最終更新日 2025-06-03

青木一重

青木一重

戦国武将 青木一重の生涯と事績

序章:青木一重という武将

本報告書は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を駆け抜け、最終的に摂津麻田藩初代藩主となった武将、青木一重(あおきかずしげ)の生涯と事績を、現存する史料に基づいて多角的に検証し、その歴史的意義を考察することを目的とする。特に、彼の武功、主君の変遷、豊臣政権下での役割、大坂の陣における動向、そして麻田藩成立に至る経緯と養子問題に焦点を当てる。

青木一重が生きた時代は、戦国時代の群雄割拠から織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業、そして徳川家康による江戸幕府の成立という、日本史上における大きな転換期であった。この時代、武士たちは自らの実力と時勢を読む洞察力によって立身出世を目指し、主君との関係もまた流動的であった。一重の生涯を理解するためには、このような時代背景を念頭に置く必要がある。彼の度重なる主君の変更は、現代の価値観から見れば一貫性に欠けると映るかもしれないが、当時の武士が家の存続と自身の立身をかけて下した、現実的かつ戦略的な判断の結果であった可能性が高い。個人の武勇や才覚のみならず、主君の盛衰という外的要因に翻弄されながらも、巧みに時流を読み、最終的に大名としての地位を確立した一重の生涯は、この時代を生きた武士の一つの典型と言えるだろう。

第一部:青木一重の生涯

第一章:出自と初期の経歴

美濃青木氏と父・青木重直

青木一重は、天文20年(1551年)、美濃国において青木重直の長男として生を受けた 1 。青木氏は美濃の豪族であり、土岐氏、次いで斎藤氏に仕えた家柄であった 1 。父である重直は、土岐頼芸、斎藤道三に仕えた後、織田信長、豊臣秀吉にも仕え、文禄2年(1593年)には摂津国豊島郡牧荘(現在の大阪府箕面市)において1400石、文禄4年(1595年)には同国莵原郡筒井村(現在の兵庫県神戸市)で360石余を加増され、合計1700石余の知行を得るに至った人物である 3 。重直は後に刑部卿法印と称され、慶長18年(1613年)に大坂で没した 3

今川氏真への仕官と駿河での活動

一重の初期の経歴は、父・重直とは異なる道を歩む。経緯は詳らかではないが、一重は父のもとを離れ、駿河国の今川氏真に仕官した 1 。この時期、新坂(にいさか)の戦いにおいて敵兵と槍を交え、組討ちの末に首級を挙げるという武功を立て、褒賞として黄金を賜ったと記録されている 1 。しかし、永禄11年(1568年)、武田信玄と徳川家康による駿河侵攻によって今川氏は滅亡の危機に瀕する。一重はこの戦いの中で武田・徳川軍と交戦し負傷、遠江国掛川に蟄居を余儀なくされた 1

父・重直が織田・豊臣方に連なる一方で、一重が今川氏に仕えたという事実は、当時の武家における家と個人の関係性の複雑さ、あるいは一族内でのリスク分散といった戦略の可能性を垣間見せる。今川家での武功は彼の武名を高めたであろうが、その後の敗北と蟄居は、結果的に次の主君となる徳川家康との接点を生む重要な転機となったと考えられる。

第二章:徳川家康への仕官と武功

姉川の戦いにおける真柄(十郎左衛門またはその子)討伐の武功とその諸説

遠江国掛川での蟄居の後、元亀元年(1570年)、青木一重はその武名を聞き及んだ徳川家康に召し出され、仕えることとなった 1 。同年6月に勃発した姉川の戦いにおいて、一重は朝倉方の勇将として知られた真柄直隆(十郎左衛門)の子、隆基(十郎)を討ち取るという目覚ましい武功を挙げ、その勇名は広く知れ渡り、家康から褒美として脇差を賜ったと伝えられている 1 。この戦功は『信長公記』の首級注文にも「真柄十郎左衛門の首は、青木民部(一重)が討ち取った」と記されており、一重の武勇を裏付けるものとなっている 5

しかしながら、討ち取った相手が真柄十郎左衛門本人であったとする説も存在し 2 、記録には若干の混乱が見られる。この点に関して興味深い逸話が残されている。岡山藩主・池田光政が編纂した『烈公間話』によると、能勢頼隆(小十郎)が一重に対し、討ち取ったのは真柄親子のいずれであるかを尋ねたところ、一重は「大兵であったので、人の子とは申し難き者でした」と答えたという 6 。この発言は、一重自身も相手が親か子か明確には認識していなかった可能性、あるいは意図的に明言を避けた可能性を示唆している。文字通り相手の体躯の大きさを述べたとも、人間離れした強者であったことを強調し自らの武功を高めたとも、あるいは当時の混乱を避けるための慎重な言い回しであったとも解釈でき、一重の人物像の一端をうかがわせる。いずれにせよ、この姉川の戦いでの武功は、青木一重の名を天下に知らしめる重要な出来事であった。

三方ヶ原の戦いと高天神城守備

元亀3年(1572年または1573年)、徳川家康は武田信玄との間で三方ヶ原の戦いを迎える。この戦いに際し、一重は本多忠勝(太郎左衛門)と共に増援として高天神城に派遣され、その守備にあたった 1 。この三方ヶ原の戦いでは、一重の弟である渥美源吾(重経)が武田勢の猛攻を食い止めるべく奮戦し、討ち死を遂げている 1

徳川家からの出奔

弟・重経の戦死から間もない元亀3年(1572年または1573年)、青木一重は徳川家康のもとを出奔する 1 。その理由について史料は「ゆへありて」と記すのみで詳細は不明であるが、弟の死が何らかの影を落とした可能性も否定できない。しかし、当時の武士にとって主君を変えることは必ずしも珍しいことではなく、より良い待遇や活躍の場を求めて、あるいは何らかの確執から出奔する例は数多く見られる。一重の場合、父・重直が仕える丹羽長秀という明確な次の仕官先があったことから、計画的な行動であった可能性も考えられる。

第三章:丹羽長秀への仕官

徳川家康のもとを去った青木一重は、父・重直が当時仕えていた織田信長の重臣、丹羽長秀に任官した 1 。父の縁を頼っての仕官は、当時の武士社会における人脈の重要性を示すものである。

丹羽家の家臣として、一重は織田政権末期から豊臣政権初期にかけての重要な戦いにその身を投じることとなる。天正10年(1582年)の本能寺の変後、羽柴秀吉が明智光秀を討った山崎の戦い、そして翌天正11年(1583年)の柴田勝家との覇権を賭けた賤ヶ岳の戦いにも、丹羽長秀の配下として参加した 1 。これらの日本の歴史を左右する大きな戦いに身を置いた経験は、一重の武将としての知見を深め、後の豊臣秀吉への仕官、さらには大名としての地位獲得に繋がる人脈形成や武名の高揚に少なからず寄与したと考えられる。

第四章:豊臣政権下での活動

羽柴秀吉への臣従と黄母衣衆への抜擢

天正13年(1585年)、丹羽長秀が没すると、青木一重は新たな主君として羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えることとなった 1 。秀吉のもとで、一重はまず使番として用いられ、その働きぶりや武勇が認められたのか、後に秀吉の親衛隊とも言うべき黄母衣衆(きぼろしゅう)の一員に選抜された 1 。黄母衣衆は、戦場において秀吉の傍近くに仕え、伝令や護衛の任にあたる精鋭であり、これに選ばれることは武士として大変な名誉であり、秀吉からの信頼が厚かったことを物語っている。

知行の変遷:摂津国豊島郡、備中国、伊予国(周布郡など)

豊臣秀吉に仕えた青木一重は、その知行地も大きく変化し、大名としての地位を固めていく。天正13年(1585年)、摂津国豊島郡内(豊島庄3100石)に知行を与えられた 1 。さらに、備中国や伊予国内でも加増を受け、これらを合わせて1万石を領する大名となり、摂津国麻田(現在の大阪府豊中市螢池付近)に麻田城(麻田陣屋)を構えたとされる 1

特に伊予国の知行に関しては、史料「青木伝記」に興味深い記述が見られる。それによれば、一重は当初、伊予国周布郡(すふぐん)において1万石余りの領地を与えられたとされている 7 。その後、備中国小田郡・後月郡で2,638石余、そして前述の摂津国豊島郡豊島庄3,100石の領地へと変更されたという経緯が記されている 7 。この時期の伊予国の所領は、後に一重の養子となる青木正重(駿河守)が赴いて支配したと伝えられている 7

慶長18年(1613年)正月10日付の「青木民部少輔組高付」という史料には、一重の領地として豊島(摂津)、備中、伊予を合わせて1万13石と記載されているが、これが関ヶ原の合戦後の実態を正確に反映しているかについては慎重な検討が必要である 7

この伊予国におけるまとまった知行の存在は、一重が豊臣政権下で比較的早い段階から大名格の扱いを受けていた可能性を示唆しており、後の麻田藩成立の経済的基盤ともなったと考えられる。

青木一重 知行変遷表(豊臣政権下 初期推定)

年代

主君

知行地

石高

備考・根拠史料

天正13年頃

豊臣秀吉

伊予国周布郡

1万石余

「青木伝記」による 7

天正13年以降

豊臣秀吉

摂津国豊島郡豊島庄

3,100石

7

備中国小田郡・後月郡

2,638石余

7

天正13年以降

豊臣秀吉

摂津国豊島郡内、備中国・伊予国内などで加増

合計1万石

麻田城主となる 1

慶長18年時点

豊臣秀頼

摂津豊島、備中、伊予

合計1万13石

「青木民部少輔組高付」による。関ヶ原後の実態かは不明 7

  • 注:各史料間の記述には若干の差異が見られるため、知行の具体的な時期や石高の変遷についてはさらなる研究が待たれる。

七手組頭としての役割と組織構成

青木一重は、豊臣秀吉の親衛隊的な役割を担う七手組の組頭の一人としてもその名を知られている。天正16年(1588年)、後陽成天皇が秀吉の邸宅である聚楽第に行幸した際、一重はこの行幸に供奉し、従五位下民部少輔に叙任されるとともに、七手組の組頭の一人に任じられた 1 。七手組は、秀吉の馬廻衆や近習衆の中から選抜された7人の武将がそれぞれ組頭となり、主君の護衛にあたる騎馬武者である馬廻を率いた精鋭部隊であった 9 。その構成員は『太閤記』によれば、郡宗保、野々村雅春、堀田盛重、中嶋氏種、真野助宗(後に子の頼包)、そして青木一重、伊東長実の7名であった 9

七手組頭への就任時期については、徳川家康の推挙によるもので、豊臣秀頼の代になってからであるとする説も存在する 7 。もし家康の推挙が事実であれば、一重が徳川家を出奔した後も家康との間に何らかの繋がりが維持されていたか、あるいは家康が豊臣政権内で影響力を行使する一環として有能な武将を登用した可能性が考えられる。

史料「青木伝記」には、青木一重が率いた組の具体的な兵力構成についても記されている。それによると、一重の組には大番士50人、与力10人、そして同心として弓隊・鉄砲隊合わせて100人が付属しており、大坂城の右備の一翼を形成していたという 7 。この記述は、豊臣政権の軍事組織の一端と、その中での一重の役割の重要性を示す貴重な情報である。

九州征伐への従軍、聚楽第行幸と叙任

豊臣政権下において、青木一重は重要な軍事行動や行事にも参加している。天正15年(1587年)には、島津氏の平定を目指した九州征伐に従軍した 1 。そして前述の通り、翌天正16年(1588年)には後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉し、従五位下民部少輔に叙任されている 1 。これらの事績は、一重が豊臣秀吉の信頼を得て、政権の中枢に近い場所で活動していたことを示している。

第五章:関ヶ原の戦いと大坂の陣

関ヶ原の役における大坂城守備

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権は徳川家康ら五大老と石田三成ら五奉行による集団指導体制へと移行するが、両者の間には次第に軋轢が生じていく。青木一重は武人肌であったとされ、能吏であった石田三成とは折り合いが悪く、かつての主君でもある徳川家康に接近したとも伝えられている 7

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この際、青木一重は七手組頭として、豊臣秀頼の居城である大坂城にあってその一方の守備を担当した 1 。直接東軍・西軍の主戦場に赴いたわけではないが、豊臣家の本拠地を守るという重要な役割を担ったのである。戦後も、引き続き大坂城に出仕し、豊臣家に仕え続けた 1 。この行動は、彼が豊臣恩顧の大名としての立場を維持しつつも、家康との関係も考慮していた可能性を示唆しており、彼の複雑な立場を物語っている。

大坂冬の陣における役割と守備区画(思案橋・本町橋周辺)

関ヶ原の戦いを経て、徳川家康は江戸に幕府を開き、豊臣家との対立は避けられない状況へと進んでいく。慶長19年(1614年)、ついに大坂冬の陣が勃発する。この時も青木一重は七手組頭として大坂城に入り、城の一方の守備を担当した 1 。具体的な守備区画としては、大坂城の東側、思案橋・本町橋(現在の大阪市中央区)周辺であったとされている 12 。この地域は、大坂城へ東から迫る敵に対する重要な防衛線の一つであった。

大坂夏の陣への不参加の経緯と背景(駿府への使節、京都での抑留)

慶長19年(1614年)12月、大坂冬の陣は和議によって一旦終結する。翌慶長20年(元和元年、1615年)3月15日、豊臣秀頼と母・淀殿は、この和議に対する礼謝の使節として、青木一重、常高院(淀殿の妹)、二位局、大蔵卿局、正栄尼らを駿府の徳川家康のもとへ派遣した 1

しかし、家康はすでに次の戦の準備を進めており、使節団に対しては名古屋城へ向かうとして回答を引き延ばした。4月10日、名古屋城でようやく使節団と謁見した家康は、「大坂はいまだ浪人を放逐していない」と豊臣方の対応を厳しく詰問し、常高院と二位局に書状を持たせて先に大坂へ帰した 1 。家康は京都で返答するとして、一重、大蔵卿局、正栄尼を伴って上洛し、待機させた 1

京都において、4月24日、家康はまず大蔵卿局と正栄尼を大坂へ帰らせた後も、青木一重だけは京都に逗留させた。そして、京都所司代の板倉勝重を通じて、「もし大坂に戻るのであれば、(徳川家康に近侍していた一重の)弟である青木可直を誅殺する」と警告したのである 1 。可直は徳川方に仕えており、事実上の人質であった。このため、一重は大坂城へ戻ることができず、わずか2日後の4月26日には大和郡山城で戦端が開かれ、大坂夏の陣が開始された。こうして青木一重は、大坂夏の陣には参加しないまま、豊臣家の滅亡を迎えることとなった 1 。この一連の経緯は、徳川方が意図的に一重を大坂城から引き離し、豊臣方の有力武将を一人でも減らそうとした戦略であったと見ることができる。桑田忠親氏のように、一重が徳川方の間諜であった可能性を指摘する見解も存在するが 8 、弟の身柄を案じての苦渋の決断であったと考えるのが自然であろう。

落城後の剃髪と「宗佐」号

大坂城が落城し、豊臣家が滅亡したとの報を聞いた青木一重は、「せんかたなし(致し方なし)」と深く落胆し、剃髪して出家、宗佐(そうさ)と号して隠棲した 1 。この行動は、豊臣家への一定の忠節の念と、自らが置かれた状況への無力感の表れであったのかもしれない。

第六章:麻田藩初代藩主として

徳川家への再仕官と麻田藩立藩

大坂夏の陣後、剃髪し宗佐と号して隠棲していた青木一重であったが、徳川家康によって二条城に召し出され、再び徳川家に仕えることとなった 1 。驚くべきことに、一重は減封されることなく、父・青木重直の遺領(約2,000石)を継承し、さらに旧領である摂津国豊島郡、兎原郡、備中国後月郡、浅口郡、小田郡の5郡、および伊予国内の所領を合わせて1万2,000石の領有を認められたのである 1

この背景には、弟・可直が徳川家に忠勤を励んでいたこと、家康が一重のこれまでの武功や経験を高く評価していたこと、そして大坂に近い摂津国の安定化を図るという幕府の戦略的意図があった可能性などが考えられる。

元和元年(1615年)7月、青木一重は摂津国豊島郡麻田村に陣屋を構え、ここに麻田藩が立藩した 3 。その後、一重は父の遺領分などから2,000石を弟の可直に分与したため、麻田藩の表高は1万石となった 1 。可直はそれまでの自身の所領と合わせて5,000石の旗本となり、兄と共に徳川の治世を支えることとなった 8

知行安堵と藩政の開始

麻田藩は外様大名として、明治維新まで青木家による支配が続くことになる 3 。初代藩主となった一重は、麻田に陣屋を設け、新たな領国経営に着手した。藩政初期の具体的な施策に関する詳細な史料は乏しいものの、戦乱の世から泰平の世へと移行する中で、藩の支配体制の確立と領民の安定に努めたものと推察される。

養子問題:正重の廃嫡と重兼の相続

麻田藩の将来を左右する重要な出来事として、養子問題が挙げられる。元和5年(1619年)、青木一重は致仕し隠居する 1 。その際、家督相続において大きな変更が行われた。

元々、一重の養嗣子には、甥にあたる青木正重(小寺則頼の子)が定められていた 7 。正重は大坂夏の陣において、京都で抑留されていた一重の代理として青木軍の指揮を執り、豊臣方として最後まで戦った武将である 7 。しかし、一重の隠居に伴い、正重は「病気を理由に」廃嫡されることとなった 1

そして、新たに養嗣子として迎えられ、麻田藩2代藩主となったのは、一重の弟である青木可直の長男、青木重兼であった 1

正重の廃嫡理由については、表向きは「病気」とされているが 1 、その背景には、大坂の陣で豊臣方として戦ったという経歴が、徳川幕府への配慮から問題視された可能性が高いと考えられる 17 。徳川秀忠の直接の命令によって廃嫡されたという説も存在し 15 、『寛政重修諸家譜』などの幕府公式記録における記述が注目されるが、現時点では「病気を理由に」という以上の具体的な幕府の意向を示唆する記述は確認されていない 8 。この養子交代は、豊臣恩顧の色彩が濃い正重よりも、徳川家に仕える旗本の家系である可直の子・重兼を後継とすることで、幕府への忠誠を明確に示し、新興の外様大名である麻田藩の安泰を図ろうとした一重の深謀遠慮であったと解釈できる。

興味深いことに、廃嫡された青木正重は、その後剃髪して小寺道伯と名乗り、摂津国牧庄(一重の弟・可直の領地の一部であった可能性もある 21 )に隠棲したが、寛永年間には小寺宮内右衛門を名乗り、新田開発や年貢決定といった麻田藩の藩政に深く関与し、2代藩主となった重兼を補佐したと伝えられている 17 。この事実は、正重が完全に排斥されたわけではなく、その能力が依然として評価され、藩政運営に活かされたことを示している。これは、青木家内部での融和や、小藩における人材活用の現実的な側面を物語るものであり、麻田藩初期の安定に寄与した可能性が考えられる。

第七章:晩年と墓所

青木一重は、麻田藩初代藩主として藩政の基礎を固めた後、寛永5年8月9日(1628年9月6日)に78歳でその生涯を閉じた 1

一重の墓所は、複数の場所に存在すると伝えられている。

一つは、東京都渋谷区にある祥雲寺である 1 。しかし、祥雲寺に実際に一重の墓碑が存在するのか、あるいはどのような形で祀られているのかについての詳細は、現在のところ不明である 1

もう一つは、大阪府池田市にある佛日寺である 1 。佛日寺は、2代藩主・青木重兼が黄檗宗の隠元隆琦禅師に帰依し建立した寺院であり、麻田藩青木家の菩提寺として知られている 3 。佛日寺の墓地には、初代藩主である青木一重の墓碑をはじめとする藩主累代の墓塔16基が整然と立ち並び、池田市の史跡名勝にも指定されている 25

佛日寺にある一重の墓碑については、戒名が「見樹院殿覚翁宗本大居士」と刻まれ、寛永2年(1625年)に建立されたという記録がある 20 。しかし、一重の没年は寛永5年(1628年)であるため、墓碑の建立年と没年の間には3年のずれが生じている。この点については、生前に寿陵(じゅりょう、生前墓)として建立された可能性、史料の記録に誤りがある可能性、あるいは後年の再建や改修に伴って情報が混同した可能性などが考えられ、さらなる検討が必要である。佛日寺の記録や現地の墓碑調査によれば、一重の墓は墓所内の南東側から4番目に位置するとされ、写真資料も存在する 24

これらの墓所の存在は、一重が江戸と領地の双方に所縁を持ち、その死後も両地で追慕されていたことを示唆している。

第二部:青木一重をめぐる考察

第一章:人物像の多角的分析

武将としての能力と評価

青木一重の武将としての能力は、その生涯を通じて数々の戦功によって証明されている。弱冠20歳で参戦した姉川の戦いにおいて、朝倉方の勇将・真柄(十郎左衛門またはその子)を討ち取ったとされる武功は、彼の武勇を世に知らしめた最初の大きな出来事であった 1 。この時用いた刀は「青木兼元」と号され、名刀として語り継がれていることも、彼の武人としての側面を象徴している 1

その後も、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いといった重要な合戦に参加し 1 、豊臣秀吉のもとではその親衛隊である黄母衣衆、さらには七手組の組頭という重役に抜擢されている 1 。これらの地位は、単に個人的な武勇だけでなく、部隊を率いる指揮能力や主君への忠誠心が高く評価されていたことを示唆する。特に七手組は秀吉の側近中の側近であり、その一翼を担ったことは、一重が豊臣政権において確固たる地位を築いていた証左と言えるだろう。

処世術と政治的判断

青木一重の生涯で特筆すべきは、その巧みな処世術と時勢を読む政治的判断力である。今川氏真に始まり、徳川家康、丹羽長秀、豊臣秀吉・秀頼、そして再び徳川家康と、有力な主君の間を渡り歩きながらも、最終的には麻田藩初代藩主として家名を残した。これは、単なる武勇だけでは成し得ない、高度な政治感覚と適応能力の賜物であったと言える。

特に豊臣家滅亡の過程で見せた大坂の陣での行動は、彼の政治的判断が最も顕著に現れた場面である。冬の陣では豊臣方として大坂城を守備しつつも 1 、夏の陣直前には徳川方の計略(あるいは圧力)により大坂城を離れ、結果的に豊臣家の滅亡に直接関与することを避けた 1 。この行動は、豊臣家への旧恩と、徳川の治世下での自らの家と家臣の存続という、二つの大きな要素を天秤にかけた上での苦渋の決断であったと推察される。石田三成との不仲や、旧主である家康への接近といった関ヶ原の戦い前後の動向も 7 、豊臣政権内部の力関係を冷静に見極め、自らの生き残りをかけた布石であった可能性が考えられる。

史料(「青木伝記」など)から読み解く人物像

青木一重の人物像をより深く理解するためには、彼に関する史料の記述を丹念に読み解く必要がある。特に、一重の家臣であった江原氏に伝えられたとされる「青木伝記」は、重要な情報を含んでいる。この史料によれば、一重は豊臣秀吉から伊予国周布郡に1万石余りの知行を与えられたとされ 7 、また彼が率いた七手組の具体的な兵力構成(大番士50人、与力10人、同心100人)についても言及がある 7 。これらの記述が事実であれば、一重は豊臣政権下で従来考えられていた以上に高い地位と実力を持っていたことになり、その後の徳川政権下での処遇にも繋がったと考えられる。

また、姉川の戦いでの武功に関して、能勢頼隆から討ち取った相手を問われた際に「大兵であったので、人の子とは申し難き者でした」と答えたという逸話は 6 、一重が単に勇猛なだけでなく、慎重で言葉に含みを持たせる一面を持っていたことをうかがわせる。

これらの史料から浮かび上がる青木一重像は、武勇に優れ、状況判断に長け、そして自らの家名を後世に残すために現実的な選択を重ねた、戦国乱世から近世へと移行する時代を象徴するような武将の姿である。彼の生涯は、個人の能力と時勢への適応力が複雑に絡み合った結果であり、その行動原理は、家の存続と繁栄にあったと言えるだろう。

第二章:麻田藩青木家の基礎

青木一重の藩祖としての役割

青木一重の最大の功績は、大坂の陣という豊臣家滅亡の動乱を乗り越え、徳川幕府から1万石余の外様大名として認められ、摂津国麻田に藩を興し、その後の青木家による約250年間にわたる治世の基礎を築いたことである 1 。大坂の陣では豊臣方に与しながらも、最終的には徳川方に帰参し、旧領を安堵されただけでなく、父・重直の遺領も合わせて1万2千石を与えられたことは、彼のこれまでの武功や、徳川家との浅からぬ因縁、そして何よりも激動期を生き抜いた政治的手腕が高く評価された結果と言えよう。弟・可直への2千石の分知は、旗本としての青木分家を創設し、青木家全体の安定と幕府との関係強化に寄与したと考えられる 1

養子問題が青木家および麻田藩初期に与えた影響

麻田藩初期において、藩の将来を左右する重要な出来事が養子問題であった。一重は当初、大坂夏の陣で豊臣方として奮戦した甥の青木正重を養嗣子としていたが、これを廃嫡し、徳川家に仕える弟・可直の子である重兼を新たに養子に迎え、2代藩主とした 1

この養子交代劇の背景には、幕府への恭順の意を明確に示すという政治的な配慮があったことは想像に難くない。豊臣恩顧の経歴を持つ正重よりも、徳川家に近い血筋である重兼を後継とすることで、新興の外様藩である麻田藩の幕藩体制下における立場を安定させようとした一重の戦略的判断であった可能性が高い。これにより、豊臣色を薄め、幕府との良好な関係を築き、藩の長期的な存続を図ったと考えられる。

興味深いことに、廃嫡された正重はその後、小寺道伯と名乗りながらも麻田藩の藩政に関与し、新田開発や年貢決定などで2代藩主・重兼を補佐したと伝えられている 17 。これは、正重が完全に排斥されたわけではなく、その能力が依然として評価され、藩政に活かされていたことを示している。この事実は、政治的な判断による家督相続の変更後も、一族内の融和を図り、有能な人材を活用しようとした青木家の現実的な対応を物語っており、麻田藩初期の藩政安定に少なからず寄与したと考えられる。この養子問題は、単なる家督相続に留まらず、新興の外様藩が徳川の治世下でいかにして生き残り、その地位を確立していくかという、当時の多くの大名が直面した課題を象徴する出来事であったと言えるだろう。

第三章:関連史料とその検討

青木一重の生涯や事績を明らかにする上で、いくつかの重要な史料が存在する。これらの史料を比較検討することで、より客観的で多角的な人物像に迫ることができる。

「青木伝記」の史料的価値と内容

青木一重に関する記述を含む史料の中でも、特に注目されるのが「青木伝記」である。この史料は、東京大学史料編纂所に「青木伝記(江原家持青木伝記)」として所蔵されていることが確認されている 26 。江原家は、一重の家臣であり、摂津国豊島郡の所領の管理にあたった江原新右衛門の一族であった可能性が指摘されており 7 、その伝記の内容は青木家内部の情報に基づいた信憑性の高いものであると期待される。

「青木伝記」には、一重が豊臣秀吉から伊予国周布郡に1万石余りの知行を与えられたという記述 7 や、彼が率いた七手組の具体的な兵力構成(大番士50人、与力10人、同心として弓・鉄砲隊100人) 7 など、他の史料では見られない詳細な情報が含まれているとされる。また、養子である青木正重の大坂夏の陣後の動向についても記述があることが示唆されている 21 。これらの情報は、一重の豊臣政権下における地位や役割、そして青木家の内情を具体的に知る上で非常に貴重である。この史料の成立時期や編纂意図などを詳細に分析することで、青木一重研究はさらに深化するであろう。

『寛政重修諸家譜』における記述の分析

江戸幕府によって編纂された公式な大名・旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜』は、青木氏に関する記述、特に初代藩主である一重、その養子である正重、そして2代藩主となった重兼に関する記述を含む重要な史料である 1 。この史料は、幕府の公式な見解や、青木家が幕府に提出した情報に基づいて編纂されたと考えられるため、その記述内容は青木家の公的な立場を反映していると言える。

特に、青木正重の廃嫡理由や重兼への家督相続の経緯について、『寛政重修諸家譜』がどのように記しているかを確認し、「青木伝記」などの他の史料の記述と比較検討することは、養子問題の真相に迫る上で不可欠である 8 。両史料を比較することで、青木家内部の認識と幕府の公式記録との間にどのような差異や共通点が存在するのかが明らかになり、一重や青木家の歴史をより複眼的に捉えることが可能となる。

その他の史料

上記の二大史料の他にも、青木一重に関する情報を伝える史料は散見される。

  • 『信長公記』 :太田牛一によって記されたこの史料は、姉川の戦いにおける青木一重の武功、すなわち真柄十郎左衛門(またはその子)を討ち取ったという記述を含んでおり、一重の初期の武勇を伝える一次史料として価値が高い 5
  • 『烈公間話』 :岡山藩主・池田光政の言行をまとめたこの史料には、姉川の戦いにおける一重の武功に関する逸話、特に能勢頼隆との問答が収録されており、一重の人物像の一端を伝えている 6
  • 「青木民部少輔組高付」 :慶長18年(1613年)付のこの史料は、当時の青木一重の知行高が摂津豊島、備中、伊予を合わせて1万13石であったことを示しており、彼の経済的基盤を知る上で参考となる 7
  • 各市史(豊中市史、池田市史など) :麻田藩の所在地であった豊中市や、菩提寺である佛日寺が存在する池田市の市史には、麻田藩や青木氏に関する地域史料や研究成果が含まれている可能性があり、参照する価値がある 7

これらの史料を総合的に分析し、それぞれの史料の性格や成立背景を考慮しながら情報を読み解くことで、青木一重という武将の実像により深く迫ることができるであろう。

終章:青木一重の歴史的意義

戦国乱世から泰平の世への移行期を生きた武将としての評価

青木一重の生涯は、戦国時代の群雄割拠から織豊政権による天下統一、そして江戸幕府による泰平の世の到来という、日本史における未曾有の大転換期と軌を一にする。今川氏真に始まり、徳川家康、丹羽長秀、豊臣秀吉・秀頼、そして再び徳川家康と、幾度も主君を変えながらも、その都度武功を立て、あるいは巧みな処世によって危機を乗り越え、最終的に麻田藩初代藩主として家名を後世に残した。彼の生き様は、個人の武勇や才覚が、流動的な社会構造と主君の盛衰という外的要因と複雑に絡み合いながら、一人の武士の運命を形作っていった様を如実に示している。

一重の行動は、後世の固定化された武士道徳観からは「変節」と批判される余地もあるかもしれない。しかし、彼が生きた時代は、今日の主君が明日の敵となることも珍しくない、まさに実力主義と結果主義が支配する過酷な生存競争の世であった。そのような状況下において、自らの家と家臣を守り、立身出世を果たしていくためには、時勢を読み、柔軟に対応する能力が不可欠であった。一重の主君の変遷は、むしろそのような時代への高い適応能力と、現実的な判断力を有していた証左と捉えることができる。彼の生涯は、戦国武将の一つの典型的な生き様を体現していると言えよう。

後世への影響

青木一重が歴史に残した影響として最も直接的なものは、摂津国麻田藩の藩祖として、その後の約250年間にわたる青木家の治世の礎を築いたことである。石高こそ1万石余の小藩であったが、大坂に近いという地理的条件もあり、幕藩体制下において一定の役割を果たした。

また、姉川の戦いにおける真柄(十郎左衛門またはその子)討伐の武功や、大坂の陣における特異な立場と行動は、逸話として後世にも語り継がれ、青木一重という武将の人物像を形成する上で影響を与えた。特に、豊臣恩顧の大名でありながら徳川の世で生き残ったという事実は、戦国から近世への移行期における武士の多様な生き方を示す一例として、歴史研究においても興味深い対象であり続けるだろう。

青木一重の生涯を詳細に検討することは、単に一個人の伝記を辿ることに留まらず、戦国乱世の終焉と江戸幕府による新たな支配体制の確立という、日本史の大きな転換点を、一人の武将の視点から具体的に理解するための一助となる。彼の武勇、政治的判断、そして処世術は、現代に生きる我々に対しても、変化の時代を生き抜くための示唆を与えてくれるかもしれない。

参考文献一覧

  • 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)
  • デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)
  • 世界大百科事典(旧版)(平凡社)
  • 『信長公記』
  • 『烈公間話』
  • 『寛政重修諸家譜』
  • 東京大学史料編纂所所蔵「青木伝記(江原家持青木伝記)」
  • 「青木民部少輔組高付」
  • その他、本報告書中に引用した各ウェブサイト資料(URLは割愛)

青木一重 略年譜

年代

主な出来事

主な関連人物

役職・身分など

備考

天文20年 (1551)

美濃国にて青木重直の長男として誕生

青木重直

1

永禄年間

今川氏真に仕官。新坂の戦いで武功

今川氏真

1

永禄11年 (1568)

駿河侵攻で負傷、遠江国掛川に蟄居

武田信玄、徳川家康

1

元亀元年 (1570)

徳川家康に仕官。姉川の戦いで真柄隆基(または直隆)を討ち武功を挙げる

徳川家康、真柄氏

脇差を賜る 1

元亀3年 (1572/73)

三方ヶ原の戦いで高天神城守備。弟・渥美重経戦死。徳川家を出奔し丹羽長秀に仕官

徳川家康、丹羽長秀

1

天正10年 (1582)

山崎の戦いに丹羽長秀配下として参加

丹羽長秀、羽柴秀吉

丹羽家家臣

1

天正11年 (1583)

賤ヶ岳の戦いに丹羽長秀配下として参加

丹羽長秀、柴田勝家

丹羽家家臣

1

天正13年 (1585)

丹羽長秀死去。羽柴秀吉に仕え使番、黄母衣衆となる。摂津・備中・伊予で1万石を領す

羽柴秀吉

使番、黄母衣衆、麻田城主

1

天正15年 (1587)

九州征伐に従軍

豊臣秀吉

黄母衣衆

1

天正16年 (1588)

聚楽第行幸に供奉。従五位下民部少輔に叙任。七手組頭の一人となる

豊臣秀吉、後陽成天皇

従五位下民部少輔、七手組頭

1

慶長5年 (1600)

関ヶ原の役で大坂城を守備

豊臣秀頼、徳川家康

七手組頭

1

慶長18年 (1613)

父・青木重直死去、遺領1700石余を継ぐ

青木重直

3

慶長19年 (1614)

大坂冬の陣で大坂城思案橋・本町橋周辺を守備

豊臣秀頼

七手組頭

1

元和元年 (1615)

大坂夏の陣直前、使節として駿府へ赴き京都で抑留され不参加。落城後剃髪し宗佐と号す。徳川家康に再仕官し麻田藩1万2千石藩主となる(後に1万石)

豊臣秀頼、徳川家康

麻田藩初代藩主

1

元和5年 (1619)

致仕隠居。養子正重を廃嫡し、可直の子・重兼を養嗣子とする

青木正重、青木重兼

1

寛永5年 (1628)

死去。享年78

1

引用文献

  1. 青木一重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%B8%80%E9%87%8D
  2. 青木一重(あおき・かずしげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%B8%80%E9%87%8D-14291
  3. 麻田藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%B0%E8%97%A9
  4. 豊臣秀吉|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2398
  5. 約160cmを越える大太刀を振るい、織田信長・徳川家康軍の追撃を防ぎ続けた…“猛将”を討ち取ったのは一体誰なのか - 本の話 - 文春オンライン https://books.bunshun.jp/articles/-/8206
  6. 福井県立歴史博物館紀要 https://www.pref.fukui.lg.jp/muse/Cul-Hist/info/kiyou/kiyou_ex.pdf
  7. 戦国武将青木一重 http://itech38.co.jp/shigeyuki-rekishi/asada.pdf
  8. 青木一重とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%B8%80%E9%87%8D
  9. 七手組 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%89%8B%E7%B5%84
  10. 七手組とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%83%E6%89%8B%E7%B5%84
  11. 秀頼親衛隊・七手組 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=bpce_e1m5kU
  12. 大坂冬の陣大坂城外郭復元イラスト|Stroly for original maps and ... https://stroly.com/maps/_OP_osakacastlemap/
  13. 石高・官位・殿席や将軍家との親疎関 御三家における縁戚関係の形成と江戸屋敷 - 徳川林政史研究所 https://rinseishi.tokugawa.or.jp/pdf_file/kiyou41-shirane.pdf
  14. 麻田藩 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E9%BA%BB%E7%94%B0%E8%97%A9
  15. 旗本青木氏陣屋(瑞穂市) - 岐阜県:歴史・観光・見所 https://www.gifureki.com/siro/aokijinnya.html
  16. 麻田藩資料 - 豊中市 https://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/rekishishiryo/asadahansiryou.html
  17. 青木正重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E9%87%8D
  18. 青木重兼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%85%BC
  19. 青木重兼とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%85%BC
  20. 麻田藩主 - 佛日寺 https://butsunitiji.jp/syu.html
  21. 伊予州一色党 青木一重 https://dayzi.com/aoki.html
  22. 佛日寺境内墓地|大阪府|霊園のご紹介|石のいがや https://www.ishinoigaya.co.jp/cemetery/butunichiji/index.html
  23. 外様大名トップバッターは青木家の「麻田陣屋」 陣屋遺構がふんだんに再利用 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12387071741.html
  24. 麻田藩・藩主・青木家墓所 : 戦国を歩こう - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/35909379.html
  25. 池田市仏教会 » 寺院一覧 » 佛日寺 http://ikedashi-bukkyo.org/ichiran/%E4%BD%9B%E6%97%A5%E5%AF%BA/
  26. 旧華族家史料の所在調査報告 ーその 一ー https://glim-re.repo.nii.ac.jp/record/1934/files/shiryokan_5_83_161.pdf
  27. 青木重直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E9%87%8D%E7%9B%B4
  28. 豊中市所蔵の古文書資料の紹介 https://www.lib.toyonaka.osaka.jp/web/post-26.html
  29. 『信長公記』を書いたとされる太田牛一(おおたぎゅういち)の子孫が、麻田藩青木家の家来となり - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000169799&page=ref_view
  30. 越前の猛将 真柄氏を討った青木一重 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2CfEtlBXNwA