最終更新日 2025-06-03

愛洲移香斎

愛洲移香斎

剣祖 愛洲移香斎の実像と陰流の奥源

序章:愛洲移香斎とは何者か

本報告書の目的は、戦国時代初期に活躍した剣術家、愛洲移香斎(久忠)の人物像、彼が創始した陰流の剣術と思想、そしてその歴史的意義を、現存する史料と研究成果に基づいて多角的に明らかにすることにある。特に、伝説と史実を区別し、移香斎の実像に迫ることを目指す。

戦国時代は、下剋上に象徴される実力主義が横行し、武芸、とりわけ剣術が個人の立身出世や生存に直結する重要な技術であった。そのような時代背景の中で、愛洲移香斎は陰流という新たな剣術体系を確立し、後の多くの流派に影響を与えた。その影響力の大きさから、陰流は念流、神道流(あるいは中条流)と共に「兵法三大源流」の一つとして、武術史における特筆すべき存在と位置づけられている 1

第一章:愛洲移香斎の生涯と時代背景

1.1. 生誕と出自:伊勢国愛洲氏の謎

愛洲移香斎は、享徳元年(1452年)に生まれ、天文七年(1538年)に没したとされる、室町時代後期から戦国時代初期にかけて活動した人物である 3 。本名は久忠(ひさただ)、通称は太郎左衛門尉久忠と伝えられ、惟孝(いこう)、移香斎(いこうさい)と号した 3 。また、「日向守」とも称した記録が残されている 3

その出身地については、伊勢国(現在の三重県)が通説とされており 3 、特に南伊勢町五ヶ所浦が愛洲氏の拠点であったと伝えられている 6 。一方で、日向国(現在の宮崎県)出身とする説も存在し 3 、これは後述する鵜戸神宮での修行伝説や、晩年を日向で過ごしたという説 4 との関連性が考えられる。

愛洲氏は、伊勢の在地領主であり、水軍を率いて活動した記録が複数の史料に見られる 3 。その出自に関しては、村上源氏北畠氏の末裔であるとする説 3 や、清和源氏武田氏の孫であるとする説 9 など、諸説が存在し、正確な系譜は未だ明らかになっていない点が多い。伊勢神宮との関わりや、伊勢国司であった北畠氏の配下にあった時期もあるとされている 8 。愛洲氏の出自に関するこれらの多様な説は、単に記録が錯綜しているというだけでなく、当時の伊勢地域における諸勢力の複雑な関係性や、愛洲氏自身の多面的な活動(水軍としての軍事力、海上交易、伊勢神宮との宗教的・経済的繋がりなど)を反映している可能性が考えられる。水軍としての活動は、必然的に広範な地域との接点を生み出し、様々な有力氏族との間に同盟関係や婚姻関係を築く機会をもたらしたであろう。こうした背景が、後世に複数の出自伝承が生まれる土壌となったか、あるいは愛洲氏自身が戦略的に複数の系譜を利用した可能性も否定できない。

1.2. 武者修行と諸国遍歴の軌跡

愛洲移香斎は、幼少の頃から刀剣の技に優れていたとされ、さらなる剣術の研鑽を積むために諸国を遍歴したと伝えられている 3 。子孫である平澤家に伝わる『平澤家伝記』によれば、武者修行を生業とし、諸国を巡ったり、時には上洛したりしたという記録がある 4

その武者修行の中でも特に重要なのは、移香斎が36歳の時に日向国(現在の宮崎県)の鵜戸の岩屋(現在の鵜戸神宮と目される場所)に参籠し、厳しい修行の末に陰流を開眼したという伝説である 3 。この開眼のきっかけについては、岩窟内に現れた蜘蛛の予測不可能な動きから着想を得たというもの 6 や、夢枕に猿が現れて奥義を示された 3 、あるいは神が猿の姿で現れて刀法を授けた 13 など、いくつかのバリエーションが存在する。修行の期間についても、21日間であったとする記述 6 や、37日間であったとする記述 3 が見られる。この鵜戸神宮でのエピソードは、移香斎の剣技と思想の根幹に関わる重要な伝承として、後世に語り継がれている。

鵜戸神宮という特定の聖地、蜘蛛や猿といった動物、そして厳しい修行という要素が組み合わさったこの開眼伝説は、単なる剣技の習得を超えた、精神的・宗教的な覚醒の物語として構築されているように見受けられる。鵜戸神宮は古来より霊験あらたかな場所とされ、修験道の聖地の一つでもあった 14 。移香斎自身が修験者であった可能性も指摘されており 14 、この伝説の舞台設定と符合する。また、蜘蛛や猿といった動物は、自然界の予測不可能な動きや、人間にはない特殊な能力を象徴し、そこから剣技の極意を見出すという発想は、自然との一体化や既存の型にとらわれない自由な発想を重視する陰流の思想と深く共鳴する。この種の伝説は、陰流という流派の神秘性や権威を高めるための装置として機能したと同時に、武術が単なる殺人術ではなく、精神修養の道としての側面を強めていく当時の風潮とも関連している可能性が考えられる。後の武術流派の開祖伝説にも同様のパターンが見られることから、武術における「開眼」の物語の類型の一つと見なすこともできよう。

1.3. 中国(明)渡航説の検討

愛洲移香斎は水軍との関係が深く、明国(中国)へ渡航したという説が存在する 3 。これは、伊勢愛洲氏が室町幕府の遣明貿易に関与していた記録 9 や、水軍を率いて交易や時には海賊行為にも従事し、遠く明まで赴いていたという記録 8 と符合する点があり、注目される。

この渡航説を裏付ける可能性のある史料として、明の茅元儀が編纂した兵書『武備志』が挙げられる。同書には、陰流の目録の一部や、猿が刀法を示す図が掲載されていると複数の資料が指摘している 3 。これが事実であれば、日本の剣術が中国に伝播していたことを示す貴重な証拠であり、移香斎自身、あるいは彼の弟子たちが何らかの形で大陸と接触を持っていた可能性を示唆する。

さらに、明の武将である戚継光が著した兵書『紀効新書』にも影流目録が掲載されており、これは移香斎の嫡子である小七郎から村上水軍を経て倭寇(わこう)に伝わったものと言われている 14 。これらの史料の記述は、陰流が単なる一地方の剣術に留まらず、国境を越えて伝播し、影響を与えていた可能性を示唆するものである。

もし愛洲移香斎が明に渡航し、あるいは陰流が明に伝わっていたとすれば、そこには双方向の影響関係が想定される。陰流の技法や思想形成に中国武術の影響があった可能性、逆に日本の剣術が中国武術、例えば明代に登場する苗刀(みょうとう)などに影響を与えた可能性の両面が考えられる 18 。これは、当時の東アジアにおける文化・技術交流の一環として捉えることができる。『武備志』や『紀効新書』の記述は、単なる伝聞ではなく、具体的な目録や図を伴っているとされる点で重要性が高い。愛洲氏の水軍活動という背景は、渡航の現実性を高める要素であり、倭寇を介した伝播という経路は、当時の非公式な文化交流のあり方を示している。この国際性は、陰流がより広範な文脈で評価されるべき武術であることを示唆している。

1.4. 晩年と死、そして子孫

愛洲移香斎は、67歳という比較的高齢で息子の愛洲小七郎宗通(元香斎)をもうけたとされ、それ以前はひたすら諸国を巡って修行に明け暮れていたものと推測されている 3

天文七年(1538年)に87歳で死去したと伝えられる 3 。晩年は日向守と称して日向に住み、鵜戸明神の神職になったのではないかという説も存在する 4 。家督は子の小七郎宗通が継いだとされる 4

愛洲氏はその後、北畠氏の滅亡後、常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏に仕え、「平沢(平澤)」と改姓した。関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽国(現在の秋田県・山形県)へ移封されるのに伴い、平澤家も移住したため、陰流の本家も出羽国に移ったとされている 4 。この平澤家には、前述の『平澤家伝記』や、移香斎直筆とされる『まりしてんししゃの書』といった貴重な史料が伝えられることとなった 4

表1:愛洲移香斎 略年譜と関連事項

年代(西暦)

和暦

年齢

主要な出来事・関連事項

関連人物

関連史料・備考

1452年

享徳元年

1歳

生誕(伊勢国説が有力)

3

1483年

文明15年

32歳

(伊勢愛洲氏として)遣明船にて明国へ渡航した可能性 9

『武備志』、『紀効新書』との関連

1487年頃

長享元年頃

36歳

日向国鵜戸の岩屋にて修行し、陰流を開眼したとされる

3 。修行期間は21日説 6 、37日説 3 など。蜘蛛または猿の示現による伝説 6

1519年頃

永正16年頃

67歳

嫡子・愛洲小七郎宗通(元香斎)誕生

愛洲小七郎宗通

3

1538年

天文七年

87歳

逝去。晩年は日向に住んだ説あり

3 。鵜戸明神の神職になった可能性も 4

(参考) 1508年頃

永正五年頃

上泉信綱(後の新陰流開祖)生誕

上泉信綱

移香斎または小七郎に師事したとされる 4

(参考) 1621年

元和七年

茅元儀『武備志』完成

茅元儀

「日本考」中に陰流目録を収録 3

(参考) 1561年

永禄四年

戚継光が倭寇より影流目録を入手(『紀効新書』の記述に基づく)

戚継光

『紀効新書』初版は1560年頃、増補版に影流目録が収録されたか 14

第二章:陰流の創始と武術思想

2.1. 陰流開眼の伝説:蜘蛛と猿

前章でも触れたように、愛洲移香斎が陰流を開眼するに至った経緯は、日向国鵜戸の岩屋(鵜戸神宮)での厳しい修行と、そこで遭遇した動物の動きから着想を得たという伝説に彩られている 6

最も広く知られているのは蜘蛛の伝説である。移香斎が瞑想中に目の前に現れた一匹の蜘蛛が、予測不可能かつ自由自在に動き回り、手で払いのけようとしても捉えどころがなかった。その蜘蛛の動きから、移香斎は剣術「影流(陰流)」を会得したと伝えられている 6 。この蜘蛛の動きは、「見えない心で相手の意図を読み、相手の動きに応じて変幻自在に動く」という陰流の極意そのものであったと解釈されている 11

また、別の伝承では、夢枕に猿が現れて陰流の秘事を悟った 12 、あるいは神が猿の姿で奥義を示した 13 とも言われている。この猿に関する伝説は、前述の中国の兵書『武備志』に、猿が刀法を示す図が掲載されていること 3 とも関連する可能性があり、興味深い。

これらの伝説は、陰流が単なる既存技術の模倣や寄せ集めではなく、自然の理(ことわり)や深遠な洞察に基づく独創的な武術であることを象徴的に示している。蜘蛛や猿といった動物は、単なるインスピレーションの源泉というだけでなく、当時の人々が自然界や動物に対して抱いていた畏敬の念や、それらが持つ神秘的な力への信仰を反映しているとも考えられる。特に、これらの動物は摩利支天の使者として扱われることもあるとされ 22 、摩利支天が武士の守護神として広く信仰されていたことを考慮すると、この関連性は陰流の宗教的背景を補強する一要素となる。蜘蛛の糸のようにつかみどころがなく、猿のように変幻自在な動きは、陰流が目指した剣技の理想像を具体的に示しており、口伝で流派の奥義を伝える際に、教えを分かりやすく、かつ印象的にするための物語装置としても機能したのではないだろうか。

2.2. 陰流の理念と技法体系

陰流の核心的な武術思想は、「陰の流れ」という概念に集約される。これは、「外見に現れた人の動きや剣の技(これらは陰陽における陽に相当する)に対し、目に見えない心の動きこそが陰であり、その見えない心で見ること、感じ取ることが陰の流れである」という教えである 11 。つまり、相手の意図を事前に察知し、その動きに応じて変幻自在に対応することを旨とする。

技法上の大きな特徴としては、「構えを用いずに、構えなきをもって『構え』とする」という点が挙げられる 11 。これは、固定された型や特定の構えに依存せず、状況に応じて常に最適な対応を取るという思想の表れと言える。また、従来の兵法が重視したであろう「強い力」や「早い技」に頼らない剣技を目指したことも特筆される 11

陰流の理念は、「懸待(けんたい)と表裏(ひょうり)の二点に尽きる」とも言われる 22 。「懸」は先手を取って積極的に攻めること、「待」は相手の動きを待って応じ、反撃することを指す。また、「表」は目に見える具体的な技や動き、「裏」は目に見えない心の動きや戦術的な駆け引きを指すと考えられる。これらの要素を自在に使い分けることが求められたのであろう。

技の習得段階は、「初手」「中手」「極位」の三段階に分けられていたとされる 22。

「初手」では、立つべき場所、見るべきところ、そして四方八方に玉が転がるように自在に動く「玉歩(ぎょくほ)」と呼ばれる足捌きなど、基本的な五つの稽古項目があったとされている 1。「玉歩」は貴人の歩みとも称され、いかなる状況においても隙のない身のこなしを維持することを意味する。

「中手」では、「敵の太刀の打ち処に目を付け、明鏡のようにする」「一心一心、一眼に眼に止め臆してはならない」など、精神的な集中力や相手の動きを見極める眼力を養う段階であった 1。

「極位」においては、「心・眼・左足の三つのうち、一つでも一致しなければ勝つことは難しい」とされ、心技体の一致と、相手の行動に出ようとする「気」を察知し、それに応じて変幻自在に対応する「転し(まろばし)」の境地を目指した 22。この「転し」の概念は、後に上泉信綱によって創始される新陰流においても極めて重要な教えとして受け継がれた 23。

具体的な技法の一端としては、「体中剣(たいちゅうけん)で剣を構え、相手の剣の打ち込みを受けきるだけでなく、相手が打ち切るより少し前に自分の剣を相手の剣に付けるように動く。こうすることで相手の攻撃を無力化し、そのまま相手を斬り割る動きに転ずる」といった記述も見られる 22 。これは、相手の力を巧みに利用し、最小限の力で相手を制するという陰流の思想を体現する技法と言えよう。

「構えなき構え」や「力に頼らない剣」といった陰流の思想は、戦国時代の殺伐とした状況下で主流であったであろう剛剣や速剣に対する一種のアンチテーゼとして生まれた可能性が考えられる。これは、単に技術的な差異を追求したというだけでなく、武術に対する価値観の転換を示唆しており、後の柳生新陰流などで強調される「活人剣」(人を殺すのではなく活かす剣) 23 の思想にも繋がる萌芽を含んでいたと評価できる。移香斎の豊富な武者修行の経験から、力や速さだけでは対応できない状況や、より高度な心理的な駆け引きの重要性を痛感し、こうした独自の思想に至ったのかもしれない。また、「見えない心で見る」という思想は、彼が修得したとされる禅や密教などの宗教的修行の影響を受けている可能性も否定できず、その証左の一つとして、子孫の平澤家に伝わる『まりしてんししゃの書』の存在が挙げられる 14 。この思想的革新性こそが、上泉信綱のような優れた武術家を引きつけ、新陰流という形でさらに発展する原動力となったのではないだろうか。

2.3. 中国兵書に見る陰流:『武備志』と『紀効新書』

明代の著名な兵書である茅元儀の『武備志』や、同じく明代の武将・戚継光の『紀効新書』に、日本の剣術として「影流(陰流)」の目録が収録されていることは、陰流の国際的な認知度と影響力を示す上で非常に重要な事実である 1

茅元儀が編纂した『武備志』(1621年完成)の巻八十六「日本考」には、陰流の目録の一部と共に、猿が刀法を示す図が掲載されていると伝えられる 3 。この猿のモチーフは、陰流開眼伝説における猿の示現と呼応しており、興味深い一致を見せる。

また、戚継光が著した『紀効新書』(初版1560年頃、後に増補)には、彼が倭寇との戦闘において入手したとされる影流目録の断簡の写しが掲載されている 14 。この目録は、愛洲移香斎の嫡子である小七郎から村上水軍を経て倭寇に伝わったものとされ、当時の倭寇の中に影流を修得した者が少なからず存在した可能性を示唆する 17

これらの中国兵書に収録された目録には、「猿飛(えんぴ)」「猿廻(えんかい)」「山陰(さんいん)」などの太刀名が見られ 1 、後に新陰流で最初に学ぶ基本の形とされる「燕飛(えんぴ)」は、陰流の「猿飛」が伝承されたものと考えられている 1

近年、東京国立博物館所蔵の「愛洲陰之流目録」(室町~桃山時代) 16 が公開され、その内容が『紀効新書』に掲載されたものとほぼ一致することが確認された。さらに、この目録には『紀効新書』には見られない後半部分も含まれており、新陰流の「燕飛」や「天狗書(てんぐのしょ)」との関連性が史料によって裏付けられるなど、陰流研究に大きな進展をもたらした 14

これらの中国兵書の記述は、単に陰流の技法名を伝えるだけでなく、当時の日本剣術が、敵対関係にあった明の武将たちからも研究対象とされるほど高度なものであったことを示している。また、倭寇という存在が、意図せずして文化(この場合は武術)の媒介者となった側面を浮き彫りにする。これらの史料は、日本国内の伝承だけでなく、国外の視点から陰流を捉えることを可能にし、その評価をより客観的なものにする上で貴重である。東京国立博物館所蔵の目録の発見は、これらの中国史料の信憑性を高めるとともに、これまで謎に包まれていた陰流の技法体系の復元に大きく貢献したと言えるだろう。

表2:陰流の技法・思想の要点

区分

要点

概要・解説

関連史料・備考

主要概念

陰の流れ(かげのながれ)

目に見えない心の動き(陰)で相手の意図を読み、応じること。

11

懸待表裏(けんたいひょうり)

攻め(懸)と守り(待)、見える技(表)と見えない駆け引き(裏)の統合。

22

構えなき構え

特定の構えに固執せず、状況に応じて自然体で対応すること。

11

技の段階

初手(しょて)

立ち方、見方、足捌き(玉歩)など基礎的な稽古。五つの稽古あり。

1

中手(ちゅうて)

相手の太刀筋を見極め、臆さず対応する精神力と眼力を養う。

1

極位(きょくい)

心・眼・左足の一致。相手の気を察し変幻自在に対応する「転し(まろばし)」。

22 、「転し」は新陰流へ継承 23

代表的技法

玉歩(ぎょくほ)

四方八方へ玉のように自在に動く足捌き。貴人の歩み。

1

猿飛(えんぴ)

陰流の代表的な太刀名。変幻自在な動きを特徴とするか。

『武備志』、『紀効新書』、東博目録 1 。新陰流の「燕飛」の原型 1

思想的特徴

力に頼らない剣

強い力や早い技に依存せず、相手の力を利用したり、心理的な駆け引きを重視。

11

心で見る

相手の表面的な動きだけでなく、その内面にある意図や「気」を読み取る。

11

開眼伝説

蜘蛛の動き

鵜戸神宮での修行中、蜘蛛の自由自在な動きから陰流の極意を会得。

6

猿の示現

夢枕に猿が現れ秘事を悟る、または神が猿の姿で奥義を示す。

12 。『武備志』の猿図との関連も示唆される 3

第三章:伊勢の豪族 愛洲氏の実像

表3:愛洲移香斎および陰流に関する主要史料一覧

史料名

成立・記録年代

概要(内容、特徴)

所蔵・公開状況

主な研究上の論点

『平澤家伝記』

江戸時代中期以降か(内容による)

愛洲移香斎の子孫・平澤家に伝わる記録。移香斎の出自、生涯、子・小七郎の動向などを記載。

秋田県平澤家所蔵。写本や翻刻が研究者に利用されている。

4 。移香斎の伊勢出身説の根拠。上泉信綱への伝承に関する記述が注目される。史料批判的検討が必要。

『まりしてんししゃの書(摩利支天使者の書)』

室町~戦国時代(移香斎直筆とされる)

移香斎直筆とされる文書。旅の安全や吉凶に関する呪術的内容。密教・修験道との関連。

秋田県平澤家所蔵。

14 。移香斎の信仰や精神世界を示す。武士の摩利支天信仰の一例。

『武備志』所収「影流之目録」

1621年(元和7年)成立

明の茅元儀編纂の兵書。巻八十六「日本考」に日本の剣術として影流(陰流)目録と猿の図を収録。

中国の文献。日本にも伝来し、江戸時代に紹介された。

1 。陰流の海外伝播、技法名(猿飛など)の記録。

『紀効新書』所収「影流目録」

1560年頃初版、後に増補

明の戚継光著の兵書。倭寇から入手した影流目録の断簡を収録。技法名(猿飛、猿廻、山陰など)。

中国の文献。

1 。倭寇を介した伝播経路を示唆。東博目録との比較で重要性増す。

東京国立博物館所蔵「愛洲陰之流目録」

室町~桃山時代

愛洲陰流の古文書。墨書で太刀筋や構えが図示。技法名、構成など詳細な内容を含む。

東京国立博物館所蔵。ColBaseで画像公開。

1 。『紀効新書』の記述を裏付け、さらに詳細な陰流の技法体系、新陰流との関連を解明する鍵。

天正十年宇喜多氏伝授陰流目録

1582年(天正10年)

宇喜多氏から湯原氏へ伝授された陰流目録の存在が指摘される。

所在不明または個人蔵か。研究論文で言及。

14 。陰流の伝播範囲(備前・美作方面)を示唆。

『言継卿記』

戦国~安土桃山時代

公家・山科言継の日記。愛洲久忠(移香斎)から上泉信綱を経て言継に伝わった「愛洲薬」の記述あり。

写本、刊本あり。

4 。移香斎が薬学にも通じていた可能性、あるいはその名声の広がりを示す。

3.1. 五ヶ所城と愛洲氏の拠点

愛洲氏の主な拠点は、伊勢国度会郡五ヶ所浦(現在の三重県南伊勢町五ヶ所浦)に存在した五ヶ所城であるとされている 6 。この城は、リアス式海岸が特徴的な五ヶ所湾の複雑な地形を巧みに利用した海城であったと考えられ、愛洲氏が有した水軍の拠点として重要な役割を果たしていた。

現在、五ヶ所城址は「愛洲の里」として公園整備されており、その敷地内には愛洲移香斎や愛洲一族の歴史、そして彼らが創始・伝承した陰流に関する資料を展示する「愛洲の館」が1995年に開館している 6 。館内には、五ヶ所城の地形を再現した模型や、愛洲氏ゆかりの品々、陰流に関する解説パネルや映像資料などが展示されており、地域の歴史と剣術文化を現代に伝える貴重な施設となっている 6

五ヶ所城の具体的な構造や規模については、発掘調査や残存する文献史料の分析が継続的に進められているが、これらの研究は愛洲氏の活動実態や当時の勢力範囲を解明する上で重要な手がかりを提供すると期待される。

五ヶ所浦という立地は、伊勢湾や熊野灘への海上交通の要衝であり、水軍活動や海上交易にとって絶好の拠点であったと言える。この恵まれた地理的条件が、愛洲氏の勢力基盤形成に大きく寄与し、さらには愛洲移香斎の広範な活動、例えば諸国遍歴や前述の中国渡航説などを可能にした要因の一つと考えられよう。水運を利用した情報収集や人物交流が、陰流という新たな武術の形成やその後の伝播に何らかの形で寄与した可能性も考慮に入れるべきである。

3.2. 水軍としての活動と北畠氏との関係

愛洲氏は、中世を通じて伊勢湾や熊野灘といった海域で活動した水軍領主であったことが、多くの史料からうかがえる 3 。彼らは巧みに船を操り、海上交易に従事する一方で、時には海賊的な行為も行っていたと推測されている 8

南北朝時代には南朝に属し、伊勢国司であった北畠氏の指揮下にあったとされている 8 。北畠氏は伊勢国における有力な戦国大名であり、愛洲氏はその軍事力の一部、特に水軍力として北畠氏の勢力維持に貢献していたと考えられる。

しかしながら、愛洲氏と北畠氏の関係は常に良好であったわけではなく、後述するように、愛洲氏は最終的に北畠氏(あるいは織田信長の勢力下に入った北畠氏)によって滅ぼされたと伝えられている 8

伊勢愛洲氏は、室町幕府が推進した遣明貿易にも関与しており、宝徳度(1451年)の遣明船を派遣した記録が残されている。さらに、愛洲久忠(移香斎)自身も、文明十五年(1483年)に堺を出港した遣明船に乗り、北京に赴いたとされる記録があり 9 、これは愛洲氏が中央の政治や経済とも一定の繋がりを持っていたことを示している。

水軍領主という立場は、陸上を主な活動舞台とする武士とは異なる独自の文化や情報網、そして広大な行動範囲を持っていた可能性がある。これが、愛洲移香斎の剣術思想、例えば既存の型にとらわれない自由な発想や、陰流という武術の広範な伝播に影響を与えた可能性は十分に考えられる。変化に富む海の状況に常に対応しなければならない水軍の活動は、固定観念に縛られない柔軟な思考を育み、それが陰流の「転し(まろばし)」の思想と通底する部分があったのかもしれない。

3.3. 愛洲氏の滅亡と牛鬼伝説

愛洲氏の滅亡は、一般的に天正四年(1576年)とされるが、異説も存在する 8 。その滅亡の原因については、五ヶ所城の近くにあった洞穴に棲む牛鬼(うしおに)という恐ろしい化け物を、時の城主が弓で射殺したことから祟りが起こり、最終的には北畠家の怒りを買って攻め滅ぼされたという奇怪な伝説が地域に語り継がれている 8

この伝説によれば、牛鬼を射た矢が原因で城主の奥方(北畠家出身であったとされる)が病にかかり、実家である北畠家に送り返されたことが、北畠家の激しい怒りを招いたとされている 8

しかしながら、史実として考察するならば、織田信長の次男である織田信雄(北畠信雄)が北畠家の家督を継いだ後、北畠氏の旧臣や周辺の在地領主を粛清していく過程で、愛洲氏もその対象となり滅ぼされたと考えるのがより妥当であろう 8

牛鬼伝説は、愛洲氏滅亡という地域にとって悲劇的な出来事を、民衆の記憶として物語化したものであり、その背景には、強大な中央勢力によって滅ぼされた地方豪族への同情や、人知を超えた超自然的な力への畏怖などが複雑に投影されていると考えられる。現在、「愛洲の里」には、この牛鬼を慰霊するために造られたとされる石像も存在する 8 。この種の伝説は、単なる怪奇譚として片付けられるべきではなく、愛洲氏滅亡の歴史的背景(例えば、北畠氏との潜在的な緊張関係や、織田勢力による地方支配の強化といった政治的側面)を覆い隠し、あるいは別の形で説明しようとする民衆の意識の表れと解釈することも可能である。また、牛鬼のような異形の存在は、しばしば境界領域や抑圧されたものの象徴として物語に登場することを考慮すれば、伝説の深層にはさらに多義的な意味が込められているのかもしれない。

第四章:愛洲移香斎と陰流に関する史料と研究

(冒頭に表3を配置済み)

4.1. 主要史料の概要と分析

愛洲移香斎と彼が創始した陰流を研究する上で、いくつかの重要な史料が存在する。これらは、移香斎の実像や陰流の具体的な内容を明らかにする上で不可欠なものである。

『平澤家伝記』 は、愛洲移香斎の子孫であると伝えられる出羽国(現在の秋田県)の平澤家に伝来した記録文書群である 4 。この史料には、移香斎の出自を伊勢とし、その生涯や息子である小七郎宗通の動向などについて記されており、愛洲移香斎研究における基礎史料の一つと位置づけられている。ただし、その成立年代や後世における加筆・編纂の可能性も考慮し、他の史料との比較検討を含めた史料批判的な取り扱いが必要である。特に、陰流が上泉信綱へどのように伝承されたかという点に関して、久忠(移香斎)から信綱への直接的な伝授を明確に記していない点は、研究者の間で注目されている 20

『まりしてんししゃの書(摩利支天使者の書)』 もまた、平澤家に伝えられた、移香斎直筆とされる文書である 14 。その内容は、旅の安全や吉凶に関する呪術的なものであり、密教や修験道との関連が強く指摘されている 14 。この史料は、移香斎の個人的な信仰や精神世界を垣間見せる貴重なものであり、彼が単なる武術家であるだけでなく、深い宗教的な素養も持っていた可能性を示唆する。摩利支天は武士の守護神として広く信仰されており、移香斎が摩利支天に深く帰依していたことは、彼の武術観や生死観に影響を与えていた可能性がある。また、呪術的な内容は、当時の武士が武運長久や戦場での加護を現世利益的な信仰に求めていた実態を示すものでもある。この史料は、陰流の精神的支柱や、修行体系に宗教的要素がどのように組み込まれていたかを考察する上で重要な手がかりとなる。

陰流目録 に関しては、複数の系統のものが知られている。まず、 『武備志』および『紀効新書』所収の目録 は、前述の通り、中国の兵書に収録された陰流(影流)の目録である 1 。これらの目録には「猿飛」「猿廻」「山陰」といった技法名が記され、一部には図解も伴うとされている。これらの史料は、陰流の技法や構成を具体的に知る上で重要な手がかりとなる。

近年、特に注目されているのが、**東京国立博物館所蔵「愛洲陰之流目録」**である 1 。これは室町時代から桃山時代にかけての古文書とされ、墨書によって太刀筋や構えが図示されている 16 。この目録の発見と公開は、従来『紀効新書』などを通じて断片的にしか知られていなかった陰流の具体的な内容を補完し、その記述を裏付けるものとして、陰流研究に大きな進展をもたらした 14 。特に、新陰流の「燕飛」や「天狗書」との関連性がより明確になった点は大きな成果である 14

その他にも、天正十年(1582年)に宇喜多氏から湯原氏へ伝授されたとされる陰流目録の存在も指摘されており 14 、これは陰流が岡山周辺の地域にも伝播していた可能性を示すものである。

公家である山科言継の日記 『言継卿記』 には、愛洲久忠(移香斎)から上泉信綱を経て言継に伝わったという「愛洲薬」に関する記述がたびたび登場する 4 。これは、移香斎が薬学にも通じていた可能性、あるいは彼の名声が薬の分野にまで及んでいたことを示す興味深い記述であり、彼の多才な側面をうかがわせる。

4.2. 研究史の概観と主要な論点

愛洲移香斎と陰流に関する本格的な研究は、昭和期以降、郷土史家である中世古祥道氏や武道史家の青柳武明氏らによって大きく進展した 4 。彼らは、『平澤家伝記』をはじめとする史料の発掘や紹介に努め、移香斎の出自を伊勢とする説を学界に広く定着させた。

近年の研究においては、国際武道大学の魚住孝至氏などが、武道史の専門的な観点から、陰流の技法体系や武術思想、そして新陰流への影響関係などについて、より詳細な分析を行っている 29

これらの研究を通じて、いくつかの主要な論点が明らかになっている。

第一に、上泉信綱への伝承経路である。新陰流の開祖である上泉信綱が、陰流を愛洲移香斎本人から直接学んだのか、あるいはその子である愛洲小七郎宗通から学んだのかという問題は、長年にわたる論争点となっている 4。柳生家の伝承では移香斎本人から学んだとされているが、疋田豊五郎(信綱の弟子)が残した伝書や『平澤家伝記』の記述の解釈からは小七郎から学んだとする説が支持される傾向にある。愛洲小七郎が上泉信綱よりも10歳以上年下であったという点も、この議論をさらに複雑にしている要因の一つである 15。この論争は、単なる師弟関係の特定に留まらず、陰流から新陰流への移行期における剣術界の動向や、流派の正統性を巡る認識のあり方を反映している。また、史料の解釈や信頼性の評価という、歴史研究の方法論そのものに関わる問題でもあると言えよう。

第二に、 愛洲移香斎の実在性と具体的な活動内容の解明 である。移香斎の生涯、特に諸国遍歴の詳細や中国渡航の真偽については、未だ不明な点が多く残されている。伝説的な逸話と史実とを慎重に峻別し、客観的な事実に基づいて人物像を再構築する作業が求められる。

第三に、 陰流の技法と思想の復元 である。現存する史料は断片的であり、陰流の全体像をどこまで精密に再構築できるかが課題となっている。東京国立博物館所蔵の陰流目録の発見は大きな手がかりとなったが、さらなる史料の発見と、既存史料のより深い分析が期待される。

4.3. 関連史跡と顕彰活動

愛洲移香斎とその一族、そして彼らが創始した陰流に関連する史跡は、現代においても大切に保存され、顕彰活動が行われている。

三重県南伊勢町に立地する「愛洲の館」は、愛洲移香斎と愛洲氏、そして陰流に関する資料を展示する中核的な施設である 6 。館内には、関連資料の展示のほか、剣道場も併設されており、地域の歴史文化発信と武道振興の拠点としての役割を担っている 25

また、同町では、愛洲移香斎を「剣祖」として顕彰する「剣祖祭」が開催され、全国から多くの剣道家が集い、奉納演武などが行われている 5 。これは、愛洲移香斎が単なる歴史上の人物としてだけでなく、地域の歴史的英雄として現代においても敬愛され、受け継がれていることを示すものである。

その他、愛洲氏の居城であった五ヶ所城址や、陰流開眼の伝説が残る鵜戸神宮(宮崎県日南市)も、愛洲移香斎ゆかりの地として、武術愛好者や歴史ファンにとって重要な巡礼地となっている 6 。これらの史跡は、移香斎の足跡を辿り、その時代背景や武術思想に思いを馳せる上で貴重な場所と言えるだろう。

第五章:陰流の後世への影響と武術史における意義

5.1. 新陰流への継承と発展

愛洲移香斎によって創始された陰流は、その後の剣術史において極めて大きな影響を与えた。特に重要なのは、上泉伊勢守信綱(秀綱)への継承と、それを通じた新陰流の成立である 3 。新陰流は、文字通り「新しい陰流」という意味を持ち、陰流の技法と思想を基礎としつつ、上泉信綱独自の工夫と体系化が加えられたものと理解されている 2

上泉信綱は、陰流の他にも神道流や念流なども学んだとされ、柳生家の古文書によれば、特に陰流から「奇妙(きみょう)」(他流にない優れた点、奥深い点)を抽出し、これを発展させて新陰流を創始したと記されている 2

新陰流が剣術史に果たした大きな貢献の一つに、練習時の安全性を格段に高めるために竹を数本に割り、それを革袋で包んだ「袋竹刀(しない)」を導入したことが挙げられる 19 。袋竹刀の登場以前は、主に木刀を用いた稽古が行われており、常に怪我の危険が伴った。しかし、袋竹刀の採用により、より実戦に近い形での打ち合い稽古が安全に行えるようになり、剣術の技術向上と幅広い層への普及に大きく貢献した。

新陰流は、その後、大和国の柳生宗厳(石舟斎)に伝えられ、柳生新陰流としてさらなる発展を遂げることとなる 5 。柳生新陰流は、柳生宗矩の代に徳川将軍家の兵法指南役となり、江戸時代を通じて武家社会における剣術の主流の一つとして隆盛を極めた 32

陰流の重要な思想である「転(まろばし)」(状況に応じて変幻自在に対応する能力)や、相手を殺傷することのみを目的とせず、相手を活かして勝つという「活人剣(かつにんけん)」の理念は、新陰流においても中核的な教えとして受け継がれ、深化していった 23

陰流から新陰流への発展は、単なる技の改良や洗練に留まるものではなかった。それは、剣術の社会的役割が変化していく時代(戦乱の世から泰平の世へ)に対応した、思想的な深化を伴うものであったと言える。戦場における殺人術としての側面が強かった剣術が、平時における武士の教養や精神修養の道としての性格を強めていく過程において、新陰流の思想は大きな役割を果たした。袋竹刀の導入は、この剣術観の変化を象徴する技術的革新であり、より多くの人々が安全に剣術の稽古に取り組むことを可能にした点で画期的であった。

5.2. 諸流派への波及と剣術の多様化

愛洲移香斎が創始した陰流は、直接の後継である新陰流だけでなく、その後の日本の剣術史全体に広範な影響を及ぼし、多くの流派の源流の一つとなった 3 。江戸時代には三百とも六百とも言われるほど多数の剣術流派が生まれたが 5 、その多くが直接的あるいは間接的に陰流の影響を受けていると考えられている。

陰流の系統は、上泉信綱の新陰流、そして柳生宗厳の柳生新陰流へと継承される中で、さらに多くの有力な分派や影響を受けた流派を生み出し、武術界に大きな潮流を形成した 3

その影響力の大きさから、陰流はしばしば念流、神道流(あるいは中条流)と共に「兵法三大源流」の一つと称される 1 。これは、これらの流派が日本の剣術の基本的な型や思想の形成に決定的な役割を果たしたことを意味する。

陰流の技法や思想の断片は、様々な形で後代の流派に取り入れられ、日本の剣術文化の多様性と深まりに大きく貢献した。陰流が多くの流派の「源流」たり得たのは、その技法体系の完成度が高かったことのみならず、その思想的普遍性(例えば、「転し」の概念が持つ応用可能性の広さ)や、創始者である愛洲移香斎やその子・小七郎の広範な武者修行による初期の伝播力などが複合的に作用した結果であると考えられる。

5.3. 現代における愛洲移香斎と陰流の評価

愛洲移香斎は、その生涯に多くの謎を残しながらも、日本武術史における「剣祖」の一人として今日でも高く評価されている。特に、彼が創始した陰流が、後の新陰流、そして柳生新陰流という日本を代表する剣術流派の直接的な源流となった点、そしてその革新的とも言える武術思想は、現代の武道研究においても重要な研究対象であり続けている。

三重県南伊勢町の「愛洲の館」を中心とした顕彰活動や、定期的に開催される「剣祖祭」は、愛洲移香斎が地域の歴史的英雄として、現代においても深く敬愛され、その遺徳が偲ばれていることを明確に示している 5

また、歴史小説や漫画、さらにはゲームといった大衆文化の領域においても、愛洲移香斎や彼が生み出した陰流は、魅力的な題材としてしばしば取り上げられている 37 。これにより、専門家や武道愛好者以外の一般の人々にもその名が知られる機会が増えている。ただし、これらの創作物における描かれ方は、必ずしも史実に基づいているわけではなく、エンターテイメントとしての脚色が加えられている点には留意が必要である。

現代の剣道や古武道の稽古体系の中にも、陰流の思想や技法の一部は、形を変えながらも脈々と受け継がれていると考えられる。例えば、相手の動きに応じて変化する応じ技の重要性や、精神的な駆け引きを重視する姿勢などは、陰流の教えと通底する部分があると言えよう。

現代における愛洲移香斎像は、学術的な研究の進展、地域社会における顕彰活動、そして大衆文化における多様な表象という三つの要素が相互に影響し合いながら形成されていると言える。史実としての愛洲移香斎を探求することと並行して、彼が歴史の中でどのように記憶され、語り継がれてきたかという「受容史」の視点もまた、その全体像を理解する上で重要となるだろう。

結論:愛洲移香斎が遺したもの

愛洲移香斎は、戦国時代という激動の時代に生を受け、剣術の世界に不滅の足跡を刻んだ稀有な人物である。その生涯は多くの謎に包まれている部分も少なくないが、伊勢国の在地領主である愛洲氏の一族として生まれ、若くして武者修行の道に入り、日向国鵜戸神宮での厳しい修行と霊的な体験を経て陰流を創始したという骨子は、現存する多くの史料や伝承から浮かび上がってくる。

彼が創始した陰流は、「見えざる心にて見る」という深遠な武術思想と、「構えなき構え」に象徴されるような、既存の型にとらわれない自由闊達な技法体系を有していた。この陰流は、後に上泉信綱によって新陰流として大成され、さらに柳生家へと受け継がれる中で、日本の剣術史における一大潮流を形成し、数多の剣術流派の源流となった。その影響は日本国内に留まらず、中国の兵書にもその名が記されるなど、ある種の国際的な広がりも見せたことは特筆に値する。

愛洲移香斎と陰流に関する研究は、彼の子孫であると伝えられる平澤家に伝来した『平澤家伝記』や『まりしてんししゃの書』、そして近年その全容が明らかになりつつある東京国立博物館所蔵の陰流目録といった貴重な史料の発見と分析によって、新たな局面を迎えている。これらの史料は、移香斎の実像や陰流の具体的な内容をより深く理解する上で不可欠であり、今後の研究の進展が大いに期待されるところである。

愛洲移香斎が後世に遺したものは、単なる剣術の技法や戦術に止まるものではない。それは、厳しい自己修練を通じて真理を探究しようとする求道的な精神、自然との調和や相手の心を読む深い洞察力、そして固定観念にとらわれず常に変化に対応しようとする柔軟な思考様式であると言える。これらは、時代を超えて普遍的な価値を持ち、現代においてもなお、武道を学ぶ者、あるいは自己を磨き、より良く生きようとする全ての人々にとって、豊かな示唆を与え続けるであろう。

参考文献

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  • 中世古祥道『愛洲移香斎久忠傳考』愛洲の館、1996年。 27
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引用文献

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  37. 【新着本】鈴峯紅也『戦国剣銃伝』 | 時代小説SHOW https://www.jidai-show.net/2024/11/08/a-sengoku-kenju-den/
  38. 藤沢 周平: 本 - Amazon.co.jp: 決闘の辻 (新潮文庫) https://www.amazon.co.jp/%E6%B1%BA%E9%97%98%E3%81%AE%E8%BE%BB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%97%A4%E6%B2%A2-%E5%91%A8%E5%B9%B3/dp/4101247269
  39. 第7話 兵法三大源流 - 独断と偏見による日本の剣術史(@kyknnm) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054887946957/episodes/1177354054888047585