伊東長実(いとう ながざね)は、永禄3年(1560年)に生を受け、寛永6年(1629年)にその生涯を閉じた、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を駆け抜けた武将である 1 。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という、天下の覇権をめぐり相争った三英傑の時代に身を置き、最終的には備中国岡田藩初代藩主として家名を後世に残したその生涯は、波瀾に満ちている 2 。
若くして羽柴秀吉に仕え、その麾下で武功を重ねて頭角を現し、豊臣政権下では大名分となる一万石余の所領を得るに至った。しかし、秀吉の死後、天下の形勢が大きく動揺する中で、長実は極めて重大な決断を下す。関ヶ原の戦いの直前、石田三成方の挙兵計画を徳川家康に密告したのである。この行動は、彼のその後の運命を大きく左右することになる。豊臣家恩顧の譜代家臣でありながら、大坂の陣では豊臣方として参戦しつつも、徳川方へ内通していたとも伝えられ、その複雑な立場がうかがえる。大坂落城後、多くの豊臣方武将が厳しい処断を受ける中で、長実は異例とも言える赦免を受け、徳川政権下で備中岡田藩の藩祖となることを許された。この一連の経緯について、歴史家の桑田忠親氏は長実の行動を「陰険である」と評しているが 2 、その評価の当否も含め、本報告書では長実の生涯における重要な転機となった出来事の背景、彼の動機、そしてそれが歴史に与えた影響を深く掘り下げて考察する。
本報告書では、伊東長実の生涯をより深く理解するための一助として、以下の表を適切な箇所に掲載する。
これらの情報を参照しつつ、伊東長実という一人の武将の生き様を通じて、戦国乱世から近世へと移行する時代のダイナミズムと、そこに生きた人々の複雑な人間像に迫りたい。
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
出典 |
1560年 |
永禄3年 |
尾張国にて伊東長久の子として生まれる。 |
1 |
1573年頃 |
天正元年頃 |
父・長久と共に羽柴秀吉に仕える。 |
2 |
1576年 |
天正4年 |
秀吉の大母衣衆(黄母衣衆)に抜擢される。 |
2 |
1578年 |
天正6年 |
三木城攻めで功績を挙げ、織田信長より金の熨斗付き刀脇差を賜る。 |
2 |
1583年 |
天正11年 |
賤ヶ岳の戦いで槍働きを称賛され、越前国内に600石を与えられる。 |
2 |
1585年 |
天正13年 |
父・長久の死により家督と役職を相続し、秀吉直臣の馬廻組頭となる。摂津国豊島郡止々呂美村で230石を加増される。 |
2 |
1590年 |
天正18年 |
小田原の役に秀吉本陣の馬廻組衆を率いて従軍し、戦功を挙げる。 |
2 |
1591年 |
天正19年 |
備中国川辺に1万300石の所領を与えられる。 |
2 |
1593年 |
文禄元年 |
文禄の役で肥前名護屋に駐屯する。 |
2 |
1600年 |
慶長5年 |
6月16日、大坂城から会津征伐に出陣する徳川家康に、石田三成一派の挙兵を密告する。 |
2 |
1614年 |
慶長19年 |
11月、大坂冬の陣に豊臣方として参陣。三の丸天神橋を守備するが、徳川方に城内情報を報告していたとされる。12月25日、岡山で徳川秀忠と会見。 |
2 |
1615年 |
慶長20年/元和元年 |
5月、大坂夏の陣に参戦。落城前に子の長昌と共に城を脱出し、高野山に隠れる。7月頃、家康に召され、秀忠に仕えることを許され、備中岡田藩初代藩主となる。 |
2 |
1629年 |
寛永6年 |
2月17日、死去。享年70。 |
1 |
伊東長実は、永禄3年(1560年)、尾張国岩倉において、伊東長久の子としてその生を受けた 1 。伊東氏は、遠く日向国の名族伊東氏と祖を同じくすると伝えられ、元は相模国の出身であったが、長実の祖父・長時の代に尾張岩倉へ移り住んだとされる 5 。
父である伊東長久は、織田信長に仕え、その精鋭部隊である赤母衣衆の一人に数えられた武勇の士であった 5 。特に槍術に優れ、天文21年(1552年)の萱津の戦いでは、兜を着ける暇もなく編笠をかぶって奮戦したことから、信長より「編笠清蔵」の異名を与えられたと伝わる 5 。長久は後に羽柴秀吉の配下としても活動し、小姓組七手を率いるなど、その武名は高かった。このような父の存在は、長実が後に武将として歩む道、とりわけ秀吉に仕える上で、少なからぬ影響を与えたものと考えられる。
伊東長実が歴史の表舞台にその名を現し始めるのは、天正元年(1573年)頃、父・長久と同様に羽柴秀吉に仕えてからである 2 。この時期、秀吉は織田信長麾下の一武将として、急速にその勢力を拡大しつつあった。長実が若くして、この上昇気流に乗る秀吉に仕えたことは、彼の武将としてのキャリアの出発点として極めて重要であった。
その才覚は早くから認められたようで、天正4年(1576年)には、秀吉の側近護衛部隊とも言うべき大母衣衆(黄母衣衆)に抜擢されている 2 。母衣衆は、主君の馬廻りにあって、伝令や戦闘時の決戦兵力として機能するエリート集団であり、武芸に秀で、かつ主君の信頼篤き者でなければ選ばれることはなかった 7 。この抜擢は、長実が単に父の縁故によって取り立てられたのではなく、彼自身の武勇や資質が秀吉によって高く評価されていたことを示している。秀吉がまだ信長の一家臣であった時期から、その側近くに仕える機会を得たことは、後の豊臣政権下における彼の「譜代」としての地位を形成する上で、決定的な意味を持つことになった。
黄母衣衆としての伊東長実は、秀吉が関わる数々の戦陣において、その武勇を発揮する機会を得た。
特筆すべきは、天正6年(1578年)の播磨三木城攻めにおける活躍である。別所長治が籠城し、織田軍を長期にわたり苦しめたこの戦いにおいて、長実は顕著な功績を挙げ、主君秀吉を通じて織田信長からも賞賛された。その証として、信長自ら金の熨斗が付いた刀脇差を授けられたと記録されている 2 。これは、一介の母衣衆であった長実にとって、最高の栄誉であり、彼の武名が一躍高まった出来事であった。
さらに、天正11年(1583年)に勃発した賤ヶ岳の戦いにおいては、柴田勝家軍との激戦の中で、長実はその槍働きを遺憾なく発揮し、秀吉軍の勝利に貢献した。この戦功は秀吉に高く評価され、恩賞として越前国内に600石の知行を与えられた 2 。賤ヶ岳の戦いは、秀吉が信長亡き後の天下取りレースにおいて主導権を握る上で決定的な戦いであり、ここでの活躍は、長実の秀吉家臣団における地位をより一層強固なものとした。
その後も長実の知行は着実に増加していく。天正12年(1584年)4月には、秀吉の家臣である平野長泰の知行の中から480石(『伊東家譜』によれば460石)が分与され、先の600石と合わせて都合960石の扶持を得ることになった 2 。これは、平野氏の与力としての立場であった可能性も示唆されるが、いずれにせよ、秀吉からの信頼が戦功を通じて具体的な恩賞へと結びつき、長実の経済的基盤が強化されていった過程を示している。秀吉からの個人的な信頼が、母衣衆への抜擢に繋がり、それが戦功を挙げる機会となり、さらにその戦功が信頼を深め、知行の加増へと繋がるという、好循環が長実の初期のキャリアを特徴づけていたと言えよう。
天正13年(1585年)8月、父・伊東長久が病没すると、長実はその家督及び役職を相続し、羽柴秀吉直属の馬廻組頭に任じられた 2 。馬廻組は、主君の身辺警護を主たる任務とし、平時には事務の取次ぎなどもこなす側近中の側近であり、その組頭は親衛隊の中核を統率する重要な立場であった 7 。父の代からの秀吉への忠勤と、長実自身のこれまでの戦功が評価され、秀吉の最も信頼する武将の一人として、その地位を確固たるものにしたのである。豊臣大名一覧にも、伊東長実(長次)は「尾張国人。織田家臣」出身で、「馬廻組頭」として備中国内に1万石を領したと記されている 8 。
この昇進と時を同じくして、同年9月には、摂津国豊島郡止々呂美村において230石の知行を加増されている 2 。これは、父の地位を滞りなく継承し、秀吉からの変わらぬ、むしろ増した信任を得ていることの証左であった。長実が秀吉の側近として一貫してキャリアを積み重ねていたことは、単なる武勇だけでなく、主君の意を的確に汲み取り、忠実に任務を遂行する能力、そして恐らくは政治的な立ち回りやバランス感覚をも兼ね備えていたことを示唆している。
豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階を迎える中で、伊東長実もまた、その重要な局面において中心的な役割を担った。
天正18年(1590年)、北条氏を屈服させるための小田原征伐が開始されると、長実は秀吉本陣の馬廻組衆700騎(あるいは600騎とも)を率いて従軍した 2 。この天下統一の総仕上げとも言うべき大規模な軍事行動において、総大将である秀吉の身辺を固める本陣の警護という枢要な任務を任されたことは、長実に対する秀吉の深い信頼を如実に物語っている。この戦役で長実は戦功を挙げ、その恩賞は彼の武将としてのキャリアにおける大きな転機となった。
小田原征伐の翌年、天正19年(1591年)、長実はその戦功を賞され、備中国川辺(現在の岡山県倉敷市真備町川辺)に1万300石の所領を与えられた 2 。これにより、長実は1万石以上の知行を持つ大名の列に加わることとなり、名実ともに豊臣政権下の有力武将の一人としての地位を確立した。この1万石という石高は、単なる加増以上の意味を持ち、豊臣政権内での彼の発言力や影響力を格段に高めるものであった。そして、この備中川辺の地は、後に彼が初代藩主となる岡田藩の揺籃の地となるのである。
続く文禄元年(1593年)に開始された文禄の役(朝鮮出兵)においては、長実は肥前名護屋城に駐屯したと記録されている 2 。直接朝鮮半島へ渡海して戦闘に参加したという具体的な記録は、提供された資料からは見受けられないものの、後方支援部隊の指揮や、国内の予備兵力としての待機など、重要な役割を担ったものと考えられる。
その後も長実に対する秀吉の信任は厚く、文禄3年(1594年)には播磨国山国村などで所領を加増され 2 、さらに文禄4年(1595年)正月、秀吉が草津へ湯治に赴いた際には、道中の野尻宿の警備を担当するという、身辺警護に関わる重要な任務を任されている 2 。これらの事実は、豊臣政権下で長実が安定してその地位を向上させ、秀吉の個人的な信頼を背景に、政権の中枢近くで活動していたことを示している。
伊東長実は、豊臣秀吉の晩年からその子・秀頼の時代にかけて、大坂七手組頭の一人に数えられていた 2 。大坂七手組は、豊臣秀頼を護衛する親衛隊的な性格を持つ組織であり、その構成員は豊臣家の譜代家臣の中でも特に武勇に優れ、忠誠心篤い者が選抜された。長実がこの七手組頭の一角を占めたことは、彼が豊臣家において極めて高い地位と、秀吉・秀頼父子からの深い信頼を得ていたことの証左である。
秀吉の死後も、長実は引き続き豊臣秀頼に仕え、大坂城詰衆としてその職務を続けた 2 。このことは、長実が単なる一代の功臣ではなく、豊臣家にとって「譜代中の譜代」とも言うべき、中核的な家臣として認識されていたことを示している。秀吉がまだ一介の武将であった頃から仕え始め、母衣衆、馬廻組頭と、常に秀吉の最も身近な親衛隊的役割を歴任し、天下統一事業の重要な局面で功績を挙げ、ついに1万石の大名へと立身した長実の経歴は、まさに豊臣譜代としての王道を歩んだものと言えよう。豊臣政権が安定し、その官僚機構が整備されていく中で、長実のような武断派でありながらも中央で主君を支える役割を担う武将は、政権の維持にとって不可欠な存在であった。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉がその波乱に満ちた生涯を閉じると、豊臣政権は大きな転換期を迎えた。幼少の秀頼を戴く政権は、五大老筆頭として絶大な影響力を持つ徳川家康と、故太閤の遺志を継ぎ豊臣家中心の政治運営を目指す石田三成ら奉行衆との間で、次第に対立を深めていく。この権力闘争は、やがて天下分け目の戦いへと発展する不穏な空気を日本全土に漂わせていた。
伊東長実は、前述の通り豊臣家の譜代家臣であり、大坂七手組頭として秀頼を護衛する重責を担う立場にあった 2 。彼の基本的な忠誠の対象は、当然ながら豊臣家、そして幼き主君秀頼であったはずである。しかし、秀吉という絶対的な権力者を失った豊臣政権の行く末には、多くの武将が不安を抱いていた。長実もまた、その一人であった可能性は否定できない。
このような緊迫した状況下で、伊東長実は歴史の針路を左右しかねない重大な行動に出る。慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のため大坂城を出陣するその日、長実は家康のもとを訪れ、石田三成ら反家康派が家康不在の隙を突いて挙兵する計画であることを密告したのである 2 。この情報は、まさに三成方の計画が実行に移されようとする直前の、極めて機密性の高いものであった。
この密告の具体的な内容や、長実と家康の間でどのようなやり取りがあったのか、その詳細を伝える史料は乏しい。しかし、この情報が家康にとって計り知れない価値を持っていたことは疑いようがない。家康はこの密告により、三成らの動きを事前に察知し、会津へ向かう軍勢を途中の下野国小山で反転させ、関ヶ原へと向かうという迅速な対応を可能にした。もしこの情報がなければ、家康は会津で上杉軍と対峙している間に、三成らによって畿内を制圧され、東西から挟撃されるという戦略的に極めて不利な状況に陥っていた可能性も考えられる。
長実のこの行動は、豊臣家の譜代家臣という立場からは明らかに逸脱するものであり、豊臣家に対する明白な背信行為と見なされても致し方ないものであった。しかし、彼がなぜこのような危険な賭けに出たのか。それは、秀吉亡き後の政情不安、とりわけ家康の圧倒的な実力と三成ら反家康派の勢力基盤の脆弱さを冷静に比較衡量した結果、来るべき天下の覇権争いにおいて家康が勝利する可能性が高いと判断し、自らの家と所領を保全するための、いわば保険をかけた行動であったと解釈できる。そこには、豊臣家への忠誠よりも、激動の時代を生き抜くための現実的な判断が優先されたのであろう。あるいは、石田三成ら豊臣政権中枢に対する個人的な不信感や、既に家康側から何らかの働きかけがあった可能性も排除できない。
伊東長実によるこの密告は、彼のその後の運命に決定的な影響を与えた。まず、この功績により、長実は徳川家康に接近する大きなきっかけを得た 2 。関ヶ原の戦い本戦において、長実が東西どちらの軍に属して戦ったかについての明確な記録は、提供された資料からは確認できない 10 。しかし、この密告行為こそが、後の大坂の陣における彼の処遇、そして最終的には大名としての存続を可能にする最大の要因となったのである。
歴史家の桑田忠親氏は、長実のこの密告が、家康を天下人へと押し上げる上で極めて重大な情報提供であったと指摘している 2 。情報が戦局を左右する重要性は論を俟たないが、関ヶ原のような天下分け目の戦いにおいては、一つの情報が文字通り歴史の行方を大きく変えうることを、長実の行動は示している。彼が単なる武勇に優れた武将であるだけでなく、情報のもつ戦略的価値を理解し、時勢を読む鋭敏な感覚を持ち合わせていた可能性がうかがえる。この「関ヶ原の転機」における長実の選択は、戦国乱世の価値観が色濃く残る時代において、主家への絶対的な忠誠よりも、より強力な勢力に与することで家名を存続させようとする、多くの武将が直面したであろう厳しい「選択」の現実を物語っている。
関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に石田三成の挙兵を密告するという重大な行動をとった伊東長実であったが、その後も表向きは豊臣家の家臣としての立場を維持し続けた。彼は大坂七手組頭としての職務を続け、大坂城詰衆として豊臣秀頼に仕えていたのである 2 。これは、家康との間に密かな繋がりを保ちつつも、豊臣家への忠誠を表面上は維持するという、極めて複雑な立場に身を置いていたことを示唆している。
そして慶長19年(1614年)11月、徳川家康が豊臣家に対して仕掛けた大坂冬の陣が勃発すると、長実は豊臣方として参戦する。彼は三千の兵を率い、大坂城三の丸の天神橋の守備を担当した 2 。大坂七手組頭という彼の立場からすれば、豊臣方としての参戦は当然の責務であり、一定規模の兵力を動員し得る有力武将として、大坂城の防衛の一翼を担ったのである。
しかし、この大坂冬の陣において、伊東長実の行動には不可解な側面が見られる。彼は豊臣方として戦いつつも、裏では徳川方の間者として大坂城内の情報を逐次、京都所司代であった板倉勝重に報告していたとされるのである 2 。これが事実であれば、関ヶ原での密告に続く、豊臣家に対する決定的な裏切り行為であり、彼の二重スパイ的な動きがより鮮明になる。
この内通の背景には、いくつかの要因が考えられる。一つには、長実の子である伊東長昌の妻が、板倉勝重の養女であったという姻戚関係である 2 。この関係が、情報伝達のルートとして利用された可能性は十分に考えられる。また、長実自身が、豊臣方の敗北を予期し、徳川政権下での自らの生き残りを確実にするための周到な戦略として、内通に踏み切ったという見方もできる。
大坂冬の陣が和議によって一旦終結した後、慶長19年(1614年)12月25日、長実は織田有楽斎や大野治長ら豊臣方の重臣たちと共に、備前国岡山において将軍徳川秀忠と会見している 2 。この会見のメンバーに長実が含まれていることは、彼が豊臣方の中でも一定の発言力を持つ人物と見なされていたか、あるいは既に徳川方との間に何らかのパイプが形成されていたことの現れとも解釈できる。
和議も束の間、翌慶長20年(1615年)に大坂夏の陣が勃発すると、豊臣家の命運は風前の灯火となった。5月7日の天王寺・岡山の戦いにおいて、長実は遊軍の一員として後方に布陣して戦ったとされるが、豊臣方の敗色が濃厚となると、大坂城落城を待たずして子の長昌と共に城を脱出し、高野山へと逃避した 2 。
大坂城落城後、徳川家康は高野山に対して大坂方の残党を捜索するよう厳命を下した。その過程で、長実親子が高野山に潜んでいることが文殊院応昌らによって通報されたが、意外にも江戸幕府は彼らを罪に問わず、赦免するという処置をとった 2 。
この赦免は、当時の状況を鑑みれば「極めて異例」なものであった 2 。大坂の陣で豊臣方に与した武将の多くが厳しく処罰された中で、長実がこのような寛大な扱いを受けた理由は、やはり過去の「功績」が大きく影響したと考えられる。すなわち、関ヶ原の戦いにおける石田三成挙兵の密告 2 、そして大坂冬の陣における内通活動が、徳川方によって高く評価された結果であろう。桑田忠親氏は、特に前者、関ヶ原での密告の功が赦免の主たる理由であると指摘している 2 。事実、大坂七手組頭の中で、主君秀頼に殉じなかったのは、夏の陣に参戦しなかった青木一重と、この伊東長実の二人だけであり、夏の陣に実際に参加した大名の中で、その存続を許された者は長実ただ一人であったという事実は 2 、彼の処遇がいかに特別であったかを際立たせている。
長実の一連の行動は、豊臣家への恩義よりも、自らの家門の存続と繁栄を最優先する、徹底した現実主義の表れであったと言える。それは、戦国時代を生き抜いてきた武将としての、状況判断能力と危機管理能力の高さを示すものであり、倫理的な評価は別として、結果として彼の家名を後世に残すことに成功した。徳川家康もまた、長実のような情報提供者や内通者を厚遇することで、他の潜在的な協力者を引き出し、敵対勢力を内部から切り崩すという、巧みな情報戦略・調略の一環として、この異例の赦免を行った可能性が高い。それは単なる温情ではなく、新政権の基盤を固めるための高度な政治判断であったと言えよう。
大坂夏の陣が終結し、豊臣家が滅亡した後の元和元年(1615年)7月頃、徳川家康は伊東長実(この頃には「長次」とも名乗っていた 2 )とその子・長昌を召し出し、二代将軍徳川秀忠に仕えることを正式に許可した 2 。そして、これまでの功績、特に豊臣家に対する内通行為への褒賞として、長実には新たな所領が与えられることになった。
その所領は、備中国下道郡、美濃国池田郡、摂津国豊島郡、そして河内国高安郡という四つの郡にまたがる形で、合わせて1万300石(史料によっては1万343石ともされる 4 )であった 2 。これにより、伊東長実は大名として取り立てられ、備中岡田藩が立藩されるに至ったのである。この立藩は、関ヶ原の戦いにおける石田三成挙兵の密告と、大坂の陣での内通という、徳川方にとって極めて有益であった一連の行動に対する、明確な論功行賞であったと言える 2 。
岡田藩の藩庁(陣屋)は、当初から一箇所に定まっていたわけではない。立藩翌年の元和2年(1616年)、長実はまず備中国下道郡服部村に藩邸を構えた。しかし、寛永元年(1624年)には同郡上二万村の豪農高見帯刀の屋敷に一時的に移り、さらに同年中には川辺村の土居屋敷へと藩庁を移転させている 2 。最終的に岡田村に陣屋が定着し、藩名が「岡田藩」として確立するのは、長実の没後のことであった。
伊東長実が初代藩主として、具体的にどのような藩政を行ったのか、例えば検地の実施、城下町の整備、あるいは産業の振興といった点に関する詳細な記録は、残念ながら提供された資料からは乏しい 4 。これは、岡田藩のような比較的小さな藩の、特に初期の記録が散逸しやすかったことや、長実自身の藩主としての治世が約14年間と、藩政の基礎を完全に固めるには必ずしも十分な期間ではなかったことなどが影響している可能性がある。
しかしながら、いくつかの点から初期藩政の状況を推察することは可能である。まず、岡田藩の所領は備中、美濃、摂津、河内と広範囲に分散しており、いわゆる飛地を多く抱えていた 12 。このような分散した所領を効率的に統治するためには、各地域に代官を派遣するなど、しっかりとした支配機構を整備し、家臣団を適切に配置することが急務であったと考えられる。史料には、藩祖長実に従属して各地の戦場を駆け巡り、主君の軍功を助けた譜代の臣(仙石氏、木崎氏、榊原氏など)が、代々岡田藩の重職を担ったと記されており 12 、これらの家臣が初期の藩政運営において中核的な役割を果たしたことがうかがえる。
また、前述のように藩邸を数度にわたり移転している事実は 2 、領国経営の最適地を模索していたか、あるいは財政的な制約、地理的な問題など、何らかの課題に直面しながら藩運営を行っていた可能性を示唆している。岡田藩は石高1万石余の外様小藩であり 3 、大規模な開発事業やインフラ整備よりも、まずは領内の治安維持、年貢収取システムの確立、そして支配体制の安定に注力したと考えるのが自然であろう。
伊東長実による岡田藩の立藩は、その後の伊東家による約250年間にわたる安定した統治の礎となった 3 。長実自身は寛永6年(1629年)に70歳でその生涯を閉じるが 1 、それまでの間に、藩主としての基本的な統治体制の構築に着手したことは間違いない。
長実の立藩は、徳川政権による論功行賞という側面と同時に、旧豊臣系大名を新体制に組み込むという二重の意味を持っていた。長実は豊臣恩顧の譜代家臣であり、大坂七手組頭という要職にあった人物である 2 。そのような人物を、たとえ内通者であったとしても、新政権下で大名として処遇することは、他の旧豊臣系大名に対する懐柔策、あるいは一種の見せしめとしての意味合いも持ち得た。長実の立藩は、個人の功績への報酬であると同時に、徳川幕府が新たな支配体制を構築していく上での政治的計算も含まれていたと考えられる。
江戸幕府初期の大名配置や処遇には、単なる功績評価だけでなく、新政権の安定化と支配体制の確立という高度な政治的意図が働いていた。岡田藩の成立もまた、その大きな文脈の中で捉えることができる。長実がその初代として家名を後世に残し、藩を存続させた意義は大きいと言えよう。
伊東長実の生涯を辿ると、その性格や能力に関していくつかの側面が浮かび上がってくる。
まず、 武勇と指揮能力 に長けていたことは明らかである。若年での母衣衆への抜擢、播磨三木城攻めや賤ヶ岳の戦いにおける顕著な戦功 2 、そして小田原征伐において一部隊を率いて本陣警護の任を果たしたこと 2 などは、彼が優れた武人であり、戦場での指揮官としても有能であったことを示している。
次に、 情報収集・分析能力と政治的嗅覚の鋭さ も特筆すべき点である。関ヶ原の戦い直前の徳川家康への密告 2 や、大坂の陣における内通疑惑 2 は、彼が情報のもつ戦略的重要性を深く理解し、政局の動きを読む鋭敏な感覚を持っていたことを物語っている。単に戦場での強さだけでなく、知略にも長け、情報を武器として活用する能力に秀でていた可能性が高い。彼のキャリア後半の成功は、武勇以上にこの情報戦略家としての側面が大きく寄与したと考えられる。
そして、最も顕著なのは、その 現実主義と生存戦略 である。豊臣家への長年の恩義がありながらも、最終的には徳川方に与することで自らの家と所領の安泰を確保しようとした一連の行動は、極めて現実主義的な判断に基づいていたと言える。これは、戦国乱世の厳しい生存競争を勝ち抜くための、ある種の処世術とも評価できるだろう。
提供された資料には、後の時代の岡田藩主について「性質は温厚というまさに名君で、家臣の意見をよく聞く人物だった。ただし、一部に感情の激しいところがあり、家臣を震え上がらせたとも言われている」という記述があるが 6 、これは長実自身を直接描写したものではなく、彼の子孫に関するものであるため、長実個人の性格を断定する材料とはならない。
歴史家の桑田忠親氏は、伊東長実の行動、特に豊臣家に対する裏切りや二重スパイ的な振る舞いを指して「行動が陰険である」と評している 2 。この評価は、主家に対する忠誠という伝統的な武士道徳の観点から見れば、一面の真実を捉えていると言えるかもしれない。
しかし、この「陰険」と評される行動も、見方を変えれば、激動の時代を生き抜き、家名を後世に残すための「したたかさ」や「計算高さ」であったと解釈することも可能である。長実の行動は感情的なものではなく、豊臣政権の不安定化と徳川家康の台頭という客観的情勢を冷静に分析し、将来を予測した上での、計算高いものであった。自らの家運を賭けて「勝ち馬」に乗ることを選択した彼の判断は、家の存続という武士にとっての至上命題を達成するための、非情ともいえるリアリズムの発露であった。
豊臣譜代としての立場を最大限に利用しつつ、最終的には徳川方に取り入ることで生き残りを図った彼の生涯は、忠誠や義といった観念だけでは割り切れない、戦国武将の複雑な実像を映し出している。倫理的な評価は分かれるとしても、結果として彼は家名を保ち、岡田藩の藩祖となることに成功した。そこには、旧時代の忠義に殉じるよりも、新時代を生き抜くことを選んだ、ある種の新しい武将像があったのかもしれない。
伊東長実の生涯は、織田信長の台頭から豊臣秀吉による天下統一、そして徳川幕府の成立という、日本の歴史における最も大きな転換期の一つを体現している。彼の処世術は、旧体制から新体制へと社会が大きく変動する過渡期において、個人や「家」がいかにして生き残りを図るかという、普遍的なテーマを我々に提示している。
彼の行動は、後世の価値観から見れば「裏切り」や「不忠」と映るかもしれない。しかし、当時の武士たちが置かれていた状況や、彼らが共有していた価値観の中で見れば、必ずしも単純に断罪できるものではない。むしろ、目まぐるしく変化する状況に的確に対応し、幾多の危機を乗り越えるための知恵と行動力の一つの形として捉えることも可能であろう。
伊東長実の生き方は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士の価値観の変容、あるいはその多様性を示す一例と言える。絶対的な忠誠が必ずしも最善の道ではなく、時には主家を変え、あるいは複数の勢力と関係を持つことで活路を見出そうとする武将も少なくなかった。長実の生涯は、そのような時代の複雑さと、そこに生きた人間のリアリティを我々に伝えている。
備中岡田藩初代藩主として、新たな時代にその足跡を刻んだ伊東長実であったが、寛永6年(1629年)2月17日、70年の生涯を閉じた 1 。法名は宗徳、戒名は金龍寺殿雲山宗徳大庵主と伝えられている 1 。
長実の没後、藩主の地位は、神子田正治の娘を母とする子・伊東長昌(ながまさ)が継承し、岡田藩二代藩主となった 1 。長実が築いた岡田藩は、その後も伊東家によって代々受け継がれ、幕末維新の動乱期に至るまで、10代の藩主にわたって約256年間存続したのである 3 。これは、初代藩主である長実が、激動の時代を乗り越えて築き上げた基盤がいかに強固であったか、そしてその後の藩主たちが堅実な藩運営を行った結果であると言えよう。伊東家は明治維新後、その由緒をもって華族に列せられ、子爵の爵位を授けられている 4 。
伊東長実によって創始された備中岡田藩は、石高1万石余の外様小藩として、江戸時代の歴史を歩んだ 3 。藩庁は、長実の時代に数度の移転を経た後、最終的には備中国岡田村の山屋敷(現在の倉敷市立岡田小学校の敷地)に定まった 4 。
岡田藩の歴史において特筆すべき事件の一つに、第五代藩主・伊東長救(ながひら)の治世、享保3年(1718年)に発生した「新本義民騒動(しんぽんぎみんそうどう)」がある 3 。これは、藩領内の新庄村と本庄村(現在の総社市新本)の村民が、入会地(共有林)の利用を巡って藩側と対立し、起こった農民一揆であった 16 。藩は財政確保や資源管理の観点から入会地を「お留山」として利用を制限したが、村民にとっては生活に不可欠な権利の侵害と映った。村民代表4名が江戸の藩主に直訴し、結果として要求の一部は認められたものの、代表者たちは処刑された。しかし、彼らは後に「義民四人衆」として顕彰され、その功績を称える碑が建てられている 4 。この事件は、近世小藩における領主と領民の関係性の複雑さや、村落共同体の抵抗の一形態を示す事例として重要である。
その他、岡田藩は地理的に高梁川下流域に位置していたため、度重なる水害にも見舞われた記録が残っている 18 。藩政においては、人材育成のための藩校として「敬学館」が設けられたことも知られている 18 。
幕末期には、鳥羽・伏見の戦いの後、新政府側に恭順の意を示し、備中松山城や姫路城の接収といった新政府軍の軍事行動にも藩兵を派遣している 19 。
現在、岡山県倉敷市真備町にある倉敷市真備ふるさと歴史館には、岡田藩に関連する古文書や歴史資料が数多く収蔵・展示されており、往時の藩の様子を偲ぶことができる 14 。
| 代 | 藩主名 | 在任期間 | 備考 | 出典 |
| -- | ------------- | ----------------- | ---------------------------------- | --------- |
| 1 | 伊東 長実(ながざね) | 1615年 - 1629年 | 藩祖 | 4 |
| 2 | 伊東 長昌(ながまさ) | 1629年 - 1640年 | | 4 |
| 3 | 伊東 長治(ながはる) | 1640年 - 1658年 | | 4 |
| 4 | 伊東 長貞(ながさだ) | 1658年 - 1693年 | | 4 |
| 5 | 伊東 長救(ながひら) | 1693年 - 1723年 | 新本義民騒動時の藩主 | 4 |
| 6 | 伊東 長丘(ながおか) | 1723年 - 1763年 | | 4 |
| 7 | 伊東 長詮(ながとし) | 1763年 - 1778年 | | 4 |
| 8 | 伊東 長寛(ながとも) | 1778年 - 1850年 | | 4 |
| 9 | 伊東 長裕(ながやす) | 1850年 - 1860年 | | 4 |
| 10 | 伊東 長𫡰(ながとし/ながより) | 1860年 - 1871年 | 最後の藩主、廃藩置県 | 4 |
伊東長実の生涯を顧みるに、彼はまさしく戦国乱世の終焉と江戸幕府という新たな武家政権の成立という、日本史における未曾有の大転換期を、その武勇と知略、そして時には非情とも映る現実主義をもって生き抜いた武将であったと言える。
豊臣家の譜代家臣という立場から、最終的には徳川家康に与し、その麾下で大名としての地位を確立するという劇的な転身は、彼の処世術の巧みさ、あるいは生き残りへの執念を示すと同時に、当時の多くの武士たちが直面したであろう厳しい選択の現実を象徴している。彼の行動は、主家への忠誠や武士としての義といった伝統的な道徳観念からは、時に批判的に見られることもある。桑田忠親氏による「陰険」という評価 2 は、その一面を的確に捉えているのかもしれない。
しかし、その評価のみで伊東長実という人物の多面的な姿や、彼が生きた時代の複雑さを理解することはできないであろう。彼の行動の背景には、自らの「家」を存続させたいという強い意志と、変化する時代の中で最適な道を見極めようとする冷静な判断力があった。結果として、彼はその目的を達成し、備中岡田藩の基礎を築き、その家名を明治の世まで繋いだことは、紛れもない歴史的事実である。
伊東長実の生涯は、変化の時代における個人の適応と生存の戦略を考える上で、今日を生きる我々にも少なからぬ示唆を与えてくれる。彼が残した備中岡田藩は、その後の約250年間にわたり、備中の地に独自の歴史を刻み、地域の文化や社会に影響を与え続けた。伊東長実という一人の武将の生き様は、乱世から泰平の世へと移行する時代のダイナミズムの中で、個人の選択がいかに歴史を動かし、また歴史に翻弄されるかという、人間ドラマの一つの典型を示していると言えるだろう。