:「四十石」伝来年表

時期

所有者

主な出来事・関連情報

典拠

室町時代中期

関本道拙

米四十石の田地と交換に入手

2

室町時代中期~後期

足利義政

東山御物に加えられる。「四十石」と命名(異説あり)

2

戦国時代

(東山御物散逸後)蜂屋紹佐

所持

2

戦国時代

銭屋宗訥

所持

2

安土桃山時代(天正年間)

織田信長

所持

1

安土桃山時代(天正年間)

豊臣秀吉

信長より伝来(『唐物凡数』に「羽柴殿へ出之」との記述 7 )。本能寺の変で「三日月」「松島」焼失後、「天下一の壺」と称される 2

1

天正11年(1583年)

豊臣秀吉

賤ヶ岳の戦勝祝いとして徳川家康より贈られる

1

安土桃山時代末期~江戸時代初期

徳川家康・徳川将軍家

秀吉死後、家康の手に渡り、徳川将軍家へ伝来

1

この年表は、「四十石」が辿った所有者の変遷と、各時代の主要な出来事を時系列で整理したものである。これにより、茶壺がどのような歴史的背景のもとで、誰から誰へと渡っていったのか、そしてその過程でいかに価値を高めていったのかが明確になる。特に、足利義政から徳川家康に至るまで、日本の歴史を動かした最高権力者たちがこの茶壺を所有していたという事実は、その重要性を何よりも雄弁に物語っている。

第三章:歴史的記録に見る「四十石」の姿

『宗湛茶湯日記』の記述

博多の豪商であり、当代一流の茶人でもあった神屋宗湛(かみやそうたん)が記した茶会記録『宗湛茶湯日記』には、「四十石」に関する貴重な記述が残されている。天正十五年(1587年)正月三日、豊臣秀吉が主催した大坂城での茶会の条に、その詳細を見ることができる 2 。この日、宗湛は早朝より大坂城へ出頭し、堺の茶人たちと共に茶会に臨んだ 11

その茶席の床の間には、「青楓 前ニ四十石、覆モエキ金地ノ金襴、シメ緒紅」と記されている 12 。これは、青楓を描いた掛け軸の前に「四十石」の茶壺が置かれ、その壺には萌黄色(鮮やかな黄緑色)の金襴(金糸を用いた豪華な織物)で作られた覆いが掛けられ、紅色の緒で結ばれていた、という情景を伝えている。この記述は、当時の茶会における「四十石」の荘厳な扱われ方、そして秀吉の美意識を反映した床の間の飾り付けの様子を具体的に示している。

「青楓」は初夏を思わせる画題であり、季節感の演出を意図したものであった可能性が高い 13 。「萌黄色の金襴の覆い」と「紅色の締め緒」という取り合わせは、金碧を好んだ秀吉の豪華絢爛な趣味に通じるものがあり 15 、茶壺本体だけでなく、その付属品に至るまで最高のものが用いられていたことを示唆している。この記録は、単に「四十石」が茶会で用いられたという事実だけでなく、それがどのような美的空間の中に据えられ、鑑賞されていたかを具体的に伝える一次史料として極めて重要である。

北野大茶会での使用

同じく天正十五年(1587年)、豊臣秀吉は京都の北野天満宮において、身分を問わず参加を許した大規模な茶会、北野大茶会を催した。この歴史的な茶会においても、「四十石」が用いられたと記録されている 1 。北野大茶会は、秀吉の権勢と、茶の湯文化の広がりを天下に示す一大イベントであった。そこで「天下一の壺」と称された「四十石」が披露されたことは、秀吉の文化戦略の一環であり、彼のコレクションの質の高さと、文化に対する深い理解を誇示するものであったと言えるだろう。この茶会には多くの大名や町人が参加しており、「四十石」を衆目の前に出すことで、その存在と価値を広く知らしめ、秀吉の文化的権威を一層高める効果があったと考えられる。

『山上宗二記』における評価と記述

千利休の高弟であり、茶の湯の理論家としても知られる山上宗二が著した『山上宗二記』は、当時の名物道具に関する詳細な記述と評価を含む、茶道史研究における一級史料である。この中にも「四十石」に関する言及があり、「大壺の次第」として「三日月・松島・四十石」が並び称されている 8

具体的には、「一 四十石のお壺 このお壺、茶七斤半入る。関白様ものである。(中略)松島・三日月滅して後、天下一の壺であろう。その壺味は、三日月と同じ。さらに口伝がある。」との記述が見られる 4 。この記述は、利休時代の茶人たちの間で「四十石」がどのように認識され、評価されていたかを知る上で非常に重要である。「壺味(つぼあじ)は、三日月と同じ」という表現は、単なる物理的な形状や釉調を指すのではなく、茶壺が持つ風格、茶葉の保存性、あるいは茶を点てた際の風味への影響といった、より感覚的で総合的な評価軸が存在したことを示唆している。

「壺味」という言葉の正確な意味合いを現代において完全に理解することは難しいかもしれないが、当時の茶人たちが道具に対して抱いていた深い洞察力や美的感覚を反映していると言えるだろう。焼失した伝説的な名壺「三日月」と比較されることで、「四十石」の格の高さが一層強調されている。また、「さらに口伝がある」という一節は、この道具に関して何らかの秘伝的な知識や特別な評価、あるいは由来に関する逸話などが存在し、それが一部の茶人の間で語り継がれていたことを示しており、道具の神秘的な魅力を付加している。別の箇所では「御茶感味四十石ト同シ側」という記述もあり、この「感味」は「閑味(かんみ)」、すなわち静かで奥ゆかしい趣の当て字であり、茶道の理念における「わび・さび」に通じる評価軸を示している可能性も考えられる 17

『唐物凡数』(『仙茶集』所収)の記述

文禄二年(1593年)に宗魯(そうろ)が著したとされる茶書『仙茶集』に含まれる、地域別の茶湯名物記『唐物凡数(からものぼんずう)』にも、「四十石」に関する記述が見られる。「一、四十石 大壺 羽柴殿へ出 之」(四十石の大壺、羽柴殿へ献上される、または渡る)と記されており、これは「四十石」が「大壺」として認識され、羽柴秀吉の所持品であったことを裏付ける史料として重要である 7

「大壺」という表現は、葉茶壺としての「四十石」の大きさを具体的に示しており、他の史料に見られる「葉茶七斤半入る」といった記述と整合する。また、この『唐物凡数』が永禄年間から天正年間の情報を基にしているとされることから、秀吉への移動時期を推定する上でも参考となる。『唐物凡数』は、道具の名称だけでなく、その移動情報も記録している点で史料的価値が高いと評価されており 7 、「出之」という表現が献上を意味するのか、単なる所有者の移動を指すのかで解釈が分かれる可能性もあるが、いずれにしても秀吉の手に渡ったことを示す重要な証拠の一つと言える。

第四章:「四十石」の物理的特徴に関する考察

「四十石」の具体的な姿を明らかにする試みは、現存する史料の制約から困難を伴う。しかし、断片的な記述や類例との比較を通じて、その特徴の一端を考察することは可能である。

容量:「葉茶七斤半入」

複数の信頼性の高い史料において、「四十石」の容量は「葉茶七斤半入る」と一致して記載されている 2 。一斤を約600グラムと換算すれば、約4.5キログラムの葉茶を貯蔵できることになり、これは葉茶壺としてかなりの大きさであることを示している。さらに、「松島の壺よりもさらに大きい」という比較記述も 2 、その規模を裏付けている。この具体的な容量の記述は、「四十石」が抹茶を入れる小ぶりな「茶入」ではなく、大量の葉茶を保存するための「葉茶壺」であったことを明確に示している。

他の名物葉茶壺との比較

「四十石」と並び称された他の名物葉茶壺の記述と比較することで、その特徴を相対的に捉えることができる。例えば、本能寺の変で焼失した「三日月」は、「大きな瘤が七つあり、前に腰袋を附けたような格好で、横長の瘤がある。その様が前へ少し傾いたように見え、面白い」と、その特異な形状が詳細に記されている 4 。同じく焼失した「松島」も、「瘤が三十余りもあって景色がおもしろい」とされている 8

これに対し、「四十石」については、このような瘤に関する記述や、具体的な形状に関する詳細な描写は見当たらない。しかし、『山上宗二記』では「その壺味は、三日月と同じ」と高く評価されている 4 。このことから、「四十石」は「三日月」や「松島」のような瘤を持つ特異な形状ではなく、より古典的で端正な姿をしていた可能性、あるいは形状とは異なる次元での美しさ、例えば全体の均整や釉調の深み、茶葉の保存性といった点で優れていた可能性が考えられる。「壺味」が同じとされたのは、形状の類似ではなく、茶を入れた際の風味への影響や、道具全体が醸し出す格調の高さといった点での共通性を示唆しているのかもしれない。葉茶壺の評価軸として、外見的な特徴(景色)と、より内面的な「味」や風格が存在し、「四十石」は後者の点で特に優れていたと推測される。

材質・形状・釉薬に関する推定

「四十石」の材質(陶器か磁器か、土の種類など)、具体的な寸法(高さ、胴径、口径など)、釉薬の色や種類に関する直接的かつ詳細な記述は、残念ながら現存する資料からは見出すことができない。ここで注意すべきは、『山上宗二記』に「土は黒色。瘤が二つあり。下釉は白っぽい赤」という記述があるが、これは「四十石」と並び称された別の名物葉茶壺「松花(しょうか)」に関するものであり、「四十石」のものではないという点である 4

しかし、類例からある程度の推定は可能である。「四十石」が分類される「大名物葉茶壺」は、その多くが中国産(唐物)であり、特に呂宋(ルソン、現在のフィリピン)経由で舶載されたものが最上とされた 8 。呂宋壺は、元々は香辛料などの貯蔵・運搬用の壺として中国南部(広東省など)で作られた褐釉(褐色系の釉薬)の陶器などが主であり、それが茶の湯の流行に伴い茶壺として転用されたものである 19

また、「四十石」が加えられた東山御物に含まれる茶壺も、宋・元時代の中国陶磁が中心であった 5 。例えば、徳川美術館が所蔵する重要文化財「唐物茶壺 銘 松花」は、南宋から元時代の作とされ、高さ38.6cm 21 (別資料では高さ39.7cm、口径11.6cm、胴径33.2cm、底径12.7cm 24 )であり、施された灰釉は暗黄緑色を呈し、全体に胡麻のような小さな黒斑が見られると記録されている 24

これらの類例から、「四十石」も中国南部で生産された大型の陶製葉茶壺であった可能性が極めて高いと考えられる。釉薬については、呂宋壺に多い褐釉系や、「松花」のような灰釉系などが考えられるが、具体的な色調や質感までは不明である。寸法も「松花」に近い、堂々たる大型のものであったと推測される。「四十石」が「真壺(しんこ)」と称されたこと 2 も、その材質や焼成が優れていたことを示唆しており、例えば本焼の硬質な陶器であった可能性などが考えられる。しかし、これらはあくまで状況証拠からの推測であり、確証を得るには至っていない。

表2:主要名物葉茶壺比較表

容量

物理的特徴(推定含む)

主な伝来

逸話・評価

現状

典拠

四十石

葉茶七斤半入

大型、中国産陶器(呂宋壺の可能性)、形状・釉薬不詳

足利義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

「天下一の壺」、「壺味は三日月と同じ」

行方不明

2

三日月

不詳(大型)

大きな瘤七つ、特異な形状

織田信長

天下無双とされた

本能寺の変で焼失

4

松島

不詳(大型、「四十石」よりは小さい)

瘤三十余り

織田信長

景色が面白いとされた

本能寺の変で焼失

2

松花

葉茶七斤入

中国産陶器(呂宋壺)、高さ約39cm、黒色の土、瘤二つ、下釉は白っぽい赤、灰釉

村田珠光、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

名人衆も驚くほどの茶の閑味

現存(徳川美術館蔵、重要文化財)

4

この比較表は、「四十石」を他の著名な葉茶壺と比較することで、その特徴(判明している範囲で)と、当時の葉茶壺に求められた価値基準を相対的に示すことを目的としている。容量の比較からはその大きさを、逸話の比較からはその評価の高さを相対的に把握できる。一方で、物理的特徴の欄で「不詳」が多いことは、今後の研究課題を示唆している。

第五章:「四十石」の現存状況と行方

「四十石」が徳川将軍家に伝来した後 1 、その消息は歴史の表舞台から徐々に薄れていく。この稀代の名壺が、その後どのような運命を辿ったのか、現存するのか否か、多くの茶道愛好家や歴史研究者の関心を集めるところである。

徳川家伝来以降の消息

徳川将軍家の所蔵となった「四十石」が、江戸時代を通じてどのように管理され、いつ頃までその存在が確認されていたのか、徳川家の公式な道具帳、御物台帳、あるいは明治維新以降の財産目録や売立目録などに記録が残されていないか、詳細な調査が求められる 25

大正時代に編纂された名物茶道具の図録『大正名器鑑』には、「四十石之御壺」という記述が見られる箇所がある 31 。また、同書には「(神屋宗湛日記の引用として)四十石の御松花裕子公方壺荒身五御物」といった記述も存在する 32 。前者の「四十石之御壺」が本報告で追跡している葉茶壺「四十石」を指すのか、あるいは後者の記述のように「松花」の異名や関連品、または全く別の「四十石」という名の道具(例えば茶入など)であるのか、慎重な検討が必要である。特に後者の記述は「松花」との関連が強く示唆されており、文脈を詳細に分析する必要がある。徳川家の記録は、「四十石」の明治維新前後の消息を知る上で最も重要な手がかりとなるが、これらの記録が膨大であることや、公開状況、アクセスの問題から、網羅的な調査は容易ではない。

焼失または逸失の可能性

歴史的名物の中には、不幸にして失われたものも少なくない。本能寺の変における「三日月」や「松島」の焼失は既に述べた通りであるが 2 、その他にも近世から近代にかけての度重なる火災、関東大震災 33 や第二次世界大戦における戦災など、多くの文化財が危機に晒されてきた。「四十石」についても、これらの災害や、あるいは所有者の変遷の過程で所在不明となった可能性は否定できない 2

「四十石」ほどの高名な茶壺の行方が現在明らかでないこと自体が、何らかの理由で歴史の表舞台から姿を消した可能性を示唆している。例えば、関東大震災では水戸徳川家の什宝が被災した例もあり 33 、徳川宗家や御三家、その他の分家が所蔵していた場合、同様の被害を受けた可能性も考慮に入れる必要がある。また、明治維新後の社会変動や、戦後の混乱期などに散逸し、海外へ流出したケースも考えられる。

現存する場合の所蔵先の可能性

もし「四十石」が今日まで無事に伝えられているとすれば、その所蔵先として考えられるのは、歴史的な茶道具を多数所蔵する主要な博物館や美術館、あるいは個人のコレクションであろう。具体的には、徳川家ゆかりの徳川記念財団 1 や徳川美術館 21 、あるいは東京国立博物館 43 、京都国立博物館 48 、五島美術館 53 、畠山記念館 55 、野村美術館 57 などが挙げられる。

ここで特に注意すべきは、野村美術館が所蔵する「四十石」という銘の茶道具の存在である 57 。しかし、この「四十石」は、その形状が「丸く文琳とも思える茄子である」と記述されており、これは抹茶を入れる「茶入」を指すものと考えられる。本報告の調査対象である「葉茶壺」の「四十石」とは、器種が明確に異なるため、混同しないよう留意が必要である。「四十石」という銘だけでは、茶入と葉茶壺の区別がつきにくいため、調査には細心の注意が求められる。

徳川美術館には、かつて「四十石」と並び称された重要文化財「唐物茶壺 銘 松花」が現存している 21 。「四十石」も同様に徳川家ゆかりの美術館に秘蔵されている可能性は皆無ではないが、現在のところ公開されている情報からはその存在を確認することはできない。

各種図録・データベースの調査状況

『大正名器鑑』 31 、『茶道大辞典』(淡交社版 7 、角川書店版 7 )、『茶道美術全集』 65 といった主要な茶道具関連の文献や図録を調査したが、「四十石」の葉茶壺に関する現物特定につながる明確な図版や、現在の所蔵者を示す情報は得られなかった。

また、国立国会図書館デジタルコレクション 9 、文化遺産オンライン 21 、CiNii(NII学術情報ナビゲータ サイニィ) 10 などの学術データベースを検索した結果も同様であった。既存の主要な図録やデータベースに「四十石」の現物を示す明確な情報が見当たらないことは、その行方不明の可能性を補強する材料となる。ただし、非公開の個人コレクションや、未整理の寺社伝来品として存在する可能性も完全には排除できない。『大正名器鑑』のような古い図録に名前が記載されていても、その後の関東大震災や戦災、所有者の変遷などで失われたり、所在が不明になったりするケースは歴史的文化財にはしばしば見られることであり、これらの図録の情報は、あくまで過去のある時点での存在証明に過ぎず、現在の状況を直接示すものではないことに留意が必要である。

結論:茶壺「四十石」の歴史的意義と残された謎

本報告を通じて、名物葉茶壺「四十石」が日本の歴史、特に戦国時代から安土桃山時代にかけての茶道文化と武将たちの価値観の中で、いかに特異な存在であったかが明らかになった。その名は、米四十石にも匹敵する田地と交換されたという逸話に由来し 1 、足利義政によって東山御物の一つに加えられ、その価値を不動のものとした 2 。その後、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という天下人たちの手を渡り歩き、特に秀吉の時代には、本能寺の変でライバルとなる名壺「三日月」「松島」が焼失したことにより、「天下一の壺」とまで称される栄光を手にした 2 。『宗湛茶湯日記』には大坂城での茶会で荘厳に飾られた様子が記され 12 、『山上宗二記』ではその「壺味」が高く評価されるなど 4 、当時の茶人たち垂涎の的であったことが窺える。この茶壺は、単なる器物を超え、所有者の権威と文化的力量を象徴し、時には政治的な駆け引きの道具ともなった、まさに時代の精神を映す鏡であったと言えよう。

しかしながら、その輝かしい伝来とは裏腹に、「四十石」の具体的な物理的特徴、すなわち形状、寸法、材質、釉薬などに関する詳細な一次史料は極めて乏しい。容量が「葉茶七斤半入」であること 2 、そして「松島の壺よりもさらに大きい」 2 といった記述から、大型の葉茶壺であったことは確実であるが、その姿を具体的に思い描くことは難しい。

そして何よりも大きな謎は、徳川将軍家に伝来した後の消息が途絶え、現在の確実な所在が不明であるという点である。数々の歴史的災害や社会変動の中で失われたのか、あるいは今もどこかで人知れずその姿を留めているのか、確たる証拠は見つかっていない。

「四十石」の物語は、一つの茶壺が持つ物理的な存在を超え、時代の精神や権力者の欲望、文化の変遷を映し出す鏡として機能してきた。その行方が不明であることは、歴史の奥深さと、失われた、あるいは見失われた文化財への追憶を我々に喚起させる。今後の研究においては、徳川家関連史料の更なる博捜、国内外の未公開コレクションの調査、地方に埋もれた古記録の発掘などが、「四十石」の謎を解明する鍵となる可能性を秘めている。この名壺の追跡は、日本の文化史におけるミッシングリンクの一つを埋める試みであり続けるであろう。

参考文献

本報告書作成にあたり参照した主要な情報源は、本文中に角括弧で示した各識別子に対応する資料群である。具体的には、『茶道辞典』、『山上宗二記』、『宗湛茶湯日記』などの古典籍の記述を参照した鶴田純久氏のウェブサイト記事 2 、serai.jp の記事 1 、文化遺産オンラインのデータベース情報 21 、『大正名器鑑』のデジタル化資料 31 、その他、各博物館のウェブサイトや学術論文などが含まれる。詳細なリストは割愛するが、各記述の典拠は本文中に示した通りである。

引用文献

  1. 戦国大名や商人が熱狂した「茶器」|初花肩衝など有名な茶器を解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1143333
  2. 四十石 しじゅっこく - 鶴田 純久の章 https://turuta.jp/story/archives/8793
  3. 石黒道提(いしぐろ どうてい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E9%BB%92%E9%81%93%E6%8F%90-1053303
  4. 『山上宗二記』の真実 第七回 - 日本文化のよろづブログ http://kotonohaan.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-3205-1.html
  5. 東山御物(ひがしやまごもつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%BE%A1%E7%89%A9-364532
  6. なぜ、武士に茶の湯が? http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/social0_26.pdf
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